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    ローマ人への手紙4章13〜16節


    4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

    4:14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。

    4:15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。

    4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

    99.06.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    信仰、恵み、相続

    4章13〜16節

       パウロはローマ人への手紙3章27〜31節のところで、「律法の原理」と「信仰の原理」という二つの原理を対比して「義と認められること」について説明している。その中でパウロは、人間の誇ることについて話している。律法の原理は人間に自分の誇ることのできるところを許す。しかし信仰は、自分の誇ることのできるところをすべて取り除く。つまり、人間が自分で救いを得たとか、自分が何をしたから救われたのだという、その心にある傲慢の罪を取り除くのである。その傲慢の罪はどのように取り除かれるか、どういう原理によって取り除かれるのかというと、信仰の原理によるのだということをパウロは3章の終りの箇所で説明しているわけである。このことは、宗教における「救い」についての最も根本的で深いところの一つであり、根本的に異なる宗教原理であることをパウロは指摘している。一方は自己を誇るよう導き、他方は神にあって誇るよう導く。

       続いてパウロは、アブラハムが行ないによってではなく、信仰によって義と認められたことを旧約聖書から示す。それは、アブラハムには自分を誇るべきところが何一つないということを意味している(4章1〜8節)。さらに、アブラハムは割礼を受けるずっと以前に義と認められたのであり (4章9〜12節)、「契約のしるし」も誇る根拠にはならないことを示している。そして、パウロは再び信仰と行ないの比較に戻るのだが、ここでは行ないを「律法」と表現し、信仰と恵みの関係を説明する(13〜16節)。特にアブラハムが世界の相続人となるという約束について論じている(13節)。

     

    二つの宗教

       日本では「他力」と「自力」といった話がよく出てくる。自分の力で救われるのか、あるいは外からの力によって救われるのかという話をするわけである。昔、中国で宣教師として働いた後に韓国で働き、後に日本に来て宣教師として働いたジョン・M・L・ヤング (John M. L. Young) は、日本のキリスト教会史や中国の教会史の研究において優れた学者であるが、その著書「By Foot to China」の中で彼は、仏教の「他力」という概念はキリスト教から借りたものだという史実を説明している。中国に昔ネストリオス派の教会があって、義と認められることに関する救いの福音を広く伝えていた。紀元900年頃に遡れば、クリスチャンの人口はヨーロッパよりも中国の方が多かったという事実はあまり知られていないが、ヤーン博士はその史実を明らかにする。

       昔の中国ではそれほどにキリスト教は広められており、聖書の福音は広まっていたのである。「京都の西本願寺にある真言宗の最も聖なる物の一つは、弘法大師が中国の首都でネストリオス派(景教)の修道院との接触をもって後、806年に帰国して据えたものであるが、それは聖書の山上の説教及びマタイの福音書の他の箇所についての注解書《貧窮者への施しに関する宇宙の主の説教》という初期の宣教師による原本の写しである。親鸞はこのキリスト教の文書を学ぶのに毎日何時間も費やしたと言われている」とヤーン博士は述べている。

       キリスト教の「信仰によって救われる」という教えは、仏教にも大きな影響を与えた。そこから「他力」という概念が仏教に入り、そして根付いた。中国から始まったというわけではないが、中国の中ではっきりとネストリオス派の影響によって概念として定着し、それを弘法大師たちが日本にも持ち帰って広めたのである。弘法大師たちが勉強していた所はネストリオス派の中心的な教会の近くにあって常に交流を持っていた。そのようにして、キリスト教の影響が日本の仏教に深く浸透していった経緯をヤーン博士は詳細にそして深く説明している。それ故、「他力」という概念は本来仏教にあったものではない。キリスト教から借りた概念であって、それが日本の仏教にも根付いたということである。ネストリオス派の教会との接触を通して、日本の仏教は「恵み」という概念を見出し、これを取り入れた。それはちょうど、1世紀に使徒トーマスがインドにキリストの教会の土台を据えたときに、インドがその概念を取り入れたのと同様であった。

       一世紀頃に大乗仏教がインドで起こったのも、キリストの使徒トーマスがインドに入って福音を宣べ伝え、仏教もヒンズー教もその影響を大きく受けて変化した結果のことであった。その結果、インドでは仏教そのものが変質し、所謂“大乗”仏教が生まれた。一世紀の頃から、仏教の芸術の中にも天国と地獄の話が出てくるようになった。輪廻を信じているのだから天国も地獄もないはずなのに、そのような芸術が仏教の中に広まったのはキリストの使徒トーマスの影響によるものであった。その「他力」と「自力」の基本的な違いを単純に言うならば、それはキリスト教と他の宗教の違いだと言うことができる。但し、キリスト教の影響によって、仏教にもヒンズー教にも、その「他力」という“恵みの概念”が既に入ってしまっていることは事実である。 

