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    ローマ人への手紙2章6節〜16節


    2:6 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

    2:7 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

    2:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

    2:9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、

    2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

    2:11 神にはえこひいきなどはないからです。

    2:12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

    2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

    2:14 ---律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

    2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。---

    2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。

    98.10.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    裁きと行ない

    2章6〜16節

       ローマ人への手紙2章1〜16節までのところでパウロは、いわゆる道徳的に高い人間を取り扱っている。それは、ユダヤ人であっても異邦人であっても変わりはない。自分の生活や考え方や行ないが他の人たちよりも正しいと思い込んでいるような人間をパウロは取り扱っている。それを取り扱う時に、「他の人を裁くあなたは、それと同じような罪を犯しているので、他人を裁く時、結局は自分を裁くことになる」と説明している。

       その後でパウロは、「神の裁きは真理による裁きである」ということを説明する。つまり、それは本当の裁きだということである。神はすべての人に対して、その行ないに従って裁きを行なう、と6節やその前の箇所にも書いてある。その後でパウロは、律法なしで罪を犯した者は律法なしに裁かれ、律法にあって罪を犯した者は律法によって裁かれると教えている。それは、律法を聞く者が神の御前に正しいとされるのではなく、律法を行なう者が義と認められるからだと、13節のところで説明している。神の裁きは律法による裁きであり、行ないによる裁きだということをパウロは強調している。

       このように、最後の裁きを人の行ないによる裁きとして語る時、信仰による義認という彼の根本的な教理と矛盾すると一部の神学者や注解者は思ってしまう。近代主義の著述家たちにとってこれは、真理の教師であるパウロも不可謬ではないことの証拠だとして考える材料にされている。聖書を信じる著者たちはどうかというと、無論それとは違って、この2章を仮定の話だと考えるわけである。つまり、パウロはここで「もしも人がその行ないによって救われ得るとしたら、このようになっていたであろう」と説明しているものとして受けとめるわけだ。

       「行ないによる裁き」という概念を信仰による義認の必要性の弁護に役立つ仮定と見做すことによって、その二つの教えの間にある矛盾は解決されると考えるわけである。しかし、パウロの意味を理解する上で、ローマ人への手紙2章のみならず、行ないによる最後の裁きについて語っている多くの聖書記者たちに対してもより深い洞察を与える全く異なった、遥かに納得のいく理解の仕方がある。聖書の裁きについての教理を正しく理解するために必要なことは、信仰と行ない、心と生活、それが根本的に一致するものだということを認めることである。それが分離したところに理解はないのである。

       なぜ、道徳的に高い人々に対してこのことを言うのか。それは先週も説明したように、正しさの定義とは、神御自身を求めること、神の御国を求めること、神を愛することである。この重要なポイントは1章18節から始まっている。罪人は神の真理に逆らう者だという説明が1章18節から始まっていて、偶像礼拝などの話がそこから出ている。「表面的に正しければそれでよい」というような正しさは成り立たないのだとパウロが説明する時、「行ないは関係ないのか」という問いに対しても答えている。行ないは大切である。しかし、本当の良い行ないでなければ神の御前では認められないのだと教えている。

       2章16節の中でパウロは「人々の心の秘密が裁かれる」というような言い方をしており、7節では「何を求めて行ないをしているのか」という話をしている。また、表面的には良い行ないに見えても、その心において罪を悔い改めていないという問題を4節で取り扱っている。つまり、本当の行ないとは、表面的に良いだけでなく、正しい目的と動機によって行なっているのでなければ、良い行ないにはならない。最後の裁きにおいて。神は人間の心に隠されているすべての秘密を完全に裁き給うのである。その事をパウロは強調して説明する。それ故、表面的に良いを行ないをしている人がこの裁きのことを聞く時、自分の心はどうなのかについて考えさせられる。そして当然、自分の心がどうなのかは自分には分かっている筈なのである。

     

    旧約聖書における行ないによる裁き

       ローマ人への手紙2章におけるパウロの裁きの教理は新しいわけでも独特なものでもない。それを単に、信仰による義認に関するより大きな議論の一部をなす仮定的な議論として理解されるべきことではない。なぜならば、実際にパウロがローマ人への手紙2章で最後の裁きについて述べていることは旧約聖書と福音書で教えられていることを繰り返したに過ぎないからである。パウロは6節で「行ないによる裁き」について話す。続いて「律法を行なう者が義と認められる」ということを13節で話す。行ないが裁かれ、行ないによって義と認められる。これは最後の裁きの話であることは既に何度も話した。この教えは聖書全体の至る箇所で教えられているものである。

