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    ローマ人への手紙3章25〜26節


    3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

    3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

    99.02.28. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    義の現われ

    3章25〜26節

    25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

       この二つの聖句でパウロは「義と認められる」ことの最も大きくて深い問題を指している。聖書の見方は罪人のそれとはまったく違うものだということは前にも話した。神の義に関してパウロには重要であることが現代的な見方からはあまりにも異なっているために、これを伝えるには困難が伴う。罪人の見方とはどういうものかというと、「どうして神は人間をさばくことができるのか」という話になってしまうものである。「神が愛であるならば、なぜすべての罪を赦さないのか。どうして神は人をさばくのか」と、罪人は言う。聖書の中では問題は正反対である。「なぜ神は罪人の罪を赦すことができるのか」ということこそ問題である。義なる神は罪を完全にさばかなければならないのではないか。罪を赦すなど、どうしてあり得るのか。それがパウロの考えている問題であり、現代の人間とはまったく逆の観点から問題をとらえている。

       実は、自分が被害者であるときには、罪人も「なぜ神はこんなひどいことを許すのか」と叫ぶものである。しかし、自分が加害者となると話は違ってくるわけである。被害者は異なる意味をもって「どうして神はこれを許すのか」と言う。悲惨な戦争を見たり、大勢の人々が苦しむ光景を見たりするときに、「なぜ神はこれを許すのか」と罪人はつぶやく。だが、パウロはここで神の義の話をしているのであり、神の正しさの話をしているのである。正しい神は必ず罪をさばき、罪を取り扱いたもう。そして、正しい神は罪に対して怒っておられるということもこの二つの節の前提となっている。

       罪に対する神の怒りの話は、1章18節からずっと何度も話している。神は義なる、聖なる、愛なる御方であるので、人間が罪を犯すときに、神はその罪に対して怒っておられるということをパウロはずっと説明している。罪人であっても、時には、ある事柄に対しては“義憤”をおぼえるものである。神は、いかなる罪に対しても完全で聖い目をもって見ており、その罪に対して義憤をもっておられる。それ故、神の怒りと神の正しさこそは罪人にとって救いの問題の中心だと言わなければならない。それ故、パウロはここで神の正しさの話をずっとしている。

       人間が救われるためには、義と認められなければならないことを説明しているわけである。罪に対する神の聖い無限な怒りこそ、一番理解されなければならないことなのである。その事を理解しなければ十字架の意味も理解はできないからである。それでパウロは25節で、キリストの十字架のことについて「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として定められた」と説明している。新改訳では「公けにお示しになりました」と訳されているが、この原語は「公けに示す」と「定められる」の両方の訳が可能であり、ここでは「定められた」という訳の方が正しいのではないかと思う。

     

    な だ め

       キリストの十字架上の死を、パウロは「その血による・・・なだめの供え物」と言う。「なだめの供え物」という言葉は、キリストをある特別な観点から示すものである。前に「贖い」という言葉について考えたが、「贖い」とは、「主イエス・キリストの十字架は私たちの罪のための代価を支払うものだ」という観点から十字架を見たものである。そして「なだめの供え物」という言い方はまた別の観点からキリストの十字架を考えるものである。「御怒りを取り除く」ことを「なだめの供え物」という言い方は指している。罪に対して神は怒っておられる。神は、その怒りを罪に対して注ぎ出してさばきを行ないたもう。その正しい義なる怒りを満足させるのが「なだめの供え物」なのである。

       主イエス・キリストは十字架上で死んでくださったときに、私たちの罪に対する神の正しい怒りを受けてくださらなければならなかった。十字架上の暗闇の3時間に、神の御怒りがキリストの上に注がれたのである。その怒りを、主イエス・キリストが私たちの代わりに受けなければ、私たちに救いはない。そこに十字架上の主イエス・キリストの本当の苦しみはある。私たちはキリストの十字架の苦しみの記事を読むとき、その肉体の苦しみについていろいろ書いてる箇所にまず注目してしまうし、多くの書物もそのように書いてある。確かにイザヤ書に記されているとおり、主イエス・キリストは十字架につけられる前の晩にローマ軍やユダヤ人たちに何度も殴られたり、イザヤ書52章の終りに書いてあるように、主イエス・キリストの顔は人間のような姿ではなくなっていたとある。何回も何回も顔を殴打されると顔のあちこちが紫色に腫れ上がって血だらけになる。誰なのか識別さえできないほどになる。