       イスラム教の場合には「他力」という概念がない。イスラム教はまったく完全に「自力」しかない。しかし、その「自力」は非常に単純なものであって、五つの基本的な儀式さえ守れば救われるというようなものである。イスラム教の救いは非常に簡単なものであって、心に対する要求がほとんどないような“自力”なので、その自力の“力”はどんなに小さい力であっても何とかなるというものになっている。

       聖書との接触を通じて「恵み」が紹介される点を除けば、キリスト教以外の宗教は、基本的に律法の行ないによる救いの宗教であり、人間が自分の行ないを誇ることのできる救いの体系になっている。それらは、基本的に自分の力によって救われるという信仰である。それ以外に、儀式によって救われるというものもあるが、その場合は儀式によって魔法的な力を受けるというような考え方をするのが常である。

       それだから、パウロが3章の終りのところで「信仰によって救われるのか。それとも律法を行なうことによって救われるのか。どちらなのか」ということについて話しているとき、これは宗教においては根本的に重大な問題を扱っているのである。「恵みの救い」なのか、「自分の力」による救いなのか。そこからパウロは話を始めるわけである。4章13節から16節のところでやっと「信仰」と「恵み」の関係にまで進んでいる。まず、人間の心に深く根ざす傲慢というものを取り消す原則は「信仰なのか。律法なのか」というと、「信仰の原則」によるということは明らかである。なぜなら、信仰は本質的に何かを行なうことによって自分の行ないを誇るようなものではないからである。信仰は「ただ受けるだけ」であって、受けたものについて傲慢になったりして「私がやった」という気持ちになるはずはない。それが真の信仰の一番の基本であって明白なところである。

       それ故、この世には、基本的に二種類の宗教がある。恵みの宗教と行ないの宗教である。本質的に、聖書の宗教は恵みの宗教であり、異教の宗教は行ないの宗教である。しかし、いくつかの異教は聖書から魅力的と思われるところを借りているため、キリスト教から影響を受けた異教においては恵みの要素が入っている。そのことを覚えながら考えていきたい。

       4章に入ると、「それでは、アブラハムの場合はどうなのか」という話になる。使徒行伝を読めばわかることだが、クリスチャンになっているユダヤ人が大勢いて、異邦人に対して「割礼を受けなければだめなのだ」「律法を守らなければだめなのだ」というような考えを持っていた。そのような誤解は正されなければならない。もちろん異邦人もその影響を受けたりして混乱してしまうこともあったので、パウロは、福音の一番根本的な原則の一つを説明するのである。即ち、「宗教の根本的な違い」というところを旧約聖書から説明する。つまり、これは新しい教えではないのである。ローマ人への手紙1章2節でパウロは「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書(旧約聖書)において前から約束されたもので...」と宣言している。その宣言の意味をここから見ることができると思う。パウロが伝えている福音はアブラハムの時代の福音と同じものなのである。ダビデの時代の福音と同じものである。旧約聖書の教えと完全に一致しているものである。宗教の根本において何一つ変わったことを話しているものではない。そのことをはっきり伝えて、律法学者やパリサイ人たち、そしてユダヤ教的に考えてしまうクリスチャンたちの考え方が福音の根本的なところについて間違っていることを悟らせようとしている。

       アブラハムの場合はどうなのか。答えは創世記15章6節に書かれてあるとおりである。「アブラハムは、信仰によって義と認められた」のである。信仰の原則が旧約聖書の原則であることをそこから見ることができる。そこから一歩話を進めれば、「では、割礼はどうなのか」とういう話にもなるわけである。これもユダヤ人にとっては大きな問題である。割礼はどうなのかというと、創世記15章6節のところから見れば、割礼の儀式が与えられたのはその約15年後のことであり、創世記17章の話なのである。割礼も義と認められることの中には入らないのだ。アブラハムを見ればそのことは明白である。「であれば、信仰のみによって義と認められる」のは明らかである、とパウロは説明しているわけである。

       さて、4章13〜16節で、パウロは「信仰による」ことの大切さをもう一度強調することによって最初の「律法」と「信仰」の対立の話に戻っている。13節でパウロは次のように述べている。

    というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

       「律法」の話ではなくて「信仰」の話なのだとパウロは言う。3章27〜31節から見て、ここで新しいことは、パウロが「律法と義認」という宗教の根本問題を説明するところにある。アブラハムには、世界の相続人となる約束が与えられた。アブラハムの子孫もその約束を受けたというところにあとで戻りたいと思うが、まずここでは「信仰と律法の対立」に注目していただきたい。「律法ではなくて信仰である」と言うとき、パウロは話を3章の終りのところの原則に話を戻しているのである。続く14〜15節を見てください。

    14もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。15律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。

       つまり、律法によるのであれば、誰も相続人になることはできないということが前提なのである。律法を本当に完全に行なうことができる人間は一人もいないからである。5章でパウロはそのことをもっと詳しく説明しているし、7章でも説明している。2章と3章のところでもパウロは十分に人間の罪のことを説明した。人間は律法を完全に行なうことはできない。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」と書いてある。そうであれば、律法によって義と認められるという原則であれば相続人は一人もいないことになる。律法を行なうというなら、その全部を完全に行なわなければならないことになる。

       言い換えれば、「自力の救いは不可能」ということである。律法を行なうことによって救われるのなら、信仰そのものが無意味になる。信じた後でも、律法の行ないによって救われるというなら、信仰は無意味だということになる。信じただけでは何も救いは与えられないし、約束も無効になる。「律法は怒りを招くもの」ということは「律法を破る者にとっては」という意味であるのは明白である。つまり、律法には呪いと祝福の両方が含まれているのだ。呪いも祝福も両方とも入っていなければ、それは律法ではなく、単なるアドバイスでしかない。「こうした方がいいのではないか」という話になってしまう。

       私たちの法律には確かにそのような面がある。公けの場所に悪い立て看板や貼り紙などがあるのを見て警察に訴えても、「そのことを禁じる法律はあっても罰っする法律はありませんので、現状では何もできない」と言われるのがおちである。罰することができないならば、誰もその法律を破るかどうかに気をつかう意味はないのである。結局、警察は何もできないということになる。「少なくとも、撤去してくれないか」と頼んでも、「それは他人の所有物なのでそう簡単に撤去できない」のだと言われてしまう。罰する規定がなければ、本当の意味での「法」ではない。法律というものは、破ったら“呪い”、守ったら“祝福”というのでなければ成り立たないのである。「神の律法は二つの命令に要約できる」と主イエス・キリストはマタイの福音書22章37〜40節で教えている。

    そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

       この二つの戒めを守らないならば呪われる。それが基本的なところである。神は、御自分の似姿である人間一人ひとりを大切にしておられる。隣人を愛さない者は、神の似姿を汚すという罪を犯しているのである。神は、御自分の似姿が汚されることを許すお方ではない。そして、御自分に対して逆らう者を許したまわないのである。神はその者を呪い、裁きを与えたもう。旧約聖書の律法自体を見れば実に素晴らしいものである。律法の本質は「愛」なのだ。要求されていることは結局のところ、「神を愛して隣人を愛する」ことなのだ。そういう意味で律法の本質を見れば、なにも「儀式を行なわなければだめだ」とか「この時に、このように、この事をしなければだめだ」というような話ではないことは明らかである。

       律法の根本は「愛」なのである。愛を要求することは素晴らしいことである。心から「愛なんかいらない」と言う者は一人もいない。あのバートランド・ラッセルでさえ、キリスト教を憎み、イエス・キリストを憎み、徹底的に聖書に反対しながらも、「倫理とは何か」と問われれば「倫理は愛である」と答えるのである。愛など存在し得ないような哲学を作っておきながら、「何が大切なのか」と聞かれると「大切なのは愛です」と言うのである。人間は動物に過ぎないというなら、愛は存在しないし、宇宙が偶然の産物ならば愛には何も意味はないのである。それなら皆さんは、不本意ながらも考えることができるようになってしまった動物にすぎないのだ。

       ゴキブリのように何も考えることができなかったらいいのに。考えることができなければ苦しむこともない。どうせ、ゴキブリとその存在の意味は何も変わらないのだから。偶然に生まれて、偶然に進化して、こうなってしまっただけなのだから。そのような哲学を作っておきながら、「人間にとって何が大切か」と聞かれて「愛です」と答えるのはしらじらしいにもほどがある。愛を要求する神の律法はそういう意味で実に素晴らしい命令ではないか。しかし、その素晴らしい命令を、誰も守ろうとはしない。その命令を100%守っているかどうかを吟味するならば、実に神の怒りを招く以外には何もないことになる。だから、そういう意味で律法を破る者にとって「律法は怒りを招くものである」とパウロは説明している。なぜなら、律法は従わない者に対しては怒りを招くからである。

