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    バートランド・ラッセルはなぜキリスト教徒ではなかったか

    1997.8.24  ラルフ・A・スミス著  工藤響子訳


    第2章

    キリストに関してラッセルに答える

     

    序文で見たように、ラッセルのおもなキリスト教批判は二つである。彼はまず最初にキリスト教の神の存在を否定し、次にキリストは人類の中で最高の善人で、最高の賢人であったか、という問いに話を進める。この問いに対する彼の答えは、否、である。ラッセルの意見では、キリストは善人ではあったが、彼よりも知恵にたけた、彼以上の善人は他に存在した、という。ラッセルは、キリストの教えと道徳的性格には欠陥が見い出されると主張し、それらの欠陥はイエスがキリスト教信者たちの信じているような者ではないことを証明する、という。もしラッセルのこの主張が正しいとすれば、キリスト教は虚偽であることになる。

    しかし、ラッセルのこの主張の正しさが論証されるためには、幾つかの条件が満たされなくてはならない。まず、ラッセルは、キリストを裁き、キリストが完全か否かを知ることのできる道徳的な基準を持っていなければならない。もしラッセルの哲学が道徳的基準を提示できないのであれば、キリストの道徳的性格についてその善し悪しを論じることは不可能だ。ラッセルはまた、キリストの教えとその道徳的性格とを批判する以前に、それらを正確に描写しなければならない。実は、ラッセルはこの両方の点で失敗しているのである。道徳的批判をするには、次の第三の条件も付け加えられるだろう。つまり、道徳の批評家たろうとする者は、その者自身が道徳的でなければならない。この点においても、ラッセルはみじめなほど失格者なのである。

    しかし、まず短い余談として、ラッセルの驚くに価する歴史観を考察する必要がある。ラッセルはそのキリストに対する反論において、歴史的な問題を扱うのは非常に困難であるため、福音書に出てくるキリストだけを考える、と語っている。「歴史的にみれば、キリストが実際に存在していたかどうかは甚だ疑問でありますし、存在していたとしましても、我々は彼について何も知らないのであります。それで私は、歴史的な問題には関係しないことにします。この歴史的な問題というのはなかなか難しいものなのです」。さて、確かに歴史には困難な問題というものが存在する。しかし、キリストの実在は歴史的に疑う余地のないものであって、そのような種類の問題には該当しない。我々はここで、またしても歴史についての著しく変わった見解に遭遇するのである。その人物はおそらく実在しなかったと述べた後で、続けてその人物についての見解を批判するなどというのは、おかしいとしか言い様がない。なぜ彼はイエスが実在しなかったことを証明する決定的議論を展開しなかったのか。それ以上のことは知らなかったのでは、と思わずにはいられない。

     

     

    キリストの教えにおける欠点?

    この小見出しの“?”以外はラッセルからの直接引用である。ラッセルが「欠点 (defects)」について複数形で話しているのだから、普通なら多くの欠点が指摘されることを予想するところだが、この小見出しの部分ではたった一つの欠点しか論じられずに終わってしまう。その欠点とは、ラッセル曰く、キリストが「当時生きていた人々がみな死ぬ前に、・・・栄光の雲の中に」この世に再び来る、と教えたことだ。もしキリストが本当にそのように教えたのであれば、それは確かに欠点であろう。しかし、ラッセルがキリストの教えだと言っている事柄は、実際キリストが教えたことではないのである。