       私は昔ボクシングをやった経験があるが、かなり顔をやられたことがある。鏡を見て自分でもショックを受けるような顔になる。それでも、私の場合はグローブをつけての話なので、まだそれほどでもなかったと言える。本当に直接力任せに何度も殴られると人間の姿ではなくなってしまうほどになるのは確かだ。そのことをイザヤはキリストについて預言していた。イザヤ書の他の箇所にも、ローマの軍人やユダヤ人がキリストを嘲笑したときに、キリストのひげを手でむしり取ったことが記録されている。それも激痛を伴うものであって、酷く腫れ上がって目を覆いたくなるような顔になる。

       その他にも、ローマ軍はキリストを鞭で打ったけれども、ローマ軍の鞭で数打てば、それだけでも死んでしまうほどに強烈な鞭であった。数本の長くて細い皮革の先に鉄菱のような鋭い金属がはめ込まれてあるので、それで打たれたら肉が裂けてしまう。その鞭でキリストは数十回も腰と背中を打たれた。それだけでも血だらけになって身体は腫れ上がって目を覆うような姿になってしまう。その鞭打ちだけで死んでしまう人が多かった。続く十字架の死刑のやり方も、特別に逆らう外国人と奴隷を苦しめる拷問のために考案された刑である。

       キリストは一晩中、拷問などで苦しめられた。翌日、キリストは究極の拷問として備えられた極刑である十字架の刑を受けた。ローマの十字架の刑は人を最大限に苦しめるために巧みに考案された処刑の方法であった。主イエス・キリストの死はそのような死に方であったということを聖書は預言し、証言している。そのことを読むとき、どうして主イエス・キリストはそれほどまでに苦しみを受けなければならなかったのかを考えずにはおれない。

       キリストが受けた拷問と十字架の刑は史的事実である。しかし、その死に方はすべて象徴であったと言ってよい。「象徴であった」という意味は、その肉体の苦しみは罪人とその罪に対する神の御怒りを表わす象徴であったということである。罪人とその罪に対する神の御怒りについて考えるとき、「拷問」は実に適切なことであったのだ。聖書の中のイスラエルの律法の中には死刑制度が定められている。聖書の死刑制度は人を拷問にかけるような死刑制度ではない。人間が他の人間を死刑に処さなければならないいろいろなケースが旧約律法の中に書いてある。けれども、その死刑の方法は人を拷問するようなものではない。人間が他の人間を拷問によってさばくことを聖書は許していない。

       なぜ人間には許されないのかというと、拷問は神がなさることであって人間のすべきことではないからである。そのように私たちは考えるべきである。永遠の地獄というものが聖書の中にある。地獄はいわば永遠の拷問であり、永遠の苦しみである。神は永遠に罪人に対してそのさばきを下される。地獄を「拷問」という言葉で表わすと、誤解して間違った印象を受けてしまう人がいるかもしれないが、それは神の正しい怒りが永遠に罪人に対して与えられることに他ならない。罪人はその恐るべき神の御怒りを永遠に完全に受けることになる。つまり、罪人は、その御怒りを決して満足させることはできないので、さばきは永遠に続くわけである。かたちにおいては拷問のようなさばきが、永遠に続くのである。

       しかし、私たちにはそのように永遠に続くようなさばきを他の人間に対して与える権限はない。人間が人間にそのようなさばきを与えてはならないのである。しかし、神は永遠にそのようなさばきをお与えになる。それ故、主イエス・キリストの十字架の死はそのようにひどく拷問されて苦しんで死ななければならないものであった。それは十字架の本当の意味を指し示す象徴として考えなければならないものである。

    十字架上でキリストが死んだとき、三時間も太陽はその光を放たず、主イエス・キリストは暗闇の中で神の御怒りを受けて、その三時間の苦しみにおいてキリストは特に私たちのための「なだめの供え物」としてご自身を父なる神にささげられたということであった。神の御怒りがキリストの上に注がれたのである。その時、主イエス・キリストは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」即ち「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。キリストは「なだめの供え物」としてご自分を神にささげて神の御怒りを完全に受けてくださったのである。キリストは我々が罪のゆえに受けるべき御怒りを負ってくださった。その神の義なる御怒りを罪の一つだにない主イエス・キリストが私たちの代わりに受けてくださらなければ、神はその御怒りを私たちの上に下されることになるのである。問題は神の正しさと神の聖さなのである。そのことをよくよく理解しなければならない。

