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    ローマ人への手紙6章3〜5節


    6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

    6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

    6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

    2000.01.23. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    バプテスマにおいて葬られ

    6章3〜5節

       先週説明したように、「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる」という言い方は、救いの様々な側面を指している。これを幾つかの観点において考えなければならない。キリストが死なれた時、私たちはキリストと共に死んだ。キリストが御自身の死において特定の人々を代表しておられたからである。これはちょうど、アダムにあって罪を犯したとか、アダムの罪が私たちに転嫁されるというのと同じことである。つまり、これはローマ人への手紙6章で説明された「アダムとキリストの対比」の話を聖化論に適用しているようなものである。

       「義と認められる」ことにおいて、「アダムが代表なのかキリストが代表なのか」を考えなければならないということを5章で見た。そして、主イエス・キリストが代表であるなら、これはただ義と認められることにとどまる話ではなくなる。契約の代表者はすべてを含むからである。例えば、歴史全体について考えるときに、アダムのときからキリストのときまでは「古い契約の時代」であったが、キリストから歴史の終りまでは「新しい契約の時代」である。主イエス・キリストの受肉と十字架の死と復活と昇天、そしてキリストが神の右に座してすべてを支配されるようになったという出来事によって、歴史全体が変わるのである。だから、歴史全体を見るときに、二つの時代がある。即ち、古い契約の時代と、新しい契約の時代である。古い契約の時代はアダムにある時代であり、新しい契約の時代はキリストにある時代である。そのように歴史全体は分けられる。そのことは5章においても見ることができたと思う。

       こんどは、個人一人ひとりが、キリストにあるのかアダムにあるのかということで神の御前に立つわけである。人類全体は、最初の創造の時からアダムにあるものとして創造され、アダムは契約の代表者としてエデンの園の中で私たちの代わりに神の御前に立った。アダムが犯した罪は、代表される私たちもアダムとともに犯した罪となった。そういう意味で、「私たちは約六千年前にアダムとともにエデンの園で罪を犯した」と言うことができる。それと同じように、「二千年前に、私たちは代表者である主イエス・キリストとともに十字架上で死に、そしてよみがえった」と言うこともできる。

       そして、アダムの罪は私たちがこの世に生まれる以前から私たちに転嫁されているのと同じように、私たちは新しく生まれ変わる時に主イエス・キリストの義が私たちに転嫁されるのである。それ故、アダムにある者は、毎日の生活において、アダムにある者らしく罪の奴隷として罪の中に生きている。それと同じように、主イエス・キリストにある者は、主イエス・キリストにある者らしく、毎日の生活において罪に対して死んで、神に対して生きる者らしく生活しなければならない。そして、実際にそうするのである。アダムにある者は最終的に滅びて死ぬが、それと同じように主イエス・キリストにある者は最終的に永遠のいのちに生きるのである。

       その四つの意味において、「主イエス・キリストとともに死んで、主イエス・キリストとともによみがえる」のである。そのことを先週一緒に考えたが、「合一(identification)」と「結合(Union)」という神学用語において理解した方がよいと思う。キリストと一つになることは「結合」であり、「合一」は同一視するということである。その二つの概念は同じようなものである。「キリストと一つになる」とは、神の御前で私たちはキリストと一緒に立ち、神は契約の代表者であるキリストを通して私たちを見てくださり、契約の代表者の中にある者として見てくださるということなので、「合一」という言葉で理解される。キリストと「結合」されて一つとなったので合一の契約関係になっていると言ってよいと思う。

       つまり、聖霊によってキリストの救いの御業が私たちに適用された時、私たちはキリストと共に死んだ。また、罪深い自己を否定し、神のために生きることを求めつつ、日々私たちはキリストと共に死んでいる。そして、やがて身体の死を迎えて神へと自由にされる時、最終的な意味でキリストと共に死ぬのである。パウロは話を一つの意味から別な意味へと自由に移行させるが、それはそれぞれが互いを含意しており、一つの統一体を形成しているからである。

     

    キリストにあるバプテスマ 

       6章に入ると、パウロは、私たちが主イエス・キリストと一つとなったことをバプテスマにおいてまず説明している。この文脈においてバプテスマの重要性をどんなに強調しても強調しすぎることはない。 

    それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

       ここでバプテスマの意味を思い出させて、「それはどういうことだったのかを本当に理解しているのか、その意味を覚えているのか」と、訴えている。3節の全体的要点とその後に続く箇所との関係は、私たちのバプテスマについての見方の上に立脚し、かつそこに掛かっている。パウロは要するに「あなたのバプテスマを覚え、その真の意味を生活の中で表わしなさい」と告げているのだ。このような倫理的な訴えは、クリスチャンの生活においてバプテスマがいかに重要なものか、その意味を理解することがどれほど重要であるかを示しているのである。

