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    ローマ人への手紙7章14〜25節(3)


    7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

    7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

    7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

    7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

    7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

    7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

    7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

    7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

    7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

    7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

    7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

    7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

    2000.05.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    キリスト者と律法

    7章14〜25節

       ローマ人への手紙7章14〜25節の箇所をもう一度考えたい。この箇所の教えは非常に深く、神学論議においてよく出て来るし、クリスチャンの話題としてもよく出て来るものである。それゆえ、ここは何度でも戻って来るような箇所である。パウロはこの中で、自分は罪の下にある者だというところから話をはじめてから18節までにその意味を説明し、19節からもう一度繰り返し同じポイントを説明している。言い方は若干違うけれども、結局、自分が本当に求めていて行ないたいと思っている事と実際の生活のレベルとの落差を深く感じて苦しんでいるということを繰り返し伝えている。そして、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と24節で叫ぶのだが、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」というところでこの段落を終わっている。

       これは、私たちの毎日の生活において非常に大切な悔い改めの心を表わす箇所である。それだから、今週もう一度この箇所を一緒に考えたいと思う。今まで十分でなかったり、まだ説明していないことなどを三つのポイントに分けて話したい。パウロがこの箇所で明らかにしている三つの要点は繰り返し強調されるに価するものである。

       第一に、パウロは「自分のうち(即ち自分の肉のうち)には善なるものが何一つない」と言う。罪人アダムの子孫として生まれてきた人間であるパウロには、生まれながら罪を犯す傾向がある。これは現代における遺伝子と罪という議論に係る要点である。第二に、「私は神の律法を喜んでいる」とパウロは言う。つまり、すべてのクリスチャンは、このように喜んで神の御言葉である聖書に心を傾倒すべきなのである。特に、難解な聖書箇所を考えるときに、このことは重要である。第三に、パウロは繰り返し「自分には力がない」と言う事実を告白している。改革派神学では、これは罪人の無能力あるいは無力を明らかにする教理であり、これは恵みとクリスチャンの成長の原則を理解する鍵となる大切な教理である。それではこの三つの要点を考察しよう。

     

    私のうちに善が住んでいない

       まず第一の要点だが、例えば23節に「私のからだの中には異なった律法がある」という言い方があったり、18節には「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」というような表現があり、14節では「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言っている。自分のうちに罪がはいっている。非常に深い意味でそれがある。だから「肉のうちに罪がはいっている」というような言い方をしている。パウロは決して「肉のからだには罪があって、魂には罪はない」というようなギリシャ的な意味の話をしているのでないのは明らかである。

       実は、今日のアメリカや日本で遺伝子の研究が加速度的に進められているのは周知のとおりである。その遺伝子と人間の罪、そして遺伝子と人間の性格や諸々の可能性が盛んに話題となっている。その事とこのローマ人への手紙の箇所について論じるE-mail会議があったが、一つの例として、同性愛の研究が取り上げられていた。同性愛が遺伝子に基づいているか否かという議論はアメリカでは非常にホットである。同性愛者たちは、「私たちが同性愛者なのは、私たちの遺伝子によるのだから、やむを得ないことなのだ」と主張している。その問題をどのように考えるべきかについてそのE-mail会議で議論がなされていた。

       それは遺伝的に可能なのか不可能なのか。遺伝とは無関係なのか。多くの人はクリスチャンの視点から「そんなことは有り得ない」と論じている。「たとえ遺伝子的には何かその傾向があるからと言っても、それは決定的なことではないのではないか」とも論じたりしていた。その議論を見ていて、私は以前見た犯罪学の本のことを思い出した。これはアメリカでの話だが、犯罪者の体格はだいたい類似していると言うのである。日本では若干話が違ってくるかもしれないが、アメリカでは犯罪者のデ−タを分析すると、ほとんどはがっしりした体格で力が強そうなタイプだという結果が出ている。勿論、そのような体格の人間がみな犯罪者になるわけではないが、犯罪者の体格を見るとほとんどがそのような体格になっているのだ。

       もう一つの特徴は、知的なレベルがだいたい同じだという分析結果が出ている。勿論、知的レベルが高ければ犯罪者にならないということではないが、犯罪デ−タからみた絶対数において犯罪者は知的レベルが低いのである。この二つの点とも遺伝子の話なのである。体格も遺伝子によって決まっているし、知的レベルも遺伝子によって決まるものだと言われている。しかし、「頭がどこまで良いのか、どこまで悪いのかというのは遺伝によることなので、いくら教えても無駄だから、もう教えるのはやめよう」と早合点してはならない。頭が良いかどうかは、その人が理解力と知恵をもって生きるかどうかということには簡単にはつながらないのである。頭が弱い人がみな犯罪者になるわけではない。しかし、アメリカの過去の犯罪デ−タを見ると、がっしりした体格で頭が良くない人が断然多いのは事実である。

