HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙3章9節〜12節


    3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

    3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

    3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

    3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

    98.11.22. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    すべての人が罪の下に

    3章9〜12節

       ローマ人への手紙の一番最初の長い段落は1章18節から始まって3章の20節までの箇所である。その長い箇所においてパウロは、「人間は罪人であって救いを必要とするものだ」ということを証明し、深く説明している。1章18節から3章8節まではローマ人への手紙における最初の大きな区切りであり、パウロは異邦人もユダヤ人もみな罪人であることを深く細かく説明している。彼の教えに反対するいくつかの議論を取り扱った後、3章9節から20節のところでパウロはまとめをしている。3章9節からのこのまとめの部分は、1章18節から3章20節までの長い箇所の結論のような部分である。今日からこの結論の部分に入りたい。この最後の段落は人間の罪の性質を取り扱い、人間の腐敗が根本的かつ包括的であることを明らかにする。この段落を更に二つの段落に分けることができるが、それでも一つの結びを構成している。ローマ人への手紙5〜7章は罪について更に豊かに取り扱っているが、聖書の中で一つのまとまった箇所としてはこのローマ人への手紙3章の箇所ほど広い意味で人間の罪の教理を要約している箇所はない。まずパウロは人間が罪の下にあることを示し(9〜18節)、そして結びの告発を宣言する(19〜20節)。

    9では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」15「彼らの足は血を流すのに速く、16彼らの道には破壊と悲惨がある。17また、彼らは平和の道を知らない。」18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」19さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。20なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

     

    罪が主

       9節は聖書翻訳者にとって幾つもの問題を提示しており、この節の細かい部分は確かに難しい。とは言え、主な要点は明らかである。「ユダヤ人は罪人であって神の御怒りの下にある」と論じれば、自分の議論が神の真実に対する議論へと歪曲され得ることを知っていたパウロは、3章の冒頭の数節でそれらの反論を先に取り扱った。今やパウロは異邦人とユダヤ人への告発という主旨に戻っている。ユダヤ人への神の契約の祝福は何らかの意味で彼らを異邦人に勝るものとしたか否かをパウロは問う。答えは当然「否」である。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も共に「罪の下にある」からである。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」とパウロは言っている。

       「責めたのです」というのは「証明した」というような意味を持つ言葉である。ユダヤ人には特別な祝福が与えられたがユダヤ人は忠実ではなかったことをは3章1節から8節までのところで説明した。それで9節は、「ユダヤ人も異邦人もみな罪の下にあるということを、私は1章18節から2章の終りまでのところで既に説明したではないか」と念を押しているようなものである。

       ただし、ここでパウロは興味深い言い方をしている。「罪の下にある」という言い方は、まるで罪を擬人化し、それがある種の権威を人間の上に獲得したかのように罪について語っている。「人間は、罪の力の下にある」と言うのである。そして、「人間が罪の支配の下にある」とはどういうことなのかを9節から18節のところで、旧約聖書のいろいろな箇所を要約して一つのまとめとして引用している。続く10節から18節までは「罪の下にある」とはどういうことかを簡潔にまとめたものである。

       「」という言葉、そして「罪の下にある」という概念について考える時、実は、一番深くこのことを説明している箇所はローマ人への手紙5章から7章までの箇所である。パウロのすべての手紙の中で「」という言葉の半分くらいがローマ人への手紙の5章から7章に出て来ている。そこでは罪について実に多くのことを語っている。そして、5章から7章のほとんどがクリスチャンについて書いてある箇所なのだ。つまり、「人間は罪の下にある」ということについて考える時に、確かにパウロはここでクリスチャンではない人々の根本的な問題について語っているけれども、クリスチャンも無関係ではない。旧約聖書のダビデの詩篇もイスラエルと無関係ではない。人間はみな罪人である。それは私たちクリスチャンの現実でもあるので、この箇所を読む時にはクリスチャンでない人においてはどういう意味なのかを考えなければならないと同時に、私たち自身も同じような罪人であって同じような罪の傾向があることを注意深く覚える必要がある。

       「罪の下にある」という言い方をしてまるで罪が支配者であるかのように言っているけれども、現実はそうであっても、それは正当ではない。人間は力としての罪の下にあるだけであって、罪は正当な権威として人間を支配しているわけではない。それでもやはり、人間はそれに従い、それが彼らの生活を支配することを許してしまう。ローマ人への手紙6章を見れば、「クリスチャンはもはや罪の下にある者ではなく、キリストの下にある者となった」とパウロは説明している。そして7章に入ると、また違う意味でクリスチャンは罪の下にあるということを説明するのである。

       つまり、信じる者と信じない者の間には決定的且つ根本的な違いがあるのは確かだが、この世に生きている間はまだ罪から100%解放されているわけではないということをパウロは6章と7章で説明するのである。そういう意味で「罪の下にある」という言い方の意味について考える時に、クリスチャンではない人たちについてどうのこうの話してばかりいても無意味である。何よりもまず私たち自身のことについて真剣に考えなければならないのである。

     

    旧約聖書の証言

       「罪の下にある」ということについて10節から18節までの箇所でいろいろな旧約聖書からの連鎖的引用によってパウロは自分の訴えを確証する。罪の支配がどこまで行き渡っており、どこまで浸透しているのかを旧約聖書の引用を連ねてパウロは説明している。様々な箇所の引用を配列し、言い回しを変えたりして、旧約聖書からの教えを一つの詩としての構造を持つように書いている。この箇所は三つの段落になっているが、3行を二組持つ1段と(10〜12節)、2行を二組持つ2段(13〜14節、15〜18節)から成っている。その第一段落である10〜12節のところを今日は考えたい。

       これは伝道者の書7章2節から取った言葉で始まるようにみえるが、詩篇14篇1〜3節や詩篇53篇1〜3節の七十人訳を要約して短くし、編集したものである。つまり、詩篇14篇には「正しさ」の言及がなく、それは伝道者の書7章20節にある。その伝道者の書の言葉を取り、詩篇14章1〜3節のあるものを取り除き、二つの箇所を一つのものにするような引用法を用いている。

