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    ローマ人への手紙3章18節


    3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

    98.12.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神に対する恐れがない

    3章18節

    「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

       旧約聖書からのパウロの一連の引用の最後のこの節は詩篇36篇1節後半の七十人訳をほぼそのまま引用したものである。この「神に対する恐れがない」という宣告は、第三段目(15〜18節)のまとめとなっているだけでなく、10節から18節まで箇所全体を締めくくっており、しかも人間の罪深さの根本的な問題を指摘している。これはすべての罪の源である。神を恐れていないので、道は間違っており、口は間違っており、手も足も間違っている。すべてはだめになっている。「神に対する恐れがない」というのは罪人の根本的な問題なのだ。

       この汚染された川の流れから、曲がった理解や悪い思いや悪い言葉や行ないといったものが流れ出るのである。宣告の一番最後のところでパウロはそういう意味で罪の最も深いところに言及していると言える。パウロはまず罪人の思いや考え方から話はじめてから、口のこと、行ないのこと、道のことについて話し、そして最後に再び神に対する心の話に戻るのである。そうして、神を恐れる心がないことこそ罪人の実に根本的な問題なのだということを宣告しているのである。

       言い換えるなら、すべての罪の根源は「関係」の問題なのである。悪とは、何かの“存在しているもの”ではなくて、神との間違った関係を指すものである。「神を恐れる」とはどういうことなのか。パウロはどういう意味でそのことを話しているのか、ということを一緒に考えたいと思う。

     

    旧約聖書における神に対する恐れ

       「神を恐れる」とは、愛、信頼、尊敬の心を持つことを意味する。その恐れの中には、神が義であることを覚え、神が決して罪を罪無しとはしない御方であることを覚える恐れが含まれる。「神に対する恐れ」は、神に対する正しい心の態度、正しい姿勢を表わす複雑な表現である。旧約聖書の中には「神を恐れる」という言い方はたくさん使われており、「神を信じる」という言い方はそれにくらべてずっと少ない。そして、新約聖書に入ると「神を恐れる」という表現は少なくなって、「神を信じる」という言い方が多くなっていることは皆さんも気が付いていると思う。

       旧約聖書での「神を恐れる」という表現は、基本的には神との正しい契約関係をよく表わす広い言い方として使われている。そして新約聖書では、「神を信じる」という表現が最も広い意味で神との契約関係を表わす言い方として使われている。そういう意味で、聖書においては「神を恐れる」と「神を信じる」という表現は意味が重複している。それは同じ意味を表わしていると考えてもよいものである。その意味を理解し始めるには旧約聖書の歴史的な出来事を観察することが不可欠である。特に二つの有名な事件が私たちに「恐れ」の意味を説明してくれていると思う。

       まず、聖書で「神を恐れる」という表現が最初に使われたのはエデンの園である。アダムは、罪を犯した後、園で神が来られる音を聞いて、恐れて、逃げて、隠れたのである(創世記3章10節)。それが聖書で最初に「恐れる」という言葉が出てくる箇所である。そのアダムの反応には、神を恐れることの正しい意味と曲がった意味とが一緒になって表わされていた。明らかにアダムはここで神を愛する者としてではなくて、罪人として反応している。しかし、同時にアダムは、神の尊厳の前で恐れたという意味では正しい反応をしている。

       どうしてアダムは神を恐れたのかというと、「神の声」(あるいは翻訳によっては「神の音」)を聞いたからだと記されている。神の声、或は、神の音とは、どんなものだったのかというと、それはシナイ山で表わされたり、エゼキエル書の中で表わされたりしている。どのように神が御自分の臨在を表わすかというと、旧約聖書の中では何回も神は栄光の雲によって御自分の臨在を表わしている。また、エデンの園と神殿の象徴を見ると、「神が下ってこられる」ということは「栄光の雲が下ってくる」ということであった。アダムが聞いた音とは、栄光の雲が下ってくる時の音であったと思われる。エゼキエル書の中でそれはまるで大きな滝の音のようであり、大きなラッパの音、或は大軍勢が歌っているような声のようなものとして譬えられている。

       大きな滝の音がどれほどすごいものであるかを皆さんは知っているだろうか。ナイアガラの滝の近くに立つ時には、大声で叫ばなければ会話は不可能なほどに、その水の落ちる音は大きいのだ。それは実に数えきれないほどの数の人が歌っているようである。多くのラッパを同時に鳴らしているようでもある。そのような音を英語では「White noise」と表現している。そこにはメロディーはない。とてつもなく大きなゴーッという爆音が鳴り響くだけである。その音は人に恐れを感じさせる。そのような音をアダムは聞いて、神の偉大さに圧倒されて震え、恐れて逃げてしまったのである。

       アダムは成人として創造されたが、まだ生まれたばかりの赤ちゃんでもあった。裸であるというのは赤ちゃんの状態を表わしている。赤ちゃんにとって怖いものの一つには大きい音が挙げられる。大きな音を聞くと、赤ちゃんは恐怖に脅える。それは必ずしも罪人だからというわけではない。アダムが大きな音を聞いて恐れたこと自体は悪いことではない。しかし、逃げてしまうところに問題がある。たとえ罪が全く無くても、逃げなくても、その神の“音”は生まれたばかりのアダムの中に圧倒的な恐れの念を吹き込んだ筈である。

       「これは神だ」ということがわかると逃げてしまうところに罪人としてのアダムの心が表わされている。神の偉大さに恐れ感じ、神を偉大で絶対なる恐るべき御方として認めることは少しも悪いことではない。しかし、神がそのように現われた時に、アダムは神から逃げて身を隠した。アダムは「神から離れたい」という思いを持ったのである。それが悪い意味での恐れであった。それは恐怖であり、恐怖は不信仰を意味する。不信仰であると言うのは、つまり、「神がどのような御方であるかがわからない。何されるかわからない相手だから、逃げなければならない」というような心のことである。