       それ故、「遺伝的なことと犯罪はどこかで係っている」と言えないことはない。それは部分的に事実である。私たちは遺伝子的に特定の罪にあらかじめ定められているということはない。しかし同時に、私たちが罪人として生まれて、それぞれ異なった罪に向かう傾向が生まれながらにしてあるというのも事実である。大きな話でなく、もっと小さな話になると、例えば、子供たちは一人ひとり生まれながらにして性格も何もとにかく違うものだということは皆さんも見ててよくわかっていると思う。ある子供が他の子供よりも嘘をついたり或いは暴力的に走ったりする傾向が強いということがあるのは事実である。そして、その違いは両親によって与えられる教育や訓練に見出されるものではないのである。

       では、それはその子が遺伝子的にある種の罪を犯すようにプログラムされていたために不可避的なことなのだという意味なのだろうか。絶対にそうではない。遺伝子的な要因で結論を出すことはできない。私たちは皆、一方ではアダムの子である。つまり、皆が罪に縛られている。しかし、その罪人であった私たちが新しく生まれ変わってもはや神に逆らう生き方に隷属することのないようにと、主イエス・キリストが私たちを罪から解放してくださったのである。

       私の幼少の頃の話を例にあげればよくわかる。私と弟は一つの大きめな部屋に二人で生活していた。ベッドが二つ、机が二つ、クロ−ゼットが二つあった。弟のところを見ると、いつでもよく整頓されていてきれいになっている。何でもかんでも全部きれいに整理されている。弟は幼いときから自然にそれができていた。それは何かの賜物としか言いようがない。特別にそうするように両親か誰かに言われたからしているのではない。自然に身についていることなのだ。私の方を見てみると、ずいぶん賜物が違うということがわかる。特別にそうなるように教育されたわけではないし、頑張ってそうしているのでもない。とにかく、二人の違いは顕著であった。

       自然に出来ることと、自然には出来ないことがある。何が自分にとって難しいのか、何が難しくないのかは、そのレベルにおいてもはっきりしているものである。生まれながらにして、それははっきりしている。誰もがそうなのである。生まれながらの賜物があり、生まれながらの弱さもある。ある人はアルコ−ルを飲めばすぐに酔ったり、簡単にアルコ−ル中毒になったりする。ある人はかなりの量を飲んでも酔わないし、毎日飲まないとだめだということにもならない。皆一人ひとり、生まれながらの強いところと弱いところがある。しかし、遺伝子的にどうであるのか、生まれながらの弱さや足りなさは何なのかということだけで話が終わるわけではない。

       パウロが「自分のうちに善が宿っていないことがわかる」と言うとき、本当はもっと深いことを話している。しかし、罪との戦いにおいても、ぜんぜん戦いもしていないのにもう勝っているというような人もいるのは確かである。何も戦いもしていないのに、私の弟の部屋はいつもきれいなのだ。別に頑張ってそうしたわけではない。勿論、時間も頭も使うけれども、一生懸命戦った結果でもない。ただ自然とそうなるのである。弟の場合、生まれながらにして、そうならないことが不可能な性格なのである。私はかなり戦わなければそうはならない。戦わなければならないところは一人ひとり違うのだ。しかし、戦わなければだめだというのはあくまでも事実である。

       遺伝子操作と人間の能力を描いた「ガタカ(Gattaca)」という映画が最近上映されている。人間がどこまで成長し、どこまでその能力を発揮できるのかという問題を扱っている。その映画は、遺伝子操作によって子供の将来を支配するような社会をテ−マにしている。その映画の一番最初の画面でまず聖書の言葉が引用されて出て来る。それは「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできようか」という伝道者の書7章13節の御言葉である。この映画は遺伝子操作を行なう者たちの失敗を描いている。

       映画で、彼らは子どもたちの遺伝子配列、すなわちその人生を「まっすぐにする」ことを試みた。しかし、それは神が曲げたものなのである。神こそ究極的にその人の心の強さと弱さを作り上げる環境や遺伝子の測り知れない関係を支配しておられる御方であることをこの映画は人々に思い起こさせようとしている。遺伝子を支配しようとする社会は、そのように狂ったり大変な問題を引き起こしたりして成り立たないものだということを訴えている。クリスチャンは、遺伝子の問題だけで「だから、私にはこういう問題があって、私は弱いのだ」と言ったりしてあきらめてしまうようなことがあってはならない。これはどの罪についてもそうである。特定の罪の傾向が自然に遺伝によってあると言っても、「これは生まれつきのことだから」と言ってあきらめてはならない。それであきらめてしまえば、とんでもないことになる。私たちは最後まで戦わなければならない。決して戦いをやめてはならない。

