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    福音の勝利--聖書的終末論への導入

    1998.9.12

    ラルフ・A・スミス著  福音総合研究所出版部訳


     

    第一章 聖書的および神学的問題

    終末論をめぐる議論は混乱しがちである。もちろん検討すべき聖書箇所は山ほどあり、解釈を施すべき箇所も常に理解が容易だとは限らない。これに加え、神学論争の長い歴史がある。こういったことを考慮するなら、終末論というテーマが困惑を招きかねない理由はうなずけよう。しかし、これから見ていくように、このような事態は回避できないものではないのだ。

       

    ■問題の定義

    終末論における三つの立場

    まず、再臨の「時」に関する見解の違いによって、基本的に三つの立場があることを確認しておきたい。千年王国前再臨説 (前説) は、歴史が終わる前にキリストが戻って来られ、千年間にわたる王国を開始されるという教えである。無千年王国説 (無説) は、そのような王国時代の存在を否定する。無説によると、歴史はキリストの再臨によって終わる。千年王国後再臨説 (後説) は、キリストの再臨で歴史が終わるという見解では無説と一致しており、また、神の国が歴史上でこの地上に実現するという見解では前説と一致している。しかし後説が前説とも無説とも決定的に違うところは、聖霊が教会の中に働くことを通してキリストが御自分の御国をこの地上にもたらし、遂に神の国の目的が十分に果たされた時、すなわち歴史の終わりに、キリストはこの世に戻って来られると確信している点である。

    神学における二つの問題

    グレッグ・・バーンセンはこの論争を次の二つの問いに絞り込み、論点整理をしている。<注1>

    問1 「教会時代に千年王国は含まれるのか (あるいは、終末的な出来事であるキリストの再臨、死人の復活、最後の審判は、ほぼ同時に起こるのか) 」。<注2>

    この問いに対して、前説は「否」と答える。なぜなら、前説は教会時代と来たるべき千年王国とを全く別個の存在として捉えるからだ。教会時代の終結時にキリストは再臨して、千年王国を打ち立て、それから千年後に最後の復活と審判があるという。

    しかし、無説も後説も共に「然り」と答える。両者は理由こそ異なれ、キリストの再臨、復活、最後の審判という三つの出来事はほぼ同時的に起こるというのが聖書の教えである、との見解を同じくしている。アンソニー・フーケマ (Anthony A. Hoekema) に代表される典型的な無説によれば、千年王国は教会時代に天上にて存在し、そのまま永遠に至る 。<注3> が、後説の千年王国はこの地上において建て上げられ、教会時代の最終区間と合致するものである。

    問2 「教会時代は (千年王国と同一、もしくはそれを含むにせよ)、福音が地上で明らかに栄え、教会が世界的に大きく成長し強い影響力を持ち、その結果、キリスト教がそれまでのような例外的存在ではなく一般原則となるような時なのか」。<注4>

    この問いに対して、前説と無説は「否」と答え、異口同音に歴史上における福音の勝利はあり得ないと主張する。後説は「然り」と答え、キリストの御命令こそが福音の勝利を保証するものであると告白する。

    キリストの再臨 (復活と審判という終わりの時の出来事も含む) は、聖書によれば歴史の最後にあるということを後説支持者が論証できれば、前説に対して自らの立場の正しさを証明したことになる。また、キリストの福音が歴史の中で勝利をおさめ、人類の大多数が回心し、比類なき祝福の時代がこの地上に到来することを論証できれば、無説に対しても自らの立場の正しさを証明したことになる。<注5>

    このように、終末論の問題は初めに受ける印象とは異なり、さほど複雑ではないことが分かる。それは簡潔に以下の二つの問いに置き換えられる。 キリストは歴史の最後に再臨されるのか。 聖霊は、福音によって人類の大多数を回心させることに成公するのか。これらの問いに対する聖書的な答えが出せれば、終末論は果てしなく続く神学論争の言葉の渦から救われるのだ。そして、明快でしかも神学論争を終局に導くこの二つの問いに聖書的な解答を示すことによって、後説の立場は立証される。これが後説支持者の主張である。

      

