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    ローマ人への手紙6章20〜23節


    6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

    6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

    6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

    6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

    2000.03.05. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神の恵みの賜物

    6章20〜23節

       パウロは5章と同様にこの6章に置いても、アダムとエバの創世記のストーリーを明確に念頭においているようである。この箇所の「」という言葉は、聖書の中では常にそうだが、創世記のストーリーを指している。それは、神が人を実を結ぶものとして創造したからである(創世記1章28節)。創造のストーリーは、植物と人間が似たものとして創造されたと教えている。「時が来ると実がなる水路のそばに植わった木のようだ」と詩篇1章3節にもあるが、植物は人間の象徴なのである。

       もう一つ、創世記のストーリーを指している箇所がこの6章23節の言葉に見出される。そこでパウロは、「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言っている。贖いを必要とする今の世界を表わす「私たちの主キリスト・イエスにある」という表現を取り除くと、これは、園における人間の最初の状態を正確に描写するものとなる。

       しかしながら、創世記のストーリーはパウロの教えの背景であって、その内容ではない。パウロは、神が豊かな恵みと愛とを与えてくださったという事実に基づく聖潔の生活へと私たちを招いている。6章14節のところでパウロは、クリスチャンは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるのだということを説明してから、15節では「恵みの下にあるのだから罪を犯してもいいのか。絶対にそんなことはない」ということを明らかにしている。そして、16節では、どうして罪を犯してはいけないのかということを説明している。この15節からの段落には三つの基本的なポイントがある。これはとても大切なことなのでもう一度話しておきたい。

       第一のポイントは、人間はあくまでも奴隷であって、罪の奴隷なのか、あるいは義の奴隷なのか、道はその二つしかないということであった。人は皆、そのどちらかの道を歩んでいる。究極的に人は罪の奴隷として生きるか義の奴隷として生きるかという、たった二つの選択しかないのである。

       第二は、行き着く所も二つしかなく、歩んでいる道とその至る所とはつながっており、罪の奴隷として生きるならば、罪の道の結論に至るしかないということである。罪の道を歩んだのに、義の道の行き着く所に辿り着くということは有り得ない。シカゴ行きの飛行機に乗ったのに着いたらパリだったというようなことは有り得ない。歩む道によって、その行き着く所は定まっている。だから、どの道を歩んでいるかは非常に重大なことなのだ。

       第三のポイントは、罪の道を歩んで死に至る、或いは義の道を歩んでいのちに至る、この二つの道は並行していないということである。恵みの道と律法の道はまったく並行しているわけではない。律法の道では、人は自らが稼いだ報酬を得、恵みの道では、世界中の人間の功績をすべて集めても、それに勝る価値のある恵みの賜物を受けるからである。それ故、義の道を歩んでいのちに至るというのは「恵み」の話であって、報いや功績の話ではない。しかし、罪の場合、その報いは死である。罪の道を歩んで死に至るのは自分の行ないの“功績”によって得た結果であり、その行ないに相応しい結論なのである。そういう意味で、その二つの道は絶対に並行していない。

       ここで私たちはこの三つのポイントをしっかり覚えておかなくてはならない。19節でパウロは「だから、自分の身体を義のささげものとして神にささげなさい」と言う。後にローマ人への手紙12章1節の所でパウロは同じことを違う言い方でもう一度話している。このポイントはローマ人への手紙の中で何度も出て来ている。では、いつ自分を神にささげるのか。神に自分をささげるとはどういう意味なのか。先週そのことについて学んだけれども、本当は、毎日繰り返し繰り返し自分を神にささげることが大切なのであり、私たちは毎週の日曜日の聖餐式の時に自分の罪の告白をし、悔い改めてもう一度誓いをもって自分を神にささげているのである。

       20節に入る前に、「自分を神にささげる」ということについて少しだけ付け加えて話しておきたい。皆さんがいろいろな書物を読むときに同じような考え方にぶつかるだろうと思うが、昔中国で宣教したハドソン・テーラーという有名な宣教師がいた。また19世紀のイギリスではケズィックという特別なバイブル・キャンプのような集まりがよく行なわれていた。そして、シカゴにはムーディズ聖書研究所という聖書学校があって、そこから多くの本が出版されていた。そのケズィック、ハドソン・テーラー、ムーディズ聖書学校等から出てくるその聖化論の考えはこの箇所と深い関係がある。

       例えば、ハドソン・テーラーの経験の場合、彼はクリスチャンになった直後に自分の人生が全く違うものとなり、成長したクリスチャンとして生きる者になったという。彼は自分の罪と真剣に戦い、自分が罪人だということを感じ、足りない者であることを深く感じていた。あるとき、彼は必死に神に祈った。その祈りから立ち上がったとき、自分は罪から解放されて自由になったという確信に満たされ、一気に違う次元に入り、その時以来もう罪との戦いから解放された(というよりは全く違う次元の戦いになった)と告白している。祈りの結果として、聖さが賜物として与えられて、自分は一気に成長したと証ししている。

