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    ローマ人への手紙1章17節


    1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

    98.07.26. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    福音のうちに啓示されている神の義

    1章17節

    なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

       1章17節でローマ人への手紙全体に対する導入が終わるけれども、この16〜17節はローマ人への手紙全体のテーマを宣言する箇所である。16節で、神の救いの力が福音の中にあるとパウロは言っているが、どうして福音には神の救いの力があるのか。福音の中にどんな特別なことがあるのか。そのことをパウロは17節で宣言している。福音は神の義についてのメッセージである故、神の力が福音のうちに啓示されている。福音を理解するためには、この救いを得させる神の力と義のメッセージとの関係を理解しなければならない。

     

    福音の問題

       福音が神の救いの力であるというのは、この福音の中に、神から与えられる正しさ、「」が啓示されているからだとパウロは宣言する。そして、その宣言の意味を1章18節から4章の終りにかけて説明している。そこでパウロは、信仰によって義が与えられるということを深く説明する。また、5章から8章までは、信仰によって生きるということを深く説明する。そして、ユダヤ人とギリシャ人の信仰の関係などは9章から11章までの箇所で説明しているし、信じる者の生活、正しい者の生活とはどういうものなのかを12章から15章で説明している。だから、ローマ人への手紙を通してパウロはずっと「義人は信仰によって生きる」というテーマを展開し、その話をしている。

       「義人」とは何か、どうやったら正しい者に成り得るのか。「信仰によって生きる」とはどういうことなのか。この二つのことを説明するとともに、イスラエルと異邦人の問題はどういうものなのかをパウロはこの手紙の中で詳しく説明している。そういう意味でこの1章17節はローマ人への手紙全体の鍵であり、テーマを宣言する箇所である。どうして福音には神の力があるのかを考える時、「福音の力」と「神の義(神の法廷において認められる正しさ)」は一緒に考えなければならない。私たちは全くの罪人であるのに、神の御前で義と認められるとは、どうしてそんなことが有り得るのか。その説明がなければ、救いの話はないのである。

       「救い」に関する現代人の考えはパウロの考えとは全く違う。現代人の観点からすれば、すべての人間がすべての問題から救われるのでないかぎり、神は公平でも義でもない。なぜ人間には問題があるのか。どうして神は、人間に問題がある状態を許しているのか。どうして人間は病気にならなければならないのか。どうして大きな試練にあったりしなければならないのか。戦争になると、人々は「神は何をしているのか。どうしてこのような事を許すのか」と心から叫ぶ。飢饉や大地震があると「なぜこんなことをするのか。なぜこれを許すのか」と神に叫ぶのである。

       宗教について考える時も現代人は同じような考え方になる。「すべての人間が救われるはずだ」という前提に立って、「なぜ神は複数の宗教の存在を許すのか。すべての宗教が良いというのでなければ、それを許す神は不公平だ」と結論する。つまり、そもそも人間に問題があるという状態そのものがおかしい、あってはならない事だと考えるのである。「これらの問題を解決する責任は神にあるのだ」と言う。「神がなんとかしなければいけないことだ」と考える。だから、すべての人間が救われ、すべての人間の問題が解決される手段を提示しなければ、福音が救いの力と神の義を啓示するものとは思わないのである。彼らにとっては、それ以下の救いは「福音」=「良き知らせ」ではないのだ。問題の責任は神にある。そういう思いを出発点にして現代の人々は神のことを考えるわけである。

       そのような観点から宗教についても考えたり、人間の諸々の問題について考えたりする。彼らの思いにおいては人間が中心で出発点なのである。パウロは決してそのような考え方から始まってはいないことが、1章の18節からのところを見れば明らかである。パウロの考えは現代の罪人の考えと根本的に違う。福音が解決しなければならない問題とは、「公正」と「義」の問題である。特に、それは「義なる神は、いかにして罪深い人間の罪を赦し、しかも尚ご自身が義であり得るのか」という問題なのである。

       人間に問題があるのは当然のことであって、それは「身から出たさび」ということわざの通りである。人間は、自ら問題の道を選び、自分たちの問題を拡大し、問題を更に大きくする。自分で問題の道を作り出して、その道を選び、喜んでその道をひたすら走る。神の救いから逃げている。それが罪人の問題なのだ。罪人は神を憎み、神と関りあうことを嫌う。しかし、神は愛、平和、義しさ、豊かさ、いのちなる御方である。その神を憎んで、逆らいながら歩むならば、平和、いのち、愛から離れていく道しかないのである。罪人が選んだその罪に満ちた道の中にあっても、愛、平和、豊かさ、喜びなどをある程度体験できることの方こそ実に不思議なのだ。なぜ、愛なる神にそこまで逆らっているのに、愛なる神を憎んで無視して生きているのに、祝福のいくらかを味わうことができるのか。どうしてその逆らう者にもある程度の祝福が与えられるのか。それこそ不思議なことである。

       しかし、罪人の考え方は自己中心的なものであり、神は人間の問題を解決するためにこそ存在しているのだというふうに考えてしまうのである。福音の救いの力について考える時、罪人は自分の問題解決のための力ばかりを考えるのだが、本当の問題は「」の問題なのだ。罪の問題を解決しなければ、救いは有り得ない。義なる神は、私たちの罪をただ無視して、ただただ見過ごして赦すようなことはなさらない。そのような意味で言うならば、神は罪を赦すことの出来ない御方である。

