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    ローマ人への手紙1章5〜7節


    1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。そ れは、御名の為にあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

    1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、

    1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

    98.06.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    ローマへの宣教

    1章5〜7節

    このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名の為にあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

       働きを見ればその宣教師がわかる。少なくともそうあるべきである。パウロの場合は、まさにそのとおりであった。1章1〜7節までの全体的な流れをもう一度要約してみよう。パウロは、1節で自分を紹介する。普通の昔のギリシャ式の手紙の挨拶であれば、「パウロから、ローマの人々へ、恵みがあるように」という短いものである筈だが、パウロはそれをクリスチャンらしいものに本質的に変えている。1節から6節までのすべてが「パウロから」という言葉につながっていて、パウロを説明している。自分を紹介するとき、パウロは自分を中心に話してはいない。神から与えられた使命、働き、その働きの内容について話しているのである。パウロは、召された使徒としてこの手紙を書いている。

       まず1節の後半から4節までのところでは、福音とは主イエス・キリストに関することなのだと宣言して、福音の本質に焦点をあてている。使徒の働きの中心は主イエス・キリストである。次に5節〜6節で、この手紙を書く理由とローマ訪問計画の理由を同時に示す言い方で、使徒職への召命に焦点を当てる。パウロは「この福音のために、私は使徒として召された」と言っている。4節の後半で「私たちの主イエス・キリスト」という話に戻って、5節で「この御方によって、私たちは使徒とされた」という。つまり、1節に「使徒」であるとあり、5節で「使徒」であるというところに戻っているのである。そして、最初のテーマから二番目のテーマに移行するのに「私たちの主イエス・キリスト」という言葉で一旦結んでから、それを「このキリストによって」という言葉につなげて、1節の使徒職の話に戻るのである。

       その中でパウロは、使徒となった目的は何なのかを説明する。自分は、異邦人に福音を伝えるために使徒に選ばれたのだ、と言う。「だからこそ、ローマにいるあなたがたに、この手紙を書かなければならないのだ」と言っているわけである。そのような論理的なつながりがパウロの挨拶の中にある。「私は異邦人に福音を伝えるために選び分けられた使徒であるが、あなたがたはその異邦人の中にある...」と説明しているわけである。それから、7節に入って「ローマの教会へ」と言ってから、「恵みがありますように」といって挨拶の言葉に戻っている。

       つまり、1節から6節までのところで、パウロは自分について語る中で、福音とは何なのか、使徒としての働きとは何なのか、なぜローマにいるあなたがたにこの手紙を書かなければならないのか、ということをローマの教会に説明しているのである。全体が、キリストのしもべとしての自分の働きの説明である。そういうわけで、1節から6節までは、ローマ人への手紙全体の意味を非常に短く、そして深く紹介するものとなっている。それで、最初の所を読む時に、ローマの教会に対するパウロの重荷を感じさせられる。使徒としてパウロは、神の御前で、この使命と責任に対する深い認識を持って、この手紙をローマの教会のために、そして私たちのために書いているのである。パウロの意図はこの挨拶を読めば明らかだと思う。

     

    使徒職への召命の本質と目的

       今日は、5節から7節のところを見たい。ここにはいろいろな大切で興味深い表現が出てくる。5節で「この方によって(原語ではキリストの名前ではなくて代名詞が使われている)、私たちは恵みと使徒の務めを受けた」と言っている。既に言ったように、前の主題から5節以降の主題に移行する連結語が「主イエス・キリスト」である。パウロは再び「この方によって」と、話の中心にキリストを持ってきて再び「使徒」の説明に戻っている。ここに「私たち」という複数形が使われているが、この言い方は他の人達をも含めているわけではない。パウロは、相変わらず自分について話している。むしろ、この言い方は、正式に自分について話す言い方なのである。

       そして、「恵みと使徒の務め」という言い方が出てくる。「恵み」という言葉は新約聖書に優に100回以上も出てくるが、普通は救いの恵みを指している。しかし、例えば12章6節で「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので」と書いているように(12章3節、15章15節も参照)、「恵み」は、クリスチャンたちに与えられた特別な賜物や責任についても使われている。この5節の「恵み」の意味もそれと同じ意味に使われていると思われる。そうであれば、ここは「使徒の務めという恵みを受けた」と訳すべきであり、二詞一意(hendiadys :「形容詞+名詞」または「福祉+形容詞」の代りに二つの名詞または形容詞を "and" で結んで表わす表現法)として読むべきである。