    ■聖書の解答――福音の勝利
     
    まずは、二番目の問いから始めることにしたい。教会時代は、福音が地上で明らかな繁栄を示す時となるのだろうか。旧約聖書には地上が大いに祝福される時代が到来するという約束が多数与えられているが、後説は、その約束が成就するという主張において前説と一致している。しかも、その約束が成就するのは、人々が明らかにまだ死すべき体をまとっている時である。なぜなら、福音のもたらす地上的な祝福が最高に熟した状態の中に置かれている時でさえ、人間社会においては罪と死がまだ現実のものであることに変わりはないからだ (イザヤ65:20)。<注6>

    しかし前説とは対照的に、後説の場合はそういった祝福がキリストの再臨ではなく、福音を通して働く聖霊の御業によってもたらされると信じるのである。<注7> では、どのような聖書の御言葉を根拠にそれが言えるのであろうか。神の国の祝福がキリストの再臨以前に福音の広まりによってもたらされることを後説支持者はどのように聖書的に立証できるのだろうか。

    マタイの福音書28章18-20節

    後説は、宣教大命令が勝利の約束として与えられていることに目を留める。<注8> まず、宣教大命令の序文の内容をよく考えていただきたい。イエスはこう語られた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」 (マタイ28:18)。キリストが天における権威だけでなく、地上における権威をも主張しておられることに注目したい。これは、キリストが地上の歴史に対する主権を握っておられることの明白な主張である。また、イエスが御自分の教会に与えられたこの宣教命令の背後には、非難を許さない御自身の絶対権威が据えられているということをも意味する。イエスはなぜ、御自分が天においても地においても一切の権威をお持ちであると確言され、絶対的な主権者である御自身が我々と共におられると約束してくださったのだろうか。それは、我々キリスト者が主の恵みによって、必ずや任務を完遂できるものと保証してくださるためではなかったのか。この解釈こそが、イエスの復活による勝利、という前後の文脈や他の並行箇所 (マルコ16:15-18; 使1:8参照) と調和するものである。

    次に、イエスが教会に与えられた命令の最後の部分について考えていただきたい。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 (マタイ28:20)。主はヨシュアに向かって、御自身が共におられ、ヨシュアを見捨てず離れることがないと言われたが、キリストはちょうどそれと同じように教会に向かって、世の終わりまで御自身がいつも共におられると約束してくださった (ヨシュア1:5-9)。神がヨシュアと共におられるという約束は、ヨシュアの戦いが必ず成功することの保証である。これは明白であって、この点で異論のあるキリスト者はいないであろう。それならば、イエスが教会と共にいてくださり、託された偉大な任務を御力によって完遂させてくださるという約束を信じるのは、なぜ後説の支持者だけなのだろうか。主が共におられるという約束が教会の勝利を保証するものでなければ、その約束は一体、他に何を意味するのであろうか。

    それだけではない。宣教大命令の中でキリストが共におられるという約束が与えられているということは、マタイが記しているように、イエスの御名の成就を意味する。「『・・・その名はインマヌエルと呼ばれる。』訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である」 (マタイ1:23; イザヤ7:14参照)。「インマヌエル」であられるメシアに関する旧約預言を成就されたお方はイエス御自身にほかならない、とマタイは教えているのだ。旧約聖書では、インマヌエルの約束は、神の契約による恵みの本質そのものを表わしている。神の臨在は御民の物質的および永遠の繁栄を保証するだけに留まらない。神の臨在こそ、契約のもたらす祝福の本質として御民が求めるものである (詩27:4参照)。それで、神はイサクにこう約束しておられる。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ」 (創26:3)。神の臨在は、神の祝福を保証するのである。

    「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言われたときに、イエスが指し示しておられたのは、御自分がインマヌエルとして来られたことの真の意味であった。すなわち、神の臨在が契約に忠実な御民の勝利を保証するのである。<注9>

    神の命令にはそれを完遂するための力も添えて与えられていることをキリスト者は信じるべきである。神は、ヨシュアにもこう言われたのを忘れてはならない。 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」 (ヨシュア1:9)。<注10>  キリスト者もまた、「強く、雄々しく」あるべきだ。神の約束と臨在がその目的を果たさずして終わることなどあり得ないと知っているからだ。キリストに属する者は、神が御自身の御言葉を成就させ、御自分の契約の約束に従って御国を建て上げてくださるという確信を持って、福音を宣べ伝えなければならない。神が共におられる故に、教会は敗北し得ないのである (1ヨハネ5:4)。

