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    ローマ人への手紙6章11〜14節


    6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

    6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

    6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

    6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

    2000.02.06. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    己を知る

    6章11〜14節

       「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4章23節)というソロモンの言葉は、基本的な聖書のテーマを表現している。人の人生は、その存在の深みからの流れ出るものだ。私たちには他人の心の中を覗くことはできないし、自分自身の心すら正しく理解できないことがしばしばだが、すべての人間のあらゆるわざが裁かれる最後の裁きの日に、神は、人の秘密、人の心の隠れた深みをも完全にさばきたもう。その裁きの御座の前ですべてが明らかにされるとき、その人の真価は明らかとなる。人の行ないの真価は、それを鼓吹した動機や目的から切り離すことはできないからである。心に秘められたすべてのわざも明らかにされなければならない。

       それゆえ、聖化は外面的行為の変化だけではなく、心の新生をも伴わなければならない。そして、心の新生の中心はバプテスマの意味を理解するところにある。バプテスマを受けるということは、死と復活においてキリストと合一されるということである。バプテスマはキリストとその御身体である教会との契約的結合を客観的にもたらすものである。6章で説明しているように、それは、キリストの死と復活にあずかり、キリストと結合することを意味している。

       パウロがこの箇所(11〜14節)で述べていることは、キリストとの結合という客観的現実が客観的に事実であるゆえに、それは私たちの主観的現実ともなるということである。要するに、私たちが日常生活において既にキリストにあってなりつつあるものに実際になることができるよう、パウロは本当の意味で己が何者なのかを知るように教えているのである。

       既に1節〜10節までのところを見た。そこでパウロはバプテスマの意味について深く説明している。全体の流れとして、5章の中でパウロは、アダムにある者とキリストにある者との対比を説明し、アダムにある者は罪の下にあって死ななければならないことを教えている。キリストにある者は義と認められ、永遠のいのちが与えられる。そのことを説明した後で、「では、どういうことになるのか。恵みが増し加わるために私たちは罪の中に留まるべきだろうか」というところから6章の話は始まっている。恵みによって救われた。その恵みの豊かさは、人間の罪深さによって表わされた。「そうであれば、人間の罪についてはそんなに真剣に考えなくてもいいのではないか。罪を犯しても、恵みの方が豊かなのだから、大丈夫だ」という思いになったりする者がいた。パウロは明確にその考えを打ち消して、「バプテスマを受けたことの意味を考えなさい」と訴える。

       その意味を深く説明してから、11〜14節で、「だから、このような生活をしなければならない」と言っている。これは1〜10節の箇所の適用と言ってよいだろう。バプテスマの意味は、主イエス・キリストとともに死んで、主イエス・キリストとともによみがえって、主イエス・キリストとともに生きることを表わしている。つまり、バプテスマは、死んでよみがえった、その契約の祝福を表わす契約の儀式である。11節からそのことの適用をしている。11〜14節をみよう。

    11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。14というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

       この14節の後半の「なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」という説明は、11節からのまとめである。そして、1〜10節の意味は「恵み」なのだということを説明している。今日は、14節をまず考えてから11〜14節を考えたいと思う。

     

    恵みの下

       まず、「律法の下にある」と「恵みの下にある」という二つの表現の意味についてまず考えたい。ここでパウロは、「あなたがたは、旧約聖書のモーセの時代にあるのでなく、新約聖書のキリストの時代にある」という話をしているのではない。明らかに旧約聖書のモーセは恵みの下にあったのだ。恵みの下でなければ、誰一人救われることはない。アブラハムの時代もモーセの時代も現代も、律法を行なうことによって救われる者は一人もいない。「恵みによってのみ」人間は救われる。ここでパウロが言っている「律法の下にある」と「恵みの下にある」という対比は、古いモーセの契約と新しいキリストの契約の対比ではない。

       「律法の下にある」とは、「律法の裁きの下にある」というような意味に理解すべきである。そういう意味で、それは「アダムにある」ということなのである。そして、「恵みの下にある」というのは「キリストにある」ということである。この対比は「アダムにある」と「キリストにある」という5章の対比と同じものである。アダム、罪、裁き、死というようなつながりが5章の中にあったが、「律法の下にある」ということは、「律法の要求の下にある」という意味である。一言で律法の要求全体を言い表すなら、それは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛し、また隣人を自分自身と同じように愛する」ということである。律法はそのことを命じ、そして要求するが、私たちはその要求に十分に応えることができない。それで、律法は裁きを宣告するのである。