       ハドソン・テーラーの証しを疑うことはしない。恐らく彼は特別にそのような経験をしたのであろう。しかし、それを聞いたあなたも、その例を規準にしたり、そうすることを他の人々にも勧めるなら、それは問題である。聖化論については、ケズィックの考え方、そしてムーディズの考え方などがある。自分を神にささげるなら、一気に成長してその時から罪の戦いは完全ではなくても、たいした戦いではなくなる、と考えている。「もう自分は神のものだ」という意味でそのように考えるわけである。

       ウェスレーの伝統の中にも似たような考え方がある。ウェスレーの場合は「完全な者となる」という考え方になる。しかし、ここでパウロが「自分を神にささげなさい」と言うとき、それは自分の人生の中で一度だけの大変化というような特別な経験について話しているとは思えない。自分を神にささげるということは、大人になってから主イエス・キリストを信じた時の信仰告白の中にもう含まれていることである。そして、後のクリスチャン人生を歩む中で何度も何度もそのことが繰り返されるのも極く自然なことなのである。それは自然なことであり、至極当然なことなのだ。私たちは罪人なので、すぐにそこから離れてしまいがちである。神を中心にして生活を送っているつもりでも、頭を横切る色々な罪の思いが邪魔になって、その誓いの心から離れてしまいやすいものである。それ故、私たちは繰り返し心を新たにして自分をささげなければならないのである。

    人によっては、特別な経験によって一気に大きく成長することも無いとは言えない。そういう人間が存在することに異論を唱えるつもりはない。人によって成長の度合いや成長の仕方は異なるし、経験も各々ずいぶん違うものである。そんなことは少しも問題ではない。しかし、それを「一生一度だけの経験」というように考えたり思い込んだりすることがないように気を付けなければならない。そして、そのような考え方に出会うことがあっても、別に相手の経験を疑う必要もない。ただし、「それが規準ではない」ということだけはよく知っておく必要がある。それだから、私たちは聖餐式を受けるときに、本当に神に自分をささげることを繰り返し繰り返し行なっている筈である。そのことを是非とも覚えていただきたい。

     

       20節でパウロは、「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました」と言っている。つまり、罪の奴隷は自由の道を歩むことはないというのである。その二つの道は全く違う道なのだというポイントを再び話しているのだ。罪の奴隷の道なのか、義の奴隷の道なのか。たった二つの道しかない。「罪の奴隷として生きたとき、義から自由になった」という言い方は少し変に聞こえるかもしれないが、クリスチャンではない人たちは罪の道を歩むときに決して本当の意味での義しさを行なってはいないということである。

       原則的にその二つの道しかない。誰でも、そのどちらかの道を歩んでいる。それは全く正反対の道である。全く違う方向、違う目的地に向かっている。そのことをパウロは再度強調して話しているわけである。「本当の義しさを行なってはいない」ということについては、もう皆さんは十分にわかっていると思うが、ここで繰り返し言っておきたい。本当に行ないが正しくなるためには、まず、表面的なところにおいては神の律法に従った行ないでなければならない。そして、行ないの動機と心の態度について言うならば、それは、神を愛し隣人を愛する心でなければならない。また、その行ないの目的は、神の栄光を表わす目的でなければならない。それが本当の義しさの行ないである。

       愛をもって、神の栄光を求めて、神の律法の命令を守る。それが本当の義しさである。その規準に照らせば、心において自分の栄光を求め、自分を中心にして考えたりしているならば、表面的には善人で良いことを行なっているようでも、それは本当の義しさではないということがよくわかるのである。クリスチャンではない人たちの正しさは無いわけではない。表面的に良いことを行なっていないわけではない。しかし、彼らがそれを行なっているのも神の御恵みなのだということも覚えなければならない。

       神の栄光を求め、神を愛し、隣人を自分と同じように愛して、義しさを行なうことこそ本当の義である。その三つのことが全部揃っていなければ、本当の意味での「義しさ」とは呼べないのである。その規準に立つとき、二つの道の区別は明白なものとなる。パウロの意味は、ローマ人が罪の奴隷であったとき、彼らは義の世界の全く外にいたということである。

       21節の日本語新改訳では「その当時、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です」となっている。原文では、「その当時、どのような実を得たでしょうか」という質問になっている。そこで質問は切られており、「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから」の部分は質問の中には含まれていない。パウロは彼らの代わりにその質問に答えて「今、あなたがたが恥じているようなものではないか」と言っているのである。即ち、「その当時は、どういう実を得たのか。それは、今あなたがたが恥じているようなものではないか」とパウロは言っている。

       クリスチャンになる前には、どういう実を結んだのか。クリスチャンになってからその当時の実を振り返って見れば、それは実に恥じるものばかりではないか。ギリシャ語原文から見ても、内容の意味から見ても、この箇所の質問と答えをそのように区別して理解すべきだと思う。ここで「どういう実を得たのか」「恥ずかしいものばかりであった」とパウロが言うとき、勿論聞いているローマ人や異邦人たちのほとんどが大人になってからクリスチャンになった人たちばかりであったから、クリスチャンになる前の自分とクリスチャンになった後の自分との区別ははっきりしていた。