       学校でずうたいの大きな悪ガキがいると、その子が何をしでかすかわからないので皆恐れてその子を避けるということはよくある。苛められるのを恐れるから皆逃げるのである。いつ苛めるのか、なぜ苛めるのか、どのように苛めるのか、まるでわからない。衝動的に何か悪いことをする。それは子供たちにとってはとても恐ろしい相手となる。その苛めっ子に対する気持ちと同じような不信仰な心を、アダムは神に対して持っていた。それで、神が近づくと逃げたくなる。神を信じず、神の愛を信じていないからである。そこからアダムの罪は深まっていくのである。

       第二に、シナイ山の出来事は「恐れ」をよく説明している箇所である。もちろん、シナイ山は、イスラエルの歴史の中において神への恐れを表わす場所である。シナイ山で神がイスラエルの民に現われた時、イスラエルは逃避にも近い恐れをもって応答したのである。実は、シナイ山はエデンの園に戻ることを意味するものであって旧約聖書の中では最も重要な出来事の一つであることは皆さんもよく知っていると思う。出エジプト記19章の学びの時に、シナイ山の象徴がすべてエデンの園を表わすものであることを学んだ。シナイ山に近づくということには、エデンの園に近づくような意味があった。シナイ山に登る特権がモーセに与えられたということは、エデンの園に一時的に入る特権が与えられたのと同じ意味があった。それは実に大きな意味を持つ祝福であったことを私たちは出エジプト記で既に学んだ。

       シナイ山はエデンの園のような「至聖所」であった。イスラエルがシナイ山に近づくと、神の栄光の雲がシナイ山の上に下った。映画を作る人たちはよくよく聖書の象徴を借りて(或は盗んで)、聖書的ではない前後関係の中にそれを挿入して映画を作ったりする。スピルバーグ監督の「未知との遭遇」という映画でも、スピルバーグはこのシナイ山の光景を巧みに借用して、宇宙人(それが現代人にとって神であるが...)が下ってくる光景を演出する。宇宙人が下ってくるのを人々が待っているその向こうにシナイ山のような形の山が見える。やがて恐ろしい雲が現われ、非常に恐ろしい大きな音の轟きが聞こえてくる。その映画に地震が無かったのはスピルバーグのミスであったと私は思う。シナイ山では大地が激しく揺れたのである。

       私が来日した1981年に、神田のお茶の水にある日本語学校で勉強していた時に初めての地震を経験したが、思わず笑ってしまったのを覚えている。部屋が揺れたりするのを経験したことがなかったからだ。それが楽しいことのようにさえ思えた。しかし、地震というものがどういうものなのかを知るにつれて、恐ろしくなってきた。揺れが強い時には、どこまで揺れるのかと思って恐ろしくなったりもする。しかし、イスラエルはシナイ山ですごい地震を経験したのである。恐ろしい密雲が下り、大きな音が聞こえ、雷と稲妻が起こり、煙がかまどのように立ち上った。スピルバーグはユダヤ人なので当然この旧約聖書の箇所はよく知っていた。そこから借用して、映画の中でスピルバーグが信じている神の現われとして利用したのである。実際に、神の栄光の雲が火と煙と地震と大きな音をともなって下った時、イスラエルの子らは神の偉大さを感じて恐れて震え上がったのである。それは正しい恐れである。それは申命記5章に出てくることである。申命記5章5節でモーセはイスラエルに言う。  

     

    「そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

       それからモーセは十戒の命令をもう一度与えてから、23〜29節で次のように民に語っている。

     

    あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。」

       ということであった。イスラエルはシナイ山で神の偉大さを見た時に、恐れてしり込みした。神の偉大さはあまりにも素晴らしくて恐ろしい。そして、神の聖さと自分らの罪の深さを感じて、「自分たちは死ななければならない。自分たちは死ぬべき者だ」ということを深く感じて、そこから逃げ出したくなった。そして、自分たちが死ぬことのないようにモーセが神と自分たち間に立ってくれるように頼んだ。恐ろしくなって、神と人間との間に立つ仲介者を求めたのである。

       その時の彼らは、その恐ろしい神から逃がれて「もうこんな神はいらない」と思ったわけではなかったし、また「ああ。私、神さまに会っちゃった。怖かったけど、楽しかった」というような軽薄な反応でもない。恐れて避けるように見えるが、神は彼らのその反応を「もっともな反応である」と仰せられたのだ(申命記5章28〜29節)。聖書の中で創世記から黙示録まで、人が神に会う時は常に恐れて倒れて死ぬほどになることが記されている。ダニエルでさえも、ヨハネでさえも、神に会った時には倒れて死んだ者のようになったのだ。恐ろしい、偉大なる、義なる、聖であられる神の御前に、罪人の人間は立つことはできないということを深く感じるのである。

       今の時代では、特にアメリカのペンテコステ派はそうなのだが(日本のペンテコステ派のことはあまりよく知らないが)、「私はイエスさまを見た。イエスさまが私の部屋に現われて、優しく私に語ってくれた」というような話はよくよくある話である。彼らは実に軽く、まるでイエスが現われたことは隣のお婆さんが遊びにでも来たかのようなカジュアルな感じで語ったり考えたりするのである。決してそんなことはない。復活した主イエス・キリストがヨハネに現われた時、ヨハネは倒れて死者のようになった。それが主イエスである。それが今の主イエス・キリストの姿である。決して罪人が楽しくカジュアルに向かうことができるようなものではない。

