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    エペソ人への手紙1章3節 (B)


    私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

    95.03.19. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    天にあるすべての霊的祝福

    パウロは救いの祝福を三位一体なる神に感謝する。御父による救いの御計画 (1:3-6)、御子による救いの実行 (1:7-12)、そして御霊による救いの適用 (1:13-14) のゆえに捧げる感謝である。これら礼拝のための語群の中で、我々はキリスト教教理の最も深遠なる課題に直面する。それは3節の「すべての霊的祝福」という表現で始まる。聖書的な神学においてこれらの言葉を理解しないかぎり、我々は重要なキリスト教真理を見失うばかりでなく、しばしば過去において教会の特徴となった危険な誤解を招きかねない。「霊的」や「天」という言葉は、あたかもパウロが旧約聖書よりもむしろギリシャ哲学の観点から書いているかのように、「非物質的」という意味に解釈されてきた。これほど真理からかけ離れたことはない。

     

    「すべての聖霊の祝福」

    「霊的祝福」とは、「この世のものではない」祝福でもなければ、「非物質的」祝福でもない。「霊的祝福」とは、聖霊から与えられる祝福のことである。そこには古い契約の祝福との対比こそあれ、それはしばしば考えられているような「物質的・物理的繁栄」対「非物質的・“霊的”繁栄」という対比とは異なる。古い契約は、そのかしらであるアダムが物理的な地上に物理的な人間として創造されたという意味で血肉のものであった。それについて、先天的には何一つ悪でなかったし、アダムの有限性についても、彼の“血肉”と同様、罪を示唆したり、あるいは余儀なくさせたり、罪に導くということはなかった。だが、古い創造は、はじめから一時的なものとして意図されていた。それは、当初の目的が達成された時点で、過ぎ去るものとして造られた。アダムの堕落が神の御計画を無にしたわけではなかったのだ。始めの創造の物理的世界は、今なおその当初の創造の目標に向かって進みつつある。なぜなら、キリストが来られ、アダムが失敗したところにおいて成功をおさめられたからである。

    パウロはローマ書5章と第一コリント15章において、アダムとキリストの類似点・相異点について語るが、そこで彼は聖書的神学への一つの鍵を提示している。彼は人類の代表という神学を教える。最初のアダムは古い人類の父である。我々は物理的にはそのアダムの子孫だが、それ以上に大切なのは、我々が契約的に彼の子孫だという点である。古い契約は、その代表者を通してアダムに属する人類全体との間に結ばれたものであった。それは、最初の世界、神が創世記1章において創造された物理的世界の契約であった。アダムとその子らが神の創造の御計画を成就した時、そこには新しい世界が存在するはずであった。もともとの神の安息日は、人間に労働の後休むことを教えただけでなく、永遠の安息という7番目の日で終わる6日間の労働、という歴史観を彼らに与えたのである。

    もしアダムが神に従い、契約を守っていたなら、ある期間の後、人類の歴史的働きが終わるまで、彼はより高い地位に“上げられた”のではなかろうか。おそらく、1000年の労働の後、人間はキリストのように、そしてエノクもそうであったと思われるが、雲に乗って天に上げられたのではなかろうか (創世記5:24; 比較:エリヤ、列王記2:11)。いずれにせよ、最初の契約とその下にあった古い創造は、“血肉のもの”であり、また一時的であった。創造は、より高レベル、すなわち、より成長した原則である御霊の原則への発展を目的としていた。

    パウロは第一コリント15章において、血肉のからだは蒔かれて別なからだを持つものとなる種のようなものであると教え、この点を指摘する。これらの節は、新しい契約と新しい世界とを指して、人間の最初のからだは後に来る霊のからだという血肉の種であったことを明確にしている。新しい契約の新しい世界は霊的なものであり、つまり、神の御霊によって支配される。「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです」(1コリント15:45-46)。我々は、本当に“霊的な”復活のからだが与えられるまで、このことの意味するところを完全に知ることはない。しかし、我々は今すでに新しい世界の祝福の始まりを楽しんでいる。なぜなら、我々の契約の主キリストが天に入られ、御霊を我々の上に注ぎ出しておられるからである。