       クリスチャン家庭の子どもたちは幼い時から教会に来ているので、「昔、私はひどい罪人だったが、今、私は変えられてクリスチャンになった」というような区別はなかなか持てないだろう。しかし、このローマのクリスチャンの殆どは大人になってから救われた人たちであった。そして、殆どが異邦人である。異邦人は偶像礼拝の生活を送っていたので、その生活には偶像礼拝が伴う諸々のことがあった。今それを思い起こせば恥ずかしいとしか言いようがない実を得ていた。そのことをパウロは彼らに思い起こさせている。罪の道を歩む者は、恥の実を得ている。しかし、その道を歩んでいる間は、恥とは思わないのである。

       クリスチャンになってから今までの生活を思い出してみるときに、「そのすべては恥でしかない」ということがよくわかるのである。今、パウロはローマの人たちに、「どういう道を歩むべきなのか」ということを話しているのだ。今までは、恥ずかしい生活をしてきた。クリスチャンになった今、「罪の道を歩んでもいい」と、どうして言えるのか。その恥ずかしい歩みを捨てたいのではないか。続けてその恥じている歩み方をしてもいいと思う筈はない。恥ずかしいと思うような生活を捨てて、真に喜べる生活を送りなさい。自分を神にささげて、義の奴隷として生活しなさい。それがポイントである。

       罪の生活を続ける者の行き着く所は死である。その道を歩むなら、必ず死ぬ。このことはパウロの手紙の中で繰り返し言われていることである。そして、繰り返し言わなければならない理由もある。つまり、罪人はすぐにそのことを忘れてしまうからである。どうしても「罪を犯しても大丈夫」というような曖昧で漠然とした思いに陥ってしまいやすい。それだからパウロは、「絶対にそんなことはない。罪の道を歩めば死ぬのです」と断言するのである。

       この21節の言葉についてのカルヴァンの注解は適切である。カルヴァンは次のように解説している。「なぜなら、信仰者らは、キリストの御霊と福音の説教との照明を受けはじめるや、たちまち、キリストの外にあったところの、己が過ぎ去った生涯のことごとくが、呪われたものであったことを、進んで率直に認め、自らの言いわけにつとめるよりも、むしろ、己れ自身を恥じるからである。あまつさえ、彼らは、自らの貧しさと不面目とのこの記憶を呼び起こすことに常に立ち帰り、これによって、恥ずかしさに打ちのめされ、己れ自身に恥じあわてて、主の御前にいよいよ真実に心からへりくだるのである。・・・彼は、我々が己がうちにあるかくも大いなる汚れを認めないがゆえに、いかに己れ自身の盲目的な自己愛に汚され、罪の暗黒に取り囲まれていたかを教えている・・・。そこには、我々の目を開いて、この肉のうちに隠されている汚れを見抜かせることのできる主の光は、ただの一つもない。そのようなわけで、自己自身を嫌悪し、己が悲惨に恥じあわてることをまさしく知ったならば、そのとき、人は真実に『キリスト教哲学の第一歩・また基礎において成長した』と言うことができるのである」と言っている。このカルヴァンの説明は的を得たものである。

     

    聖潔に至る実を得る

       続いて22節でパウロは言う。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです」と。罪から解放された者は、「神の奴隷」なのである。ここのギリシャ語の言い方を見ると、今まで「義の奴隷」とか「服従の奴隷」とかいう間接的な言い方をしていたのが、ここでは「神の奴隷となった」という明確で直接的な言い方をしている。ギリシャ語では「神の奴隷」という言葉が強調されている文章になっている。つまり、「神の奴隷」が基本なのであり、それだから「服従の奴隷」とか「義の奴隷」という言い方もできるというものである。

       私たちは、神御自身の奴隷となった。そして、ここで「奴隷となった」というのは誇りに思う立場であって、低い卑しい位置に置かれたとか、恥じるような者になったということではないのである。罪から解放されて、栄光なる神の奴隷となったのである。神の奴隷となったということは、神のために生きる者となったということなのだ。もはや自分のために生きるのではない。それだから「聖潔に至る実を得た」と言うのである。「聖潔」という言葉は英語では"sanctification"と訳される言葉であり、聖くなっていく過程の全体を指し示す言い方である。日本語訳もその点を明らかにしてくれていると思うが、クリスチャンとして実を結ぶことがイコール「聖くなる」ということではなく、「聖潔に至る実を得た」のである。実を結ぶことによってもっと聖潔になっていくという話なのである。

       「聖潔」とか、「聖くなっていく」とか、「クリスチャンとして成長する」ということは、もっと広い意味のあることであって、その中で実を結んでいくということが一つの大切なポイントなのである。神の奴隷として生き、義しさの道を歩むことによって、私たちはいろいろな意味で「実を結ぶ者」となる。実を結ぶこと、それは聖潔全体の中の大切なところの一つなのだ。

       「実を結ぶ」という言い方をするとき、私たちがまず思い出す箇所は創世記の2章であると思う。神はアダムを創造し、実を結ぶように命令してくださった。アダムとエバにとって、実を結ぶことは生きる目的であったのだ。それは生きることの意味であった。実を結ぶことによって神の栄光を表わすのである。私たちは実を結ぶように創造された。それで、私たちの人生にあっての最も大きな問題の一つは、「どういう実を結んでいるのか」ということである。「聖潔に至る実」を結ぶのか、それとも「死に至る実」を結ぶのか。どちらなのか。それが私たちにとっては非常に重大なことなのだ。