       神の怒りを買うことには無頓着でありながら、正しい引用については非常に注意深いように見える神学者たちがいる。彼らは、パウロがへブル語原典からではなく七十人訳から引用しているという事実や、パウロが必ずしもそのままの言葉で引用していないという点で問題があると主張する。しかし、聖霊が聖書の著者であられるなら、御自身の作品を編集したり、言い換えたりすることに一切問題はない。問題はすべて、私たちが聖書の神を信じるか否かにあり、私たちの思弁のすべてを神に対する信仰に基づかせるか否かということに集約されるのである。

     

    義人はいない

       「義人はいない。ひとりもいない」というところからパウロは始める。正しい者はいない。一人もいない。勿論、この告発は、神の裁きの御座の前に立って正しさを考えることが前提となる。ギリシャ語の定義はへブル語の定義と違う。ギリシャ語の「正しさ(義)」の意味は、まず絶対基準というものがあってその基準に合わないことは正しさではないということではなく、もっと相対的な意味になる。例えば、町を例として考えれば、その町に適合することが「義(正しさ)」であり、町に適合しないことはすべて「不義」という意味になる。

       古代ギリシャの理解はこれに似ているものであった。彼らの「義」の定義は世俗的で実際的なものではあったが、それなりに契約的であった。古代ギリシャ人にとって、正しさは誓いをもって契約を結んでいる政治的共同体の安寧に役立つものと考えられた。それは神による義の定義ではなく、人間の幸福に基づく定義であった。本当の共同体である神の都を考えるよりも、寧ろギリシャの都市国家という政治的共同体が究極的であったのだ。とはいえ、その定義は、「義」が都市国家における他者との宣誓に基づいた関係によって定義されるという意味で、それでも契約的なものであったのだ。そして、クリスチャンではない人たちの間における義の現代的理解も基本的にはそのようなものである。普通の異教の社会もそのようなものである。

       しかし、聖書の「正しさ=義」の概念には明確な基準がある。聖書では神御自身が義の基準であられる。それは絶対的な基準であって、その基準に従わなければ「義」ではないのである。聖書の「義=正しい」という言葉は「神の基準に従う」ことを意味し(ヨハネの第一の手紙3章4節)、「神御自身との契約関係」という概念を前提とするものである。そういう意味で、旧約聖書には非常に客観的なはっきりした定義がある。

       そのために神はモーセの十戒をイスラエルに与え、そのモーセの十戒を細かく説明するための613の命令をも与えてくださった。「正しさとは何なのか」を考えるための明確な定義を神はイスラエルに与えてくださったのである。それらの細かい命令を今日でも昔のイスラエルと同じように守るわけではないことは明らかである。私たちはイスラエル人に命じられたような着物を着ることもしないし、その命令に従って食べ物を考えたりはしない。しかし、倫理の基準という意味では今も昔も変わりはない。そういう意味でモーセの律法にあることも、パウロの手紙に書いてあることも、黙示録に書いてあることも、「倫理の教えとしては一貫して正しさの基準を示している」のである。その基準に立って言うならば、「義人はいない。一人だにいない」とパウロは確言する。

       これは当然クリスチャンではない人々について言えることであるが、クリスチャンにも適用される。私たちも毎日毎日、神の義の基準に逆らうようなことを考えたり、口にしたり、行なったりしている。「人間はみな罪人である」という聖書の概念は「完全な正しさの基準がある」ということを前提にしている。その基準とは、最終的には神御自身である。「神は正しい」というだけでなく「神は正しさ=義」である。聖書に書いてある義しさの教えは、創造主でありまた裁き主である神がどのような御方なのかを教えるものなのである。神御自身の似姿として創造された人間は、神のようなものとして創造された。神のようなものとして生きるために創造されたのである。最初から神に従って神と同じように正しさを現わす者として創造されたのである。

       しかし、神の命令に逆らってしまったアダムとエバは、「正しくない者」になった。アダムの子孫である私たちは正しくない者として生まれ、そして思いにおいても言葉においても行動においても、毎日正しくないことを行なってしまう。「誰一人正しい者はいない」というとき、それは「完全で明確な正しさ」という基準において教えているのである。これはクリスチャンではない人々にはなかなか通じない話である。なぜ通じないのかというと、彼らには正しさの基準がないからである。自分が善人かどうかを考える時には周りの社会を見て相対的に判断するだけである。「社会全体から見れば、自分もまんざら悪い人間でもない」と思うわけだ。「ヤクザでもないし、万引きもしないし、人殺しもしたことはない。一生懸命働いて自分の家族のために頑張っている。何が悪いのか」と思うのである。

       面白いことに、悪いことをしている者は、「自分がやっている悪はそれほど悪くはない」と考えるものなのだ。そしてそれを巧みに弁護するものである。「確かにこの事においては悪いことをしているかも知れないが、他の人たちはもっとひどい事をしているではないか。私はこれしかやっていないのだから、そんなに悪くはない」と弁護する。或は、「これは皆がやっていることなのだから...」というクリントン主義のような弁護をするかも知れない。クリントンは偽証したことが明らかにされると、ホワイトハウスの元大統領らの名前を連ねて「彼も同じことをしたではないか。私だけではない」と、どんどん次から次へと他の大統領の女性問題を出してくるのである。「確かに悪いことをしたのは認めるけれども、私はそれほど悪くはないのだ」と自己弁護する。