       しかし、私たちに一人ひとりにはそれぞれ特別な弱さがある。一人ひとりが違うところで特定の罪と戦っているということを互いに覚え合う必要がある。一人ひとりが、それぞれに打ち勝つのに困難な罪がある。そのことを覚えて、互いのために祈り合い、互いに赦し合わなければならない。田中さんには田中さんの強いところがあり、小林さんには小林さんの強いところがある。田中さんの強いところがちょうど小林さんの弱いところだからといって、「これが大事ではないか」と言って小林さんを見下したり、反対に小林さんが田中さんの弱いところを見て田中さんを見下すようなことがあってはならない。罪人は自然とそうなりがちなものであるが、よくよく気を付けなければならない。

       「戦わなければならない」という心をもって、まず自分の罪に対して戦い、クリスチャンとしての成長を求めなければならない。そのことを覚えて、クリスチャンとして、すべてのことにおいて真剣に成長を求めるところから出発すれば、互いを赦し合い、自分の強いところがあれば、それは神の御恵みだということを深く知って感謝するはずである。強いところは御恵みから来たものであることを認識すべきである。また、弱いところも、それは成長のために与えられた祝福である。そのところにおいて、戦って成長するようにそれは与えられているのである。そのことをしっかり覚えて、戦って成長を求めるのである。戦って主イエス・キリストに似た者となるように真剣に心から求めるのである。

       だから、ここでパウロが「私のうちには・・・」ということを言っているのは遺伝子の話ではないが、遺伝子と全く無関係の話でもない。事実、私たちのうちには弱いところや足りないところがあるので、戦わなければならない。パウロは、そこであきらめて戦いをやめるようなことはしていない。その戦いをやめてはいない。遺伝子について考えるとき、特定のタイプの罪に対する“遺伝子による”傾向について語ることは或いは可能かも知れない。だがそれは、少なくとも一部の“遺伝子の修正”によって正され得るという厳密な意味での遺伝子的問題だと、果たして言えるだろうか。むしろ大切なのは、私たちが罪の中に生まれているという事実、そしてこの世にいるかぎり自分の罪や弱さとの戦いをしなければならないという点ではないのか。

     

    律法を喜ぶ

       二番目の要点は、22節に簡単に提示されている。「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」とパウロは言う。内なる人としては、神の御言葉を喜んでおり、神の律法を喜んでいる。パウロは7章の12節、13節、16節でも神の律法について繰り返し肯定的に評価している。これが基本なのだ。これは、パウロがクリスチャンの罪との戦いについて語っていることの一つの証拠である。時おりある人たちは「パウロはここで、クリスチャンが自分の罪深さを悟ることについて話しているのではないか」と考えるが、そういう話ではない。22節においてそのことは特に顕著である。

       この22節は、律法に対するクリスチャンの姿勢を定義するものであり、また多くの場合はクリスチャンの内なる戦いの源でもある。自分が心から喜んでいるその律法に従うことの失敗は非常に深い痛みになるはずである。人がこの人生において得られる以上のはるかに質の高い愛を要求する義の基準を喜ぶとき、失敗の悲しみはいっそう深いものなのである。自分自身の例をもってパウロは、クリスチャンがどのようにして神の御言葉に近づくべきかを示している。神の御言葉を喜ぶことは、謙遜と信頼の心で聖書の本文の前に立つことなのである。

       聖書が私たちの嗜好に合わないことを教えるとき、私たちは、何が真実でなければならないか、また何が不満かについての要求を携えて御言葉の前に来るのではない。自分自身を神の御言葉の前面に置くならば、聖書が私たちの好まないことを教えているときには、どうしても、「何が正しくて何が間違っているのか」という私たち自身の概念に合わせるようにして聖書を改訂してしまうことになるのだ。しかし、もし本当に神のことばを喜んでいるなら、私たちはその御言葉に従うように自分自身を変えるのである。そうすれば、「何が正しくて何が間違っているのか」という私たちの考え方も成長していき、私たちの道徳的感覚やこの世に対する瞬間的な道徳的反応も時が経つにつれて真にクリスチャンらしくなっていくのである。

       神の御言葉の教えを喜んでいるのであれば、自分の弱さを悪い意味で許したりする筈はない。御言葉を喜んでいるのであれば、自分の足りないところをとても喜ぶことはできない筈である。それはクリスチャンの思いとは正反対なものなのだからである。10年程前のことだが、モーセの十戒についてある人と話していたときに、その人は「聖書にそう書いてあるけれども、これは女性に対する差別ではないか」と言うので、「これは神の御言葉なのですよ」と答えて説明してあげたことがある。クリスチャン・カレッジでもこの事を話したことがあるが、御言葉に書いてあることは、最初読んですぐには理解できないとしても、またどう解釈したらよいのかがわからないとしても、まず神の御言葉を喜ぶ心を持って、「この御言葉は何を教えようとしているのだろうか」というへりくだった心を持って求めなくてはならない。