       この21節と22節の「実を結ぶ」というところも、「死に至る実を結ぶ」ことと「聖潔に至る実を結ぶ」というのは並行していない言い方であることに注目しなければならない。「死に至る実を結ぶ」ことと「いのちに至る実を結ぶ」という対比で書いてはいない。実を結ぶことによって永遠のいのちを得る、ということではないのだ。実を結ぶことによって聖潔を得、聖くなっていくことを得るのである。自分の行ないによっていのちを得るということではない。しかし、義の道を歩まなければ、義しい実を結ぶことはできない。義しい実を結ぶ生活を送らなければ聖潔を得ることはできない。聖潔にならなければいのちには至らない。そのような論理的なつながりは事実である。後でまたそのところに戻るが、まずこれは並行した言い方ではないことに注目してほしい。

       それ故、どういう実を結んでいるのかということについては、アダムとエバのところに戻って考えなければならない。人間とは何なのか。いったい人間は何のために生きているのか。私たちは、与えられたこの短い人生において、いったい何をしようとしているのか。そのところに戻るのである。「実を結ぶ」ということが生きる目的であって、それは創造の目的である。「自分が結んだ実がみな恥じるようなものばかりだ」というのは、神を信じない者たちが神の御前に立つときに最終的に表わされてしまうものである。彼らには、神のために結んだ実は一つもない。神の聖さの前に立つ時、クリスチャンではない人たちは「恥ずかしい」という思いしかない。

       神の栄光を求めて、その御名のために結んだ実を持つ者は、その実を喜んで神にささげることができる。その対比がここに提示されている。いったいどんな実を結んでいるのか。そのことをパウロはローマの教会の人たちに尋ねており、そして教えている。罪のために生きるのか、それとも義のために生きるのか。神のために生きるのか、それとも自分自身の欲のために生きるのか。その話をするとき、それは「」の話につながるのだ。そういう意味で、これは非常に大切なことなのである。

       このことを、とても簡単な例えをもって考えてみたい。ローマの教会の人たちはまだ救われて間もない若いクリスチャンたちであったと言える。彼らが罪と戦っている様子については後に14章でも出て来る。それと似た例えになると思うが、私は1974年に神学校に入った。その神学校の隣には大学があった。クリスチャンの大学生たちが最も真剣に考えていたことといえば、「これを行なうと罪になるのだろうか。ここまでなら良いのだろうか。ここまでなら罪にはならないのではないか。あれをしても罪になるのか。ここまでは良いが、これ以上は罪になる」とか、そのような話ばかりであった。それでは、どこまでならよいのか。

       「ある線を越えたらだめ」と考えたりするので、その線がどこにあるのかばかりを考えてしまう。「実を結ぶためにはどうしたらいいのか」という質問がなぜ一つも出てこないのか。そのことを大学生たちに訴えたものである。「ここまでなら行なってもいいのか」という話をするとき、彼らの物の見方が間違っているのである。何のために生きているのかをまず問うべきである。実を結ぶためにはどうしたらいいのかを尋ねるべきである。「実を結ぶために、私はどのように時間を使えばいいのか」「実を結ぶために、私はどんなことをしたらいいのか」「実を結ぶために、このことをどうするか」ということがポイントなのだ。

       そこでパウロは、「恵みの下にあるのだから、私たちは罪を犯してもよいのではないか」と聞く者たちに対して、「あなたがたは、どんな実を結んでいるのか」と答えるのである。自分の人生をどのように神にささげるのか。実を結ぶことについて、あなたはどう考えているのか。それが問題なのだ。「これをしてもいいのか。あれをしてもいいのか。ここまではしてもいいのか」ということは問題ではない。何のために生きているのかが問題なのだ。だから、実を結ぶ話になっているわけである。

       人間は何のために創造されたのかというところに、私たちは連れ戻されるのである。私たちは聖潔に至る実を結ぶ者として生きるのである。そして、「その行き着く所は永遠のいのち」である。「神のために私は実を結びます」という心を持って歩む者には、最終的に永遠のいのちが与えられる、とパウロは教えている。その人が神のために何か素晴らしいことをしたから永遠のいのちが与えられるのではない。それは、その道を歩む者が自然に行き着くところなのである。神の奴隷となってどんな実を得たのかというと、「聖潔に至る実」を得たのである。

     

    自由

       聖書の中で自由にされるとは罪から自由になることである。これが真の自由である。自由とは、私たちが神の創造において意図されたものになるという意味であるからだ。その逆の、罪と恥への束縛は、明らかに最悪の類の奴隷状態である。ローマ人らがキリストにある自由を、勝手気ままに罪の中に生活し続けることだと考えるなら、それは、考え方において全くおかしな矛盾を抱えることになり、神の恵みによって解放されたはずのあの奴隷状態に再び戻るように彼らを導くものになるであろう。真に自由な人は神が人を創造したその目的に叶って実を結ぶものである。