       神に仕えるあらゆる機会が祝福であり恵みであるならば、使徒の務めは、パウロが何よりも大事にしている神からの特別な恵みの豊かな表れなのである。自分に与えられたこの務めは神から与えられた特別な恵みであることを覚えつつ、パウロはこの手紙を書いている。自分の生涯の働きとして実を結ぶこの責任は、神からの特別な恵みであり、祝福なのだと考えているのである。祝福と責任を一つにして考えているのである。それを言う時に、こんどは、何のためにこの特別な働き、特別な恵みが与えられたのかということを説明するのは自然なつながりである。何のために、この特別な働きがパウロに与えられたのか。その事を話す時に、こんどは、どうしてローマにいるクリスチャンに手紙を書かなければならないのか、という説明をしなければならない。

       使徒職の祝福は「御名のために、あらゆる国の人々の中に、信仰の従順をもたらす」という明確な目的をもって与えられている。この三つの文節はすべて重要であって一つも欠けてはならないものである。日本語訳は原語と言葉の順番が逆になっている。ここでは原語の順に従って説明したい。まず、「信仰の従順」が最初に来る。救いについて語る時に、パウロはまず「信仰の従順」という非常に興味深い表現を用いている。「信仰の従順」という言い方は、日本語でも英語でもやや曖昧なところがある。しかし、この言い方は、真の救いの特徴を指していることは明白である。

       「信仰」と「服従」がどのようにつながっているのかを考えるときに、「信仰への従順」「信仰は福音を意味している」「信仰によって要求される従順」「信仰の権威への従順」「従順である信仰」というように様々な解釈が出てくる。これほど多くの似通った解釈が出てくること自体、信仰と従順が切り離せない密接な関係にあることを証するものである。その多くの解釈の中でも代表的且つ最も可能性の高い二つの解釈を採り上げたい。その一つは「信仰から生まれる服従」という理解である。もう一つは、「信仰である従順」という理解である。つまり、「信仰」と「服従」とは根本的に同じものである。或は、「服従」というものは「信仰」から出てくるものだという解釈である。その両方の意味がパウロの曖昧な表現の中に織り込まれている言ってよい。

       パウロが最初から「信仰が服従を生み出す」と強調する確かな理由がある。パウロは、この手紙の5章までのところでは「恵み」を説明しているが、6章に入ると、「恵みを受けたなら、恵みが増し加わるために、罪を犯して罪の中にとどまってもいいのではないか。罪を犯せば犯すほど、恵みも増し加わるのではないのか」と言って反論する者に対してパウロは答えている。「信仰」が本物であるならば、必ず「服従」を生み出す、ということを強調しなければならない。なぜならば、「救いは信仰のみによる」という点を強調するときに、ある者たちは邪悪にもその意味を歪曲して、「信仰のみによって救われるのではないか。恵みのみによるのではないのか。だから行いとか従順などはどうでもいいのではないか」と主張するからである。その逆らう者たちに対して論駁する必要がある。パウロの時代もそうであったし、今の時代でもそうである。

       それ故、パウロは、このローマ人への手紙の中で何回も、「信仰と従順は同じものだ」というような言い方を用いている。例えば、1章8節を見てほしい。8節の後半で、「それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからだ」とパウロは言う。それを、16章19節と比べてみよう。そこには、「あなたがたの従順はすべての人に知られているので....」とある。1章8節では「信仰」が全世界に言い伝えられているとあり、最後では「従順」がすべての人に知られているという言い方になっている。また、10章16節を見ると、「しかし、すべての人が福音に従ったのではない。『主よ。誰が私たちの知らせ(福音)を信じましたか』とイザヤは言っている」とある。「福音に従う」と言った後で「福音を信じる」という言い方を引用している。聖書では、「信仰」と「服従」はこのように同義語的に使われているのである。15章18節でも「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げて下さったこと以外に、何かを話そうなどとはしません」とパウロは言っているが、「異邦人を従順にならせるため」に働いているのだ、と言っているのである。

       だから、ローマ人への手紙の中で、神に従うことと神を信じることとは同じ意味なのだということが繰り返し出て来る。神の命令を守ることは、信仰を持って生きることである。これは、実に明白なことである。なぜなら、神に信頼し、神の御旨を愛して、求めて、御言葉に従って初めて真の服従となるからである。信仰があるというなら、神の命令を守って生きるはずである。神の命令を守っていないなら、信仰を持っていないことになる。神を信じるとは、神に信頼するということである。神に信頼するのであれば、すべて神の言われた通りに行なうはずなのだ。

       そういう意味で、真の信仰は服従を生み出すし、服従と一つになっているものである。それゆえ、私たちの心にある信仰は従順を命じる権威でもある。同時に、信仰が要求する服従の本質は信仰そのものに他ならない。このような言い方によって、パウロは、信仰の積極的な面を指しているのである。この手紙の他の箇所では、信仰の受身的な面についても話している。即ち、救いは神からの一方的な恵みであるということである。私たちはただ受けるのみである。救いを受けるために、何かをするというものではない。賜物として与えられるのである。そういう意味で、信仰は受身的なものである。