    ローマ人への手紙11章

    ローマ書11章は、福音の勝利に関する中心的な聖書箇所の一つである。ここでパウロは、ある人たちの考えるようにキリストの再臨に関する教えを説いているのではなく、福音の前進について、三つの段階に分けてその概要を述べている。まず第一に、イスラエルが全体としてはキリストを否定した後で、ユダヤ人の残りの者と多くの異邦人が回心してキリストを信じるようになる。第二に、キリスト者となった異邦人たちが明らかに神から祝福されているのを見て、ユダヤ人はやがて心に妬みを抱き、その大いなる祝福の証しが彼らをさらに福音を信じる信仰へと駆り立てる。<注11> 第三に、イスラエルの回心が世界の救いへとつながっていく。ここには、キリストの再臨についての教えはなく、パウロによれば、福音の成長と影響そして前進により、全世界に救いが遂にもたらされるのである。<注12>

    マタイの福音書13章

    この箇所の御国のたとえ話もまた、最後に主が再臨なさる時まで福音が徐々に前進することを明示している。<注13> これらのたとえで明らかなのは、イエスの教えによれば、御国の不完全ながらも徐々に成長することが現今の時代の特徴であり、歴史の終わりはそのような成長の後に到来する、ということである。この成長の源が何であるかは、最初のたとえの中に明らかにされている。「種は神のことばです」 (ルカ8:11)。全体的な展望は単純明快だ。神の御言葉、すなわち福音が神の国の成長をもたらし、歴史の最後にキリストが再臨される時までそれが続くのである。

    イエスは最初のたとえで、神の御言葉が蒔かれた四種類の土地について説明する。四種類のうち、良い土地は一種類だけで、ほかの三種類は実を結ばない。ただし、このたとえの意味は決して福音を聞く者のパーセントは救われないということではない。ここでイエスが教えておられるのは、初めから興味を一切示さない者 (道端に蒔かれた種)、あるいは一時的な信仰、偽りの信仰しか持たない者 (岩地に落ちた種といばらの中に落ちた種) は確かにいるが、同時に福音のメッセージに応答する者も確かにおり、その者は実を結ぶのである、ということだ。<注14> 残る実を結ぶことこそ真のキリスト者の性質なのだ (ヨハネ15:1-16参照)。次のことを自問していただきたい。もし真のキリスト者が実を結んで (人々が回心するという祝福も含めて)、非キリスト者や偽キリスト者が実を結ばないなら、長い目で見て最終的に数が多くなるのはどちらであろうか。

    次に語られている良い麦と毒麦のたとえは、最初のたとえを論理的に発展させたもののようだ。種蒔きのたとえでは、真のキリスト者を表わすのは四種類の土地のうち一種類だけであった。二種類の土地は偽りのキリスト者、つまり「しばらくは信じる」という人々だ (ルカ8:13)。そうすると、次の疑問が残ることになる。教会は、一時的に信者のように見える偽りのキリスト者をどう扱うべきなのだろうか。その解答は二番目のたとえで与えられている。主御自身が裁きを行われる終わりの時までそのままにしておくように、ということなのである (マタイ13:30)。<注15>

    世界規模の超自然的裁き――例えば、ノアの時代に行われたような――は歴史の終結まで与えられることはない、ということをこのたとえが示している点に注目したい。携挙、キリストの再臨といった歴史的に大変動を来たすような出来事は、最後の最後まで起こらないのである。千年王国の時代は決して完璧なものではない。地上に建設される御国はまだ永遠の天国ではないのだ (マタイ13:47-50)。しかし、この未完成の御国は歴史の終わりには最後のさばきによって正され完全なものとなるのである。この教えは、御国の時代に地上で生きる者たちにとっては重大な警告である。というのは、強いユートピア願望に押し流されたり、愚かにも最後の審判を自らの手でもたらそうと安易に先走りしてしまいがちだからだ。我々の主は、いわば、最後の審判を早めるようなことは禁じておられる。復讐は神にある。最後の時に、神が復讐をなさるのである (ローマ12:19-21)。なぜなら、最後の審判において御国は完成を迎えるからだ (マタイ13:49-50)。

    最後の審判を待つようにというキリストの勧めは、別の問題を引き起こすように思われるかもしれない。なぜなら、サタンが教会内に蒔いていった偽兄弟の種を教会が無視するなら、教会による御国のための働きが阻害される恐れがあるからだ。たくさんの敵が混入しているかもしれないという状況の中で、教会は何を成し遂げることができようか。福音の説教は結局のところ、毒麦と良い麦が曖昧に混ざった状態を生み出すに過ぎないのだろうか。この疑問に対して、からし種のたとえ (マタイ13:31-32) とパン種のたとえ (マタイ13:33) が答えを与えてくれる。この二つのたとえは次のことを確証している。

