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    ローマ人への手紙4章1〜8節


    4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。

    4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

    4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

    4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

    4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

    4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

    4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

    4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

    99.06.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    アブラハムの場合

    4章1〜8節

    1それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。2もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。4働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8主が罪を認めない人は幸いである。」

       今日から4章に入る。この箇所の章の区分けとしては、3章27節から4章が始まるのが正しいと思う。すなわち、「福音は人間の誇りを取り除く」という説明が4章の始まりとなるべきだ。4章1〜8節でアブラハムについて論じられていることはそのテーマの続きだからである。それで、前に進むためには3章27節のポイントをまずしっかり把握しておかなければならない。4章1節からパウロはアブラハムの信仰について話している。アブラハムの場合はどうなのか。

       そのことを説明することによって、パウロはユダヤ人にはっきりと福音の本質を伝えている。もちろんこれを読む異邦人もアブラハムの子孫となるのであるから、そのアブラハムの信仰から学ばせているわけである。即ち、「私たちの誇りは取り除かれた。行ないによって取り除かれたのか、それとも信仰によって取り除かれたのか」という問いに対して「信仰によってである」と宣言しているわけである。

       偽りの誇りは、信仰の原理によって取り除かれたということを3章27節以降でパウロは説明した。そこから、アブラハムの場合はどうなのかというつながりになっている。イスラエルの偉大な契約の父の場合でさえ「信仰によって」救われたのであるから、人間的な誇りは一切取り除かれた、とパウロは宣言する。パウロがここで「誇り」について話しているとき、これはローマ人への手紙の今まで話した内容から引き出されたテーマであることは理解していただけると思う。パウロは1章23節のところで罪人の罪について話したときに、「彼らは、神の栄光を捨てて、滅ぶべき被造物を神にしてしまった」と言っている。違う言い方をすれば、偶像礼拝は、神の栄光を捨てて別の栄光を求めることなのだ。つまるところそれが「自分を誇る」という罪なのである。自分を中心にし、自分の栄光を求めるときに、人は偶像礼拝の宗教を生み出してしまう。だからパウロはこれほどに「誇ること」について感心を示すのである。それは、ちょうど真の「誇り」が真の宗教の本質に含まれるように、偽りの「誇り」が偽りの宗教の本質に含まれるからである。

       簡単にまとめるならば、「自分を神にしようとすることが罪人の罪の本質だ」と言うことができる。創世記3章に出てくるように、自分を神にするとは、自分の栄光を第一に求めるようなことになるわけである。そして、実際に、クリスチャンではない宗教は大胆にこのことを福音であるかのように伝えるのである。モルモン教のばあいは、忠実なモルモン教信者として生活するならば、死後にはどこかの惑星に行ってその惑星の神になるというような教えである。それが彼らにとっての“福音”である。仏教のばあいは死んで仏になることが“福音”である。

       「悟りを開く」ことについて仏教学者の鈴木大拙は「全知を授かる」という表現を使う。英語では" omniscience"という言葉を鈴木大拙は使っている。悟りを開いたら“全知”になるというのである。クリスチャンではない人たちはそのようにいろいろな表現や複雑な定義を用いるにしても、結局簡単に言えば、「自分を神にしようとしている」わけである。人間の神性を宣言する諸宗教の場合は人間の栄光を求めていることが見え透いている。しかし、パリサイ人の異端のそれほどあからさまではない。パリサイ人は真の神を信じると主張していながら、その宗教は人間と人間の働きを誇る宗教であった。彼らの偽善はキリストによって暴かれた。彼らの神に対する熱意も、神を彼らの栄光のための手段へと引き下げるものでしかなかった。自分を神にしようとしているのである。これはアダムとエバの最初の罪と何ら変わらない。

       パウロがここで言っている「人間的な誇り」も、ポイントとしては同じものである。「私が中心である。私が主である。私が第一である」ということが人間の誇りの根底にある。だからパウロは3章で「罪人は神の栄光をあらわさない」と言う(3章23節)。罪人は、本来人類が創造されたその目的から遠く離れてしまっている。それをパウロは「人間の罪」として言っているのである。神の栄光を求めない罪人とはどういうものかというと、自分の栄光を求める者である。いろいろと曲がったかたちで自分の栄光を求める。福音は、その罪人の曲げられた栄光、その曲がった誇りを、全部取り除いてくれる。

