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    ローマ人への手紙2章4〜5節


    2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

    2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

    98.09.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    御恵みと御怒りの富

    2章4〜5節

     

    4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

       ローマ人への手紙2章でパウロは、いわゆる道徳的に高い人々に対して、「他の人を裁く時に、本当は自分を裁いているのだということに気付かないのか」と訴えている。そこにユダヤ人と異邦人の区別はない。まず自分の罪を悔い改めていなければ、どうして他の人を裁くことができるのかをパウロは話している。先週説明したように、これには幾つかの可能性がある。ここに含まれる人間のタイプは複数である。ソクラテスのように、自分で大変な罪を犯していながら、善し悪しを教える教師になっている人がいる。或は、違うレベルで考えるならば、心の中で同じような罪を犯しているのに、他人の表面的なことを裁く者もいる。

       他の人に強要するような規則を作っておきながら自分はあからさまにその規則を破るルソーのような人間であろうと、他の人には厳しい規則を作っておいて自分たちを例外とするパリサイ人のような人物であろうと、或はその罪が単に心の中の罪に留まっているような“道徳的な人間”(その数は一般に思われているよりも遥かに少ないが)であろうと、神の御前に真の悔い改めをもって自分の罪を認めない者には他人を裁く資格はない。

       つまり、人を裁く人間は、「自分も同じようにだめなのだ」ということが解っている筈なのだ。そして、毎日の生活の中で私たちは、裁きを必要とする事柄がどんなものなのかをちゃんと感じている筈である。会社でも、上司が部下に訓練を与える時には、時々叱らなければならないであろう。部下を叱る時、「私も新入社員の時にはこれと同じような間違いをしていたっけ...」という事を思い起こすものである。そして、叱られたりしたことによって自分も成長したことを覚えている。だからと言って、「自分も同じ間違いをしたのだから他の人を裁かない方がいい」という訳でもない。ある意味で、「裁く権利はない」という気持ちがあるとしても、それでも裁かなければならない。その人の為にも、それをしなくてはならない。罪の話だけとは限らないが、自分の罪を裁きながらも、相手を祝福するために裁きを行なうことは、いわゆる道徳的に高い人たちの裁きとはまるで異質なものである。

       結局、ユダヤ人であってもなくても、自分を裁かないような裁きはパリサイ人的な裁きになる。その人を破壊し、駄目にし、潰すための裁きを行なってしまう。そのような裁きを行なう権利は私たちにはない。あくまでも相手の祝福を求めなくてはならない。なぜならば、私たち自身裁きを受けるべき者であったのに、神は私たちに一方的な御恵みを与えてくださったからである。私たちはその御恵みを受けるに相応しい者だと考えることは絶対にできない。御恵みを与えられた者は、他の者にも御恵みを分け与えなくてはならない。神の御恵みを本当に感謝しているのであれば、それは当然のことである。

       だから、神に対して、自分の罪を常に悔い改めつつ、その悔い改めの心をもって、裁くべきことは正しく裁くのである。その裁きの目的は、相手を祝福することである。そういうことでなければおかしいのだ。それ故、パウロは異邦人をも含む律法主義的な人たちに訴えているのである。この人たちは自分の罪を悔い改めていないのに、人の罪を裁き、人の過ちを叱責する。それ故、人の罪を裁く時、本当は自分を裁いているのだとパウロは教えているのである。

       ここでパウロ自身が裁きを行なっていることに注目したい。しかもその裁きはかなり“厳しい”ものである。彼の裁きは実に誰にも隠れ場所を残さないからである。しかし、パウロは、他者を罪に定めておきながら自分自身を正当化するようなことはしない。むしろ、自分は罪人の頭であり、自分は神の御怒りを受けるのに相応しい人間なのだということをパウロは告白している。従って、キリストを信じて改心した後に他の人々を裁くのは決してパリサイ人のようなものではない。相手を断罪する心をもって裁くのではなく、御恵みによる裁きであり、また御恵みに導く裁きでなければならないのである。ここでパウロが「」という言葉(新改訳では「豊かな」と訳されている)を用いて論じている点に注目すべきである。神はその憐れみにより、罪を悔い改め、御自身を求める者たちに赦しと御恵みの富を注ぎ出される。しかし、神が無償で一方的なその豊かな御恵みを提供してくださるのに、それを拒む者には、不朽の御怒りが積み上げられるのである。

     

    豊かな御恵みを軽んじるのか

       悔い改めのないパリサイ人や他のあらゆる種類の“道徳家”は、無償で提供された宝を事実拒んでいる。この宝は、拒まれるならば全く別なものとなる。神の慈愛と忍耐があまりにも豊かに提供されているので、それは「宝」である。罪人は御怒りにこそ相応しい。にもかかわらず、悔い改めの機会があまりにも豊かに与えられているがゆえに、パウロは忍耐と寛容の大いなる富について語っているのである。しかしながら、人が神の慈愛を拒絶するとき、有益な富の源泉であったはずのものが神の裁きの御座の前であふれる訴えを吹き出す泉となる。