       15節の「律法のないところには違反もありません」は、原文では「律法は怒りを招くものである」の前に来ている言葉である。律法を破ることがなければ、違反もないのである。人間に律法が与えられ、正しさの基準が与えられているならば、それに逆らってしまうことも罪の本質の中にある。律法の本質は、違反を定義するものであり、7章でパウロはそのことについてもっと細かく説明している。ポイントは、「律法によって義と認められることは絶対にあり得ない」ということである。人間が罪人に過ぎないからである。16節に注目しよう。

    そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

       神は律法を通してアブラハムに約束を与えたのではない。約束の相続は律法によって与えられたのではない。神は約束の相続が100%恵みに依るようにと、契約の祝福を信じる者すべてに約束されたのである。16節は、救いの約束はユダヤ人のみならず信じる者すべてに与えられていることを意味している。そして、記されている通り、このようにしてアブラハムは多くの国々の父となるのである。「律法による」のであれば相続人になることはあり得ない。日本語の聖書と英語の聖書の両方を読みくらべている人なら気がついていると思うが、英語やギリシャ語の聖書ではこの16節の最後の部分が17節になっている。日本語では文法的に困難なので17節の最初の文を16節の最後に入れている。しかし、ギリシャ語の注解書などを見れば、日本語訳にある16節の終りを含むその17節は二つに分けられており、新しい段落は17節後半から始まっている。日本語訳で16節の後半に入れた文章がちょうどギリシャ語では17節の最初の段落になっているので、日本語の訳のままでもよいと思う。

       「信仰による」というのは「恵みによるため」とパウロは説明する。信仰はただ受けるだけなので、救いは恵みだということになる。恵みとは、救いの栄光が神のみに属することを意味する。神のみが働かれ、神のみが称賛に値するのである。このことを更に説明していくならば、信仰はどこから来るのかということになるわけだが、その点もパウロは別の箇所で説明しているので、信仰も、信じる力も、最終的には神の御恵みによって与えられるものだということをも付け加えて説明しなければならない。「信仰による」ものなので、ただ神が一方的に救いを与えて私たちはそれを受けるのである。それが、救いを与える神のやり方であって、それによって神は正しさを一切破ることはないのである。

       実は、この点において、キリスト教の中に大きな誤解がある。また「他力」と「自力」について考えるときにもこのポイントは非常に重大なものとして理解されなければならない。あるクリスチャンたちは、「信仰と義認」について考えるときに非常に危険でおかしな間違いをしている。どういう間違いかというと、「義と認められることにおいて、神は私たちに簡単なことだけを要求しておられる」と思っているのだ。「律法を守ることは不可能なのだから、信じることだけで律法の全体を守ったというふうに神は認めてくださる」と考えてしまう。だから、「信じるだけでいい。その小さなことさえすれば、義と認められる」という解釈になってしまう。そうすると、信じることじたいが自分の行ないになってしまうのだ。そして、「その“小さな行ない”は、律法全体を守ったのと同等な行ないとして認められるものとなる」というおかしな解釈になってしまうのである。

       そうであれば、神の義が正しく守られないようなやり方で信仰を考えることになる。「神の律法のすべてを完全に行なわなければならない」ということが「正しさの基準」なのに、「全部が守られなくても、この“小さな行ない”さえあれば認められるのだ」と思っている。それでは正しさを曲げるような救いの方法になる。それでは、いわゆる他力の教えを自力の教えに変えてしまうことになる。「小さな、僅かな、非常に単純な行ないだけで救われる」という解釈になる。信仰だけですべての義を行なったかのように神が認めてくださる、という考えになる。「だから、この行ないだけが要求されるのだ。信じるという行ないだけがあなたに要求されている」というような解釈は、信仰そのものを行ないにしてしまったのである。パウロはそのような話をしてはいない。「信じることによって救われる」ということは、そういう意味で信じる者の行ないというものではないのだ。

       仏教では「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで救われるという。それはいわゆる「他力」の話なのだが、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって、その「他力」が「自力」に変えられている。先程のクリスチャンの間違った考え方と同じようなことになっている。外から一方的に救いが与えられるというのではなく、その小さな小さな行ないだけが要求されているのだ。これさえすれば救われる。つまり、救いを非常に単純なものにしている。そういう意味で、私は大乗仏教のことを“だいじょうぶ教”と呼んでいる。「これだけすればいい。これだけで、もう、だいじょうぶ」と教えている。“単純な救い”の方法を説いているのだ。