       パウロがここで、実を結ぶことを聖潔と等しいものとはせずに、「聖潔に至る」と述べていることに注意しなければならない。その区別は微妙かもしれないが、それは、一方で、「聖潔とは、実を結ぶ以上のことだ」という事実を指し示し、他方で、「実を結ぶことなしにキリスト者として成長することはない」という事実を指し示すのである。「実を結ぶ」ということは、通常私たちが神の御国のために行なう働きとその結果のことだと考えてよいと思う。もしそれがパウロの言わんとしていることであるならば、それはマタイの福音書6章におけるキリストの教えに似ていることになろう。

       クリスチャンとしての成長について考えるとき、外からの成長と中からの成長の両方がある。「良い行ないをすることによって聖潔を得る」というのは、心において成長することでもある。神に対する畏れにおいても、信仰においても、隣人に対する愛においても成長する。やるべきことを積極的にする。神が「そうしなさい」と命じてくださったことは、100%その意味がわからないとしても、神を信じているので、喜んでそれをするのである。行ないたい気持ちがそれほどないとしても、また気分がよくても悪くても、「これは神の命令だから、神を愛するゆえに私はこれを行ないます」と自分に言い聞かせて、良い実を結ぶことによって自分の心もそれに影響されて成長していくのである。そのようなことがこの箇所からも読み取れるのではないか。

       マタイの福音書6章21節で、主イエス・キリストは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言っておられる。通常人々は誤解してこのことを考えてしまうものである。つまり、「心があるところに、あなたの宝も行ってしまう」と思っている。キリストはそう言ってはいない。「宝のあるところに、心が行ってしまう」と言っているのである。だから、自分の宝をどこに置くのかということを、神を畏れる心をもって考えて行なうなら、心もだんだんとついて来るようになる。人生の宝を、心が宿るべき所に投資することによって、自らの心をも導くことができる。

       自分の心を完全に支配できなくても心配しなくともよい。間接的に支配する方法もある。「...もある」というのは、詩篇の中でダビデは神が自分の心の聖潔を守ってくださるように祈っているし、心が正しくあるように導いてくださることを祈っている。また、自分の罪を告白して自分の心をきれいにすることについても書いてある。箴言にも、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とある(4章23節)。

       だから、両方のことがある。心を支配することによって自分の生活を支配することができるようになる。また、生活を正しくすることによって、心を支配することができるようになる。神のために実を結ぶよう働くとき、それは私たちの心の中をより聖いものとするのである。両方のアプローチによって、クリスチャンとして成長していくのである。よい実を結ぶことによって何を得るのかというと、「聖潔を得る」のである。そして、その聖潔を求めていく道の行き着くところが「永遠のいのち」なのである。

     

    いのちの木

       23節の最初に「罪から来る報酬は死です」とある。罪によって与えられる報酬というよりは、むしろ罪が与える報酬は「」であると考えた方がよいと思う。ここでは、罪をあたかも人格あるもののような表現を用いて、「罪が与える報酬は死だ」と言っている。罪の道を歩めば、その受けるべき報酬を受けることになる。律法の下にある状態とはそのようなものである。律法の下にある状態とは、即ち功績のことである。「何が相応しいのか、自分の力で何を得たのか、自分の受けるべき分は何なのか」ということになるが、それはすべて律法との係わりの話である。

       律法の下にある者は罪に支配されていて、罪が払ってくれる報酬は死以外の何ものでもない。しかし、神の恵みを信じてその恵みの道を歩まなければ神とは何ら契約関係にはない、ということではない。既に説明したように、罪人は律法的な契約関係にあるのだ。そういう意味で、「アダムか、キリストか」というような対比がローマ人への手紙5章にあるが、アダムにある者も神との契約関係にある。彼らは創造の契約にある者である。アダムにある者は、アダムの罪をともに持つ者として神の律法の下にあり、罪のゆえに神に裁かれるという関係にある。それはまさしく契約関係である。キリストにある者は恵みの下にあって義の道を歩んでいる。その対比が5章のところにある。

       その意味で、「律法の下にある」という言い方は、人間の堕落を表わす言い方である。そして、前にも言ったように、ウェストミンスター信仰告白や大教理問答の中には、エデンの園における状態は「行ないの契約」もしくは「業の契約」だという考え方があって、その考えは間違っているということを既に説明した。「行ないを正しくすればいのちが与えられ、罪を犯すなら死ななければならない」という契約関係にあると解釈するので、「律法的な契約」「行ないの契約」或いは「業の契約」(「いのちの契約」とも言う)という言い方をするわけである。しかし、この23節でパウロは「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言っているのである。いのちは功績の報いではなく、賜物なのである。

       アダムが永遠の祝福を与えられるほどの功績を得ることができなかったのは確かである。神とアダムの関係が親子関係であったことを理解すると、功績という概念自体が全く道理に合わないのである。ところで、「賜物」という言葉はギリシャ語の“カリスマ”という言葉である。カリスマとは、賜物のことなのだ。ここでパウロが話していることは、エデンの園のアダムとエバの状態と同じものである。但し、私たちの場合は罪人になっているので、キリスト・イエスにあってのみ永遠のいのちを得ることができるということなのである。しかし、神が与えてくださる賜物は最初からいのちである。