       「神の恵みは罪よりも大きいのだから、キリストにある私たちは、罪の中に残っていてもよいのだ」と、そのように罪に対して気楽に考える者に対して、パウロは「絶対にそんなことはない」と断言する。私たちは罪を非常に真剣に考えなければならないのだ。罪を軽く考えて、罪を寛大に取り扱ってはならない。罪に対して真剣に戦わなければならない。「罪を、殺してしまいなさい」(コロサイ人への手紙3章5節)というほどの強い言い方でパウロは罪について話しているが、パウロはここで、バプテスマの意味について話しているのである。つまりパウロは、クリスチャンになるとはどういうことなのかを話しているのだ。バプテスマの意味を話しているときに、バプテスマそのものがどれほど大きな意味を持っているのかを説明しているわけである。

       新改訳では「キリストにつくバプテスマ」と訳されているが、パウロの表現は"Baptised into Christ"であり、これを正確にどのように日本語で表現したらいいのか私にはわからない。ギリシャ語の"eif"は英語の"into"という意味であり、前置詞の意味を考えれば、ただ枠の中に点で表わすようなものである。パウロがここで使っている言葉は「中にいる」ということだけではない。それは、枠の外に矢印を書き、外から枠の中に入っていくものとして表現される。つまり、動きを表わしている前置詞なのだ。外から中に入ってきて中に留まっている状態を意味するものなのである。だから、「キリストの中に入っていくバプテスマ」というような変な外人の翻訳になってしまうが、そのような意味を表わす言葉をパウロは使っている。

       つまり、バプテスマを受けることによって、キリストの外にいた私たちは、契約的に捕らえられて、キリストの中に入り、そしてキリストの中にいるのである。「キリストの中に入っていく」という表現は変な日本語だということはわかっているが、「キリストと一つとなって、契約的に同一視される」という結合の話なのである。キリストの死にあずかるバプテスマを受けるとは、バプテスマが私たちをキリストの死 (と復活) に結合させるという意味である。私たちが神の契約の民に含まれ、キリストと一つである者たちの内に数えられるという意味で、キリストと共に死ぬことを意味している。契約の儀式によって、契約において、私たちはキリストと結合されるのである。

       したがって、受洗者はバプテスマを受けて神への誓いをし、その誓いが有効であるという意味において、バプテスマはキリストとの結合を果たすのである。誓約するということは、人が契約の共同体の一員になることなのである。バプテスマによってキリストと結合されたので、神の御前にあってはキリストと合一の関係にある。神は、キリストを見るときに私たちを見、私たちを見るときにキリストを見る。バプテスマは、その関係に入る儀式である。それを結婚に例えれば、バプテスマの儀式によっていわば“正式に結婚した”関係になったのである。“誓いの儀式”であるが故に、ここでバプテスマの意味の大きさをはっきり見ることができると思う。

       バプテスマの意味の大きさを見るときに、マタイの福音書18章15節からのところを思い起こしていただきたい。神は果たして誓約やバプテスマの誓いを尊重しなければならないのか。確かに神は重んじてくださると約束された。普通の情況の下ではそうしてくださると考えるべきなのである。イエスは次のように仰せられ、霊的領域において実際に意味のある権威を与えることを教会に約束された。

    それは、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」というところから始まる箇所である。17節では教会戒規の話になり、18節で「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」と書かれてある。更に19〜20節で、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とある。

       何度も説明したように、ここでキリストはただ単に祈りについて話しているのではない。これは、教会戒規の前後関係の中で祈ることについて話している箇所である。兄弟の罪を取り扱うときに、教会が解く者は解かれ、教会がつなぐ者はつながれると、キリストは言っている。教会が正式に行なう事を神は認めてくださるというのである。非常に大きな恐るべき権威を神は教会に与えてくださった。バプテスマを行なうときも、教会戒規を行なうときも、それは実に大変な意味を持つことを行なっているのだということになる。

       教会が解く者は解かれて、つなぐ者はつながれる。そこまで教会には大きな権威が与えられている。神がともにいてくださり、ともに働いてくださるのである。だから、解くこともつなぐことも、軽く考えてはならない。そして、自分に与えられている権威を、恐れを持って、気を付けて用いなければならないことにもなる。教会が義しくふるまうなら――指導者たちが犯す過ちや罪のすべてに神が拘束されるなどとても有り得ないことなのでこの条件を加えるが――、神は教会の決定を支持してくださるという約束なのだ。神は御子の教会の代表者たちと共に立ってくださるのである。 