       神は、偉大で聖なる恐るべき御方なので、私たちは神の御前に立つときに恐れずにはおれない。それは神に対する正しい反応である。このことはシナイ山からも、またエデンの園からも、ヨハネも、ダニエルも、そしてペテロたちが山の上でキリストの御姿が栄光の御姿に変わって光り輝く雲の中から神が語られるのを聞いた時も、みな同じように心から恐れたのである。それらの箇所から、「神を恐れる」とはどういうことなのかを教えられる。聖なる神、その聖さと偉大さに圧倒されて正しい恐れを持たずにはおれない。それは、「何されるかわからないから」という恐れではない。あまりにも偉大で、あまりにも素晴らしい、そして聖くて、美しくて、私たちはその御前に立つ時に自分がどんなに汚れていて愚かであるのかを、どんなにちっぽけでどうしようもない人間なのかを強く思い知らされるのである。

     

    神に対する恐れの心理学

       「神への恐れ」という表現は、多くの人の人々にとっては否定的な響きでしかない。どうして聖書はそれを肯定的なものと見做すのかを人々は理解できない。このような人々は、「恐れ」を「恐怖」としてしか解釈できないために、「神を恐ろしいと考えるのはもってのほかだ」と考えてしまう。しかし、そのように解釈する者は甚だしい間違いに陥っているのであり、心理的にもそれは単純過ぎると言わねばならない。

       実際、私たちは否定的な態度を少しも持たずに尊敬する人々を畏れたり、非常に尊いとされるものを畏敬の念をもって扱ったりするものである。高価でないガラス製品や宝石のまがい物ならそれほど気にもせずに扱ったりするけれども、貴重な宝石や高級なクリスタルの器などはガラス張りの棚の中に置かれて特別に尊い物として取り扱われるのである。王の前に立つ時、私たちは震えたり、特別な挨拶をしようと思って真剣に準備したりするだろう。しかし、隣近所の人に会う時にはジャージ姿で出かけたりするだろう。それらは肯定的に恐れを表わしていることに他ならない。

       心理的に言うならば、神を恐れる心とは、子供が父親に対して持つ心のようなものとして聖書の中では譬えられている。神に対する恐れの心理を理解するには、まず子供の親に対する関係を考えるところから始める必要がある。「父と母を敬いなさい」という命令は、父と母を尊敬することを幼い時から学ぶために与えられている。それは、こんど大人になった時に、天の父に対してどうあるべきかを知るためのものである。神が人間を創造した時に、人間の人生をそのようなものとしてくださったのもそのためである。

       動物の場合は、動物によっては生まれた時にもう大人のような大きさのものもある。或は、生まれた時には小さくても、あっという間に大人のサイズになるものもある。人間は一番何も出来ないものとして母から生まれてくる。そして、その何も出来ない状態は実に長く続くのが人間である(だいたい30年はかかる)。何も出来ない状態が長く続くので、父や母が子供の世話をしなければ死んでしまうものである。普通の動物なら二歳や三歳でもうりっぱな大人であるが、人間の場合五歳で自分で何でもする人は少ないのである。アフリカの部族には3〜4歳で子供は放り出されて自分で生きるような例外もあるが、その部族の人口は激減している。人間の子供は小さくて弱い。何から何まで大人が世話してあげなければならない。幼い子供たちは、文字通りにその両親を「見上げる」ことから関係は始まる。

       子供の観点から見れば、まず父母は身体も大きく、また声も大きい。お父さんの声は大きくて深い。お母さんの声は大きくて高い。そして、どちらもその怒る姿は恐ろしい。親は、小さな子供をつかみ上げ、その子の意志に反してどこへでも好きな所へ連れていくだけの大きな力がある。また、優しい力によって子供がやりたがることを実行してしまわないように、いとも容易く妨げることができる。子供たちはみな、少なくとも彼らの幼い時には何らかの恐れを父母に対して抱いているものである。幼い時にはお父さんとお母さんを怖いと思うものである。そして、その怖さはだんだんと信頼関係に変わっていく。

       小さい子供のお父さんとお母さんに対する恐れは、悪いことをしたら罰せられるというところから始まるかも知れない。つまり、赤ちゃんが、どうやってお父さんとお母さんを喜ばしたらいいのかということで迷ったりはしない。そんなこと考えてもいない。2〜3歳の子供でもうそこまで考えたりする子も稀にはいるかも知れないが、普通は「これをやったら叱られる」というところから恐れは始まるものである。本当に賢い子供なら、少し大きくなって(子供たちは良く聞き取るように)、5歳とか6歳にでもなればもう「お父さんとお母さんを喜ばせるためにはどうしたらいいのか」という“恐れ”に変わり始める筈である。

       しかし、失礼な事を言うつもりはないが、ほとんどの子供たちは愚かであって、5歳や6歳でそのような心を持つようになる子は少ない。10歳になってもまだ「怖いから...。これをしたら罰せられるから...」というような恐れだけで従っているのかもしれない。そして、罰せられなければ従わない。うまく逃げることが出来れば、逃げてしまう。10歳になっても15歳になっても、そうなのかも知れない。しかし、それは本当に愚かで未熟なレベルで恐れを持つことなのである。お父さんとお母さんが見ているうちは良い子であるが、見ていなければ悪い子になったりする。見られると、また良い子に戻る。実に未熟であり、愚かである。それが悪いと断言しているのではない。悪い場合もあるし、それほど悪くはない場合もある。しかし、実に愚かで未熟なのである。