       「律法の下にある」関係は、律法が要求し、裁き、そして罪に対して死を宣告するものである。キリストの外にある者、即ち「律法の下にある」者は、無力で、罪に満ち、裁かれて死ななければならない存在である。アダムにあって、「」と「」しかない者である。律法はそれを宣言し、それを明白にする。律法は救いも望みも提供しない。この状態を「アダムにある」という5章のつながりにおいて覚えていただきたい。

       「恵みの下にある」とは、キリストの内にあるということである。即ち、キリストと共に死に、キリストと共によみがえり、復活のいのちを神から与えられて、キリストにあって義と認められて、恵みの領域に立っているということである。つまり「恵みを与えられた者」なのである。「恵みの下にある」と言うとき、「律法の要求はどうでもよい」というような意味は全くない。15節以降でパウロは更に突っ込んでそのことを説明している。恵みの下にあるから律法を無視するのでは絶対にない。その点を思い違いしてはならない。

       6章1〜10節で話していることが「恵みの下にある」ことの意味である。バプテスマは、恵みの契約に入ることを表わす儀式である。それは契約の儀式である。「恵みの下にある」ということを正式に宣言する儀式である。バプテスマを受けたとき、その人はもはやアダムにある者ではなくて、キリストにある者となった。その人は恵みの領域に入ったのである。バプテスマは、そのことを公けの事実として宣言するものである。キリストとの結合という祝福を受け入れ、それらの祝福が真実であることを認めることは、神の御恵みの驚くべき働きを認めることに他ならない。

       罪の支配を拒絶することは、単に「服従せよ」という厳しい訓練という意味の「律法」の問題ではなく、キリストにあって私たちがどのような者になったのかを認めて神に感謝をささげるべきであるという「恵み」の問題なのだ。私たちは、神が成してくださった奇しい働きを真実と認めて、そのうちに安息すべきなのである。

     

    自己認識

       そのことは、11節とどのようにつながっているのかというと、自己認識と実際の生活とのつながりなのである。私たちは律法ではなく、アダムにではなく、恵みの下にキリストにある者とされた。11節でパウロは、「そのように、思いなさい」と言って、そのように認識するように命じている。確固たる認識をもってその事実をとらえなさい。そして、毎日の生活はその認識に立って行われなければならない。その意味が11節で強調されている。もう一度11節に戻って考えたいと思う。

    このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

       この「思いなさい」という言葉は、新契約聖書訳では「勘う(かんがう)べし」と訳されているが、ギリシャ語の原語は「ロギズマイ」という言葉が使われており、3章と4章で何度も出て来た言葉である。これは「義と認められる」或いは「義と見做される」の「認める」もしくは「見做す」と同じ言葉である。「ロギズマイ」というギリシャ語の意味は、英語の「論理学("logic")」という言葉に近い。英語訳では「考えなさい」という言葉になっている。つまり、「よく考え、よく思い巡らしなさい」という意味の言葉である。

       ピリピ人への手紙4章8節のところで、「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあるが、この「心に留めなさい」というのも同じ言葉である。よく考え、そのことを思い、それを認める、というような意味である。「認める」「思う」「考える」を一つにした言葉があれば一番よいのだが、残念ながらそのような言葉は日本語にはない。認識して思うのだから「認思(にんし)」とでも言おうか。そのような意味である。

       つまり、6章11節では、「このように自分について考えなさい」ということである。パウロは、自己認識について話しているのである。どのように自分自身のことを認識しなければならないのか。自分についてどう思うべきなのか。常にそのように自分について考えることもさることながら、このパウロの「認める」「見做す」という言葉には「判決」の意味も含まれている。法的に見なすことを意味するこの言葉の頻繁な使用は、明らかにそれが単に「思う」こと以上のことを暗示している。神は、私たちをキリストにある者として見てくださり、そして私たちを義なる者と認めてくださり、そのような判決を下したもうのである。

       だから、クリスチャンもそのように自分について思うべきである。「自分について聖書的な正しい判決を下し、自分を正しく把握し、そのように自分のことを認識しなさい」と、パウロは教えているのである。この自己認識はクリスチャンにとっては不可欠であることをパウロは教えている。自分は、キリストにあって、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者である。そのように自分のことについて思いなさい。そのバプテスマの意味を深く把握するような自己認識を持ちなさい、と言っているのである。

