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    ローマ人への手紙1章19〜20節


    1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。

    1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

    98.08.09. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    創造における啓示

    1章19〜20節

       クリスチャンでない社会は、神についての真理を知っていながら、その真理に逆らって生きているということをパウロは18節のところで話している。けれども、それがどういうことなのかを19節からのところでパウロは説明している。クリスチャンではない人たちが知っている真理とはどのどんな真理なのか。不信者はどういう真理に対して逆らっているのか。なぜ、「彼らは真理を知っている」と言えるのか。何かの違反行為を責められると、その律法について知らなかったことを理由に無罪を主張するというのが罪人の典型的な反応である。それで故、この問いに答えておかなければならない。パウロの答えは次のようなものである。即ち、罪人が無知であるなら、その無知は咎められるべきものである。なぜなら、無知は罪人の自然の状態ではないし、自然の状態では有り得ないからである。無知は、神が与えた逃れることの出来ない豊かな啓示(実に罪人を取り巻く全環境を構成している啓示)を敢えて阻むことによって闘って勝ち取らなければ得られない無知である。19節からの箇所でパウロはこの問題に対して答えている。

    なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

     

    主観的啓示と客観的啓示

       創造における神の啓示には、主観性と客観性の両方がある。この箇所はよく誤解されるので、まず19節の日本語の翻訳を少し変えたいと思う。「神について知りうることは、彼らのうちに明らかである...」と訳した方が誤解がなくなる。パウロはここで罪人の心について話しているのである。「彼らに...」というのは「彼らの心の中に...」ということである。彼らの心の中に、神はご自身について知り得ることを教えてくださった。彼らの心の中に、神についての知識がある。ウェイマウス(Weymouth)はこれを「...彼らの心の最も深い意識において明らかである」と適切に言い換えている。続く「それは神が明らかにされたのです」という訳も、ギリシャ語原文にはもう一度「彼らに」という言葉があるので、「それは神が彼らに明らかにされた...」という訳にした方が良い。啓示の客観的な部分は19節後半と20節で述べられている。この二種類の啓示が19節の「なぜなら」という言葉につながっていることによって、その体系的な関連性に目を留めるべきであることがわかる。パウロはただ漠然とこの二つを並べて書いたのではない。両方が、いわば統合された一つの全体を成していることを明示しているのである。

       この19節のところを見る時に、まずパウロは、外から来る神の啓示と、心の中にある神の啓示の両方について語っていることに注目してほしい。心の中で、私たちは皆神について知り得ることを知っている。それは、私たちの心の中において明らかである。なぜ明らかなのかというと、神が外から与える啓示によって明らかにしてくださったからである。外から入ってくる啓示と心の中にある啓示とがつながっている。それがどう機能するかをよく表わすものとして、言語を学ぶという人間特有の能力について見ることができる。生まれたばかりの赤ちゃんにも言葉を話す潜在的な可能性はある。つまり、言葉を話す機会もしくは傾向がある。しかし、この能力は潜在的であり、最初からおしゃべりしながら生まれてくる子供は少ない。

       話すという“傾向”を発達させるためには特定の環境が要求される。外からの刺激がなければ、言葉を話すようにはならないのである。生まれながら本質的に持っているその可能性が機能するためには、他の人間との接触がなければだめなのだ。それと同じように、生まれながらにして人間の心は神を知るように造られている。そして、生まれた後に、他の人間との接触によって、心にあるその可能性は発展して神を知るようになるのである。人間は生まれながらにして神を知る能力と傾向を心の中に持ちあわせている。彼らは神のかたちに創造されているからである。しかし、その心の中に刻まれている神の知識は客観的な啓示すなわち外からの啓示なくしては発達できない。その外からの特定の環境をも神は与えてくださった。パウロはそのような「外」と「中」の両方の啓示について語っている。空を見たり、木を見たり、動物を観察したり、人が語るのを聞いたり、すべての被造物との接触によって心の中にある可能性が実を結ぶようになる。しかし、両方が無ければ、神を知る知識にはならないのだ。

       これはすべての知識について言わなければならないことである。1+1=2という数学が可能となるためには、まず数学的に考える“可能性”というものが心の中に最初から無ければ、外からそれを人に押し付けることはできない。生まれながらにして人間は数学的に考える心と頭脳を持っているのである。成長するにつれて人間関係において、また被造物との関係において、神がその生まれながらの可能性を発展させてくださることによって私たちはある程度まで数学ができるようになるのである。言葉もそうであるし、他のすべての因果関係の概念なども、もともと心に無ければ、ただ外からの経験を通してそのことを深く知るようになることはないのである。もともとその可能性は、“神の似姿”という表現の中に含まれるものと考えてよい。