       中世期の教会では、教会のリーダーたちがとんでもない者になってしまい、お金を払ってくれればつなぎ、お金を払ってくれなければ解くというようなことをした。金銭によって動き、金銭によって支配され、賄賂を受けたりしてサムエルの息子たちのように権威を悪用した(第一サムエル記8章1〜3節)。そのようになったとき、神は、教会が間違って行なっても受身的にそれと一緒に行なうわけではない。法王がルターを教会から追放したとき、ルターは「神は教会にそのような約束を与えているのだから、自分は裁かれなければならないのだ」とは考えなかったし、私たちもそのようには思わない。反対に、ルターは法王に対して「私はあなたを追い出す」と言った。そして、ルターの祈りの方が聞かれたようである。

       そういう意味で、教会の権威は無制限だというような話にはならない。これは、夫婦間でも夫の権威には限界があるし、親子関係においても親の権威には限界があるし、国家と国民の関係においても国のリーダーたちの権威には限界があるのと同じである。昔のローマ帝国では、父親が気に食わなければ自分の子どもを殺す権威が与えられていた。それは聖書では許されないことである。いくら子どもに問題があっても、殺す思いを持ってはならないと命じられている。父親の権威には限界がある。同じように教会のリーダーたちの権威も制限されている。間違っているなら、神は、祈りに対して祝福ではなく裁きを与えることもある。

       しかし、私たちがバプテスマを忠実に行なうならば、バプテスマを受けた子どもたちはみな主イエス・キリストの契約に入るのである。大人もみな主イエス・キリストとの契約関係に入る。そのことは客観的な事実であり、神はその誓約を重んじ、その人たちをその誓いに従って取り扱ってくださるのである。これは実に大きな、そして大切なことである。バプテスマを行なうことによって、バプテスマを受けた者はみな、主イエス・キリストと契約的に一つとなっている。これは、永遠の選びにおいてどう考えるかについて心配するようなことではない。受洗者は、選ばれた者として見做され、選ばれた者として取り扱われるのである。そのことで私たちは神の永遠の選びを見ることができるわけではない。「バプテスマを受けたら、選びについて心配しなさい。その人が選ばれているかどうかを考えなさい」というような教えはどこにもない。

       キリストとの結合は、通常はキリストの救いの恩恵のすべてが私たちのものであること、そしてすべての受洗者のためにそうであることを私たちは望むべきであることを意味するものである。だが、契約的な背教というようなことがあったり、バプテスマの誓いを裏切る者がいることを私たちは知っている。しかし肝心なのは、それらの者が結局はキリストと結合していなかったということよりも、むしろ彼らの背教と裏切りによって自らをキリストから切り離したために、神が御子を裏切る者たちに適用される特別な契約の呪いに苦しむことになるということなのである。

       しかし、選びのことは私たちには隠されている。そして、既に啓示されたことは私たちには明らかなものである。何が啓示されたかというと、教会にバプテスマを授ける責任が与えられており、教会がバプテスマを授けることによって、その人は神の教会に正式に入った者となる。その人は神に導かれる者となり、正式に教会に入った者として取り扱われる。子どもも同じである。子どもも大人も、最終的に神から離れてしまうなら、その時、教会は戒規をもってその者を神に委ねるのである。

       すべてが私たちに明らかだというわけではない。ロトの場合を考えてみればわかる。旧約聖書の時点で見れば、ロトは神から離れてしまい、滅んだようにしか見えないものであった。しかし、新約聖書のペテロの手紙を読むと、ロトは最終的に救われたということがわかる。ダビデもそうである。ダビデが大罪を犯したその一年だけを見るならば、「クリスチャンなのに、このような罪を犯した。この人はもうだめだ」と思わされるであろう。しかし、後に悔い改めに導かれて神に立ち返り、最終的に信仰の模範となった。だから、私たちは、永遠の選びについて決して断定的に考えてはならない。

       「このような神学の立場を取る人間が救われ得るだろうか」と聞かれた事があるが、私はその質問に答えることはできない。私には、人の心を見抜く力はない。確かに間違った考えを持っているとしても、その間違った考えを持つ者が救われるかどうかというと、当然あり得ることである。私たちの考えにも間違いは無いわけではないし、どこまでその人の信仰が本物なのかを見る力は私たちにはない。だから、永遠の裁きと永遠の選びについては、神に委ねればよい。私たちは、私たちに与えられた責任を忠実に果たせばよい。私たちが気にしなければならないことは、聖書は何を教えているのか、私たちは何を信じるべきか、それに従ってどのように生きるべきかである。

