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    エペソ人への手紙2章9〜10節(A)


    行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

    95.07.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    良い行ないのための救い

    キリスト教について本当の理解を持つためには、「良い行ない」の意味が正確に定義され、理解されなければならない。「良い行ない」には広い意味合いが含まれているためだ。多くの重要な真理のうちのほんの一部であるが、救いと最後の裁き、倫理や歴史の哲学は、人の「良い行ない」についての見方と切っても切れない関係にある。どんな宗教や宗派にでも「良い行ないという概念とは何か」と問うてみれば、その哲学の核心そのものを理解する鍵を手にすることができよう。

     

    だれも誇ることのないため

    信仰による救いの教理は、頻繁にとは言わないが、不信者やキリスト教の異端によって借用されている。例えば、仏教の一部は阿弥陀に祈り、その名を呼ぶだけで救われると信じている。これは、中国に広まったキリスト教会から借りた教えである。この教えは、救いを民衆にも容易にするため、彼らの弱さへの救済策として発展していった。そういう意味では、これは人間の性善の主張でもあるわけだ。弱いとは言っても、人は救いに必要な一事を行なうことができる。それは仏陀の名を呼ぶことができる。この考え方において、人間の問題とは苦しみや弱さにあるのであって、罪にあるのではない。

    聖書では、信仰による救いという教えは単なる人間の弱さへの手助けということではない。むしろ人間が神を喜ばせることができることを根本的に否定するものだ。「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」というパウロのことばは、罪人には己の救いに対して何一つ貢献することは許されない、という意味である。罪人が神の御恵みの賜物を頂く時、彼らは神の御前で受け身でなければならず、他のいかなる態度も不敬なずうずうしさに他ならない。罪深い反抗者たちは御前に立ち仰せないのである。彼らは自らの義認のために神が功績と見做されるようなことは何一つ提供できないのだ。

    すぐに傲慢になるという人間の生来の傾向は、聖書中、特にパウロの書簡において、繰り返し叱責されている。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Iコリ4:7)。罪人は、神を拒み、自らの善行、働き、知恵を誇る傲慢な愚か者である。人間は、キリスト者になった後でも、彼らが今の自分となったのは神の御恵みのみによることを深くしっかりと教えられなければなない。実に、神は人間の中でも最も弱く、最も軽べつされている者を救い給う。「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Iコリ1:29)。

    そういうわけで、信仰による救いというキリスト教教理は、人間の全き罪深さの告白となる。人間は極端に歪んでいるため、救いようがないものなのだ。その罪は、いかなる人間的手段によってもその根を掘り出すことのできないほど深い。神に捧げる良い働きなど一切持ち合わせておらず、良い働きを神に捧げようと思っても、カインがそうであったように、そのようなささげ物は受け入れられないということを知らされるのである。

     

    神があらかじめ備えられた良い行ないのために

    しかし、聖書が良い行ないを否定するのは、実は良い行ないを肯定するためだ。良い行ないが否定されるのは、それが義認に対して全く貢献し得ないという意味においてのみである。御恵みによる救いとは、神が自ら率先し、ただ神のみが我々の罪からの解放に有効であられるという意味だ。しかし、罪と悪からの救いという救いの本質自体は、神の御恵みの結果としての良い行ないを要求するものである。神は我々が罪から良い行ないへと救うために御恵みを賜わるのである。この意味で、良い行ないは救いに不可欠である。良い行ないの欠けている者は御恵みによって救いに与ってはいないのである。

    これが、パウロがエペソ書2章9〜10節で語っていることである。パウロは、我々が救いを受けるに当たって何かの役割を果たしているということを熱心に否定する。「だれも誇ることのないためです」。しかし、パウロは同時に、我々が良い行ないをするために救い給う神の御恵みの素晴らしさを宣言することも求めてやまない。神を喜ばせることを何一つ行なうことのできない我々は、キリストによって再創造せられたのである。我々は倫理的に新しい者とされた。神が目を留めてくださる以前にはできなかったことが、今、神への愛とその御恵みへの感謝のささげものとして行なうことができるようにされている。「良い行ないをするために」造り変えられたことは、我々の救いの本質にあまりに重要で欠かせないものであるため、パウロはこう加えている。「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」。

