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    ホームスクール研究会


    『定例会便り 創刊号』

    ■発行者 シルヴィア・スミス
    ■発行所 福音総合研究所  

    年4回発行の予定です。
    登録会員には無料で郵送いたします。
    ご希望の方は福音総合研究所までご連絡ください。(実費にて1部100円+送料)


    創刊号『定例会便り』より(2000年6月10日発行)

    第一回定例会の講演

    キリスト教教育における
    「ホームスクールの基本理念と確認事項」

    講師:シルヴィア・スミス
    2000年4月1日
    武蔵野市コミュニティセンター中町集会所

    いよいよ時満ちて、「ホームスクール研究会」が本日旗揚げとなりました。

    これからホームスクールについて、共に協力し、研究を進めていきたいと願って、クリスチャン・ホームの親同士がこのように集まったわけですが、共に前進するためには、基本的なところでの共通の理解がどうしても不可欠であることを覚えて、第一回目のテーマは「キリスト教教育におけるホームスクールの基本理念と確認事項」と決まりました。

    共通となる基盤、土台、あるいは前提とも呼ぶべきところを事前確認する必要があります。そしてそこから自ずと方向性も定まってきます。

    そこで、その「基本理念」というのが、今日の「確認事項」というわけです。簡潔に、以下の8つの命題にまとめてみました。他にも色々違うまとめ方があると思いますが。皆さんのお手元にあるプログラムでは、8つのキーワードになっています。

    1. 親の責任
    2. 御国建設と地域教会
    3. 御言葉教育
    4. 聖書的世界観
    5. 人間教育
    6. 義の訓練
    7. 一と多の調和
    8. 期限

    先ず、クリスチャン・ホームの次世代教育の特権と責任の所在について。それは、要するに、親にある、ということです。

    1. 次世代教育の責任は親にある

    私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。主はヤコブのうちにさとしを置き、みおしえをイスラエルのうちに定め、私たちの先祖たちに命じて、これをその子らに教えるようにされた。後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、彼らが興り、これをその子らにまた語り告げるため、彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。また先祖たちのように、彼らが、かたくなで、逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないためである。(詩篇78:1-8)

    聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9)

    子は神から親に与えられていて、その教育の責任は親にある。このことに関しては、当たり前のようで、しかし、実はもっと深い、踏み込んだ認識を要します。この養育権、親権が (法的にも) 親にある以上、教育をも含む、衣食住の責任は全て親に課せられているのです。子を求めた以上、そして与えられた以上、託された以上、その責任があるのです。この自覚のもとにホームスクールがスタートします。

    子供は結婚すべきではないし、その資格もありません。子供が結婚したり、子供を産んで親になるべきではありません。大人に働きと責任が委ねられていますが、子供には、本当の意味での責任も働きもありません。(子供は親に愛され、守られ、従うことを学び、楽しく“無責任に”遊んでいられる身分なのです。)大人同士が結婚し、主から子が与えられ、親となります。大切な次世代を主から託されて親としての責任、そして主への誓い (幼児洗礼の際など) を果たさんと日々努め励んでいます。そういう意味で次世代教育の責任は親が背負っています。そしてホームスクールは、最終的には、まさに両親の自己責任においてなされるのです。

    但し、クリスチャン・ホームのホームスクールは夫と妻、父親と母親の共同事業であることも付け加えておきたいと思います。上下関係ははっきりとあるものの (cf. エペソ5:22-23, 1コリント11:3, 7-9)、夫婦は生涯のパートナーであり、御国の同労者、そして共同相続人です。(創世記1:26-28, 1ペテロ3:7)。次世代教育はその連帯責任において実施されます。従って、二人の協力は不可欠であり、背後には、夫婦の一致した信仰の立場とビジョンの明確さがそれを支えています。

    同時に、実情としては、分業が必然的に要求されます。(夫は外へ野良仕事に、出稼ぎに、妻は家で内職し留守を守る、ではありませんが) 教育現場にいる母親がホームルームの担任となってしまうケースがほとんどで、校長先生の父親は不在が多く、毎日社会の最前線で必死に戦って家族の日々の衣食住等を確保しているのが現状でしょう。でも主に在って、心は一つ、信仰は一つ、ビジョンは一つ。

    次に行きます。大きい、太枠から (「一と多の調和」の「一」の方から) 入りますと、

    2. クリスチャン・ホームのホームスクールは、天地創造・人間創造、歴史・人類史の目的である御国建設に具体的につながっていなければならない

    そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26-28)

    私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。・・・国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。 (ダニエル7:13-14, 27)

    ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:6-7)

    それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。(1コリント15:24-28)

    また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、・・・そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。・・・ (黙示録21:1-3, 10-26, 22:1-5)