    もしラッセルがキリストの教えを正しく理解していたとすれば、おそらくそれはさらに大きなつまずきとなったであろう。というのも、この箇所が語っているのは、神がイスラエルの民を裁くために来られる、ということなのだ。ラッセルが引用したこの聖書箇所は、心あるキリスト者たちの間でも聖書をよく教えられていないがためにしばしば誤解されている。彼らは、キリストの言葉を機械的に文字どおりに解釈してしまうのである。キリストは「雲に乗って来られる」ことについて確かに語られたが、そのキリストの言葉は、神が通常その敵軍を用いて国々の上に裁きをもたらされることについて述べた旧約聖書の箇所を引喩しているのである (イザヤ書19章1節; 詩篇104篇3〜4節など)。キリストがマタイ福音書24章で語っておられたのはエルサレムに差し迫っていた裁きのことであり、それは紀元70年に恐ろしいほど詳細に至るまで成就された預言であった。ラッセルが一つの欠点として指摘したものは、実際はキリストの教えの超自然性を示すものであったのだ。

     

     

    キリストの道徳的性格における欠点?

     

    ラッセルは言う。「キリストの道徳的性格には一つの重大な欠点があります。それは彼が地獄を信じていたということです。真に深く人情味のある人ならば、永遠の罰というものを信じることはできないという気がいたします」。ラッセルは、キリストが実際に地獄を実在する場所として信じていたことのみならず、その語調にもつまずいて、それを「彼の説教に耳を傾けようとしない人々に対する報復的な憤激・・・」と呼んでいる。また、聖霊に対して罪を犯す者は赦されることはないという、この世に「心配や恐怖」をもたらす教えによって、キリストの「性格のなかに、適度な親切心」が欠けているということも証明される、と言う のだ。キリストは地獄の火と罰について繰り返し言及したが、「何世紀にもわたる精神的肉体的拷問」についてその責任が問われるべきである、と。

    先の場合と同じく、理論上ラッセルが正しいこともあり得ることは一応容認されなくてはならないが、それはあくまでも特定の条件下でのみ言えることだ。もし地獄が実在しないのであれば、キリストの地獄についての教えは有害な誤ちと見なされよう。その上、もしイエスが自ら主張したようなものでないなら、人が彼の教えを拒絶したからと言って憤りに満ちることは、相応しくないどころの騒ぎではない。しかしその一方で、我々はラッセルが問わなかったことを問わねばならない。すなわち、もし地獄が本当に存在し、イエスが本当に神の御子であるならどうなのか。もし地獄が本当に存在するなら、地獄についてのイエスの教えは侮辱どころか、真理に満ちた勇気ある行為となる。誰も地獄については聞きたくないからだ。そして、もしイエスが神の御子であるのなら、彼の教えを人間が拒絶することに対するその道徳的憤りは最も聖く、かつ正当なのである。

    言い換えると、ラッセルのイエス批判は、その批判で証明しようとしている事柄自体を前提としてしまっている。イエスが神の御子ではないということをラッセルが“知っている”場合にのみ―――これがまさしく争点なのであるが―――、ラッセルの批判は批判として成り立つのである。ラッセルは自分が証明しなければならない事柄を前提として論じている。つまり、それは彼の主張が独断的であることを意味する。ラッセルによるキリストの道徳的性格批判は、哲学的議論としては成り立って立っていないのである。彼が自分の循環的議論に気がつかなかったとは信じ難い。いずれにせよ、彼は真面目な哲学者というよりは National Secular Society のための応援団長として語っていたことは明らかだ。

     

     

    哲学面におけるラッセルの道徳的問題

     

    ラッセルがキリストの教えを誤解し、また、自分が証明しようとしていたことを前提にしていたという事実は別にしても、彼は事実上はるかに困難かつ根本的問題に直面する。ラッセルがキリストについて道徳的か否かの判断ができるためには、彼はキリストにも現代人にも等しく適用されるべき道徳的基準があることを信じなくてはならない。彼が、少なくとも何かの意味での道徳的基準の存在を信じたがっていたという事実には疑問の余地がない。なぜなら、彼はこのエッセイ集を通して善や愛について繰り返し語っており、それは熱烈で、宗教的ですらある。例えば、エッセイ『自由人の信仰』の中で、ラッセルは次のように熱弁する。

     