       4節で「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのか」と言っている。英語の語順は日本語と逆になっている。「慈愛」と訳されている言葉は原語では「」という意味の言葉であるので、神の善と言い換えてもいい。また、「忍耐」と「寛容」は両方とも忍耐を意味する言葉である。「神の善とあなたに対する御恵みを軽んじるのか」と、パウロは訴えている。クリスチャンでない人たちに向かって「神の御恵みを軽く考えているのか」と言う時、パウロは何を考えているのだろうか。恐らく伝道者の書の8章11節のようなことを考えているのではないかと思う。

    悪しき行ないに対する判決がすみやかに下されないために、人の子らの心はもっぱら悪を行なうことに傾いている。

       私たちは、ここで愚かな罪人の心理と神の不思議な方法との両方をある程度見ていることになる。愚か者の態度とはいかなるものなのかがこの伝道者の書8章11節の言葉に集約されている。道徳的な因果関係の理解においては、愚か者はまるで子どものようである。訓戒が即座に発せられれば、子どもは罪とその報いとの関係を学ばせられるけれども、懲らしめが延期されたりすると、もはやその関係を理解しないのである。それに似て、愚か者も時間が経つと罪と罰を関連づけることを学ばない。しかし、その落ち度が未熟さにある子どもとは異なり、愚か者は意図的に盲目なのだ。彼らは罪とその当然の報いとの間にある関係が見えないのではなく、認めることを拒んでいるのである。罪に対する神の裁きが早く来ないので、悪を行なう者たちは「大丈夫だ」と思って、どんどん罪を犯す方に走ってしまう。それが罪人の心の頑迷さである。

       変な言い方かも知れないが誤解しないで聞いてほしい。ある意味で「神は甘い」という言い方もできると思う。というのは、イスラエルの歴史を見ればわかると思うが、ソロモン王の時代に、ソロモンが犯した罪を神はソロモンの時代には裁かなかった。裁きは次の時代に下され、イスラエルは裁かれて王国は分割され、ヤロブアムは北で王となり、レハブアムは続けて南で王となった。南では良い王が治めたり悪い王が出たりしたが、北の方では良い王はヤロブアムの時から最後まで一人もいなかった。その状態が200年間も続いた。200年間も神は裁くのを延期し、御恵みをもって待っておられた。神に逆らう北イスラエルは、当時まだ本当の信仰を持っていた南のユダよりも繁栄していた。北は十の部族、南は二部族だけであった。経済的にも、軍事的にも、政治的にも、北の方が強い時期が多かった。北の為政者達は本当にどうしようもない人間ばかりであった。敬虔な者たちはどんどん南の方に移って行ったので、キリストの時代になると北の方はアッシリアの奴隷となってばらばらに分散し、信仰から離れてしまっていた。

       しかし、主イエス・キリストが世に来られた時、アシェルの人とかいろいろな部族の人たちがいた。つまり、旧約聖書にも記されているが、北が駄目になって神から離れた者がはびこる時、敬虔な者たちの多くは南に移ってしまっていた。にもかかわらず、南の方はソロモンの後エズラの時に至るまで、昔のように栄えることはなかったのである。真っ向から神に逆らうどうしようもない北の方があらゆる面において優位に立っていて強かったのである。「我々がこれほど大胆に罪を犯しても、裁きはない。こんなに神に逆らっても、神は何もしない。これでいいのだ。神は沈黙して何も気にもしていないのだ。神は良いことも悪いことも何もなさらないのだから、我々は好き勝手なことをすればいいのだ」と彼らは考えた。預言者もその彼らの状態を叱責している。神は何も裁きを行なわないと実際に思い込んで、北は自分らの歩みたい道をひたすら歩いた。それは、裁きが速やかに来なければ、人々の心は悪を行う思いでいっぱいになり、悪の道を一途に歩いてしまうものだということをよく表わした一例である。悪を行なっても、痛くも痒くもないのだ。

       しかし、パウロは伝道者の書と同じような人々に対して、その大きな間違いを指摘するのである。伝道者の書に書いてあるように「神がすみやかに判決を下さないのは、神が憐れみをもってあなたに時間を与えているということなのだ」と言っているのである。愚かな道徳家は自分の心の中にある罪をよく知っており、また生活の中に満ちている自分の罪をもよくわかっていながら、実際には神の御恵みを軽んじている。彼らはあたかも神の忍耐を実質的には神不在の証拠と考えているかのように振る舞う。詩篇記者が次のように書いている通りである。

    こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(詩篇50篇21〜22節)