       それでは、福音はどのようにしてその曲がった栄光と誇りを取り除くのか。それは「信仰によって取り除かれた」のである。パウロはまずそのことを広い意味で説明している。信仰によってでなければ、異邦人とユダヤ人の違いはどうなるのか。「唯一絶対なる神がすべての造られた者の神であるならば、律法に従うことによってではなく、神を信じる信仰によってその悪い栄光と誇りは取り除かれているはずだ」とパウロは言う。律法は異邦人には与えられていないので、異邦人のばあいは信仰によるのでなければ、どうやってその罪の本質から救われるのか問われたときに、答えはないのである。

     

    先 例 

    「それでは、アブラハムはどうなのか」というのが次のポイントである。ご存知のように、パウロが書いたこの手紙の原文には3章とか4章とかいう区切りはなかった。これは聖書の箇所を見つけやすくするために後に付け加えられたものであって、章や節の区切りは御霊の霊感によって与えられたわけではない。ここでは4章の1節は3章の27節から始まる方が内容として適切である。そこから「誇り」の話は始まっている。異邦人のことを話してからこんどはアブラハムの話をする。アブラハムでさえも誇るところがないのであれば、異邦人もユダヤ人もともに等しく義と認められるのは明らかなことである。それゆえ、パウロはここでアブラハムの話をするわけである。ユダヤ人の話をすればすべてがアブラハムから始まっているのだから、アブラハムは出発点であり、テストケースであり、すべての人の信仰の先例となる立場にある。

       アブラハムの生涯は、ユダヤ人にとっては先例として最も権威ある話になる。アブラハムはイスラエルの民の父であり、ユダヤ人はどう生きるべきか、どう考えるべきか、神についてどう信じるべきかなどにおいて、アブラハムはすべて信じる者の模範なのだ。だから、まずアブラハムを見る。それからイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデというようなつながりで考えるわけである。4章1節から2節のところを見ていただきたい。 

    それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。 

       先に話したように、行ないは「誇り」を残すものである。信仰による救いはそのような誇りをすべて取り除くものである。では、アブラハムは行ないによって義と認められたのだろうか。それとも信仰によって義と認められたのだろうか。どっちなのだろうか。パウロはそのポイントを問題として提起している。それは、ユダヤ人に福音を伝えるとともに異邦人に福音の意味を明らかにさせるためである。

       パウロの時代のユダヤ人たちはアブラハムが行ないによって義と認められたと考えていたようである。イギリスの新約学者でダラム大学神学教授のクランフィールド (C. E. B. cranfield) は、古代ユダヤの出典から次のような引用をしている。「アブラハムはあらゆる行ないにおいて神の御前で完全な者であり、その一生の間、正しさにおいて神に喜ばれていた・・・」「我らの父アブラハムは律法全体を、それが与えられる以前に行なっていた・・・」(この後に創世記26章5節の引用が続く)。また、マナセスの祈りにおいても「主よ。あなたは正しい神であられる。あなたは正しい者たち、アブラハム、イサク、ヤコブに悔い改めを命じられませんでした。しかし、私は罪人です。あなたは罪人である私には悔い改めを命じられました」とユダヤ人は祈っているのだ。

       当時のユダヤ人の理解によれば、アブラハムとイサクとヤコブは悔い改める必要のない義人であった。彼らは完全で正しく、神の律法を「完全に行なった」と考えられていた。その根拠として彼らは創世記26章5節、「アブラハムは神の声に聞き従い、神の戒めと命令とおきてと教えを守ったと神ご自身が証ししているからである」を引用している。クランフィールドはいろいろな異なるユダヤ人の書物から引用しているが、ユダヤ人の観点からすれば、アブラハムは完全な者であったので、アブラハムには誇るところがあったのだ。罪を犯したことがなく、モーセ律法の全部を守ったという根拠で義と認められたのであれば、明らかにアブラハムには誇る理由があっただろう。