       実際に人間の親から離れてしまって動物に育てられた子供がいる。その有名な例がいくつかあって、8歳とか10歳まで生存して発見されたケースが記録されている。その子供は言葉を話すことができない。そして、話せるようにもならない。人間として何も教えることができない。最悪の知恵遅れのような状態になる。もう知識を得るために外からの刺激を受けなければならない時期が過ぎてしまったので、もう手遅れで頭が活動しなくなっている。8歳で見つかっても、言葉を教えることはできないし、人間と接触しているようなかんじがなく、まるで動物的な雰囲気になってしまう。そのような人は12歳とか15歳までには死んでしまう。長く生きることもできない。ある意味で、人間として発達してはいないのである。

       外からの人間の接触がなければ、私たちは人間になることもできないのである。それで、母親の愛を経験することがどんなに大切かは、そういう観点からしてもよく理解できるものである。言葉と啓示の比較は完全なものではないけれども、理解の助けにはなると思う。ここで私たちが見るのは、心理学的にも神学的にも洗練された人間論と啓示論なのである。神の似姿である人間は、生まれながらにして神を知る傾向を持っており、この傾向はその子供の中で自然に発達し、成長するにつれて神御自身を更に具体的に意識するようになり、その知識を表現する能力においても成長するのである。

     

    啓示者なる神

       とにかくパウロはここで、人間は、外からの神の啓示と心の中にある啓示とが一緒になって神を知り得るものだということを明確にしている。ここで強調したいポイントがもう一つある。即ち、「神が彼らに明らかにした」というポイントである。ウェイマウスは19節の最後の部分の意味をも適切に言い換えている。「それは、神御自身がそれを彼らに明らかにされたのである」と。神御自身が積極的に御自分を私たちに表わしておられる。その意味がわかるだろうか。神の真理は人間の心の最も深いところにまで刻まれている。それは神御自身がそのようにしたのである。ただ単に私たちの心の中に何かの可能性があって、木、空、太陽、他の人間などを通して自然に何かの刺激を受けるというような話ではない。神御自身が、被造物の啓示を通して私たちに常に話しかけてくださる。そして、神が私たちの心の中で働いて、御自分を表わしてくださる。神は、積極的にすべての人間に対して御自分を表わしておられるのである。弁解の余地がないほどにはっきりと御自分を表わしておられる。

       だから、単に「被造物とはこういうものだから考えれば分かるはずだ」というレベルの話ではない。もちろん、その明白性の度合は個人によっても異なるし、社会によっても異なる。しかし、度合いだけのことではないとパウロは言っている。たとえ啓示が媒介されたもので、罪人によって大幅に抑圧されていても、それは神御自身からの啓示であるということである。神が、人間に御自分を積極的に表わしてくださっておられるのである。

       そしてパウロは、被造物についての知識と神についての知識はつながっているものだということを私たちに教えている。神は、手段のネットワーク全体の中において御自身を啓示しておられ、御自身のことを語り告げる啓示の全プロセスにおいて、積極的且つ主権的に介入しておられる。つまり、神の用い給う様々な手段は、単なる道具に過ぎないということである。世界の創造の時から今に至るまで、神は、被造物を通して御自分の力と神性をすべての人間に対して表わしておられる、と言っているのである。

       パウロの要点は、「被造物、社会、そして罪人の心の中における神の啓示は間接的なプロセスではない」ということである。神は遠く離れ住んでいる“大家さん”ではない。家を建て、それを貸し出して、毎月家賃の請求書を送ってくる者として御自身を知るように望んでおられるのではない。むしろその反対に、神は刻一刻、毎日、私たちを訪問してくださっておられる。私たちに語りかけ、御自身とその造られた世界について教えてくださっておられる。また、私たちが御自身の子供であるゆえに、私たちが何者であるかを知るように教えていてくださるのである。

     

    神と啓示

       被造物と神とのつながりについて考える前に、まず何を教えているのかということを一緒に考えたいと思う。神の啓示されるものが厳密には何であるのかを19節でパウロは一般的な言い方で「神について知り得ること」と言っているが、20節では更に特別な言い方で「神の神性、神の永遠の力、被造物によって知られ、はっきりと認められる.....」と言っている。これは非常に豊かな意味を持つ表現である。ただ単に「何かの神が存在する」というのではない。「すべての人は神が存在することを知っている」という意味でもない。確かにすべての人は神の存在を知っているけれども、パウロはそれ以上のこと、即ち、「全ての人は神の永遠の力と神性を知っている」と言っているのである。真の神についての人格的な知識というものがここに表わされている。「神は存在するのか存在しないのか」というレベルの話ではなく、「どういう神がおられるのか」を語っている。21節でも表現されているように、彼らは「神を知っている」のであって、「神について知っている」とか「神がどのような類の神なのかを知っている」ということではないのだ。その神とは誰なのか。つまり、真の神は人格的なお方なのである。

