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    ローマ人への手紙5章1〜11節


    5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

    5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

    5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

    5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

    5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

    5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

    5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

    5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

    5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

    5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

    5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

    99.10.10. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    愛、敵、和解

    5章1〜11節

       先に進む前に、ここで私たちはパウロの言葉の使い方を理解する必要があると思う。パウロの言葉には聖書的な深い意味が込められている。パウロが語っていることの深さが通じるかどうかは、その言葉が私たちの心に入るかどうかによると言ってよい。私たちはその意味を知ってはいるけれども、ゆっくりと時間をかけてパウロが使っている言葉について瞑想し、この箇所においてその言わんとするところをじっくり考察することは大切なことだ。そうすれば、パウロの語っている事柄の測り知れない素晴らしさをより深く味わうことが出来るであろう。

       私たちは、クリスチャンの世界観の中で言葉の定義を学ばなければならない。個々の言葉の意味を深く理解するために、クリスチャンではない背景を持っている私たちは、聖書の世界観をもって自分で言葉の定義を直したりして考えなければ、正しく解釈したり感じたりすることができない。そういう意味で、クリスチャンは新しい辞書を自分で作りあげていかなければならないと言えよう。言葉の定義は、世界観の中にあっての定義なのである。世界観が違えば、深いところまで考えていくときに、言葉の定義は全部違うものになる。私たちの中には、クリスチャンではない世界観から定義された言葉と聖書による新しい定義とが混ざってしまっているような部分がある。そういうわけで、ここで言葉の定義について少し時間を割いて考えたいと思う。

       言葉というものは、文章の外では決定的な意味を持たない。辞書にはその言葉について可能性のある様々な使い方が並べられていて、たいていは特定の言葉が様々な文脈の中でどのような役割を果たすかを示す例文が挙げられている。同じ言葉が、違う文章の中では、かなり違った意味を持つことがあることは皆さんも知っているところである。それに似て、文章もまた文脈の中でこそ意味を持つものである。そして、根本的な文脈の一つ一つは「ストーリー(物語)」である。その物語の展開、つまりストーリーの流れの中で、言葉は異なった意味を帯びていくものである。言葉の意味は文章の中のみにあり、文章の意味はストーリーの中にある。

       たとえば「」という言葉は、非常に軽くも使われるし、「神は愛なり」という非常に超越した高い意味を持つ言葉としても使われる。それは非常にいろいろな意味で使われる言葉である。どういう文脈の中で使われているかによって、その意味は多岐にわたる。兄弟愛という愛、敵を愛する愛、親子の愛、夫と妻が愛し合う愛もある。兄が弟を愛する愛と、弟が兄を愛する愛にも区別がある。よく考えてみれば、愛には実に多くの意味での愛がある。それで、辞書で「愛」という言葉を引いてみると、沢山の使い方が出てくるし、多くの文章が引用されて説明されている。文章で説明しないとはっきりしないことなのだ。言葉は、その文章の内容によっては正反対の意味にさえ成り得るものなのだ。

       N・T・ライト(Wright)は、「雨が降りそうだ」というような例文を挙げている。家族でピクニックに行こうとしているという文脈のスト−リ−の中であれば、「雨が降りそうだ」という文章は「今日の計画はもう台無しだ」というような意味になる。しかし、干ばつによる飢饉の中にあるというストーリーの中であれば、それは救いの宣言になり得るものとなる。聖書にそれと類似した文章があるが、その話は、「神が祈りを聞いてくださり、約束してくださった通りに雨を降らせてくださった」というエリヤのアハブ王に対する宣言として出て来る。その一文には「主、この方こそ主権なる唯一まことの神であられる」という神学的な意味が込められていた。ストーリーによって意味は全く違ってしまう。従って、聖書の言葉を理解するには、聖書のストーリー全体を文脈として捉えて、その文脈の中で注意深くそれらを考えて読まなければならない。