       例えば、旧約聖書の幾つかの箇所を見てみよう。まず詩篇62篇12節を見てほしい。「主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます」とある。神が実に人をその行ないに応じて裁かれるということはダビデにとっては慰めであった。ダビデは神の恵みを求めてそのことを語っている。「主よ。どうかあなたの御恵みを与えてください。あなたは、人の行ないに応じて報いを与えてくださる神であられるからです」とダビデは祈っている。ダビデは、神の裁き方について信仰告白しているのである。

       他の詩篇の中でもダビデは同じ祈りを神にささげている。ダビデは、裁きを恐れてその裁きからの救いを求めているのではなく、むしろそれを御自身の契約に対する神の誠実として見るのである。同様に、イザヤ書3章10〜11節を見てほしい。「義人は幸いだと言え。彼らは、その行ないの実を食べる。悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる」とイザヤは宣言する。神は、最後の裁きについて話すときに、「行ない」について話すのである。正しい者は自分の正しい行ないの実を食べ、悪者も自分の悪しき行ないの実を食べる。それが裁きの原則である。義人にとっては、「行ないによる裁き」という聖書の教理は、必ず申し開きの日が来ることを知るがゆえに、最後まで正しさにあって堅忍するための励ましなのである。

       これらに関連している別なタイプの箇所もある。エレミヤ書17章9節は有名な御言葉である。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」とあるが、これに続く10節は神の裁きについての節である。「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる」と10節では宣言している。人間の罪の心について話すときにエレミヤは、「神は人間の心を知っておられ、その心を探る御方である。同時に、神は行ないに対して裁き給う御方である」と言っているのである。心と行ないを一緒に見て、裁きの日に神は、人間のすべての行ないに応じて報いを与え給うのだ」とエレミヤは宣言している。これらはローマ人への手紙にあるパウロの言葉と全く同じである。心について語るにしても、行ないについて語るにしても、それは必ず一緒に取り扱われる。明らかに私たちがここで理解すべきことは、行ないによる裁きが土台となっていることであり、それは、神が罪人の心を完全に知っておられることが前提となっているということである。同じエレミヤ書32章17〜19節を見てみよう。

    ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。

       ここでエレミヤは神に祈り、神を賛美している。神は、契約に忠実な御方、偉大なる御方、万軍の主である。人間の歩む道を完全に知っておられる(19節)。これは人間の心の話であるが、「神は人間のすべての行ないをも裁く」とエレミヤも言っているのである。神のイスラエルへの訴えの中で、いかにして表面的な生活とその奥にある心が組み合わされているかにも注意したい。エゼキエル書18章30節に「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。―― 悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ」とある。

       旧約聖書の中にはこれらと同じような箇所が沢山あるが、ここに挙げたものは、行ないによる裁きと心に基づく裁きとの一致を表わすものである。しかし、様々な箇所を引合いに出すだけでは本当の意味でこのテーマの重要性を正当に扱ったことにはならない。人間の心と生活の一致は、その行ないが神の存在を表わす神の似姿に創造された人間についての聖書的概念に根ざすものである。「行ないによる裁き」という概念は、神と人との契約関係という概念の全体にわたって根本的なことなのである。事実、注意してよく見るならば、旧約聖書のどこを開いても、悪者の裁きと義人の懲らしめとの両方において、神が人間をその行いに応じて取り扱っておられるのをはっきりと見ることができる。行ないによる裁きとは、契約関係という概念にとって基本的なものなのである。

     

    キリストが教えている行ないによる裁き

       私たちは、福音派の一部の人々が実際にそうしているように、行ないによる裁きを「恵みの契約」に対峙する「律法の契約」として考えるべきではない。なぜなら、私たちの主イエス・キリスト御自身が行ないによる裁きを強調しており、繰り返し教えており、旧約聖書やパウロと同じように、行ないの強調を心についての強調とを一つに結びつけられたからである。「行ないによって裁かれる」ということを最も強調したのは他でもない主イエス・キリスト御自身である。なぜ主イエス・キリストは「裁き」は「行ないによる」ということを強調したのかというと、パリサイ人たちに対して特に訴えていたからである。パリサイ人たちはユダヤ人の中でも「自分たちこそ道徳的に高い者だ」と思い込んでいるグループを代表していた。異邦人の中にもそのような人間はいるので、パウロのローマ人への手紙2章1〜16節の箇所はもっと広いグループについて話しているのは明らかである。ユダヤ人であれ異邦人であれ、とにかく自分を道徳的な人間だと思う者に対して話している。