       しかし、「信仰すなわち信頼である」という観点から見るときに、信仰は非常に積極的なものでもあることがよくわかるのである。信頼しているならば、従うのである。信頼しているならば、心から愛するのである。良い働きはそこから生まれてくる。積極的に神の栄光を求める生活が、そこから生まれてくるのである。それで、信仰と従順は当然一緒でなければならないものなのである。本当の信仰と、偽物の信仰は、その従順が伴っているか否かによって明らかにされる。真の信仰は必ず従順をもたらし、真の従順の神髄は信仰以外の何ものでもない。パウロの表現は、この根本的な一致をはっきりと示しているが、クリスチャンのこの二つの根本的な徳の間にある複雑な一致というものを示唆する目的で、意図的に曖昧な言い方をしているのかも知れない。パウロは、信仰と従順が一つであることを最初から強調して、ローマの教会に対して「私はこのような信仰のために選び分けられて、このような信仰を持つようにと私は福音の働きに任命されているのだ」と説明しているのである。

       二番目の表現は「あらゆる国の人々の中に」である。福音の働きは、異邦人の間に、即ちあらゆる国の人々の中に広められるものである。日本語で「あらゆる国の人々の中に」というと、沢山の国があって、その国の中の一握りの人々が信仰を持つようにというようなニュアンスにもなるが、そういうことではない。そういう誤解をしないように読んでいただきたい。「中に」というのは「あらゆる国々に」という意味に他ならず、すべての国々に信仰の従順をもたらすため、という意味である。ポイントは、異邦人が救われるということである。それぞれの国の中の何人かが救われるということではない。パウロは、ここで、マタイの福音書28章19節にある主イエス・キリストの大宣教命令を指して説明している。そして、更に遡って、アブラハムの契約のことを暗示している。事実パウロは4章で、アブラハムに与えられた約束について語っている。

       アブラハムの選びにおける神の目的のクライマックスは、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12章3節後半)」という召しの最後の言葉によって表わされている。パウロが使徒となったのは、全世界の異邦人がクリスチャンになるためであった。全世界の救いというビジョン(例外なしに一人残らず救われるという意味でないのは確かだが、圧倒的多数の者が救われるという意味で)は、旧約聖書を生き生きとさせるものであり(創世記18章18節、22章18節、28章14節、詩篇22篇27節、72篇8節と17節、86篇9節、98篇3節、イザヤ書2章2〜4節、ミカ書4章1〜3節などを参照)、また、新約聖書では「」の救いへの頻繁な言及においても表現されている(ヨハネの福音書1章29節、3章16〜17節、4章42節、6章33節、12章47節、ロマ書11章15節、コリント人への第二の手紙5章19節などを参照)。

       「世界が救われるように」という使命をもって、パウロは使徒として召されたのである。キリストの大宣教命令は、全世界を御自身に対する従順に至らせるようにという特別な命令であった。「あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイの福音書28章19節)」。だから、異邦人に福音を伝えなければならない。異邦人のところに行かなければならない。異邦人に対して、御言葉を深く教えなければならないことを、パウロは強く感じている。異邦人のローマ帝国の中心であるローマに、そしてそのローマにある教会に対して御言葉を教えることは、福音を全世界に宣べ伝えるために非常に大切なことであった。ローマに福音を伝えることができれば、ローマ帝国全体に対して福音を伝えることになる。ローマにいるクリスチャンたちの信仰を深めることができれば、その人達の影響はどれほど広いものになるかをパウロは考えている。ローマの教会が正しく御言葉を伝えるならば、旅人が救われたり、ローマに滞在した人々が他の国に行った時に、影響を与えてそこで教会は始まるようになる。ちょうど使徒行伝2章でペテロたちが、過越の祭りのときに多くのユダヤ人に福音を伝えて、その人達が自分たちの所に戻った時に、そこでも福音は広まっていった。そのように、ローマに福音の影響を与えることができるならば、それは世界に広まっていくはずである。

       コロサイの教会もそのようにして始まった教会であった。パウロはエペソで福音を伝えた。エペソは交易の中心であったので、エペソに来ていたコロサイの人が救われてコロサイに戻り、その信者によってコロサイの教会は始まったのである。ローマの教会も同じような影響を与えることのできる場所にある。だから、パウロはローマに行くことを願い、心からローマで福音を宣べ伝えたいと願っていた。異邦人が救われるために、ローマという都市は非常に重要なところであったからである。それで、パウロはローマに手紙を書き、また実際にローマに行く計画をも立てていた。ローマで福音のために働くことの広い意味をパウロは深く感じていた。実際に使徒行伝を読むと、パウロは、よく大きな町に行って、そこで福音を伝えたのがわかる。世界各地からの人々の交流があり、人々が集まって来て、福音を携えて自分の所に帰って行って影響を与えることになるからである。