       しかし、遺憾なことにクリスチャンの中でもそれと同じように“信仰”を“行ない”に変えてしまう人たちがいる。断じてそのような話ではない。「信じる」ということは、「私には何もない。私には何もできない。それゆえ100%あなたに依り頼みます。あなたが与えてくださるものを私は受けます」と告白することなのだ。そういう意味で、信仰と行ないは対比的である。信仰は受身の徳である。その力と効力は、信仰がその望みを置いているところから来る。“小さな行ない”ではなく、「行ないゼロ」なのである。行ないのところはすべて神がしてくださった。問題は、その人の信仰がどれほど強いのか、どれほど純粋なのか、またどんなに堅いのか、ということではない。すべてはその人の信仰の対象にかかっている。神の約束を信じる人は救いを見出す。神は信じる者すべてに、惜しげなく御自分の救いの御恵みを賜るからである。

       そういう意味で、信じることと十字架のことはいっしょになる。義と認められるための私たちの行ないは何一つない。主イエス・キリストが神の律法を私の代表として完全に行なってくださった。主イエス・キリストが私の代わりに十字架上で私の受けるべき罰を完全に受けてくださった。罪に対する呪いは100%キリストの上に下されたのだ。神は罪に対する呪いを与えないのではない。御自分の義と御自分の聖さを100%守りたもうのである。キリストが受けてくださった十字架の死は目に見えるだけのことではなかった。その死は、地獄よりも厳しく、地獄よりも恐ろしく、地獄よりも深いものであった。

       そのことについて何回か話したことがあるけれども、これは意味を説明するための比喩的な言い方であるので、これを文字通りに量的な解釈をしないよう気を付けていただきたい。量的なことを比喩的な言い方で説明しようとしていることなので、誤解のないように聞いていただきたい。神の無限な怒りの杯を最後まで完全に飲むことができるお方は、ただキリストのみである。キリストの他にその無限の御怒りの杯を飲み干せる者はいない。無限なる神であるキリストが、私たちの代わりに、それを飲み干してくださったのである。

       神に逆らう人間は永遠の地獄に投げ込まれても、その無限な怒りの杯を最後の一滴まで飲み干すことはできないので、その罰は永遠に続くのである。しかし、キリストを信じる私たちには、私たちの主、イエス・キリストがその罰を完全に受けてくださったので、主イエス・キリストを信じる信仰によってキリストの義しさが私たちに転嫁されて、私たちの罪はキリストに転嫁され、私たちは神の御前でただ恵みによって義と認められるのである。その代表者の義しさが私たちに与えられる。これはただ恵みによる救いなのである。

       聖書の中ではよく「負債」という表現が使われている。これは非常に足らない譬えだが、仮に私が銀行に対して非常に大きな負債を持っているとする。とても返せないほどの負債である。私にはもうぴた一文もない。そこへ主イエス・キリストが来て私の代わりに全額を支払ってくれるなら、客観的な問題は完全に解決される。私は何をしただろうか。何もしてはいない。「行ない」は全部、主イエス・キリストが行なってくださった。私には払うものは何もない。

       負債の例えから言えば、私たちに何ができるかというと、大変な負債を経験した人ならわかると思うが、“火の車”の私たちは負債を増やしてしまう以外には何もできないのだ。それが私たちの状態である。「少しだけなら払うことができる」という話ではない。負債は、払えなければどんどん増えていくものだ。この負債は巨額であって、私たちには返済し得ない負債である。それは日一日と増える一方なのだ。キリストが全部払ってくださったので、負債を増やすというところからも救い出されたのである。そのような救いを神は与えてくださった。100%をキリストが行ない、私たちはそれを受けるだけなのである。それが「信仰の原理」である。そういう意味で、信仰と恵みはいっしょにある。

       単純で小さな小さな行ないだけを私たちに要求しているという話ではない。主イエス・キリストがすべて行なってくださったことを受け入れることが信仰である。「その信じることができる力はどこから来るのか。なぜそれが持てるのか」という問題はまた別にある。それは、「他の人たちよりも私の方が信じることができた」とか「私が他の人よりも知恵があるから信じることができた」ということではない。それは、神の御霊が心の中で働いてくださって信仰を与えてくださったからである。しかし、ここではパウロはそこまで話してはいない。「律法によるのではなく、信じることによって救われる」ということをパウロは説明するときに、「割礼」の話も律法の話の中に含まれている。つまり、儀式を行なうことによって救われるのではない。命令を守ることによって救われるのでもない。「信仰のみによって」救われるのである。これは「恵みの救い」だからである。