       もっと面白いのは刑務所のことである。これは実際に刑務所で働いている人から聞いたことだが、刑務所の中では、盗みで投獄された者たちは麻薬密売で投獄されてきた者たちを見下すのだという。こんど、麻薬密売者らは殺人犯を見下す。「私は麻薬をやったけど、彼奴らは人を殺したのだから、もっと悪い」と思うわけである。こんどは、殺人の罪で投獄された者たちは、殺しの動機が何だったかとか誰を殺したかとかによって互いを見下すのである。「私は一回しか殺人をしていないが、あの盗っ人は何回も繰り返しやっている。だから、私の方がずっと良い。私は一度だけ怒って罪を犯してしまったけど、彼らは常習犯なのだ」といって自己を弁護する。「あいつは子供を殺した。こいつは女を殺した。私は理由があって殺したのだから、彼らは私よりもひどい」というふうに理屈を考える。とにかく、刑務所の中での自己弁護のやり方は決まりきったものとなっている。

       罪人は、そこまで自己弁護がうまいものなのだ。心の中にどれほど深くアダムのその罪が根付いていることか。「彼女のせいだ。あの蛇のせいだ」という心が、どんなに深く私たちの中にあるかがよくわかると思う。刑務所に入れられた者たちに「おまえは罪人だ」と言ったら、「はい、私は罪ある者です」と反応するかと思ったらとんでもないのだ。正反対に「自分は他の者たちよりもよい」と懸命になって考えるのだ。「私は運悪く捕まったけど、社会の中には私よりも悪い奴はいくらでもいる」と愚痴る者も少なくない。刑務所では、驚くことに「私は何も悪いことはしていない。誰かの嘘で私はここに入れられたのだ」と訴える者が大半なのである。

       とにかく罪人は、自分が正しくないことを認めたくはないのである。私たちもそうではないだろうか。私たちも自分は正しくないとは認めたくない、考えたくもないのではないか。「私たち」とは、「つまり皆さんのことである。私はそんな者ではない」ということでもない。「私たち」と聞いて「ああ、あの人は本当にそうなんだ」とは考えないでほしい。自分のことを考えていただきたい。罪人はとにかく自分の罪よりも他の人の罪がよく見えるものなのだ。だから預言者ナタンがダビデに話すとき、ああいうやり方で話さなければならなかったのだ。それは賢いやり方であった。ナタンには人の心の問題がわかっていた。他の人の罪にはすぐに目を留めるけれども、自分の罪を認めようとはしない。結局のところ自分の罪を認めず、自分が正しくないことを認めず、自分の罪を悔い改めようとはしないで、それを神のせいにする。

       そのことはアダムの時以来はっきりしている。アダムの言い訳は「あなたが与えたあの女が...」というものであった。「私は、この状態に置かれたからこの罪を犯してしまったのだ」と言うわけである。その状態に置いたのは誰だというのか。最終的に誰のことを言っているのか。普通、人は「最終的に」というところまで考えはしないが、「それは父のせいだ。母のせいだ」と言う。「それならば、その父と母をあなたに与えたのは誰なのか」という話になるわけである。

       自分の罪を認めず、悔い改めず、それを弁護しようとする。それは最終的に神のせいにすることに他ならないのである。神を攻撃していることになる。人間が神の基準から逸脱するのは突発的なあやまちというようなものではなく、愛、親切、善に対する反逆なのである。その上、神に反逆する姿は全人類に深く及んでおり、例外はない。すべての人は不義な者となった。契約の基準に従う者は一人だにいない。

       「義人はいない。一人もいない」という真理を私たちは深く自分のことについて知らなければならない。実にそれがクリスチャンになる第一歩であるし、毎週の聖餐式においてこれを繰り返し繰り返し認めなければならない。なぜだろうか。私たちは実に正しさに欠けた者であって、すぐに傲慢の罪に陥りやすい者なのだからである。神に対して逆らい、かなり悪い者になってしまう危険性が毎日常にあるからである。常に悔い改めて正しさを求める心を持っていなければ、私たちはただちにだめになってしまう。完全にだめになる。「私は大丈夫。私は正しい」と思っているなら、それこそあなたは危ない状態にある。御言葉の基準に従って自分を吟味し、死ぬ日まで自分を吟味しなければならない。そうしてはじめて、私たちは本当にへりくだった心を持つことができるようになるのである。へりくだった心を持つとき、はじめて本当に神に従って歩むことができる者になる。「義人はいない」という真理は、実に深くて、実に大切な真理なのである。ことのほかクリスチャンにとってはそうである。

     

    悟りのある者はいない

       次のところはもっと深い問題になる。パウロは続けて「悟りのある者はいない」と述べる。この言い方によってパウロは、罪の問題をより深く取り扱っているように思われる。「すべての人間は知的に盲目となっていて、真理についてまったく無知である」ということだが、クリスチャンですらもこの点を理解するのは難しいのではないか。なぜかというと、多くのクリスチャンは「神を悟る者はいないが、この世のことを悟っている者は大勢いる」という意味にこのパウロの言葉を修正して読んでいるからである。「義しい人は一人もいない」と言えば、だいたいのクリスチャンは「その通りだ。人はみな罪人なのだから」と、うなずくであろう。しかし、「悟りのある人はいない」(つまり、クリスチャンではない人たちには正しい理解というものが一切ない)と言うと、「えっ。そんなことはないでしょう」と反応するかもしれない。

       「悟りのある人はいない」と言うとき、パウロはもっと深いことを言わんとしているのは疑う余地がない。彼は1章ですでに被造物全体が神を啓示していると論じた。それで、神が創造した被造物や現象および現実のすべてについての人間の知識が神を知る知識には至らせないものであるならば、その人は被造物の真の意味を見失っているのである。例えば、創造主なる神を信じない人が樹木を見てもその樹木を正しく理解してはいないのだ。たとえその樹木について化学的に生物学的にすべてを分析して100%理解して完全に説明できるとしても、「これは神によって創造されたものなのだ」ということを知らなければ、根本的にその理解は私の理解よりも劣っているということになるのである。私よりもこの世的な学問の理解においては高くても、本質的な理解はまるで無いに等しいのである。人間とは何か。宇宙は何なのか。生きる意味は何なのか。なぜ人間は死ななければならないのか。すべての本質的なこと、本当ならば先ず知らなければならない事柄については彼らには理解がない。それがクリスチャンではない人たちの状態である。