    もし「力の神」が、実際そう見えるように、悪であるなら、我々はそれを自らの心から排除しよう。次のことに人間の真の自由が存するのである―――すなわち、我々が善を愛することによって創造した神のみを礼拝し、我々にインスピレーションの最高の瞬間を与えてくれる、そのような天のみを仰ぐと決意すること、である。行動と欲望とにおいては、我々は不断に外界の力の専制に甘んじなければならないが、しかし、思考において、志において、我々は自由なのである。我々の同胞からも、我々の身体が無力に這い回るこのちっぽけな惑星からも、そして、我々が生きている間は、死の専制からさえ、我々は自由なのだ。ならば、つねに善の理想をかかげて生きることを可能にするあの信仰の力を学びとり、その理想を常に我々の前に置いて、行動において、事実の世界に舞い降りて行こうではないか。

     

    もしラッセルが意識的に善の概念への献身を提唱しているように見えるなら―――我々にはこの善の概念が単なる概念、つまり想像力による作り事に過ぎないことがわかっているが―――、それは、ラッセルが善とは人間の生み出したものだと信じているからである。ラッセルにとって、彼の言う価値の哲学と自然の哲学は、二つの全く無関係な、根本的に異なった学問なのである。このことは『何を信ずるか』の中で彼自身が説明している。

     

    宇宙の哲学としての楽天主義も悲観主義も同様に幼稚なヒューマニズムを示している。自然の哲学から我々が知るかぎりにおいて、この偉大なる世界は、善くもなければ悪くもないのであって、我々を幸福にすることにも不幸にすることにも関心はもっていない。そのような哲学のすべては、尊大さから起こることであって、天文学を少し学べば一番よく矯正される。

    しかし、価値の哲学においては、事情は逆になる。自然は我々が想像することのできるところのもののほんの一部分でしかない。実在するものであれ、想像されたものであれ、あらゆるものが我々によって評価されうる。そして我々の評価が誤っているということを示す外部的な基準はない。我々自身が終局的な反駁できない価値の裁決者である。また価値の世界において、自然はほんの一部でしかない。かくして、この世界の中では、我々は自然よりも偉大である。価値の世界では、自然はもともと中立であって、善くも悪くもない。礼賛に値するものでも、取り締まられるべきものでもない。価値を創造するのは我々であり、価値を与えるのは我々の欲望である。この王国においては、我々が王であり、もし我々が自然に対して頭を下げるならば、我々は王権を卑しくするものである。善い生活を決定するのは我々であって、自然ではない―――神として人格化された自然ですらないのである。

     

    確かにラッセルの宇宙観に立てば、楽天主義も悲観主義も幼稚であることに疑問の余地はない。宇宙の偶然によって出現した人間には、そもそも感情や未来に究極的意味などないからだ。このような宇宙観に立つ倫理が全くの独断に過ぎないことも同様に疑問の余地はない。ところがラッセルは、“無意味”に陥ることに満足できず、宗教用語や政治用語を借用し、熱烈に人間の権威を主張する。すべての人間は、王、すなわち善悪の「終局的な反駁できない裁決者」であり、彼らの単なる願望と言葉とによって価値を創造するのである、と。

    しかし、「自然の世界」に住む人々にとって、本当に意味のある価値を創造することはどうしたら可能なのだろうか。もし「神による創造」が現実の世界を直視する勇気のない者たちの空想や神話として嘲笑されるのであれば、なおのこと、たまたま自意識を持った動物に過ぎないはずの人間が「価値を創造する」などという思いつきは実に馬鹿馬鹿しい。ラッセルの世界においては、権力者たちが自らの布告する秩序を維持するために実力を行使することはあっても、価値の領域において、実力以外のものは何も意味を持たないのである。王であるのは「我々」ではない。王であるのは、他の者たちに自己の意志を課す力を持つ者たちのことなのだ。ラッセルは、聖書の神に向かって誰一人膝をかがめたりしないという世界を夢見るが、それでもう誰にも膝をかがめたりすることはなくなるはずだと考えるのは余りに無邪気と言えよう。