       私は、1974年頃のことだが、神学校で友人らと一緒に食事しながら話をしていた時に、使徒行伝のパウロの働き方が話題になっていた。その話の中で、ある友人が、パウロがいつも大都市に行って福音を伝えて、そこで教会を始めたとという話を聞いて私は心を動かされた。大都市は比較的外人をよく受け入れる。そして、交易の場であるので人々の出入りが激しい。田舎だともっと厳しく反対される覚悟が必要であるし、教会の開拓伝道にももっと時間がかかってしまう。伝統や習慣の面でももっと難しい面がある。そんなに簡単に福音を広めることはできない。だから、まず大都市から始まって、そこから広く影響を与えていく。それがパウロのやり方であった。私はアジアに行くという召しを確信してそのために祈っていたが、その話があってから、私は、アジアのどの都市に行くべきかを考えて祈っていたが、最終的にそれは東京として示されて、約20年前に日本に来た。

       東京という都市にいる私たちの教会のアジアにおける立場は、ローマの教会の立場とそれほど違わないと思うのである。世界各国からの留学生が東京に来ている。もし、これが青森の田舎町であるならば、このようにアメリカ人、中国人、オーストラリア人、韓国人、シンガポール人が日本人と一緒になって教会を始めることはまずないであろう。福音を伝える機会もごく小範囲に限定されてしまったであろう。教会員が海外に頻繁に旅行する機会も少ない。東京にあって福音を宣べ伝えることは、非常に大きな意味がそこにある。そのことを私たちは地域教会として認識しなければならないと思う。今の時代のアジアを考える時、私たちは言わば「ローマ」にいるようなものである。

       そのような都市にいる。ここで伝道の働きができるということは、大きな特権であり、特別な祝福であり、そして責任でもある。ローマの教会を強めることができるならば、その教会は広く実を結ぶものとなる。パウロがその広い意味を考えているのは明らかである。ローマの教会の信仰を強めて、ローマ教会がもっと広く実を結ぶものとなるためにパウロは働きたいのである。私たちの教会も、この東京にあって、ローマの教会に与えられているような責任感をもって働きたいものである。それが出来るように祈りたいと思う。そのような特権が与えられている場所に私たちはいるということを認識しなければならないと思うである。

       それゆえ、「あらゆる国々が救われるためだ」とパウロは説明する。そこに、パウロの福音に対する理解と使命感がある。つまり、これは千年王国後説の心を表わしている。全世界が救われるために私は働いている、と言うのである。二千年経っても世界はまだ救われていないのは事実であるが、パウロは、あの時代に、既にこの心を持っていた。パウロの時代を考えるならば、聖書と主イエス・キリストを信じるクリスチャンの人口がどんなにちっぽけなものであるのかは明白である。ローマ帝国はその存在にすら気が付いてはいない。せいぜい、ユダヤ教の一派だくらいにしか思っていなかった。まだ、クリスチャンに対する迫害は始まっていなかった。この手紙が書かれたのは凡そ紀元55年頃だと思われるが、ユダヤ教とはっきり区別してキリスト教が迫害されるようになったのはこの8〜9年後のことであった。それほどに教会はまだ幼くて、人数も少なかったので、無視されていた。

       ちょうど、今の日本の教会があまりにも少ないままなので、日本政府はこれを無視しているのと変わらない。あまりにも人数が少なくて、影響も小さいので、取るにたらない存在なのである。江戸時代の初めてにクリスチャンの人口が増えた時に、その社会に対する影響が広まるのを心配して、クリスチャンを迫害した。クリスチャンが増えて、強くなり、大きな影響を与えるようになれば、今の時代でも迫害が来る可能性は無いとはいえない。しかし、このローマ人への手紙が書かれた時点では、クリスチャンの数は今の私たちと同じように非常に少ないものであった。まだ、誰も気が付いていなかった。

       しかし、教会のビジョンは、「全世界が救われる」というものであった。その心をもってパウロも手紙を書くし、教会を励ますことの一つは、このようなビジョンを持つように勧めることであった。全世界に向けて神の御国を求める心、パウロはそれを自分の心としてローマの教会に示している。そして、この手紙の中でも、9章から11章までのところで、ローマの教会もそのように御国のビジョンを持つようにパウロは励ましているのである。

       「主の御名のため」という三番目の表現は、パウロの働きの究極的な目的を表わすものであり、国々の救いは主イエス・キリストの栄光であることを説明するものである。同時にこの言い方は、パウロの生涯と働きの生き生きとした情熱をも表わしている。6節の「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々である」という言い方には、異邦人の中で働くという生涯の務めを果たそうとするパウロの意志がはっきりと表われている。その意志と、ローマの人々の間で働きたいという願いとが結び合わされている。そのために、パウロはローマの教会に対して特別な重荷を持っているということを明らかにして、この挨拶の最初の部分を結んでいる。