       「でも、神は万能で、何でも出来ないことはないのではないか」と問う人がいるかもしれないが、神は何でもできるわけではない。神は、ご自分の本質に矛盾することを行なうことのできない御方である。ご自分に対して神はあくまでも真実な御方なのである。ご自分を偽ることはできない御方である。真理なる神は、自分の本質に逆らって矛盾するようなことを行なうのは不可能である。聖書の中には、神は“何でも出来る”というような教えはない。「神に出来ないことはない」と言う時、それは神がご自分の本質に従って行なうすべてのことを指して言っているのである。正しさを無視して救いを与えることは出来ない。神は罪を完全に裁く御方である。もし神があらゆる罪と不正を完全に裁くのでないなら、それこそ神は公正ではないことになる。

       更に、神が救いを約束したという問題もある。人間を救うことを約束されたのに、救いが行われなければ、神は義なる御方となることはできない。同時に、神が人間の罪に対して当然与えるべき罰を与えずに罪を罪無しとして罰しないならば、義なる御方にはなり得ないのである。正しさの問題を解決しなければ(即ち、罪の問題を解決しなければ)、救いも無いのである。福音が人間に救いを得させる力だというのは、福音の中には正しさの問題の解決があるということである。これが最も根本的なポイントである。

       そのことを宣言してから、パウロはローマ人への手紙の中でそれを細かく論理的に説明しているわけである。パウロが知る問題解決は福音のうちに見出される。なぜなら、福音は、神がどのようにして罪の赦しにおいてご自分の義を妥協せずに、却って十字架に基づく赦しによってご自身の義を増し加え、正しく救いの約束を果たされたかを示すことで神の救いの力を啓示しているからである。義なる神は、受肉された御子において、罪を完全に罰された。それによって、ただ信仰によってキリストの義が信じる者に「転嫁される」ためである。

     

    ハバククの福音

       パウロはよく旧約聖書を引用して説明する。それを1章2節の箇所からも見ることができる。この福音は、聖書(当時は旧約しかなかった)の中で約束されていた。パウロは自分の書簡(ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ヘブル人への手紙)の中で三回もハバククの有名な言葉を引用している(ハバクク書2章4節)。これは、パウロの福音が旧約聖書で教えられている福音と全く同じものであることを示すものである。

       この重要な旧約聖書の箇所がローマ人への手紙全体への「鍵」となっているのである。ハバククという預言者は、ネブカデネザル大王がエルサレムを攻撃する前(紀元前600年頃)に生きていた預言者である。ネブカデネザル王は紀元前604〜605年頃に一度エルサレムに来た。その後、紀元前597年に再びエルサレムに来て、紀元前587年に最終的にエルサレムを破壊してしまった。ハバククは、そのエルサレムの裁きを宣言しなければならない預言者であった。当然ながら、自分の民の裁きを宣言することはハバククにとっては非常に辛い役目であった。

       皆さんの方が私よりも深く感じる筈だと思うけれども、私の場合は、かなり長い年月を外国で生活しており、自分は日本人だという思いにはなれない。だからといって、あまりにも長く自分の国から離れているので、アメリカに対する思いも自分の民として思う気持ちはそれほど強くはない。ニューヨークが裁かれたとしても特別に悲しみを覚えるようなことはないだろう。東京が裁かれたとしても、自分の民が裁かれたという悲しみを覚えることもそれほどはない。しかし、日本に神の裁きが下るならば、皆さんは外国人である私よりもずっと特別な痛みを覚えることでしょう。

       ハバククの場合は、なぜエルサレムの裁きを悲しんだのかというと、当時のイスラエルと神の御国が重複して見えるからである。私たちのこの教会が特別に神に裁かれたならば、私は打ちのめされる程に悲しむに違いない。とても軽い他人事のような気持ちでその裁きを考えることはできないだろう。本当は、私たちはすべての教会についてもそういう心を持つ筈である。神の民が特別に裁かれる時、その悲しみは深いはずである。神の民が、特別に神の懲らしめを受けている時に、「当然じゃないか」と言える筈はない。そういう意味で、私たちは、今の時代の教会全体に目を留めて、それを自分にも与えられている試練として捉えるべきである。

       ハバククの場合、エルサレムは、そしてイスラエル全体は、本当に神から遠く離れてしまっていた。神の怒りを招いたユダヤ人の背教の時代であった。傲慢で、偽善的で、愚かで、偶像礼拝を行ない、神を自分の都合のために利用していた。だから、「我々は神の特別な民だ」という時、それは自分が傲慢になるための話になってしまう。「神の民だ」という時、本当ならばへりくだった心を持つ筈である。「神の民だ」というのはただ恵みによるからである。私たちは少しも相応しくないのに、その特権が与えられているからである。その事を覚える時、仕える者としてのへりくだった心を持つはずである。「私は神の民の一人であるので、私は、神にも人々にも仕えなければならない」という自覚が生まれるはずである。しかし、イスラエルは逆に傲慢になり、異邦人に攻撃されても、神が自分たちを守らなければならないから大丈夫だと考え、自分たちは彼らよりも優っているので神は必ず守ってくれるという堕落した思いを持っていた。罪を犯し、神に逆らう生活をしていながら「神の民なのだから、神は助けてくれるはずだ」と思っている、そのイスラエルの中にハバククはいた。