       しかし、17節からは特にユダヤ人に対して話している。主イエス・キリストのユダヤ人に対する訴えを見ると、繰り返し繰り返し「行ないによる裁き」について話しているのがわかる。バプテスマのヨハネも、悔い改めを表わす行ないをするようユダヤ人たちに命じている。勿論主イエス・キリストは山上の説教の中で「悔い改め」について教えている。ユダヤ人たちが悔い改めることを真剣に考えないからである。裁きの日には大勢の者がキリストに向かって「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか」と訴える。しかし、裁きの座でキリストはその者たちに「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と宣告することになる(マタイの福音書7章22〜23節)。

       その者たちには本当の悔い改めがなく、本当の意味での良い行ないがないからである。そのような者は自分が裁きから逃れると思ってはならない。キリストはその事を説明したすぐ後で、「だから、わたしのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人のようである。また、わたしのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようである」と教えている(マタイの福音書7章24〜27)。「行ない」と「信仰」は一緒にあるということをキリストは山上の説教の中でとても強調している。おそらくこの点で最もよく知られている箇所はマタイ福音書12章33〜37節であろう。この箇所はこのポイントを理解するために特に大切な箇所だと思う。

    木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

       これはキリストがパリサイ人を叱責している箇所である。ここで「正しいとされる」という言葉はギリシャ語の「義と認められる」という言葉と同じ言葉が使われている。人はその語る言葉によって義と認められる。あるいは、言葉によって罪に定められる。だから、言葉は一番基本的な行ないだと言うことができると思う。人間と動物の違いは言葉にあると言っていいし、人間は人格を持つものだという時、それも言葉の話になるわけである。言葉を全く知らないままで育った子どもは大きくなっても人間的な成長は非常に足りないか全く人格的な成長がない人間になってしまう。私たちの言葉は私たちの心にあるものを表わしてしまうものだとキリストは教えている。心はその人が語るすべての言葉の源であり、それ故、人の言葉による裁きは人間の心に対する正確な裁きを意味している。言葉は、毎日の生活の中で最も基本的な行ないの一つとなる。言葉は、ことばなる神の似姿による最も本質的な行為として見做される。それ故、言葉によって義と認められるか、あるいは言葉によって罪に定められる。これは最後の裁きの日のことだということは明白である。

       このことはローマ人への手紙の3章にもつながるものである。パウロは人間の罪について話す時に、手や足について話しているが、何よりも言葉の罪を強調している。何よりも口と舌の罪について強調して教えている。そしてヤコブも、自分の舌を制することができる人間は、からだ全体をもりっぱに制御できる完全な人であり、成長したクリスチャンであると言っている。舌は不義の世界であって、口から出る罪が一番多く、それはからだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、地獄の火によって焼かれるというようなことをヤコブは話している(ヤコブの手紙3章2〜10)。ここで、キリストは、私たちは自分の口から出たすべての言葉について裁かれると教えている。不信仰の言葉、人を愛さない言葉、神に対して愛を表わさない言葉、神を軽んじる言葉、無駄な言葉、愚かな言葉など、口から出たすべての言葉に対して私たちは裁きを受けることになる。

       昔の教会の中ではチャールズ・ウェスレーとかジョージ・ウィットフィルとかいう人たちはこのことを非常に重大視して、基本的にあまり話をしないような生活を送った。必要なければ何も言わない。実際にクリスチャンとして成長する会を作り、そのような考え方に発展したケースもあった。しかし、当然、言うべき時に言うべきことを言わないのも罪であるから、ただ黙っていれば大丈夫というわけでもない。無意味なことを何時間も何時間もしゃべり続けるようなテレビ番組のようなものが氾濫しているが、私たちは、自分の話すことについて本当に気を付けて話すことを真剣に考えなければならない。自分が話したすべての言葉に対して神の裁きが来るとキリストは教えているが、それは「信仰と行ないが一つにつながるところ」なのだとキリストは教えている。「木が良ければ実も良い。木が悪ければ実も悪い」のである。パリサイ人が結ぶ実は悪いものであったが、彼らはそれを決して認めようとしないし、悔い改めもしない。キリストはこのような人たちを「マムシの裔」と呼んだ。パリサイ人の行ないはその罪の心を表わしてしまうものであった。神が私たちの行ないを裁くときにはその木の根を取り扱うことになる、とキリストは教えておられるわけである。