       罪人は、神に対して同じことをしている。今この部屋に座っている大人は、受肉した主イエス・キリストが実際にここにおられて見ているならば、どうするだろうか。どういう態度を取るだろうか。事実、主イエス・キリストはいつも私たちの真中にあって私たちを見ておられる。そのことを私たちはすぐに忘れてしまう。キリストが部屋におられないと、話す言葉が違ってくる。態度も違ってくる。主イエス・キリストが常に私たちの真中におられるということを、大人の私たちが忘れてしまって、愚かな子のように振る舞ってしまうのではないか。日曜の礼拝の時にやっと「ここに神がおられる」ということ、「自分は今神の御前にいる」ということを思い出して、その時には良い子になる。礼拝から離れて家に帰ると、またいろいろな罪の問題は出て来てしまうのである。日曜日にだけ、主イエス・キリストの御前に来る時に良い子になる。これは、愚かで未熟な幼い子供と同じレベルなのだ。しかし、ほとんどの人は死ぬ日までその状態が残るのである。

       勿論、常にその状態がすべてだと言うのではない。そのような一面が私たちの中には根強くあるということである。結局、罪人の私たちは、「主イエス・キリストは常に私を見ておられる。私はいつも神の御前にいる。罪を犯すなら、神は恐ろしい御方なので、私を罰するであろう」ということを心に留めなければだめだということである。常にそのことを覚えていなければ、悪くなるのである。その愚かさと未熟さが、罪人の心の中に深く入っているのは事実である。しかし、そんな罪人であっても、成長すれば天の父の心がわかるようになる。愚かな子供には父の心がわからない。母親の心がわからない。愚かな子供は、自分の父と母の愛を信じてはいない。親の愛がわかっていない。「わかっている」と口で言っても、その意味を曲げて解釈する。

       愚かな子供は、「お父さんとお母さんは命令ばかりいつも与えるから、私はもう嫌だ」というような思いになってしまう。それで、逆らう機会があれば逆らう。つまり、命令を破る機会があれば破ろうとするのである。「あんな所は良くないから行くな」と言われると、愚かな子供は「いつかきっとそこに行ってやる」という気持ちになる。「こうするな」と言われると、「いつかお父さんとお母さんが見ていない時にやろう」という気持ちを持ってしまう。

       しかし、知恵のある子供はこう考える筈である。「お父さんとお母さんは私を愛しているから、『それをするな』という命令を与えてくれたのだ。素晴らしい愛だ。私はお父さんとお母さんの愛を信じて、行くべきではない所に私は行かない。すべきではないことを私はしない。どうしてやってはいけないのかは私にはまだわからない。他の子供たちは皆やっている。でも、お父さんとお母さんがやってはいけないと言ったのだから、私はお父さんとお母さんの知恵を信じる。その愛を信じる。だから、他の子供たちが何をしているのかを見るのではなくて、お父さんとお母さんが私に命じたことを私は守る。お父さんとお母さんの愛を信じて、お父さんとお母さんを喜ばせたい。信じているから、愛しているから、従いたいのだ」と。これが知恵ある子供である。

       曲がった心を持つ子は、両親の命令を彼らの自由を侵害するものと考えてしまい、憎しみをもって両親を恐れる。しかし知恵のある子は、両親の命令は自分よりも優れた理解と愛の表われだと理解し、それゆえ心から喜んで従おうとする。それが両親に対する真の尊敬であり、それこそ聖書が「神を恐れよ」と私たちに命じているのと同じ恐れの態度なのである。

       天におられる私たちの父である神は、私たちよりも無限に偉大で力に富み、知恵ある御方である。そのご臨在は実に恐ろしい。この御方を正しく恐れることには、そのような無限の力ある神によって罰せられるという概念が含まれており、この世にいるかぎり罪人である私たちの恐れにはその側面があるのは事実である。しかし、地上の親に対するもっと成長した恐れというものがあるのと同じように、神に対してもより成長した恐れというものがあるのだ。父と母が自分を愛してくれていることを子供が理解するとき、その子は罰への恐れからではなく、両親を喜ばせたいという願いから感謝と愛を示すようになる。これもまた「恐れ」である。クリスチャンはみな自分たちの罪に対する裁きへの未熟な恐れから始めるかもしれないが、キリストにあって成長するにつれて、その恐れは徐々に彼らの天の御父を崇めて栄光を帰したいという願いへと変えられていくのである。

       そのことを私が悟ったのは二十何歳の頃で、クリスチャンになってからのことであったが、クリスチャンになった後でもそのことが本当にわかるようになるには少々時間がかかった。クリスチャンでない時にはぜんぜんわからなかった。お父さんとお母さんが愛をもって厳しく教えさとしてくれる。愛をもって命令を与えてくれる。愛をもって子供たちを導いている。いつも正しいとは限らない。厳しすぎることもあるし、ルーズすぎる面もあるだろう。間違った判断もするかも知れない。誤解もするだろう。お父さんもお母さんも、足りない罪人に過ぎないからである。しかし、それでも神から与えられた父と母なのだ。「お父さんとお母さんを喜ばせたい」という心を持つことは、子供にとっては何より大切な知恵なのである。子供が、そのことを悟る時、本当の意味で知恵の出発点に立ったのである。

       大人も同じなのだ。「神を喜ばせたい。神を喜ばせるにはどうしたらいいのか」という“正しい恐れ”の心を持つことができる時に、“未熟な恐れ”から“知恵の恐れ”に成長したと言ってよい。けれども、ほとんどのクリスチャンは(私たちも含めて)、どうしたら神を喜ばせることができるのかを真剣に考えてはいない。それを考えるに相応しい態度をもって考えてはいないのだ。自分が何をしたいのかならば無意識のうちにも真剣に考えてしまう。仕事ならば真剣に考える。遊びだって真剣に考えるだろう。