       ハバククはそのようなイスラエルを見て深く悲しんでいた。イスラエルを裁く器として起こされるバビロンを見れば、それは更に酷い民であった。にもかかわらず、イスラエルがバビロンによって滅ぼされることを預言しなければならない。神はバビロンを連れて来て、イスラエルを裁こうとしておられた。バビロンの侵攻と捕囚の直前に、イスラエルに神の御怒りを宣言するのがハバククの辛い使命であった。それは大いなる苦悩であり、悲しいことであった。ハバクク書を読んで、その心を察してみよ。

       教会を見て、教会の中におびただしい罪があるのは認めざるを得ない。とはいっても、教会よりもずっと悪い者たちが来て教会の子供たちを喜んでなぶり殺すとしたら、どうであろうか。バビロンは、遊び半分に容赦なくイスラエルの子らを殺し、略奪した。彼らを奴隷にして苦しめた。私たちはまだ野蛮人に遭ったことはないので、その酷さがどれほどかが解らないと思うが、それは実に酷い事になり得るものなのだ。

       そして、野蛮人とは誰のことかというと、実は私たちのことでもある。神から離れてしまって大変な状況に陥った時に自分がどう豹変するかが解ってはいない。どれほど残酷で程度の低い者に成り得るかを知ってはいない。それは実に恐ろしい話なのである。野蛮人とは、普通の人間が普通ではなくなる時、どんな酷いことでもできるということを意味している。いわゆる野蛮人とは常にそのような状態にある。しかし、“普通の人間”も、極限状態に置かれると、殺人でも略奪でも平気でやるようになる。相手を拷問して、その拷問を楽しむことができるのである。それは、どの人間にでも出来ることなのだ。

       第二次世界大戦の時、ドイツ人がソ連に入った時に実にむごい事をした。こんどソ連がドイツを追いつめてポーランドに入った時に、同じような残酷なことをしたのである。日本人は中国に入って、とんでもない残酷なことを数えきれないほどにやってきた。日本人が追い出されて共産主義者が支配すると、同じように残酷きわまりないことを自分の同胞に対して行なった。どの国の者であっても、西洋人であれ東洋人であれ、昔の時代であっても今の時代であっても、神を恐れない者は実に罪深い者なのである。

       ハバククは、神の民を見る時に、自分たちが罪に満ちていて悪いということを痛感するけれども、絶対にバビロンほど酷くはないと思ったに違いない。裁かれる時、自分よりも正しい者によって裁かれるというなら理解できないことはないが、自分よりも遥かに程度の低い者によってどうして裁かれなければならないのか。なぜこれほどまでに酷い悪者たちによって自分たちの国は破壊されなければならないのか。そのことを神に訴えて祈るのである。つまり、これは神の正しさの問題なのである。罪を裁くのなら、どうして最も酷い者を裁いてくださらないのか。それは実にひどいことだということを強く感じないではいられないからである。

       しかし、神はハバククの訴えに答えて言われた。「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)。そして、高ぶる者への裁きは必ず来ること、神はその正しさを最終的に全部表わすこと、その日を待つようにハバククに仰せられた。神はいっぺんに裁くことはしない。神は、ゆっくり働き給う。神は御自身の義と裁きを完全に表わしたもうが、神のなさることは私たちのスケジュールとは違う。それ故、まさに「義人は信仰によって生きる」のである。

       自分の目に正しいと思うことに依り頼んで生きるとしたら、続けて正しい者として生きることはできない。正しい者は、「今すぐ神が正しい裁きを行なってくださらなければ私は神を信じない」とは思わない。「義人は信仰によって生きる」のである。「今の状態はどうしてこうなっているのでしょうか」と神に祈ることは問題ではない。私たちは神に訴えてもよい。正しい裁判官はその切実な祈りを聞き入れてくださる。しかし、何時、どのように、そして何故そのように裁くのかなどについて、信じる者は神に委ねなければならない。神の知恵は私たちの知恵を遥かに越えることを知っているからである。

       子供が、父と母に「なぜこうするのか。どうしてこれをしないのか。こうした方がいいのに」と言う。子供なりに義憤を持って「お父さんもお母さんも不公平だ。どうしてお父さんとお母さんはこうしないのか。これじゃだめだ」という気持ちになったりする。父と母も人間でしかないので、確かに間違った裁きを行なってしまうことはある。けれども、ともかく親は子供たちには納得できないことをする。子供たちは、5年経ち10年経ってから振り返ってみる時に「なるほど。そうだったのか」と思うものである。当初は「不公平だ。間違っている」と思っていたことが、少し歳を重ねてみると、あの時どうして父と母はそうしたのかがよくわかるというケースは少なくない。「なぜもっと説明してくれなかったのか」と思ったりしたが、大人になってみると「そうか。いくら説明しても仕方なかったんだ」ということが解ってくる。説明したかもしれないし、説明されてもポイントを捉えることはできなかったのである。意味を捉えることができなかったけれども、それでも「不公平だ。おかしい」と考えてしまうのが子供である。聞く耳を持たない者に、いくら説明しても心には入らないし残らないのである。子供たちは罪人だから、心が悪いので聞く耳を持たないということは確かにある。或は、耳が小さすぎて親の言っていることが耳に入らないということもあるかも知れない。