       時によっては他の物語を読んで今日の一般的な使い方と比較することも役に立つであろう。例えば、「罪と罰」という物語は、「罪」と「罰」という二つの言葉だけをもっともっと深く認識させるための物語であるが、その内容が聖書的であればあるほど聖書の意味の適用を私たちに悟らせ、その意味を自分の生活に実際に適用できるように手助けをしてくれるものになる。良い文学は、その意味において大切な働きがある。私たちは、間違ったストーリーを前提にして特定の言葉を使ったりすることがあるが、自分ではその間違いに気付かないことがよくあるからである。その前提が私たちの思惟の根底にまで入りこんでいたりする。それ故、気を付けて文脈の全体を捉えてその意味を理解しなければならない。ローマ人への手紙の5章1節から11節の中でパウロは多くの言葉を語っているが、特にパウロが使っている「」「」「和解」という三つの言葉について考えてみたいと思う。聖書の中では、この三つの言葉はいずれも切り離して考えることのできないものである。

     

      「」という言葉は、クリスチャンが今後とも確実に語っていくはずの言葉である。愛は神の属性であるばかりでなく、特別に強調されている属性だからである。その意味は、「神は義であられ、慈しみ深くあられる以上に愛であられる」とか、「神は他のいかなる属性にもまさって愛であられる」ということではない。しかし、神の愛は、後で明らかにされていく理由のゆえに、特別な強調がなされている。「神は偉大であるだけでなく、偉大さそのものである」というのは真実であるが、聖書はそのことを特別に強調したりはしていない。しかし、聖書は「神は愛なり」ということを特に強調している。そして、愛に関する教えにおいて、聖書はこの特定の属性を特に浮き彫りにしているのである。しかしながら、今日の私たちにとって、愛とは非常に聞き慣れた言葉であり、まるで当然のことのように考えてしまうという危険性がある。周りの世界では、この言葉はあらゆる流行歌の中で歌われているし、一般に恋愛を指すものとして受け取られており、その意味は肉体関係のあからさまな表現にまで引き降ろされ得るものとなっている。

       また、日本語では「私はりんごを愛している」と言う人はいないが、英語の場合、人の食べ物などの好みを表現する言葉としても非常に軽々しく「愛」という言葉が使われている。この言葉は、あまりにも普通に使われているために、それが自分たちにとって特別な意味を持つ言葉である筈だが、それを別な“ストーリー”の中に投げ込んでしまうとその意味が失われてしまうことには気がつかないのである。この言葉は、神が御言葉において私たちにお与えになった“相続”であることを、私たちは容易に忘れてしまうものである。

      「愛」とはいったい何なのか。この世の人々が流行歌などで「愛さえあれば全ては大丈夫」と歌ったりする権利はあるのだろうか。否である。彼らにそんな権利はない。なぜなら、彼らは、万物が究極的に非人格的なものだと信じているからである。究極的に非人格的な宇宙を信じていた昔のギリシャ人は愛については語らない。昔のインド人も愛について語っていない。昔の仏教にも愛の話は出てこない。イスラム教は聖書からすべてを借りたが、「愛」を借りることはしなかった。借りたならば、もっと大きな矛盾を孕むことになったであろう。神を信じない哲学者たちも、愛という概念を捨ててしまう。彼らの物語には不都合だからである。

       この世のクリスチャンではない人々の典型的なストーリーはすべて、ビッグ・バンで始まる。他の選択肢もあるけれども、おそらく今日のほとんどの人がまだ宇宙のビッグ・バンによって世界は始まったと考えており、結局、彼らはテレビからもその類いのストーリーを何百回、何千回と見せられているのだ。大昔に大きな爆発があって宇宙が生まれ、初期の宇宙には水素しかなく、その水素が長い年月を経て変化して塵となり、宇宙の塵が集まってあれこれが生まれ、いつの間にか地球が生まれてきた、と考えている。いつの間にかその地球の中で無機物から生命が生まれ、いつの間にかその生き物がたばこを吸うようになった、というようなストーリーの中に「愛」の居所などどこにもないのである。

       もしも宇宙そのものが究極的に非人格的なものから生まれてきたというならば、「愛」という言葉は、単に過ぎ行く現象や反応でしかなく、私たちには完全に理解し得ない理由で様々な機会に起こる特殊な“化学反応”でしかないことになる。人間はあくまでも化学的な存在でしかないことになるのだ。隣人を愛するのも化学的な現象であり、子を愛するのは少し違う化学的な現象だと考える。最終的にはそういう話にしかならないのだ。そのストーリーの中では、本当の意味での「愛」という言葉は使えないものなのである。