       1節で「使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と言って、キリストによって使徒職に召された自分を紹介したように、ここではローマのクリスチャンたちについても「イエス・キリストによって召された」と語る。それで、6節は5節と同様、1節に結びつけられてはいるが、パウロの召命への言及は単に1節と並行した表現で終わらずに、キリストによってその民となるように召されているローマの人々への言及をもって終わっている。パウロは自分の召しについて、「それは異邦人が救われるためなのだ」と説明しているが、「あなたがたも、その救われるべき異邦人の中にあって神に召された者なのだ」と説明して、救いについて語るのである。

       つまり、「救いは神からの恵みによる賜物だ」ということを強調しているのである。これはローマ人への手紙の大切なテーマの一つである。信仰の従順は、人間の行いや知恵などを表わすものではなくて、主イエス・キリストの召しによって与えられるものなのである。「召された者たち」は、そのような従順で素直な心をもって、喜んで神に従う者として召された。これは神の一方的な恵みによる救いに他ならない。確かに、異邦人の最大の帝国の中の主要な都市が、異邦人への宣教のために遣わされている使徒であるパウロによって無視される筈はなかった。

     

    ローマの人々へ

       7節で、「神に愛されている人々」そして「召された聖徒たちへ」とパウロは言う。受取人は「ローマにある教会」と呼ばれずに、エペソ書やコロサイ書と同じように「聖徒たち」と呼ばれている。これは、ローマのクリスチャンがまだ教会として組織されていなかったということではない(ロマ書16章5節)。むしろ、パウロは彼らに与えられた救いの意味を強調しているのである。福音のより深い理解を彼らに伝えることがこの書簡の狙いであるからだ。

       パウロは、ローマにいるすべての神に愛されている人々に挨拶を送っている。彼らを「召された聖徒たち」と呼んで、神の主権的な恵みを強調している。そして、「すべての」という言い方によって、分派を糾弾して、異邦人、ユダヤ人、ローマ人、その他のすべての人達がキリストにあって一つであることをも強調している。教会の中の諸々のグループを一つにして「すべての」といって、挨拶を送っている。「聖徒たち」という言い方には深い意味がある。本当はパウロの一つひとつの言葉をもっと深く考えたいのだが、今日は、5節から7節までを終わらせようと思うので超特急のように突っ走って話しているけれども、どうかよく意味を瞑想しながら注意深く聞いてほしいと思う。「聖徒」という言い方は、文字通り聖い者になったという意味ではないのは誰にも明らかである。私たちは、まだ罪人で、自分の罪に対して戦わなければならない者である。

       それでは、どういう意味で私たちは「聖徒」なのだろうか。日本には「聖人」という言葉があるが、ギリシャ語はそれと同じ言葉である。日曜日の礼拝に来てギリシャ語の原語のままに互いに挨拶を交わして「青木聖人、こんにちわ!」というような挨拶をしたら、挨拶された方はさぞかし面食らうに違いない。「聖人」と呼ばれたら恥ずかしくなる。しかし、「聖徒」という言葉の意味はまさに、聖なる人、聖人、という意味である。それによってパウロは何を示唆しているのかというと、私たちは、「聖なる神の御前に出る特権が与えられている者である」ということである。「聖人」或は「聖徒」とは、「至聖所に入ることが許されている者」のことである。自分が聖くなって、偉い者、すばらしい者になったというようなことではなくて、神の一方的な御恵みによって、神の至聖所に入る特権が与えられたということである。その特権を与えられた人々が「聖徒たち」である。

       その者たちは、神の御前において聖い者とされている。キリストによって罪が洗い聖められ、罪が取り除かれているので、エデンの園から追放されたアダムとエバのようにそこに入ったらケルビムに殺されるというようなことはない。主イエス・キリストの恵みによって、エデンの園の門から入って、天にあるまことの至聖所に入ることができる。パウロは、このことをエペソ人への手紙の2章18〜22節のところで説明している。「聖徒」とは、その特権を、神の一方的な恵みによって与えられている者のことである。キリストの御恵みによって、私たちには祭司に相応しい衣が与えられている。それは、キリストの義なる衣である。私たちは、その義の白い衣を来て、神の御前に出て、神に近づき、祈りを捧げるのである。そして、神は、私たちを受け入れてくださる。だから、「神の至聖所に入る特権が与えられている人々=聖徒」という言い方をもって、パウロは、ローマにいるすべてのクリスチャンに、クリスチャンであることの認識を与えようとしているのである。