       この「人格的」という言い方も神については不適切であるが、他の言葉がないので「人格的なお方だ」と言うしかない。これは「人格(personality)」の話ではない。むしろ「神格」と呼ぶべきものであるが、正しい理解のためには新しい日本語を作らねばならないと常々思わされている。英語の "person"という言葉も、昔のラテン語の「ペルソナ」という「マスク」を意味する言葉から来ているが、それも表現としては不十分であり、その意味も歴史の中で変わってしまっているので、もともとの意味と違う意味で私たちは "person" という言葉を使っている。それ故、言葉としては不十分である。日本語も漢字では「人格」と書くので、どうしても「人」について考えてしまうのは避けられないだろう。「神格」という言葉を使うにしても、こんどは読者が"personality"という意味において考えてくれるかどうかが問題となるので、理解しやすいということでやはり「人格」という言葉を使うしかないと思う。

       神に近づく時、「人格」に出会うわけである。人の手紙を読めば、その人について色々と知るようになるが、人の論文を読む時にはまた違った意味で知ることになる。手紙の方がもっとその人の人間像がはっきりするものであり、その手紙の主はどういう心を持っているのかがよくわかる。しかし、実際にその人に会って、その目を見、その顔を見ながら話せば、また手紙にはない雰囲気がある。だから実際にその人と面と向かって話さなければ、その人を本当に知っているとは言えない面もある。その人の雰囲気によって知る部分は少なくないからだ。

       神の場合、神御自身と面と向かって語るのと同じほどに神の性格や雰囲気などはすべて私たちに啓示されているのである。それは、深く、豊かに、広く、はっきりと啓示されている、とパウロは言っている。「神について知り得る」という言い方はかなり強い。確かに、私たちには知り得ない領域というものがある。神は私たちの知識を無限に越えるお方であり、無限なお方である。神についての知識が無限に増えたとしても、知り尽くせない部分はまだ無限にある。人間にとって神の無限は絶対的なものである。復活してから永遠の天国に入っても、永遠に神は御自分を私たちに表わしたもうのである。私たちは、いつも神について永遠に新しいことを見る。新しい味を知り、新しい色彩に触れ、新しい音を聞き、永遠に尽きることのない新鮮な驚きに出会う。永遠に新しいものに直面しても、神について知らない部分は無限にある。神の豊かさはそういう意味で私たちの理解と想像を無限に越える。だから、「神について知り得る」という言い方をする時に、パウロは知り得ないその無限な部分をも指していると同時に、どれほど豊かな啓示が被造物を通して与えられているのかについて語っているわけである。

       私たちは、「神の永遠の力と神性」という表現を神についての知識を広く指すものとして理解すべきである。これらの言葉を「一神論と全能」というように最小限の意味にとどめてしまってはならない。確かに一神論と全能は含まれている。しかし、被造世界はただ神が存在し、力ある御方であること以上に遥かに多くを神について啓示している。啓示がどれほどのものかについてよりよく理解するためには、啓示の手段についての考察が有効であろう。

     

    被造物による啓示

       「神の力」は、特に被造物を通して表わされる。そして「神の神性」は、神の属性のすべてを含む言い方だと考えてよい。もちろん、人格を持つ神であるということも含まれているし、神の人格的な複雑さも含まれている。つまり、三位一体論がここに表わされているわけではないけれども、三位一体なる神が表わされている。その区別は理解していただけると思う。唯一絶対なる神は三位一体なる御方であられる。それはすべての知り得ることにおいて啓示されている。言葉による特別啓示がなければ三位一体論というものは出てこない。しかし、自然啓示において神の人格的な複雑さは表わされている。ある意味で、自然啓示を通して三位一体である神を知るはずだと言ってもいいと思う。つまり、真の神御自身に出会うということをパウロは言っている。それはどういうことなのかについて今から一緒に考えたい。

       この箇所の啓示は神によって造られた被造世界を通して与えられたものだという事実は誰もが理解し、語っているところである。そして、このことは確かに重要なことである。「創造の時からこのかた...」という言い方は時間的な言い方である。つまり、神が万物を創造した時から、神は御自分をその被造物を通して表わしておられるということである。