       エデンの園のアダムとエバの状態を思い起こしていただきたい。神はアダムとエバに命令を与えてくださった。一つには、「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という命令を与えた。それは、厳しい試練を与える命令だと思われている。しかし、どうやって功績という概念がここに入ってこれるるのだろうか。ただ盗人にならないからといって、どんな功績が生じると言うのだろうか。アダムの行ないがいのちの祝福を稼ぐ方法だという概念自体が全くおかしいのである。

       実際に創世記のストーリーを開いて見るときに、議論を越えて問題は明白なものとなる。神は「どの木から取って食べてもよい」という命令をアダムとエバに与えていた。そして、園を守って実を結ぶ生活をするように命じられた。その善悪の知識の木のすぐ横に神は「いのちの木」を置かれた。名前のある木は園の中央にあるその二本の木しかないのだ。いのちの木から取って食べてもよいのか。はい、勿論食べてもよいのである。何かのテストを受けて合格しなければいのちの木から取って食べることが許されない状態だったのだろうか。いいえ、そうではない。

       “行ない(業)の契約”の考え方とは、いわばその“実習期間 (probation)”を正しく過ごさなければだめだという考え方なのである。エデンの園に置かれたアダムとエバは、その実習期間(或いは試行期間)を正しく乗り越えるならば「いのち」を、試験に合格しなければ「死」を、ということで試験が与えられたと考えるわけである。そうではない。取って食べてはならないという善悪の知識の木はあるけれども、「いのちの木の実からもまだ取って食べてはならない」という命令はない。つまり、「いのちの木の実を取って食べなさい」ということだったのだ。いのちは彼らの目の前に置かれ、彼らは自由にそのいのちに与るように招かれていた。二本の木だけに名前が付けられており、「こちらを食べてはならない」と言うとき、「そちらを食べなさい」と言っているのは明白である。

       これは理解に苦しむような話ではない。子どもでもわかる話なのだ。部屋の中に甘い物が沢山あって、その真ん中に最高に美味しいお菓子が二つあるとしよう。子どもに、「右のお菓子は食べてはだめですよ」と言えば、それは「左のなら食べてもいいんですよ」という意味に決まっているのだ。もちろん子どもは「だめ」と言われると、その禁じられた方を取ろうとするかもしれないが、命令を守ってくれるなら、その左のお菓子を食べる筈である。本当は、そっちの方が禁じられた方よりもずっと美味しいものなのだ。一方だけ取ってはだめと言われたら、禁じられていない他の中からまず一番良い物を取る筈である。三番目に美味しそうな物や四番目に美味しそうな物をまず取って食べることはしないだろう。中には、一番美味しい物を最後まで取っておくような食べ方をする子もいるかもしれないが、それとは別の話である。

       誰でも、禁じられていない物の中から最もよい物を取って食べるのが自然であろう。とにかく神の命令は、「いのちの木の実を、どうぞ取って食べてください」という意味なのである。そのために、その二本の木だけには名前が付けられて一緒に置かれている。禁じられている物に目を向けるとき、禁じられていないもっと良い方の木に目を留めるためである。それは神の命令を思い起こさせて、正しい方を取るように招いているのである。神からの賜物はいのちである。エデンの園の時もそうだったのだ。神は、「どうぞ、いのちの木から取って食べなさい」と招いてくださったのである。

       これがアダムの罪をこれほど罪深いものとしているものなのだ。アダムは、神からの賜物としていのちを受けるか、或いは神から離れて知識を手に入れるかの選択をするときに、そこで自らをある種の神にして、おそらく同時にいのちをも勝ち取ろうとしたのである。園における唯一の“試験”とは、アダムが試した試験であった。彼はエバを使って神の言葉を試したのである。その実を食べたらエバは本当に死ぬだろうか。アダムは彼女がだまされるのを黙認することによって何が起こるかを見ることができたのである。エバは食べた。そして、何事も起こらなかった。そこでアダムは自らも食べようと決心し、神が禁じたものを盗むだけでなく、神が与えようとされたいのちの恵みの賜物を拒むことまでしたのである。

       アダムとエバは神に逆らい、善悪の知識の木の実を取って食べたその時、神は「彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と言って、いのちの木から食べることができないようにされたのである(創世記3章22節)。それで、彼らはエデンの園から追い出された。それは、彼らがいのちの木からも食べて永遠に神に逆らう者にならないようにするための措置であった。その反逆が最終的な反逆とならないようにエデンの園から追い出したのである。それ故、「試された結果としていのちが与えられる」という話では決してないのである。いのちを提供しておいてから「善悪の知識の木からだけは食べてはならない」と命じられたのである。

       いのちを選ぶようにと、神は招いておられるのだ。反対にサタンは、いのちではなくて、罪を選ぶように招いた。アダムとエバの目の前には、いのちの招きと、サタンの招きがあったが、アダムとエバはいのちの招きを拒絶してサタンが提供した招きを選んだのである。それ故パウロはコリント人への第二の手紙11章のところで、蛇の悪巧みによって欺かれたエバの罪を「真実と貞潔を失う」という言い方で表現している。つまり「姦淫」と呼んでいるのだ。それは偶像礼拝であり、姦淫なのだ。アダムとエバは、神御自身が与えてくださるいのちを拒絶して捨て、サタンを自分たちの主人として選んだ。彼らは、神御自身の賜物と祝福を捨てる道を選んだので、エデンの園から追放されたのである。