     

    世界を相続する

       ここで「恵み」と「信仰」のもう一つの強調されるポイントは「相続人」の話である。「相続人」という言い方は何回も出て来る。「世界の相続人となる」が13節にあるし、「律法による者が相続人であるとするなら」という言い方が14節にある。また16節では「世界の相続人となる」ことについて書いてある。そのように「相続人」の話が何回も出て来ている。これはどういう話なのかというと、創世記のところに戻って考えなければならない。アブラハム契約の中には単純に「あなたは世界の相続人になりますよ」という言い方はない。それ故、当時の読者たちは、「アブラハムが世界の相続人となることを神は約束された」とパウロが言うのを聞くときに、「その言及はいったい何を指しているのか、知りたい」と考えるわけである。

       パウロはここでアブラハム契約を引用して、「結局はこういうことなのだ」と説明している。創世記を見れば、アブラハムに約束されたのはカナンの地であり、また空の星、海辺の砂ほどの多くの子孫である。王たちがその子孫の中から生まれてくる。そして、アブラハムによってすべての国々が祝福されるという約束であった。創世記をよめば、アブラハムに与えられるその契約の祝福はエバに与えられる祝福の続きなのだということは明らかである。アダムとエバが罪を犯したとき、人類は神の下にではなくてサタンの下に立つものになってしまった。アダムとエバは神を信じて救いを受けたといってよいが、そのとき既に神は彼らに約束を与えていた。つまり、サタンを呪う言い方で神は約束を与えているからである。

       そして、「エバの子孫」と「ヘビ(サタン)の子孫」という話が出て来る。神はヘビに対して、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と言われた(創世記3章15節)。エバの子孫から生まれ出た者がヘビの頭を踏み砕く。即ち、完全にサタンを倒すのである。頭を踏み砕くとは殺すことである。しかし、ヘビはエバの子孫のかかとに噛みつく。即ち、キリストが傷を受け、苦しみを受けると預言しているのである。

       主イエス・キリストがサタンに対して完全な勝利を得る。「エバの子孫」はサタンが行なった悪に対して勝利を得るのである。つまり、これは人類が救われる約束なのである。すべての人間が一人残らず救われる話ではないが、人類のほとんどは救われる。そのことを私たちは創世記3章15節から知ることができるはずである。サタンが人間と世界に対して与えた損害のすべてが復元されるという約束、悪魔が完全に敗北するというその約束は、世界がいつか救われるという概念を必然的に伴うものである。

       ノアの時代になると地の表にいるほとんどの人が神に逆らったので、全世界は滅ぼされ、ノアの家族の8人だけで人類は新しい出発をしたのである。しかし、また神に逆らったために、バベルの塔の裁きが下された。そして、アブラハムからもう一度新しいスタートするときに、神は、アブラハムに、「あなたの子孫はこのように祝福されて、すべての国々はあなたによって祝福となる」という約束を与えた。そのアブラハムに与えられた約束は、エバに与えられた約束、そしてノアに与えられた約束の続きであって、全世界が最終的に救われるという約束であった。そして、アブラハムとその子孫は全世界を相続するという話なのである。全世界に救いの祝福をもたらすという意味で「全世界が救われる」と言っているのだが、それは、アブラハムとその子孫が「相続人」となることによる。パウロはコリント人への第一の手紙3章21節でもこのことに触れている。 

    ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

       私たちはもう既にキリストにあって世界を相続したと言っても決して言い過ぎではない。今やキリストにあって「すべてあなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの」なのである。パウロは、クリスチャンが「世界の相続人となる」ということは「救いの祝福」の話であって、アブラハムを通して全世界が救われるという約束の成就の話である、と言っているのだ。創世記12章3節にあるとおりである。

    「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

       アブラハムに与えられた契約は、全世界が救われるということを「望み」として与えるものであった。「全世界が最終的にアブラハムの契約を通して祝福される」という約束を、ただ信仰のみによって受ける約束としてパウロは説明する。なぜなら、異邦人もユダヤ人も誰であっても、信仰によってのみ救われるからである。信仰によって「」を受継ぐわけである。アブラハム契約そのものも、神がアブラハムに次のように言われたとき、同様にその意味を含んでいた。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。特に、この契約の約束の頂点である最後の句「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」に注意が払われるべきである。