       ある意味で、ここでパウロが言っていることは簡単で明白で、私たちの毎日の生活の中でも普通にあることだと言ってよい。大学の入学式や会社に就職する時や何かのクラブに入る時に、「あなたは○○大学の学生である。それに相応しく振る舞いなさい」というようなことを言われたりするだろう。今日ではあまり言わなくなったようだが、昔はよくよく言われたことである。家族や親族の中でも言われたものである。それは当然のことである。制服を着て歩き回れば、その学校や会社に相応しく振る舞うことは当然要求される。その学校や会社の名が自分の身に刻まれているようなものである。自分の行為は会社を代表するものとして受けとめられるので、気を付けて何でもしなければならないわけである。

       人は、家族、一族、国などの帰属集団によって自己のアイデンティティーを持つ。アイデンティティーは決して個人的なものに限られない。人は三位一体なる神の似姿に創造されたので、絶対的な個人となって全く他者から独立することなど有り得ないのだ。例え隠遁者であってもこの法則の例外ではありえず、真の意味で自分が何者であるのかを否定しようと試みる反抗者に過ぎないのだ。明らかに、すべての人は一つ以上の集団によってアイデンティティーを持つものである。そういう意味で、パウロが言っていることは私たちの日常生活の中でもごく普通のことだと言える。パウロはここで、最も深い、最も根本的な自己のアイデンティティーを取り扱っている。

       私たちは言語集団、種族的背景、社会的地位、職業、性別などによって自己認識を持つものである。しかし、私たちの最も深いセルフ・アイデンティティーとは何か。試練や困難によって自分は本当の意味で何者であって何のために生きているのかと自問を責められるとき、私たちはどこに立ち帰るのだろうか。人は神によって創造され、神との関係が最も根本的な関係であり、バプテスマが新しい人になることを表わしているならば、キリストにあって何者であるのかということは私たちのアイデンティティーの最も重要な部分でなければならない。あなたはクリスチャンなのだから、クリスチャンらしく考え、クリスチャンらしく振る舞い、クリスチャンらしく生きなければならない。何をするにしても、自分がクリスチャンであることを忘れるな。この意味がわからない筈はない。

       バプテスマは結婚式に似ている。公けに誓いをする。誓った後の自分は、今までの自分とは違う者となった。今まではクリスチャンではなかった。神を無視して生きていた。あるいは仏教徒であったかもしれない。無宗教だったかもしれない。しかし、今キリストを信じてクリスチャンとなった。そのバプテスマの誓いを常に覚えていなければならない。結婚の誓いをしたら、自分の誓いを常に覚えていなければならないのである。そして、その誓いと告白に相応しい生活を送るべきである。

       しかし、「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者であることを認める」というとき、そこにはもっと深い意味がある。大学や会社に入ったとき、自分の心の奥底で何かが変わったということはないであろう。表面的なところが少し変わっただけで、心の一番深いところが根本的に変わって自分は別人になったというような変化はない。パウロがここで言っているのは、「主イエス・キリストを信じて完全に新しく生まれ変わったことの意味を深く覚えつつ自分のことを考えなさい」ということである。自分がそのような者となった事実を認めなさい、と言うのである。そのように自分について判断しなさい。根本的に、そしていのちにおいて全くの別人となったのである。

       約二千年前に、主イエス・キリストは十字架上で死に、そしてよみがえられた。そのとき、私たちはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえった。死んだというのは、罪に対して死んだのである。キリストとともによみがえったのは、神に対して生きるためである。そのことを厳然たる事実として認め、その事実を認識して、それに相応しい生活をするようにパウロは勧めている。自分は何者なのかということを、本当の意味で正しく認識して、それを覚えて歩むのである。だから、何か表面的な関係が変わったとか、何かのグループに入ったからそのグループに相応しく振る舞うというだけではなくて、本当に心の一番深いところが根本的に変わったので、その新しいいのちに相応しく生きるのである。