       御恵みは、場合によっては裁くためのものだとも言える。つまり、神は豊かに御恵みを与え、繰り返し御恵みを与えておられる。その恵みがあまりに大きいので、彼らはどんどん悪くなっていく。最後に、彼らの上に最終的な裁きが下されるのである。カナンがそのよい例であった。アブラハムの時代のカナンに対して神は大きな御恵みを与えた。その御恵みとはアブラハム、イサク、ヤコブである。彼らはカナンに対する大きな御恵みであった。アブラハムは行く先々で井戸を作り、いけにえを捧げるための祭壇を作り、そこで礼拝を捧げ、井戸に集まって来る人たちに福音を伝えた。アブラハム、イサク、ヤコブはカナンの地で御言葉を教え、伝道していた。その御言葉に対する反応が全く無いのに、神は400年間もその土地をカナン人に与えた。その400年間、カナン人はただただ悪くなる一方であった。彼らは神の御恵みをひどく軽んじた。それで、時が来ると、神はイスラエルをエジプトから連れ出し、イスラエルを用いてカナン人に最終的な裁きを下したのである。それによって、カナン人は歴史から消えることとなった。

       そのようなことが旧約聖書の中で何回も出てくる。人間が大変な罪を犯し、直ちに天から裁きが下る筈だと思うのだが、それはなかなか来ない。「なぜ神はすぐに裁かないのか」とクリスチャンは思ってしまうのだが、そのような事が繰り返し聖書に出てくる。神は寛容で、忍耐強く、情け深い。神は裁きを行なうのに遅く、怒るのに遅い。しかし、裁きを行なう時の神は実に恐ろしい。北イスラエルはその裁きを体験した。裁かれた北イスラエルを目の前にして見ていながら、南のユダは何も学ばないで結局北イスラエルと同じ罪の道を歩んでしまうのである。「自分たちの方に裁きは来なかったから、自分たちはこれで大丈夫だ」と思って、その心はますます頑なになってついに神の厳しい裁きを招いたのである。

     

    契約の御恵み

       このことは契約神学において非常に大切なことである。このことについて最も素晴らしいのは神の方法である。詩篇50篇21〜22節にある神の宣言を神についての旧約聖書の描写とは異なる宣言として理解するならば、それは冒涜にもなり得るし、少なくとも拙劣なまがい物の学問になってしまうのは間違いない。前にも話したが、一部の現代主義の学者やリベラルな人たちは旧約聖書の神について語る時、実際に“コントラクト(Contract)”という言葉を使って旧約聖書を説明したりする。彼らは“カベナント(Covenant)”という言葉を使おうとしない。日本語ではどちらも同じ“契約”という漢字になるのもかなり問題となるが...、つまり、「これは契約(コントラクト)宗教だ」と彼らは言うのである。神とイスラエルの間には“ビジネス契約”のような契約があって、イスラエルが善を行なえば祝福を受け、悪を行なえば呪いを受ける。契約宗教とはそのような単純で機械的なビジネスの契約みたいな宗教なのだということをあるリベラルのグループは言う。

       しかし、例えば伝道者の書の8章11節とかイスラエルの歴史を見てみれば、全然そういうものではないのは明白である。旧約聖書の神は彼らが書いているような「“ビジネス契約”的な行ないと律法の宗教をイスラエルに与えた怒れる神」ではない。そのようなものではない。先に見たイスラエルに対する神の忍耐を見よ。北王国が神に逆らって神の真の礼拝の代わりに偶像を礼拝してから200年もの間、神はイスラエルの不正を耐え忍び、救いと裁きとを宣言する預言者たちを彼らに遣わされた。イスラエルを御自分の御許へ引き寄せようと繰り返し試みられた後にはじめて神は北王国を取り除かれたのである。

       更に、神の契約に対する単純且つビジネス契約的な見解にとって矛盾している点は、ほとんどの時期において邪悪な北王国が、彼らよりも邪悪ではない南王国よりも経済的にも軍事的にもあらゆる面で強い力を持つのを神が許したという事実である。神は、御自分の愛する者を訓練し、その信仰を純粋なものにするために彼らに試練を与えてくださるのだ。他方で、御自身からより離れている邪悪な者たちには寛容をもって取り扱われた。その寛容は悔い改めを指し示すように意図されていたが、その頑なさの故に裁きの機会となってしまった。神が御自分の預言者たちを遣わすのを止められるまでは、誰についても最終的に滅びに引き渡されるようなことはないということを私たちはよくよく覚えなければならない。

       神は御自分の御旨に従って御恵みを配分される。御自分がどの人にどれほどの御好意を示されるかについて、何かの方程式や規則に縛られてはおられない。アハブ王はかなりの寛容をもって取り扱われた(第一列王記16章28節以降)。神は彼の祈りに答えることさえした。しかし、アハブ王は他の王たちよりも厳しい裁きを受けた(同21章17節以降)。神は神であられ、御自分の御旨のままに事をなし給う。裁きを行なう筈なのに裁きは来ない。祝福する筈だと思う時にも、祝福も来ない。

