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    エペソ人への手紙4章15〜16節


    ・・・むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

    95.12.03 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    真理を語り、教会を建て上げる

    我々はとうとうパウロの教会に関する教えの頂点にまでやって来た。成長し、実を結ぶ教会というその教えは、まず何よりも普遍的教会に当てはまるものだが、この真理が地域教会に適用されることによってのみ普遍的教会はその具体的な意味を徐々に実現することができる。パウロのこの箇所における教えは、我々の地域教会のビジョンや、そのような教会をいかにして建て上げられるかという方向性を与えてくれる。

    真理を語るとは

    ここでギリシャ語の alhyeuontev という言葉の翻訳に若干の難しさがある。ジェームズ王欽定訳 (King James Version) はこの動詞を「真理を語る」と訳している。米標準訳 (American Standard Version)、新米標準訳 (New American Standard Version)、米改訂標準訳 (Revised Standard Version)、新米改訂標準訳 (New Revised Standard Version)、そして新国際訳新約聖書 (the New International Version)も同様であるが、ダービー訳聖書 (Darby Version) とウェイマス訳聖書 (Weymouth Version) は「真理を守る」と訳し、ヤング直訳聖書 (Young's Literal Translation) はそれを「忠実である」と訳す。新約聖書の註解者ヘンドリクセンも、とりわけダービーやウェイマスに近い訳の方を好ましいと考える。

    このギリシャ語の言葉が文脈によっては真理を「行う」とか「守る」という意味になることはあるだろうが、伝統的でより一般的な翻訳の方が正しいと思われる。この箇所の文脈において、パウロは神学的に11節に戻っているのである。パウロの教会に関するビジョンの構造が15節の翻訳の助けとなるのだ。パウロはまず、使徒、預言者、伝道者、牧師による神の御言葉の宣言をもって始める (11節) 。次にパウロは、教会員は御言葉に従い、神に仕える、と言う(12節)。このことは、信仰と知識の一致、真の理解へと導く信仰と従順をもたらす (13a節)。信仰と知識の一致は成長へと導くものだ (13b節)。このことは、聖徒たちが悪魔によって容易くだまされることはあり得ないということである (14節)。聖徒たちは互いに神の御言葉を語り、信仰にあって互いに築き合うことができるほどに成長する(15-16節)。この発展の最後に、聖徒たちが使徒たちや他の教師らが自分たちにしてくれたこと、すなわち「愛をもって真理を語る」ことを今度は互いのために行うという段階に到達する。聖徒たちは、愛をもって真理を語り、奉仕の働き、すなわち「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力」(16b節) のために互いを建て上げるのである。そしてその働きはさらに「成長して、愛のうちに建てられる」(16c節) に至るのだ。
    この箇所の構造についての私の理解が正しいのであれば、この文脈における「真理を語る」という訳はほぼ正しいと言えるだろう。

    みなが教師

    これは非常に多くのことを意味する。神の聖徒は、成長した知的な信者であって、かつて彼らに教えた使徒、預言者、伝道者、長老たちのように、互いに教え合うことができるはずなのだ。我々は以前にも聖徒たちの働きに関する議論の中でこのことに着目した。パウロはローマ人たちにこう書いている。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています」(ロマ15:14)。コロサイ人にも同じ要点を語っている。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(コロ3:16)。

    これはキリスト者は全員教会の中で教師職を持つという意味ではない (参照:1コリ12:29; ガラ6:6)。しかし、地域教会の交わりに相互の訓戒が含まれることを意味している。もし教会員全員がその信仰を日常生活に適用することを真剣に求めるならば、各々が他の者を教えることのできる大切な教訓を学ぶことになる。もし我々が皆、それぞれの働きの領域に神の御言葉を適用することを学んでいるのなら、それが生化学であろうと、大工仕事であろうと、ビジネスあるいは家事であろうと、我々は皆、神とその世界について学んでおり、他の者たちに自分たちが学んだことを教えることができるようになるのだ。神の真理は一致しており、すべてが互いに関連している。一人の母親が家庭において直面する問題に神の御言葉を適用しようとすることによって学ぶことができる事柄は、脳外科医が神の御言葉を仕事に適用することから学ぶ事柄と多くの点で共通する。その交わりにおいて、彼らは神の御言葉の理解において互いに助け合うことができるはずである。