    1)神の国は、成長して大きな木になる。その木の中に、鳥たち、つまりこの世の諸国が巣を作ることになる (エゼキエル17:22-24; 31:2-9; ダニエル4:10-12)。
    2)神の国は、パンの中のパン種のように、最終的には地の全体を膨らませる。<注16>

    言い換えるなら、人の子が蒔いた神の御言葉は (マタイ13:37)、すべての個々人を回心させるわけではないが、それでも実際に地のあらゆるところに徐々に広がっていき、すべての国々をキリストにある安息へと導くのである。神の国は福音宣教を通じてもたらされる。天と地においてすべての権威が与えられているキリストが、我々と共におられるのだ。教会をお建てになるのはキリストであり、地獄の門でさえキリストの攻撃に耐えられないのである。<注17>

    以上の考察をまとめると、これらのたとえが御国の漸進的成長を教えていることが分かる (実は、主要な契約期分割主義者たちも、これらのたとえが今の時代を指していることを認めている)。<注18> 神の国は福音宣教のわざを土台として成長していく。そのわざは困難ではあるが、最後には必ず実を結ぶのである。御国は、キリストの再臨の時に行われる最後の審判において終結を迎え、その時、悪者は地獄へ投げ込まれ、正しい者は永遠の祝福に入るのである。

    ダニエル書2章と7章

    マタイ福音書章の御国のたとえにおけるイエスの教えは、預言者ダニエルの見た幻の中で繰り広げられ
    る歴史の概略と調和する (ダニエル2:31-45; 7:1-28)。ダニエルは神の国を二つの点に絞って説明している。
    御国はキリストが昇天して神の右に着座された時に始まった (ダニエル7:13)。 御国は徐々に成長する。ダニエルが示しているように、御国がキリストの復活と昇天の時に始まり、歴史全体を通じて徐々に成長するのだとしたら、成長の手段は神の御言葉という種以外にはあり得ない。福音書の中で良い種を蒔く人とはダニエル書の「人の子」 (7:13) であると教えられていることから分かるように (マタイ13:37)、イエス御自身がダニエル書を指して語られたのである。

    ダニエルが最初に歴史の進む過程を理解したのは、バビロンの王が見た夢を説き明かしたときであった。ネブカデネザル王は大きな像の幻を見た。その頭は金、胸と腕は銀、腹部と腿は青銅でできており、足には鉄の部分と粘土の部分があった (ダニエル2:23-33)。この大きな像は人手によらずに切り出された一つの石によって破壊され、続いてその石は、大きな山となり、地に満ちた。ダニエルはこの夢の意味をネブカデネザルに説明した。それは、四つの王国 (バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ) が世界史を支配するが、ついには、天の神御自身が決して破壊されることのない新しい王国をうち建てられるというものであった (ダニエル2:36-45)。

    神の国がローマ帝国の時代に授立されることは、極めて明確に記されている (ダニエル2:44)。契約期分割主義の前説支持者は、この幻の足の部分のどこかに少なくとも二千年の空白を設けなければならない。<注19> しかし、契約期分割主義のこの「空白説」 (gap theory) と呼ばれる解釈は、全くの憶測に過ぎない。つまり、本来原文が持つところの平易で、通常の、文字通りの意味に反して、勝手な解釈を付与しているのである。

    後にダニエル自身がこれと同様の幻を見た時、四つの帝国は大きな人間の像ではなく、四頭の獣に象徴されていた (ダニエル7:3以下)。これは、四つの帝国に対する見方がキリスト者と非キリスト者の間では異なることを示唆している。章のネブカデネザルの幻にあるように、神が御自分の王国を授立なさる時、人間の王国は終わりを告げる (ダニエル7:9-14)。ここでもまた、時間的な前後関係は明らかだ。キリストが御国をお受けになったのは、昇天して神の右に着座されたその時であった。「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」 (ダニエル7:13-14)。復活と昇天の時においてキリストが正式に王となり主権者となられたことは、新約聖書でも明白に繰り返し教えられている (マルコ16:19; ルカ22:69; 使2:25-36; 7:55-56; 13:33; ローマ8:34; エペソ1:20-22; コロサイ3:1; ヘブル1:3; 8:1; 10:12; 12:2; 1ペテロ3:22)。<注20>

