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    福音の勝利--聖書的終末論への導入

    1998.9.12

    ラルフ・A・スミス著  福音総合研究所出版部訳


    私が終末論に興味を持つようになったのは、大学を卒業した1971年の夏、まだキリスト者になって間もない頃のことであった。同夏、大学院に進み心理学の研究を始めたが、すぐにある契約期分割主義 (dispensationalism) の牧師が教える少人数のバイブルクラスに出席するようになり、次第に契約期分割主義の考え方に夢中になっていった。そこで使われていた聖書の預言を説明する絵図を今でも鮮明に思い出すことができる。

    その後、牧師職に召された私は、心理学の研究を即座に打ち切り、神学校に行く計画を立てた。ところがその矢先、当時まだ続いていたベトナム戦争の徴兵の順番がついに私にも回ってきてしまった。結局、神学校に行く前に海軍で二年間を過ごすことになったのだが、このカリフォルニア州サンディエゴ海軍基地での訓練期間中にキャンパス・クルセードの集会に出席し、預言についての説教をいろいろと聞くことができたのはある意味で幸いであった。ユダヤ人がイスラエルの地に戻ったことを解釈の鍵として携挙に至るまでの様々な出来事の順序を説明する説教の強烈な印象が今でも私の脳裏に焼き付いている。一世代以内、つまり1948年から40年以内にすべての預言が成就するはずだと教えられたのである (マタイ24:34参照)。その説教者によると、千年王国は遅くとも1988年には始まる可能性があるという。もしそうなら、携挙は遅くとも1981年には来るわけだ。1972年の時点で聞けば、それは実に胸の躍るような説教であった。

    1974年一月、グレース神学校に入学したが、海軍にいた二年間にすでにルイス・スペーリー・チェーファー (Lewis Sperry Chafer) の数巻からなる Systematic Theology をはじめ、契約期分割主義の書物を多く読んでいたので当然ながら、神学校在学中、契約期分割主義にますます傾倒するようになった。特に、千年王国前再臨説 (以下、前説と略す) と患難時代前携挙説を信奉する熱意はさらに燃えた。後に自分が千年王国後再臨説 (以下、後説と略す) に転向するなどとは、当時、夢にも思っていなかった。

    ところが十数年後、それが現実のこととなったのである。携挙の年、1981年に来日して以来、私の人生には様々な変化が生じた。まず、異教文化と日々対峙する中で刺激を受け、それまでは全く考えたこともなかったような観点から、キリスト教信仰の持つ文化的な意味について思索するように導かれたのである。キリスト教弁証学や認識論に関するコルネリュース・ヴァン・ティル (Cornelius Van Til) の著作を学び、また、キリスト者として文化をどう考えたらよいのかを模索しているうちに、・・ラッシュドゥーニー (R. J. Rushdoony) の The Institutes of Biblical Law と出会った。旧約聖書研究のために以前購入し、忘れかけていた書物であった。

    しかし、ラッシュドゥーニーの著書が役に立つと思うようになったときでさえ、彼の神学体系のうちで、後説の部分を受け入れるようになるとは夢想だにしなかった。聖書の教えが前説であることに疑問の余地はないと確信していたからだ。だからこそ後説に立つ著者の書物を恐れずに読むことができたのである。少なくとも、彼らの見解を一応読んでおくべきだと感じていた。ところが読んでみて驚いたことに、彼らは聖書的な契約の概念を土台にして、実に理に適った主張をしているではないか。それどころか、後説の方が前説よりも聖書に忠実ではないか。黙示録でさえも、後説の立場はより文字通りに解釈しているのである。つまり、「文法的・歴史的解釈」の諸原則に適っているという意味で、より忠実な解釈になるのだ。

    かくして、私は後説と呼ばれる立場が聖書の教えであると説得されるに至ったのである。後説を紹介するこの小冊子を書いたのも、それが故である。読者は私の意見に賛成できないかもしれないが、本書の内容を読んで、真剣に考えていただくことが私の願いである。本書の主張に納得してくださればもちろん喜ばしいことだが、たとえそうでなくとも、ここに書いた内容に対して聖書的な反論を試みていただければと思う。神学的な議論の過程は地道なものだが、正しい心で追究するなら、その目指すところは、イエス・キリストの教会全体が「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」 (エペソ4:13) ことにある。そして、この目標は必ずや達成されると後説に立つ者たちは確信している。