       だからと言って、「クリスチャンの方が頭が良くて、クリスチャンではない人たちはみな頭が悪い」というような話ではない。丸鋸で原木を切るときに、丸鋸が非常に鋭ければ木を奇麗に切断することができる。しかし、丸鋸の刃が歪んでいるならば、刃がいくら鋭くても切りたいようには切れなくなる。鋭ければ良いというわけではない。刃が曲がっていないで、しかも正しく切るのでなければ、切った木は使えないのである。頭が良いだけで正しく切れるわけではない。良く切れる。理解力は鋭い。けれども、それが正しい理解だとは限らないのだ。問題は「正しいかどうか」にある。

       たとえ本当に愚かで頭がそんなによくないクリスチャンであっても(この教会にも100人ほどいるが...)、彼にはクリスチャンではない優れた学者たちよりも本質的な理解がある。例えば、十九世紀のオーストラリアの小さな孤島の野蛮人が救われた時の実話だが、彼には多くの妻がいて、妻を気に食わなければ妻を殺して食べたりするような人間であった。そのレベルの人間が実際に救われてしまう。当然、救われた時は実に愚かなレベルにある。本も読まないし、働くことを大切だとも思っていない。今日必要な食べ物があればそれ以上考えようともしないような生活を送っている。南の島国なので食べ物は豊かにあった。教会に行くのに妻が遅れたりすると、その場で蹴飛ばしたりばんばん殴ったりして「早くしろ」と怒鳴る。それを見て宣教師はたしなめるが、「何を言う。殺してもいないし、食べてもいないのに、何が悪いというのか」といって宣教師と口論したりする。そのようなレベルのクリスチャンでも、神を知って、自分が何者かを知り、罪を悔い改めてキリストを信じて救われているので、彼は本質的な理解を持っているのである。彼らは機械を作ったりはできない。営業の仕事などもできない。会社の経営者は誰もそのような人間を雇いたいとは思わないだろう。絶対に争いになるからだ。絶対にどうしようもない社員になる。怠けるだろうし、時間も守らない。しかし、彼らは救われたクリスチャンの兄弟なのである。それを認めなければならない。そういう意味でその人を愛さなければならない。

       そのレベルから始まっている人に対しては、かなりの時間をかけて、忍耐をもって成長させなければならないのは事実であるが、本当の意味での「悟り」が彼にはあるということを知らなければならない。一方では、神を信じないが“文化的にクリスチャン”になっている人がいる。雇えばよく働いてくれるし、正直で、勤勉で、信頼できる人である。「文化的にクリスチャン」というのは、聖書の影響による文化の中で育まれた人間たちのことである。会社の経営者なら、そのような人たちを雇いたいのは当然である。その人に仕事を任せてもよい。しかし、その人には本質的な理解は何もないということも認識しなければならない。

       社会的な意味で言うならば、そのクリスチャンではない文化人には理解があって、未開のクリスチャンには理解がないという話になる。しかし、本当は、その社会的に巧く生きる人間には真の理解はなく、何も巧くできないその未熟で愚かなクリスチャンには本当の理解があるのだ。そのことを認めなければならない。本当の理解とは何なのか、本質的に悟りとは何なのかを知らなければならない。そういう意味でパウロは、「悟りのある人は一人もいない」と言っているのである。

       すべての知識は、もしそれが真の知識であるならば、それは本質的に“神学的”である。なぜなら、神は万物を創造した神であられるので、正しく理解されるならば、万物は神を指し示しているからである。悟りがない。理解はない。それは、その人の考え方が根本的に本質的に間違っているからだとパウロは言う。パウロの議論の文脈の中で「人間には悟りがない」と言っているのは、「人間の心が罪によってあまりにも深く歪んでいるために、人間はすべての事柄についてその当然見るべきところを見ることができない」ということなのである。

       実に、ある種の知識は、特に物理学や数学のような非常に客観的に見える分野においては、その神学的な面がそれほど顕著ではないために、罪人にとっては神を考えなくても容易に学問することが可能である。しかし、それらの分野においてさえ、本質においては実に深く神学的である。それらの諸法則は神御自身を表わすものなのだ。物理学や数学の哲学は、どちらも主に神の似姿である人間に関っているので、不可避的に神学的なものとなる心理学や文学に劣らず神学的である。

       罪人には本当の理解はない。言い換えるならば、罪人はみな狂っている。彼らには真の理解はなく、現実離れしていて、真理を認めようとはしない。現実を知らないということではなく(1章19節)、現実を心の中で否定し、真理を阻んでいるのである。現実を認めない、現実を知りたくないので、理解がないのである。だから、そういう意味ではみな狂っている。

       そして、問題は、クリスチャンの私たちもある程度まで狂っていると言わねばならないのだ。本質的な理解がある筈なのに、私たちの思いはその本質的な理解に従って正しく働いているかというと、そうではないからである。口から出る言葉はいつもその理解を現わしているかというと、そうでもない。行ないにおいて真の理解をいつも現わしているのかというと、そうでもないのである。私たちは理解を持っている人間として語ったり、行動したり、生活を送ったりしているわけではない。それこそ大きな問題ではないか。「悟りがない」ということについて考えるとき、本当は「私もそのような者です」と告白せざるを得ないのである。そのことを何度も自分で感じたことがある筈だ。「なぜ私はこれほどに愚かだったのか。どうしてこんなことすら分からなかったのか。どうして私はこんなことにおいて間違ってしまったのか。クリスチャンなら誰でも分かっている筈なのに、私は気が付かなかったのか」ということを私たちの誰もが、何回も何回も経験しているのではないかと思う。

       悟りがなく、理解がない。現実離れなことをしてしまう。それは罪にほかならない。理解している筈なのに、悟りのないことを自分の言葉、行ない、思いにおいて表わしてしまっている。そのように、真の知識を見失うことは、最も重要な事柄においての「悟りがない」ことになる。それは、私たちが神に似たものとなるように創造されたまさにその領域において獣のようになることにほかならないのだ。しかし人間は、その権利の喪失を努力と選択とによって獲得した。彼は、真の知識に対する自発的な憎悪のゆえに無知なのである。