       ヨブ記を読んでみるがよい。ヨブは悪いことを一切していないのに、契約の裁きが彼の上に下ったのだ。「なぜ裁かれなければならないのか、私にはわからない」とヨブは神に向かって叫ぶ。それを聞いて、単純でビジネス契約的に考える人間の代表のようなヨブの三人の友はやって来て、「これほどの裁きが下されたからには、あなたは何か悪いことをした筈だ。この事をしたのではないか。あの事をしたのではないか。こういう罪を犯したのではないのか。罪もないのに滅びた者が誰かあるだろうか」と言ってヨブを攻撃する。この友人は心の罪について言っているのではない。「大変な罪を犯していなければこれほど大変な裁きは有り得ない。契約があるではないか、契約を見れば明らかであって、ひどい罪を犯してもいないのに裁かれることはないと書いてあるではないか」というような事を言ってヨブを責めたて、“ビジネス契約”の神学をもってヨブと議論する。ヨブは答えて「私は何も過ちを犯してはいない。私は神に語り、神が答えてくださった者であるのに、私は今自分の友の物笑いになっている」と言って、心を尚も神に向けている。

       ヨブ記の最後になると、三人の友の方こそ特別に悔い改めるなければならなくなる。勿論、潔白であるヨブも神の御前で悔い改めた。ヨブは「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は誰でしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。... 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と、主に答えている。しかし、神の怒りは三人の友に向かって燃え、彼らの悔い改めを要求された。

       その三人が犯した罪とは何だったのだろう。結局、彼らは神の御名を汚す罪を犯したのである。どのように汚したのかというと、そのようにビジネス契約みたいな解釈で神と人間の事を語ってヨブを裁いたことによって、神の御名を汚したのである。その事を彼らは悔い改めなくてはならなかった。だから、これは両方に適用できることなのである。つまり、裁きについて考えるにしても、祝福について考えるにしても、表面的には祝福されているように見えるとしても、その実は祝福されてはいないということである。しかし、神は概して罪を裁くのに遅くあられる。通常、罪人に対して寛容であられるのだ。このようなことは何一つ契約的概念と矛盾していない。契約は数学的に予測できるかたちで歴史に適用されるのではなく、愛と恵みの人格的関係を定義するものであるからだ。

       これは詩篇73篇の話でもある。その中で著者アサフは、「どうして悪者が栄えるのか、どうして誇り高ぶる者がその高慢を首飾りにして平然として生きているのか、どうしてあれほどの悪者がそこまで偉い者になり得るのか、どうして悪者たちはいつまでも安らかで富を増しているのか」を訴えている。「私は一生懸命に善を行ない、神の御言葉を守っているのに、私は苦しみの中で大変な生活を送らなければならない。悪者は脂ぎってますます栄える。それは私の目には苦役だ。この違いはいったいどうしてあるのか」と訴えている。これが旧約聖書に書かれてある現実である。アサフは明らかに神を恐れる者が試練にあったりするのに、神を恐れない者らは苦痛もなく栄えているということを経験によって見ている。神の取り扱いは単純に解釈できるようなものではないのである。広い意味で、そして長時間にわたって観察すれば、神の御業は明らかである。つまり、10年や20年という短い時間の中でこの個人を眺めて解釈できるようなものではない。百年とか五百年の年月の中で見て、社会全体の傾向を見るときに、カベナント契約の原則がはっきりと適用されていることがわかるというものである。

       イスラエルの場合は、200年単位で見れば、この時に罪を犯して悔い改めずに逆らって生きているから、ここで契約の裁きが下されたのだということがわかるというものであった。200年刻みで見れば、契約の原則が非常にはっきりと適用されているのが見える。10年単位で北イスラエルと南のユダとを比較しても何が何だかわからない。個人の場合も勿論そうである。契約の教えはそういう意味で、いわゆるコントラクトの話ではないのだ。神は、私たちを、最も良い方法で取り扱ってくださる。何のために最も良いのかというと、私たち一人ひとりの個人において最も良い方法であるし、神の御国の御計画においても私たちを最も良い方法で取り扱ってくださる、ということである。

       それで、神に逆らいながらも、神はずっと長くその人に対して御恵みを与えておられる。それは旧約聖書の契約の原則の中にはっきりと出て来ている。400年間もカナン人の裁きを延期された。200年間も北イスラエルの裁きを延期された。南のユダの裁きは、堕落後にもっと早く下されたけれども、神は御恵みをもって人々を取り扱いたもうのである。そして、御自分の民の方を悪者たちよりももっと厳しく取り扱うということにもなるのである。敬虔な人こそ、もっと多くの試練にぶつからなければならない。そうでなければ成長しないからである。