    終末論の論議においては四つの点が特に重要であると私は考えている。そこで、それぞれについて一章ずつ充てることにした。まず第一章では神学的問題に取り組み、問題自体をはっきり定義することによって、読者に終末論の再考を訴えたいと願っている。この取り組みの土台となっているのは The Journal of Christian Reconstruction に掲載されているグレッグ・・バーンセン (Greg L. Bahnsen) による論文で、それは私がこれまで読んだもののうちでは最も的確に、根本的な神学的・聖書的問題を定義している。

    第二章では解釈の問題に終始した。この章では、ジェームズ・・ジョーダン (James B. Jordan) による洞察の深い聖書解釈論、それに加え、終末論の概論とも呼ぶべきデヴィッド・チルトン (David Chilton) 著 Paradise Restored (仮題『復楽園』) を特に参考にさせていただいた。ジョーダンの聖書解釈に対するアプローチは――チルトンも準拠しているものだが――、私に自分の終末論を再考させるに至らせた。契約期分割主義の立場を受け入れていた私は、いわゆる文字通りの解釈が正しいものと信じ込んでいた。しかし、ジョーダンは、この契約期分割主義のモットーである文字通りの解釈が誤りであることを証明し、また本当の意味で文字通りで聖書的な解釈法を示したのである。

    第三章では、歴史上の対立という聖書の幅広いテーマを扱っている。聖書が歴史を神とサタンの対立として提示していることはキリスト者ならだれでも知っている。また、キリスト者はみな最後の審判の日には神が勝利なさると信じている。それでは、歴史における勝利者はだれか。歴史上ではサタンが勝利をおさめ、しかし、歴史が終結した暁には全能者によって徹底的に打ち負かされるということなのか。あるいは、歴史上で神御自身が勝利することが御旨なのか。もしそれが御旨であるなら、いかなる戦略、戦法が用いられているのかも問う必要があるだろう。私は、創世記から黙示録に至るまで神の対サタン戦略は一貫していること、そして、神は歴史においても最後の審判の日においても勝利をおさめられることを論証したいと思っている。最終的なサタンの滅亡は、十字架による裁き、そしてそれに続くサタン崇拝の歴史上の敗北によってもたらされるものなのである。

    最終章は、ある意味で最も重要であろう。この章では契約に関する聖書の教えと、それが終末論において持つ意味とを説明している。現代の聖書学は聖書の中心に契約思想があることを繰り返し強調してきたし、伝統的な改革派神学も契約を聖書神学体系の中心と見なしてきた。にもかかわらず、終末論の論争において、契約の概念が終末論に対して投げかける意味が十分に注目されたことは殆どないのである。第四章は、レイ・・サットン (Ray R. Sutton) の著作に基づいている。契約の教理に対する彼の貢献は、終末論における契約の意義を明確なものに前進させた。

    終末論は、この世におけるキリスト者の証しと働きに無関係で抽象的な学問ではない。終末論とは歴史観を決定するにとどまらず、現代社会における我々の日常生活観をも定義してしまうものだ。キリスト者は具体的に何を追い求めるべきか。この世における労苦の最終的な意味は何か。高度な知識と技術を要求される、百年以上もかかるような歴史的プロジェクトに、時間と資金と勤労を実際に投資すべきであろうか。それはトラクト配布という手段よりもかなり間接的な福音伝道である。それとも、救いに導いた人数にその働きの究極的な意義を求めるべきか。また、キリスト者にとって教育、科学、芸術、政治、および産業の諸分野における働きに究極的な意義はあるのだろうか。

    終末論に関する信仰の立場は、日常生活に直結するこれらの問いに対して解答を提示するものだ。それゆえ、終末論論争は避けられないのである。未来に対する答えなくして、現在をいかに主のために生きるかを知ることは難しい。それはまるで基本的な政策も計画も持たない政治家が、世論調査の結果如何によって日々、政策変更をするのに似ている。彼らのように、「教えの風に吹き回され」ることが神の御旨なのではなく、むしろ神は御言葉のうちに、我々が知るべきことのすべてを啓示され、「神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶ」ことができるように導いてくださっているのである。

    Soli Deo Gloria.