       そのことを考えるとき、バプテスマの意味は実に大きなものだということがわかる。バプテスマを行なうことには非常に深い意味がある。だからパウロは、ローマの教会に対して「自分のバプテスマの意味をよく考えなさい」と教えるのである。「あなたがたはバプテスマを受けたではないか。そのバプテスマの意味を本当に理解しているのか」と、ローマの教会に訴えているのである。このような言い方は現代の教会からはまず出ないだろう。「あなたはバプテスマを受けたでしょう。その意味が何なのか、解っていますか」というようなことは誰も言わない。「バプテスマの意味をよく考えなさい。そうすれば、自分はどのように生きるべきかがわかる」というのがパウロの訴えである。

       教会がバプテスマを行なうとき、そこには客観的で大きくて恐ろしい、そして喜ばしく、素晴らしい意味があるということを是非理解してほしい。バプテスマは、それを受ける者にキリストとの契約的結合を実際にもたらす誓約の儀式であるため、クリスチャンの全生涯にとって非常に重要なものである。それは、一生一度の誓いの儀式であり、繰り返し思い起こしてはそれについて瞑想する必要のある儀式である。毎週の聖餐式は、私たちをバプテスマの誓いへと連れ戻してくれる契約更新の儀式であり、私たちはそこで誓いを再確認する。それゆえ、キリストが命じてくださった聖餐式はバプテスマの意味を私たちに思い起こさせるものとして極めて有益である。

     

    キリストと共に葬られる

       「キリストにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」とパウロは言う。つまり、バプテスマを受けるということは、契約においてキリストと一つとなることである。キリストとの結合を、バプテスマの誓いにおいて持つ者となるのである。何度も言うが、バプテスマを行なうということは、キリストとともに死んで、キリストとともによみがえって、キリストと一つになることである。それは「十字架と復活」のところに戻ることである。キリストと一つになることは、天から始まるのではない。それは十字架を通して行かなければならないのだ。なぜなら、私たちはもともとアダムにある者だからである。

       アダムにある者は、いのちを直接受けることはできない。アダムにある者は、神の裁きと呪いの下にある。死ななければならない者である。私たちはみな、アダムの罪のために、自分の罪の心のために、自分が犯した罪のために、アダムにある者として死ななければならない。例外は一人もいない。救いは、死んだ後でなければ与えられることはない。契約の祝福は、呪いを通して行かなければ与えられないものである。罪人は必ず死ぬ。それ故、キリストが私たちを救うためには、まず私たちの代わりとなって十字架の上で死んでくださらなければ、私たちは決して救われない。

       そういう意味で、神は私たちの罪をただただ直接に赦すということはない。死ぬべき罪を、罰を与えずに、ただただ赦して、いのちを与えることはしない。契約の裁きと呪いを受けなければ、いのちは与えられない。それ故、私たちに与えられるいのちは、復活のいのちなのである。死んで後に受けるいのちである。それは最初の創造のいのちではなく、新しい創造のいのちである。古い契約のいのちではなくて、新しい契約のいのちである。

       そのように歴史全体、古い時代と新しい時代という二つの時代、アダムとキリストという二人の代表者、そして肉の契約と御霊の契約、古い創造と新しい創造、古いエルサレムと新しいエルサレム、古いイスラエルと新しいイスラエル、古い人と新しい人、最初の創造の肉と新しい創造の霊、それらの概念がすべてつながっているわけである。これらの対比はすべて、私たちの理解のためにとても重要なものだ。世界を造り変え、御自身に栄光を帰する新しい人類を創造するという神の御業の中に、私たちの個人的な救いが含まれているからである。バプテスマを受けるということは、古い契約、古い時代、古い創造などに対して死ぬことである。古い人生が破壊されるほど完全にキリストの死と結合することである。もうその古い世界から離れたのである。

       そういう意味で、今私たちは複雑な状態にある。二つの創造が一緒にある。アダムの時の古い創造があり、新しい創造もキリストが死んで復活して天に昇って神の右に座した時から始まった。あたかも歴史全体の真中に歴史の結論が挿入されたように、復活が歴史の中に入ったのである。復活は歴史の終りにあるはずなのに、歴史の真中に挿入されたのである。そして今、その新しい契約の時代が古い時代とともにある。それで私たちも複雑なものとなっている。私たちは肉的な者なのか。確かに、私たちは肉なる者であり、食べなければ肉は滅んでしまうし、息を吸わなければ死んでしまうし、飲まなければ死ぬものである。寒く感じたり暑くかんじたりもする。私たちは肉なる者である。肉にある者はアダムの子どもであるということは歴史の事実としてそうである。