       これはキリストの教えにおいてあまりにも基本的なことであって、主イエス・キリストがパリサイ人に語られたことが既に群集に対して教えられていたとしても驚くべきではない。心と生活(行ない)の本質的一致は、行ないによる裁きについて語るマタイの福音書のすべての箇所の前提なのである。マタイの福音書7章15〜20節にもこう書かれている。

    にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 

       人が神の栄光のために施しをするなら、その良い行ないのゆえに報われるけれども、もし人に見られるためにそれをするなら、その報いを失うことが教えられている。マタイの福音書6章1〜節にあるとおりである。

    人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

       キリストにある信仰をただ告白する者が皆救われるわけではなく、その信仰を示す行ないがなければならないことを主イエス・キリスト御自身が教えておられる。マタイの福音書7章21節にある通りである。

    わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 

       それゆえ、先に話したように、真に知恵ある者とはキリストが命じられたことを実際に行なう者なのである(マタイの福音書7章24節)。皆が御言葉を真に心に受け入れるのではなく、御言葉に従って実を結ぶ者が本当に御言葉を受け入れる者なのである(マタイの福音書13章8節)。足、手、目で罪を犯す者は、滅びるよりはその罪を切り取って捨てるべきである(マタイの福音書18章7節)。自分の罪が赦されたことの意味を真に理解するならば、その人は他の者たちを赦すべきである(マタイの福音書18章22節以下)。賢い乙女たちはその信仰を行ないによって証明し、愚かな乙女たちはその行ないによって滅びる(マタイの福音書25章1節以降)。神が賜わったものを神の御国のために用いる者は救われる(マタイの福音書25章14節以下のタラントの譬え)。行ないによる裁きはキリスト御自身の教えにおいて明白なことである。もう少しキリストの教えを見てみよう。マタイの福音書16章24節からの箇所でこのように教えている。 

    それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。 

       一人ひとりに対して、キリストはその行ないによって報いをする。本当にキリストを信じると言うならば、十字架を負ってキリストに従っていきなさい。そうしなければ、信仰の話にはならないのだということをキリストは教えている。だから、ここでキリストは、「最後の裁きは行ないによる裁きだ」ということをとても強調している。これは「信仰を表わす行ないがないならば、自分には信仰があるなどと思うな」という意味である。キリストは弟子たちに、「もし、私の弟子だと言うならば、このような生活をしなさい。そうでなければ弟子ではない」と言っておられる。確かに人は、おのおのその行ないに応じて裁かれるのである。 

       同じポイントがマタイの福音書の中だけでも実に多く与えられているけれども、それぞれの箇所はいろいろと違った角度からこのことを教えている。前にも引用したマタイの福音書25章31〜46節の箇所も大切なので、もう一度見てみたい。主イエス・キリストは再臨して国々の民を御自分の御前に集められる。ある者たちは羊のようであり、ある者たちは山羊のようである。羊をキリストの右に、山羊をキリストの左に置く。その時キリストは裁きを宣告する。裁きを宣告する時、王はその右にいる者たちに言う。 

    「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(34〜40節) 

       主イエス・キリストはここで最後の裁きについてイスラエルの人々に教えておられる。キリストは完全に行ないによる裁きについて話しておられるのだ。「あなたは、このことをした。このことをした。この行ないをした。これらの行ないをしたので、報いとして永遠の御国に入りなさい」ということである。同じように、左にいる山羊と呼ばれる者たちに向かって次のように宣告しておられる。 

    「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」そのとき、彼らも答えて言いう。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(41〜46節) 

       ここでもすべて完全に「行ない」について話している。行ないが悪かったので、彼らは裁かれて永遠の刑罰にはいるのである。山羊と呼ばれる者たちは、罪を認めずに「いつそんなことがあったのか。あなたに食べ物を与えなかったのはいつのことですか。あなたが牢にいたのに世話しなかったのはいつのことですか。そんな覚えはない。そんなことした覚えはない」と反論する。その時、キリストは「わたしの兄弟にしなかったのはわたしにしなかったのと同じことである」と宣告する。そこまで主イエス・キリストは御自分の教会を愛しておられる。

       「最も小さい者」とは、一番足りない者、奇妙な言い方かもしれないが、それは一番どうしようもないクリスチャンの話なのだと考えてもいいだろう。人間から見れば最も取り柄のない者、卑下される者のことである。そのような弱い者に対する良い行ないを、主イエス・キリストはそれが御自分に対して行われた行為として受け入れてくださるというのである。ここで、その正しい者たちは「よく気が付いてくれましたね」とは言わないのである。むしろ「私はあなたに対してそんなことは何もしていません。いつ私がそんなことをしたのでしょうか」という認識なのだ。