       「罪に対して死んで、神に対して生きる者となった」のである。心の最も深いところが変わった。このことを「認識する」というとき、ただ単に「そう思えば生活はよくなる」というようなレベルで考えるべきではない。キリストと一つになるという客観的現実は、その真理を私たちが認識するか否かにかかってはいない。実に、キリスト教史の大半において契約の教理や契約的一致の意味はよく理解されていないのである。しかし、キリストとの結合という真理の主観的恩恵を受けるには、私たちはそれを真理と認め、自己について、また自己のキリストとの関係について、その根本的認識によって歩んでいかなければならない。

       アメリカにノーマン・ビンセント・スピールという牧師が行なっている"Power of positive thinking"(可能性志向)という運動がある。「可能だと思いなさい。そうすれば絶対にできる」と教えている。「絶対にできる」と、何度も繰り返し自分に言い聞かせてそう思い込むならば、必ずできようになると考えるグループである。それは、楽観主義の“主義”のところの話になってしまうものである。しかしこれは、「必ず出来る。絶対にやれる。これは可能なことだ」と思えばそうなるという話ではないのだ。そのような思いは、場合によっては自分を騙すようなことになりかねない。「そう思っているから、そうなる」という保証は何もない。それは、ただ美しい夢を見て、その夢が自分の現実になることを一生懸命思えばそうなる、というような話である。

       そして、事実それと似たサクセス・ストーリーは沢山ある。「私は毎日、『必ず出来る』と自分に言い聞かせた。そうしたら、出来た。自分を説得することで、私はこの素晴らしい成功を納めることができた」というような話は至る所にある。そのような話が全部嘘だとは思わない。実際にその力があり、能力がある人が、確信を持って最後まであきらめずに「出来る。必ず出来るぞ。最後までやり抜くぞ」と熱心に思って、最終的にそれができてしまう人は確かにいる。彼には、最初からそれができる能力があり、そして自分を信じて意志を貫いたのである。実際にその能力があったので、自分を信じてもよかったのだということでもある。しかし、本当にできる人が、「私は出来る」と信じてやってみるのと、能力もないのにそう思う人では話がまるで違うのだ。

       カール・ルイスが、「絶対に出来る」と信じて100メートルを10秒切る記録を出すのと、私が信じてやるのでは、話は違うのである。私がいくら自分を信じたとしても、オリンピックで金メダルはとれない。信仰が100倍あっても勝つことはないのである。その“可能性志向”という話は、ただきれいごとを自分に言い聞かせ続けて、それによってがっかりしない人生を送るような話であるが、このローマ人への手紙にある話はそのような想像力とか可能性志向の力の話ではない。本当の意味で神は私たちに新しいいのちを与えてくださったのである。客観的な真理について話しているのである。本当の意味で神は私たちの心を根本から変えてくださったのであれば、それを認めず、それを考えず、それを覚えないというなら、それは反対の意味で自分に嘘を語って、その嘘によって自分が騙されて悪い影響を受けることになるのである。

       クリスチャンは客観的な事実に目を留めて生きなければならない。この客観的真理を用いることができるためには、私たちはまずそれを主観的に把握しなければならない。それは、熱力学の諸法則が実生活の中で適用されるようになる以前にまず理解されなければならなかったのと同じである。それらは私たちの理解や信仰の如何によらず機能しているが、それらを知ることは大きな助けとなる。私たちが何者であるのかを主観的に知ることは、クリスチャンとして生きるために役立ち、また、私たちを外側と内側の両方から変えてくださる御霊の働きの重要な部分なのである。

       私の説明は足りないかもしれないが、事実、新しい者となり、新しい心が与えられたのに、それを忘れてしまい、考えないでいるならば、どんどん騙されていくような生き方をすることになるのである。例えば、「私は罪人だ。私は、何をやってもだめなんだ」というような思いに支配されているのであれば、それは律法の下にいるような生き方をしているのである。確かに私たちは罪人である。確かに私たちは、何をするにも足りない者である。能力の足りない者である。ローマ人への手紙7章14〜25節でパウロはそのことについて話している。しかし、それは結論ではないのだ。

       結論は何か。結論は、キリストの恵みによって私の罪が赦されて、贖われて、私は罪に対して死んで、神に対して生きた者となった。それで、私はキリストにあって神の子どもとなり、キリストにあって神から愛され、永遠の契約の祝福を受け、キリストにあって私は新しい歩みができる者となった。もはや罪の奴隷ではなくなった。私は神の御国を求めて、神の御国のために実を結ぶことができる者となったのだ。私は、神に対して生きた者となった。心が根底から変えられた。神を愛する者となった。それが事実であるならば、その真理、その事実を認めて歩むことはとても重大なことなのだ。本当に自分が何者なのかを知る。それを知って歩むのである。