       ここで先程のポイントに戻るが、被造物は神を表わしている。被造物である人間は本当ならば本能的にそれを感じるはずである。そのことは、福音を持たず、神を求めず、創造主なる真の神から逃げているこの日本の社会においてもはっきりと見られることである。日本では昔から樹齢の古い大樹を見ると、その樹を何か特別なものを表わす宗教的な存在だという反応を示した。山に対しても、岩に対しても宗教的な反応をする。太陽に対しても、星に対しても、海に対してもそうである。どうしても宗教的なものとして感じてしまうものである。その感じ方は実に歪んだ曲ったものではあるけれども、宗教的な反応そのものは人間として当然なことである。迫り来る星空や何か素晴らしい自然界の物を見る時、動物の不思議な世界を観る時、鳥の声や雷の轟きを聞く時、美しい花に触れたりする時、神に直面しているということを感じる。私たちは、あらゆる意味において周りの世界を知覚する時に、神の自己啓示に直面している。

       例えば、NHKテレビで動物のお産の場面を見せたり、毛虫が蝶々に変わる場面を見せたりする。それは何とも不思議な光景である。創造の力を感じるものである。或は、海の中の魚や生物がどのようにサンゴ礁の中に身を隠し、どのように餌を取って食べるかなどを観察する時にも、創造の美しさを感じてしまうものである。NHKのナレーターたちは番組の中で何度も思わず「本当に不思議ですね。神さまがこのように作ったんですね...」とか言ってしまう。クリスチャンではなくても、偉大で美しい自然を前にする時、人間の口からそういう言葉がついついほとばしって出てしまうのだ。奇異な形をした不思議な魚を見たナレーターは、「どうして神さまはこんな物を造ったのかしら...」と言ってしまう。そのナレーターはクリスチャンでもなければ、神がこれらの生物を造ったということすら信じてはいないのだ。進化論の話をずっとしている最中に、ついそのような言葉が口から飛び出てしまう。それによって、心の中で本当は何を感じてしまっているのかを露呈している。奇異な物、動物の変な形や生態を見る時に、創造主なる神を感じるのである。樹を見ても、山を見ても、空を見ても、神を感じてしまう。雲を見ても、神を感じる。大きな滝を見ても、人は神を感じる。ただ神が存在していることを感じているだけではない。神御自身を感じてしまうのである。

       しかし、人間はその知識を拒むので、その樹を“神”と呼ぶとしても、その神の定義は違うものになってしまう。大きな岩を“神”と呼んで祭る。風をも“神”と呼ぶ。地震、火山活動などのような恐るべきものに対して、すべて宗教的に反応してしまう。日本人だけでなく、文化の異なる他の多くの国々でも反応は同じである。私たちの心の中にある神を知る知識は、外の被造物に対しては自然にそう反応してしまう。だから、全歴史において、この世のすべての宗教の中に“自然崇拝”というものがある。キリスト教を捨ててしまった西洋人たちも、そこに戻っていく。いわゆる“ニュー・エージ”というものは、そういう宗教的なところに戻っていく運動でもある。どうしても神御自身を感じてしまうと同時に、どうしても神御自身についての知識を曲げ、拒み、そこから逃げて、それを別なものに変えてしまおうとする。罪人は皆そのように解釈してしまう。

       しかし、客観的には、神がその被造物を通して御自分を表わしておられるのであって、人間はそれをはっきり感じている。これは単に外からの客観的な事柄ではない。私たちは心理的にもこの啓示に敏感であるように造られているのである。そのうえ、神である御霊ご自身がこの啓示の中を行き巡って証人となられ、私たちが神の御声を聞き、その偉大さを見、その慈しみを味わい、その御力を感じ、その慈愛の芳しい香りを味わうことから逃れられないようにされる。人間は確かに神に直面している。それは自然なことである。しかし、正しく理解するためには「自然を通して...」という表現よりも「被造物を通して...」という言い方のほうが相応しい。

       この事のすべては驚くほどに真実であり、注解書などにもよく書かれていることであるが、もう一つ付け加えるべきものがある。実は、私たちは小さい頃から諸々の被造物の中にあって神の特別な啓示に毎日直面しているのである。それは「神の似姿」と呼ばれる人間のことである。人間も神を啓示する被造物の一部である。聖書は私たちに「神の像を作ってはならない」と命じている。なぜ神の像を作ってはならないのか。

       その第一の理由として、人間が作る像はすべて死んだものでしかないからである。神は生きておられる人格なる御方であられる。いのちのない石や木で作ったもので神を表わすことは不可能である。しかし、神は、御自分を表わす生きた像をお造りになった。それが私たちなのだ。生きている人間は神の像である。表現はおかしいかも知れないが、私たちは、生きて動く絵または像なのである。いのちを持っている像なのである。「神の似姿」という言い方をする時(これは大変な誤解を招く危険性のある言い方だけれども)、そこには「小さな神」と言う意味がある。この言い方を断じて存在論的に考えないでほしい。まったく異端的なものになりかねないからである。アメリカのペンテコステ派の中には熱心にこの言い方をする異端グループも実際にいる。しかし、正しく解釈するならば、「神の似姿」という時には、それは、他の人間を見る時に特別な神の表われを見ているということなのである。