       そして、これは現代の進化論のみならず、古代仏教の見方でもある。そのような考えによれば、超越した意味を持つことは不可能である。そこには超越した人格は存在しないからである。イスラム教も愛について語らない。彼らにとって神は単一神であり、単一神にとって愛は根本的なものとは成り得ない。「愛」は人格的な関係を意味するものであるのに、まったく単一でしかない“アラー”が関わりを持つような永遠の存在は他には存在していないからである。「人格的な係わり」というものがなければ、愛は成り立たないのである。

       クリスチャンにとって、愛という言葉には特別な意味がある。なぜなら、神は、互いに契約関係にある三つの御位格を持つ三位一体なる御方であられるからだ。その契約関係の本質が「愛」という言葉で定義される。愛は、最愛の者の益のために自らを与えるという誓いを伴う献身である。聖書は、三位一体の互いの御位格の愛についてわずかしか語っていない。御子イエス・キリストは御父を愛し、それゆえその御旨を完全に行なわれた(ヨハネの福音書14章31節、15章10節)。それよりも強調されているのは、御父が御子をその従順のゆえに愛され(ヨハネの福音書10章17節)、それゆえ万物を御子にお与えになり(同3章35節)、御自身を御子に完全にお示しになった(同5章20節)という事実である。御父は御子を永遠の愛をもって愛されるゆえに、弟子たちをも愛してくださるのである(同15章9節、16章27節、17章23節、24節、26節)。「神が私たちを愛してくださった」と言うとき、どんなに深くその愛の素晴らしさと偉大さを感じることか。この言葉を十分に説明するのが困難なほどに、愛の意味は深くて偉大である。

       クリスチャンはその愛を知っている。「愛された」ということを聖書で読むときに、驚きを覚え、心から感謝せずにはおられない。超越なる、絶対なる、永遠なる神が、私のようなちっぽけな者を愛して私を選び、御自分の子どもとしてくださったのだ。それがまことの愛なのだ。どのようにしたらその意味を十分に深く説明できるかわからない。しかし、「愛」は私たちの特別な財産であり、特別な宝である。それは隠しておくようなものではなく、毎日それを見て、神の愛を覚えながら私たちは生きるのである。私たちは、神の愛を瞑想し、喜び、楽しむのである。その愛を私たちは求めている。もっと深く神の愛を知りたい。「どうかその愛を教えてください」と、祈るものである。愛はクリスチャンの特別な財産であって、クリスチャンの世界観によって持つものであって、他の世界観や他の宗教などがそれを持つ権利はないのである。その尊い財産が盗まれないように、そして自分も正しくそれを持つことができるように、私たちは闘わなければならない。

     

       しかし、驚くべきことに、聖書では、神の愛のストーリーはまず何よりも三位一体の御位格のストーリーではなく、神のその敵に対する愛のストーリーであることだ。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにしておられます。・・・敵であった私たちが、御子の死によって神と和解せられた・・・」(ローマ人への手紙5章8節、10節a)とある。私たちが罪人であり敵であったときに、神が私たちを愛されたとはどういう意味なのか。イエスのストーリーほどこれらの言葉をよく説明するものはない。イエスは、ほぼ三千年もの間メシアを待ち続けていたイスラエルの民のところに来られ、彼らを愛され、彼らの病を癒し、彼らを悩ましていた悪霊たちを追い出し、餓えている者に食べさせ、貧しい者たちを力づけられた。しかし、彼らはキリストを殺そうと繰り返し試みるほどのあふれんばかりの情熱でこの御方を憎んだのである(ルカの福音書4章29節、マルコの福音書3章節、ヨハネの福音書8章59節、同10章31節、39節等)。

       聖書が、「人間は罪人である」とか「人間は神に敵対して神を憎んでいる」と言うとき、私たちはイエスとユダヤ人のストーリーを思い起こす必要がある。それはいわゆる“罪深い民”の物語でもなければ、人間の中で最も邪悪な者の物語でもない。それは、神に背を向け、すべての罪人の心の奥底に横たわる神への憎しみを表現した神の民の物語なのである。「罪人である」とは、「神を憎む者だ」ということである。それは、イエス・キリストを殺すことができれば歓喜するような人間のことなのだ。「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ彼らの声は、キリストのうちにいないすべての者の叫びなのである。