     

    神を求める者はいない

       次の言い方は更に厳しいものであり、クリスチャンではない人たちにとっては更に認めたくないことである。「義人はいない」というと、「そんなことはない。少ないのは確かだけれども、どこにでも正しい人はいるものだ」と反論する。それで、意味を説明すると「まあ。そういう意味で言うなら、正しい人はいないことにはなるけれども...」と、多少調子を合わせてくれるかも知れない。しかし、「悟り(理解)のある人はいない」と言うなら、もっと認めにくい、もっと説明しにくい話になる。それをクリスチャンではない人に説明するのは極めて困難なことである。クリスチャンの中でさえこのポイントを説明するのは簡単ではないのだ。

       そして、「人がその心を聖書の神に従わせるまでは悟りが無い」ということを一部のクリスチャンに納得させることが困難であるならば、次の告発について人々を納得させることは殆ど不可能に近い。「神を求める人はいない」とは、何をバカなこと言ってるのか。「仏教の信者たちには悟りがない」と言うだけでも厳しすぎるのに、「神を求めてもいない」と言うのか。「ユダヤ人は神を求めていない」と言うのか。「他の多くの宗教の信者たちも、神を求めてはいない」と言うのか。いかにも、その通りである。誰も求めてはいない。彼らは、神から逃げているのである。これが聖書の教えである。偽りの宗教は神から逃げるために作られたものなのだ。彼らは本当に神を求めてはいない。このことを悟り、信じ、告白するのでなければ、私たちは神に相応しい礼拝を捧げることは不可能であり、真の自己理解も有り得ない。

       「神を求める者はいない」と聖書は宣言する。しかし、表面的にしか見ない人々の目からすれば、世界の半分以上の人は神を求めているようにしか見えない。どれほど多くの人々がお寺や神社を訪れ、賽銭を奉納し、お守りを買っていることか。どれほど多くの人々が悪臭を放つ汚染された水で自らの罪を清めようとして聖なるガンジス川まで旅をし、また“神の岩”を礼拝しにメッカまで巡礼しているだろうか。確かに、このような人々はみな彼らなりに神を求めていると言える。

       だが、当然のことだけれども、それこそ問題なのだ。もし神が神であられるなら、私たちがどう神に近づくべきかを決定するのは神御自身であるはずだ。王に謁見するのを望むとき、どうするだろうか。例えば、変な譬えかも知れないが、あなたはダビデ王に会いたくて昔のイスラエルに行ったとする。そして、短いへブル語のメモをダビデに送って、「ダビデ王。あなたに会いたいから、いついつに私の所に来なさい」と要求するだろうか。ダビデは王である。会いたいなら、まずダビデに会う方法を調べなくてはならないだろう。その面会の日程などは誰が決めるのか。あなたではなく、それを決めるのはダビデ王なのだ。何時会うかはダビデが決めることだ。どこで会うのかも、ダビデが決めることだ。どれくらいの時間会えるのかも、ダビデが決めることである。すべては王であるダビデが決めるのであって、あなたの都合で決めるものではない。

       「いいや、ダビデが、私の要求する場所で、私が要求する時間に、私が要求する方法で私に会ってくれないならば、私はダビデなんかに会うのはやめる。ダビデに会おうと思って一生懸命だったのに、面会の条件を全部出したのに、ダビデは私の条件に従おうとはしない。求めているのに、ダビデが悪いのだ」というような話は成り立つだろうか。とんでもない話であろう。相手は王である。私たちは何者でもない乞食のような者でしかない。イスラエルの国籍すらない、よくて客人でしかないのだ。私たちには要求する権利はない。謁見の期日や条件はすべて王が告げるものである。ごろつきの乞食が要求する面会、即ち、いつ、どこで、どのように会うかという要求に王が従うだろうか。

       同じように罪人は神に対してあれこれ全部を自分の都合で要求する。神はダビデよりも無限に偉い御方である。その神に対して罪人は「神よ。私が要求する方法で、この場所で、この条件に従って私の願いをかなえてくれなければ、悪いのはあなたの方だ」と言うのである。それが神を求める態度だろうか。本当に求めているのか。決してそうではない。「いや。私は神を求めているけれども、神は私にその道を教えてくれないので、神が悪いのだ」と言う。それは全くの偽りである。人間が神の定めた方法で神を求めることを拒むとき、彼らは神を求めているのではなく、真理と神御自身から逃避するために、自分のための自己欺瞞の弁解を作り上げているに過ぎないのだ。そのようなことを言うのはだいたい教育のある人たちである。教育があればあるほど、そのように神のせいにする議論を好んでする。

       西欧すべての古代文学を研究しているフランスのクリスチャンではない文化人類学者で心理学者でもあるヴイネジュアールという人がいる。すべての古代文学と言っても数はそれほどない。中国語は含まれないが、ギリシャ語、ラテン語、そしてサンスクリット語も含まれるのでインドやロシア語、ドイツ語、英語も入ると思うが、それらの古代言語を研究している。古代文学を研究すればいやでも聖書が研究対象となる。「聖書を研究すればするほど、聖書は他のすべての言語と異なるものであって、どんなに違うかを深く感させられる」とその学者は言う。クリスチャンではないその文化人類学者は、聖書を深く研究すればするほど、聖書の違いがあまりにも際立って顕著であることを認めざるを得ず、最終的に彼はクリスチャンになってしまった。