       神はあまりにも豊かで深くて素晴らしい御方なので、その似姿である人間は一人ひとりがみな違うものとして創造された。たとえ私たち皆が罪人でなかったとしても、一人ひとりの性格は違うはずである。違った考え、違った反応をする。好みも違う。それぞれ違った形で神を表わしている。文化の違いも神を違うように表わすし、言葉の違いにおいても神を違うように表わしている。その違うものが多くあるのは良いことなのだ。神は無限に豊かなる御方であるので、一人ひとりの違いを正しい意味で楽しむべきである。「皆が同じでなければならない」というような考え方は、神の似姿として神の栄光を表わすことを殺す考え方である。ただし、その違いの中には、罪人としての罪の問題も含まれてしまうことは避けられない。つまり、「これは私の性格なのだから...」と言って自分の罪を隠そうとするのはまったく別な問題である。人間は一人ひとり性格が異なるのは当然であり、その違いは神の豊かさを表わしている。人間は神の特別な啓示なのである。

       私たちは小さい頃から父母を見て、父母との接触を通して神に直面している。そして他の人間との接触においても、神御自身に直面しているのである。人間関係が広くなるにつれて神のいろいろな面に直面する。神は、実に豊かに御自分を私たちに表わしておられるのだ。人間を知るときに、私たちは神を見ている。人間は神の似姿だからである。更に、人間は自分についての知識においても例外ではない。自分も人間であり、神の似姿である。

       カルヴァンは「キリスト教綱要」の冒頭のところで、「我々の知恵で、真理にかない、また堅実な知恵と見做されるべきもののほとんど全ては、二つの部分から成り立っている。神を認識することと、我々自身を認識することとである。ところが、この二つは多くのきずなによって互いに結びつけられているので、どちらが他に先立つか、どちらが一方を生み出すかを見分けることは容易ではない」と言っており、また「神を知る知識とわれわれ自身を知る知識とは、結びあった事柄である。自己自身を知ることなしには、神を知ることはできない。神を知ること無しには、自己自身を知ることはできない」と言っている。自分を知るときに神を知る。神を知るときに自分を知る。自分についての知識と神についての知識を区別することはできるが、完全に二つに分離することは有り得ない。そのことをカルヴァンは「キリスト教綱要」の一番最初のところで説明している。

       私たち一人ひとりは神の似姿なのである。「被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって...」というパウロの言葉にはそのことも含まれている。自分を知っているならば、神を知っている筈なのだ。神を知っているならば、自分をも知っているはずである。自分を少しも知らない人はいない。しかし、クリスチャンではない人々は、実は自分についての知識からも逃げている。自分の本当の姿を認めることに堪えられないのだ。だから、本当の自分から逃げる。クリスチャンではない人間の心理は結局そのようなものになる。

       もちろんクリスチャンの心の内にもその残骸は残っている。神に逆らい、神に近づきたくないという思いが心のどこかにあるのと同様に、自分を知りたくないという思いもどこかにある。自分を知っていることを認めたくない思いがどこかにある。だから、私たちの悔い改めは浅く、曖昧で、生活もなかなか変えられない。本当の意味で自分は何者なのかを素直に認めて神の御前に出て悔い改めることは、罪人にとっては何よりも難しいことである。だから自分についての知識からも逃げる。神についての知識からも逃げる。自分を騙し、偽りを好む。偽りは逃げ道だと思っている。それが罪人の本当の心の有様なのである。

       「神について知り得る」ことは、そのように人間関係において、また自分自身との関係においても表わされている。この知識には内的と外的の両面があることは既に述べた。子供から大人への人間の自然な成長は一個人としての自己認識が成長していくことをも含んでいる。それはまた社会への依存や他者との関係の重要性に対する認識の成長をも意味している。換言するならば、神は御自身を他の個人、家族、社会を通して私たちに啓示しておられるのだ。この人間を媒介とした啓示こそ、確かに全被造物の中で最も明らかに神を啓示するものに他ならない。そうであれば、神については実に沢山のことを知っているはずなのである。