       ダビデの人生は実に試練以外は何もないようなものであった。少しだけ祝福を与えたらダビデは大変な罪を犯してしまった。そういう意味では、ダビデも普通の愚かな罪人の一人にすぎないと言うこともできる。試練が立て続けにダビデの人生の中にあった。アブラハムの人生もそうであったし、イサクも、ヤコブも、ずっと試練の連続であった。モーセも試練ばかりであった。サムエルも、奴隷にされて死ぬ日までずっと大変な状態の中に置かれた。神の民には試練は多い。しかし、その試練によって残る実を結び、成長するのである。悪者は祝福の所に置かれることによって結局滅ぼされる。それが詩篇73篇の話である。その人たちは栄えていて、すべてが巧く行っている。それによってどうなるかというと、駄目になるのだ。アサフは、その悪者の栄えるのを見て羨むような気持ちになったりしたが、神を礼拝し、神の聖所に入って深く考えた時、アサフは彼らの最後を悟った。彼らは決して良い所に置かれているわけではない。実にすべりやすい所に置かれているのだ。表面的な豊かな祝福の中で、彼らは自分を腐敗させ、神は彼らを滅びに突き落とされる。アサフはその事を悟った時に、自分に与えられている試練は自分にとっては良いものだということをも悟った。

       だから、契約(Covenant)の取り扱いは単純なものとして考えてはならないのである。神の愛は、そのように試練においても祝福においても表されて、クリスチャンでない人たちに対して直ちに裁きを行なわないとしても、裁きを行なうつもりがないということではない。彼らにも御恵みを与えておられるのである。実際にクリスチャンではない人々の中では、大胆にその恵みが軽んじられている。彼らと話す時、実際に「あなたの神が存在するならば、すぐこの場で私を消してみろ。できるならやってみろ。おい、神さま。そこにいるのか」と言われた事もある。大胆に神を馬鹿にして、あざ笑いながら「ほれ、何も起こらないじゃないか」と言うのである。ソビエトのガガーリンは宇宙から帰還した時に「神はいなかった」という有名な言葉を吐いた。そのように神を嘲笑する。神は寛容であられ、忍耐強いお方であられて、そのような愚か者によって馬鹿にされたからといって急に怒って雷で彼を打つようなことはなさらない。消そうと思えばいつでも消すことはできる。その裁きの日は必ず来る。

     

    御怒りの富を蓄える

       2章のところに戻るが、私たちは裁きを考える時に、祝福と呪いの現象を見てすぐにそれを測り、その人は神の契約を守っているのか守っていないのかを知ることができるわけではない。あくまでも御言葉の基準をもって善と悪をさばかなければならない。清教徒たちの中にもそういう傾向の人はいた。栄えている者は何か良いことをしているので祝福を受けていると考え、栄えているならばそれは良いが、栄えてなければ何か悪いことをしているのだと考えたりした。ある意味で、そしてある程度、それは言えないことはない。つまり、会社を設立したが、どうしても巧くいかない。どこか間違っている筈だ。販売している商品に問題があったり、営業のシステムに問題があったり、罪ではないけれども何かの問題があると言えないことはない。問題がなければそのビジネスは栄えるということも、言えないことではない。しかし、栄えるか栄えないかを見て、それならこの人は罪人に違いない。或は、この人は神に祝福されているのだ、というように単純に測ることは絶対にできない。それを知ることはできないということを私たちは旧約聖書から学ぶのである。

       「ビル・ゲイツがあれだけ金持ちに成ったのはやっぱり神を喜ばせているからだ」という話にはならない。実はアメリカで最も裕福な幾つかの大会社はクリントンを大胆にサポートしている。それほど裕福ではないが、マックのアップル・コンピュータ社もクリントンをバックアップしている。資金も出すし、クリントン側に立っている。アドビ社もクリントンの大のファンで、大変な資金を出して熱心にクリントンを助けている。この人たちがそこまで盛んになって成功して祝福されているのは神の祝福だというわけではない。基準は聖書の律法である。裁きは必ずいつか来る。契約の祝福と呪いは最終的に完全に表される。しかし、私たちは歴史の中においてすべての解決を求めているわけではない。これも詩篇73篇の大切なポイントである。

       ローマ人への手紙の2章もそのところに戻るものである。この世の中ですべてを測って解決を求めて考えたりするのは大間違いである。神の裁きの日は必ず来る。その時どうなるのかをパウロは5節で言っている。神は御恵みを与え、悔い改めの機会を与えているのに、気が付かない。気が付こうともしない。それを無視し、心を頑なに閉じて、御言葉を聞こうともしない。それ故、次のように警告する。

    ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

       「積み上げる」という言葉は、ギリシャ語では「宝のようにして蓄える」という意味になる。つまり、これは皮肉の言葉なのだ。彼らが蓄えているのは他でもない神の御怒りなのである。間違った蓄えをしているのだ。神の御怒りを積み上げているのである。神の裁きの日、その御怒りの日、その正しい裁きが現わされる日に、自分の為にその怒りを頭に積み上げて蓄えているのである。罪を悔い改めない人間は、どんどん神の御怒りを招いて、神の御怒りはそういう意味で蓄えられていく。しかし、裁きの日にならなければそれは表されない。歴史の中である程度まで表されたとしても、本当の意味での神の御怒りは最後の裁きの日に現わされる。最後の裁きでそれは完全に現わされる。

