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    エペソ人への手紙6章10〜11節


    終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

    96.03.31. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    悪魔との戦い

     

    「あいつの心の中に、わずかでもお前が存在するのではないかという思いが起きてきたら、赤いタイツをはいている絵を思い付かせて、こんなものは信じられない、とあいつに納得させるのだ (これは連中を惑わすやり方として昔から教科書に出ているものだ)。そうすればあいつはお前の存在を信じられなくなる」。これはC・S・ルイス (C. S. Lewis) のThe Screwtape Letters (『悪魔の手紙』) に出てくる、悪霊の親玉から下っ端へのアドバイスだ。悪魔にとって、人間が彼らの存在を信じないか、または少なくともその存在を真剣に受け取らない方が好都合な場合が多いのだ。ルイスが指摘しているように、こうすれば直に恐怖を感じさせる機会は減るが、同時に人間を霊的世界から遠ざけることができる。惑わす者の側から見れば、人間が悪霊の存在を信じると、それが超自然界の存在を信じることにつながり、容易く神の助けを求めることになってしまう危険性があるのだ。

    皮肉なことに、非キリスト者が悪魔をも含めた超自然的事柄について興味を増している時代でも、キリスト者は霊的戦いという現実に対して余りに鈍感であることが多い。優れた知性と力を持ち、神の御国と我々の魂の破壊を求める人格を持つ霊的存在に対して戦っていることを我々は忘れてしまうのだ。

    文脈の中での霊的戦い

    パウロは新しい人を着るようにとエペソ人に命じた後 (4:24)、彼らの状況に十戒のうち第五戒から第九戒を適用することによって新しい人の生活とはいかなるものかを詳しく述べる (4:25-6:9)。長い説明を伴うこの倫理の教えは、文脈の中で悪魔に対して戦うために神の武器を身につけよという命令に直につながっている。このように二つの教えが並んでいるのは意図的なものだ。パウロがここで語っているのはこういうことだ。我々は倫理的に新しい者となり成長するために努力しなければならないが、その努力は人間的なことだけではない。心や生活の古い習慣と戦ったり、回りの世界からの圧力に抵抗するだけのように見えるかもしれないが、その見方自体はいかに真実であろうと、この戦いにはそれ以上のものがあるのだ。我々の実際の戦いはサタンと悪霊の軍勢に対するものなのである。

    そのような戦いについての無知と、サタンに関する真理を無視することから生じる問題は小さくはない。戦いの本質、敵は誰か、あるいは戦いの目的について間違った不十分な知識しか持たないならよく戦うことはできない。実に、多くのキリスト者が戦いの存在すらほとんど知らず、わかっていても戦う領域を間違えたり、間違った武器で戦っていることも稀ではない。それゆえ、霊的戦いは注意を是非とも必要とする課題だと言えよう。

    サタンとは何者か

    ここでサタンとは何者かを思い起こしたい。サタンはもともと天使たちの中で最も偉大なものとして創造された。ところが、彼は神に逆らい、神の御国に敵対する者たちの中心的存在となった (参照:イザ4:12以下; エゼ28:12-17)。それで、どれほど力があり、また知的であろうと、悪霊は単なる被造物に過ぎない。我々が自分の思いを露呈しない限り (よくやることだが) 、悪魔がそれを知ることはない。悪霊が人をある程度まで占拠しているように見えるとき、悪魔や悪霊が非キリスト者にとりついていることはあり得るが、キリストは悪霊につかれた人々を救い出すことがおできになり、また事実そうされるのである。

    サタンも悪霊も被造物ゆえに限界を持つ。サタンは全ての人間を知っているわけではなく、全ての人に直面することもできない。サタンは複数の場所に同時に偏在することもできない。また新しい契約の到来がこの世における悪魔の働きの許容範囲をさらに制限した。福音派の一部の人々の考えに反して、今はサタンが最も盛んに働いている時代ではない。そのような時代は十字架以前の時代であった。罪、死、悪魔に対するキリストの勝利以来、悪魔とその軍勢の活動は大幅に縮小されたのだ (参照:默20:1-3; ルカ10:17-20)。その上、我々がキリストの名によって立ち向かいさえすれば、悪魔を打ち負かすことができると保証されているのである。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。