       善と悪の区別を動物から学ぶことは出来ないし、太陽から学ぶこともできない。もし生まれた時から8歳とか10歳まで狼に育てられて生存しているような人間がいるとすれば、その人は善と悪を知るようにはならないであろう。最悪の知恵遅れの子供のようなものになってしまい、持つべき認識が持てない人間になってしまう。たとい天才になる可能性を秘めた子供として生まれたとしても、他の人間との接触がなければ、神について知り得ることは極めて限られたものになってしまう。魂を失うわけではないが、最悪の知恵遅れの人間と同じ状態になってしまう。しかし、普通の環境であれば、人間関係において善と悪を絶対に知るようになる。しかし、それを拒むことによって感じることができなくなってしまう場合もあり得るのである。パウロは、「彼らは良心が麻痺しており」と言っている。良心が機能しなくなってしまうのである。あまりにも罪が深いので、心が頑なになってしまい、ますます真理に対して心を閉ざすので、その人の良心は何事も正しく感じることができなくなってしまうのである。

       英語では"sociopath"(反社会的人間)という言い方をするけれども、それは、盗みをしても、人に嘘をついても、どんな悪いことをやっても心の中は何も感じない人のことを言う。どんな悪を行なっても、悪いとは感じないでとにかく自分を正当化する。あくまでも自己弁護して嘘をつく。今のアメリカのクリントン大統領のような者だ。あくまでも偽って真理から逃げる。自分を知ることからも逃げる。悔い改めることはしない。面の皮が厚くなって偽りを語っても恥とも思わなくなる。これは同じ民主党でクリントンの親しい友人がそう言っているのである。「彼は、生まれながら巧い嘘をつくことが身についているので、絶対にそれは止められないであろう」と。このような者がクリスチャンでないのは明らかであって、神の御恵みを受けなければ、このような人間が救われることはない。しかし、これはすべての罪人の本当の姿なのである。どこまでそれが極端に走るのかの違いはあっても、大きな違いはない。ヒットラーの記録を見て「どうして人間はここまで酷くなれるのか」と憤慨して、善と悪の区別を人々は感じてしまう。面白いことに、善と悪の区別を哲学的に否定する人たちでさえも「ヒットラーは悪い奴だ」と熱心に主張している。死刑制度に反対し「すべての人間は基本的には良いものだ」と言う人たちでさえ、「本当に酷い犯罪者は死刑にしてもいい」と言うのである。

       善と悪の区別は人間関係において知られるようになり、人間であるかぎり、その知識を完全に取り消すことはできない。神は善なる御方であり、自分は罪人である。そのことも人間関係において自分の心を吟味するならば、誰もが知ることである。人間は、まず初めに両親を通して、そして次に様々な他者との関係を通して神の愛を学び、その御人格の豊かさを学び、その慈しみと哀れみを学ぶ。また、善と悪の区別を学ぶのも人々との関係を通してである。それ故、神こそあらゆる善の源であられ、人間はみな罪人であることが全ての人間について教えられている。

       「この宇宙は偶然にできたのだ」と本当に心の中で思っている人間は誰もいない。宇宙は、そう考えることのできないものである。人間の細胞の一つ一つが小宇宙と呼ばれるほどに複雑なものであり、人間によって造られたどのようなものも、人間の細胞一つと比べれば無限に及ばないと言っても言い過ぎではないほどのものである。まことに興味深いことに、細胞の中は機械のようになっている。細胞を拡大すると、中にベルトコンベアーのようなものがあって、あちこちに物を運んでいる様子が観察できる。一つの細胞に百万以上もの窓があって、その窓が開閉して物を出し入れしている。そこから運び出された物質がコンベアで工場に運ばれて、そこで加工されてから別の所から送り出されていく。ベルトの隣に道があって、その道を工作ロボットたちが歩いているようなものも一つの細胞の中にある。科学者たちは細胞をそのように説明する。それほど複雑で精密な工場を誰も作ることはできない。それほど複雑なロボットを誰も作ることはできない。

       どうして人間の細胞が機械的なのかを考える時に、「なぜ人間は機械を作るのか」という問いに答えなければならない。それはまさしく「人間が神の似姿である」ことを表わしているからである。だから、機械は反人格的なものではない。機械というものは、神の似姿である人間の一面を表わしていると言える。細胞の中には精密なロボットや工場のようなものが沢山ある。神は、実に精密で複雑なものとして人間を創造してくださった。人間が作る工場にはいのちがなく、生きた物ではない。しかし、神が創造した人間の細胞の中にある工場は生きている。いのちがある。そして、それはとんでもなく複雑でしかも秩序のあるものなのである。