       私たちの罪があまりにひどい悪であるために、それらは御怒りと裁きが著しく表わされるかたちで罰せられなければならなかった。十字架は、罪に対する義なる憤りを満足させるやり方で“悪者”が死に渡される場所である。ところが、十字架上のその“悪者”とは神の御子キリストなのだ。つまり、唯一純粋に“善なるお方”が私たちを救うために、我々の身代わりになられたのである。それだから、悪が罰せられるとき、私たちは単純に歓声を上げるわけにはいかない。それは私たちの悪が他者において罰せれているということにすぎないからだ。私たちこそ十字架にかけられるはずの悪者なのである。

     

    悪を憎む

       この概念を理解するために、義憤というものを簡単にまた幾分長く描写することは恐らく助けになると思う。「悪を憎む」ことは現代思想の一部ではないし、むしろそれは「寛容」という言葉によって反対されている。しかし、それでも悪を憎むことを人間心理から切り離すことはできない。キリストの十字架のことや永遠の地獄を完全に否定するような人間であっても、自然にその心理を表わしてしまうほどである。今、私は悪の巣窟であるハリウッドのことを考えている。映画をみればわかることがだ、アメリカの映画では悪者と善人を100%完全に区別するのが普通である。古い時代の映画ほどその区別は明らかである。悪者は見るからにひどい奴でなければならない。そして映画の中では悪者は悪を楽しんでいるかのようなことをする。それで観る人が義憤を覚えるように映画は作られている。

       人々はその悪者に対して憤りを感じる。早く罰せられないかとやきもきする。そして映画の最後のところで悪者が殺される場面になるが、悪者を殺すときにはただ銃を出して簡単に一発で倒すような話にはならない。或いは、寝ている間に毒薬を盛られて静かに安らかに死んでいくような映画は誰も作らない。悪者の死に方はその悪に相応しく特別に残酷な死に方でなければだめなのだ。でないと観客は満足しない。観客の気持ちをよく計算に入れて映画製作者たちは映画を作る。

       それが殴り合いであれば、10分以上もかけて徹底的に殴り合いをさせる。蹴飛ばしたりぶったり、蹴飛ばしたりぶったり、蹴飛ばしたりぶったりして、そのラスト・シーンの場面は延々と続く。悪者が十分に罰せられるように、ばかばかしいほど念入りに工夫を凝らしたりする。銃で殺すならば何発も激しく打ち込まなければだめなのだ。しかも撃たれてからどこか高い所から叫びながら墜ちていって地面などにたたきつけられて醜い死に方をしなければならない。或いは火に投げ込まれなければならないとか、非常に厳しい拷問のような死に方をしなければ観る人たちは決して満足しない。

       だから、最後の死に方はまるで地獄を与えるような死に方をさせるわけである。地獄を味わせるような死に方をさせなければ観る者は喜べない。それが映画の作り方の基本なのだ。つまり、本格的に悪者に対して激しい怒りを持つのが人間本来の心理であることをハリウッドの映画製作者たちは熟知しているのだ。そして、はっきりとその悪道の限りを見せたあとで、その悪者に相応しい十分なさばきを与えると、見る者たちは満足する。そのような心理が人間の中に生まれながらにしてある。その人間心理を掻き立てたり撫でたりするように映画は作られている。

       内容がどんなにばかばかしい内容であっても、善人と悪人が出てきて、その二人を激しく戦わせ、最後に善人が勝って悪者は地獄のようなさばきを受けるという基本に従って映画を作ればどんなアクション映画でも成り立つのである。他のいろいろなドラマもミステリーもみなそれで成り立つ。何であれ、そのパターンでまとめあげれば何とかなるのだ。人間の心理に合致するからである。統計からみると、アメリカ人に限らず、殆どの人々は、悪が悪と見做されて厳しく罰せられる世界を好んでいるのである。