       確かに大人にならなければ解らないことは少なくない。大人になればその事を痛感するので、神を御父と呼んで生きる者は、何でもかんでも「今わからなきゃ嫌だ」というような思いを持つ筈はない。「義人は信仰によって生きる」のである。義人は神を信じる。罪人同士ではあっても、神の子供である相手を信じて生きることはできないことではない。罪人同士の場合、たとえ相手が悪い事をしてしまったとしても、「きっと悔い改めて神に立ち帰るだろう」と信じることはできる。罪人同士でも、お互いを信じあって一緒に歩むことはできる。しかし、罪人であることに変わりはないので、あくまでも限界はある。罪人を絶対的な信仰をもって信じることはできない。「自分の心を信じる者は愚かである」(箴言26章12節、28章26節)と箴言に書いてある。自分の心の中には恐ろしい罪の可能性があるということを私たちは自覚すべきである。

       ハバククは神に対する信仰のことについて語っているのである。「神が語ったことは絶対だ」と信じている。例えば、ヨブのような状態に置かれた人であっても、状況から見れば神が愛なる神ではないように見える時であっても、神の愛を信じるのである。ヨブは、たとい神が自分を殺すとしても、自分は神を信じると告白している。それが信仰によって生きることである。

       ヨブの場合は、目で見るかぎりでは「神はひどいことをなさる」と思われるような状況にあった。実際に今の時代のクリスチャンではない人たちがヨブ記を読むと、「これはとんでもない話だ。神はヨブを愛していると言いながら、これほど残酷な試練を許してしまう神は絶対に愛の神ではない。神は正しいと言うけれども、ヨブが正しい人であったことを認めていながらサタンの残酷な仕打ちを許すような神は絶対に正しくなんかない。後で祝福を多く与えたといっても、いったいこの神は何をやっているのか。こんな神は、愛の神でもなければ正しい神でもない。ヨブ記は、聖書の欺瞞を証明するものだ」というような解釈をしたりする。

       神を知らず、目で見える事によってしか判断することができず、そして思慮の浅い人たちによるヨブ記の解釈は、結局のところは自分自身を弁解するための解釈になってしまうのである。ヨブが悪いのではなくて、神が悪いのだ。自分が悪いのではなくて、神が悪いのだという説明にヨブ記を用いるのである。罪人はあくまでも自己弁護の観点から聖書を解釈する。ハバククに対する神の答えは、「神の正しさと神の愛を信じて、神を待つように」というものであった。だから、どんな大変な事になるとしても、最終的に神は大いなる御恵みを表わし、御救いを表わし、神の正しさと愛と真実を明らかにしてくださる。それを信じて待つという信仰を持たなければならない。それがハバクク書のメッセージである。

       ここでパウロがハバククの話を引用しているのは非常に興味深いことである。ハバクク書が特にパウロの時代に意味を持っていたのは、イスラエルが再び背教しており、大いなる裁きの時を間近に控えていたからである。ハバククと同様、パウロの福音宣教は、イスラエルの国をあげての背教と、残りの者(remnant)に対する神の真実という同じ問題を取り扱わなければならないものであった。これがローマ人への手紙9章から11章の課題である。

       この「義人は信仰によって生きる」という非常に短い宣言が旧約聖書の中では非常に特別な宣言だということはユダヤ人にもよくわかっていた。例えば、ユダヤ人は旧約聖書の教え全体をモーセの十戒(10の命令)の中にまとめている。ある有名なラビは、ハバククの「義人は信仰によって生きる」という宣言は旧約聖書のすべてを簡潔に要約したものだと教えた。ユダヤ人にもハバククが書いた意味の深さはわかっていた。そういう意味で、ハバククの宣言は旧約聖書の中では非常に目立つものであった。これは、ユダヤ人にとってもクリスチャンにとっても、非常に深い大切な教えである。

       この言い方を考える時に、もう一つ覚えるべきことがある。それは、このハバククの宣言が明らかに「アブラハムの契約」を指しているということである。アブラハムは神を信じた。そして、その信仰が義と認められたということが創世記の中に記されている(創世記15章6節、ローマ人への手紙4章を参照)。ある意味で神がハバククに宣言したことはアブラハムに話したことと同じことであった。アブラハムの生き方は初めから信仰そのものであった。まさに「信仰から信仰へ」という人生を送った。アブラハムという名の意味は「多くの国民の父」である(創世記17章4節)。ユダヤ人たちは、名前の意味を深く考えて名前を付けていた。それで、アブラハムがカナンに入って自分を紹介する時、「私はアブラハム(最初はアブラムであった)ですが、実は子供は一人もいません」と紹介しなければならなかった。後に子供が六人になった時でも、「多くの国民の父」とは呼べないものであった。その名前はまるで冗談のようにみえた。それでも、毎回「私は多くの国民の父」と名乗らなければならない。