       私はあまりしないことだが、アメリカ人はバケーションの計画を真剣に考えたりする。神を喜ばすことをそこまで真剣に考え計画するだろうか。「神を喜ばすことを真剣に求めて、熱い心をもって神のために生きる」というのが、神に対する恐れを成長した者として持つことである。未熟な者は、「それをすると神さまが怒るから、やっちゃだめよ。罰せられないために、これをしなければいけない」と考える。しかし、それでもそれは知恵なのだ。未熟ながらもそれは知恵なのである。子供はそのレベルでしか出来ないとしても、それでもそれは子供には尊い知恵なのである。「お父さんとお母さんが怒ると怖いので、それをしない」というだけでも、未熟ではあるが、それはまさしく知恵である。

       神が私たちに対して怒るとはどういうことなのか。先ほど交読した詩篇78篇に「神を痛めた」という言い方が使われている。即ち「幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。彼らは繰り返して神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた」(78篇40〜41節)のである。神が私たちのことを見て、私たちを愛してくださる御父は悲しんでおられる。私たちは、御父の心を痛めている。だから、「神を悲しませたくない。神を愛しているので、正しく生きたい」という心こそ真に知恵のある心である。これは、成長した“恐れ”の心の状態なのである。

     

    申命記における神への恐れ

       先に話した旧約聖書にある二つの出来事、即ち、エデンの園でのアダムの恐れと、シナイ山でのイスラエルの民の恐れが描写していることは、神への恐れを特に強調する申命記の神学的記述に要約することができると思う。その教えを要約すれば、この複雑な概念の本質的な特徴をすべて指し示すことになる。申命記の中では「恐れる」という言葉が数多く使われているが、第一に、「神を恐れること」=「神に仕えること」として記されていることに注目すべきである。だから、「神を恐れる」という概念は「神に仕える」ことに関連していることなのである。

       第二に、「恐れる」とは「従うこと」である。神への恐れはしばしば神の命令に対する服従を意味する表現と並列しているのである(申命記6章24節、8章6節、17章19節、31章12節を参照)。「恐れる」とは、その命令を守り行なうことなのである。神を恐れる者たちは神が命じたことを、神への全き信頼と崇敬をもって従うのである。

       第三に、「恐れる」とは「神を愛して神にすがること」である(申命記10章12節と20節、13章3〜4節を参照)。心を神に向け、神に近づき、神にすがりついて離さないのである。なぜならば、神は恵みの神であられ、その御教えは常に私たちの益のためであるからだ。私たちは神を信じて愛するのである。だから、基本的には「仕える」「命令を守る」「愛してすがる」ということが「神を恐れる」ことなのである。それこそ神が私たちに求めておられる真の恐れである。

       さて、神を恐れるとは神に仕えることであるが、「神に仕える」という言葉は旧約聖書では狭い意味においては「礼拝」を指すものである。申命記の中では「神に仕える」=「礼拝」であり、礼拝に焦点があてられている(申命記4章19節、4章28節、5章9節、7章4節、1章1節、12章2節などを参照)。「神を恐れる者とは神を礼拝する者である」と書かれている箇所もある。神を恐れない者とは、神を礼拝しない者のことである。「主に仕える」とは、真実をもって神を礼拝することなのである(申命記6章13節)。

       そして、礼拝は人間生活の最も中心的な行為であるため、神を恐れて神に仕えることは、神を恐れることを意味する他の側面と密接に結び付いている。そのように、イスラエルは主を恐れ、主に仕え、主に従うように教えられるのと同様に(申命記13章4節)、主を恐れ、主に仕え、主を愛するように教えられている(申命記10章20節、11章3節)。その一連の表現がすべて申命記10章12〜13節で一緒に登場する。

     

    イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

       最初に、アダムとエバは「至聖所」の中にて創造され、「至聖所」の中に生きる者として創造された。人間は神を礼拝するものとして創造され、何よりも礼拝において神に対する正しい恐れを深くはっきりと表わすものとして創造された。私たちはなぜ礼拝で歌うのか。それは聖書の中で歌は喜びと感謝を表わすものとして教えられているからである。喜びを表わし、感謝を表わすものとして歌は与えられている。礼拝に来て心から歌をささげるのは非常に大切なことだ。それはただ説教前の準備というようなものではない。礼拝の中で、御言葉をもって神に歌うということは、それによって少し元気を出して血の流れを良くして説教をよく聞くようにするためだというような考えを持つ教会もあるし、神学校の礼拝学の勉強でもそのように教えられたことがあるが、決してそのようなものではない。

       また説教が礼拝の中心だということではない。礼拝のすべては神の御前で行われていることであって、賛美も祈りも説教も聖餐式も正しく行われるならばすべてが大切なものである。神御自身を恐れることには「神を喜ぶ」という意味が含まれているので、クリスチャンはいつも感謝の歌を歌い、賛美をささげなければならない。それは神に対する愛、神に対する信頼と感謝の心の表われである。私たちはすぐにそのことを忘れてしまいがちな愚かな罪人である。

       けれども、教会に来て礼拝をささげる時、私たちはキリストの義をいただいた者であり、神の御前にそのあるべき姿に立ち返って神に礼拝をささげる者なのである。御恵みによって既に正しい者とされたことを心に覚え、喜び、感謝をもって主なる神を礼拝するのである。礼拝を毎週毎週続けて行なううちに、私たちの礼拝の心が深められて、やがてその礼拝の心が生活全体を支配するようになるのである。