    真理のすべてを学ぶことのできる牧師また教師は一人もいない。やがて会衆の中から、異なった分野を専門にしている教会員や、経験から知恵を得た人物が、生活の特定の領域に神の御言葉をいかに適用すべきかを牧師よりもよく教えることができるようになるかもしれない。少なくとも、彼らは牧師には供給できない貴重な洞察を提供することができるだろう。教会はその各部位が特別な貢献をすることができる一つのからだなのである。

    成長した教会

    聖徒たちがもはや容易くだまされることがなく、キリストのからだを建て上げる働きのために互いを建て上げるよう教え合うことができるようになるとき、地域教会は新たな地域教会を生みだすことができる段階に達していると言える。地域教会は教師から教えられるだけでなく、教師たちの母ともならなければならない。理想的には、成長した教会は各世代に数多くの教師たち、今の長老たちを引き継ぐ者や他の諸教会を開拓するために送り出す人材を生みだすことができるべきである。例えば、我々の教会においてこれがどういう意味をなすかと言うと、次世代に各長老の後を継ぐ者と新たな開拓を行う者とを合わせた四人の教師を少なくとも生みだすことができるはずである。50人の子供たちがいるのだから、たった四人の教師だけでなくさらに多くを生みだすこともできるはずだ。

    各地域教会が自分たちの教師たちと福音を広める教師たちとを供給することができれば、神の御言葉は世界中に成長し、広まっていく。これはパウロのビジョンであり、我々のビジョンともならなければならないものだ。否、ビジョンのみならず、我々の祈りともならなければならない。「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタ9:37-38)。

    成長

    パウロは実にこの箇所において成長するということに顕著な強調を置く。12節でキリストのからだを建て上げ、13節でキリストの満ち満ちた身たけにまで達し、14節でもはや子供ではなく、15節であらゆる点において成長し、16節においてからだの成長と愛をもってからだを建て上げることについて語っている。要するに、教会についてのパウロのビジョンのあらゆる側面が成長という概念を含んでいるのだ。成長を求めていないキリスト者は、事実上、信仰を否定したのである。聖さにおける成長、知識、知恵、愛は、付加的なものではない。それらは、この世においても、また後に来る世においても、キリスト者であるということの意味に不可欠なものである。

    あらゆる種類の成長は、現実において神御自身を求めることの一側面である。神は真理であられ、また聖さであられ、また愛であられる。我々の求めるもので、三位一体なる神のうちに見いだされないものは何一つない。神は知恵と栄光と美とにおいて無限であり給うゆえ、たとえ我々が永遠に神について学び、神と交わりを持っても、神の知識の完全さの富を使い果たすことなど決してできないのである。被造物にとって知恵と義における成長は、我々の創造主の栄光をよりよく知るように学ぶということにほかならないのだ。

    このことは強調されねばならない。キリスト教世界観は極めて人格的なものなのである。神御自身がすべてのものの中心であられる。神の似姿としての人間は神の御栄光を反映し、神を永遠に喜ぶのである。キリスト者のものの見方において、文学であろうと料理、コンピュータ・サイエンス、また経済学であろうと、知識における成長が抽象的な探求となることはあり得ないのである。それは常に神御自身と関わっており、また常に日常生活において我々のする行いと我々が語る言葉とに関わっている。

    このようなわけで、成長することを熱心に求めることはキリスト者にとって当然なことである。自分たちがすでに達したところで満足してしまうことは、歪曲であり、死んだ信仰である。普通のキリスト者が祈りと御言葉の学びによって、キリストへの従順と礼拝とによって成長を求めるとき、彼らは神によって祝福され、成長し、増えて、実を結ぶ教会という大いなるビジョンの一端を担うようになるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章14〜15節

    エペソ人への手紙4章17〜19節

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