       イサクの名前も「笑う」という意味であった。アブラハムの名前も、イサクの名前も、ヤコブの名前も、みな信仰を表わす名前だというふうに考えてよい。アブラハムは、神から約束された事を自分の目で見ることはついになかったのである。「400年後に与えられる」という約束だったのだ。アブラハムは「信仰によって生きる」しかない。しかし、それが義人(正しい人)の生き方なのである。ハバククは、アブラハムの信仰を思い出して、「信仰を堅持し、神に忠実でありなさい。それが義人の生き方なのだ」と教えたのである。このハバククの教えは、アブラハムの契約にむすびつくものであり、旧約聖書の中においては際立って目立つ教えであった。その言葉をパウロはローマ人への手紙のテーマとして宣言している。

       パウロは、ローマ人への手紙で、義人とは何かということをハバククよりも深く細かく説明する。信仰によって生きることの意味を更に深い意味で説明している。実際、ローマ人への手紙全体がハバクク宣言の注解だと言ってもよい。或はまた、ハバククの神学的な言葉の使い方はローマ人への手紙の構造を表わしているとさえ言えるかもしれない。例えば、1章から5章で「信仰」(名詞形と動詞形)を意味する言葉は36回も使われているのに対して、6章から8章では1回しか出てこない(6章8節)。もう一方で、6章から8章では「生きる」(名詞形と動詞形)を意味する言葉が21回も登場するが、1章から5章ではたった7回しか登場せず、しかもそのうちの4回は二つの部分をつないでいる5章にあり、また1回はこのテーマ聖句に出てきているのである。「」と「義認」(名詞形と動詞形)という言葉は1章から5章では40回登場し、6章から8章では12回しか登場しない。「義認」という言葉の動詞形と名詞形に限定するなら、1章から5章で13回登場するが、6章から8章ではたったの4回しかない。

       明らかにローマ人への手紙はハバククの言葉に深く係る構造になっている。最初の1章18節から4章25節までは、信仰による義しさとはどういうことかを説明し、6章から8章では信仰によって生きるとはどういうことかを説明している。5章は上に指摘したように、二つの部分をつなぐ移行の部分である。「義人は信仰によって義人となる」ということを説明してから「義人は信仰によって生きる」ということを手紙全体を通して説明するという構造になっている。

       それにしても、なぜパウロはハバクク書に出てくるようなこと、そしてアブラハム契約に出てくるようなことを説明しなければならないのか。その理由は、「新しいこと」が啓示されているからである。福音は「新しい」ものである。何が新しいのかというと、旧約聖書(創造の時からキリストの時まで)の時代には、神がどのように私たちを救ってくださるのかということがまだ明らかにされてはいなかった。啓示されてはいる。身代わりが死ぬことによって罪が赦されるという考え方は創世記4章から全体に渡って啓示されている。しかし、誰が贖いに相応しい身代わりに成り得るのか。身代わりが死ぬことによって、どのように私たちは救われることになるのかということなどは、預言はあっても、神の御子イエス・キリストがそのすべてを完全に成就する時までの話なのだということは、まだ明らかではなかった。預言を知っていても、そこまでの話だということは誰にも想像は出来なかった。成就された時、初めて旧約聖書の深い意味がわかる。

       だから、パウロは「啓示されている」とか「約束されたもの」という言い方をするわけである。例えば、すべての窓を閉じて、明かりを消して、部屋を暗くしておいて、部屋のドアだけを開けたままにすると、何も見えないわけではない。おぼろげに誰かいるのはわかるし、いろいろな物も見えることは見える。しかしはっきりはしない。主イエス・キリストが旧約聖書のすべてを成就した時に、その中身は何一つ変わってはいないけれども、光が与えられた。今までその中にある事柄はどういう意味なのかをそこまではっきり認識することができなかったのが、キリストの成就によって旧約聖書の意味はすべて明らかにされたのである。

       そういう意味で、「この福音」は、旧約聖書の中の福音のメッセージ(福音は救いの力であるということ)を非常に深くはっきりと啓示してくれるので、その「神の力」があたかも初めて表わされたかのようなものになる。今、クリスチャンとして旧約聖書を読む時に、旧約時代の人々には理解できなかった深い意味を私たちは読み取ることができる。

       話を最後まで聞かなければ話の意味がわからないことはよくある。小説でもそうだが、結論まで読まなければどういうことなのかがわからない。小説によっては、最後まで読んでからもう一度読まないとだめだというものもある。結論を読んでやっと全体の意味が分かってくるので、もう一度読み返して、それぞれのつながりを考えなければならない。小説ではないけれども、シェークスピアの劇などはそのようなものである。「ハムレット」や「リチャード三世」とか「リア王」などは、一回見て物語の全体がわかってから、もう一度見なければよく理解できない。二回以上見たらもう新しく迫る新鮮味がないというものではない。

       時代劇の「水戸黄門」などは、結論まで見て「そうか」と思っても、もう一度見なければ感じることができないような内容は何もない。日本語の勉強の為とはいえ、もう一度見る気にはなれない。次回を見てもとにかく同じ内容の繰り返しなので、どうしても見たければ次回を見ればいい、というものである。結論まで見ても、もう一度考える価値はない。芸術的に程度の低い劇とはそういうものである。それは芸術と呼ぶこともできない。良い音楽も一回聞いて終りというものではない。現代の音楽は一回だけ聞くにしても、最後まで聞かないうちにもう疲れてしまう。クラシックで良い音楽は何度でも聞いて味わうことができる。深みのあるものはそういうものである。