    御国建設は、人類共通の大いなる課題、人類史の主題であります。ゆえに、それを第一に求めよ、という主からの御命令があるのです。

    だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。・・・ 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:33, 10)

    御国を建て上げることが、神の御栄光を求めることなのです。クリスチャン・ホームのホームスクールとは、神に栄光を帰することを、常に第一にまた最終的に目指す教育なのです。

    こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31; cf. イザヤ42:8; 詩篇115:1, ローマ11:36)

    「人間の主な目的は何ですか。」「人間の主な目的は神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである。」(ウェストミンスター小教理問答書第一問)

    しかし今日、神はその大いなる歴史的目的を、キリストが贖われた御自身のみからだである教会を通して達成させると定められたのです。

    これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。(エペソ3:10-11)

    ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:18-19)

    神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3:15b)

    それで、さきほど命題に「具体的」につながっていなければならないとありましたが、それは、キリストの公同の教会の具体的な一部分である地域教会との密接な関係を意味すると思います。孤独な子供が育たないためにも、ホームスクールは孤立してマイホーム主義的に閉鎖的にやるのではなくて、地域教会という自分たちの身近なコミュニティ生活の中で、願わくば協力体制の中で、信仰の継承者としての次世代を教育していきたいものです。なぜなら、御国建設の任務は、歴史において、キリストの教会、そして具体的には地域教会に与えられたからです。

    3. クリスチャン・ホームのホームスクールは、本質的に、また必然的に、クリスチャン教育であり、即ち一貫して、御言葉教育である

    ということは、信仰教育、神学教育であるのです。神の啓示の書である「聖書」を土台とし、全ての学びにおいて、聖書を絶対権威また基準とした聖書的認識論に立つものです。聖書が論理、理解、思考、倫理、及び全ての概念を定義づける、まさに御言葉の真理を中心に置いた教育体系であるべきです。

    聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(2テモテ3:16-17)

    ・・・ あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。・・・ (詩篇119:1-176)

    4. クリスチャン・ホームのホームスクールは、キリスト教的世界観、聖書的世界観を構築していく教育である

    神観に始まり (伝道者12:1a)、宇宙観(ヘブル11:3)、歴史観、人間観 (創世記1:26-27)、宗教観 (出エジプト20:3-5)、人生観、死生観、倫理観、職業観、国家政治、経済、国際関係、家庭・結婚観、人間関係、教会論、教育論、認識論、等々が全て、聖書の真理、教理に基づいて、一貫した一つの体系としてしっかりと構築されていかなければなりません。これがキリスト教文明論、というか、キリスト教文明、キリスト教社会の基礎を成し、また、それを具体的に築き上げていくことにつながり、神の義なる御国再建につながっていくのです。

    知性において、また物事のの理解、考え方においては“この世と調子を合わせては”ならず、御言葉によって、日々新たにされることに努め (i.e. 聖化論)、次世代がいつまでも子供のように無知未熟ゆえに騙されたり翻弄されて非生産的なクリスチャン人生を送ることのないように教育し、できる限り備えてあげることがキリスト者親の義務であると信じています。

    兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(1コリント14:20)

    ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:13-15)

    そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:1-2)
    若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6)

    私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。 ・・・ 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
    (コロサイ1:25-29)

    5. 教育とは先ず人間教育である

    このことを改めて認識し、聖書的人間観に立脚した人間教育を実践するのです。言うまでもなく、ただ単純に決められた (例えば文部省認定の) 教科をこなしたり、点数を稼いだり、データを詰め込んだり、受験テクニックを研いたり、というのが教育ではないことは誰もが認めるところです。

    教育=学校、という図式も正解ではないと思います。本来なら、学校教育の場があっても良いはずなのですが、現行の学校制度、学科内容、授業方法、教師の質、友人関係、いじめの実態、受験制度、国旗国歌問題、教育目的と方向性、等に実は根本的な問題があるのです。

    さて、教育の真髄とは、“神の似姿”として造られたが、罪ゆえに堕落した人間が、真の人間性の回復を、まさに (願わくば、心身ともに) “キリストに似た者”となることを目指すことです。

    神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。・・・ (ローマ8:28-29)

    ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。・・・ むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:13, 15)

    6. クリスチャン・ホームのホームスクールは、義の訓練を与えるものである

    それを契約教育、あるいは倫理教育と呼ぶこともできます。それは子供たちの霊性、あるいは人間性を育むものです。つまり、御国の民、御国の住民、御国の働き人にふさわしい者となるよう、生活現場である家庭において、生活管理全般に及んで御言葉の教えに喜んで聞き従い、正しく適用することを教え込むのです。

    私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)

    まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5:13-14)

    こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。(2ペテロ1:5-10)

    それは勿論、子供が幼いときには体罰を伴う叱責、訓戒であったりすることもあるでしょう。

    そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:5-11)

    むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言13:24; cf. 19:18, 20:30, 22:15, 23:13-14, 29:15, 17)

    キリスト者は、願わくば、何事も、つまり家庭教育、ホームスクールにおいても、

    7. 「一と多の調和」という、立体的、体系的、かつダイナミックな全体的視野に立って事に当たるべきである

    なぜならば、神は三位一体なる神様なので、このようなアプローチをするならば、その神様の視点・見方に私たちがより近づくことになるからです。キリスト教教育で言うならば、「一」とは、私たちの信仰の一致 (神学的立場の一致)、そして最終目的とビジョンの一致を言います。その「一」を土台にして、あるいは中心にして、あるいは少なくともそれに向かって、「多」(全教科、諸活動、等) が結びつながっていかないと、たとえ何を一生懸命、いわば“教えて、学んで”という作業を毎日続けていても、全てが単なる断片的情報にしかならず、そこから最終的な意義は見えてきません。
    この「一と多の調和」という基本原則は、即ち、親と共に、次世代の子たちが同じ土台に立ち、同じ最終目的とビジョンに向かって、そして、また同時に、「個々人の主からの賜物と召命を明確にしていくこと」なのです。

    神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29)

    私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている ・・・ (ローマ12:6a)

    ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。(2ペテロ1:10a; cf. 1コリント1:26-28)

    大量生産方式、一律全体管理というわけには行くはずもなく、しかし、決して、孤立した孤独な個性を育てるというものでもありません。共通の土台に立って、クリスチャン・ホーム、そして地域教会と共に歩む中で、個人の賜物はその召しにふさわしく成長し発展していくのです。

    さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。・・・ しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
    (エペソ4:1, 7)

    そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。(2テサロニケ1:11)

    キリスト者にとって「個性」とは、主からの賜物と召命に目覚めることに始まり、個人の成長とは、それらを発展させていくことです。特にホームスクールの場合、それぞれの家庭の事情が非常に大きく影響して来ます。皆がやっているから、とりあえず、うちもやってみよう、とかあそこがやっていて良さそうだから、自分たちもそっくりそのまま真似よう、というだけでは、おそらく成り立たないと思います。

    基本原則は聖書に基づいているので同一でも、家庭の事情の違いによって、形態は各々違うはずです。したがって、各家庭が“自分家”独自の、自分たちにとってベストのかたちのものを模索、開拓し、確立させていくことが求められます。同時に、子ども一人ひとりその召しにふさわしい教育の在り方とは何か、皆で一緒に研究開発していきましょう。

    以上、時間の関係もありますし、随分簡潔な言い方になってしまいました。次のポイントは付け足しのような感じになりますが、やはり念頭にあるべきことですので、最後に加えておきました。

    8. ホームスクールには期限がある

    ホームスクールと言っても、期限付きであることをよく認識しておきたいのです。良くても悪くても締切日があるのです。(年貢の納め時。それはちょっと違うかな。)

    天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道者3:1)

    それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90:12)

    その日をいつにするかはそれぞれの家庭で決めればよいと思いますが、例えば、10歳では早すぎるようだし、かと言って、だらだらといつまでも、30歳、40歳、まさかの50歳なんていうのも考えられません。どこかで線を引かなければなりません。まぁ、その子の自立する日、巣立ちの日とかとの兼ね合いもあって、それから日本の法律で認める成人、聖書の兵隊制度、祭司制度など、と考えてみますと、二十歳位が妥当なところではないかと思っています。(それを誕生日の日にするか、成人式の日にするか、などは自由に決めればよいでしょう。)

    捉え方の違いですけど、ゼロ歳から、カウントダウンが始まっていると思うか、あぁ、果てしのない20年間が始まる、と思うのか。最初の5から6、7から8年間は育児と子育て期間 (0〜5歳)。次の約10年間はホームスクールたけなわ、本格的に取り組む ( 5〜15歳)。そして、さらに約5年間は、多少高度なレベルで基礎の仕上げ、成人に向けての備えの期間 (15〜20歳〜 )。(JRの広告で、アザラシの子育て期間は2週間、とかいうのがありますが) 要するに、親として子どもを約20年間主から預かるのに、この期限内に何をしたいのか、なすべきか、なさなければならないのか、この期限内に親としての責任を、誓いをどのようにして果たすのか、ということです。実のところ、子を思う親の心はいつまでも変わることはないのですが、しかし、長くとも短くとも、この20年間に親としての基本的な責任を果たさなければならないのです。このことをいつも心に留めてホームスクールを進めていきましょう。

    最後に結びの一言。

    「事は人間の願いや努力によるのではなく、憐れんでくださる神による。」

    ローマ書9章16節の御言葉を私たちは堅く信じて、憐れんでくださる神を信じ、日々御言葉に励まされ、着実に確実に前進していきましょう

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