    ラッセルはまた、すべての人間が王であったなら、何が善で何が悪かを、全員が魔法のように同意するものと空想しているようだ。ラッセル自身、無意識ではあるが、またしてもキリスト教の影響を色濃く引きずりながら勝手な宣言をする。「完全な世界にあっては、すべての有情の存在は、すべての他の有情の存在にとって、悦びと、情深さと理解とが元に戻せないほど融合した十分な愛の対象となるであろう」。

    彼はそれを実世界に適用することが可能だとも賢明であるとも考えていないにも関わらず、愛の倫理を信じ、愛が知識よりも大切であるという宣言さえする。「愛と知識とは両者とも必要であるが、愛はある意味では、もっと根本的である。それは考える人々に、どうすれば彼らの愛する人たちのためになるかを発見するため知識を求めさせるに至るからである」。さて、この愛の倫理は歪められているにせよキリスト教から借用されたものであるという事実は別にしても、どのようにしてラッセルは、自分こそ王であると宣言する人間たちが愛について一つの倫理観に合意するようになると想像できるのだろうか。或いは、もし彼らがそのような合意に至ったとしても、具体的なさまざまな状況の中で、愛とは何かについていかにして合意を得られるというのだろうか。

    もし私が「終局的な反駁できない王」であったとしたら、私が何に価値を置くべきか、ラッセルに教えてもらう必要はないし、彼の選ぶ価値を必ずしも選ぶとはかぎらない。他にもラッセルの倫理観に同意できない者たちはいる。そのごく一部を挙げれば、ヒットラー、スターリン、ムッソリーニ、毛沢東などである。彼らはラッセルとも私とも異なる愛の概念を持ち、ラッセルや私を圧倒して自分たちの概念を押しつける力を行使できるだろう。キリスト教世界観には、このような問題に対する答えがある。しかしラッセルの世界には、誤りなき皇帝たちの独断的な倫理をめぐる終わりなき戦いから逃れる道はないのだ。

    では、キリストに関して、我々はこう尋ねなければならない。ラッセルの見方ではキリストも同様に「反駁できない王」ではないのか。そしてその答えは「然り」となる。そうすると、キリストの倫理に対するラッセルの反論は、ラッセル自身の倫理観が正しいと仮定するならば、無意味となる。イエスは王であり、ラッセルも王である。彼らの意見は合わないかもしれないが、ラッセルの世界観においては、彼らが同意するか否かは、単に彼らの君主的気まぐれの問題に過ぎない。一人の王が他の王を裁くための超越した倫理基準はあり得なくなる。それぞれが不可侵の主権を有する創造者であるからだ。

    このようなわけで、ラッセルの倫理観に関わる文脈に添って考えてみると、キリストがソクラテスや仏陀に劣るという彼の主張は、彼の個人的な気持ち以外の何ものでもない。それはキリスト教の反証ではなく、彼の個人的な嫌悪感を述べたまでのことだ。ラッセルの見解においては、皆が従わなければならない超越的倫理というものは存在し得ないので、同時に、キリストの教えや人格を道徳的に不完全であるとして裁いたり、拒絶するための倫理もまた存在しない。

     

     

    実践面におけるラッセルの道徳的問題

     

    おそらくラッセルの道徳論を最も明白にくつがえすものは、彼自身の実生活であろう。彼は自分で設けた原則に従わなかったのである。勿論、すべての人間が「終局的な反駁できない価値の裁決者」であるという原則を現実に適用しようとした途端、すべての「王」の同意は得られないという問題にぶつかるからといって驚くに価しない。ラッセルのスターリン批判は特に皮肉である。ラッセルの原則を適用すると、明らかにそれはジョージ・オーウェルがスターリンのスローガンとして用いたようなものになってしまうのだ。「我々はみな価値の終局的な裁決者である。しかし我々の一部は他の者よりも終局的である」。