       しかし、バプテスマを受けた私たちは、肉の契約、肉の時代などに対しては死んだのであり、それはもう終わって、新しい時代の者となった。いわば本当の“新人類”になったのである。肉にある者ではなく、8章にあるように、御霊に属する者となった。新しい世界に住み、新しい契約の代表者を持つ者となった。バプテスマは、その古い世界、古い時代、古い契約、古い自分、アダムに対して死んだという意味である。そのやり方でしか解放されないのである。死ななければならない。肉において全部死ななければならない。罪に対する神の御怒りのゆえに、死ぬべきものはみな殺されなければならない。そのために、主イエス・キリストは代表となって十字架の上でその贖いをしてくださった。キリストが私たちの代わりに死んでくださったのだ。神はそこまで罪を忌み嫌われる。

       「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」と言うとき、それは、「キリストの死の意味とバプテスマを一緒に考えなさい」ということである。バプテスマを受けた者は新しい世界に入り、新しく生まれ代わった者となり、キリストにつく者となる。「キリストの死にあずかる」ということは、「アダムにあるすべてを完全に否定して、それを殺し、さばきが行われた」ということであり、「その古い世界は終わった」ということなのだ。

       そういう意味で、ローマ人への手紙の5章と6章を一緒に考え、アダムの意味を広く正しく把握するときに、6章にある聖化論は終末論にもつながる。つまり、個人についての話は、歴史全体の話につながっているのである。古い世界が死に、新しい世界が与えられた。その新しい世界は、復活の世界である。キリストの復活は死に対する勝利であった。また、アダムにある契約に対する勝利であった。その古い世界に対する完全な勝利である。だから、パウロは「新しい創造」という言い方をしている。

       「新しい創造」「新しいエルサレム」「新しいイスラエル」「新しい契約」と言っている。これらは新しい創造と新しい世界の話なのだ。バプテスマによって私たちは契約において新しい世界に入った。これは単なる概念ではない。これは実際の毎日の生活のことであるということをパウロは説明している。つまり、罪の奴隷として続けて生活することは有り得ない。主人が変わったのだ。昔の主人はサタンであり、罪であった。新しい主人はイエス・キリストであり、神の義しさである。私たちは神の栄光と神の御国を第一とする生活をするものとなったのである。4節でそのポイントが更に次のような表現をもって明確に説明されている。 

    私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

       この「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」そして「よみがえられた」という言い方を見て「これは、水の中に入ってからまた水の中から出てくるやり方を通してキリストとともに死んでよみがえったことを表わすということではないか」と考える人がいる。しかし、パウロはここでバプテスマの“やり方”については語っていないのである。パウロは、罪の奴隷として生きるのか、それとも神に対していのちにあって生きるのかということについて話している。「葬られた」と言っているのは、「バプテスマをこのように行ないなさい」ということではない。このこと自体は別個に考えるべき要点というわけでもなければ、バプテスマの形式についての示唆でもないことは確かだ。

       聖書が多くの箇所で直接触れているバプテスマの形式について、このローマ書6章では何も暗示されていない。しかし、その形式について言うならば、律法の中の“バプテスマ”はすべて「注ぎかける」とか「注ぐ」という方法で行なわれていた。「それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定に過ぎない」(ヘブル人への手紙9章10節)と説明されている。血についても「注ぐ」という言葉が使われている。キリストの血についても同じ言い方が使われている。だから、バプテスマの行ない方については、はっきりと「注ぐ」あるいは「注ぎかける」という動詞が使われており、その動詞がそのまま行ない方についても表わしている。

       しかし、ここでパウロは「葬られる」そして「よみがえる」ことについて話している。それは、アダムとの関係、そしてキリストとの関係、新しい契約と新しい創造、新しい世界の話をしているのである。「葬られる」は、死ぬことの確実さを表わしている。「キリストとともに葬られた」とは、「本当に死んだ」ということである。なぜ主イエス・キリストは十字架上で死んだ後すぐによみがえらなかったのか。なぜキリストは、葬られて後三日三晩も墓の中にいなければならなかったのか。それは、「死んだ」という事実が明確にされるためであり、アダムの世界と古い肉の契約の時代においてその「死」を確実に示すためであった。

       葬ることの意味、キリストを葬ることと私たちがそれに合一されるという意味は、それが死を確実なものとするということに他ならない。死んですぐに生き返れば、本当に死んだのかどうか疑わしいわけである。主イエス・キリストは奇跡によって人々を復活させたことが記されている。会堂管理者の娘が死んだとき、キリストは、その娘の手を取って起き上がらせた(マタイの福音書9章18〜26節)。しかし、死んですぐの事だったので、周りの人たちは、その娘は本当はまだ死んでいなかったのだ、眠っていたのだと思ったり疑ったりするしかなかっただろう。

       私の友人の知りあいも、手術の時に死んだ。医者たちも彼の死を宣言して、家族を呼んだところ、その人は起き上がってきたので、周りの人たちは「あれ、死んでいなかったのか」と思ったという。その人は数十年も生きて、今も元気な年寄りとなっている。死んだと思われたが、死んでいなかった。そういう事もあるので、キリストがその娘を復活させたとき、周りの人々はそれが復活のいのちだとは思わないわけである。