       そこで、この先例は問題の核心にふれる。「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます」とパウロは言う。もしアブラハムに誇るところがあるなら、パウロが3章の27節以降で説明している「原理」に従って考えるならば、なぜアブラハムは行ないによって義と認められたのではなかったのだろうか。アブラハムの行ないは完全であったならば、アブラハムは信仰ではなく、その行ないによって義と認められる筈ではないか。しかし、創世記には「アブラハムはその信仰によって義と見なされた」とはっきり書き記されている。

       その聖句をユダヤ人がどのように解釈したかというと、彼らの解釈は「私たちの父アブラハムは、この地の相続人となった。そして、その後に来る世界をもすべて相続する者となった。なぜかというと(創世記15章6節を引用して)、アブラハムは主を信じた。その信仰はアブラハムの善い行ないの中に含まれるものであった。それだから、その信仰に特別な功績がある」と考えたのである。これはパウロの時代のユダヤ人の中での一般的な理解であった。ここにあるこのユダヤ人の書物はだいたい紀元50年頃、ちょうどパウロが活躍していた時に書かれたものである。ユダヤ人はアブラハムの信仰を“功績”として説明していたのである。

     

    神の視点

       2節の後半でパウロは、「しかし、神の御前では、そうではありません」という、ややわかりにくい言い方をしている。「アブラハムには人の前で誇る理由があったが、神の前では誇る理由はなかった」というようなことを言っているのでないのは明らかである。パウロの意味は、「しかし、神の見方はそのような見方ではない」ということである。神の視点はそのようなものではない。つまり、「アブラハムは行ないにおいて誇るところがあるというふうに神は見ておられない」ということである。「神の御前ではそうではない」ということは、「アブラハムに誇れるところがあるだろうか。いいえ。神はそのようには見ておられない。神はそのようにアブラハムについて考えてはおられない」ということである。

       続いてパウロは「聖書は何と言っているか」と言って聖書を引用していることに注目すべきである。即ち、神はどのようにこのことを見ておられるのか、神ご自身はどのようにアブラハムのことを考えているのかを私たちに教えている。神の見方を私たちに示し、そこからこの問題に決着をつけている。文脈としては、「アブラハムはどうなのか。神の目から見れば、アブラハムには何も誇るところはない」と説明してから「なぜならば、神は聖書の中で次のように私たちに教えているからだ」というような文脈になっている。

       聖書は何と言っているだろうか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた」(創世記15章6節)と書いてある。これはユダヤ人がよく知っている箇所であり、彼らによってもよく引用される有名な箇所である。パウロはユダヤ人に福音を伝えるときに、ユダヤ人が良く知っていてよく引用する箇所を使う。そして、アブラハムの生涯の中で非常に大切なところを指して話すのである。

       ところが、ユダヤ人たちには彼ら自身の解釈があった。例えば、出エジプト記14章15節についてのラビ・シェマイア (Rabbi Shemmaiah, c. 50 B.C.) の注解では、彼は神にこう言わしめている。「あなたがたの父アブラハムが私を信じた信仰には、あなたがたのために海を分けるに価する功績がある・・・」。他の古代ユダヤ文書もアブラハムの信仰の“功績”にふれている。従って明らかに、パウロの時代のユダヤ人たちにとって創世記15章6節をただ引用するだけでは問題を全く解決することにはならなかったのである。彼らはアブラハムの信仰を功績ある行為として理解していたからだ。しかし、アブラハムが行ないではなく、信仰によって救われたのなら、誇りは彼の場合にも取り除かれている。また、アブラハムに誇るところが何一つないのであれば、他の誰にも誇るところはないことも確かなこととなる。

     

    相容れない二つの原理

       パウロの説明はこうである。「アブラハムは信仰によって義と認められた」(3節)と。これはもう既に3章のところから話していることである。アブラハムの義認についてユダヤ人たちは間違った解釈を持っていた。そのこともあってパウロは3章27〜31節において前置きをしたのである。彼はそこで、行ないと信仰とが対立する原理であるという概念をすでに論じた。「信仰による」のか、「行ないによる」のか、その二つは対立する原理である。行ないによるのであれば確かに功績の話になる、ということを次にパウロは話している。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます」(4節)と言っている。もし、行ないによるのであれば、明らかに誇ることができる。なぜなら、自分の行ないに対して当然の報酬が与えられ、自分が受けるものは自分の力で得たものであるからだ。