    悪魔の策略

    パウロは言う。我々は悪魔の策略に対して立ち向かわなければならない。ここで使われているギリシャ語から英語の method という言葉が派生した。サタンは独自のやり方を持つ。それを知ることは我々の戦いにとって不可欠だ。それらを全て合わせると多種多様な戦略となるが、だますこと、恐怖、誘惑、と大きく三項目にまとめることができる。

    悪魔について、キリストは「偽り者であり、また偽りの父である」と言われた (ヨハ8:44)。我々の最初の祖先に対する悪魔の最初の言葉は偽りであったし、それ以来彼のコミュニケーションの基本方針は変わっていない。サタンが人をだます力は非常に大きい。パウロはテサロニケ人にそれを教えている。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです」(2テサ2:9-10)。

    最初の偽りは、そこに含まれている意味は複雑であったが、人間に対する神の愛の否定にほかならなかった。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(創3:1)。「何だって?神はそれほど偉大な祝福をあなたがたに対して拒まれたのですか。なぜ神はそれほどケチ になり得たのでしょう」。悪魔の行なう中傷は、人間に対する神の啓示や、また神の創造主としての権威を否定することと関わっている。この最初の偽りの現代版は進化論だ。進化論は、最初の偽りと同様、神を創造主として否定するだけでなく、この世の主、裁き主としても排斥する。罪人は、サタンと同様、神に対する責任を持たない世界が欲しい。全てのサタン的偽りは、人間を神から解放することを目的としており、そういう意味で罪人が望むものを、それ以上でも以下でもなく、提供するのである。

    恐怖はまた別の問題だ。サタンは死に対する恐怖を通し人間を束縛する (ヘブ2:14-15)。この意味で、彼は人間の望むものを提供せず、彼らを恐怖によって支配するのである。サタンの王国において、これは必須だ。サタンは限りある存在である。彼はこの世の中の全てのことを知ってはおらず、知ることもできない。彼が支配を保持できる唯一の方法は、悪霊たちからなる官僚制度による。が、彼は悪霊である同胞たちを愛によって動かすことはできない。あるいはまた、この世で自分を崇拝する人間たちの心に愛をもって訴えることもできない。力、暴力によって保持される力のみが唯一のアピールなのだ。主イエスは、迫害に直面する際に受ける信仰を否定する誘惑について我々に警告された。そして、実に11人の弟子たち全員が、キリストが裏切られた晩、恐怖の力の前に倒れたのである。

    サタンの第三のやり方はこの世の誘惑だ。つまり、肉の欲、目の欲、この世的傲慢である。この世の中には祝福の数だけこの種の誘惑の形もある。その一つ一つは神からの賜物を歪めたものであるからだ。創造においてそれ自体で何一つ悪いものはなかった。悪は物事の中に内在するものではない。全ては神によって造られ良しとされた。しかし、アルコールはそれを偶像として選ぶ者にとっては神 (実際は悪魔であるが) になり得る。素晴らしい家、衣服、ダイアモンド、金――これらは全て我々は天で楽しむことになる。これらは神の賜る祝福であるため、神の与え給うた状況と責任の範囲内で求められるべきだ。我々は神を愛する以上にそれらを愛すべきではない。それこそ悪魔的誘惑である。悪魔がそれらを我々に勧めるとき、我々の神かつ王である方を喜び、礼拝するためではない。却ってそのもの自体を目的とし、また自分の栄光とする手段として差し出すのである。

    このように、サタンはマキアベリ (Machiavelli) の真の弟子である。偽り、偽り、そして偽り;好ましい事柄の約束、そして時にはそのようなものの授与;恐怖、死、拷問と苦痛――これらは彼の思い通りにするための道具だ。しかし、神はサタンの攻撃に立ち向かうための武器を与えて下さった。おそらく、その中で最も根本的なものは、神がキリストにあって我々に与え給うた御恵みに対する神への真心からの感謝である (参照:ロマ1:18-32)。神への感謝は、神からの賜物の偶像化を防いでくれる。感謝に満ちているとき、我々は多くを持てば持つほど神をほめたたえるのである。感謝は 我々を偽りから守る。それは感謝が神の無限に豊かな愛という真理を土台としているからだ。感謝は我々を恐怖から救い出してくれる。それは全ての感謝がキリストの十字架上の救いのみわざに根ざしているからだ。そのみわざによって、死の力は砕かれ、我々は永遠の命を与えられたのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙6章5〜9節

    エペソ人への手紙6章12〜17節

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