       聖書は神の創造から始まる書物であるが、読めば読むほどに深い味わいがある。結論がどうなるのかがわからない旧約聖書。そして、イエス・キリストにおいて結論が与えられ、今まで読んだすべてがキリストにあってつながる。しかし、繰り返し読まないとそのつながりの深さを捉えることはできない。細かい部分に至るまで、何度も何度も繰り返し読むにつれて、そのつながりは深まっていく。聖書はそのような書物である。パウロはここで「救いを得させる神の力」が福音において啓示されていると言う。つまり、「結論が与えられて初めて今まで語られたことの深い意味が本当にわかるようになる」、と宣言しているのである。それ故、福音を説明するということは、聖書全体の最も深い意味をキリストの働きにおいて説明することになる。キリストがすべての結論だからである。日本語訳では「福音のうちには神の義が啓示されている」となっている。

     

    神の義

       誤解しないように言うが、この「神の義」という表現は、かなり異なった幾つもの理解が可能であるが、最も大切な二つの理解は、「神の持つ義」即ち神の属性としての義、そして「神からの義」、即ち神の律法の観点から見た神が与える義という立場である。福音がこの両方を啓示していることに疑いの余地はない。問題は「17節がそのどちらについて話しているか」ということだ。

       福音は神の恵みと慈しみについてのメッセージであるから、福音に神の義なる属性が啓示されていると言ってもピンと来ないかもしれない。しかし、イザヤは繰り返しそのような意味のことを語っている(イザヤ書41章10節、45章8節、19節、21節、23節、46章13節、51章5節、6節、8節、56章1節)。福音は、神が人間を救うことにおいて御自分の契約の約束を守ってくださるという神の真実を啓示している。それ故、福音は「神の義」を啓示しているのである。イザヤの福音は、イスラエルが神に対して不忠実であったにもかかわらず、神は不真実になることはないというものであった。「義なる神」は御自身の恵みあふれる約束に従って、救いを与え給うのである。

       救いは、神の義を、それが成し遂げられた方法においても明示している。イザヤはこのことをメサイアについての有名な箇所(53章)で指摘している。とはいえ、この真理はイエス・キリストにあって預言が成就されて実現するまでは、決して完全に明らかにされることはなかった。今日、私たちは旧約聖書の聖徒たちには想像もできなかった豊かさをもって福音のうちに神の義を見ることができるのである。というのは、彼らの中には、人間の罪を取り扱う唯一の義なる道が受肉と十字架だと想像するほど大胆な者が一人もいたとは思えないからである。その方法とは、神御自身が私たちの受けるべき罪の罰を負われ、それによって信じる者を義と認め、しかも御自身が義であり続けるというものであった。

       このように「神の義」という神の属性は、福音の中に非常によく啓示されており、福音のメッセージには不可欠な部分である。パウロの福音が、旧約聖書が約束した福音の宣言であるかぎり(ローマ人への手紙1章2節以下参照)、それは神が御自分の契約を守るという義の宣言であり、義しさを少しも妥協せず、むしろ義しさを増し加えるという罪人救済の方法の正しさの宣言でなければならない。しかし、旧約聖書の福音も義認を約束していた(イザヤ書45章25節、53章11節、54章17節、61章3節)。事実、イザヤは「義の転嫁」について、聖書の中で最も美しく描写している<FONT COLOR="#000000">(イザヤ書61章10節)。

    わたしは主によって大いに楽しみ、わたしの魂も、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

       イザヤが宣言した福音は、このような直接的な言い方こそしていないけれども、罪人が義と認められるためには義が転嫁されるという、「義なる神」の福音であったのは明らかである。これがそのままパウロの福音なのである。私たちの義は、神から与えられる「義」である。つまり、「義人」として認められるということであり、「義の立場」を神からいただくのである。義ではない者が「義と見做される」のである。これが福音である。つまり、罪人である私たちが、神の裁きの御座の前で正しい者(義人)として認められること、それが福音のメッセージである。そういう意味で、ハバククの「義人は信仰によって生きる」という宣言の中の「義人」についての深い説明がここにある。

       ハバクク書のところは「信仰によって義人とされた者は生きる」というふうに解釈されるが、それはハバクク書を読んだだけで得られる解釈ではない。パウロはハバククの宣言をそのまま引用しているが、「信仰によって生きる」ことをも更に説明している。しかし、最初にまず「義人」とは何かということを説明する。それ故、「義人は信仰によって生きる」には次の二つの意味があることに気が付く。まず信仰によって義人となる。それから、その同じ信仰をもって生きる。そのようにパウロは「義人は信仰によって生きる」という意味を深く説明している。

       どうして義人になれるのかというと、神がその義(正しさ)を私たちに与えてくださる以外に方法はない。どのようにして神はその義を罪人に与えるのかというと、主イエス・キリストが契約の代表となってくだり、私たちの代わりに神の律法を完全に守ってくださり、そして契約の代表として私たちが受けるべき罰を受けてくださったことによってである。これは契約的なことであり、「代表者の働きによって私たちは救われる」のである。それで、私たちは神の法廷において「義人」として認められる。そのことをパウロは深く説明している。福音には「神からの義しさ」が啓示されているのである。

       旧約聖書の中でも「神からの義」はある程度啓示されていた。犠牲制度はそれを啓示するものであった。いけにえの上に手を置いて罪を告白し、神の赦しを求めてそのいけにえをほふる。その「身代わりの死」によって自分は救われ、神の法の前で正しいと認められる、という象徴であった。