       今日の日本人はこの「」という言葉をあまり深く感じないものになっているのではないかと思う。軍を持たず、平和で、世界のどこにも敵はいないような前提で教育を受けてきた。敵の存在を感じない。敵という言葉は日常生活の中ではせいぜい競争相手にしか使わないが、その意味は比喩的なものでしかない。「あれは敵だ。憎むべき相手だ。あの敵に対して戦わなければならない。」という認識はほとんどない。しかし、毎日の生活で自分の憎むべき敵についていつも考えさせられ、真剣に戦うように教えられている者ならば、「これが敵である。サタンは敵だ」と言われるときに、その意味を深く感じることができる。

       クリスチャンになる前にはサタンを敵だとは思っておらず、兄貴か仲間の一人のように思っていた。少なくとも戦う相手だとは思っていなかった。私たちの中には「これは敵だ」という認識があまりにも乏しいのだ。だから「戦う」という思いも深くないのではないか。しかし、「私たちがまだ敵であったときに、神は愛してくださった」とパウロは説明する。私たちと神との客観的な関係について話しているのだ。それはローマ人への手紙3章にあるとおりである。神を求めもせず、神に逆らいながら生きていた。しかし、罪人は、自分が神に逆らっているとは絶対に認めようとはしない。誰もそれを認めようとはしない。アダムのように、罪を他人のせいにする。神に逆らい、神を無視し、機会があれば神を殺そうとさえする。それが罪人である。神に対して敵意を持つものである。

       主イエス・キリストがこの世に来られた時、そのことは明らかに暴露された。パリサイ人たちはキリストの話を聞くたびにキリストを殺そうと計画したことが聖書に記されている。最も皮肉なことは安息日のことであった。安息日にキリストは人々を癒したが、それを見たパリサイ人たちと律法学者たちは、イエスが安息日を破っていると言ってキリストを殺す計画を立てるのである。安息日に人殺しの計画は立てることはしても、人を癒してはならないというのだ。罪人は、そこまで酷い狂ったような者にもなり得るのだ。キリストを見ることに耐えられず、憎しみにあふれて何とかして殺そうとする。パリサイ人だけではない。キリストがナザレに戻ったとき、群衆はキリストを殺そうとした。

       なぜ聖書の中でそのことが繰り返し記されているのか。それは、キリストに対する憎しみが単に一時的な衝動によったのではなく、綿密に計画されたものであり、罪人の心の最も深い思いを表わしている行為だということを明らかに示すためである。裁判では、偽りの証人を立ててキリストを断罪しようとする。人々は憎しみの塊となって、ただキリストを殺すことしか考えなかった。そこまで主イエス・キリストに対する憎しみは深く、敵意に燃えていた。私たちは、それを見て驚くだろうか。実は、私たちも敵であった時には彼らと同じようなものだったのだ。クリスチャンになる前の私たちは、パリサイ人の大ファンであっただろう。パリサイ人に協力して神に敵意を持つ者であった。私たちもそのナザレの群衆と同じ心を持っていた。神を憎み、機会があれば殺そうとする。その心が「神の敵」の心なのだ。どんな理屈でそれを隠そうとしても、それが罪人の有様なのである。

       「」という言葉を考えるとき、その意味は実に深く、恐ろしいものである。「私たちがまだ神の敵であったときに...」というとき、私たちは神に対してはそのような心をもって関わっていたということなのだ。その罪に対して、神は無限の御怒りをもって私たちを見ておられる。その私たちが、いったいどうやって救われるというのか。それがパウロの話しているポイントなのだ。心にある憎しみからどうやったら救われるか、という話ではない。神が、私たちの罪に対して持っておられる正しい無限な憤りに対して、私たちはどうすればいいのか、という問題なのだ。私たちは神の御怒りを受けるべき者である。永遠の裁きを受けるべき者である。神に対する私たちの憎しみと神の正しい御怒りが歴然としてある。それが本当の敵の状態である。勿論誰も文字通りに「憎んでいる」とか「殺したい」などとは言わないで、その思いを巧みにオブラードに包もうとするが、いくら美辞麗句で飾っても無駄である。神を憎んで憎んで殺したい。それが神に対する罪人の心の底にある思いであることに変わりはないのだ。

       キリストを信じてクリスチャンとなった私たちは、神に敵対する思いを持っているわけではない。しかし、罪人としての思いはまだ残っているので、心の中の戦いがある。その罪に対する戦いは、神に対する憎しみとの戦いなのだ。また、サタンとの戦いとは、神を心から憎んで殺したい思いとの戦いなのだ。神が造ったものなら何であれ破壊したい。美しいと思っても、良いと思っていても、神の作品ならそれを駄目にしたいという熱心な思いを持つサタンに対して、私たちは熱心な憎しみをもって戦うはずである。それなのに、どうして戦う心がこうも鈍感なのか。サタンとの戦いにおいてどうしてこうも熱心ではないのかというと、サタンをそんなに憎んではいないからではないか。そんなに深く敵として思ってはいないのではないか。