       「葬る」という意味は特にラザロの話に見出される。ラザロの場合は他とは全く違っていた。ラザロが死ぬほどの病気をしていると知らされても、意図的にキリストは訪問を遅らせたのである。キリストは、ラザロが死んで葬られるまで待って、葬られてからはじめてそこに行った。それは、ラザロが完全に死んだことが明らかとなるためであった。葬られていなければ、ラザロの死は明確には認められないし、実際に死人の中からよみがえらされたことも明白とはならなかったであろう。彼は葬られ、その身体は腐敗していた。キリストは完全に死んでいた者にいのちを回復させてくださったのである。それは、ラザロの死と復活によって、キリストが“よみがえりのいのち”であられることを奇跡を通して明確に表わすためであった。

       葬られていなければ、それが復活だということは確認されない。同様に、私たちはキリストとともに死んで、キリストとともに葬られた。つまり、100%、本格的に完全に死んだのである。そのことを覚えさせるために、パウロは「私たちはキリストとともに死んで、キリストとともに葬られて後、キリストとともによみがえった」と言っているのだ。主イエス・キリストは葬られなければならなかった。そこには非常に大切な意味があり、バプテスマの意味にもそれは含まれている。キリストの死と復活にあずかるということは、本当に死んで本当によみがえったということである。

       「葬られた」というのは、そのことを明確に認識するためである。イエス御自身、葬られて3日間墓の中で死人の中に留まられた (3日間とは金、土、日曜日のことであるが、72時間墓におられたというわけではない)。このことは、キリストが完全に死なれたことを明確にした。キリストは単に“気絶”されたわけでもなければ、その死からの復活は単なる蘇生でもなかった。キリストの死の客観的現実は、葬られることにより公けに確証されたのである。

       「死にあずかるバプテスマ」とは「ともに葬られた」ということである。そこまで古い世界に対しての死は明白なものである。そして、私たちがそのことを理解するとき、「私は既に死んだ者である」という認識を深く持つことができるはずである。昔のアメリカのインディアンの話を思い起こすけれども、誰かがインディアンのいのちを救ったなら、その救われた者は一生その人のために生きる者となるという考え方があった。日本の武士にはそのような考え方はあったかどうかわからないが、文化によっては、いのちを救われたらその恩人のために一生をささげるという考えはよくあった。

       例えば、寇ママ(80歳の教会員)はくも膜下で脳外科の手術を受けたけれども、手術前の様態はとても生きているとは言えないものであった。術後、ここまで回復するとは思わなかった。死ぬ可能性は何度もあったが、今は元気に生きている。「死んだ筈なのに、生きている」という経験をした人は少なくないと思う。それで、「私のいのちは神のものです。私は死んだはずの者です。神の恵みのみによって今私は生きている」ということを深く実感させられるだろうと思う。

       私たちもみなそのような者である。バプテスマを受ける意味はそれと同じである。もう、古い自分は死んだ。教会が、キリストの死にあずかるバプテスマを授ける時、その人は死んだ。「バプテスマを通してキリストの死と葬りにあずかり、キリストと結合された」と言う時、それは「このお方と共に死んだというそのキリストにあずかる私たちの死、古い創造とその諸原則と古い人とその支配に対する私たちの死は、それらに対する全くの決別に等しい」と宣言しているのである。つまり、古い人は単に致命的な打撃や傷に苦しんだのではなく、殺されて葬られたのだ。古い人とその世界との断絶は絶対的なものなのである。

     

    新しいいのち

       私たちは、復活のいのちにおいてもキリストと結合されるためにキリストと共に葬られた。キリストは「御父の栄光によって」死からよみがえられたが、それは復活で顕わされた神の御力のみならず、新しい創造の栄光をも示すということである。日々の生活においてキリストにあずかる新しいいのちの意味を表わすことができるようにと、私たちはバプテスマ――契約の誓いという意味で――においてキリストと共に葬られた。そして、私たちはキリストとともによみがえったのである。それ故、全く違う生き方をしなければならない。

       今あるいのちは、神から与えられた復活のいのちである。古い肉のいのちに生きているのではない。だから、この世の者のように生きてはならない。そのようにパウロは説明している。決してこの世の人たちのように、母の胎から生まれて今日まで生きてきたという話ではないのだ。一度死んで、今あるいのちはもはや自分のものではない。特別に恵みによって与えられたいのちである。神から与えられたそのいのちは、神にささげられなければならない。私たちはそのような生き方をするために、新しく生まれたのである。

       「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように」と言っているが、ここでは御父がキリストをよみがえらせたという言い方になっている。ヨハネの福音書10章17〜18節でキリストは御自分の死と復活についてこう言っている。 

    わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

       キリストは自分でいのちを捨て、またもう一度それを得ると言っている。他の箇所では、御霊がキリストにいのちを与えたという言い方がある。御父、御子、御霊が、三位一体なる神として、歴史の中の最も重大な出来事の一つであるキリストの復活において働いたのである。復活は、三位一体なる神の御業であった。「御父の栄光によって...よみがえられた」という言い方には二つの大切なポイントがある。一つは、旧約聖書ではよく「栄光」と「」が一緒になっているので、「神の栄光によって...よみがえられた」というのは「神の力によって、よみがえられた」という意味になる。

       それならなぜ「神の力によってよみがえられた」と言わないのかというと、やはり「栄光」の意味が強調されなければならないのであって、復活のいのちは栄光のいのちであり、栄光の時代が訪れたからである。古いアダムの時代は栄光の時代ではない。復活のキリストにある時代が栄光の時代なのである。だから、救いの完成は栄光という話なのである。そして、復活のからだは「栄光のから」だとも呼ばれる。その栄光のからだはどういうからだかというと、キリストの復活したからだに似たものである。

       だから、神の力がその栄光において表わされて、主イエス・キリストの復活は神の栄光を表わし、栄光のからだをもってよみがえられたのである。「御父の栄光によって...よみがえられた」とは、栄光の時代のはじまりであり、それはキリストの復活と昇天によって始まっており、新しい世界はそこから始まっている。だから、「私たちも、いのちにあって新しい歩み」をしなければならないとパウロは教えるのである。

       新約聖書のギリシャ語原文の中には二つの「新しい」という言葉が使われている。一つは時間において新しい、もう一つは質的に新しいという意味の言葉である。その二つは同義語であるとも言えるし、いつも区別して使われているわけではない。使い方は重複しているが、箇所によっては区別がある。ここにある「新しい」という言葉は、「栄光」や「復活」という概念につながったりしている。「新しい歩み」は、質的に栄光の時代を、そして新しい契約の時代を生きるという意味になる。

       「バプテスマによって新しい時代の人間になった。バプテスマによって新しい契約に入った。バプテスマによって、私たちは栄光の復活のいのちが与えられた。だから、新しい時代のいのちにあって歩まなければならない。その歩みをするために、私たちはキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったのだ」ということをパウロは話している。私たちは日々、神の御国と新しい創造のいのち、そして天の御父の栄光を求めて生きるのである。

       バプテスマは、先に述べた四つの意味の中の二番目のポイントである。そして、新しい歩みは三番目のポイントである。パウロは、「二番目の意味、即ちバプテスマによってキリストと一つになったのなら、その三番目の意味、即ち毎日の生活においてもキリストと一つでなければならない。キリストが歩まれたように歩まなければならない」と教えているのである。二番目の意味は、三番目の意味を生み出すのである。バプテスマにおいて一つとなったなら、生活のすべての行ないにおいてもキリストと一つであることを表わさなければならない。二番目の意味について話すときに「死にあずかる」と言い、三番目の意味について話すときに「復活のいのちの歩みをしなければならない」と論じているのである。

       つまり、バプテスマにおいて「」を強調しており、バプテスマを受けたことによって古い生活を完全に断ち切って古い世界から完全に離れたことを話している。「死ぬ」ということを強調しているのである。そして、次に毎日の生活について話すときもコロサイ人への手紙3章で見たように、確かに「」が強調されている。「毎日の生活において自分に対して死ぬ」と言えないことはない。主イエス・キリストとともに死んだのだから、肉の罪を殺してしまいなさいと言っている。しかし、ここでパウロは、毎日の生活において、新しいいのちの歩みをするように、復活のいのちの歩みをするように、新しい世界に入った者らしく歩まなければならない、と言っている。

       「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえった」ということが毎日の生活においてどういう意味なのかというと、「復活の栄光の歩みをしなければならない」ということなのである。パウロは、実に大きな意味について話しているのだ。バプテスマを受けたということは、そういう意味なのである。それ故、私たちは自分がバプテスマを受けたことについて深く考え、その意味を深く感じて、その意味を、この6章のところから子どもたちによく教えてあげてほしい。

       ここで私たちは、もう一つのことを理解しなければならない。「栄光の新しい歩み」とは何なのか。「栄光を表わす歩み方」とはどのような歩みなのか。一言で言えば、それは「正しい歩み」である。「キリストが歩んだように歩む」ことである。それは「愛の歩み」である。だから、具体的には何なのかを考えるとき、あくまでも神の律法に戻ってモーセの律法を真剣に勉強して考える必要があるという話になる。「栄光の歩み、全き義の歩み、愛の歩み」と言うだけでは、言葉の素晴らしさだけしか捉えられず、具体的にどうすべきかがわからない。