       その違いはただ単に特別だというのではなくて、はっきり目立つものである。誰でも文学を勉強すればその違いは明らかである。聖書の影響を受けている文学と、聖書の影響を受けていない文学は、明らかに違うのだ。神は道を示さなかったというのか。決してそんなことはない。道は、はっきり示されている。御言葉の光は際立ったものとして人類に与えられている。太陽が光っているかどうかを議論する人はいないであろう。太陽は光であって、すべてを照らしている。それと同じように、聖書は創造主なる神の御言葉であるかどうかについても議論の余地がないほどに、それは明らかなことなのだ。御言葉は、太陽よりも輝いている。それは永遠に変わらない輝きとして与えられている。神は、道をはっきりと人類に表わしている。けれども、罪人はそれを認めたくない。そこから逃げる。求めてはいない。何とかして逃がれようとしている。それが罪人の現実である。

       そこで問題なのは、クリスチャンの私たちも罪人なので、はっきり言えば、私たちも神から逃げてしまう傾向があるということである。自分の罪を感じるときに、いろいろな影響を考えたりして、神から逃げてしまう。それは、私たちの状態でもあるのだ。クリスチャンではない人はあらゆる宗教を作って、その宗教を通して自分を騙し、真の神から逃げることに熱心である。しかし、クリスチャンである私たちにも神から逃げようとする心がある。罪人だからである。正しくはないし、理解も狂ってしまいがちな者であり、神から逃げてしまいがちな者である。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない」のである。

       聖餐式はなぜあるのか。「逃げられないためにある」という言い方もできると思う。平日には逃げても、日曜日には礼拝に来る。礼拝に来れば御言葉によって取り扱われて聖餐式を受けなければならない。聖餐式の時には、自分を吟味しなければならない。それは、エデンの園でアダムとエバの前に神が現われて「アダムよ。あなたは何をしているのか」と尋ねられるようなことである。その時、罪を隠すために自分が作った服は役に立たない。神が現われて、神の御前に立たされる時、もう逃げられない。何一つ隠しおおせるものはない。それでも、罪人はとにかく逃げようとする。私たちも例外ではない。

     

    善を行なう者はいない、ひとりもいない

    すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。

       この3章12節には三つのことが示されている。「すべての人が迷い出ている」「みな、ともに無益な者となった」「善を行なう人はいない。ひとりもいない」とパウロは宣告している。この三つのことは一緒にして考えなければならないものである。即ち、「人間が創造された目的から逸脱している」という一つの根本的問題を取り扱っていると思われる。

       人間は神によって善を行なうように創造されたのである。「義の道を歩むように」神は人間を創造した。しかし、罪人は、神が与えてくださった道を捨て、その道から「迷い出て」いる。その結果、人間は「無益な者」となり、はじめの働きに相応しくない者となってしまった。本当は「実を結ぶように創造された」のに、実を結ばなくなってしまった。道から迷い出てしまった。それが何を意味するかというと、「善を行なう人はいない。一人もいない」という言葉で表わされている。私たちもみな、そのようになってしまいがちな罪人である。これは、罪人の傾向である。

       「善を行なう人はいない。一人もいない」と言うときに、例えばカインのことを考えてみるとよくわかる。カインは都市を建設した。そして、カインの一族には楽器を作る者たちがいた。だから、最初に楽器を作ったのはクリスチャンではなかった。最初に都市を作ったのもクリスチャンではなかった。楽器は良いものである。都市も良いものである。最終的に私たちが行き着く所は新しいエルサレムである。それは大都市であり、大きな都である。アメリカのクリスチャンの中には「都市は悪いものだ」と考える人はかなりいる。「危険だから」とかいう話ではなくて、倫理的な問題として「都市は倫理的には在ってはいけないものである」という考え方がある。そんなことはないのだ。クリスチャンは大都市に終わるのである。新しい都、新エルサレムに住むことが最終的な目的なのだ。

       カインが都市を作ったとき、それ自体は悪ではなかった。例えば「ピアノとか楽器を使ってはいけない」と考える教会もある。私は個人的にはオーケストラがあっても良いと思っている。ピアノだけでなく、ラッパもバイオリンもすべての楽器を巧みにかき鳴らして神を礼拝するのは少しも悪いことではない。正しく行なうならば、音楽はとても良いものである。しかし、それらは技術的にはクリスチャンではない人たちによって作られたものである。「それなら、彼らも善を行なっているのではないか。カインも善を行なったのではないか」と思うのは早合点である。

       パウロは「善を行なう人はいない」と宣言する。神に逆らうためにカインは町を作った。彼らは、神への賛美を表わすために音楽をやっているのではない。本当の意味での善を行なってはいない。だから、「迷い出ている」のである。すべてが曲げられてしまっているのである。その行ないは実を結ぶことにはならない。しかし、そのクリスチャンでない人たちも、神の似姿に創造された者たちであって、御霊はクリスチャンではないその人たちの上にも働いておられる。その人たちは善を行なわなず、道から離れている者であっても、歴史の中で神の栄光を結果として表わすように御霊が導いておられる。神は歴史を捨てたまわなず、導いておられるのである。

       クリスチャンでなくても、完全に神に逆らうことは結局不可能である。出来るものならやってみるがよい。神は人間を「息を吸うもの」として創造された。「いいや。私はどうしても神に逆らいたい。だから、今から息を吸うのはやめる」と言うのか。やってみたらよい。そこまで徹底的に神に逆らいたいというなら、逆らってみるがよい。その反逆は長続きはしないであろう。人間は「食べなければならないもの」として創造された。「飲まなければならないもの」として創造された。そして「罪のゆえに、裁かれて、死ななければならないもの」となった。いったいどう逆らおうと言うのか。だから、フランスの実存主義者たちは「食べなければならない。飲まなければならない。死ななければならない」という現実に逆らうために、自殺の道を選ぶのである。それが彼らにとっては神に完全に逆らうための道なのである。

       確かにそうである。そこまで逆らうなら自殺しかない。自殺して神に逆らうとき、「私は自分で自分の死に場所を決める。私は死ぬ時を自分で決める。私は自分で好きな死に方を選ぶ。私こそ“神”なのだ」ということを結局は主張しているのである。「自分の死を決めることができなければ、結局のところ歴史の奴隷である」と彼らは言う。「歴史の奴隷である」という意味は(フランス人ならよく解ることだが)、「神の奴隷」という意味なのだ。歴史は神に支配されている。それで、「私は自由だ」ということを主張するためには自殺しなければならないことになる。それは実に論理にかなっている。