    まとめ

    以上は、いくつかの重要な聖書箇所を抜粋し、その証言を簡潔にまとめたに過ぎない。簡潔ではあるが、これらは歴史の進展について聖書が概略を示している箇所であり、そこに打ち出されている次のような重要な真理は見逃しようがない。第一、神の国が徐々に成長すること (マタイ13章; ローマ11章; ダニエル2,7章)。第二、神の国が福音の宣教を通じて成長すること。それは、復活されたキリストの約束に従ってイスラエルと全世界を回心させる、御言葉という種の働きである (マタイ28:18-20; ローマ11章; マタイ13章)。第三、御国がキリストの復活と昇天の時に始まること (ダニエル2,7章; マタイ28:18-20他、新約聖書の箇所多数あり)。聖書が教えるこの三つの真理は後説の希望を支える聖書的な土台である。聖書の御国の教えは、前説とも無説とも調和し得ないのである。

      

    ■聖書の解答――再臨と復活

    バーンセンの提議した二番目の問いに解答することで、聖書の証言が後説を支持していることはすでに明らかにされたと言えよう。しかし、バーンセンの最初の問いについての考察もまた重要だ。「教会時代は千年王国を含むのか」。言い換えるなら、キリストの再臨によって歴史は終結を迎えるのか、という問いである。教会時代に千年王国が含まれるのであれば、終末論において今日最も支持されている立場である前説の間違いは決定的である。

    イエスの教え

    歴史の終わりに一度だけ、総括的な復活があることを示す新約聖書の証拠は実に豊富にある。<注21> このテーマに関する新約聖書のはっきりした言明から始めるとしよう。ヨハネ福音書6章38-54節で、イエスは御自分が御民を最後の日に復活させると四回繰り返し語っておられる。そして、これよりも以前にユダヤ人たちと対決されたとき、義人と悪人の復活が同時に起こることを既に述べておられた。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」 (ヨハネ5:28-29)。これは、同時期に起こる出来事だ。人類全体がキリストの声を聞き、墓から出てくる「時」なのである。「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る」と書かれているとおりだ。すべての人が復活した後で、倫理的な境界線をはさんで「善を行なった者」と「悪を行なった者」に二分される。死者の復活は間違いなく一度のみである。そこでは、二分された者たちの行先の違いこそあれ、契約期分割主義が言うような、ユダヤ人、異邦人、教会といった区別はなく、千年王国の前か後かというような時間的な区別もないのだ。

    パウロの教え

    パウロもまた、「義人も悪人も必ず復活するという・・・望み」 (使24:15) を自分の信仰として告白した際に、やはり同じように死者の復活が一度だけ起こることについて言及している。また別の箇所で、キリストにあって死んだ者全員が復活し、生きている者たちが最後のラッパが鳴り響く時に変えられると教えている (1テサロニケ4:13-17; 1コリント15:52-58)。これは、死が最終的に滅ぼされ、その支配が終わる時である (1コリント15:54-58)。また、歴史が終わり、天における永遠の生活が始まる時でもある。なぜなら、滅ぼされる最後の敵とは死であるとパウロが教えているからだ (1コリント15:25-26)。<注22>

    おそらく、復活の時期について語っている最も際だった言及は、第一コリント書15章20-28節におけるパウロの教えであろう。<注23> ここで、復活には二段階あると述べられている。最初はイエス・キリスト御自身が復活し、後にキリストのものとされた人々が復活する (1コリント15:23)。また、神の民の復活は、大いなる敵、死が滅ぼされることとして語られている (1コリント15:26)。パウロの明確な言及によれば、キリストは現在も支配しておられ、その「支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められている」 (1コリント15:25)。<注24>  「すべての敵」の中には最後の敵である死そのものも含まれている (1コリント15:26)。死が滅ぼされるのは歴史の終わりにキリストの民が復活する時であり、その時点でキリストは御国を神にお渡しになる (1コリント15:24; 27-28)。<注25>

    この箇所に含まれている意味は瞭然としている。象徴的な言葉は使われておらず、教えの内容ははっきりしている。むしろ、この箇所を読んで本当に疑問と思われるのは、なぜ前説支持者たちは復活に関する新約聖書の中心的な章に書かれている極めて明確な教えを無視して、比喩表現による曖昧な意味であると自分たちでも考える箇所を根拠に復活の教理を構築するのか、ということだ。