       ヨーロッパの野蛮人が福音によって変えられてクリスチャンとして礼拝するようになってから間もなく(と言っても、千年以上かかったが...)文化全体も変えられたのである。最初はまさに野蛮人たちの礼拝から始まったが、そこから西欧の音楽も、芸術も、建築も、政治も、すべてが変わったのである。それらすべては礼拝から始まり、礼拝から出て来たものである。神への恐れを礼拝において表わすことが、すべてに影響を与えるのである。そのことは、礼拝の始めから終りまでの全体において強調されなければならないことである。

       私は子供の時代をリベラルの教会で送ったが、教会には行っていても神に対する恐れの心は一切なかった。偶像礼拝の心をときどき持ったりした。つまり、教会に行くと、正面に大きな十字架があって、その十字架の真中には頭にいばらの冠をかぶって血を流しているキリストの顔があった。私は、それを毎週見ていた。その前で私は偶像礼拝のような気持ちになったりして、その像を見て祈ったりした。何か宗教的な気持ちになって祈っていた。後になって思えば、偶像礼拝のような心を持ったりはしたが、神を礼拝する心がまるでなかった。

       けれども、日曜日の朝にはいつも早起きして、中学生のくせに、決まってスーツを着てネクタイを付け、靴をピカピカに磨いて出かけた。教会に行くからである。「教会には一番良い服を着て清潔にして行きなさい」と厳しく教えられていた。何のためにそうするのかは教えられていない。ただ、そうしなければならなかったし、皆がそうしていた。「日曜日の服("sunday best")」という言い方があったくらいである。イースター(復活祭)の時、女性たちはみな新しいドレスを着て教会にやって来る。キリストの復活を祝うことを服装においても表わそうとするわけである。

       しかし、罪人はつまらないもので、どうなったかというと、女性たちは「誰のドレスが一番きれいか」という見栄の競争になってしまった。服がきれいでなければ、その人を見下したりもした。誤解しないでほしいが、それは実につまらない事であって、ここで私は服のことについてどうこう言いたいわけではない。皆さんがどんな服を着ているかを私は気にもしていない。しかし、当時のアメリカの教会では、きれいな服を着ることに反対しなければならなくなったほどにその問題はエスカレートした。来客がきれいな服を着ていなければ見向きもせず話かけもしないという、実に変な事態になったりした。一つのことを強調しようとするとすぐに変なことになったりする。

       とにかく、子供の時には「神は偉い御方なので、偉い御方に会いに行く時にはちゃんとした服を着なさい」ということを教えられていた。会社には遅れなくても、教会には毎週遅れて出るということもある。アメリカの田舎町には車の渋滞など有り得なかったのに、それでも毎週遅れてくる。礼拝に対する心が問題なのだ。結局私たちは、礼拝の心をすべてのことにおいて表わしてしまうものである。礼拝の心は、聖なる偉大な神に会いに行くという認識があれば、土曜日から備えるべきものである。日曜日の朝、教会に行く時、クリスチャンは偉大なる神に会いに教会に行くのだという心を持っている筈である。そこがポイントなのだ。その心は、すべてのことにおいて表わされる。だから、神を恐れる心は、まず礼拝において一番よく表わされるものである。神を恐れることを礼拝においてよく学ぶならば、私たちは生活のすべてにおいて知恵を得ることができる。

       つまり、私たちは、ここに集まるときに、礼拝中につまらない喧嘩をしたりせず、騒いだりはしない。昔のヨーロッパの野蛮人も私の先祖たちも、教会に来る時には入口で武器を預かってから会堂に入るのが習慣であった。少なくとも「礼拝堂では剣を抜いたりはしない」という規則があった。野蛮人たちは、礼拝を守っていくうちに、「礼拝でそうあるべきことは、家に戻っても同じ筈だ」ということがわかるようになった。礼拝で喧嘩をしないのであれば、家に戻ってもしない筈だ。礼拝のときに神に対して素直な心を持ち、神の御言葉を聞いて素直に従う心を持つのであれば、家に帰っても同じでなければならない筈だ。そのことを理解するようになる。

       ヨーロッパはその理解を得るのにおよそ千年かかったのである。それがわかるようになると、こんどは傲慢になってまた罪を犯してその真理から離れてしまう。なんと罪人はつまらないものか。しかし、礼拝において神を恐れることを学ぶならば、生活も、思いも、言葉も、態度も、すべては変わる筈である。だから、礼拝の大切さは大いに強調されなければならない。私たちは礼拝において特に詩篇を賛美し、詩篇を強調している。そこで、詩篇34篇を一緒にみたい。神への恐れについて考えるまとめとして、この詩篇34篇11節からの箇所を心に留めたいと思うのである。11節で「主を恐れることを教えよう」という招きがあってから、12〜22節までで神は「主を恐れる」とはどういうことなのかを、ダビデを通して私たちに教えている。

     

    11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。12いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。13あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。14悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。

       ここで、神を恐れるとは神の命令を守ることであり、正しい生活を送ることであり、正しい舌をもって語り、善を行ない、平和を求める生き方をすることだと教えられている。パウロは罪について語るときに「舌の罪」を強調したけれども、ここでも舌を正しく管理することが教えられている。パウロは行ないについても教えているが、神を恐れることを教えるこの詩篇もまた行ないのことを教えている。そして、続く15-16節ではこのように教えている。

     

    15主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。16主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。

       つまり、私たちが神の御言葉に従って正しく歩むならば、神は私たちの祈りを聞いてくださる。罪を悔い改めずにあくまでも神に逆らって生きる者から、神は御顔をそむけられる。17〜18節では再び正しい者について語っている。