       もしかしたら御言葉に書いてあることは私の考え方と違うかも知れない。自分の考え方を変えなければならないのかも知れない。自分の思想を根本から変えなければならないかも知れない。それでも、神の御前にへりくだった心をもって、神の御言葉をとにかく喜ぶのである。神を愛しているならば、御言葉を学べば学ぶほどに、「喜ばなければならない」と思わなくても自然に喜んでしまうものなのだ。特にモーセの律法に書いてあることを、若いクリスチャンが読んだりするとき、「へえ、どうしてなのか。ピンとこない。どうしてこんなことを言うのか。どういう意味なのだろうか」と思うようなことがよく出て来るものだ。

       アメリカのクリスチャンと話しているときに、よく次のような答えになる。「それは昔のイスラエルに与えられたモーセの律法であり、その当時のイスラエルの文化的規準が低かったからそのような律法を神は与えなければならなかったのだ。でも、現代の私たちの場合はもう状況が違っているのだ」と言うのである。まるで神は真理を当時のイスラエルの文化的レベルにまで引き下げて与えたかのように考えてしまうのだ。断じてそうではない。御言葉に書いてあるのは神の不変の真理であり、神は永遠に変わることのない御言葉をもって御自分の義を表わしておられる。

       御言葉を読むとき、私たちが自然に「こういう意味だろう」と思うその解釈が間違っていることは十分に有り得ることだ。特にモーセの律法を読んで話し合うときに、「私はここを読んで自然にこう思いました」と聞かされるときに、「えっ、そのような読み方ができるのか。そのように読めるはずはないのに」と驚かされることは少なくない。いつの時代であっても、人間の思いの方が神の不変の真理よりもずっと信頼できないものなのである。

       最初のポイントとの関係において見るとき、私たちが御言葉そのものを喜び、御言葉そのものを求めるとき、自分の罪の弱さはもっとよく目立ってしまうものである。御言葉の真理と自分の足りなさとの違いはもっと顕著になる。時間が経つにつれて御言葉の教えと自分の心は近づいていくものと考えるかも知れないが、本当は御言葉を学べば学ぶほど自分の罪がどれほど深いものなのかを思い知らされて、自分の実際のレベルと御言葉の規準がますます離れていくかのような思いになる、ということも言えるのだ。もっと罪は明らかになり、もっと自分の弱さを知るようになる。

       だからパウロはここで「私は、ほんとうにみじめな者です」と叫ぶのである。御言葉を喜んでいる限り、妥協したりあきらめたり、「もう仕方ないことなのだ。これが私なのだから」と言ったりすることはできない。それが先週学んだパウロの言葉の非常に大切なポイントである。「私は、自分のしていることを認めません」とパウロは言っている。つまり、あきらめていないのである。御言葉の真理を喜んでいるのだ。御言葉の真理を喜んでいる限り、“自分”を喜ぶことはできない。どちらを喜ぶのか。御言葉の教えを心から喜ぶことは、神御自身を喜ぶことなのである。御言葉は神御自身を表わしている。神の義と神の愛と神の偉大さを喜べば喜ぶほど、自分について喜ぶことはできない筈である。

       これは決して矛盾ではない。「どこに目を留めるのか」ということである。クリスチャンの喜びはどこにあるのかという話なのである。罪人の喜びは自分にある。自分がしたことを誇り、自分を喜び、自分の成功など、“自分”を喜ぶのが罪人の姿である。しかし、パウロの喜びは主イエス・キリストにある。そうでなければ喜べないのである。御言葉の教えを喜べば喜ぶほど、自分を喜ぶことはできなくなるのだ。御言葉に書いてあることを素直に喜び、その意味をもっと深く求めていくような学び方をしなければ、本当の意味で御言葉を理解することはできない。学問的に学べば理解できるというものではない。御言葉を喜ぶということは、謙虚でへりくだった心を持って神を求めることなのである。

     

    無力

       三つ目の要点は、ある意味で同じことを繰り返し言っているようだが、18節(他の箇所もそうであるが)に、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」とある。「私はできない。私は失敗している。私は罪の律法の奴隷にされている。私はみじめです」というような表現がパウロの言葉の中に何度も出て来るのである。これは「無力だ」ということである。

       「私には、できません」と言っている。これは、まさに主イエス・キリストを信じるときの出発点なのである。教理や教えを深く考えて理解するところから出発するとは限らない。なぜ主イエス・キリストを信じたのかということを考えるとき、「私は罪人で、主イエス・キリストが十字架上で私のために死んでくださらなければ、私は救われません。キリストは十字架上で死んでよみがえられた。私はそのキリストを信じることによってのみ救われます」ということを知って信じて救われたのである。その意味がそれほど深く理解できたわけではないが、ある程度まではわかっていた。