       そういう意味で「行ないによる救いは人間の誇りを許す救いなのだ」と、パウロはユダヤ人に説明している。ここでパウロは、行ないによるのか、信仰によるのか、その対立の意味をはっきりさせている。「信仰」を「功績」として考えることができるならば、それは「行ない」の話になるし、信仰じたいが「誇り」を許すものになってしまうのである。しかし、信仰は決して行ないになることはないのである。なぜなら、行ないの場合は報酬を要求することができるからである。行なった者は、当然支払われるべきものとしてその報酬を受けるのである。そこには恵みの入る余地はない。しかし、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(5節)とパウロは言う。ここでパウロは新しい表現を用いて信仰の意味を教えている。「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる」と言うのである。

       文脈からしてパウロは「アブラハムは不敬虔な者であった」と言っているのは明らかである。アブラハムは罪人であったとパウロは明言する。信じる者には自分の行ないがないので、不敬虔な者を義と認めてくださる神を信じるのである。「その信仰によって義と認められる」のである。そうであれば、これはまったく功績の話ではなくなる。誰一人誇ることができるような話ではなくなる。救いにおいてアブラハムが自分のものとして認める行ないは何一つないのである。

       アブラハムが自分の良い行ないによって救いを得たのであるなら、私たちはアブラハムの救いをユダヤ人さえ快く思わないような見方で見なければならなくなるだろう。なぜなら、それはアブラハムの良い行ないのゆえに、神はアブラハムに対して負い目があることになり、神は義認によってその負い目を取り除いたという意味になるからである。「信仰」を「功績」というものに変えてしまうことによってユダヤ教の義認の教理は、人間が神に負い目を負わせることができるという馬鹿げた概念を巻き込むことになってしまうのである。そのような神についての愚かな教理もさることながら、信仰の本質もユダヤ教の教理に適応できないものなのである。信仰は、神に安んじ、恵みによって神が賜るものを受けるものだからである。

       アブラハムの場合、このことは非常に明らかである。この5節までを読んだところで私たちがその意味を深くとらえられるかどうかは、創世記15章はいったい何の話だったのかを知っているかどうかにかかっている。創世記15章の話がどういう話であったかが頭になければ、この箇所を読むときに、どうしても抽象的に考えてしまうであろう。そして、「わかりずらい」ということになるかもしれない。創世記15章の話はどういう話なのかというと、アブラハムが神に「私にはもう子どもは生まれないのですから、私の奴隷エリエゼルを相続人にするのでしょうか。もうこの老人に望みはないのですから。あなたが子孫をくださらないので、私の奴隷が跡取りになるでしょう」と言っているところから始まる。それに対して神は「そうではない。ただあなた自身から生まれ出る者があなたの跡を継がなければならない。その子どもをわたしはあなたに与える。あなたの子孫は星の数のようになる」と仰せられたのである。それで、アブラハムは神の約束を信じたという話である。

       これは、「何一つ行なうことのできない者が神の約束を信じた」という話なのだ。この箇所を引用するとき、それは、アブラハムは子どもを授かることにおいて何も行なってはいないことをはっきりと示すことになる。神はまさにアブラハムが自分の行ないによっては得られないもの、すなわち「子孫」を約束した。しかし、神の奇跡がなければ、アブラハムに子どもは与えられないのである。アブラハムは、「信仰のみによって」それを受けたのである。これは、「奇跡を与えてくださる神を信じなければアブラハムには何も与えられない」ということを明らかにする箇所なのである。

       アブラハムはカナンの地に来てから10年経っても(創世記16章3節)まだ子どもがなかった。神がその約束をアブラハムに再確認したのは、アブラハムが自分には相続人がいないという事実を嘆いた時であった。神が再度その約束を確認すると、彼はその約束を信じた。ここで肝心なのは、人にではなく、神に何がおできになるか、ということであった。その後のハガルの件におけるアブラハムの失敗も、ただ神の御恵みを強調するものでしかない。この引用のもともとの文脈は、アブラハムの功績ではなく、「神の契約の御恵み」を明らかにするものでしかないのだ。