       ここで、悔い改める者と悔い改めない者との大きな違いも出て来ている。そして、ここにクリスチャンの知恵の根本的な原則も与えられている。裁きの日に目を留めて歩むかどうか。それは実に実に大きな違いなのだ。裁きの日を考えてもいないので、心が頑なになって自分の罪を悔い改めようとしない。なぜ罪を認めず、悔い改めようとしないのかというと、「私は、全知全能にして義なる神の御前に立って完全な裁きを受けなければならない」ということを覚えようとせず、考えないからである。毎日の生活の中においても、そんなこと考えもしない。だから、神の正しい裁きに対する恐れの心がない。他の誰の罪よりもよく知っている筈の自分の罪については悔い改めることをしない道徳家の裁き人は、その心の頑なさのゆえに神の御怒りを招いている。神の慈愛を軽んじ、自分自身の罪を認めるのを拒む。それは、その人があからさまに不正を称える悪魔のように不道徳な悪の愛好者(1章32節)に劣らず、心を確実に真理に対して閉ざしていることを意味するものである。そのような人は最後の裁きという現実を忘れている。

       御怒りの日、完全で正しい裁きの現われる日がやってくる。何ものもその日を妨げたり遅らせたりすることはできない。私たちが考え、語り、行なったすべてのことが、自分の面前にいやというほどの鋭さと詳細さをもって並べ立てられる。隠しおおせる罪は一つもない。その日には誰一人自分の有罪の事実を疑い得る者はいない。今罪人が阻んでいる真理が、燃えるような明白さと確かさをもって心の奥底から突然姿を現わし、彼は本当の自分の姿をまざまざと見るのである。すべての人はその日が来ることを知っている。ところが、ほとんどの人はあまりにその事実を無視することに慣れてしまい、まるで最後の裁きの日は永遠に延期されているかのように生きることができるようになっている。彼らにとっての最大の関心事であるはずのことが全く無関心になっているのだ。それで、彼らは罪を犯し続けるばかりでなく、日々御恵みを更に軽んじ続け、そうして彼らが永遠に味わう神の義憤を自分の上に積み上げているのである。

       知恵は神を恐れることに始まり、中でも特に最後の裁きの現実を深く感謝することを意味するものだ。神の現在の慈しみは私たちを真の悔い改めと聖さとに召し給う。その御恵みは私たちを恵み深い者となるように命じ、その慈愛は私たちをへりくだらせ、神を愛し、御自身に仕えるよう動かす。もしも自分の罪のために苦しんでいないのなら――そして明らかに私たちは苦しんではいない――、それは神が御自身の御好意と寛容とを注ぎ出しておられるからなのだ。神の「御怒りの日」を覚えて生活を送るならば、日々悔い改めつつ生活を送るしかないし、神の御怒りの恐ろしさを覚えつつすべてを考える筈である。

       人を裁く時も、自分こそ神の御前で裁かれるべき者であることを考えない筈はない。その認識を持たずに裁くのはとんでもない話である。人を裁くたびに、「私も裁かれる。私も、裁かれる」ということを覚えない筈はない。パウロは、エペソ人への手紙6章で主人と奴隷に、「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」と教えている。しかし、主人たちに対しては、「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じように振る舞いなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」と言う。自分の奴隷を取り扱う時に、先ず自分の主人が天におられることを忘れるな、と教えているのである。他の人の上に立って権威を振るって人を裁いたり導いたりする者は、自分にも応答しなければならない主がおられることを知らなければならない。自分は究極的な者ではない。天におられてすべてを御存知である主が裁くのである。

       福音書の中にも同じような教えがよく出てくる。一万タラントの借りのあるしもべが主人の憐れみと恵みを受けて大きな罪を赦されたのに、そのしもべは、こんど自分の下にいるしもべの小さな罪を厳しく裁いた。それで自分は永遠に滅ぼされることになるのだ。(マタイの福音書18章23〜35節)。裁きを行なう者は、自分が神からどのような恵みを与えられているかを常に覚えて裁きを行なわなければならない。

       やはり、神の裁きの日、その永遠の裁きの日、神の御怒りの日、神の正しい裁きが行われるその日に目を留めて歩まなければ、人間はすぐに傲慢になって自分を基準にして裁きを行なったりすることになる。裁きの目的は祝福し、助け、救いを与えるというものであるが、その目的から離れてしまい、人を潰し、人を駄目にするための裁きになってしまう。以前にチェスのチャンピオンシップでの有名な選手たちに対するインタビューの番組があったが、当時のチャンピオンに「チェスをしていて一番楽しいのはどんな時か」と尋ねると、彼は「相手を完全に精神的にも潰したと実感できた瞬間、それが最高の喜びの時だ」と答えたのである。チェスは心理的な戦争のようなものである。対峙する二人は、負けるのも勝つのも、ゲームというよりは精神的な戦いなのである。