    さらに問題なのは、極めて重大な事柄においてラッセルがいかに自分自身にさえ同意できなかったかという点である。例えば、長い間平和主義者であったラッセルは、善を愛する愛には共産主義者を愛することは含まれない、と決めたことだ。1940年代から50年代のはじめにかけて、ラッセルは「 [ソ連に対する] 予防戦争については・・・さまざまな論説や演説で再三論じている」<注1>。1953年9月には、彼は「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」にこう書くほどまでになっていた。「今度の世界大戦はそら恐ろしいものになるだろうが、それでも私としては共産主義帝国よりはそっちのほうがまだましだと思う」<注2>。しかし、たった1カ月後の1953年10月、ラッセルは突如として彼が今までそのような立場をとってきたことを否定し始めたのである。後になって彼は、自分がソ連に対して確かに予防核戦争を提案していたが、それはあまりに「軽い気持ちで」したことなので、実際に自分がそんな提案をしたことなどすぐに「忘れてしまった」と認めている <注3> 。

    彼は平和主義者であったのか、それとも主戦論者であったのか。いや、その両方なのだ。かつてラッセルの教え子であったT・S・エリオットの言葉ほど、ラッセルの思想の中にあったこの矛盾の深さをよく表わすものはない。エリオットは次のように語り、ラッセルの平和主義の本質を簡潔に定義した。「ラッセルにとってはどんな理由でも人を殺すのに十分であった」<注4>。

    この暴力に向かう傾向は、単に彼の著述のうちに時たま出てくるというようなものではなかった。他者について論理的ではなく感情的だと批判するラッセルは、その自叙伝の中で、「自分がとうてい正視できない事実を、ひとにも自分と同じ怒りを共有させるようなぞっとする書き方で、書くことにしていた」<注5> と認めている。「怒りを共有する」ことがラッセルの平和主義の概念であり、彼が「とうてい正視できない」と思う事柄を「ぞっとする書き方」で描写することが彼の真理を語るという概念であった。おそらくこのことがキリスト教に対する彼の著述のうちに見受けられる論理上の欠陥についてをも説明するのだろう。

    そのうえ、ラッセルが論理性にも正直さにも欠けていたのは平和主義に限ったことではなかった。一つに、彼のおぞましいほどの女性関係は有名であった。最初の妻との離婚後、ポール・ジョンソン曰く、ラッセルには「山ほどのうそ、ごまかし、偽善があった」<注6>。ラッセルにはあまりに多くの愛人と妻があり、さまざまな人物があまりに込み入った関係にあり、あまりに多くの不正、冷酷さ、搾取、好色、偽善が絡んでいるため、ここでそれを説明し出したら切りがないほどだ <注7>。ラッセルは、理論上は女性の平等性という見方を堅持したが、他方では、実生活において女性が知的に劣っていると見做していたことも指摘しておくべきであろう <注8>。

    第二に、その女性関係における甚だしい失敗の連続をものともせず、ラッセルは「世間の諸悪は、理論、理性、節度によって大方解決できる」<注9> と考えていた。ジョンソンが説明するように、ラッセルは「人間性にかかわる問題が方程式のように解決できると思うほど愚かではなかった」<注10> とは言え、確かに人間の能力に多大の信仰を持っていた。もし人間がただ理性的に、根気よく、冷静な哲学的方法でこの世の問題に取り組むなら、ほとんどの問題はいずれ解決され得るのだ、というのが彼の考えであった。

    ところが、この理論も彼自身の実生活に適用されることはなかった。ジョンソンは次のように述べている。

     

