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    エペソ人への手紙6章12〜17節


    私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大楯を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

    96.04.07. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    地獄との戦いのために与えられた天からの武器

     

    すべての世界観は、その世界のうちにある悪についての説明を持たなければならない。たとえその説明が、その世界に悪が存在することを単に否定するというものであったとしても、そうである。飢饉、病い、地震、その他のいわゆる自然災害については、キリスト者でない諸世界観にとっても比較的取り扱いやすい。これらの自然災害は偶然であり、母なる自然は全く合理的であるというわけではない、という主張だ。ところが、大量殺戮などはそうではない。ナチスについて何を言うのか、あるいはスターリンや毛沢東の共産主義政府についてはどうか。ヒットラー、スターリン、毛沢東は正確な数を出せないほど多くの人々を虐殺した。スターリンと毛沢東はその数において今まで彼らの敵国から負わされた損害を遥かに上回る人数の自国民を殺害したのである。

    なぜこの世には戦争や殺人が存在するのか。キリスト者は、人間は全く合理的であるというわけではないからだ、と答える。キリストの外にいる人間はサタンと罪との奴隷である。罪深い人間は自分自身およびキリスト者との戦争状態にある。彼は神との戦争状態にあるからだ。一方、キリスト者は、単に表面的な意味においてのみ罪人と戦争状態にある。非キリスト者は本当の敵ではない。実に、非キリスト者世界との戦いにおいて、我々は敵が味方となるようにという希望をもって戦うのである。非キリスト者はしばしば (とは言っても十分頻繁にではないが) 敵味方の立場を変える。ところが、サタンはそうではない。サタンこそ我々の本当の敵なのだ。人間の哲学、あるいは人間の作った宗教に対する戦いであるかのように見えるものは、実際は超自然的な敵に対する戦いなのだ。そして、キリストが決定的に勝利をもたらされたこの戦いを終結させるのに必要な武器を神は我々に与え給うたのである。

    血肉に対するものではなく

    パウロ曰く「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペ6:12)。人間に対する戦いのように見えるものは、実際には彼らの背後にある諸々の力に対する戦いなのだ。即ちサタンと悪霊の軍勢である。この戦いは全歴史を通して続いている。サタンと邪悪な天使たちは、歴史の終わりまで最後の裁きに直面することはないからだ (默20:10) 。

    キリスト者にとって、これはこの世に生きる限り問題や試練は当然やって来るという意味になる。戦争とは死傷者を出すことが避けられない事態である。それは、問題が例外なのではなく寧ろ普通であるという異常な事態だ。それゆえ我々は、戦いの中で困難に出会ったり、痛みや苦しみに直面したり、傷を負う経験をしたり死に直面することを覚悟すべきなのである。

    このことは、敵がサタンであることを考えるとき、ますますその通りである。サタンに勝ち目は全くない。サタンは自分がすでに敗北した敵であることを知っているがゆえに、悪意から戦っているのだ。サタンの唯一の動機は、割り当てられた時間内でできるだけ多くの害を加えることなのだ。憎しみと破壊欲によって支配されながら、ある意味でサタンは容易な戦いをしている。彼がやらなければならないのは破壊のみであり、それは建て上げることと比べれば、あまり多くの計画や強い決意、多くの働きや時間を要しない。うまく据えられた一個の爆弾が、何年もかけてきた計画や働きをわずか数秒で無に帰することができるのと同様に、サタンの誘惑は地域教会の土台を崩し、何年も自己を犠牲にして費やしてきた労力を打ち砕くことができるのである。

    すべての武具を身に着けよ

    しかし、もしサタンの戦いがある観点から容易だと言えるのなら、我々の戦いについてもまたそう言える。我々は結局、掃討 (最後の仕上げ) を行なっているに過ぎない。本物の戦いはキリストがすでに戦って勝利をとられた。キリストは十字架上で、罪と死、サタンとその軍勢に打ち勝たれたのだ。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロ2:15)。

    キリストが本物の戦いに勝利されただけでなく、神は我々がサタンと戦うのに必要な武器をも与え給うた。武器が神御自身から来ているという事実は、これらの武器が敵なる悪魔を打ち負かすのに有効であることの保証である。唯一の問題は我々がそれらを正しく用いるか否かだ。もし神のすべての武具を身に着けるなら、我々は最も困難な日に際しても立つことができる、とパウロは言う。「邪悪な日に際して対抗できるように」(エペ6:13a)。