       カルヴァン主義神学の基本的告白の一つは、「人間が自らを救うことはできない、救いのために必要な最小限の行ないすらできない、人間にはからし種ほどの信仰すらかき集めることはできない」というものである。カルヴァン主義の五つのポイントをその頭文字をとって“TULIP”と書くが、最初のポイントを表わす“T”は"Total depravity"の頭文字であり、これは「全的堕落」ということである。日本語でも英語でも、これは実に大変な言葉であることに変わりはない。「全的堕落」と言えば、これ以上に悪くなることは有り得ないということになる。犯罪者よりも悪いように聞こえるかも知れないが、この「全的堕落」は「無力」を意味する告白である。「自分は、自分を救うためには何もできない」という意味である。

       人間の罪は一人ひとりの考え方の中に入っている。意志の中にも入っている。感情の中にも潜んでいる。からだのうちにある。すべてのことに罪の思いと罪の力と罪の影響が入っているので、自分の力でそこから出ることは絶対にできない。それが全的堕落の意味である。全的堕落の意味は、「この人間は本当に悪い奴で、もうこれ以上悪くなることはできない」ということではないのだ。良いことをしてもその行ないの中にも罪があるし、結局のところ神を無視して生きる心が支配的になっている。最終的に神を憎む心を持って生きているのである。それは、思想においても日々の行為の動機においても実際の行動においても、全部出て来てしまうものなのだ。

       私たちは、その「全的堕落」の意味や教理を理解したからキリストを信じたわけではない。しかし、この無力の教理は、聖書の罪の教理が少なくともクリスチャンに自分の過去についての正しい理解を訴える働きがある。それに増して大切なことは、この教理は、すべてのクリスチャンに、自分の罪をその最も深いところにおいて認めて告白するのを拒む心が潜んでいることを示しているという点である。

       アルミニアンの思想もローマン・カトリックの思想もこの「全的堕落」を認めてはいない。彼らは、「堕落」は認めるが「全的堕落」は認めない。罪に汚れていることは認めるが、「全く無力である」ということは認めないのである。自分を救うためには全く無力で完全に何一つできない者であることを彼らは認めない。しかし、パウロがこの7章の14節から25節で話していることは、クリスチャンが罪から解放されるために自分の力で何かできるというようなことはないのだということに他ならない。明らかにパウロは、ただ表面的に自分の罪を認めているわけではない。パウロの訴えは、昔のギリシャ思想とは根本的に違っているし、現代の考え方とも違う。

       クリスチャンではない人には、自分で頑張って自分を支配して強くなるという考え方がある。そのような考え方は昔のギリシャにもあるし、いわゆる“自己訓練”とか“自制”と呼ばれるようなものである。特にスポ−ツの世界ではこのような考え方になるが、あれこれと自制を強要して自分を支配する。それが出来れば立派な者となり、成功することができると考えるわけである。自制と努力によって一人前の成長した人間になることができるという考えである。それで、努力することを教え、訓練を与え、自分がどこまで成長するかは自分がどこまで頑張るかに依るものだということを特別に強調するのである。

       もちろんそれらは関係ないわけではない。しかし、それとは根本的に違うところがあるのだ。「私が頑張るなら必ずできる」という考えが出発点であれば、「頑張れば必ずできるのだから、頑張りましょう」というような考えに徹するようになり、「頑張りましょう。頑張りましょう」主義になってしまうのである。クリスチャンではない道徳や倫理の教えにはよくそのような考えが入ってくる。スポ−ツや勉強にもその考えが入る傾向が強い。しかし、パウロが言っているのはそういうことではない。

       パウロが言っているのは、「あなたがいくら頑張ってもしようがないことである。あなたには何も力はない。全くゼロなのだ。どんなに善いことをしよう思っても、何をしても、ことごとくあなたは失敗するしかない」ということである。それをパウロは自分の例をあげて説明しているのである。「私たちは、全く、完全に、ただの一つさえも、本当の意味で自分が求めている成功を得ることはない」と言っているのである。「なぜ得てないのか」という問いの答えとして「努力が足りないからです」とは書いていない。

       「努力が足りないから」ではなくて、「私のうちに善が宿っておらず、私のうちに罪が宿っているから」である。「私は罪の奴隷です。私は本当にみじめな人間です。私は全く無力な罪人に過ぎません」ということをパウロは話しているのだ。努力すれば強くなるという話をしているのではない。この14〜25節は、自分の無能力さの長い告白であり、己の無力さ無能さに悩む者から出た実直な告白であり、苦悩の告白なのである。これが真のカルヴァン主義であり、そこには人間に何ができて何ができないのかというような空論の薄っぺらい議論はどこにも存在していない。そこにあるのは、救われたことの意味を知るがゆえに、そして神の律法を愛するがゆえに、自分の深い悪を素直に認める心があるのだ。

