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    バートランド・ラッセルはなぜキリスト教徒ではなかったか

    1997.8.24  ラルフ・A・スミス著  工藤響子訳


     

    1927年3月27日、ロンドンにあるバターシーの公会堂において、National Secular Society [意訳:英国世俗協会] の主催で、バートランド・ラッセルは『わたしはなぜキリスト教徒ではないか』という有名な講演を行った。これは宗教に関わるその他の講演と共に一冊にまとめられ、1957年に同じ題名で出版されたが、彼はその序文において自分の見解がその後も変わりはない、と読者に念を押している。ラッセルは、キリスト教が他のすべての宗教と同じく、虚偽かつ有害であると信じる。ラッセルの見解によれば、宗教を子供たちに教えることは、明確に考える力を奪い、異なった信仰を持つ人たちとの協力を妨げてしまうという。また、世界の諸文明への貢献という観点から見ても、宗教はその大いなる源どころか、むしろ暦を定めたことと、エジプトの僧侶たちをして日食月食を極めて注意深く記録させたこと以外に、その貢献は皆無に等しい。ラッセル自身の言葉を使えば、「これら二つの奉仕についてはいつでも認める用意はできているが、その他の奉仕のことをわたしは知らない」。つまり、ラッセルは宗教を可能なかぎり低いものとして考え、そうするのには十分な哲学的根拠があると主張したのである。

    ラッセルのこのような歴史に関する勝手な宣言には、彼自身がひどく嫌っているはずの独断的な宗教的偏狭と凝り固まった無知という特徴のすべてが表わされていることも、ここで指摘しておくべきであろう。キリスト者であろうとなかろうと、歴史学者の間でラッセルほど極端で単純な主張をする者はいない。多少なりとも歴史について研究したことのある人なら、このようなラッセルの主張を論破するくらいの知識は持っているはずだ。彼ほどの高い知性と教養の持ち主が、どうしてこのような全くのナンセンスを言ってのけることができるのか。答えはこういうことだろう。無神論者たちにとってのラッセルの役割は、幼稚なキリスト者に対して感情のみに訴えかける説教者の役割と同じなのである。National Secular Society における信奉者たちに彼が提供しているのは、啓蒙ではなく、感情の鼓舞である。それが目標であるなら、事実や論理の証拠が不十分であったり、そこから何の理解も得られないにしても、極端な話術さえあれば最も効果的に達成され得るのだ。

     

     

    ラッセルのアプローチ

     

    ラッセルの歴史に関する驚くべき見解はさておき、彼がキリスト教を拒む理由に話を戻そう。まず、ラッセルはキリスト教徒とはどういうものかを定義しなければならない、と切り出す。キリスト教徒の信じるところはかつては非常に明白であったが、今日のキリスト教はかなり曖昧なものとなっている、というラッセルの主張は確かにその通りだ。ラッセルは明らかに、彼の聴衆は現代的キリスト教のあやふやな考え方に出くわす確率の方が高いと見ているため、あまり勢いのないタイプのキリスト教を論駁することにした。自分がどのような意味でキリスト教という言葉を使うのかを定義した後で、ラッセルはキリスト教に対する二つの主要な反論を展開する。第一に、ローマ・カトリックの伝統的な神存在の証明が不十分であるという反論。第二に、キリストは人類の中で最も良い人間でもなければ最も知恵のある人間でもないという主張である。どちらの議論も成立するのであればキリスト教を論破できることになる。もし神が存在せず、また、キリストが例えばソクラテスや仏陀に劣るのであれば、確かにキリスト教は真理ではない。

    これから見ていくように、キリスト者は、ある意味では神存在に関するラッセルの反論をうなずける。ローマ・カトリックによる伝統的な神存在の証明は確かに不十分なのである。西洋史に登場した最も偉大な天才たちの心をとらえた神存在に関わる論議をラッセルが余りにも簡単に片付けてしまうのは議論が乱暴すぎるという印象をこの講演の読者に与えるかも知れないが、ここで指摘されている内容は、少なくとも彼が挙げたような弱い型の神存在の証明に対しては十分有効なのである。伝統的証明法の中でもっと厳密に述べられているものもあるが、それでもラッセルの指摘したような欠陥に悩んでいることには変わりはない。

    キリストに関しては、ラッセルはその言い分をもっと強い調子で述べるべきであった。もしラッセルが主張するすべての点でキリストが本当に間違っていたとしたなら、キリストは決して偉大な人間とは言えない。単なる古代の宗教的詐欺師であって、その名は人々の記憶から消された方がよく、よしんば良い思想を抱いていたところで、数多の他の思想家たちの中にいくらでも見いだせるようなものに過ぎなかっただろう。

    しかしながら、これから論証するように、ラッセルの議論は成り立たないのである。つまるところ、ラッセルが打ち出しているのは彼自身の非理性的な偏見の現れに過ぎず、もし世界についてのそのような考え方が真理であるなら、知識や倫理の可能性自体を否定してしまうのだ。彼の忌み嫌うキリスト教なくしては、ラッセルが何かを論じたり何かに反論する手立てもないのだということを私は論じたいと思う。

    「第1章」へ続く


    文中の訳者注は [ ] で示した。ラッセルの引用部分については、『宗教は必要か〈増補改訂版〉』(大竹勝訳、荒地出版社) を基本的に転用させていただいたが、1968年に訳されたということもあって難解な言い回しはわかりやすくし、全体の要点を伝えるために意訳されていた部分は直訳にもどすなど、多少の手を加えた。
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