       個人プレーのスポーツとチームプレーのスポーツにはかなり心理的な違いがある。大学時代、レスリング部の友人がいたけれども、結局彼の目的は相手の心までをも潰すことになってしまうものであった。それを目指している彼はかなり傲慢になっていった。常に、相手を潰そうとする気持ちを最高潮にまで高めて試合に臨むのである。チームスポーツでフットボール部の友人もいたが、とにかく身体が大きい。この部屋のドアから入れるかどうかわからない程に彼らは大きいのだ。廊下で会うと壁にでも向かったような感じになる。重くて、大きくて、優しかった。どうしてこんな人間にあの粗っぽいスポーツができるのかと思うくらいに心優しいのだ。他にも何人かそういう人がいたけれども、皆優しくてどうしようもない人たちだった。絶対に怒らない。どんなことされても怒ることはない。あのレスリングのちびには少しでも何かをすれば、直ちに攻撃して来て、潰しに来る。そのように相手を潰すという戦いのパターンが習慣になってしまう人たちがいる。パリサイ人の裁き方とはそのようなものであった。相手を潰すことを楽しんでいるようなものなのであった。

       裁くことを止めてしまうことは間違いであることをもう一度思い起こそう。むしろ反対にパウロはここで、他の人を裁いている人間をさえ裁いているのである。それ故、大切なのは裁きを止めることではない。自分の裁きではなく、神の裁きを宣言することが大切なのだ。私たちは彼らに神の御怒りを警告するのである。それは、彼らが神の御恵みによって御怒りから逃れることができるようにするためである。確かにクリスチャンは裁きを行なわなければならない。しかし、裁きの目的は相手を救うためであり、相手を祝福するためである。パウロはここでも「神の御恵みを無視してそれを軽んじるのか」と訴えている。「相手の目を開かせて助けるのが目的なのに、いったいあなたは何を積み上げているのか。あなたは何をその裁きの日のために蓄えているのか。自分は悔い改めもしないで他人を裁くあなたは確かに神の御怒りを蓄えているのだ。永遠の裁きの日のことを考えなさい。その御怒りの日にどうなるのかをよく考えなさい」と、パウロは律法主義者たちに言っているのだ。それは、彼らの目が開かれて救われるためであって、私たちがこの箇所を読んで、このような人々をあざ笑うためではない。

       「神の裁きの日のことを考えなさい」というパウロの言葉は、私たちにとってとても大切なものである。私たちはこの原則からいとも簡単に離れてしまうからである。自分たちの毎日の生活のすべては、何かをその裁きの日のために蓄え積み上げている。何かを常に蓄えているのである。神の御怒りか、神の御恵みか。もちろん神の祝福を蓄えるにしても、それはただ恵みによるのでしかない。何をするにしても私たちは罪深い者であるから、当然のことのように祝福を要求できるような者ではない。神の御恵みによって与えられる祝福をその裁きの日のために蓄えるか、或は神の御怒りをその日のために蓄えるか、そのどちらかでしかない。道は二つしかない。

       来週から学ぶ箇所でパウロは続けてそのポイントを説明しているが、結局、死の問題が常に私たちの目の前にある。歳をとればとるほどそのことに気が付く。若い人たちの目の前にも同じように死の問題はあるけれども、気が付かないだけである。若い時に友人が死んだ時は本当に信じられない気持ちがしたのを覚えている。その人がいなくなってしまった。死んだのだ。実感が湧かない。そんな筈はない。なぜこんなことが有り得るのかというような気持ちになっていた。しかし、すぐにその気持ちを忘れてしまった。ベトナム戦争の時にも何人かの友人が死んだ。戦争の時になれば、いくら若くても死について考えてしまうものだ。けれども、それでも深く考えることはしない。

       人の父や母になればそれがわかる。最初の赤ちゃんが与えられる時に、泣く度に大丈夫かしらと心配する(最初の赤ちゃんだけかもしれないが...)。後に、さほど心配することでもないことがわかって来るが、それでも熱を出す度に、「もしや悪い病気ではないか、この病気かしら、あの病気かしら、死にやしないか」などと思ったりする。歳を取り、子供たちが自転車でどこか遠乗りする時に、交通事故になりはしないかと父母は心配する。50歳になって心臓とかに痛みを感じたりすると、不安になったりする。20歳の時なら、ちょっと痛みがあっても、速く痛みが無くなればいいのにと思う程度であったが、50歳にもなるとそうはいかない。「これは癌かもしれない。死ぬ病気かも知れない」と思ったりする。若者はそんなふうに思わない。本当は死が常に自分の目の前にあるが、それを考えない。ある意味で、私たちの生活は常に死と隣り合せなのだ。健康で強そうに見えても、実はかなりデリケートなものであって、人間は簡単に死ぬ。簡単に病気になり、簡単にだめになる。しかし、私たちはそれを考えず、それを忘れてしまって、まるでこの世で永遠に生きることができるという確信を持っているかのようにして生活を送っている。