       しかし、本当の意味で神の御前で義人になったわけではないこともそれによって啓示されている。つまり、翌日もまた悔い改めのためのいけにえをささげなければならない。来年もまたいけにえをささげなければならない。祭司はイスラエルのために毎朝毎晩いけにえを神の御前にささげなければならなかったのである。個人の罪のためにもいけにえはささげなければならなかった。そのための特別な祭りもあった。繰り返し繰り返し、いけにえをささげることによって、自分は真の意味においては義人になってはいないということを悟らされるのである。今日しても、明日またしなければならない。しないならば、神の怒りと裁きを招く。いけにえをささげても、それで神の家に入ることことが許されるわけではない。入ろうとすれば殺される。神はそこまで怒っているのである。入ったら殺されるのである。祭司たちが剣と槍を持っているのはその為であった。イスラエル人が神の家である聖所に入るなら、その者は直ちに殺されなければならない。なぜレビ人が祭司になっていたのかというと、イスラエルが神の御名を汚した時に、レビ人はモーセと共に立ち、剣を持って神の御名を汚したその兄弟、その友人、その隣人を打ち殺したからであった(出エジプト記32章27〜28節)。それで、神はレビ人を祭司と定めた。そこまで神に憎まれていることが旧約聖書の福音の中に記されている。

       だから、犠牲制度は、いけにえが「身代わり」となって死んでくれることによって罪が赦されると同時に、「罪はまだ赦されていない」ということをも恐るべき方法で深く教えるものであった。本当の意味で神の御前に正しい者として認められるためには、主イエス・キリストを待たなければならなかった。本当の意味で神の御前に義と認められるのは、主イエス・キリストの働きのみによってである。そういう意味で、キリストの福音を宣言するとき、新しいことが啓示されている。即ち、「神から与えられる義(正しさ)」が啓示されているのである。

       パウロは1章17節で「信仰に始まり信仰に進ませる」義を啓示する福音について語っている。この福音のうちにある「神の義」の啓示は客観的な啓示であって、信じる者たちだけに限定して啓示されるようなものでないことは明らかである。それ故、「福音の中に神の義が、信仰から信仰へと啓示されている」と訳している幾つかの英訳聖書の解釈よりも、「福音の中に啓示されている信仰による神からの義」についてパウロは語っているのだと理解すべきである。つまり、福音は、神がいかにして信じる者たちに義なる立場をお与えになるかを啓示しているのである。

       日本語訳にある「その義は」という言葉は聖書の原文にはない。日本語訳では、「信仰に始まり信仰に進ませる」は「」という言葉につながっているのだということを説明するためにそう訳しているので、それはそれで良いと思う。つまり、「誰によって啓示されているのか」というような話ではなくて、「どういう義(正しさ)が啓示されているのか」という話なのである。その正しさとは、「信仰による正しさ」のことである。そうであれば「義人とは何か」という話になる。「信仰によって義と認められる者が義人」なのである。これが福音である。神から与えられる正しさは信仰によってのみ与えられる正しさである。それ故「救いを得させる神の力」は福音において表わされる。信仰によって神から義を与えられる者は救われる。これが福音の話であり、キリストが来るまでは誰も本当の意味でこのことを深く理解することができなかった。

       「信仰に始まり信仰に進ませる」という言い方は、文字通りに翻訳すれば「信仰から信仰へ」となる。いろいろな解釈があるが、その意味は「信仰のみ」ということだと思う。いろいろな解釈があるのは、これが難しい表現だということ表わしている。しかし「信仰から信仰へ」というのは「最初から最後まで」というような意味であって「すべては信仰のみによる」ということを強調する言い方なのだと思う。神が与える義は、信仰に対してのみ与えられるのだという強調がポイントになっていると思う。

       「義人は信仰によって生きる」とある。義人となるのも信仰による。その後で、クリスチャンとして生きるのもまた信仰による。つまり、信仰がすべてなのである。それをパウロは普通ではない言い方で強調している。原語の直訳であれば「信仰から信仰へ」となるが、意訳すれば「信仰のみ」と訳してもいいと思う。このパウロの表現は"sola fide(信仰のみ)"という宗教改革のモットーに合致している。

       また、パウロはここで宗教改革者たちが宣言したように、「福音は、地獄の裁きを受けるにふさわしい罪人に神が義なる立場を授けたもうというメッセージである」と宣べているのである。「その義は、信仰のみによる」ということである。救いの計画において、神はどのようにご自分の力を表わされたのか。罪人でしかない私たちが、どのようにして神の御前に全く完全に正しい者に成り得るのか。福音はそのことを説明しなければならない。「信仰のみによって」私たちのような罪人は救われる。これが福音のメッセージである。そして、神の義が与えられて義人となった私たちは、信仰から新しい人生は始まった。それではクリスチャンとしてどのように生きるべきかというと、同じように「信仰によって生きる」のである。 

       クリスチャンは、初めから終りまで信仰のみによって歴史の中にあって生きるものである。そういう意味で、クリスチャンの生き方は、ひたすら神を信じて、神を待ち望む。神に全く信頼して歩むのである。神の知恵は私たちの知恵を遥かに越えるものであることを信じて歩むのである。しかし、私たちの側から見れば、実に単純なことなのだ。子供でも信じることができる。信仰は、深い理解や悟りがなければ得られないものではない。信じるとは、相手に依り頼むということに他ならない。そういう意味では受け身的なものである。信仰は、その人の生き方において表わされてしまうのは事実であるけれども、神に信頼するのは受け身的なものである。