       そのような前提に立ってあくまでも神に逆らって自分の自由を訴えるつもりならば、自殺以外に道はないのである。それがお望みであれば、そうするがよい。そうすると、地獄に墜ちるのである。地獄は誰が支配しているのか。サタンが支配しているのだろうか。閻魔大王が支配しているのか。「否」である。自分で支配するのだろうか。そうではない。神が永遠に支配したもうのである。だから、何をするにせよ、私たちは神の御支配から逃げることはあり得ないのだ。絶対に逃げることはできない。「私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」と、ダビデが詩篇139篇7〜12節で告白しているとおりである。

       神は、クリスチャンではない人たちをも用いて、歴史的に神の御国のための働きをさせたもう。それは、クリスチャンではない人や国を用いて御自分の民を裁くことにおいてもそうであるし、クリスチャンではない人たちを用いてコンピューターを発明させることにおいてもそうである。しかし、「それならばその人たちは善を行なっているのではないか」というと、そうではない。神は、その善を行なっていない人間を、御自分の善なる目的のために導いて用いるのである。その人は善を行なってはいない。神が人間の罪深ささえも支配して、カインやその子孫たちの労を用いられるということは、神御自身の御恵みと知恵の証しなのであって罪人の善を証しするものではないのである。

       神は善であられ、人間を御自身のように、即ち良い行ないをする働き手となるように創造してくださった。アダムが罪を犯さなかったなら、人間は自然と善を行なうはずであった。つまり、神を喜ばせ、他の人々にとって祝福となることを行なうように求めたであろう。しかし、人間は罪を犯し、神から離れ、自分の祝福となるのでないかぎりは他の者の幸福を本当に求めたりはしない。従って、人はその良いと思われる行ないによっても、本当の意味で善を行なってはいない。なぜなら、彼らはその良い行ないを悪い動機や悪い目的をもって行なうからである。その思いもその行ないも曲がっていて「迷い出て」いる。

       例えば、ジョンズさんが自分の妻を殺そうとして、毒のつもりである液体を注射器に入れて妻に注射したとする。ところが、間違って、毒と思ったその液体は良い薬であったためにその注射によって妻のいのちを救ってしまった。ジョンズさんは良い行ないをしたのだろうか。確かに、人のいのちを救ってしまったのだから、表面的に言うならば良い行ないをしたと言えるかも知れない。しかし、本当に良い行ないをしたのだろうか。とんでもない。彼は妻を殺すつもりで注射したのだ。クリスチャンではない人たちは、神に逆らうつもりで、逆らう心をもって、神を憎む心をもって、いろいろな事をしたり働いたりしている。神のことなど無視し、考えもしないのである。

       しかし、常に「私は今、神に逆らっている」と思っているわけではない。そこが哲学者の難しいところである。例えば、サルトルとかバートランド・ラッセルとかは、自分は神に敵対していることをはっきりと認識しながらすべてのことをしている。彼らの働きはすべて“概念”であり、筆を使って書き出すことである。それで、聖書の影響を受けた西洋の伝統の教えのすべてを認識しながら仕事しなければならない。それは彼らには苦役であった。彼らのようにあからさまに意志をもって神に逆らう者は別として、普通の人はいちいち神を意識もせずに化学の実験をしたり科学の発明の働きに従事したり物を製作したりしている。しかし、いざ神に直面するやいなや、憎しみがこみあげてきて神に対して嫌悪感を抱くのである。

       その憎しみがどれほどのものかというと、キリストのことを思い起こせばよくわかる。主イエス・キリストは、神を求めているようにみえるユダヤ人に特別に御自分を現わされたのである。傍から見ればユダヤ人こそ宗教的な狭い意味において一生懸命善い行ないをしている国民であった。そのユダヤ人に主イエス・キリストが現われるとどうなったかというと、熱狂的になってキリストを「殺せ。殺せ。そんな奴はこの地上から除いてしまえ」と叫ぶのである。キリストを殺さなければ気が納まらない。キリストを見るのも耐えられないのである。

       そのように、罪人は神を憎むものである。近づけば近づくほど、ますます神を憎むものである。罪からの救いについて聞かされれば聞かされるほど憎しみは増大する。これが罪人の本当の姿なのだ。善を、そういう意味で行なっているのだろうか。「否」である。彼らは善を行なってはいない。自己弁護のためには表面的には善に見えるようなことはする。自分の目的を果たすためには、善い行ないに見えるようなことをする。あくまでも自分のためであって、神のためではない。神を求めてはいないのである。それ故、善も行なってはいないのである。それが罪人の有様であり、そのように考え、そのように反応し、そして行為するものである。神に創造されたその目的を果たすように生きようとはしないのである。罪人は実を結ぶ生き方をしてはいない。そういう意味で「無益な者」になっている。その人は、神が与えた道から「迷い出て」いる。

       繰り返し言うが、「私たちもみな罪人だ」ということを忘れてはならない。「本当に善を行なっているのか」を自問する時に、いったい自分のためにやっているのか、それとも本当に神の御国と神の栄光のためにやっているのかをよくよく自己吟味しなければならない。「自分」が強くて、その「自分」がどうしても出て来るのではないか。神の道から実に簡単に迷い出てしまうものである。それだから、神は私たちがその正しい道に戻るようにと、毎週の日曜日に聖餐式を備えてくださった。私たちは実を結ぶ生き方をもっと熱心に求めなければならない。本当に、皆もうすぐ死ぬのである。死ぬ日までの時間は実に短いものなのだ。