       ユダヤ人がこのローマ人への手紙の4章の箇所を読むとき、彼らは創世記15章の内容を覚えてこれを読むはずである。それで、行ないなのか信仰なのかがはっきりするはずである。これは決して彼らが考えているような「信仰の功績」というような話ではないのであって、「何も働きのない者」が恵みを受けたという話なのだ。「何も働きのない者が」とはアブラハムのことである。アブラハムは、ただただ神にすべてを委ねて、神を信じて、神に依り頼んだだけである。即ち、神を信じたのである。

       しかし、アブラハムの信仰について語るとき、「不敬虔な者を義と認めてくださる方」という強い言い方にもユダヤ人はつまずかずにはおれないだろう。たとえアブラハムが信仰によって義と認められたことをユダヤ人が喜んで認めるにしても、アブラハムが「不敬虔な者」であったという概念はかなりの衝撃を与えたであろう。アブラハムを「不敬虔」よばわりするのは、彼らには堪えられないことであった。私たちでさえ、アブラハムを不敬虔とは考えないであろう。子どもたちに日曜学校で教えているときに、「不敬虔なアブラハムは...」というような言い方はしない。しかし「不敬虔な者を義と認めてくださる神を信じたアブラハム」という言い方をすれば、アブラハムがその「不敬虔な者」のカテゴリーに含まれるのは明白である。この言い方にユダヤ人は大変驚いたに違いない。かなりの抵抗を感じたにちがいない。

       しかし、旧約聖書を解釈するときにユダヤ人は次のような方法を用いていた。同じ言葉と表現が異なる箇所で使われているならば、その二つあるいは複数の箇所は相互の意味を説明するものとして考えられなければならないという原則がある。これは、聖書箇所を関連づけるユダヤ教の一般的手法であり、それらの箇所が神学的に同様のテーマを取り扱うかぎり、今日の私たちが用いる原則としても全く相応しいのである。これは聖書を使って聖書を解釈する方法であり、私たちも同じ原則を使っている。

       ユダヤ人のばあいは、特にその同じ言葉と同じ表現というところにこだわっていたようである。もちろんユダヤ人はヘブライ語を原語で読んでいたので、同じ言葉であるかどうかは私たちよりもずっと明らかであった。私たちは日本語や英語で読んだりしているので、「原語はどうなっているのかしら」と思ったりするけれども、その点では彼らに迷いはない。彼らならすぐに気がつくはずである。何回も繰り返し繰り返し読んでいるユダヤ人律法学者たちは当然それに気づくはずである。「信仰を義と見做す」という概念は、そう見做された人の信仰においてはその人自身の義が全くないという事実を前提とした概念である。

       このことにおいて不明確なことがあれば、その問題はダビデのケースを考察することで解決される。「義と認められる」という原語は、ダビデの話の中にも出てくる。この箇所においてダビデとアブラハムが引用されているのは、おそらく創世記15章6節と同じヘブル語の「認める」が詩篇32篇2節でも使われているという事実を根拠に関連づけられるからだろう。ダビデの場合は「罪を認めない」という言い方をしている。つまり、「義と認められる」の否定的な側面を指している。罪が赦されるまで、私たちは神の御前で「正しい」と宣言されることはないからである。

       罪が許されて義と認められることは一つのこととして考えてよいが、それには否定的な面と肯定的な面とがある。罪が取り除かれて、正しさが与えられる。そういう二つの面があるわけである。罪がどうなっているかをダビデ自身が自分のことについて語っている。それだからパウロは、アブラハムのことをもっとはっきりさせるために、ダビデの引用を一緒に並べて次のように引用している(4章6〜8節)

    ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

       この話の背景についてもユダヤ人はよく知っている筈である。これが詩篇32篇の引用であることは皆さんもよく知っていると思う。詩篇51篇と32篇は、ダビデがバテ・シェバの罪を悔い改めたときに書いた詩篇である。51篇は、ダビデが悔い改めて神に赦していただいたすぐ後に書かれたものと考えられている。32篇の方はもっとずっと後に書かれたと思われている。これは、殺人と姦淫を犯したダビデの罪が許された話である。これは、不敬虔な者、罪人の中の罪人の話であり、これが大変な罪だということは誰もが知っている。「ダビデは完全で罪を犯したことがない」と解釈するようなユダヤ人はいない。それだから、詩篇32篇はパウロが書いたことの別な部分をも確証するものなのだ。ダビデに使われている同じ表現が、アブラハムについても使われているのである。