    まとめ

    歴史の最後に死者の復活が一度だけ起こる、というのがイエスとパウロの明白な教えだ。聖書解釈の大原則には、より明解な聖書箇所を「鍵」のごとく用いて難解な比喩表現の箇所の理解を求める、というのがある。従って、黙示録を解釈するため、あるいは聖書の終末論の「謎」を解くために、福音書と書簡中にはその「鍵」が与えられている。だが、実際にはそれがめったに用いられていないのも事実である。

      

    ■ 結 論

    終末論論争はたいていの場合、解釈の難しい聖書箇所を巡る重箱の隅をつつくような論議に終始したり、問題の定義づけが食い違っていることなどのために論点がぼやけてしまう。しかし、バーンセンが神学上の中心的・決定的な問題を定義してくれたために、終末論の問題に対し、聖書の教えからはっきりと答えを引き出すことができるようになったのである。解答が求められるべき問題は二つに絞られる。 義人の復活は歴史の一番最後に起こるのか。 福音は世に対して勝利するのか。ダニエルの預言、キリストのたとえ話、宣教大命令、ヨハネ福音書6章、ローマ書11章、第一コリント書15章をはじめ、その他多くの聖書箇所が両方の問いに対して「然り」と答えている。すなわち、終末論における三つの立場のうち、後説の解釈のみが聖書の証言と一致するのである。

    聖書中のさらに難解な預言の部分、特に黙示録などの解釈は、上記の問いとその解答に即してなされるべきである。もちろん、それだからと言って、自らの先入観に合わせるために非聖書的な「鋳型」に押し込むことも許されるものではない。本章では、キリストの教えとパウロ書簡の証言を見てきた。福音は世界を回心させる働きに成公し、復活も審判も共に歴史の最後に成就するのである。次章では、聖書的なアプローチをさらに踏まえつつ、終末に関するより難解な預言の解釈について考えなければならない。黙示録も後説の見解を示しているのだろうか。黙示録の象徴的な表現をどう解釈したらよいのだろうか。