     

    17彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

       この18節は、礼拝の心について話している。「神を恐れることを教えよう」というその教えの中で、礼拝の心とはどんなものかを教えている。それは、「砕かれた心」である。「砕かれたたましい」である。心の砕かれた者のために神は何をしてくださるかというと、神はその者に試練を与えてくださるのだ。試練が来るとき、驚いてはならない。むしろ神が私たちに試練を与えてくださるとき、私たちはヨブ、ヨセフ、またダニエルのようでなければならない。神は、すべてを失って神しか残らないような試練を彼らに与え、その試練を通して彼らを導かれた。

       ヨセフは、17歳の時に家族を失って奴隷にされたのである。その時代は、奴隷にされたらもう望みはないというものであった。ソビエトの収容所やナチスの収容所に入れられたようなことなのだ。そこから生きて出ることはもはや望めない。奴隷にされ、奴隷として働くとしても、ヨセフは神に対して忠実に一生懸命正しい心をもって働いた。それで信頼されて奴隷の長となった。すると、主人の妻が「私と寝ておくれ」と毎日執拗にヨセフを誘惑した。そこで妥協さえすれば、続けて奴隷の長としての立場を守ることができた。つまり、その悪い女はヨセフを可愛がって守ったであろう。しかし、ヨセフは妥協せず、罪を犯さず、はっきりと拒んだために、彼女は「あなたが信頼していたあのヨセフが私にいたずらしようとした」と主人に訴えた。それを聞いた主人は怒りに燃えてヨセフを監獄に投げ入れてしまった。ヨセフは奴隷の状態よりももっと悪い状態に投げ込まれたのである。昔のエジプトの監獄は現代の監獄よりもずっとひどいものであった。ヨセフは、十年以上あらゆる苦痛を忍んで頑張って作り上げた地位と立場を全部失ってしまったのである。ゼロ以下に戻って、最悪の状態からもう一度すべてを始めなければならなかった。そこまで神はヨセフから全部を取り去ってヨセフにへりくだった砕けた心を与えようとされた。

       ダニエルも奴隷にされて殺されそうな状態に置かれた。若い時も年取ってからもそれは続いた。奴隷にされた時にまずどんな仕打ちを受けたか皆さんは覚えているだろうか。ダニエルは宦官にされたのだ。宦官にされたら、あなたならどんな気持ちになるだろうか。とても耐えられる事ではない。ダニエルは少年の時に宦官にされてネブカデネザル王に仕えなければならなかった。もう結婚もできないし、家族を持つこともできない。普通の男性として生きることすらできなくなる。心理的に大変な屈辱である。年をとってからも「神を信じるなら殺す」と言われて、ライオンの穴に投げ込まれたりした。すべてを取り去られるような苦しい経験を何回もした。奴隷にされる。宦官にされる。殺されそうになる。野獣の餌食にされる。へりくだった心、砕かれたたましいを持つダニエルは、それでもひたすら神を恐れるのである。

       すべてを失い、すべて取り去られた時に、私たちははじめて本当にへりくだった心を持つようになる。本当に心が砕かれるのである。ヨブのケースは言うに及ばない。そのような心砕かれた者の近くに神はおられる。神は、罪人に対してそこまでの試練をお与えになる。試練を与えなければ、その罪人は用いられる器には決してならないからである。それで、父なる神は、私たち一人ひとりに、その必要に応じて試練を与えて、訓練してくださるのである。

    試練によって、神を求める心が深められ、礼拝を正しく神にささげるようになる。「砕かれた心」をもって神を賛美するようになるのである。すべてを取り去られたときにも、ヨブのように神を讃めたたえるようになるのである。それができる者でなければだめなのだ。それは、私たち一人ひとりについても言えることである。ヨブのような経験をするかしないかは別な話である。真に「砕かれた心」をもって神を礼拝するということが、本当の意味での神を恐れる者の礼拝である。そのことをダビデが私たちに教えている。ダビデには「砕かれた心」の意味が何なのかがよくわかっていた。ダビデはその人生において、何回も何回も与えられては失い、与えられては失うことを経験した。そのダビデは19節からのところでこう言っている。 

     

    19正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。20主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。21悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。22主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

       20節はキリストの十字架についての預言であることは周知の通りである。「神を恐れるとはどういうことなのか」を、ダビデは私たちに教えている。神の命令を守る。罪を悔い改める。へりくだった心をもって神を礼拝する。それが神を恐れる心である。それが神を信じる心である。そのことを私たちは聖書から教えられている。罪人にはそういう恐れがないので、歩む道も、手の行ないも、口も、足も、すべてがだめになる。そのようにパウロは、ローマ人への手紙3章のところで罪のことを説明している。

     

    彼らには恐れがない

       だから、「罪人には、神に対する恐れがない」と言うとき、簡単に言えば三つのことで言い表わすことができると思う。つまり、彼らは神を愛さない、神にすがらない、神から逃げるのである。とりわけ罪人は神を愛さないものである。もっとはっきり言うなら、罪人は神を憎んでいる(ローマ人への手紙8章7節)。憎んでいるので、神を礼拝し神に従うよりは、被造物を礼拝し(ローマ人への手紙1章22節)、自分の都合でやりたいことを行なうのである(ローマ人への手紙1章26節)。「神を信じる」ということは、神を愛し、神を慕い求めることでもある。しかし、罪人は神を恐れず、信じもせず、神をバカにしてあざ笑う。神をあざける心を持っているのだ。