       その複雑な工場の真ん中には“図書館”がある。その図書館は、この世にあるどの図書館よりも遥かに膨大なデータを保存している。即ち、“”DNA図書館”である。すべての細胞はそのように複雑で精密な生きた構造になっている。「あっ、それは偶然に出来たんだ」と言うのは誰か。それはあたかも、「世界のすべての工場や図書館、そしてロボット等も、みんな偶然に出来たんだ...」と言うのと同じことである。まったく馬鹿げた話である。そんなことを心から本当に信じることはとてもできない。神から一生懸命逃げているから「偶然」という作り話を持ち出すのだ。人々はその偽りを自分に繰り返し言い聞かせて生きているのである。

       しかし、人間自身が神を表わす被造世界の一部だということを覚える時、その個人の意識と社会関係との両方において、私たちは被造物における神の啓示の広さと豊かさを悟るのである。神を礼拝する義務がすべての人間の上にあることを、その神を知る知識は十分に訴えている。そして、人間社会での他者との関係は、神がただの単一神ではなくて、御人格において豊かなる御方(三位一体)であること、私たちに対して恵み深くあられること、御自分を求める者の罪を赦してくださることを、すべての人に教える筈である。

       従って、要約すると次のように言うことができる。人間を含めた被造物において啓示されている神知識は人格的な啓示である。人間が、人格的な愛とか正しさを求めるのを見る時、私たちは、私たちを創造した神御自身に人格的に直面させられる。決してそこから逃げることはできない。その神の啓示は人格的な啓示である。例えば、皆さんは景子さんを知っている。それこで「景子さんとは誰なのか」というテーマで一人ひとりに10頁の論文を書いてもらうことにする。すると、いろんな解釈が出てくる。一人ひとりの捉え方は違っていても、どれも間違いではない。誰も嘘を書かなくても、景子さんは十分に複雑で深い人間なのだ。また、本当の事を言ったとしても、互いに矛盾しているように見えることもある。それは、景子さんが人間だからである。神の似姿だからである。また、皆が正直に書いたとしても、実際に景子さん本人に会わなければ表わされない面もある。これだけ大勢の人が書いた論文を見ても決して十分ではない。実際に会った時に、言い尽くせない特別な何かがあるのだ。即ち、それは単なる情報ではなくて、人格的な知識というものである。

       すべての被造物においても直面しているし、人間関係においても、私たちは神御自身の人格的な面に直面しているのである。言葉もそうである。自分や周囲の世界の理解において成長するにつれて、私たちはその知識を言葉で表わすようになるという意味で、この啓示は言葉で表わされる情報でもある。人間は言葉で知っていることを表現し、言葉で理解するものである。一般啓示から受ける知識は表現可能なものであり、それは言葉で語り得るし、そうあるべきものである。言葉を学んでいくうちに知識は深まり、論理的に「神はどのような御方なのか」ということを理解するようになる筈であるし、その論理を正しく発展させることも出来る筈である。

       私たちはまた霊的な力においても神を知ることができる。地震、嵐、飢饉などの大変な自然現象などに遭遇したりする時に特別な霊的な力を感じたりする。戦争のような大きな出来事も神を更に力強く啓示するけれども、すべての出来事は主権者なる御方である神を私たちに直面させるものである。だから、パウロがここで説明している一般啓示というものは、三位一体なる神を通しての啓示である。御父、御子、御霊を通しての啓示である。

     

    弁解の余地はない

       そのように、すべての人間は、毎日の生活の中にあって実に豊かに神について教えられている筈である。神の御業を毎日見ており、神の声を常に聞いている。ある意味で、いつも神の御顔を見ている。神の力をいつも感じている。しかし、すべての人間がすぐさま神を知る結果になるわけではない。既に見たように、パウロは人間が「不義をもって真理を阻む」こと、そしてそれ故に皆が「神の怒り」を自分の身に負っていると言っている。人間はみな罪人なので、それを全部消そうとする。その現実から逃げようとする。それで心は鈍く成り、深く感じなくなってしまう。それで、礼拝につながらない。

       その状態をパウロは次のところで説明している。神が、そこまで豊かに御自分を表わしておられるので、「彼らに弁解の余地はない」のである。つまり、罪人は、裁きの日に神の御前に立つ時、「私はあなたを知りませんでした」と言うことはできない。裁きの日に、神の御前に立つ時、生まれた時からずっと知っていた方の顔を見るのである。裁きの御座におられるキリストに直面するとき、それは全く知らないものを見るようなものではない。よく知っている顔を見るのだ(「顔」とは比喩的な言い方である)。「確かに自分はずっとこの御方を知っていた」と、クリスチャンではない者たちすべてはその日には認めざるを得ない。よく知っていたのに、逃げていた。だから弁解の余地はない。「私は、あなたの事を知らなかったし、誰も私に教えてはくれなかった。私には知るチャンスはなかったので、悔い改めてあなたを信じることができなかったのです」というような口実を誰一人言うことはできない。