       つまり、義と認められたこの人たちは、決して自分の行ないによって自分が救われるかのような傲った思いはないのである。彼らの中には、「いや、それだけではありません。他にも、このこともしたし、あのこともしたし、これもあれも....毎日メモしてあるので、見てください。ここに私の良い行ないを記録したリストがあります」というような者は一人もいない。義の宣告を受ける時、むしろ恐れて、「自分は何も義を受けるのに相応しいような良い行ないはしていない。主よ。私はあなたのために何もしていないのに...」という思いしかないのである。そして神の御恵みを喜び、感謝するものである。 

       キリストがここで話している行ない自体は、ある意味ではたいした行ないではないという点も見逃してはならない大切なポイントである。水を与える。着る物を与える。食べ物を与える。それらは、ある意味で、それほど素晴らしい行ないというわけではない。荒海を横断し、険しい山に登って、竜を退治して人々を救うような行ないの話ではない。これらは、誰にでも出来る行ないなのだ。大きな大きな、パウロでなければ考えることができないような成長したクリスチャンの思いとかの話でもない。

       しかし、同時に、これは非常に特別な行ないだと言うこともできる。即ち、当時、これは迫害が前提となっている話だからである。マタイ23章からキリストの話はずっと続いている。キリストは神殿の中で厳しくパリサイ人たちを叱った。そして神殿を捨てて外に出てから、神の裁きがこの神殿の上に下されることを教えられた。そして、これから患難の時代が来ることを弟子たちに話した。「患難の時代」とは、ローマ帝国がイスラエルとエルサレムを完全に滅ぼす時を指している。その時に、偽預言者たちが現われたり、神の教会は迫害されたり、戦争があったり、さまざまな災害などの問題が起こってくる。使徒行伝を読めばその時代の背景を知ることができる。使徒行伝の中では大勢の者たちが救われるけれども、その中には偽者もいれば、問題を起こす者も大勢出てくる。その中で教会は迫害を受け、殺される者も大勢いた。

       そのような状態の中にあって、例えばローマ帝国の場合は、投獄された者を尋ねるにはかなりの危険が伴った。自分も捕らえられて投獄されるかもしれない。その囚人の知人であることが知られてしまえば、自分も家族も危なくなるかもしれない。いつ捕らえられるかわからない危険にわざわざ飛び込むことになる。自分のいのちを守ろうとすれば、投獄されているクリスチャンの所に近づくことはできない。自分にまで危険が及ぶからだ。しかし、牢にいるクリスチャンも外からの助けを必要としているのは明らかである。着る物も食べる物も必要としている。もちろん励まし合うためにも会いたい筈だ。どうしたらよいのか。自分のいのちをかけてでも牢にいるクリスチャンの為に尋ねて行くべきなのか。クリスチャンになったユダヤ人は自分の家から追い出され、小さな村では完全に村から追い出されてしまったりした。

       仮に、他の場所に逃れるしかなかったクリスチャンたちが助けを求めてあなたの所に来る。面識もない人が門の所に立っている。あなたならどうするのか。ドアを開けて、その人を受け入れて、食べさせたり飲ませたり、服を与えたりするだろうか。今晩あなたの家に、まったく知らない人が現われたらどうするか。もちろん私たちは今迫害の中にあるわけではないので、事情が違うのは確かである。しかし、想像を働かせて、自分ならどうするかを考えてみてほしい。そうすれば、キリストがここで話している行ないは、どれも信仰を表わす行ないなのだということがわかる筈である。クリスチャンの兄弟姉妹だから助けるのである。例えそれが自分にとって不利であり、自分のいのちを危険に晒す結果になるとしても、その人を助けるのである。その行ないについてパウロは話している。これは、本当の信仰を表わす行ないなのである。そういう意味で、小さな行ないが主の前では大きな行ないになり得るのである。 

       キリストがここでその事を話す時、所謂この世の人間が考えるような聖人でなければ救われないという話をしてはいない。本当に主イエス・キリストを愛し、キリストのために良い行ないをする人間について話しているのである。相手が素晴らしいからその人を助けるのではない。「その人は、私の主であられるイエス・キリストの子どもである。キリストに愛されている者である」と思って、主イエス・キリストを愛するが故に助けるのである。キリストへの思いの故に、兄弟姉妹を助けるのだ。そうでなければ、どんな行ないも良い行ないという話には成り得ない。そうでなければ、危険を冒してまでして兄弟を助ける思いなど出てこない。本当の良い行ないについて話しているのである。その小さな行ないが、大きい行ないとなる。なぜなら、その行ないはその信仰の心を表わすものだからである。言葉もそうであるし、行ないもそうである。 