       面白いことに、ヨーロッパ映画、特にフランス映画はそれと違っている。フランスはひどく憂鬱な映画を作って見せる。善い人もいなければ悪い人もいない。つまりみんな混ざっているような映画が多いのだ。みんなが悪者ということにもなったりするし、最後にみんなが死んでしまったりする。みんなが自殺したり、とにかく「いったい全体これは何だったのか」と思わせるような幕切れが多い。しかし、フランスに行けば、フランス人が一番好んで観るのはアメリカのアクション映画やカウボーイ映画やドラマだったりする。つまり、理解に苦しむようなフランス映画を制作しているのはフランスのインテリ派であって、彼らの映画作りの目的は金儲けではないのだ。単純でバカだと言われるアメリカ人の映画がフランスではよく売れている。人間の心理に通じるからなのだ。

       アメリカ映画の方が心理的に理解しやすい。善と悪ははっきりしていて、戦いがあって、最後に善が勝利し、悪は拷問されて倒される。この単純なストーリーは人間の心理に通じているのだ。人間なら誰にでもある心理である。このように、映画は観る人が悪者を憎んでその破滅を願うように作られている。映画の面白さの一つは、黒い帽子をかぶった悪者達が非常に強く、もう少しで白い帽子をかぶった人物を殺してしまいそうになるのだが、その白い帽子の男が何とか墓から舞い戻り、いわば、信じられないような困難を乗り越えて勝利をおさめるところにある。

       人々は、正義の味方が白い馬にまたがり、輝く銃とともにやって来て、何十何百という悪者が倒されるのを見て歓声を上げる。悪者の中でも極悪人は長々と悲痛な死を遂げるようになっていて、私たちはそれを見て満足する。だが、それは私たちに加虐性があるからではなく、その悪者の行いによって私たちの正義の感性が憤激せられ、どうしてもそのような悪人が簡単に死ぬというだけでは何かがおかしいと感じてしまうからなのだ。悪に対する義憤と悪が罰せられることに満足するという私たちの生まれもった感性は、私たちが神の似姿に造られていることを示す一面である。しかし、私たちが映画に対して求めていることが、神の方法や神の世界支配に関する事柄を示しているなど、思いもよらないことなのである。

       本当は、どうしてそこまで単純なパターンが受け入れられるのかというと、そのパターンは聖書のストーリーを単純化したものだからである。聖書は、主イエス・キリストとサタンの戦いが歴史の中にあることを教えている。善と悪の区別ははっきりしている。最後に主イエス・キリストは勝利し、サタンは敗北して永遠の火の中に投げ入れられる。このようなかたちで聖書の物語の要点を言い表すのは確かに単純過ぎるけれども、そのような言い方ができないことはない。罪人であっても心の中では悪に対して怒りを持つのは当然だということは誰にでもわかっていることであり、自分で義憤を持った経験は誰にでもあるはずだ。少なくとも映画を観たときにその憤りを経験している。その悪を行なった者に対して特別に厳しいさばきを行なわなければだめだということも皆が感じている。

       しかし、神の目に自分がどう見られているのかということはあまり考えていない。映画には善い人と悪い人がいるが、私たちはみな常に正しい英雄の側に立つ。悪者の側に立つ人はまずいない。しかし、聖い神の目には、私たちは潔くて正しい者に見えるわけではない。神は私たちの心の最も深いところのすべてを完全に見抜いておられる。神は私たちの犯さなかったけれども思いの中で犯そうと思ったような罪さえも見ておられる。神が観ておられる私たち個人一人ひとりの“映画”において、私たちは英雄や善人には成り得ない。私たちこそ悪党なのだ。私たちの心の奥底にあるすべてを知っておられる神は、当然私たちに対して怒っておられる。自問すれば誰でもわかることである。

       義なる神は、私たちよりも無限に罪に対して敏感である。旧約聖書の律法の中には気づかずに犯された罪のための供え物がある。つまり、私たちは自分が罪を犯しても、自分がひどい罪を犯したということに気づくことさえないほどに鈍感なのだ。そのようなケースはよくあることである。だから、そのための供え物というものも定められていた。

       罪に対して神の御怒りは必ず表わされなければならない。神は義なる御方であられる。その正しい神は、悪を見るときに義憤を覚え、それを食い尽くす怒りをもってさばきたもう。だから、主イエス・キリストの十字架の働きは、神の怒りを完全に受けてその怒りの杯を最後の一滴までをも飲み干すものでなければならない。主イエス・キリストの十字架の死には「神の怒りを受け入れて、私たちからその怒りを取り除く」という意味もあるのだ。「なだめの供え物として定められた」という言い方は、怒りを受けてくださることを指すものである。「血による」というのは、十字架のことをいけにえとして指す言い方である。その「なだめの供え物」という「いけにえ」によって私たちは救われるということ指している。