       その限られた時間の中で、神の御国を第一にし、神の義を第一にして、「そのために私はどのような実を結ぶべきなのか」ということを、あなたは真剣に考えるだろうか。そのために祈り求めるだろうか。本当に神に創造された目的を果たすことを真剣に考えて生きるだろうか。「私は御国のために実を結ぶ目的で創造された。結ぶべき実を結ぶことができるように助けてください」と心から熱心に祈り求めて、毎日そのことを一生懸命認識しながら生活しているだろうか。私たち一人ひとりには目的が与えられている。御恵みによって、私たちは実を結ぶことができる筈である。しかし、本当に真剣にそのことを認識し、そして心から求めているのだろうか。そのように道を歩んでいるかどうかを自問するとき、実に「正しい人はいない。一人もいない」という所に戻ってしまうのではないか。

       パウロはここで、人間は「罪の下にある」ということを深くそしてはっきりと私たちに示している。絶対的な倫理の基準を私たちはすぐに犯して破ってしまうものである。本当の理解、本当の悟りはない。なぜないのかというと、求めないからである。求めないのは、そこから逃げているからである。罪人はみな自分は純粋だと考えていて、自分には堕落によって汚されていない行ないなど一つもないということを受け入れることができない。なぜなら、熱心に自己吟味から逃避することを心の習慣によって学んだからである。それだから、どうしても正しい道から反れて、迷い出てしまう。神の御国のために実を結ばず、善を行なわない。

       それが罪人の有様であるけれども、クリスチャンではない人にこの現実を説明するのは非常に困難である。しかし、クリスチャンなのにこのことが解っていないとしたら、それこそとんでもないことである。しかし、教会の歴史の中でずっと続いている最も大きな問題の一つは、「罪についての考え方は軽い」という問題なのだ。紀元二世紀から三世紀のギリシャの教会の中にその問題はずっとあった。

       アウグスティヌスの時代にはペラギウスと闘わなければならなかった。ペラギウスの考え方を一言で表現すれば、それは「ヒューマニズム」であった。人間を高く評価しすぎてしまうという問題であった。ペラギウスの問題の後に、こんどは反ペラギウス主義が台頭した。反ペラギウス主義の後にはアルミニウス主義が出て来た。アルミニウス主義の後にはウエスレー主義が出てくる。それらは全部、何らかの意味で「人間の罪はそれほどひどくはない。人間はそれほど悪くはない」と主張する立場であった。

       だんだんと歴史が進むにつれ、人間の良いところがどんどん減少してきている。それでも、何かの意味で「人間は神を求めることができる」とか「信じる力がある」とか、とにかく人間の善を何かの意味で主張したいのである。何とかして人間の善の力を人間のものとして残そうとする。その考えはずっと教会の歴史の中で問題となっている。つまり、人は自分の罪をそれほど深く認めたくはないのである。そんなに深く自分の罪と闘いたくはないのだ。私たちは、「パウロが描写しているほどに自分たちは悪くはない」と、心のどこかでそう信じたいのである。しかし、聖書の光に照らして自分を見、私たちに対するその告発を受け入れることを学ぶなら、その時はじめて、神が主イエス・キリストの救いの御業を通して、御恵みのみによって罪人を救うということが何を意味するかを本当に理解するようになるのである。

       「自分の罪と闘うのは疲れる」と人々は言う。それはそうである。真剣に闘っているなら、疲れる筈である。そのことはローマ人への手紙8章に出てくるが、それは御国を求め、本当に最終的な救いを求めるところにつながる闘いなのである。ただ「疲れた。もう、やめたい」というものではない。「疲れているけれども、本当に主イエス・キリストの栄光を表わしたい。本当に正しい生き方をしたいけれども、どうしても罪を犯してしまう。どうして私はこんなに愚かなのか。どうか、神さま。私を救ってください」と祈る筈である。それがローマ人への手紙7章の祈りである。「どうか、神さま。私を救ってください。助けてください」という心をもって生きるているならば、最終的な救いを本当に心から常に求めて歩んでいることになる。

       聖餐式はその心を深めるために与えられたものであると言ってよい。「自分は正しくない」という意味を深く理解し、自分の罪を真剣に悔い改め、「善を行なっていない」ということをも正しい意味において認めるとき、ただがっかりして「ああ、私はもうだめだ」と思うべきではない。主イエス・キリストは、「完全な御恵みをもって」私たちを救ってくださったのである。そのことが常に強調されなければならない。「確かに、私はこのような罪人です。しかし、キリストがこの私をも愛して、私の罪のために十字架にかかってくださり、私を救ってくださった。私は実を結ぶことにおいて実に足りない愚か者です。悟りも理解も足りない、すべての点で足りない者です。けれども、あなたがこの私を愛してくださった。あなたが私を救ってくださいました。このちっぽけで限られた私をも用いて、あなたの御国のために実を結ぶことができますように、主よ、助けてください。私は心からそのことを求めます」という心になる筈である。

       主イエス・キリストは、私たちがどのような者なのかをよく知っておられる。すべてを知っていて、私たちを救ってくださった。だから、キリストが私たちに求めているのは、完全な理解とか、完全な正しさを自分の力で持つことではない。主イエス・キリスト御自身に対する心を要求しておられるのだ。足りないとしても、限られた理解であっても、キリストを真心から信じて忠実に従う。完全でなくても、キリスト御自身に対する「心」が私たちに要求されている。その心をもって神の御国を第一に求め、神の義を第一に求めるのだ。

       神が罪を赦してくださったので、私たちが罪を捨ててキリストを求めて正しい道を歩む心に立ち返るとき、神は私たちを喜び、祝福してくださる。そして、実を結ぶように、私たちを助けて導いてくださるのである。そのことを覚えて、聖餐式の時に自分の罪をよく吟味して悔い改めなければならない。しかし、悔い改めるだけではなく、キリストの愛を喜び、感謝に満ち溢れて聖餐式を守るべきである。そうすることによって私たちは、前向きに喜びと感謝をもって実を結ぶことができる。そうなるように祈りつつ、聖餐式を行ないたいと思う。

     

    ――1998年11月22日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章1〜8節

    ローマ人への手紙3章13〜14節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.