       これは徹底的に失望させるように見えるかも知れない。そして、特にこの世の道徳の教えに倣う人にとってはそうであるに違いない。この世の道徳の教えは、人間には善に到達する能力があってその存在の深みにおいて善であるという確信に根ざしている。「ほんのもう少しの努力さえすれば、もう少しの自制と汗でゴ−ルに到達できる。少なくとも、今よりもずっとゴールに近づくことができる」と教える。確かにそういう一面もなきにしもあらずである。道徳的成長における努力は全く無益というわけではないからである。そのことはパウロを見ればよくわかる。

       パウロを見れば、彼が本当に努力の人であったことを感じるはずだ。女々しくて、「あたしには何もできませんからねえ」と言っているような人間でないのは明らかである。パウロは、教会で女々しく説教をしているわけではない。パウロがここで自分について話していることは、彼の強さとその頑張って生きる生き方につながっているものである。しかし、パウロは、自分の意志の力で自分のためにならない欲望や邪念を押さえてそれに打ち勝つというような克己主義者を訓練して育てようとしているわけではない。単なる自制によって達し得る道徳的優越性は、その本質において単に私たちが“罪”と呼んでいる、神に対する反逆のもう一つの形態に過ぎないことをパウロは知っている。

       己の力によって自分を改革する人は、自分自身を救い、自分自身を賛美し、悲劇的にも己の心の現実については自分自身を騙すのである。なぜなら、そのような人にとっては、愛にせよ悪にせよ、その最も浅い理解においてしか“自分自身の善”による慰めを見出すことができないからである。パウロがそこまで強く立って御国のために働くことができたのは、自分の「無力」を深く認めているからである。彼がそこまで自分を無にして神の栄光を求めることができたのは、自分の「無力」を深く認めることから出発しているからなのだ。「頑張ればできる」という思いを持って人一倍頑張ったというような話ではないのである。

       しかし、そのような、クリスチャンではない“頑張屋”の哲学者や軍人とかが昔のギリシャやロ−マには大勢いた。小さい時から「頑張るぞ」という思いで育てられ、実際に人並外れた努力をした。そうすることで大きな事を為して成功することが出来た。確かにそのような人間が世の中には大勢いる。しかし、彼らが築き上げたところとパウロが築き上げたところは全く違うものであった。パウロは、自分には何もできないことを認めている。しかし、クリスチャンになる前のパウロはどんな人間だったかというと、人一倍頑張るタイプとしては典型的な人間であった。

       パウロは、何でもかんでも頑張ることで完ぺきにできた人間であった。パリサイ人の中のパリサイ人であった。タルソ人で一流の優れたユダヤ人学者であり、若くしてリ−ダ−として認められて重要な責任を与えられていた天才であり、そういう意味ではあらゆる点で認められていた大変な人間であった(ピリピ人への手紙3章4節以下)。しかし、キリストを信じた後の彼は、キリストを知っていることのすばらしさの故に、その一切を塵芥(糞)と思うようになったのである。自分の努力、自分の力のすべてがマイナスで汚れたものと思って、塵芥として捨てて、キリストを信じてキリストに従ったのである。

       ローマ人への手紙7章を見れば、ピリピ人への手紙3章でパウロが言っている意味もよくわかるのである。御言葉の真理を喜べば、神の御教えを喜ぶなら、自分をその“鏡”の中で見るようになる。自分の最もすばらしいところさえ、良いところは何一つないことを知るのである。頑張ってもできない、全くな無力である自分を見出すのである。パウロは、神の律法を喜び、その要求が如何に高くて聖いものなのかを知っている。彼は肉の誇りや愚かさから自分を解放することができない。彼は自分のしようとすることができないで、自分の最も深い意志に反して自分のしたくないことをしてしまうのである。

       彼は、最も深い愛と感謝のうちに、真心からの真摯さをもって賛美のいけにえをささげようとするが、実際には彼が憎むその盲目でびっこのいけにえを神にささげてしまうのである。自分が善をなすのに無力であることを知ったときに、どうしたらよいのか。「私は、本当にみじめな人間です」と叫ぶ他ない。何をしてもだめで無力だということを本当に深く教えられたとき、実に心からその叫びがにじみ出てくるのである。

       しかし、それが話の結末ではない。無力の告白は完全なる絶望への序曲ではない。それどころか、反対に、自分にはできないと真に知る者だけが、真に救うことのできる御方に自分を投げ出すことができるのである。そして、神の御恵みによる救い以外に救いは有り得ないことを悟るのである。「神が、恵みとして救いを与えてくださるのでなければ、私には何一つ望みはない」ということを知るのである。「少し頑張ればできる」というような話ではない。「神が99%やってくださるから、あなたは1%だけでいいんですよ」というような説教を何度となく聞いたことがあるが、パウロはそのように教えてはいない。パウロは「1%の1%の1%の1%・・・(もうポイントはわかってもらえると思うが)・・・の1%もできない」と言っているのである。