    <注>

    1. Greg L. Bahnsen, "The Prima Facie Acceptability of Postmillennialism" in The Journal of Christian Reconstruction, Winter 1976-77, vol. 3, no. 2, pp. 64ff..
    2. 同書頁。
    3. Anthony A. Hoekema, The Bible and the Future, (Grand Rapids: Eerdmans, 1979), p. 174.
    4. "The Prima Facie Acceptability of Postmillennialism," p. 65.
    5. 当然ながら、福音が世界的に成公をおさめることを示す聖書的証拠によっても前説の立場は論駁され得る。バーンセンも指摘しているように、この二点はさらに、福音が成公するか否かという一つの問いに絞ることもできる。同書頁を参照。
    6. 無説を支持するフーケマが The Bible and the Future, pp. 202 ff. の中で、このイザヤ書の箇所をうまく解釈できていないことに注目いただきたい。ゲイリー・ノース (Gary North) は、この箇所が無説の観点からは解釈不能であることを明快に論証している。Millennialism and Social Theory (Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1990), pp. 98-106.
    7. 御国は人間ではなく神によってもたらされる、とは後説支持者の信ずるところであることに注目いただきたい。それは、教会を通じてなされる、まさに御霊の働きによるのである。チャールズ・・ライリー (Charles C. Ryrie) は、後説は御国の到来が人間の業によるものだとしているが、その批判は間違っている。 The Basis of the Premillennial Faith (Neptune, New Jersey: Loizeaux Brothers, 1953), pp. 13-14. 後説が語っているのは、自然の経過でもなければ、単なる人間の努力でもない。むしろ、超自然的な働きによる新生こそが御国の土台である、と主張しているのだ。神の御霊が世界を新生させてくださるのでなければ、再臨の前にしろ後にしろ、神の国が歴史上に実現することはない。
    8. 次を参照。 Kenneth J. Gentry Jr., "The Greatness of the Great Commission," in Gary North, ed., The Journal of Christian Reconstruction, Vol 7, No. 2, Winter, 1981 (Vallecito, California: Chalcedon, 1981), pp. 19-47; Gary DeMar and Peter J. Leithart, The Reduction of Christianity, (Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1988), pp. 178-85. 私はここで、宣教大命令に関連する約束を集中的に取り上げてきたが、宣教大命令には「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられているので、福音による世界征服の意味を含んでいることは見逃せない。一冊の書物で、宣教大命令を詳しく説明するものとしては、次を参照。 Kenneth J. Gentry Jr., The Greatness of the Great Commission (Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1990).
    9. 次の聖書箇所を参照。創26:3, 24, 28; 28:15, 20; 31:3; 39:2, 3, 21, 23; 48:21; 出3:12; 10:10; 18:19; 20:20; 民14:9; 16:3; 23:21; 申32:12; ヨシュア1:5, 9, 17; 3:7; 6:27; 22:31; 士1:19, 22; 6:12, 13, 16; ルツ2:4; 1サムエル3:19; 10:7; 14:7; 16:18; 17:37; 18:12, 14, 28; 20:13; 2サムエル7:3; 14:17; 1列1:37; 8:57; 11:38; 2列3:12; 10:15; 18:7; 1歴9:20; 17:2; 22:11, 16; 28:20; 2歴1:1; 13:12; 15:2, 9; 17:3; 19:11; 20:17; 36:23; エズラ1:3; 詩118:6, 7; イザヤ8:10; 41:10; 43:2, 5; 45:14; エレミヤ1:8, 19; 15:20; 20:11; 30:11; 42:11; 46:28; ゼパニヤ3:17; ハガイ1:13; 2:4; ゼカリヤ8:23; 10:5。新約聖書の次の箇所も参照。マタイ1:23; ルカ1:28; 使7:9; 10:38; 18:10; 2テサロニケ3:16; 2テモテ4:22; 黙21:3。
    10. 使13:47を参照。「なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである』」。
    11. 後説支持者は、イスラエルが救われるという旧新約聖書の約束が成就することを確かに信じている。それは読者も認めるところであろう。しかし福音の奥義には異邦人とユダヤ人がキリストにあって一つのからだとなる、という概念が含まれているのだ。
    12. 後説から見た歴史展開の順序についてさらに詳しくは、次を参照。North, Unconditional Surrender: God's Program for Victory (3rd ed., Tyler, Texas: Dominion Press, 1988), pp. 335-47. ローマ書11章に語られているイスラエルの未来の回心については、次を参照。David Chilton, Paradise Restored: A Biblical Theology of Dominion (Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1985), pp. 125-31. この聖書箇所を詳しく研究するには、 John Murray (New International Commentary)、Matthew Henry、Robert Haldane、Charles Hodge によるローマ書の注解書を参照。
    13. 次を参照。 North, Unconditional Surrender, pp. 309ff; Dominion and Common Grace (Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1987), pp. 65-68; Moses and Pharaoh: Dominion Religion versus Power Religion (Tyler, Texas: Institute for Christian Economics, 1985), pp. 158-172; Chilton, Paradise Restored, pp. 73-75; John Jefferson Davis, Christ's Victorious Kingdom (Grand Rapids: Baker, 1986), pp 49-52. これらのたとえの解釈を巡る論考についてさらに詳しく学びたい方は、無説の立場から書かれたものだが、次の文献も参照。 Herman Ridderbos, The Coming of the Kingdom (Philadelphia: Presbyterian and Reformed, 1962).