       そして、私たちは、自分が何者なのかを自分について考えるときに、罪人の愚かさのゆえに自分を騙してしまうこともあるし、サタンの誘惑もあるし、周りの影響もある。また「私は何者なのか」を考えるとき、「アメリカ人です」「日本人です」「中国人です」ということが先に来るなら、その自己認識のところは根本的なところで間違っていることになる。確かに私たちの中には、日本人もいるし、アメリカ人もいるし、韓国人も中国人もいる。しかし、それは第一のことではない。それは完全に二次的、三次的なことなのだ。「私は神の子どもです。私は、神に愛されており、神を愛しています」ということが最も大切な認識でなければならない。それが一番深い認識でないならば、それこそだめなのだ。そのことをパウロは私たちに教えている。

       バプテスマを受けたということは、アダムにある古い自分が死んだということである。キリストにあってはアメリカ人も日本人もない。新しいエルサレムに私たちの国籍がある。私たちの国籍は天にある。新しいエルサレムに私たちは属しているのである。アダムにある人類はいろいろなグループに分かれている。バベルの塔で人類はみな違う言葉をもって散らされ、お互いに信頼することができなくなり、その時以来ずっと戦いは途絶えていない。戦争状態がいろいろな形で続いてきた。クリスチャンではない者は、バベルの塔を越えて先に行くこともある。つまり、「人類は一つだ」とか言ったりする。彼らはアダムにある思いにおいて一致を求めたりする。しかし、そのベストであっても、結局バベルの塔のところに留まって互いを憎み合うようになるしかない。

       使徒行伝の中に書いてあるように、私たちには神の御霊が与えられている。使徒時代に異言が語られていたが、それは、バベルの塔の呪いが取り除かれてもはや人種や言葉の違いはなくなったことを象徴的に表わす出来事であった。新しい人類が生まれた。新しい神の民が生まれた。そのことを象徴的に表わしている。それゆえ、自分について考えるとき、自分は何者なのかについて考えるとき、「私はキリストにある者です。私は主イエス・キリストに愛され、主イエス・キリストを愛する者です」という自己認識を深く持ちなさい。その“判決”を自分に下すのである。その判断を確固たるものとして歩むのである。

       そのように自分について考え、自分について認め、そのように自分について思うならば、中から変えられていくことになる。そして、神が私たちを、主イエス・キリストに似た者としてくださる。その影響は、外からも中からもある。外からだけではだめなものである。中からも変えられなければだめなのだ。両方から私たちは変えられていく。“両方”と言うのは、一つには、私たちは今ここにいて共に礼拝しているが、これは御霊が私たちの心の中で働いていることであり、もう一つには、私たちは一緒に集まって互いに交わりを持ち、賛美し、御言葉を聞き、聖餐式を受けたりするが、これらは外からの働きでもあるからだ。外からと中からの両方から、両方から神は私たちを主イエス・キリストに似た者に変えていくのである。成長していくのである。

       しかし、自分の思いを変え、救われた自分について正しく認識し、救いの意味を正しく把握し、そのように毎日の生活の中で正しく思うことによって、自分の外の生活をも変えていくことになる。自分の思いは人生の根源である。人生の源はその人の心の思いにある。箴言の中にもそのような教えがあるが、心の中でどう思っているかは生活全体に対して影響を与えるものなのである。その心の思いを正しく支配しなければ、すべてがだめになるということを知らなければならない。

       いろいろな事において皆さんも自分の経験の中でわかっていることだと思うが、犯罪者の心理学を読んでいて非常に興味深かったことは、連続殺人の犯罪者について書いてあることである。その思いがどうしても頭から離れず、どうしても思いはそこに行くというのである。そして、そのことをいつも想像してしまう。その想像から離れられず、その想像は自分の心の中で激しくなっていき、ついに実行に移すのである。実行した後、しばらくその思いは沈んでいるが、それは再び心の中に頭をもたげてくる。それは再び激しくなり、どんどん思いは強くなって、もう一度実行する。その繰り返しである。思いが心から離れないのである。まるで自分の想像に支配されているかのような罪の奴隷になっている、ということがその犯罪心理学の本の中に書かれてある。