       「無力」とは「全くのゼロ」のことなのだ。自分のベストでさえ塵芥に過ぎないのだ。そのことを認めるとき、「どうか神さま。私を救ってください」と叫ぶほかないのである。そして、ただ主イエス・キリストによって自分を救ってくださったことを、神に感謝するのである。神の御恵みによってのみ救われ、すべては神の御恵みのみによって与えられた。「神の御恵みでなければ私には望みはない。御恵みによるのでなければ私に救いはない。私には助けはない。私には何もできない」ということを深く覚えるのである。

       「だからもう努力しなくてもいい、頑張らなくてもいい」というのが結論になるはずはない。これを頑張ろうとかあれを努力しようとかいうことではなくて、愛してくださった神に感謝するのである。努力によって何か得られるとか野望の話ではないのだ。感謝の心をもって、自分を愛してくださった神を愛し、神を慕い求めるのである。自分自身の罪の深さを知る知識は私たちをより純粋にし、へりくだらせ、神の御恵みに信頼するように導き、神の救いと愛を大いなる感謝をもって告白するように導くのである。ここから御恵みのいわば逆説的な方法が私たちの聖化に向けて働き始めるのである。

       だから、自分自身の中には如何なる能力も見出さない人のみが、神の御恵みに自分を投げ出すことができるのである。御恵みによって救われ保たれるとき、その人はまず何よりも神への感謝において成長する。その心の最も深いところで、その人は自分自身と自分の能力を高めることに目を留める者から、神のみに望みと喜びを見出す者へと変えられるのである。このことは私たちを神の御言葉への深い喜びと罪に対するより深い戦いへと導いてくれる。クリスチャンは成長するが、自信や自己依存において成長するものではない。その自制すら聖霊の実であり、神の大いなる愛に対する神への感謝の産物なのである。

       七回倒れてもまた立ち上がるという箇所をこの数週間何度も引用しているけれども、なぜクリスチャンは立ち上がれるのだろうか。立ち上がる力はどこから来るのか。倒れることは少しも難しくない。自分の中の諸々の弱さや罪によって自然に倒れるものである。すべらなくても、つまずかなくても、とにかく倒れる力は自分の中に十分にあるのだ。私たちはみな倒れるけれども、では、立ち上がる力はどこから来るのか。「私はクリスチャンだから頑張ります」と言えば立ち上がれるのだろうか。そうではない。「立ち上がらなければ恥ずかしい。人が見てる」という話でもない。倒れて「私はみじめだ」と思うとき、どうするのか。神に信頼し、神の御恵みを信じて神に感謝するのである。感謝の力で立ち上がるのである。感謝の心でもう一度歩み始めるのだ。

       努力主義と感謝主義の違いは実に大きい。感謝する者は努力しないのではない。恵みのみによって救われたその救いの意味を覚えるのである。そこから新たに力が与えられて立ち上がって進むことができる。そういう意味で、御恵みのみによる救いの教えの意味は深くて広いものだ。カルヴァン主義の神学は、罪人の罪がどんなに深いものかということを認めて、何によって信じたのか、自分の無力はどこまで深いものなのかを訴えるものである。

       聖書の中でヨハネの福音書6章44節に「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」と記されているように、神が私たちの心の中で働いてくださり、キリストを信じる力さえ持たない私たちに主イエス・キリストを信じる心と力が与えられたのである。信仰そのものさえ、それはただ御恵みによって与えられた賜物なのである。神が与えてくださった御恵みはすべてを含むものである。それだから「私のうちに善は一つもない」と言うとき、パウロは深い意味で自分が罪人だということを告白しているだけなのである。自分には信じるための力の1%どころか、その何万分の一の力さえ自分には無かったのだ。完全に100%神の御恵みのみによって私たちは救われたのである。

       しかし、誤解してしまうと大変なことになるので説明を付け加えなければならない。つまり、そうであればクリスチャンではない人にどのように福音を伝えるのだろうか。福音を説明しておいて「でも、あなたには信じる力はありませんからね」と言ったり、「待っててください。いつか与えられるかも知れませんから」と言って終りというようなものではない。主イエス・キリストは、38年間も床に伏していた病の人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言うのである(ヨハネの福音書5章8節)。「あなたには立つことはできないのだから、待っていなさい」とは言わないで、「起きなさい」と言うのである。その人には出来ないことをキリストは命じている。私たちも、クリスチャンではない人たちに「主イエス・キリストを信じなさい」と言うべきである。「信じてください。そうすれば救われます」と言ってあげるべきである。