       ヤコブの手紙2章のところで、ヤコブは行ないによって義と認められることについての話をしている。ヤコブはどの行ないのことを言っているのか。遊女ラハブの話をするのである。そしてアブラハムの話をするのである。ラハブの行ないとはどういう行ないだったのかというと、スパイのようなことをして自分の国を裏切り、イスラエルの神の民を助けたのである。その何が良い行ないだと言うのか。人を騙して、自分の国が滅ぼされるのを求めて、自分の国を滅ぼす者たちを助けたのだ。どうしてそれが良い行ないに成り得るのかというと、真の神を恐れて、神を信じたがゆえの行ないだったからである。ラハブは問題の中で、神の側に立った。どの人間の側に立つかではなく、神による救いを信じたのである。主なる神と一緒に立つことを求めたのである。

       アブラハムの行ないは何だったのか。これも大変な話であって、父が自分の息子を殺そうというものであった。今の社会で言えば、それは単なる殺人という話になる。神はアブラハムに、イサクをささげるように命じられた。アブラハムは神の命令に従い、それをしようとした。自分の息子を殺そうとしたのである。それをヤコブはすばらしい行ないだと言う。どうしてそれが良い行ないに成り得るのかというと、まず神の命令があり、アブラハムは神のためにその事をしようとしたからである。

       アブラハムは、ただ神のみに目を留めて行なっている。これは普通に言う聖人の行ないではない。アブラハムの行ないもラハブの行ないも、そのようなものではない。非常に特別な意味でそれは良い行ないなのだ。その行ないは神によって義と認められた。なぜその行ないが義と認められるのかというと、その行ないこそラハブの信仰を表わし、アブラハムの信仰を表わす行ないであったからだ。ただ裸な行ないとして見るのでなく、その行ないの後ろにある信仰を見て神は報いてくださるのである。

     

    ローマ人への手紙2章のパウロの教え

       だから、口の話は心の話なのだ。先に見たエレミヤ書においても「行ない」と「心」は一緒であった。パウロのローマ人への手紙2章でも、行ないと心は一緒である。本当の信仰があればその信仰は必ず行ないとなって表わされる、という話をしているのである。これは信仰による義認の教理といささかも矛盾はない。むしろその教理を確かにするものである。「行ないによる裁き」とは、換言すれば「真の生きた信仰による裁き」なのである。そして、その信仰は、この世的に見れば変に見えるようなことにおいて表わされる。

       つまり、信仰からでなければ無意味なような行ないにおいて表わされるのである。いのちを危険に晒して牢につながれている者を尋ねるだろうか。はい、クリスチャンはそうする筈である。自分の国を裏切って、外国が自分の国を襲う手助けをする者がいるだろうか。はい、義なる主のためならばラハブはそれをする。自分の息子を殺そうとする者がいるだろうか。はい、主の命令であれば、アブラハムは主を信じて主のためにそれをする。ラハブのような信仰を私たちは同じかたちにおいて要求されたことはない。違うかたちでそれを行なうことはあるかも知れない。

       つまり、私たちクリスチャンは神の御国を第一に求めている。神の御国は、アメリカよりも日本よりもその他のどの国よりもずっと大切であって、アメリカの命令が絶対だという考えは私たちにはないはずである。国の法律に従うのは、それを神が命じておられるからである。自分の国よりも神の御国の方が大切なのである。場合によって、実際の行ないにおいてそれを表わさなければならないことも有り得る。中国のように、正式に神の教会を迫害する時に、私たちは神の民を助けるような行ないをするだろうか。答えは「はい」である。例え法律違反になるとしても、それをするのか。答えは「はい」である。それが、ラハブのように警察を欺くようなことであっても、それでもするのか。はい、その通りである。そういう意味で今の時代にあってもそれは起こり得ることである。神の御国とその義を第一に求め、キリストを愛し、キリストにある者を愛するからそうするのである。ロシアのクリスチャンのためにも、中国のクリスチャンのためにも、それをしなければならない時には、それをすることによって自分の信仰を表わすことは有り得ることだ。 