       心の中で思うこと、心の中で考えること、自分について思うこと、それらは生活において実行されてしまうことになる。それで、私たちは心の思いを支配しなければ、生活を支配することはできない。それ故、ここでパウロは、私たちの心の思いはどうあるべきかについて話している。それを、バプテスマの意味を深く説明する中で説明しているのである。バプテスマの意味、そしてキリストの十字架と復活の意味を説明し、「キリストと共に死んでキリストと共によみがえったことをまず心にしっかりと把握しなさい」と言っている。そのことを本当に認識して把握するとき、深くそのことについて思いめぐらすとき、それは自分の生活に対して決定的な影響を与えるものとなる。それ故、くどいようだが、パウロが言わんとする意味を繰り返し考えて心に刻む必要がある。

     

    罪を許容することなかれ

       その思いについて11節で説明してから、12節で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」とパウロは言う。もうあなたは罪に対して死んだのだから、罪の支配に自分を委ねてはいけない。罪の支配に自分を委ねるということは、新しく生まれておらず、何も心に変化がなかったかのような思いに従って歩むことになるのだ。罪に従い、罪の思いに支配されるということは、何も変化がなかったかのように考え、その思いに従うような者になる。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」とパウロは言う。身体と心、その行ないを、罪にささげてはならない。「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」とパウロは勧める。

       「ささげる」という言葉を使うとき、それは確かな認識をもって行動において実行することである。頭の中で、心の中で、「私はこのような者です。だから、このようにします」と言って自分をささげるのである。ある意味で、毎日毎日繰り返しそのことを認識して、毎日自分を神にささげなければならない。しかし、クリスチャンではない人たちは、社会の様々な流れに押し流されてしまうしかない。自分は何者かについてそれほど深く思わないかもしれない。どこどこの会社の社員であるとか、誰々の息子であるとか、日本人なのだとかいう思いは、言われれば持つだろうけれども、深く考えて本当にそれはどんな意味なのだろうかということを認識するわけではない。ただただ流されてしまい、社会の罪の影響にも流されて歩むようなことになってしまいがちである。

       クリスチャンはそのようであってはならない。ただいろいろな罪の影響を受けて、思わず自分をささげてしまうというようなものではない。罪に対しては死んだ者である。そして、神に対して生きた者である。その事実を把握し、深く認識し、自分を神にささげるのである。そういう意味でクリスチャンは、自分は何者であって何故生きているのか、人生において何を求めているのか、自分の人生の意味や目的は何なのかについて、クリスチャンではない人たちよりもずっと深く明確な認識を持っていなければならない。そして、持っている筈である。

       それは、人間としてもっと大人として生きることでもある。子どもは、自分が何者かをそれほど深く考えないで、言われればするというような生き方をしている。成長して大人になると、だんだんと自分の目的と信念を持つようになる。そして、何のために生きているのか、この人生をどのように生きるのかについてもっと深く考えるようになる。自分が何者なのかを本当に認識し、その意味を深く把握し、こんどはそれに相応しい生き方をする。それが大人である。はっきりした自覚と認識をもって自分を日々神にささげていくのである。クリスチャンとはそのようなものであることをパウロはここで教えている。自分を、死者の中から生かされた者として、自分自身とその手足を義の器として神にささげるように勧めている。

       「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです」とパウロは言う。新しく生まれた者はもはや罪によって支配されることはない。その意味は、実際に自分が何者なのかを覚えて神に自分自身をささげて歩むならば、決して罪に支配されることはないということである。罪を全然犯さなくなって完全な者となったということを言っているのではない。「罪の支配」と「罪を犯し、悔い改めて、もう一度立ち上がって義の道を歩む」ことは、まったく違うことなのだ。「罪の支配」そして「罪の奴隷」という言い方をパウロはする。クリスチャンはもう罪の奴隷ではないとパウロは言う。「罪に対して死に、神に対して生きる者となった」ということは、本当に神の栄光のために生活を送ることができる者になったということである。罪の支配に対して死んだのである。

       「なぜなら、あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるからです」ということを結論として最後にパウロは言う。「罪は支配しない」ということは最後の「恵みの下にあるからです」というところにつながっている。「恵みの下にある」というところにパウロは戻っている。今まで、「このように思いなさい。このように自分を神にささげなさい」と言っているのは、「恵みの下にあるから」である。つまり、神が私たちを愛してくださり、主イエス・キリストが十字架上で私たちの身代わりとなって死んでくださり、私たちはキリストと共によみがえってキリストと共に生きている。それらはすべて神の恵みの話にほかならないのである。自分が一生懸命何かをしたから罪に対して死んだわけではない。