       だから、エデンの園の中にいる時の神との関係を考えるなら、最初から祝福が与えられていたのである。エデンの園は至聖所であり、神とともに住まう所であった。美しく、まったく汚れがなく、食べ物が豊かで、神は寛大に何でも食べてよいと言ってすべてを与えてくださっていた。いのちの木の実を含む最高の物が食べ放題だったのだ。二本の木は、禁じられる一本がある故に、禁じられていない方を選んでいのちを選ぶように招かれていたのは明白である。祝福の上に祝福が与えられており、更に祝福を得るように招かれていた。そこには「行ないの契約」とか「律法的な契約」という話は何もないのである。恵みのみであった。

       但し、「恵み」という言葉には罪からの贖いの意味が含まれているので、恵みという言葉を使うかどうかについて論議する人もいる。しかし、祝福のみであったのだから、律法主義的な意味合いはその中にはない。「試されている期間だった」とかいうようなものではない。祝福の中にあってアダムとエバは神を裏切り、サタンの道を選んだので、追い出されたのである。

       今の私たちの状態は、そういう意味でアダムとエバと似ている。神は私たちを祝福して招いてくださっている。「どうぞ、いのちの木の実を取って食べてください」と招いておられる。私たちにとって、その招きは聖餐式において表わされている。私たちは、まことの神を礼拝し、神が与えてくださる食事を喜んで受けるとき、私たちはいのちの木の実を食べているようなものである。堅忍とは、ただ神を信じて神が与えてくださる永遠のいのちの木の実を喜んで受けることである。それが堅忍の本質である。しかし、その心があれば、感謝の心もある筈なので、義の道を歩むし、良い行ないをする筈である。そして罪を恥じている筈である。

       神は、賜物として永遠のいのちを私たちに与えてくださり、それは礼拝においては特に重大なことである。モーセの十戒の中にも出て来ることである。モーセの十戒の中では、神を愛しているか愛していないのかについて話すとき、盗むことについて話すのではないし、殺すことでもないし、姦淫することでもないし、むさぼることでもないし、父と母を敬うという話でもない。神を神として信じるかという話でもない。神を信じる信仰を礼拝において表わすことについて話しているところで、「偶像礼拝は神を憎むことである」と言っているのである。

       当然一番目の命令と二番目の命令は一緒でなければならないが、偶像礼拝は神を憎むことであり、正しい礼拝は神を愛することである。だから、私たちは、神を愛するというなら、神に招かれて神の至聖所に来て神を礼拝するとき、神から差し出されるいのちの実を食べて、神に感謝をささげるのである。それは正しい礼拝の中心である。

       今日の私たちの状況は、一つの部分において創造されたときのアダムと異なっている。神は私たちにいのちの恵みの賜物を提供しておられるが、今や神はキリストにあってのみその賜物を提供することができる。それは罪を犯す前のアダムの状況とは違う。なぜなら、我々は罪人であり、いのちの木から直接取って食べることは許されないからである。神なしにいのちと知識を手に入れようと試みて、自らのために稼いだ報酬を受け取ることを自ら選んではじめて、人は自らの正当な支払いを受けるのである。それは「」である。

       先に21節のカルヴァンの注解を見た。「今まで行なってきたことはみな恥じることばかりであった」とあるが、本当のクリスチャンは自分のことを恥ずかしいと思うはずであるとカルヴァンは言っている。カルヴァンが語っているキリスト教哲学の第一歩・また基礎は、私たちが正しい“自尊心”を持っているかどうかというようなこの世の考え方やその関心事とはどんなに異なっていることだろう。その考えは現代の考え方とは全然違うものだ。「恥ずかしいとか、自分は足りないとか、自分は罪人だとか、神の御前で私は汚れた者にすぎないとか、そんな思いを持ってはならない」と、現代人は考える。「もっと自分に誇りを持て」と彼らは言う。教育において特にそのことが強調されたりする。「自己のイメージを高く持たなければならない」と言う。

       カルヴァンの言っていることは、そのような考え方とはまったく逆なものである。「子どもたちを誉めなさい」と現代の教育者たちは口揃えて言う。「自分の能力を高く評価しなさい。自分が行なったことに誇りを持ちなさい」と現代人は言う。親は子に対していつも「お前はすばらしい」と言いながら教えなければならないのだと主張する。神を畏れるカルヴァンはそうは教えていない。「本当に自分たちは罪人なのだ」ということを子どもたちに教えて理解させると同時に、「自分は神の似姿だ」ということも理解させなければならないのである。自分は罪人だという認識を持つとき、ただただ落ち込むのではなく、悔い改めて神の御名のために実を結ぶ生き方をするように励まされ、導かれるのである。

       「自分は罪人だ。だめだ。もう、だめなんだ」としか思わなければ、それこそどうしようもない。反対に、全然罪の意識が無くて、自分が罪人だということがわからなければ、いつか神の取り扱いによって諭されるであろう。その両極端とも正しいあり方ではない。カルヴァンが言っているそのポイントは非常に面白いと思った。