       アブラハムの子孫が、サタンを打ち負かし、サタンがこの世にもたらしたすべての悪を取り去る「エバの子孫」であるなら、また、もし地上のすべての民族がこの同じアブラハムの子孫にあって祝福されるのなら、アブラハム契約は世界の救いの約束であることは明らかだと思われる。「サタンを敗北させ、この世を神に対する正しい忠誠へと回復させるのは、アブラハムの子孫である」という意味で、世界を相続するのである。

       神の恵みである救いの祝福をあらゆる血族、言語、国々にもたらすのは、アブラハムの「息子」なのである。アブラハムの「息子」は救い主となる。このようにして、アブラハムはこの世の相続者、また多くの国々、キリストを信じるすべての国々の父なのである。それは、教会が御霊の力によって「国々を弟子とする」という主イエス・キリストが与えた召命を成就していくとき、徐々に全世界のすべての国々に及んでいくものとなるのである。

       もう一つ、「相続人の約束」のところにとても大切な言い方がある。4章13節に、「アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられた」という言い方がある。今まではアブラハムとダビデの話だけだったのに、なぜここでパウロは「その子孫に与えられた」という言い方をするのか。この言い方を使う理由は主に二つある。パウロの時代のユダヤ人のことを扱っているというのが第一の理由である。第二の理由として、この人たちは当然アブラハムの子孫の中に含まれているということも言わなければならない。しかし、契約の約束の箇所を見ればほとんどすべての箇所で「あなたと、あなたの子孫」という言い方をしていることに注目すべきである。「エバとその子孫」「ノアとその子孫」「アブラハムとその子孫」「イスラエルとその子孫」「ダビデとその子孫」という言い方がずっとある。日本語訳では「裔(すえ)」という表現も使われるが、何れにせよ、契約の祝福は「あなたと、あなたの子孫に与えられる」という言い方になっている。使徒行伝2章39節を見ていただきたい。 

    なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。

       これは「あなたがたと、その子どもたち」に与えられた約束なのである。この言い方は旧約聖書のすべての箇所と同じものである。「あなたと、その子孫たちに契約の祝福が与えられる」という言い方は聖書の至るところに出て来る。その言い方から、子どもたちも契約の約束の中に含まれていることがよくわかる。それ故、私たちに子どもたちが与えられたのは、契約を受け継ぐ者として、そして世界の相続人として育てるためだということになる。信仰のみによって私たちも相続し、子どもたちも相続するのである。それで、父親たちと母親たちは、信仰を持って、神を信じ神を愛するように子どもたちを育てなければならない。子どもたちのために祈り、子どもたちに純粋な御言葉を教え、子どもたちが主イエス・キリストを信じ、愛し、従う者となるように育てなければならない。

       信仰の救いはクリスチャンの子どもたちと子孫に与えられるはずのものである。子どもたちが信仰から離れて行くようなことがあれば、それは神の裁きと見る他ない。広い意味で言えばそういうことになる。キリストの十二弟子の中の一人はキリストを裏切った。キリストが失敗したわけではない。けれども、もしキリストの弟子の中の80%がキリストから離れて一人か二人しか残らなかったとしたら、いったいどういう話になっただろうか。キリストの場合、私たちとはちょっと話が違うかもしれないが、教会史を見れば、信仰から完全に離れてしまう子どもたちが多いならば、その教会には根本的な問題があったことが認められる。その教会は、根本的な問題があることを認めて、その問題が何なのかを真剣に求めなければならない。

       何をやってもからだが思うようにならないならば、あなたのからだには問題があるに違いないのだ。今日この病気になったり、しばらくすればまた他の病気になったりして、何をしても駄目であれば、何か生活習慣に問題があるのではないかと考えるべきなのだ。「毎日1〜2時間しか寝なかったのがいけなかったのかもしれない」と、反省すべきである。「一週間一回しか食べてないのが問題かな」とか、反省しなければならない。そういう人は、何か生活習慣を根本から変えなければからだはよくならない。

       ビジネスの世界でも同じことが言える。車の販売会社で、自分の所だけは誰も車を買ってくれない。隣の販売店は大繁盛なのに、自分の所には誰も来ない。「三倍もの高値を付けているのが問題なのかな」と、反省しなければならないわけである。すぐに改善しなければならない。明らかにどこかに問題がある。どこかに問題がなければこうはならないのである。某国の車は、ドアを開いたらドアが落ちてしまったという冗談みたいな本当の話があるが、そんな車ならば売れないのは当たり前である。問題を直さなければ駄目だということに早く気がつかなければならない。自分に問題があることを素直に認めて、問題を解決するように積極的に求めなければならない。