       ダビデは殺人と姦淫の罪を犯し、確かに「不敬虔」であった。もしダビデの義認がアブラハムのそれと並行しているなら、二人とも不敬虔であり、二人ともその行ないによって救いのために功徳を積むことはできず、二人とも自らに栄光を帰する根拠はないということが証明される。それゆえ、「行ないではなく、信仰のみによって義と認められる」というパウロのポイントは、「罪人にはこのようにして義と認められる道以外に義とされる道はないのだ」ということを教えている。これを読むユダヤ人がアブラハムについてのところでつまずいたとしても、ダビデのところに同じ言葉が使われていて同じ教理の中においてでしか考えられないという御言葉の事実を突きつけられるときに、「義と認められるというのはこういうことなのだ」ということを理解するはずであった。

       それで、アブラハムもダビデも、自分を誇るところは一つもなく、行ないを誇ることはできない。神の御前では、自分たちは不敬虔で罪深い人間に過ぎないのであり、救いの道は「信仰のみによって」与えられるのであって、神を信じる信仰によってのみ救われることを認めるほかはないのである。この点をはっきりさせることによって、「これは自分の心の傲慢を完全にゼロにする救いの方法なのだ」ということを悟らせられるのである。もし偉大なる契約のかしらであるアブラハムとダビデにただ神の憐れみと御恵み以外に全く望みがなかったのであれば、私たちはどういうことになるのだろうか。「誇りはすでに完全に取り除かれた」というのがパウロの答えである。

     

    ただ一度だけの義認?

       最後に、この箇所の義認に関する二つの言及は、現代の神学の観点から見ればどちらもおかしいように見える、という事実に目を留めることは私たちにとって重要である。アブラハムについてもダビデについても、通常私たちが義認とともに連想する自分の最初の救いについて言及しているのではない。私たちは通常、それを自分の過去の中でのただ一度だけの出来事として考える。そのことについてはこのローマ書で学んでいくことになるが、それはまったくの間違いではない。しかし同時に、私たちの罪が日々赦される必要性について語ることもまた相応しい。それは、繰り返しきよめられ、繰り返し「義と認められる」ことを意味する。神が私たちを赦してくださる時はいつでも、神は私たちではなく、御自分の御子にあって私たちを義なる者と見てくださるのである。

       私たちの時代にこの箇所を読むとき、私たちは、パウロの時代的な背景やユダヤ人の解釈に対するパウロの反論のような書き方、そして、誤った解釈を持つユダヤ人の影響を受ける異邦人に対するパウロの言い方に注目する必要がある。パウロは十分かつ深く御言葉を説明している。それはまず大切なことの一つである。そして、もう一つ気がつくべきことがある。アブラハムが創世記15章のところで「義と認められた」と記されているのを見て驚かされる。いったいアブラハムが救われたのはいつなのか。それは創世記15章の話よりもずっとはるか前の話なのである。15章の時よりもずっと昔からもうアブラハムはクリスチャンであったのは明らかである。

       12章のところで神はアブラハムに約束を与えて、契約の祝福を与えてくださった。12章の時から15章の時まで、何年経っているのだろうか。恐らく十年は経過していると思われる。それなのに、なぜ創世記15章のところでやっとアブラハムは「義と認められた」というのか。これも注目すべきポイントである。「その時までアブラハムはまだ救われていなかったのだ」ということをパウロは言おうとしているのではない。

       ダビデの話にしても、それはクリスチャンになったばかりの時の話ではないのだ。ダビデがその罪を犯したのは50歳頃の話であったと思うが、この詩篇32篇のことはダビデがすでに何十年もクリスチャン生活を送った後のことであった。アブラハムも何十年もクリスチャン生活をした後に、義認の話が出て来る。ということは、私たちが考えているような義認とは違うのかもしれない。よく聖書の教えを簡単に説明する本を目にするが、義と認められることはクリスチャンになった時の最初の一つの“点”のように説明されており、続いて聖化することが長い“線”で説明され、最後に栄光が与えられる栄化が再び“点”として説明されたりする。基本的にそのような説明は間違いとは思わないが、義と認められることについて聖書はどのように教えているかをもっとしっかりと把握しなければならないと思う。