       私たちはただ主イエス・キリストを信じて、恵みを受けたのだ。新しく生まれたのは、神の一方的な恵みなのである。恵みを受けて恵みの下にあるので、主イエス・キリストと共に死んで主イエス・キリストと共に生きている者だということを認めることができるのである。これはすべて恵みによって与えられたものである。主イエス・キリストにあって生きているということを覚えて、自分を神にささげる人生を送ることができるのは、恵みの下にあるからである。私たちは罪人だから、どうしても罪を犯してしまう。失敗したり罪を犯したりしてしまう。しかし、恵みの下にあるので、自分の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じて、なおも自分を神にささげるのである。

       私たちは、いつも神の前にその歩みを続けることができる者である。約束された者となるために、新しいいのちの自由意志をもって日々努力するものとして神は永遠の救いを備えてくださったからである。その自由意志による努力というものは、私たちの努力によるものでなく、キリストにあって自由に与えられる救いにおいては不可欠なものである。だから、クリスチャンとして聖化し成長していくということは、決して義と認められることの出発点から離れるというような意味ではない。ローマ人への手紙を通して「義と認められること」の意味について深く教えられているが、自分が罪人であることを認めて、自分の罪を速やかに悔い改めて、神の御恵みを信じ、主イエス・キリストの十字架の働きを信じて、ひたすら義の道を歩むのである。そして、神は、信じる者をキリストにあって義しい者と認めて、その罪を赦してくださる。

       主イエス・キリストに対する信仰によって罪から解放されることが出発点である。しかし、「もうクリスチャン歴10年だから、もう罪もなく、罪を悔い改める必要もないし、神の御恵みを求める必要もない」ということはない。「義と認められる」というその出発点から離れるものではない。常にその出発点に立って罪を悔い改めて、尚もキリストを信じ、神の御恵みの下にある者として生きるのである。そのように歩むとき、神の恵みがどんなに大きくてすばらしいものかを覚えてその御恵みに対する感謝が深められるばかりである。その感謝の心が深められることによって、私たちの歩みも変えられて行くのである。もっともっと具体的に私たちの生き方は変わっていくことになる。感謝の心がどんどん深められていく中で、「私は、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえって、キリストと共に歩むものである」という自覚がもっと深められていくのである。

       律法の下にあるならば、律法は要求する。失敗すれば律法は裁く。「それはだめだ。なぜ失敗したのか。なぜ律法を曲げ、逆らうのか」と、律法は激しく律法の下にある者を攻撃して裁きを宣言するのである。「あなたは裁かれて死ななければならない。地獄に投げ落とされるであろう」という裁きの宣言をするのである。律法は裁きを宣言し、その律法の前に立つとき、私たちはそこに立ちおおせる者ではない。そこに望みはない。そこに赦しはない。律法の裁きの宣言の前で、人は無力で何も無し得ない。確信もなく、助けもない。律法の下にある者は、そういう意味で完全に断罪されて何一つ望みはない者なのである。

       ある意味で、私たちは律法の鏡を繰り返し繰り返し見て、律法の前に立って自分を吟味し、律法の下にある者であるかのようにその宣言を聞くけれども、律法の宣言が来るとき、「私はもう死んだのです。もう罪の奴隷ではない。私はもうキリストと共に十字架上で死んだのです。私はキリストと共によみがえりました。今私は、キリストにあって生きています」と応えるのである。そのような者に対して、律法の裁きの執行を要求することはできない。律法の裁きはその者を断罪することはできない。

       「それなら、私は律法を破ってもいいのではないか」と言うのか。とんでもないことである。「絶対にそうではない」とパウロは言う。神を愛し、隣人を愛するということは、キリストにあって生活することだからである。キリストが歩まれたように義の道を歩む者となったのである。私たちにとって、律法は、敵であるかのようにただ単に義の基準を宣言して「あなたはだめだ」といって裁きを要求するようなものではない。十字架上でキリストは私たちに代わって律法の要求に対して完全に応えたのだ。それゆえ私たちは、十字架上で律法の要求を完全に満たしたのである。それで、私たちはキリストと共に死からよみがえって、神の御国とその義のために生きることができる者となったのである。これらのことはすべて、恵みの下にあるがゆえに可能なのである。