    14. このたとえが他のたとえを解く鍵であるという意味のことをキリストが言われていることにも留意 (マルコ4:13)。
    15. ここには、教会が会員に戒規を執行しないとか、すべきではないといった意味合いはない。むしろ、「信者のバプテスマ」を主張する教会であろうと、教会戒規が毒麦の混入を阻止できるほど完全なものにはなり得ないことを意味する。
    16. 契約期分割主義者は、ここに登場するパン種は他の箇所で悪の象徴として使われているので、ここでも悪の象徴に違いないと主張することが多い (マタイ16:6, 12; 1コリント5:6-9; ガラテヤ5:9を参照)。しかし、イエスは、「天の御国は、パン種のようなものです」 (マタイ13:33) とはっきり言っておられるし、この箇所全体は神の国の成長について語っている。ここに当てはまる解釈学の原則は、「何はともあれ、まずは文脈を読むべし」である。聖書の象徴におけるパン種についての詳論として、次を参照。 North, Moses and Pharaoh, pp. 158-76.
    17. マタイ16:18の正しい解釈とその黙示録との関係については、次を参照。 David Chilton, Days of Vengeance (Fort Worth, Texas: Dominion Press, 1987), pp. 313-14.
    18. 次を参照。 John F. Walvoord, The Millennial Kingdom (Grand Rapids: Zondervan, 1959), p. 288, ほか; Herman A. Hoyt, The End Times (Chicago: Moody Press, 1969), p. 88, 89, ほか、 Charles L. Feinberg, Millennialism (Chicago: Moody Press, [1936] 1980), p. 149, ほか.
    19. ジョン・・ウォルヴァードは、石が像の足元に落ちるという預言は未来に成就するという理解なので、それを除く像に関する預言は過去に成就したものと見ている。「像によってそれまでの歴史が非常に正確に描かれていることを考えると、石による破壊を含め、像のうちの足の段階はまだ未来にあり成就していないというのが理にかなった自然な結論である。」Daniel: The Key to Prophetic Revelation (Chicago: Moody Press, 1971). この「空白説」 (gap theory) の解釈だと、注解者はすねと足の間に少なくとも二千年の間隔を挿入しなければならなく、おかげで像はかなり不安定にもなる。しかし、そのような空白は文脈中には全く示されておらず、預言に出てくる他の帝国どうしの間にも空白はないため、極めて不自然な読み方になる。契約期分割主義の立場をとる人すべてがこの「空白説」を指示しているわけではないことも指摘されるべきであろう。次を参照。 Robert D. Culver, Daniel and the Latter Days (rev. ed., Chicago: Moody Press, 1977), pp. 118, 124ff.
    20. この箇所で、キリストが地上に戻って支配を行われることについて、ダニエルが何も語っていないということも興味深い。むしろ逆に、繰り返し強調されているのは、聖徒たちが支配することである (ダニエル7:18, 22, 27)。しかし、聖徒たちによる支配とは、キリストが聖徒たちの中におられて、彼らを通じて支配することにほかならない (ダニエル7:27参照)。
    キリストがここで雲に乗って行かれるのは神の御許であって地上ではないということにウォルヴァードは気付いていないようだ (同書166-70頁)。ウッドもまた、これがキリストの昇天への言及であるという可能性に気付いていないようである。Leon J. Wood, A Commentary on Daniel (Grand Rapids: Zondervan, 1973), pp. 192-94 を参照。契約期分割主義の注解書について言えることは、終末論に関する彼らの標準的な著作にも当てはまる。ダニエルが見たのは、イエスが昇天して神のところへ行かれる場面だということが、彼らには考え及ばなかったのである。次を参照。 J. Dwight Pentecost, Things to Come (Grand Rapids: Zondervan, 1972, 9th pr.), pp. 102, 318, 443, 479, 491, 497; Hoyt, The End Times, pp. 56, 59, 183, 184; Walvoord, The Millennial Kingdom, p. 267.
    21. 主の日と復活に関する非常に興味深い説明が次の文献にある。Chilton, Paradise Restored, pp. 133-48.
    22. 契約期分割主義者たちは、様々な区別を持ち出して、この箇所やそton, Paradise Restored, pp. 133-48.
    の他の箇所の平易で単純明快と思われる意味を否定する。しかし、契約期分割主義が裁きや復活を様々に区別する根拠は彼らの神学的前提にあるわけで、聖書箇所自体の正確な釈義によるものではない。彼らが主に論拠とするのは黙示録20章である。イエスとパウロの教えに様々な区別や違いを設ける考え方も、彼らの黙示録解釈が元になっていることに注目したい。黙示録20章の解釈を巡る詳論については、Chilton, Days of Vengeance を参照。最後の審判と復活に関する新約聖書の教えにおいて、契約期分割主義よりも後説の方が文字通りであることを示すもう一つの例を見ることができると思う。
    23. 1コリント15:23-28を巡って、前説と無・後説の解釈を比較する詳論がある。Geerhardus Vos, The Pauline Eschatology (Grand Rapids: Baker, [1930] 1979). Chilton, Paradise Restored, p. 145f. も参照。
    24. 使2:34-35を参照。ここではペテロもこの節に言及している。
    25. ペンテコストによる20-24節の詳論は、あたかも25-28節が存在しないかのように展開されている。しかし、「なぜなら」という意味のギリシャ語で始まる25節は、パウロがそこまでの箇所を解説したものである。無視することなど、まずできない。後に24-28節について論じられているが、あたかもその箇所が復活の話で始まってはいないかのような説明の仕方だ。 Pentecost, Things to Come, pp. 402-7, pp.492-94.

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