    困ったことにラッセルは、上述の主張がすべて不確実な基盤の上になりたっていることを、自分自身の人生を舞台に次から次へと証明してくれている。重大な転機が訪れるといつも、彼の見解や行動は理性よりも感情によって決定される傾向が強かった。危機に直面すると論理は支離滅裂になる。利益が脅かされるようなときには、正しい行動をとるとはとても保証できない。弱点はまだほかにもある。人道主義的な理想論を説くにあたっては、ほかのなによりも真実に重きを置く。しかし窮地に追いこまれると、うそをついて言い逃れをしかねない―――どころか、たいていそうなる。正義感が踏みにじられ、感情が高ぶると、正確さなどどこへやら。<注11>

     

    ラッセルの暴力的要素の多い平和主義と彼の女性問題は、換言すれば、例外的なものではなく、むしろラッセルの生活パターンそのものであった。彼が信ずると称した論理は、講演やエッセイ用のものであって―――それも上で見たようにある程度の限界を伴うが―――、自分の個人的問題に直面すると論理を用いることはまずなかった。ラッセルが「自己認識もまったく欠落していた」<注12> という事実は、これらの傾向を悪化させている。

     

     

    結論

     

    要約すると、悔い改めとまではいかなくとも若干の謙虚さを抱いてもおかしくはないほどの道徳的次元にもかかわらず、ラッセルは自分のことをキリストに判決を下すのに足る専門家と考えた。生涯の一時期、彼はソ連に対しては核を浴びせて焼け野原にしようと提唱したが、その一方で、イエスの地獄についての教えは彼には堪え難かった。ラッセルは道徳的問題についての他者の意見には彼自身が「怒りを引き起こすような」と描写する書き方を以て反発したが、敵に対して憤慨したという理由でキリストが道徳的に劣っていると断言した。彼の道徳論はすべての人間を王にはするけれども、倫理問題について断言するキリストの権利―――そしてラッセルと意見を異にするあらゆる人の権利―――は否定される。

    以下のような結論は免れない。即ち、バートランド・ラッセルのキリスト批判は、独断的かつ利己的である。倫理的真理について語ってみても、その議論には力がない。自己矛盾をしないための必要条件を満たしていないからだ。他の無神論者と同様、ラッセルは自分で勝手に考え出す以外に倫理基準は一切持っていない。そして、そのような可変的で便宜的な勝手に作り上げた価値ですら彼にとっては厳し過ぎ、自分で絶えずそれらを裏切っていたのである。ならば、いかにして彼はキリストを―――そういう意味では他のだれであろうと―――裁くことができるのか。パウロは言う。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです」(ローマ人への手紙2章1節)。

    しかしながら、彼のキリスト批判は決して無駄ではなかった。彼はりっぱにその務めを果たしてくれたのである。実のところ、ラッセルは批判を装い、キリスト教の正しさを証明する議論を提供してくれたのである。彼の生涯と著作は、神の啓示なくして人間は善悪について真の知識を得ることができないことを意図せず雄弁に例証しているのだ。

    「結論」へ続く


    1. 『インテレクチュアルズ』ポール・ジョンソン著、別宮貞徳訳 (共同通信社、1990年)、326〜328頁。

    2. 同書、328頁。私はラッセルに同感だが、ここで問題となっているのは論理的一貫性だ。

    3. 同書、328頁。後にラッセルは極めて強固な核兵器廃絶主義者となる。

    4. 私訳 (参照:同書、325頁)。これは平和主義者に珍しいことではない。

    5. 同書、335頁。

    6. 同書、338頁。

    7. ラッセルの女性関係については同書、337頁以下に非常によくまとめられている。

    8. 同書、336, 345〜346頁。

    9. 同書、323頁。

    10. 同書、323頁。

    11. 同書、323頁。

    12. 同書、322頁。


    文中の訳者注は [ ] で示した。ラッセルの引用部分については、『宗教は必要か〈増補改訂版〉』(大竹勝訳、荒地出版社) を基本的に転用させていただいたが、1968年に訳されたということもあって難解な言い回しはわかりやすくし、全体の要点を伝えるために意訳されていた部分は直訳にもどすなど、多少の手を加えた。
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