    旧約聖書は、メシアの時代の祝福の本質として御霊の賜物を預言した(イザヤ32:15以降;42:1以降;44:3以降;48:16; 59:19-21; 61:1以降;エゼキエル32:26以降;37:14; 39:29; ヨエル2:28以降)。バプテスマのヨハネが現われ、こう宣言した。「天の御国が近づいた」(マタイ3:2)。この宣言には、イエスが来られ、イスラエルに「聖霊と火」(マタイ3:11)でバプテスマを授けるというメッセージを含んでいた。復活の後にも、イエスは神の国について教えられ、弟子たちにエルサレムで「御父の約束」つまり神の御霊を受けることを待つようにと命じられた (使徒1:3-5)。ヨハネもまた、御霊についてイエスが栄光をお受けになった後ではじめて与えられる祝福として言及する (ヨハネ7:39)。新しい契約の主御自身が、サタンを打ち負かし、我々の贖いのために死なれることによって契約の祝福を獲得された時、死人のうちより甦られ、天に上られ、教会に新しい契約の祝福を賜わった。これが、「すべての霊的祝福」という言い方でパウロが言わんとしていたこと、すなわち新しい契約の祝福の全き充満である。神の御霊の賜物は、新しい時代における他のすべての賜物を包含する本質的な賜物なのである。

     

    天のところにて

    しかし、パウロはなぜ「天」について語るのだろうか。それは、天がこれらの霊的祝福の領域であるからだ。「初めに、神が天と地を創造した」。天は、地の模範、青写真となるべく創造された。地が暗く、形がなく、何もなかった時、神の御霊は天から降りてきて、その上を動いていた (創世記1:2)。6日間の創造の間、神は初めの未熟な状態に光、秩序、生き物を与えられた。青写真は、天的かつ霊的なものであった。この創造の物語は、パウロが第一コリント15章で教えているのと同じ真理、すなわち最初の世界は来たるべきさらに偉大なるものの種であったという真理を指し示している。

    天の世界は熟したものとして創造された。それは光の領域である。神の御栄光が完全に輝いているからだ(黙示録22:5参照)。また最初から完全な秩序と、多くの天使たちがいた。天使たちは、人間のように一組の夫婦から生まれ出て来た人種のようなものではない。彼らは全くグループとして創造され、一人ひとり、人種的な結び付きとは無関係である。彼らは、天の世界と同様に、誕生の時から十分成長していた。

    神は御自身をモーセに啓示された時、モーセが天幕の象徴的な表現において模倣するために、彼に天の模型を見せられた(ヘブル9:23参照)。ダビデは神殿の青写真を与えられ(1歴代誌28:19)、エゼキエルは神の栄光の雲の中に挙げられ、イスラエルの回復の契約の新しい象徴的神殿のための青写真を見せられた(エゼキエル1-3章; 40-48章)。我々もまた、「御心が天で行われるように、地にもなさせ給え」と祈る時、聖書的神学の基本的観点を反映しているのである。この祈りは、ただ単に「人間があなたの御旨を、天使らが行うのと同様に、完全に行うことができますように」という意味ではない。天は地の模範であり、その模範に整合できるよう祈ることを前提とする。聖書の最後の数章において、ヨハネは新しいエルサレムが「天から下って来る」のを見る(黙示録21:2)。

    イエスの昇天は、こうして、新しい契約の到来のために必須であった。御自分の天の御座に座され、イエスはここにいる我々に新しい世界の祝福を賜わるのである。だが、我々は契約的に“彼のうちにいる”ので、我々は天にいるとも言い得るのである。実に、これはエペソ書における特別なテーマの一つだ(1:3, 10, 18-20; 2:6; 3:10, 15; 4:10)。パウロはピリピ書において我々の国籍は天にあると言い(ピリピ3:20)、またヘブル書おいて我々には「天の召し」があり(ヘブル3:1)、我々は「天のエルサレム」に来たと述べる時(ヘブル12:22-23)、このことについて語っているのである。

    我々は神の天における民である。なぜなら我々は神の聖霊の民であるからだ。キリストにあって、我々はすでに新しい世界の祝福に入れられている。この祝福に対し、その意味するところの全き理解をもって感謝を捧げることにより、パウロは我々に救いについて教えるのである。彼はまた、我々が自分が何者であるかを学ぶことができるように、これらの祝福について神に感謝を捧げるよう教える。我々が新しい契約の祝福を神に感謝すればするほど、我々の生活はさらに新しい契約の義の模範へと変えられていくのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章3節 (A)

    エペソ人への手紙1章4〜5節

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