       隣の人が毎日土足で家に入り込んで、母が作った食事を全部庭に放り出して、父がくれた服をずたずたにし、部屋を目茶苦茶にして、毎日のようにナイフで家族を殺そうとするならば、その隣人との関係はどうなるだろうか。そのようにサタンがやっても、皆さんは「やあ、こんにちは」と言って挨拶するかのような感じで生活するだろうか。気にもしないでいられるだろうか。実際その程度にしか感じてはいないのではないだろうか。サタンに対する憎しみが深くないのは、神に対する愛も深くないからなのだ。本当の戦いはどこにあるのか、本当の敵はどこにいるのかに気付いていない。それは、神との関係がそれほどに浅くて弱いからなのだ。心の中にある罪との妥協がまだまだ深いということになる。まだ敵であった私たちを神は愛してくださり、十字架にかかってくださった。そこに神の愛がある。

     

    和解された

       次に、「和解」という言葉を考えよう。「和解」という言葉は「」という言葉と一緒に考えなければならないものである。「和解」とは、敵であった者が友になることである。本格的に敵であった者が友になるという話はそうないことである。ライバル同士が友になることは有り得るが、本当の意味での敵意をもって憎しみ合い、無視し合う者が、互いに愛し合う仲になれるだろうか。それが「和解」の話である。私たちは神に対して敵意を持って逆らい、神に対してあらゆる罪を犯す。神は私たちに対して無限な御怒りをもっておられる。神は御子を愛し給うがゆうえに、御子を憎んで御子の血を熱望する人間の罪に対して御怒りに満ち給う。しかし、神の愛についての聖書のストーリーは、神が罪人を御怒りの対象として見做したことにとどまらず、彼らの罪と、イエス・キリストを殺したいというその心の深い邪悪さに対する御自身の聖なる憎しみにもかかわらず、神が世を愛され、世を救うために御子イエス・キリストを遣わされたという驚くべき事実にその最大の強調を置くのである。

       私たちの罪を憎む神が、同時に私たちを愛してくださった。同時に救いの道を備えてくださった。神が備えた唯一の救いの道であるキリストを信じるならば、神と和解されるのである。敵意が、私たちの心からも取り除かれ、もはや敵として戦っている相手ではなく、キリストの子どもとなり、主イエス・キリストの御国のために実を結ぶように自分の人生のすべてをささげる者に変えられたのだ。キリストを信じない者は、キリストの御国を駄目にするために自分の人生をささげている。まったく正反対な人生なのだ。

       「和解」は、神の方から提供されたのであって、私たちの方からではない。私たちは実に醜い、持ってはならない気持ちを天の父に対して持っていた。持ってはいけない憎しみと怒りを神に対して持っていた。天の父を無視し、天の父を抹殺しようとしていた者である。それでも、天の父は私たちを愛してくださって救ってくださった。これは、敵を愛する愛である。これが「和解」である。神は、私たちが敵であったときに私たちと和解された。神はどのように敵である私たちを愛してくださったのか。永遠なる無限の絶対なる神御自身が人間となって、十字架上で罪人の罪のために死んでくださったのである。私たちが受けるべき罰、その無限の怒りの杯をキリストは完全に飲み干して、受けてくださった。そして、復活されて私たちに永遠のいのちを与えてくださった。

       この話の重さ、素晴らしさは栄光に満ちていて、他のどんな話よりも偉大で深く、私たちの理解を遥かに越えるものである。実に、その憎しみと御怒りを御恵みと愛とに変えてくださったのである。互いに真っ向から対立していた二者が、十字架の御業を通して和解せられたのである。それは、イエスがそこで私たちの受けるべき御怒りを取り去ってくださったからである。私たちを信仰へと導く御霊の働きによって、神は、私たちの心から敵意を取り除き、神を愛する者に変えてくださった。なぜなら、新生は、まず何よりも神御自身に対する態度の根本的変化にあるからだ。神を憎む者たちは、その御恵みにより神を愛する者へと変えられる。いのちが違うのである。新しいいのちが与えられたのだ。この変化は本質の変化であり、それが私たちの内なる人と外なる生活の“全面的征服”に至るには長いプロセスを要するということは依然として事実である。しかし、それは人が経験し得る最も根本的な変化なのである。