       彼らはまた「神に愛されている人々」とも呼ばれている。救いのことを深く取り扱おうとしている中でパウロは「神に愛されている人々」という表現でクリスチャンを呼んでいる。これはまさに福音の中心を表わす呼び名である。エペソ人への手紙を読むと明らかであるが、これは神の永遠の愛の話なのである。永遠の初めから、世界の基の置かれる前から、神は私たちを愛し、キリストのうちに選んで、聖く、傷のない者にしようとされたのである(エペソ人への手紙1章4〜5節)。私たちを永遠の初めから選んでくださり、そして、私たちがクリスチャンになるようにと御霊が働いて導いてくださったのである。「神の永遠の愛」と「召し」は、そのようにつながっている。この箇所も、そのことを指しているように思う。「神に愛されている人々」という呼び名は、私たちクリスチャンにとっては実に大切な認識である。

       「あなたは何者なのか」と問われる時に、すぐさま「私たちは神を愛している人々だ」という答えにはならない。「互いに愛し合う者たちだ」というのも最初の答えにはならない。私たちは罪人であるので、神に対する私たちの愛は実に不十分であってたいした愛ではない。また、互いに対する愛もそれほど素晴らしいものでもない。私たちの従順、私たちの信仰なども、そういう意味では第一に来るものではない。自己認識としてまず持たなければならないポイントは、「私たちは、神ご自身によって愛されている者なのだ」ということである。そのことを深く認識するとき、そこから他のすべてが出てくる。

       そのことをパウロは5章で説明している。御霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているので、どんな患難にも私たちは耐え忍んで喜ぶことが出来るのである(5章2〜5節)。そして、すべての試練と患難に対して私たちは打ち勝つことができる。なにものも私たちを神の永遠の愛から切り離すことはできないからである(8章35〜39節)。神に愛されているのだということを覚えて生きる時に、私たちは従順になるはずである。成長するはずなのである。キリストにある福音=良き知らせのすべては、私たちが御怒りと地獄にこそ相応しい罪人であったにもかかわらず、神が一方的に私たちを愛してくださり、私たちを罪から救うために御自分のひとり子を世に遣わしてくださったことに集約される。

     

    恵みと平安

       7節後半で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にあるように」という、本質的に祈りでもある祝福の言葉でパウロは挨拶の言葉を結んでいる。ギリシャの挨拶の形式に従えば、ここは非常に簡単で形式だけの言葉になるところだが、パウロはその挨拶の言葉の中に「恵みと平安」という言葉を加える。そして、それが、父なる神と主イエス・キリストから与えられるのだと言う。そのように言う時に、「恵みは父なる神から主イエス・キリストを通して私たちに与えられる」ということを意味している。キリストと神は等しく神であられる。「」という意味は、旧約では「エホバ」という言葉になるが、エホバなるイエス・キリストが私たちのメサイア=救い主であられる。神であり、人間であり、私たちの仲介者として立つ御方、主イエス・キリストである。この三つの名を表わす言い方が使われる時、御父なる神からキリストを通して、「恵みと平安が」私たちに与えられるということを表わして、神の救いの御計画全体を指すような挨拶になるわけである。

       パウロは、これに似た挨拶をよく使っているが、実にクリスチャンらしい深い意味のある挨拶だと思うのである。恵みは、当然、救いのすべての源である。すべての祝福はそこから流れ出る。「恵みが与えられるように」というのは、救いの始まりでもあるし、最後まで私たちを支えるものでもある。「恵み」が与えられるということは、救いそのものの源である基本的祝福が与えられるという意味に他ならない。それは「救いの祝福」という意味を明らかに指す言い方である。

       続いて「平安が与えられるように」という言葉は、へブル語の「シャローム」と同じ意味である。シャロームも「祝福が与えられるように」という意味になるが、心の平安、生活における平安、そしてすべての契約の祝福が与えられるようにというような意味の言葉である。恵みと平安(シャローム)が与えられるように。平安とは、救いがいかなるものかということの旧約聖書における典型的な表現である。救いは、神との平和、他者との平和、世界との平和、包括的な癒しと健全さ、そして私たちの心の中の平安をもたらす。これは、神との関係が正しくされて、恵みの中に置かれて、更にその他のすべての祝福も与えられるようにという挨拶なのである。非常に契約的な挨拶であり、非常に意味の深いすばらしい挨拶である。恵みと平安は神のみから来る。神のみが救い主である(イザヤ書43章11節、45章21節、ホセア書13章4節)。これらの祝福の源として御父なる神と並べてイエスの御名を置くことは、イエスが、御父に等しい神であられることの告白である。明らかにこの箇所の言葉遣いは三位一体の教理を前提としている。

     