       同じように、クリスチャンの家族についても言える。クリスチャン・ファミリーの子どもたちは、神を信じるはずである。契約の約束は、私たちと、私たちの子孫に与えられている。次世代のほとんどが神から離れて行ってしまうならば、間違いなくそこには根本的な問題がある。そうであれば、それを解決することを真剣に求めなければならない。「きっとここに問題があるのかもしれない」と思って解決しようとするだろう。しかし、思い違いをしてはいけない。「信仰によってのみ救われる」という原理を忘れてはならない。信仰はどこからくるかというと――手段のことを言っているのだが――ローマ人への手紙10章を見れば、それは御言葉からくることがわかる。

       信仰は、聞くことから始まるのである。ただ「教会に連れていくから」とか「信じるように要求する」ということではない。申命記6章を見ると、御言葉を家で教える最終的な責任が父親たちにあることがわかる。確かに、母親の方が一番多く子どもたちと時間を過ごしているので、お母さんたちも御言葉を一生懸命教えなければならないことは事実であるが、その責任は父親に与えられているのだ。父親が自分の子どもたちに御言葉を教えなければならないということは申命記6章にはっきり命じられている。お父さんたちは、本当に御言葉の教育において頑張らなければならない。祈りにおいても父親は頑張らなければならない。子どもたちが真の信仰を持つように育てなければならない。母親を励まして、母親も信仰において成長するように頑張らなければならない。家族を教えることが自分にとってどれほど大切なことなのかを、父親たちは真剣に反省したり考えたりする必要がある。

       子どもたちにどんな相続を与えることができるのかというと、一番の相続は信仰そのものである。他にも相続としてよいものはいろいろあるが、何よりも大切な相続は信仰そのものである。そのことを真剣に覚え、その信仰をもって生活することがどれほど重大なことなのかを、この「相続人」の話をするときに覚える必要がある。「信仰によって相続する」「信仰の相続」「アブラハム契約の相続」を大切にする教会としてこの箇所を読むときに、父親たちの責任がその中に含まれていることを深く感じて自分を吟味すべきだと思う。約束は、私たちにも、私たちの子孫にも与えられるというのは大きな素晴らしい祝福である。そのことを喜び、その信仰をもって子どもたちを育てることの大切さを、この「恵み」の箇所を読むときに考えさせられるものである。

       子どもたちが信仰において成長し信仰を持つ者として育つために非常に大切なことの一つは、礼拝である。昨日、研究所で結婚式の備えなどについて話していたとき「クリスチャンではない人たちに式のことについて説明してあげなければわからないのではないか」という話になった。実にその通りである。お葬式でもそうだし、礼拝でもそうである。式場に来る前にある程度の説明をしてあげなければ、何が何だかわからないのは当然だと思う。しかし、子どもたちも、両親に説明してもらわなければわからないところがたくさんあるのだ。礼拝のこと、聖餐式のこと、バプテスマのこと、聖書のことなどをよくよく教え込まなければなりません。お父さんとお母さんは、「自分たちはこのように信じているからこのように行なっている」ということをよく説明して、自分の信仰について繰り返し繰り返し説明しなければならない。一回や二回説明したくらいで子どもたちが理解するというものではない。私たち大人でも、繰り返し繰り返し同じことを言われなければ身に付かないものなのだ。

       アブラハムの約束は私たちにとって特別な意味を持っている。アブラハムへの神の約束を信じ、この日本の救いのために労することは、いま日本において私たちのなすべき分であるからだ。私たち一人ひとりがアブラハムの約束を相続する者として自分も与えられた次の世代も真剣に神に従って正しく生きることにより、日本の人々の救いにおいて主イエス・キリストが崇められ、また福音はさらにアジアへと広がっていくであろう。

       さて、繰り返し聖餐式の意味を子どもたちに説明するのはとても大切なことである。罪の悔い改めとはどういうことなのか。聖餐式を受ける意味は何なのか。なぜ葡萄酒を飲むのか。なぜパンを食べるのか。その意味を繰り返し繰り返し子どもたちに説明すれば、子どもたちは少しずつその意味を理解するようになるし、彼らにとってそれは大切なものになっていくのである。礼拝は、子どもたちにとって信仰を受け継ぐために特別に神に用いられる場である。そうなることを私たちは切に望むものである。そのことも覚えていっしょに聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年6月27日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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