       これは実に簡単なことだ、と言える。自分は何もしていない、という言い方もできる。信仰は心の開いた手である。信仰は、ただ神が与えてくださる賜物と恵みを受け入れる。それだけである。これが私たちの生活のすべての根本的な原則なのである。神が救ってくださる。私たちは信仰をもってその救いを受け入れるのである。そうすれば救われる。神がその救いを完全に成してくださる。「でも、私にはまだこの病の問題がある」と言う者は、信じて待ちなさい。そうすれば癒されるのである。「でも、私の生活にはこんな大変なことがある」という者も、信じて待ちなさい。神のよしとする時にその問題を解決してくださる。神は実に大きな試練を与えてくださるが、それはあなたのためなのである。愛なる神が、あなたの成長のために、あなたを通して神の栄光が表わされるために、神は愛する子に試練を与えてくださるのである。信じて待ちなさい。神がその問題を解決してくださる。

       それ故、私たちの信仰の父はアブラハムである。神はアブラハムに約束を与えてくださった。しかし、年老いてもなかなか子供は与えられない。100歳になっても一人も生まれない。「これはちょっと何とかしなければならない」と思ってハガルを通して子供を生んだけれども、「この子ではない」と言われてしまう。もう子供を産むことが不可能になっていた年老いた妻サラから生まれる子供でなければだめだ、と言われる。「どうしてこんなに難しい話をしなければならないのか、どうしてこんなに難しい導きをするのだろうか」と思ったりしたかどうかはわからないが、アブラハムは一徹に神を信じた。忍耐をもって、へりくだった心を持って、神を待った。神の約束を信じた。それが本当の信仰である。

       詩篇の中にも「神を待つ。神を待つ」ということが繰り返し出てくる。子供には待つことは辛いことである。子供にとっての一日は長いものである。子供に「一年待ちなさい」と言ったら、それこそ永遠に待てと言われたような気持ちになるだろう。大人にとっては「昨日クリスマス祝会だったのにもうクリスマスなのか」と思うほどに、一年は実に早く過ぎていく。それでも「400年間待ちなさい」と言われたら「えっ」ということになる。大人になればなるほど長く時間を見ることができる。しかし、神は私たちよりも無限に大人である。無限にして永遠なる御方であられる。神の時間の感覚は私たちのとは全く違う。大人であればそのことがわかる筈である。

       永遠の神は、急ぎはしない。考え方も違う。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」と、神は言い給う(イザヤ書55章8節)。神の思いを信じるのである。私たちは、自分の思いでそれほど素晴らし何かを得ているのだろうか。自分の思いに従って生きる時に、間違いは十分過ぎるほどにあるのではないか。神の思いと神の導き方がどうしてもわからないと思っても、「信じて生きる」のである。それがクリスチャンの生き方である。

       もちろん、ただ漠然と信じるのではない。神が正しく真実なる御方であり、ご自分の契約を守る御方であり、永遠の愛をもって私たちを愛しておられることを知っているので、「信じて従う」のである。これが出発点である。義人とは、100%神を信じて生きるものである。それがクリスチャンである。そのことをパウロはローマの人々に説明している。その時代の人々はちょうどハバククの時代のイスラエルと同じものであった。神から離れていて、神からの裁きがもうすぐ来ようとしていた。バビロンが来て神殿を破壊したように、そろそろローマが来て神殿を完全に破壊し、二度と再建されることがないという神殿に対する最後の裁きが来ようとしていた。そういう意味で、ハバククの宣言はパウロの時代においても深い大切な意味を持つものであった。

       今日の私たちも、実に堕落した時代に生きている。神の裁きを招くような時代に生きている。ハバククのように「なぜ神はこれを許すのか」と思ってしまうような事が世界中至る所に見られる。そのような時代に生きている者は、根本的な所に戻って、そこにはっきり立たなければ、その時代の試練に耐えることはできない。「信仰による」という原則が深く私たちの心に刻まれていなければ、大変な裁きが来る時に、どうやって生きるかばかりに気を使って心を乱すほかないだろう。信仰ではなく、不安に陥ってしまうのである。私たちはちょうどハバククのような時代、そしてパウロのような時代に生きている。そういう意味で、私たちが今この原則を学んでいることにはとても大きな意味があるのではないか。その事をも覚えて、この箇所のことを心に刻みたいと思う。

       聖餐式を毎週行なう時、私たちはその根本的な所に戻る。「私は信仰によって生きる。主よ、私はあなたを信じます。私は罪人であり、自分の罪に騙されたり、自分の愚かさのゆえに心が乱されて神から離れたりしがちなものです。私は罪に汚れている。どうか、私の罪を許したまえ。私はキリストの十字架の働きを信じ、キリストの復活を信じます。あなたの御恵みを信じます。あなたを信じる信仰によって私は生きます」ということを告白するものである。毎週この聖餐式を守る時、私たちは「信仰によって生きる」というハバククの宣言をもっともっと心に深く刻んでいこうとしているのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年7月26日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

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