    アジアのローマ

       このようにパウロは1節から7節までで自分のことを紹介する時に、自分が伝えている福音の意味を深く短く宣言する。パウロの使徒としての働きは特別に異邦人のための働きであるので、ローマにいる人々にこの手紙を書かなければならないのだと説明する。すぐ後でパウロは、実際にローマに行くことを熱心に求めていると言っている。異邦人に福音を伝える使徒としての働きのために、どうしてもローマの教会を強めたいのである。そして、ローマの教会が全世界の異邦人の中にあるということを言う時に、パウロは、ローマの教会が御国のビジョンを持って自分たちの教会のことを考えるように促すのである。自分たちは神に愛されている。自分たちは神によって召された者である。自分たちに与えられた教会の働きの祝福の大きさを強く感じて、喜んでパウロの手紙を受けるようにパウロは挨拶している。7節までが一つの文章で書かれているが、これを読む教会の信者たちは感動せずにはおれないはずである。私たちが、教会としてこのローマ人への手紙を学ぶ時、それと同じ認識を持たなければいけないと思う。

       この手紙が書かれたのは紀元55年頃であるので、ローマの教会はこの後約十年後には大変な迫害の時代に入ることになる。教会の中のどれほどの人々が殺されたかはわからないけれども、ネロ皇帝はローマの大火災がキリスト教徒によるものだと決めつけてキリスト教徒を迫害した。大勢のクリスチャンが投獄されたり殺されたりした。しかし、ローマの迫害によってますます教会は強められていったのである。その恐るべき迫害の中で、ローマの教会は成長を続けていったのである。迫害が強ければ強いほど、いろいろな戦いがあればあるほどに、ローマの教会はますます強くなって成長していったのである。この教会は、300年間も信仰の戦いを戦い抜いて、最終的にローマ帝国に対して勝利を得たのである。

       このローマの教会の信仰は、私たちにとって実に尊い模範である。当時の文明の中心であるローマで宣教するという使徒の情熱は、私たちがこの東京で持っている特権と機会とについてよく考えるように励ますはずである。ローマの教会は、数えきれないほどの迫害と試練の中にあって自分たちのことについて考える時、確固とした御国のビジョンは不可欠であった。そして、常に神に愛されていることを覚えることは大切なことであった。実にむごいやり方で彼らは殺されたりした。殺されるだけならばまだいい。今日の私たちには変な話に聞こえるかもしれないが、誰かに銃を突きつけられて「信仰を捨てなければ殺すぞ」と言われたら、信仰を告白して、それで一発の銃弾を浴びて殺されるのであれば、それは実に親切な殺し方なのだ。ローマ帝国はそんな親切な殺し方はしなかった。あらゆる拷問をしたのである。ローマは残酷で巧みな拷問を考え出すのに長けていた。

       十字架の刑は実にむごい刑であった。主イエス・キリストが僅か3時間で息絶えたのを見てローマの軍人は非常に驚いた(マルコの福音書15章44節)。なぜなら、そんなに早く死ぬはずはなかったからである。キリストは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分からそれを捨てるのである。わたしにはそれを捨てる力があり、それを再び得る力もある。わたしはこの定めをわたしの父から受けたのである(ヨハネの福音書10章18節)」と言っておられた。そして、十字架の上でキリストは大声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます(ルカの福音書23章46節)」と叫んで、御自分の霊を父に明け渡したのである(マタイの福音書27章50節)。

       十字架の拷問は何日間も続くはずのものであった。死刑囚は三日間ほど十字架の上にかけられてると、喉は乾ききって、全身に激痛が走り、その痛みは時間が経つにつれて増大していく実にむごたらしい刑であった。また、ローマは猛獣を使って死刑を執行する方法も好んで使った。クリスチャンを猛獣の中に投げ込んで引き裂かせたりした。また、獲物の急所をいきなり咬まずに、ゆっくりといたぶって殺すように猛獣たちを訓練した。また、猛獣がクリスチャンの女性をレイプするように訓練したりした。そこまでローマ帝国は程度の低い、どうにもならない邪悪な心を持つものであった。コロシアムに座って、競技場に投げ込まれたクリスチャンたちが猛獣に食い殺されたりレイプされたりするのを見て拍手したり叫んだりして楽しんだのである。まるでスポーツを観るように興奮して、クリスチャンたちの血が流されるのを観て狂喜して楽しんだのである。間もなくそのような迫害の中に突入しようとしているローマの教会に、パウロはこの手紙を書いた。

       すぐ後にある1章8節でパウロは何と言っているだろうか。「これから大変な事になる。だから、すぐにローマから逃げ出しなさい。アーメン」とは言っていない。戦うべき所に残って戦い抜き、試練を乗り越えてローマ帝国を倒すことを誰かがしなければならない。誰かが改革者にならなければならない。私たちも、なぜ自分が東京にいるのかを考えなければならない。ただ単に狂っているのだろうか。もっと過ごし安い所はいくらでもあるのに、なぜ東京にいるのか。ニュージーランドでもアメリカでも行ったらいいのに。もっと楽で豊かな生活が出来るのに、こんな所になぜ残っているのか。