       神の御国を心から求めている。それが本当のクリスチャンの姿であると、ローマ書2章の最初のところでパウロは話している。ただ単に親切で、ただ単に表面的に良い人だというような話ではない。神御自身を、神の義を、神の御国を第一にして、それをすべてのことにおいて求めるのがクリスチャンである。子供たちの教育において御国を真剣に求める。自分の仕事においても神の御国を第一に求める。家庭生活の中でも熱心に御国を求める。本を読むにしても、休息のひと時であっても、食べるにしても、テレビを見る時にしても、何をするにしても神の御国を第一に求めている。それが本当のクリスチャンの生活であり、真の信仰の行ないなのである。

       そういう意味でパウロは、「裁きの日に神は私たちの心の秘密を裁き給う」と言う。それによって、行ないによる裁きとは真の信仰による裁きなのだということをパウロは私たちに教えている。この世にあって私たちが救われて義と認められるのはただ信仰のみによる、ということを私たちは強調して教えなければならない。このことは非常に大切である。ただ恵みのみによる救いに他ならないからである。しかし、恵みによるからといって良い行ないをしなくてもいいのだろうか。恵みを与えられた者が、まるでクリスチャンではない人たちと同じような生活をし、同じような考えで生きていていいのだろうか。その問題が後にローマ人への手紙の6章で取り扱われる。「断じてそんなことはない」とパウロは言っている。本当に神を信じ、主イエス・キリストを自分の救い主として信じるならば、その信仰から必ず愛が生まれてくる。愛は働くものである。

       ガラテヤ人への手紙5章6節のところで、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」とパウロは教えている。行ないがあって、愛があって、信仰がある。そのどれも欠けてはならない。同時に成り立っているのでなければ、その人の信仰そのものには問題がある。木が悪ければ、その結ぶ実も当然駄目なのである。実を見て木を知ることができる。それが行ないによる裁きの話である。「この木のすべての実はだめだけれども、根の方はたぶん大丈夫でしょう」という判断は有り得ない。実が全部だめならば、木は駄目であり、根も掘り起こして捨てなければならない、という話になるのだ。農業の仕事にたずさわる人々はそのように判断する。当然の話なのである。その木を根こそぎ切り倒し、燃やして、別の木を植えなければならない。 

       先週も触れたけれども、今私は非常に興味深い本を読んでいる。その本の中でフランスの心理学者たちがフロイドを非難している。一応フロイドの伝統に立つ人たちも含まれているけれども、その人たちがフロイドを非難する時に、フロイドが書いた本、フロイドの実生活とその行ない、そしてフロイドの言動を詳しく観察して非難している。「フロイドはこの時にこの事を語っていた。この時にこのような事を行なっていた。フロイドの日常生活の中でこの出来事があった後で彼の考えがこのように変わった」というようにフロイドを徹底的に分析している。フロイドの伝記や論文、フロイドの実際の行為を全部並べたてて心理学的に分析しているのだ。

       どんな結論になったかというと、簡単にまとめれば、「フロイドは完全に自分を騙していた」という非難が一つである。自分を隠そうとするために色々な事を言うけれども、注意して読めば結局本性がバレてしまう。なぜバレるかというと、一つには現実としての彼の行ないがあるからである。手紙の中で話すことと論文の中で語っていること、そして彼の行ないを実際に一緒にして見てみると、「この者は自分を欺いて理論を書いたり理論を立てたりしている」ということに気が付くわけである。

       もう一つの結論は、フロイドは「自分はいつも人々の自立のために働いている」と言っているけれども、彼の実際の行ないを見れば、彼はまったくの独裁者であった。フロイドの弟子たちが少しでもミスをしたり機嫌を損ねるようなことをすると、ひどく攻撃されるのが常であったという。どうしようもない独裁者だったのだ。自由など絶対に信じてはいない。少しでも彼について研究すれば、その行ないと論文の矛盾ははっきりと暴露されてしまう。フロイドを研究すれば、フロイド心理学は自分を義と認めるためのものであり、自分を正当化するための心理学なのだということがわかる。自分の悪を、自分からも他人からも隠すための心理学なのだ。そして、自分の大変な悪行を実に愚かなやり方で正当化し、美化する心理学である。

       しかし、それは全部暴かれてしまう。けれども、ある時フロイドはこのよう言っている。「どんなに自分の心を隠そうとしても、それは行ないにおいて表われてしまう」と。それは確かである。それは聖書の教えるところである。それはまた文学の基本でもある。良い文学は、知恵を表わし、そのような倫理的なことを鋭く暴くものだからである。これは、ある意味で倫理の常識に過ぎないのだ。もしフロイドの心理学に少しでも良いところがあるとすれば、それは心と行ないにはつながりがあるということを前提にして人間の行為と言葉を中心に分析するところにあると言える。もちろん彼の分析の方法論はまったくおかしなものである。今、行ないがその心を表わしてしまうという非難をフロイド自身が受けている。この本を読むときに本当に笑わずにはいられない。フロイドは自分が作った理論によって自分が料理されているのだ。実に、人間は行ないにおいて自分の信仰を表わしてしまう。それは止むを得ないことである。 