       それで、次のように言うことができよう。人間はある意味で神を知っているが、別な意味では神を知らない。しかし、彼らの無知は意図的であり、罪によるものなので、弁解の余地はない。そうパウロは言っているのである。これが福音の始まりである。だから神は怒っておられる。ここまで豊かに、ここまではっきりと神は御自分を表わし続けておられるのに、罪人はそれを嫌い、拒み、そこから逃げる。それ故、神は罪人のそのような反応に対して怒り給うのである。これが19節と18節のつながりである。パウロが引き続き示していくように、それ故に彼らは罪に定められ、福音を必要としている。人間はただ信仰のみによって神の恵みである救いをいただいて義となることができるのである。

       私たちも罪人なので神から逃げようとする。クリスチャンではない人たちと全く同じというわけではないにしても、結局神から逃げてしまう。自分の本当の心を認めようとしないで、自分からも逃げる。そういう意味で礼拝は罪人にとっては何よりも難しい。実は、昔の礼拝のやり方をもう少し私たちの礼拝にも取り入れたいと私は常々思っている。礼拝の初めに「来たれ。共に主を礼拝しよう」というような招きの言葉がまず宣言される。なぜそういう言い方をするのかというと、罪人はみな神を恐れて逃げたいような気持ちがあったりするので、まず招くのである。この招きは、神から、長老を通して与えられる招きとして考えるものであった。それで、礼拝は「どうぞ、来てください。一緒に神を礼拝しましょう」という招きから始まる。罪人だから、有る意味で神を怖がるのは当然である。そこに聖なる神がおられるという時に、そこに入るのは怖くなる。だから、憐れみ深い神は私たちを招いてくださる。招かれて、主の前に出るのである。

       礼拝において私たちは心から罪を悔い改めて、神の赦しの宣言をいただく。それで、恐れずに神の御前に出て御言葉を聞くことができる。神に近づき、聖餐式において神とともに食事をし、罪の赦しに対する感謝を覚えて、神御自身を喜ぶのである。ペテロたちはキリストと一緒に高い山に登った時に主イエス・キリストの御姿が変わって太陽のように輝いた。そのキリストの栄光を見たペテロは、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言ったその気持ちはよく理解できる。最初は入るのを恐れていたが、罪の赦しの感謝を覚える時、そして神の栄光を喜ぶ時に、こんどは出たくなくなってしまう。神の御前にずっと居たくなってしまうのである。これはクリスチャンの心の中の複雑さの一面であろう。行くのが怖い。こんどは帰りたくない。

       聖餐式が非常に大切だというのは、聖餐式は私たちが自分から逃げることのできない場所として与えられているからである。神から逃げられない場所として与えられている。聖餐式の時に、浅く、軽く自分の罪を取り扱うならば、神はそれを取り扱い給うのである。生活の中の悔い改めていない罪、取り扱われていない罪はいずれ実を結ぶようになる。大地震の時に、クリスチャンではない人々も「神さま。神さま」と叫ぶように、生活が大変になった時、どんなに心の鈍いクリスチャンでも祈るようになるのだ。神が私たちを取り扱って下さる。正直に、素直に、自分の罪を神の御前にあって悔い改め、心から神の御恵みを感謝する時に、私たちは強められて、毎日の生活におけるすべての事を通してもっと神御自身を感じるようになる。すべての事において神の導きを感じるようになる。すべての事を通して自然に神に近づくようになる。

       私たちは(「一人残らず」という話をしているので隣の人はどうなのかを心配する必要はない。今、あなたのことを話しているのだから.....)、実に鈍感で、愚かで、毎日の生活の中で実際に神を感じている筈のところが沢山あるのに、ほとんど感じていない。本当に感謝にあふれるべきなのに、感謝は十分に出てこない。神に対する飢え渇きは深い筈なのに、それもない。鈍感で、愚かで、感謝もなければ、喜びもなければ、飢え渇きもない。ただ惰性で生きてしまいがちなのだ。そのような自分にとって、聖餐式は実に大切である。この時に、神の御前に来て、神の愛を覚え、心の底からの感謝を神にささげて聖餐を受ける時、鈍感な愚か者は週に一回だけでも神の御恵みを深く感じて感謝するならば、だんだんと生活全体に対して決定的な影響を与えるようになる筈である。そういう意味で、神の近くに、神から逃げることのできない場所に聖餐式は与えられている。この時に、本当に素直に罪を悔い改めて、神の豊かな御恵みを一緒に喜びたいと思う。

     

    ――1998年8月9日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com

     

    ローマ人への手紙1章18節

    ローマ人への手紙1章21節

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