       しかし、なぜ、東京に残るのかというと、ここでキリストの福音を余すところなく伝えるためなのである。日本に対して、アジアに対して、福音を伝えるために、私たちはこの「ローマ」で戦う心を持って残っているのである。「ローマ帝国」を、福音を伝えることによって倒すために私たちはここにいるのである。暴力とか革命によって倒すのではない。神の恵みの福音を伝えることによって、倒すのである。そして、アジアに、歴史の中でほんとうの意味で初めて福音が広められるように、「召された聖徒」として働くのである。もしも今日パウロがこのアジアに来たならば、東京は彼が開拓しようと求める最初の都会の一つであったに違いない。

       昔の中国で景教の名の下にキリスト教が4〜5世紀から13世紀頃まで約千年の歴史を持っていたが、その教会は完全に歴史から消されてしまった。昔の日本にあったキリスト教も歴史から消されてしまった。アジアほどキリストの福音に抵抗した地域はなく、アジアの中でも恐らく日本ほど福音に抵抗した国はない。その中にいる私たちは、アジアにおける福音の働きのために祈り、その働きにおいて堅忍すべき十分な理由を見出すのである。今のアジアで、韓国は全教派を含めれば人口の約30%が何かの意味でクリスチャンである。中国のキリスト教は急速に成長を続けている。迫害されてはいるけれども、キリスト教人口は爆発的に増えている。中国政府や地方政府がキリスト教を迫害するのは、恐れているからであろう。シンガポールでもクリスチャン人口は20%以上になっている。アジアで、約100年前から福音はどんどん広まっている。私たちはその働きに加わっている者である。

       私たちはいわば「ローマ」にいる小さな教会である。私たちは、今日のローマともいうべき大都市の一つに住んでいる。この「ローマ」とは、アジアの最大の都市の一つである。この「ローマ」にいて、アジアに影響を与えていく福音の働きの特権が私たちに与えられている。私たちに必要なのは、福音の成長のために献身する者、アジアにいる異邦人の救いというビジョンを抱くクリスチャンである。それはつまり、アブラハム契約において約束され、主イエス・キリストの救いの御業において表わされた「恵み」についてのパウロの理解を分かち合うようなクリスチャンを私たちは必要としているということである。

       試練は来るし、迫害も来るかもしれない。大変なことになるかもしれない。しかし、神は、アジアを含めた世界を救いたもう。神はその救いの御業を、私たちのような男女によって推し進められる福音宣教の働きを通して、私たちの祈りを通し、私たちの労を通して成したもうのである。私たちの働きは、二次的であっても、不可欠なのである。神によって愛されていることを深く覚えて、御国のビジョンをはっきり持って、ここで神に召された者として働くことができる御恵みを本当に喜ぶべきである。パウロが私たちの教会を訪ねないではいられなくなるほどの特権が私たちに与えられていることをよく覚えて、この「ローマ」で福音のために一緒に働きたいと思うのである。ローマ人への手紙は、昔のローマの教会に対して要求したこの偉大な宣教のビジョンを、私たちにも要求するのである。

       聖餐式を受ける時、私たちは毎週、主なる神の愛を深く再認識させられることによって、御国のビジョンのところに連れ戻される。聖餐式は、主イエス・キリストの再臨の日まで続けるようにとコリント人への第一の手紙11章で命じられている。そして、コリント人への第一の手紙15章でパウロが説明しているように、キリストのすべての敵が滅ぼされる(24〜26節)、その時まで教会は続けて働かなければならない。聖餐式を受けている間にも、福音の戦い、御国のための戦いは続いているのである。聖餐式を受ける時、私たちは、主イエス・キリストに愛されて救われた者であるというところに戻っている。その恵みを覚えて神に感謝をささげるのである。主への感謝の力に満たされて、この世での戦いを続けるのである。感謝の心、感謝の力がないならば、私たちはこの世に対してとても打ち勝つことはできない。主の御言葉に従うのでなければ、決して勝利はない。

       だから、繰り返し言うけれども、聖餐式を受ける時、神に愛されているという喜びに満たされてほしい。そして、神の御国のために働くことができる特権が自分にも与えられていることを忘れないでほしい。私たちに与えられているのはパウロのような使徒としての恵みではないけれども、このローマで福音を伝えるという特権が私たちに与えられていることを感謝して、神の御恵みをほめ賛えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年6月21日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

    ローマ人への手紙1章3〜4節

    ローマ人への手紙1章8〜13節

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