    義認の教理における良い行ないの絶対的否定は、聖化の教理における良い行ないの絶対的要求に論理的につながっている。それは、聖なる神の御恵みによる罪からの救いとして救いを捉えるキリスト教の概念によってつながっている。神の聖さが我々の腐敗した行ないを御前で受け入れる根拠として許容することなどできないのと同様に、その全き聖さにおいて、神はただ単に我々の罪を赦すという救いのご計画を立て給うこともあり得なかった。御恵みによる救いは、神がどのようなお方であるかということのゆえに、良い行ないをするための救いでなければならないのだ。

     

    良い行ないとは何か

    ここで良い行ないの定義をしておくことは大切だ。そうすれば、我々がどのような歩み方をするよう神が召しておられるのかをはっきりと知ることができる。良い行ないとは、1) その動機、2) 内容、3) 目的が聖書に従うものである時、良いものとなる。換言すれば、行ないが良いものとなるには、それが1) 神と隣人を愛する愛によって動機づけられており、2) 聖書の義について教えに一致し、3) 神のご栄光が現され、御国が広められるためになされなければならない。この三点はすべて、行ないが真に良いものとなるために欠くことのできないものである。

    キリストを信じていなくても、人間が表面的には聖書の良い行ないの基準に合ったことを多く行なうこともある。それができるのは、神の御霊が非キリスト者の間でも働いて、罪を犯さぬよう彼らを制限し、社会的に良い行ないができるよう導いて下さるためである (もしそうでなければ、歴史は神に対する反逆と人間に対する憎悪という、まさに地獄の入口とも言うべき完全な混沌状態に陥るだろう)。しかし、悔い改めていない罪人ができないことは、神と隣人を愛することである。それゆえ、良いことをしようとする目的は、神の御国を建て上げるためという目的には決してならないのである。

    キリストにある正しい動機と目的が与えられたなら、我々は実際何を為すべきであろうか。それは神の御国を求めることである。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ6:33)。我々はキリスト者だけが果たすことのできる特別な働きと同様に、日常生活においても御国と義を求めている。キリスト者も他の人々と同じように食べたり寝たりしなければならないが、同時に他の人々とは違って、それすらも神のご栄光のためにするのである。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、のむにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(1コリ10:31)。我々が職場で働いたり、家を片付けたり、学校で勉強したり、また政治指導者の選挙に参加したりすることは、モーセの時代の祭司たちの働きに劣らず聖なることとされているのである。我々は、その為すところのすべてにおいてご栄光のために生きるよう召された神の祭司であるからだ。

    ところで、もう一つ気を付けて確認しておくべきことは、我々が、周りにいる不信者の生活には全く見られない、キリスト者ならではの良い行ないというものにも召されているという点だ。我々は家庭において、また教会において神を礼拝するという召しが与えられており、それは我々キリスト者の信仰の中心である。また、我々の周りを取り囲む非キリスト者の世界に福音を宣べ伝え、祈りと我々自身の義なる生活という模範をもって彼らの救いを求めるという召しをも賜わっている。アルミニアン派の教会は時折、伝道を強調し過ぎて、伝道は良い行ないで日常生活は世的なことであるというふうに、キリスト者の生活を二分してしまうことがある。一方、カルヴァン派は時折、キリストにある日常生活の聖さを強調し過ぎて、失われた世界の救いを求めて何かをするということがほとんど見られないことがある。しかし、千年王国後説の改革派は、我々の働きが祝福され、世界が救われるという神の保証を携えているのであるから、証しにおいても熱心な者とならなければならない。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙2章4〜10節

    エペソ人への手紙2章9〜10節 (B)

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