       「恵みの下にある」ということの意味を、私たちの日常生活において考えなければならない。それは、私たちが繰り返し自分の罪を告白し、それらを悔い改め、神の恵みとその赦しとに信頼するということである。神は、毎週の日曜日に特別の交わりのために御自身の御前に出るように私たちを招いてくださる。それは、私たちが何者であるか、恵みの下にいるとはどのような意味なのかを思い起こさせられる時である。

       私たちは神のために生きるという献身の誓いを新たにし、自分自身を再び神に捧げるのである。そうすることによって、私たちは神の国とその義のために実を結ぶことができるようになる。聖餐にあずかる時、私たちは神の救いの憐れみが真実であり、自らを罪に対して死んでキリストにあって神に対しては生きていることを受け入れ、認識を新たにするのである。このすべてが「恵み」なのである。クリスチャンの生活には努力と参与が要求されているが、私たちの行為の本質は、ただ神の約束を信じ、その救いの愛に対する感謝をもって生活することなのである。

       以前にも説明したように、教会によっては礼拝の終りに会衆に対して「誰か主イエス・キリストを信じる者はいますか。キリストを信じる決心をした人はぜひ立ってください。前に出て来てください」と言って招きをする。カリフォルニア州に住んでいたとき、いろいろな教会の礼拝に出席してたが、ある千人ほどの教会ではそのために約40分も讃美歌を繰り返し歌ったりしてその招きをしていた。「誰かいませんか。今日、キリストを信じて受け入れたいと思う人は、いませんか。今日、罪を悔い改めて神に立ち返りたいと思う人は、いませんか」と招きの言葉を繰り返すのである。「三鷹福音教会ではどうしてそのような招きをしないのか」と、バプテスマ教会の人に質問されるかもしれない。

       確かに私たちの教会ではそのように人々を前に出て来るように招くことはしていないけれども、長老たちは聖餐式のパンと葡萄酒を皆さんのところに運ぶときに、それは神御自身が神の御恵みを与えているのである。立ち上がって前に来るように招くのではなく、皆さんはそこに座ってて、神が皆さんのところにパンと葡萄酒を届けてくださるのである。長老は神の代行としてそのことを行なう。そして、パンを食べ、葡萄酒を飲むとき、私たちは神に対する信仰を新たに告白するのである。聖餐式は誓いの儀式であって、バプテスマを新たにする儀式なのだ。そういう意味で、聖餐式を受ける度に義と認められるところに戻るのである。「私は罪人です。私は自分の内には何も力はない。望みもありません。あなたの御恵みによってのみ、私は救われます」ということを告白する。毎週毎週それを行なって、自己認識を深め、キリストにあって歩む誓いを新たにするのである。

       子どもたちもそのことを認識して、「主イエス・キリストが十字架上で死んでくださったので、私は救われます。キリストの十字架の他に救いはありません。私が救われたのは、キリストの御恵みによるのだということを覚えて、神に感謝し、キリストと共に歩むことを誓います」と告白して聖餐式を受けるのである。そのことを考えて聖餐式を受けるのである。聖餐式は、私たちがキリストに対する信仰を確固たるものにするように招くものであり、それは繰り返し繰り返し毎週行われる。聖餐式を受ける度に、キリストの十字架を覚え、そして「私は恵みの下に立っている」ということを深く認識するのである。自分が神の恵みの下に置かれて守られていることを覚えるとき、私たちは励まされて、正しい自己認識を持つようになる。キリストの十字架を覚え、自分に与えられた神の恵みを覚え、キリストにあって新しい者となったことを再認識して、聖餐式を受けるのである。

       クリスチャンはみな、その出発点に繰り返し繰り返し立ち返らされる必要がある。そして、恵みの下にあることに思いをめぐらし、神の恵みにあずかっている者であることを聖餐式を受ける度に覚える。それによって神に対する感謝の心も深められ、自分がクリスチャンであるという認識もどんどん深められ、その思いは私たちの毎日の生活に決定的な影響を与えるはずである。そういう意味で、毎週聖餐式を行なうことは「恵みの下にある」こと、そして「自分はキリストにあって生きた者である」という自己認識を深めるために非常に重大な儀式である。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年2月6日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章6〜10節

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