       その人が信じようとするとき、もう既に御霊はその人の中で働いておられるのである。御霊の働きはその「信じなさい」という言葉を通しても与えられるものなので、「今は信じなくてもいい。いつか神が与えてくださるから」と言うのでなくて、「立ちなさい。そして、信じてください」ということをその人に言わなければならない。クリスチャンとして成長することについても同じである。クリスチャンである兄弟が倒れたのを見て、「立ち上がらなくてもいいよ。いつか、力が来るから、その時に立てばいいから」と話すはずはない。「立ちなさい。そしてキリストを信じて歩きなさい」と言うのである。七回倒れたことがわかっていても、彼に「立ちなさい」と言わなければならない。

       「立つ力はどこから来るか。私はみじめです」と人が叫ぶときに、「頑張りなさい、愚か者め。何を言っているのか」とその人を罵倒するのではない。感謝の力によってのみ人は本当に立ちあがることができる。神の恵みがなければ「頑張りなさい」と言うのも空しいことでしかない。人はこれほど絶え間なく気をくじかれ敗北しているのに、どうやって真理、愛、義しさを追い求め続けることができるのか。その答えは「クリスチャンが求めているのは如何なる抽象的な徳でも肉の努力による自己改革でもない」ということである。これほどに恵み豊かで愛してくださる神を喜ばせることをひたすら求めているのである。

       救いの御恵みに対する神への感謝と賛美とが、人の聖さの中心なのだ。失敗は彼を恵みへと導き、それは彼を感謝で満たし、彼を愛しその罪を赦してくださった御方に喜んでいただくために奮闘するように彼を駆り立てるのである。聖化の心理的原則は人間の努力を禁じないが、神の愛に対する感謝という枠組みの中に努力を据えるものなのである。私たちは自分自身を良しとするためではなく、永遠の愛で私たちを愛してくださる御方を喜ぶために努力し、奮闘するのである。

       そういうわけで、パウロはここで、感謝の力を私たちに教えている。それによって私たちは、七回倒れたとしても、もう一度立ち上がることができる。聖餐式はそのために私たちに与えられたと言ってよい。先週の日曜日から今日まで私たちには七日間が与えられたが、皆それぞれ立派に七回以上も倒れたのではないか。一日に一回しか倒れなかったと言い切れるなら、あなたは大変成長したクリスチャンだと言えよう。しかし、私たちはきっと七回以上倒れたに違いないと思う。倒れたときに「私は本当にみじめな者です」と感じたことであろう。土曜日まで一度もそれを感じなかったはずはないと思う。「私には、神の御恵みが本当に必要だ」ということを皆が感じているはずである。

       日曜日に私たちは神に招かれて教会に来ている。象徴として言うならば、礼拝の最初に招きの言葉があることが望ましいが、私たちの教会ではまだそこまで細かくやってはいない。礼拝においては "Come and let us worship the Lord."という招きの言葉が最初に宣言されるのが教会の伝統であった。「いざ、来たりて共に主を礼拝しよう」と人々を招くのである。なぜ招きの言葉が最初に来るのが相応しいのかというと、私たちは皆罪人であり、自分の罪を深く覚えるとき、「神の家に入ってもいいのだろうか」という恐れと恥ずかしさの気持ちになるからだ。それで、父なる神は私たちを御前に招いてくださるのである。

       「どうぞ。入って来なさい。そして自分の罪を悔い改めて、罪の赦しの宣言を受けて、キリストにあって祝福の聖餐式にあずかりなさい」と、神は私たちを招いてくださる。「神が私を愛してくださる。神の御恵みにより、キリストの十字架の死と復活によって、私は救われます」と告白して、その恵みに対する感謝の心をもって立ち上がるのである。感謝の心に立ち返って立ち上がった私たちを神はまた送り出してくださるのだ。最後に祝福の言葉が宣言されるが、それは祝福をもって私たちを再び任命して遣わすという意味なのである。礼拝の場から出たとき、私たちは新しい出発をしている。「いざ、行って御国のために実を結ぼう」という声に励まされて出るのである。私たちは神の愛を覚え、感謝の心に戻って歩むものである。

       「私は本当にみじめな罪人です。しかし、神は御恵みなる神であられます。神は、私の罪を赦してくださり、罪人の私に救いを与えてくださいます。私は神を喜び、感謝をささげます」と、私たちは告白するのである。キリストを信じる者は、キリストの十字架の尊さを覚えるのである。キリストを信じなければ望みはない。しかし、キリストを信じるなら、救われてすべての望みが賜物として与えらる。その御恵みの救いを心から喜ぶこと、それが礼拝の中心なのである。それが聖餐式のことである。毎週私たちは聖餐式を行なっているが、それによって私たちの感謝の心が育てられるのである。それで七回倒れても、八回目にまた立ち上がる力が、神に対する感謝から与えられるのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けよう。

     

    2000年5月21日

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙7章14〜25節(2)

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