       私たちに知恵が足りないのはなぜかというと、モーセの律法の具体的な教えをぜんぜん深く学んでおらず、それが自分のものになってはいないからである。それで、いろいろな細かい事柄について具体的にどのように考えたらいいのかが、わからないのである。箴言の教えについても、私たちはぜんぜん十分に深く理解してはいない。そのところをもっともっと熱心に求めなくてはならない。日曜日の午後の学びでモーセの十戒を学んでいるが、その学びの時にも律法を軽く浅くしか学べていないと思う。それでも、その律法の意味を具体的に考えようとしている。そのような学びをもっと豊かにしなければならないとつくづく思わされる。

       私たちが毎日の生活において読むべき書物は聖書であり、私たちが毎日必要とする知恵は聖書の中にある。新しい歩み、栄光ある歩みをするために、神の御言葉が私たちの内に満ちていなければならない。詩篇119篇のダビデの心のように、神の定め、神の命令、神の戒めに深く思いを潜め、神のおきてを喜ぶ生き方をしなければならない。母親は、子どもたちに御言葉を教えれば教えるほど、子どもたちは幼い時から知恵を持つようになり、もっと知恵を求めるようになる。「御言葉を教えすぎる」ということは有り得ない。「学びすぎる」ということは有り得ない。「適用しすぎる」ということも有り得ない。私たちは、具体的に新しい歩みとは何なのかを実生活において求め、神の御言葉から学び、それを毎日の生活に適用しなければならない。

       ここでパウロが話しているのは、「罪から離れて、罪を殺して、新しい栄光あるいのちの歩みをしよう」ということなのだ。続いて6章の後半で律法の話をしてから、7章で律法の話、そして8章で御霊の話が出て来る。クリスチャンとして生きるとは、このような素晴らしい意味を持つものである。「バプテスマを受けた私は、もう自分においては死んだ。古い自分はもう存在しない」と思わなければならない。そういう意味で、昔はバプテスマを受ける時に新しい名前を与えた。それは習慣として悪くないと思う。

       中国でもそれが行なわれていたと思う。中国人なのに、クリスチャンにはトーマスとかジョーンとかペテロなどの名前がある。それは、バプテスマの時に聖書の中にある名前から名付けたものである。ヨーロッパでもそうしている教会があった。子どもたちがバプテスマを受けるときに聖書からの名前を与えて、それを正式に宣言するかのようにしていた。それをクリスチャンネームと称していた。昔のクリスチャンたちは、バプテスマにおいて新しい者になったということを、赤ちゃんの名前においても表わしていたわけである。

       「バプテスマによって私たちは新しい者となった。新しい歩みをするためである」とパウロは説明している。「新しい歩みをする」と言っても、その古いアダムにある残骸が残っていたりする。私たちは、バプテスマの誓いを繰り返し繰り返し新たにしなければならない。聖餐式はそのために与えられている。バプテスマの誓いを新たにする儀式である。その意味で、毎回聖餐式を受けるときに、「私はキリストとともに死んだ。私はキリストとともに生きる者です。私は、御恵みによって新しいいのちを与えられた者であり、主イエス・キリストに感謝をささげて今バプテスマの誓いを新たにします。私は、この週の初めである日曜日に、今週も御国を求めて栄光のいのちの歩みをすることを誓います。私は、今週も、神の御国とその義を第一にする歩みをします」と、新たに誓うのである。罪の心を殺して捨てて、新しい歩みをする誓いを新たにするのである。

       結局私たちは罪人なので、躓いたり、罪におちたりする。しかし、バプテスマの誓いを新たにするときに、本当に罪を捨てて新しい歩みを始めるのである。その罪の心をずっと抱えながら歩むものではない。罪人だから自分の罪をずっと運んで行かなければならないものではない。そのような意味が聖餐式にある。バニヤンの天路歴程の中で、クリスチャンはずっと罪の重荷を背負って歩いていたが、十字架の前に来たときにその重荷が落ちて、肩が軽くなり、自由になったという話がある。実は、毎週の聖餐式はそのようなものである。

       結局、罪を犯すと、それは重荷になる。そして、その罪を告白して赦しを求めるけれども、聖餐式のときに教会は「あなたの罪は赦された」と宣言している。「あなたはキリストにある者として受け入れられました。だから、共に新しい歩みをしよう」という意味が聖餐式の中にある。聖餐式を受け、古い自分を捨てて、新しい歩みをキリストにあって喜んで踏み出すのである。「御国を第一にして歩むぞ」という心が新たにされるのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年1月23日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章1〜11節

    ローマ人への手紙6章6〜10節

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