                  1996年12月 ラルフ・A・スミス

    日本の読者へ

    この小冊子の目的は、終末論論争に対する新鮮な洞察と新たな視点を日本の読者に紹介することにある。論争を取り上げる以上、議論を押し進めるかたちで書かれているが、読者の方々には是非とも誤解のないようにお願いする次第である。いかなる神学論争も、キリストの教会がさらに建て上げられることを目指すもので、違う立場をとっている兄弟の優劣を決めるものでは決してない。その真に意図するところは、ソロモンの言葉を借りるなら、実に「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」(箴27:17)ことである。論議が力強く展開されるほどに、その討議も深められ、互いの信仰が実質的に建て上げられていくものと確信している。

    後説は、かつて福音的信仰の中では主流の立場にあった。しかし、現代においてはもはや拒絶され忘れ去られようとしているばかりか、少数の間では非聖書的な見解とさえ見なされている。このことは米国以上に、日本の現状に当てはまるのかも知れない。それで、最も敬虔で著名な福音主義神学者の多くは後説の支持者であったことをここに明記しておきたい。

    清教徒が強力な後説論者であったことはよく知られている。それは「ウェストミンスター大教理問答」(問45, 54, 191)にも著わされ、「ウェストミンスター信仰告白」(第5章7節、第7章6節)のうちにも含まれている。最も博識な神学者でもある清教徒のジョン・オーウェン (John Owen) は、当時の著名な識者たちの多くが共通の特徴としていた後説の立場を代弁した人物である。後説主義者としてはあまり広く知られていない例として、インドに渡ったバプテスト派宣教師のウィリアム・カーレイ (William Carey)、有名な伝道者のジョージ・ホィットフィールド (George Whitefield)、アメリカ最初の神学者ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)などが挙げられる。前世紀におけるアメリカの名高い長老派神学者は全員が後説の立場をとっていた。ジョセフ・アディソン・アレキサンダー (Joseph Addison Alexander)、チャールズ・ホッジ(Charles Hodge)、アーキボールド・アレキサンダー・ホッジ(Archibald Alexander Hodge)、ウィリアム・・・シェッド(William G. T. Shedd)、ジョン・・ソーンウェル (John H. Thornwell)、ベンジャミン・・ウォーフィールド(Benjamin B. Warfield)、ロバート・ルイス・ダブニー (Robert Lewis Dabney)などである。この他に、バプテスト系とメソジスト系の後説主義者の長いリストを掲げることができるが、以上でも後説主義が誇り高い伝統を継承し、福音主義に立脚していることがお分かりいただけると思う。

    しかし、それだからと言って、それだけの理由で後説の立場の正当性を主張できるわけではない。だが、それを究明する理由にはなり得るはずであろう。なぜなら、これらの信仰の先輩たちは神と御言葉に己れを捧げた人々で、単に教会の伝統であるとか、当時流行の思想・哲学であるということで安易に後説になびいていったはずもないのである。彼らの信仰の証しを重んじる我々は、彼らも信じていた御説の主張を真剣に考察してみるべきでろう。

    不充分ながらも本書のような概論に刺激を受けて、聖書的終末論に対する興味を持ち、それをさらに深く学びたい方々が起こされるようにというのが、私の祈りである。英語で入手できる文献は、すでにかなりの量に達しており、なおも増え続ける勢いだが、日本の牧師や学者にとっても注目に値するものと信じている。この小冊子の翻訳版が読者の益となり、この日本の地に立つキリストの教会が前進するよう願って止まない。
      
      

                                  1998年8月、武蔵野にて
                                         ラルフ・A・スミス

     

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