       主観的な意味で、和解されるということは、人を罪から解放し新しい人に創り変える神の愛を経験したことを意味している。神の愛という聖書の物語をこれほどまでに驚くべきものにしているのは、三位一体の御位格が互いに愛し合われるところにではなく、そのような愛と聖であられる神が罪深い人間を愛してくださって、人間を救うためにその罪の罰を御自身の身に負ってくださったことにある。究極的な“愛の物語”とは、神の罪人に対する愛の物語であると考えるとき、カルヴァンの言うように、私たちの心は“狂喜”すべきなのだ。実に、この物語の展開の中においてのみ、神が三位一体なる神であられるがゆえに、御自身が愛そのものであられることを私たちは真に学ぶのである。

       西洋の歴史において、聖書のストーリーの素晴らしさと重さに耐えられない人たちが大勢出て来ている。確かに自分の行ないには永遠の意味があり、キリストを信じるか信じないかは永遠の結論に至る。神を愛して生きるか、神を無視して生きるか、そこには永遠の意味がある。その重さに耐えられない人たちは聖書に逆らい、神から逃げようとする。芸術家も哲学者も、「その重さには耐えられない。もっと軽いものが欲しい」とこぞって叫ぶのである。経済学においても、結婚の一夫一婦制も、神が定めたものであってそこから逃げることはできない。しかし、罪人はその意味を否定し、意味は存在しないと言って、その意味から解放されることをひたすら求めるのだ。

       十九世紀の哲学者たちは、「意味なんかない」と主張することによって自由を得ようとした。二十世紀になると、その軽さがあまりにも重くなって、その軽さの重さに耐えられなくなって、「意味はいったいどこにあるのか」と叫ぶようになった。実に皮肉なことではないか。神によって与えられた重い意味、その素晴らしい意味、栄光に満ちた意味を正しく受け入れるのであれば、心から喜べるが、それを受け入れない者に真の喜びも真の自由もないのだ。「真理はあなたがたを自由にする」とキリストは言っている(ヨハネの福音書8章32節)。真理を悟り、本当の意味を知るならば、パウロが言っているように、喜ぶはずである。神の愛、その御恵みの大きさを悟るならば、喜ばずにはおれなくなる。しかし、そこから逃げるならば、“無意味”という結論に至るしかないのである。その道はことごとく空しい。そして、その意味のない人生の空しさに耐えられなくなるしかない。そのような者は、神の愛を受け入れて神の和解を喜ぶことはできない。

       「」「」「和解」とういような言葉は、クリスチャンの特別な言葉であり、他のいかなる宗教や哲学もこれらの言葉に本当の意味を与え得るストーリーを持たないし、持ち得ない。私たちにとって、これらの言葉は、聖書の創造と堕落と贖いのストーリーに属しているものであり、またその意味を豊かに満たすように働くものである。ゆっくりと楽しむべき良い葡萄酒のように、これらの言葉は実に、神がどのような御方であり、キリストにあって私たちのために何を成し給うたかを覚えつつ、心を尽くして神を誉め称えることができるように、時間をかけて楽しむ必要のある言葉なのである。そのことを覚えてローマ人への手紙5章の学びを続けたいと思う。

       パウロがここで使っているこれらの言葉の意味を全体のストーリーの中で考えるなら、これほど素晴らしいストーリーはどこにもないことに気付くはずである。そして、これほど恐ろしい話もない。このような偉大な話はどこにもない。これが私たちに与えられた宝なのである。本当に喜びに満ちてその意味を深く味わい、真に憎むべき敵を憎んで戦い、永遠に残る実を結ぶ働きを喜びに満ちて全うしようではないか。キリストの愛を知った私たちは、そのことを心と思いと力を尽くして求めることができる筈だと私は思う。是非パウロがここで使っている一つ一つの言葉の関係とその重さを理解していただきたい。「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう」という詩篇119篇33節の祈りが私たちの祈りとなるように。主よ。あなたの愛の道を教えてください。主よ。あなたの和解を深く悟らせてください。私はあなたの定めを終わりまで守りましょう。その祈りをもって一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年10月10日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章5〜8節

    ローマ人への手紙5章9〜11節

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