       それは「ご自身の義を現わすため」であるとパウロは言っている。神がご自分の正しさを十字架を通して私たちにはっきり教えておられる。「なぜ神はさばかないのか」「どうして神はこのようなことを許すのか」という人間の訴えに対して、神は完全に答えているのである。神は、その十字架上でご自分の怒りのさばきを人間にはっきりと示された。ご自分が、罪に対してどんなに怒っておられるのかを示しておられる。どんなに大きなさばきを行なうかを、神は十字架上ではっきりと示してくださった。つまり、罪人は神の義について何一つ文句が言えるはずはないのだ。神ご自身が、その罰をご自分で受け、その完全な正しいさばきを受けるので、「神は罪をさばかなかった」ということには絶対にならないのである。神は罪に対する完全なさばきを行ないたもうのだ。

       神は悪を憎み、それが全き義なる罰をもって罰せられるまでは満足することはない。世界の歴史の物語は、悪(即ち「ヘビの子孫」)と善(即ち「女の子孫」)の間の戦いの物語である(創世記3章15節)。世界の本当の歴史はハリウッド版よりもはるかに複雑で、善悪の区別も根本的に違うものである。しかし、キリストは傷を負われるが、墓からよみがえられ、その弟子たちにさえ不可能と思われた勝利を成し遂げられるのである。すべての悪に対するキリストの義なる憎しみと御自身の完全なる義は、キリストを究極的英雄とするのである。唯一の問題は、私たちが罪深いということだ。私たちが“悪者”なのである。私たちには悪に対するキリストの戦いが容易には見られない。なぜなら、それは人間が罪人として愛する事柄に対する戦いであるからだ。

       意識的な反抗者たちは、キリストが悪で彼らが正義の味方となるように善悪を再定義する。しかし、これは心理的に困難であり、哲学的にも良心においても彼らを深い矛盾に陥らせるほかない。なぜなら、どんなに鈍くても、すべての人間は心の中では自分たちが罪人であることを知っているからである。悪に対する神の全き憎悪と私たちの罪深さの現実は私たちにとって問題である。なぜなら、それは、自分たちを“正義の味方”と定義する善悪の明白な区別を求めると同時に悪が裁かれるのを見たいと望む私たちが、その“悪者”とは実は自分たちであることを認めるように強いられるという、極めて矛盾した心理的立場に我々を置くからである。

       またそれは、神にとっても“問題”である。なぜなら、神は私たちを憐れんで救おうとされるけれども、悪者を義と認めてなお御自身が義であられることはあり得ないからである。しかし、人間には解決できないこの問題をキリストは十字架上で「なだめの供え物」となってくださったことにより、そして罪の罰を完全に受けてくださることによって完全に解決してくださった。罪と死に対するキリストの勝利は私たちの救い、そして歓びなのである。

     

    立証された義

       「なだめの供え物」が神にとって何を意味するのかということは非常に重要である。「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」とパウロが言っているのは、アダムの時から主イエス・キリストの時までの罪のことを話しているのである。大洪水やソドムとゴモラの裁きのような数少ない例外を除き、大いなる不義さえも罰せずに、神は人間の罪を見のがして来られた。神はずっとキリストの時に至るまでその罪に対する完全なさばきを行なってはいない。

       神はアダムとエバに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言ったが、実際に彼らが罪を犯したとき、その場ですぐにアダムとエバをさばいて滅ぼすことはなさらなかった。同時に、ある意味で「既にさばいた」とも言える。なぜなら、彼らはエデンの園から追放されたからである。それは、神との親しい交わりから切られることなので「死」を意味することであった。その意味において言うなら、アダムとエバはその日に死んだのである。しかし、身体は死ななかった。代わりに神は動物をいけにえとして取り、二人はその動物の皮を身にまとうことで死なずにすんだ。その動物が「身代わりとなって死んだ」からである。