       もう一つ興味深かったのは、そのカルヴァンの注解書の脚注にあった「リア王」の話である。土曜日の研究所のクラスで子どもたちに「リア王」のビデオを見せたりしたが、リア王の話全体はクリスチャンではない時代のイギリスの話である。リア王の物語を通してシェークスピアは、クリスチャンになる者の姿を描写しているのではないかと思われる。そのすべてをここで説明する時間はないが、シェークスピアの「リア王」の背景にはネブカデネザルの話があると思われる。ネブカデネザルは、偉大なバビロン帝国を自分の力で築いたと豪語したそのときに狂ってしまった(ダニエル書4章)。神が預言した通りのことである。狂った後に、ネブカデネザルはへりくだった心を持つようになり、いと高き方が国々を支配し、天をも地をも、御心のままにあしらうということを知った。そして、悔い改めて神を賛美したのである。

       リア王も同じような物語になっている。最初の頃のリア王は非常にプライドの高い人間であった。プライドが高いとき、彼は本当に狂っていたけれども、その狂った状態ははっきりしてはいなかった。そして、コーデリア、リーガン、ゴネリルなどの問題があって、リア王はコーデリアを追放してすべての相続をゴネリルとリーガンに与えた。それによってリアは本当に狂ってしまう。そして、自分の愚かさにやっと気が付かされて、自分を憎むようになる。自分を憎み、自分の愚かさを深く感じた時に、はじめて人間として成長したのである。

       現代人にはこのような考えはない。「自分を憎む」と言うなら、「あなた、頭がおかしいんじゃない。精神病じゃないの」と言われかねない。しかし、カルヴァンやシェークスピアの考えの方が正常なのだ。正しい意味で自分の罪を憎む方が正常なのである。人間は罪人だからである。自分を憎むばかりで何も愛さないというなら、それもまた極端で歪んでいる。罪に汚れた自分を憎んで、キリストを愛する者こそ、正常なのである。リア王は、自分を憎む時になってはじめて正気になり、コーデリアに会うときに赦しを求めたのである。そして、赦しを求めたとき、本当にへりくだった心をはじめて持った。

       へりくだった心を持ったリア王は、やがて戦争に負けて捕らわれの身になるが、そこでクリスチャンになった者としてリア王は、コーデリアに「あなたが祝福を求めるとき、私はひざまづいてあなたの赦しを求めます」と言っている。へりくだって自分の罪を悔い改めたリア王は、今までの罪の道をまったく忘れて「もう私は違う者となった」と告白するような話ではない。「私は、ひざまづいて赦しを求めます」と言うのである。自分は罪人で、愚かで、罰を受けるべき者であることを認めている。そこまでリア王はへりくだって、神を求めた。リア王の話の中で大文字の「神」は一回しか出てこないが、それがその箇所にある。まだ、自分を神にささげるというところまではいかないが、本当に心へりくだった者となった。

       私たちが本当に自分の罪を憎み、罪を悔い改めて、神に自分をささげるとき、この世は何一つ私たちに害を与えることはできない。この世にあっては、刑務所でもいいし、王座でもいい。それは私たちにとって大したことではない。私たちは神の御前にへりくだって、とにかく神に目を留めて、義の道を歩むのである。カルヴァンが言っているように、自分を憎むことは正常に考えるための出発点なのである。

       自分を正しい意味で憎むなら、本当にへりくだる心を持つようになる。へりくだった心を持つことは本当の自由を持つことなのだ。それがいのちの道の歩み方である。これらの話は、私たちの理解の助けとなるものだと思うのである。実を結ぶためにへりくだった心を持つ。自分の罪を憎んで神の御国を愛し、神の御名を愛するのである。神御自身を求めるのである。そのように生きる者には真の自由がある。

       神が与えてくださる賜物は、主キリスト・イエスにある永遠のいのちである。最初からそうであったし、今も、将来もそうである。神は「いのち」を賜物として私たちに与えてくださる。私たちは自分の功績や行ないでそれを得ることはできない。自分の力で得ることができるのは「」のみである。罪に仕え、罪の道を歩み、「死に至る」のである。「いのち」は、神の賜物である。

       聖餐式はそのことを表わすものである。聖餐式のパンと葡萄酒は、キリスト御自身を表わすものである。聖餐式を受けるとき、神御自身がその代表を通して私たちにキリスト御自身を与えてくださるのだ。パンを食べ、葡萄酒を飲むとき、私たちはキリストを受けるのである。主イエス・キリスト御自身が、まことのパンであり、まことのいのちの木の実である。私たちは主イエス・キリストを賜物として受けるのである。これは神に対する信仰であり、堅忍の中心である。私たちの良さとはどれほどのものだろうか。どれほど聖いのだろうか。どれほど素晴らしいのだろうか。否である。私たちは塵芥に過ぎないのだ。それ故、私たちは自分の罪を悔い改め、神が与えてくださる賜物を喜んで素直に受け入れるのである。その信仰を私たちは聖餐式において告白している。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年3月5日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章15〜23節

    ローマ人への手紙7章1〜6節

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