       義と認められることは、罪を悔い改めて義と認められたらそこで終って、その後はもう義認はどうでもいいことだというようなものではないということを、これらの箇所から教えられなければならない。勿論、何回も何回も新しく救われるという話ではない。けれども、私たちが自分の罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じる信仰を告白する度に、神はその罪を赦してくださり、私たちを正しい者として認めてくださるのである。罪を犯したら救いを失ってしまって新たに救われなければならないというような話では決してない。私たちが罪を悔い改めるときに、神は赦してくださって私たちを正しい者として認めてくださるのである。よく知られている箇所だが、ヨハネの第一の手紙1章9節で罪の赦しについてヨハネが次のように話している。

    もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

       これが「真実で正しいお方なのに...赦してくださる」という言い方であれば、普通言われているような解釈でもよくわかる。しかし、ヨハネはそういう言い方をしてはいない。「正しい方なので...赦してくださる」と言うのである。つまり、神はご自分の契約と約束を守る「真実」なお方なのである。罪を赦すことを約束してくださった神は、悔い改める者を赦してくださる。そのような神なので、私たちが罪を犯してしまって神に対して悔い改めなければならないとき、神はその悔い改めの祈りを喜んで聞いてくださる。神は真実なお方なので、私たちの罪を赦してくださり、すべての汚れから私たちをきよめてくださるのである。きよめられた者は聖い者となって神の御前で義と認められている。そういう意味で、ヨハネはパウロと同じことを話していると考えるべきである。

       ダビデもアブラハムも、私たちよりもずっと敬虔な者であり、ずっと神の命令と戒めを気を付けて守っていた者であった。その彼らが、自分たちの人生の中で、繰り返し繰り返し神を信じる信仰を告白しなければならない。繰り返し繰り返し神の約束のところに戻らなければならない。繰り返し繰り返し自分の罪を認めて悔い改めなければならない。そのことを、この「義と認められる」話から私たちは教えられている。アブラハムに神の約束は与えられたが、15章になるとアブラハムはその約束に対して心が揺らぎ、「この奴隷たちに相続させてもいいのでしょうか」と言い出す。続いてまたハガルの話になったりする。神の約束を固く信じる信仰に戻らなければならない状態にあった。そのような状態がアブラハムの人生の中には何度もあった。アブラハムも罪を犯して神から離れてしまい、神の約束に依り頼むことによって義と認められる必要があったのである。

       ダビデも同じである。だからパウロはアブラハムが最初に救われた時の話をしているのではないし、ダビデが最初に救われた時の話をしているのでもない。クリスチャンとして何年も何十年も生きて、既に成長したクリスチャンになっている者が、つまり多くの善い行ないを行なった者が、神の御前でどのようにして正しい者として立つことができるのかということについて話しているのである。今日までひどい生活を送ってきた人について「信仰によるのでなければ義と認められない」というなら誰にでも簡単にわかる。ダビデは他の王たちよりも神を喜ばせ、神を慕い求め、多くの詩篇を書き、多くの善い行ないをして人々を助けて祝福した人間である。そのダビデが神の御前に立つとき、「唯一の望みは信仰だ」というならば、ダビデのすべての行ないは誇ることができるものではないということになる。アブラハムのすべての行ないは義と認められることにおいて誇ることのできるものではないのである。

       すべてを捨て、自分の国を捨て、自分の国から得られるすべての祝福を捨てて、見知らぬ地に行ったアブラハムは、結局のところカナンに遣わされた宣教師であったと考えてもよいと思う。カナンにやって来たアブラハムは、あちらこちらに井戸を掘り、祭壇を築き、そこで福音を伝えていた。絶対に救われない人々に福音を伝えるという生涯の働きが与えられて、その地の人々を祝福して福音を伝えながらもその地の人々にいじめられていた。「この状態は四百年間続く」ということも最初から言われていた。これは実に大変な人生だと言うほかない。しかし、アブラハムはその全部を受け入れて、ひたすら神に従って歩んだ。それでも功績はゼロであり、アブラハムが行なったことは何一つ神の御前では誇りとして持つことはできないのである。