       聖書の犠牲制度はそこから始まっている。アダムとエバにはそのことがよくわかっていた。「私たちこそ死ぬべきであったのに、この動物が代わりに殺された。その犠牲によって、私たちはこの時に死なずにすんだのだ」と。しかし、最終的にアダムもエバも死ぬ。アダムの子孫も死ぬ。しかし、罪を犯した時から死ぬ時まで、神がその罪を見逃して来られたその期間、義なる神はどのようにご自分を弁護できるのだろうか。その罪をさばくはずだったのに、それを見逃した。しかし、主イエス・キリストが十字架において完全なさばきを行なったので、その罪を見逃して来られたことについても「それは正しくない」と言うことはできないのである。

       神は、御自身の義を世に対して公けにお示しになるために、キリストにおいてすべての人間の罪を裁き、キリストは最終的で完全なる裁きに服させられた。最終的に、そして完全に、さばきは行われたのである。それは地獄よりも激しい裁きであったが、キリストは神の御怒りを完全に御自身の上に受けてくださった。それゆえ、25節でパウロは、キリストの死が「今までに犯されて来た罪を神が忍耐をもって見のがして来られた」ことに対する神の義を現わしている、と告げているのである。

       もっと広い言い方をすれば、「一般恩恵は十字架にある」と言うことができる。例えば、今日、東京のどこかで殺人があったとしても、神は即座に天からさばきを下すようなことはなさらない。その殺人犯はもしかすると巧みに逃げ切ってしまうかもしれない。或いは、何年も経ってからやっと逮捕されるかもしれない。「なぜそんな人間に猶予を与えるのか。なぜすぐにさばかないのか」というと、それは神の一般恩恵(一般恩寵)であって、神はすべての人間に対して御恵みを与え、罪人が自分の罪に気がついて神を求めるようになる猶予を与えておられるのである。それは神の大いなる忍耐である。刻一刻さばくことを神はなさらない。神は、忍耐をもって罪を見逃して来られたのである。しかし、罪にたいして怒っていないのではない。さばきをしないのではない。また中途半端なさばきをすることもない。神は、完全なさばきを十字架の上で行ないたもう。

       今までに犯されて来た罪に対して神はさばきを行なうし、その私たちの罪が赦されるために、主イエス・キリストの十字架のさばきは必要であることをパウロは26節で説明している。

    それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

       この箇所の翻訳は、「イエスを信じる者を義とお認めになってもなお神ご自身が義であられるためなのです」と訳す方がよい。この節のポイントは、神は罪人を義なる者として宣言しても、ご自身の正しさを曲げることはないということである。罪人を正しい者として認めてくださるときでも、神はご自分の正しさを一切曲げてはいない。つまり、完全なさばきが行なわれているので、私たちは主イエス・キリストを信じるときに、主イエス・キリストの正しさが私たちに転嫁され、私たちの罪がキリストに転嫁され、私たちは義と見做されるのである。

       そのように神は私たちを正しい者として認めてくださるとき、それは義を曲げるようなさばきではない。キリストが代わりにさばきを受けてくださったので、私たちは神の御前に義なる者と認められるのである。これこそ法的な正しいさばきである。そのことをパウロはここで説明している。聖書の中の救いは、正しさが基準である。正しさと聖さが基準なのである。憐れみだとか可哀想だとかいうようなところから救いについて語ることはしない。しかし、現代の人々はみな“憐憫”を出発点として救いについて考えている。

       仏教に「すべては苦しみである」という概念がある。これは仏教の四つの「高貴な真理」の第一番目のものである。無論、ほとんどの人が仏教信者だと言っているのではない。要点は、まったくのヒューマニズムに陥っている現代人は、人間を被害者と考える点で古代仏教の概念を共有しているということである。それは、アダムが「あなたが私のそばに置いたこの女が...私にくれたので...」と言い訳したエデンの園にまでさかのぼる考え方である。アダムの罪は、彼が示唆したところによれば、悪いのはエバであり、更に根本的には神が悪いのだというものであった。アダムは、自分の妻と神に対して陰謀を企てたのであったが、彼自身の目には、自分はただ宇宙の陰謀の可哀想な犠牲者だったのである。

       同じように現代人は、一般的に「人間は苦しんでいる。人生は苦しみの連続だ。人間は可哀想だ。人間は宇宙の被害者である」という観点から人間の諸々の問題を考えてしまう傾向が強い。人間を犯罪者というよりもむしろ被害者なのだと考えるような世界観を持っている。決してそうではない。人間は加害者なのだ。神は人間に素晴らしい祝福を豊かに豊かに与えたのに、人間はその祝福を呪いとさばきに変えてしまう。自分のせいで起こった問題なのに、神に向かって「神よ。なぜこのようなことをするのか」と、罪人は訴えたりする。人間は可哀想だとか、人間は大変だとかいうような見方から始まるべきではない。人間社会の中の諸々の問題と世の中のすべての問題は人間が作り出した問題なのだ。罪人が作り出した問題なのである。