       毎週聖餐式を行なうのは、その愚かさを直すためでもある。聖餐式は、主の裁きの御座の前に立つことでもある。「私は、神の義なる裁きの日に、神の御前に立たなければならない。私のすべての罪はあらわにされて神の正しい裁きを受けることになる。その日に神は私の心を裁き、私のすべての行ないを裁き、私の思いと言葉を裁きたもう。その時、すべてが神の御前に明らかにされて、私は裁きを受けなければならない」と告白するのである。その事を私たちは忘れてしまいがちなので、聖餐式を毎週行なわなければ、絶対に戻らなければならないそのポイントに戻ることができない。絶対に目を留めなければならないその真理に目を留めることができない。鈍感になって、簡単に神の道から離れて生活してしまうのである。クリスチャンでない者は、自分も神の御前に立って裁きを受ける者だということを忘れるので、自分の心の掃除など考えもしない。生活において倫理的な成長を熱心に求めることも考えない。成長していなければ命はないのである。命あるものは必ず成長する。命の無いものはただ枯れて死ぬだけだ。私たちに命があるならば、心から成長を求めて、最後の裁きの日を常に覚えて、その日にどう裁かれるかを何よりも大切に思って、行動し、生活するのである。

       いろいろな試練の中にある時にもこのことは非常に大切である。キリストは「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」と言われた(ルカ福音書9章24節、マタイ福音書10章39節)。自分のいのちを救おうとする者は死ぬ。自分に対して死ぬ者は生きるのである。これは神の裁きの御前に立って自分のことを吟味し考えるかどうかという話なのである。自分の要求と肉の思いを捨て、神の御国とその義とを第一にし、神の御心と神の栄光を第一に求める心をもってすべての事を判断して歩む時、私たちは自分に対して死ぬのである。裁きの日を覚えて生きる時、たとえどんな事をするにしても、皿洗いであっても、それは良い行ないとなる。皿洗いをする時に誰かが見て気付いてくれるかを気にしながら行なうならば、それは罪となる。小さな事であっても、大きな事であっても、それをする時に神の御国を求めながら行なえば、それは祝福となる。裁きの日に、その行ないを神が受け入れてくださる。神に喜ばれ、神に受け入れられるのを求めて行なうのである。この世に認められることを求めて“良い行ない”をする者の心は最初から曲がっている。「私は、あの人に認められるかしら...」と考えながら行なうのは良い行ないではない。

       「神の裁きの日に...」という思いを常に持って行動すれば、大きな問題になることはない。大きな問題となるのは、裁きの日を忘れ、キリストの栄光を求めず、自己中心的な思いになっているからである。そして、パリサイ人のように裁きを行なってしまう時、問題は更に大きくなる。裁きの日の事を考える者は必ず悔い改める筈である。心から悔い改める時、初めて人を祝福するための裁きを行なうことができ、人の徳を高めるための働きができるようになる。聖餐式の時、毎回最後の裁きの日に来ているようなものだ。実は信じる私たちにとって主イエス・キリストの十字架が最後の裁きなのである。キリストは十字架上で永遠の地獄の裁きを私たちの代わりに受けてくださった。キリストを信じる私たちにとって永遠の地獄の裁きは主イエス・キリストの十字架の御業によって完了したのである。

       その意味で、永遠の裁き(神の御怒りの日)は既に歴史の中の事実となった。つまり、キリストにおいて裁きは既に行われたのだ。キリストを信じる者には、裁きは済んだのである。そしてキリストを信じる者は、キリストにあって行われたその永遠の裁きを受けることなく、裁きの日に神の御恵みを受けるのである。私たちは裁きの御座の前に立って、すべての行ないに対する裁きを受けるけれども、それは永遠に滅ぼされるためでなく、キリストと共に御国を相続するためである。そういう意味でも、十字架を覚えるのは最後の裁きの日を覚えることなのである。

       また、主イエス・キリストが十字架上で私が受けるべき裁きを受けてくださったことを覚える時に、心から自分の罪を悔い改めるものである。「私は、もはや自分の為に生きる権利はない。私はキリストとともに死んで、キリストとともによみがえる。私は自分の罪を悔い改めながら、神に向かって生きる。私は主イエス・キリストの為に生きているのだ。裁きを行なわなければならない時にも、他の事をする時にも、神の御国を求めてそれをする。私は神の御恵みが広められることを求める。絶対にそこから離れることはない」と誓うのである。主の祈りにあるように、天の父の御名が崇められるように、神の御国が来るように、神の御心が行われるように、求めるのである。お互いを赦しあって、いっしょに御国を求める。そのことを私たちは聖餐式の時に覚え、そこに戻るのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――1998年9月20日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章1〜3節

    ローマ人への手紙2章5節

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