       私たちはそこまでの犠牲を払ってはいない。私たちの場合、たいした犠牲は何一つ払っていないと言っていい。神のために迫害されたこともない。せいぜいクリスチャンだからということで笑われる程度でしかないかもしれない。私たちはアブラハムよりもダビデよりも敬虔だとか、彼らよりも善い行ないをしたとはとても言えない。それ故、クリスチャンとして私たちよりもずっと素晴らしくて遥かに敬虔で正しく生きたアブラハムでさえも、またダビデさえもが、神の御前に立つときに、その誇りはゼロだということを理解すれば、自分が神の御前に立つときには何一つ誇るところはないということが非常によくわかる筈である。ガラテヤ人への手紙6章14節と15節でパウロは私たちの唯一の誇りについて話している。

    しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

       聖餐式はそのことを深く教えられる時である。聖餐式は、罪の赦しの必要性と、私たちが自分自身のではなくキリストの功績の土台においてのみ日々神の御前に立つことができるという事実を継続的に思い起こさせるものである。私たちは、聖餐式を受けるときに、神の御前に立って、自分の罪と自分がふさわしくない者であることを告白する。そして、キリストの死と復活のみが私たちを救うことができると告白する。周りの人間がどうのこうのという話ではない。子どもたちもそのことをよくよく知ってほしい。

       神の御前に立ち、長老たちは神の代表として聖餐式のパンと杯を皆に渡すけれども、パンを受け葡萄酒を受けるとき、それは長老たちから受けるとか教会が出したものだというのではなくて、神ご自身が私たちをここに招いてその代表を通して私たちに与えてくださっているものなのである。どこかの偉い王の宴席に招かれてともに食事をするときに、その王が直々に食事や飲み物を渡してくれるわけではない。世話してくれるのは王の召使いたちである。長老たちは神の召使いとして、神が私たちに与えてくださるキリストのからだと血とをあらわすパンと杯を提供するが、私たちはそれを神から受けるのである。

       神の御前に立って自分の罪を悔い改め、神との契約を新たにするとき、私たちの中には誇れることは何一つない。義認は過去の事実であるが、それは単なる過去の事実ということだけではない。そのことを私たちは毎週々々繰り返し認めて、「私が救われるのは主イエス・キリストのみによります。私は罪人でしかない。キリストが救ってくれるのでなければ私に救いはない。他に道はない。100%私は地獄にこそ行くべき者である。しかし、主イエス・キリストは十字架上で私のかわりにその地獄の罰を受けてくださった。私はキリストを信じ、キリストに従います」ということを告白して聖餐式を受けるものである。そういう意味で、ここでアブラハムが義と認められる話と同じようなところに私たちは毎週繰り返し繰り返し戻って、そこに立って聖餐式を受けるのである。毎週ダビデの詩篇32篇の箇所と同じところに来て、聖餐式を受けるのである。

       私たちの問題はどこにあるかというと、聖餐式が終わった途端にまた誇り始めることにあるのではないか。一週間経つともう誇りだらけの心になってしまってここに戻って来る。だから私たちは繰り返し繰り返し聖餐式を行なわなければ、そのへり下った砕かれた心を本当の意味で持つことは難しいのである。救いがどれほど大きな御恵みなのかを具体的に覚えて、「私は地獄に行くべき者だ」ということを認め、深く心に刻み、罪を悔い改め、神の御恵みを100%御恵みのみとして受け入れるのである。それが聖餐式である。

       この「義と認められる」福音、しかも成長した時のアブラハム、成長した時のダビデを、正しい者として認めてくださった神の御恵みをこの時に覚えて、感謝に満ちて、喜んで聖餐式を受けたいと思う。悔い改めだけというのは本当の聖餐式の受け方ではない。そして、このことも言えると思うが、悔い改めて悔い改めてまた悔い改めてばかりいて、喜びと感謝のところにまで行かないならば、誇りは何も取り除かれてはいないのである。あなたの誇りはまだ残っている。本当に悔い改めて、感謝して、喜んで聖餐式を受けることこそ本当の主イエス・キリストに対する正しい礼拝である。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年6月13日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙3章27〜31節

    ローマ人への手紙4章9〜12節

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