       それで、言葉も行ないも、心にある事を表わすものである。心に金があれば、言葉も行ないも金となる。心にゴミがあれば、言葉も行ないもゴミのようなものとなる。心に真の信仰があれば、信仰からの言葉と行ないが溢れ出てくる。それはきっと信仰を励ます言葉と行ないになるはずである。人を祝福し、人を励まし、人を立てて導く言葉や行ないになる筈である。心に信仰がなければ、結局は人の心と行ないをだめにすることになる。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです」とキリストはパリサイ人に話している(マタイの福音書12章3節)。

       「だから、自分の行ないを見て悔い改めなさい」とキリストは教えているのである。行ないによる裁きとは、真の生きた信仰による裁きを意味する。パウロが最初にローマ書2章6節で詩篇62篇12節およびそれに似た箇所を暗喩し、引き続き善の本質は神の栄光を求めることだと強調した時(2章7節)、パウロが前提としていたのはこの理解である。忠実な服従をもって律法を実践する人が救われるのである(2章13節)。その人は律法がその心に書かれている人であるからだ(2章15節)。神がその人の行ないを裁くその「最後の裁きの日」とは、神が彼らの心の秘密を裁く日なのである(2章16節) 

       従って、この箇所は引き続き表面的に道徳的である人物に対する警告となっている。即ち、神の御国を求めず、悔い改めもしないで、自己中心的に生きている人に対する警告である。パウロはそのような人に、彼らの行ないが彼らを動かしたその心の動機と目的によって裁かれることを教えている。また、彼らの行ないは、神の律法に従っているのか、あるいは単なる人間の思いに過ぎないのか、そのどちらかなのだということを彼らに教えている。当然、この警告は私たちクリスチャンのためでもある。私たちの生活は神の御国と神の栄光のためにささげられていなければならない。私たちの良い行ないは神の律法に従って行われなければならないからである。さもないと、私たちは自らを誇る道徳家となんら変わらなくなってしまう。パリサイ主義は新約聖書においてかなり多く扱われているけれども、これは人間誰しもがいとも容易く陥る罪だからである。しかし、神とその御国のために生きるビジョンを常に目の前においてこれを新たに認識することによって、私たちは良い行ないの生活ができるだけにとどまらず、より深い信仰と愛と感謝へと鼓舞されるのである。

       私たちは、毎週神の御前に集まって礼拝を捧げるときに礼拝の中心として聖餐式を守っている。礼拝は神との契約を新たにする行為である。契約を新たにするということは、自分の罪を悔い改めて、心からその罪を捨てて、神に戻ることを意味している。本当の信仰をもって礼拝をささげるということは、感謝をもって礼拝をささげることである。私たちはキリストの十字架に対する感謝をもって聖餐式を受けるのである。一週間の中で何よりも私たちの信仰をよく表わす行ないは聖餐式そのものだと言ってよいかもしれない。

       聖餐式の時に、自分の罪を真剣に悔い改めて、それを心から抜取って捨てて、主イエス・キリストに心からの感謝をささげるのである。まずこの小さな行ないが正しくできなければ、信仰はいったいどこにあるのか、という問題になる。自分の罪を正直に認めて、捨てて、感謝を私たちの三位一体なる神に捧げる。それが聖餐式の行ないである。心にあるすべての言葉が裁かれる。あなたが口にするすべての言葉が裁かれる。その事を覚え、神の救いを覚える時に、キリストの十字架に対する感謝は心に満ちてるはずである。どんな試練の中にいても、どんな危険の中にあっても、賛美と感謝が心に満ちているのでなければ、その心は腐っている。それは信仰の心ではない。神から永遠の救いを与えられた者は、感謝と喜びと神への賛美に満ちている者でなければ、その罪は実に深いと言わねばならない。それは大変な罪なのだという認識が必要である。そのことをよく覚えて聖餐式の時に私たちは真の悔い改めをもって主イエス・キリストに戻るのである。主イエス・キリストに対する賛美と感謝の言葉が心にも口にも満ち充ちているならば、私たちは本当に信仰を表わす行ないをする者となる。初めて本当の意味で良い行ないをする者となるのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年10月11日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章6〜11節

    ローマ人への手紙2章12〜16節

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