       アダムは有罪であった。そして私たちもまた有罪である。それゆえ、救いについて考えるべきことは「愛の神であるならば、どうして人間をその罪のゆえに地獄に落とすことができるのか」ではなく、「義なる神がいかにして罪ある人間を義と認めることができるのか」なのである。次のように書かれてあるとおりである。「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌み嫌う」(箴言17章15節)。すべての人間が実際に邪悪な者で、深く神を憎む者であるなら、いかにして神の義が汚されることなく彼らは義と認められ得るのだろうか。

       人間の罪に対して神の御怒りはどんなものであろうか。神は、愛をもって私たちを救うためにご自分でそのさばきを代わりに受けてくださって、私たちに完全な救いを与えてくださった。これが福音の中心である。神の聖さと神の正しさを中心として覚えなければ、福音の伝え方もまったくおかしなものになってしまうであろう。「可哀想なあなたを助けてあげよう」というような話ではないのだ。主イエス・キリストは罪人に対して大きな憐れみを表わして罪人たちを助けてくださるのは事実である。ある観点からすれば、自分の身から出た錆だとはいえ、「罪人は可哀想だ」という言い方はできないことはない。しかし、それは二次的なことであって、問題の中心は、罪であり、正しさと聖さであり、その罪に対するさばきである。神がその義なるさばきを行なったからこそ罪人に対して憐れみを与えることもできるのである。

       罪を悔い改めてキリストを信じる者は救われる。自分の罪を神の御前で認めて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じるならば、神はその罪人を救って義と認めてくださる。神の正しさ、神の聖さ、神のさばきの問題を解決するのは神ご自身なのである。憐れみ深い愛なる神は、同時に聖なる義なる神なのである。神の方が積極的に私たちを求め、積極的に私たちに御恵みを与えてくださる。罪人の罪の本質はそのいろいろ犯している悪というところにあるのではなくて、神を憎み、神から逃げるところに罪人の本質がある。神ご自身を憎んで神から逃げている罪人たちに対して神は憐れみを表わしてくださり、罪人を求めてくださる御方として人間となってこの世に来られて、私たち罪人が受けるべき罰を私たちの代わりに十字架の上で受けてくださったのである。

       たとえ神が、不敬な罪人である者を義と認めてくださるとしても、十字架のなだめのみわざのゆえに神は義なるお方のままなのである。悪は義なる御怒りによって罰せられた。そこにはいかなる正義の妥協も、罪の便宜的な赦しもない。罪の悪は徹底的に暴かれ、考え得るかぎり絶対的なやり方で裁かれたのである。歴史の物語は唯一の善なるお方の勝利に終わる。しかし、神の恵みにより、私たちはその御方とともに立ち、この御方のために戦うのである。御恵みにより、信仰を通して、犯罪者であった私たちは、神の子である人間、つまり「女の子孫」に変えられたのだ。

       主イエス・キリストの十字架の働きの意味をよく覚えて、その意味を深く考えることは私たち罪人にとって非常に大切だということは皆さんもよく知っていると思う。毎週の聖餐式を受けるときに、私たちは自分の罪を悔い改める。本当ならば私たちの方こそさばきを受けるはずであった。けれども、主イエス・キリストが代わりにさばきを受けてくださったために、私たちはキリストを信じる信仰によって救われる。そのことを聖餐式において私たちは告白している。

       聖餐式のパンと葡萄酒を受けるとき、「キリストの死によってのみ私は救われる」ということを告白しているのである。「本当なら私の方が死ぬべきであった。私の方が血を流し、私の方が拷問されるはずだった。けれども、キリストは私の代わりにそのさばきを受けてくださったので、私は救われる」ということを、聖餐式のときに告白する。聖餐式を受ける前に自分の罪を悔い改めて心の準備をするけれども、その聖餐式において一番大切なのは、この大きな神の御恵みに感謝し、喜びに満ちて主イエス・キリストの救いの働きに対する信仰を告白することである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年2月28日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章24b節

    ローマ人への手紙3章27〜31節

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