       罪人は、神に対して歪んだ態度を持っている。天におられる愛なる御父として神を見ることをせず、見ることも出来ないのである。その代わり、御旨を彼らに押しつける独裁者として見ている。そして、アダムのようにとにかく神を避け、神から逃げる。そして、神の臨在を表わすすべてのことを彼らは憎む。つまり、クリスチャンの象徴のすべてを憎み、あざけるのである。ちょうどそれは今見た申命記の三つのポイントとは正反対のものである。神の命令を守らないだけでなく、むしろ、神の命令を破ることを求め、命令を破ることを喜ぶ。それが、神を恐れない者の道である。レメクは暴力について「カインを殺す者が神から七倍の復習を受けるならば、私に対して暴力を振るう者は七十七倍の復習を与える。私の罰は神の罰よりも厳しいのだ」というようなことを言ったが(創世記4章23節)、そのように神をあざけって暴力を喜ぶ。神に逆らい、罪を犯し、そして罪を楽しむ。それが罪人の神を恐れない心である。

       彼らの神理解が神への憎しみによって歪められているのと同じように、彼らは言葉をもっても神に逆らうことを語り、その毎日の生活にあって神の道から離れるのである。神を憎み、嘲り、神御自身や神との関わりのすべてから独立と自律を宣言する。世の終りの時まで神は忍耐をもって彼らの愚かさに耐え、そのような者たちを用いて御自身の民の徳を高め、教え給うのである。しかし、終りの裁きの時には、神を見下した者らは、神の御臨在の威光の前で全くの恐怖におののいてへりくだらされるのみならず、彼らが憎んで従わなかった御方が最も深い愛と献身を受けるに相応しい御方であったことを見るに至るのである。彼らは永遠に地獄で神を憎むが、同時に、彼らは神に信頼し愛することをしなかった自分自身をも憎むのである。 

       聖餐式は、主を恐れる心に戻るように私たちを招く恵みの食事である。聖餐式のときに、私たちは自分の罪を捨てて、主イエス・キリストの十字架の御恵みを覚えつつ、心からの感謝をもってそのパンと杯を受けるものである。聖餐式には、神を恐れることの未熟な意味と深い意味の両方が含まれている。パウロはコリント人への第一の手紙11章で、罪を悔い改めないで自分の内に罪を抱き続ける者は必ず神の懲らしめを受けるであろうことを警告している。

       聖餐式のとき、もし月曜日から土曜日まで愚か者のように罪を犯してしまったなら、また神の御前に出るとき何一つ知恵がないとしても、神の御前に立ったとき、恐れをもって自分の罪を悔い改めて神の赦しを求めなさい。少なくとも、この時に、その最低のレベルの知恵を持ってほしい。勿論それ以上の知恵を持ちたいし、皆さんにも持ってほしい。しかし、他の知恵がないとしても、最低限、神の裁きを恐れなさい。そのようにパウロが私たちに教えていると理解してもよいと思う。

       しかし、聖餐式の目的を忘れてはならない。聖餐式の意味は、「このパンを口に入れるのは恐ろしい。この杯を飲むのは恐ろしい」という恐れを抱くことでは決してないのである。むしろ、「私は罪人です。私は実に、私の罪のゆえにあなたの裁きを受けるべき者です。私の心は汚れています。私は愚かで自己中心的です。私は、実に、自分の都合ばかりを考えて神を求めてはいない。私は、ローマ人への手紙の3章に書いてあるとおりの罪人です。裁かれて地獄に行くべき者です。そのことを深く悟らされています。しかし、あなたは、このような罪人をも愛してくださいました。私がどんなに罪深い者であって、どんなに愚かな者であるかを、神さま、あなたはすべて御存知です。それでも愛してくださった。それでも、主イエス・キリストは私のために十字架にかかってくださった。私たちを救うために。そのキリストにある御恵みを心から感謝して、このパンと杯をいただきます」と告白する者でなければならない。主イエス・キリストは私たちの罪深さを見て「あなたはそんな者だったのか」と驚くようなことはない。ただ、へりくだった心をもって自分の罪を悔い改めてキリストの赦しを求めよ。キリストは喜んで赦してくださるからである。 

       父に逆らって家を捨てて放蕩に走った放蕩息子が家に戻ってきたとき、その父は自分の息子がどんなに酷い罪を犯したかを充分に知っていた。それを重々知ったうえで、その息子が目を醒して帰ってくるのをずっと愛をもって父は待っていたのである。息子が戻って来るのを見ると、父は喜んで自分から走り寄って彼を抱きしめて口づけしたのである。そして、息子の帰りを盛大に祝ったのである(ルカの福音書15章11〜24節)。子が帰ってくるのを父は心から喜ぶ。神は、そのような愛を私たちに対して持っておられる。私たちが心から罪を悔い改めてキリストのところに戻るとき、主イエス・キリストは愛を持って私たちを受け入れてくださる。

      それゆえ、私たちは本当に悔い改めてキリストのところに戻り、感謝をささげる。それこそ「成長した恐れの心」である。私たちは感謝して聖餐式を受けるものである。自分の罪を悔い改めることが聖餐式の中心なのではない。神への感謝が中心なのだ。愚かな者は罪の悔い改め以上のレベルにまで行かないかも知らないが、真剣に罪を悔い改めるだけでも、それは知恵である。それは、ある意味で「正しい恐れ」だからである。しかし、感謝の心をもって聖餐式を受けることこそ本当の意味で神に対する「恐れの心」を正しく表すことである。そのことを覚えて、真にへりくだった心をもって一緒に聖餐式を受けよう。

     

    ――1998年12月13日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章15〜17節

    ローマ人への手紙3章19〜20節

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