    真理、正義、平和の福音は、我々の武器の客観的部分であると思われる。神の御言葉の真理は、我々を守り支える。それによって我々が敵に対して立つことができるためだ。信仰によって我々に転嫁されたキリストの義は、我々が神の御前に立つための客観的土台であり、罪が許されたということと、神が我々を受け入れて下さったことの我々が持つ唯一の確信である。平和の福音は、我々に平和をもたらし、それを聞いて信じるすべての者に平和をもたらすメッセージである。我々は平和のために戦い、平和を広げるために戦い、我々を敵と見なす人々に対しても平和を与えるために戦う。救いのかぶとは、救いの主観的な保証を指しているかもしれないが、救いそのものは我々を悪い者から守る客観的事実である。我々の攻撃のための武器である御霊の剣もまた客観的武器であり、それを正しく理解して使っているか否かは別としても、我々が使うために与えられている。

    我々が思いのままに使うことのできる客観的武器は重要だ。サタンはそれらに触れることはできないからだ。自分の信仰或いは忠実さにより頼むだけ、我々の立場は危機に晒される。なぜなら、我々の信仰も忠実さもさほど感心できるものではないからだ。しかし、神の御言葉の客観的真理、キリストの義、人間に平和と救いをもたらす福音、これらは変わり得ないものである。サタンはこれらのものに害を加える武器は持っていない。

    それだからと言って、客観的武器は信仰から離れて孤立し得るという意味ではない。我々の大盾であり武器であるこの信仰によって、我々は他のすべての武器を手にするのである。信仰がなければ、我々のすべての努力はむなしい。信仰はこの世に打ち勝つ勝利である。それは、信仰を持ったという功績や、信仰が強いからということによってではなく、信仰が神の全能が吹き込まれた武器をつかまえる手であるからだ。信仰によって我々の武器のすべてを持てば、神とその御国のために堅く立つことができるのだ。

    戦いと歴史

    エペソ書のこの箇所は、有名なジョン・バンヤン (John Bunyan) による寓話『聖戦』も含め、霊的な戦いについての数多くの書物の土台となっているところだ。バンヤンの本や、この手の文学のすべてと言わないまでもそのほとんどが、戦いが個人のもので、たいていの場合が内的なものであることを前提としている。これらの書物は、まるで社会変革や文化的問題は霊的戦いというパウロのビジョンには含まれていないかのように、それらの事柄をおろそかにしている。この箇所におけるパウロの教えが個人に向けられていることは事実だ。集団で武器を着けることはできない。しかし、この教えは、キリストの一つのからだは教会の中の個々人から成るということを強調する文脈の中で地域教会に宛てられている。パウロは、霊的戦いについて論じ始めたとたん、自分が教会に関して語ったことを忘れてしまったわけではないことは確かだ。

    十戒、結婚と家庭、主従関係についてのパウロの教えはみな、事の性質上、個人的であると同様に社会的でもある。我々のサタンとの戦いは包括的なものだ。それだから、キリスト者は内的、また外的に、また個人として、また集団として戦うのである。

    霊的戦いは自分自身から始まるものであり、それは自分の心の中の罪との戦いであるということは真理であって、強調してもし過ぎることはない。社会変革や政治から始めることは、それを全く無視する以上に大きな間違いである。人間はその内側が変われば外側も変わるというのが事の真相であるからだ。キリスト教ははっきりと世界の変革を求めている。サタンの敗北には、我々が神の栄光を表す世界文化を築き上げることは不可欠なのである。しかし、真の勝利の始まりと文化における我々の成長の土台とは、我々一人ひとりの内に福音が勝利することである。我々がキリストにあって成長するとき、この世におけるいかなる力も、我々を通して広がる福音の勝利を妨げることはできない。真の内的勝利は、内側だけにとどめておくことは決してできないものなのだ。

    サタンと罪に対するキリストの勝利が完全であったがゆえに、この勝利を歴史の中で包括的に適用していくことを祈り、また求めることが我々の責任なのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙6章10〜11節

    エペソ人への手紙6章12〜20節

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