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    ローマ人への手紙8章2節


    8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

    2000.06.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    古い契約と新しい契約

    8章2節

    なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

       先週、この8章2節の翻訳を少し変えた方がよいということを話した。今日は、この8章2節を少し広い意味で考えてみたいと思う。英訳聖書でこの「ノモス(nomos)」という言葉を「原理」と訳しているものは一つもないようだが、注解書にはそれが見られる。「原則」とか「法則」という訳は不可能ではない。例えば、新国際訳(NIV)は、ローマ人への手紙3章27節で“nomos”を「原則」と訳している。しかし、これは珍しい使い方であり、その箇所でそのような翻訳をする正当性はないように思われる。ギリシャ語の“nomos”は「律法」を意味する言葉であり、今までの箇所でパウロはずっとこの言葉を「モーセの律法」あるいは「古い契約」を指すものとして使ってきているので、ここでいきなり「原理」と訳すのは適切ではない。

       意訳するにしても、むしろ「契約」という言葉のほうが良い。それ故、この節は「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の契約が、罪と死の契約から、私を解放した」と考える方が適切である。もっと簡単に言うなら、「キリスト・イエスにある新しい契約が、古い契約から、私を解放したからです」と理解するほうが良い。

       この8章2節でパウロは、「キリストにあるいのちの御霊の律法」と「罪と死の律法」について語る。「罪と死の律法」は古い契約であり、それはアダムにある契約である。「いのちの御霊の律法」は新しい契約であり、キリストにある契約である。それ故、パウロが述べようとしている意味は明白である。「キリスト・イエスにある者たちに聖霊の賜物を与える新しい契約は、罪を引き起こし死を宣告することしかできなかった古い契約から私たちを解放した」ということである。

       このことは5章からずっと語られている。5章からずっとアダムとキリストの対比をいろいろなかたちで説明しながら契約的な現実や契約関係について語っているので、この8章2節は、アダムにある契約とキリストにある契約の対比をやや変わった言葉遣いを用いることによって別な言い方で言い直していると理解するのが最善だ、ということも先週話した。「罪と死の律法」あるいは「罪と死の契約」という言い方の意味もすでに説明した。

       簡単に言えば、「契約の頭であるアダムが罪を犯してしまったために、私たちはアダムとともに罪人となったので、その古い契約のさばきの下にある」ということである。アダムとエバはエデンの園から追放された。それは死んだ状態を意味することであった。からだは生きているが、死ななければならないからだになり、神のさばきを受けなければならないからだになってしまった。いのちの最も根本的な原則はエデンの園の中にある。「いのちを持つ」ということは、エデンの園にある三つの基本的な祝福にあずかっていることなのである。その三つの根本的な祝福とは、神との親しい交わりをもって神と一緒に住む祝福、善悪の知識の木による知識の祝福、そして、いのちの木の実によるいのちの祝福であった。その「いのち」「知識」「神との交わり」という基本的な祝福がエデンの園の中にあった。

       その同じ三つの基本的な祝福が、こんどは「天幕」そして「神殿制度」においても出て来る。モーセの天幕の至聖所の契約の箱の中にある三つの祝福は、モーセの律法である十戒の板、マナ、そしてアロンの杖であった。モーセの十戒は知識の祝福を表わすものであり、知識の基本がそこにある。マナは、いのちの祝福を表わしている。そして、アロンの杖は栄光を表わし、神が共にいてくださるという祝福を表わしている。神がアロンと一緒におられることは、その杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んだことによって証明されたことが記されている(民数記17章8節)。

       そして、ソロモンの神殿の聖所の中にも同じように三つの祝福はあった。まず12部族を表わすパンがあり、光を放つ燭台があり、香を立てる金の祭壇があった。「香を立てる」というのは、神に捧げられる祈りを表わすものであった。祈りは、神が共にいてくださることを表わしている。パンはいのちの象徴であり、光(燭台)は知識の象徴であった。同じ象徴が、聖所にあり、そして至聖所にあり、エデンの園にあった同じ構造がそこにある。

       古い契約の期間、即ち、アダムが追放された時からキリストの時まで、至聖所に入ることは許されなかった。その三つの祝福を神の御前で受けることは許されていなかった。それが古い契約、即ち「罪と死の契約」を表わす方法であった。「入ってはならない」場所であり、入れば殺されるのである。大祭司だけが、年に一度だけ至聖所に入ることが許されていたが、それ以外の時は大祭司であっても入ることは許されなかった。神から離れており、エデンの園から追放されているのである。それは死を意味し、神との交わりから遠ざけられ、切り離されている。

       しかし、「恵みが与えられる」ことは、神殿や天幕が一緒にあることとして預言され、約束されている。古い契約にある人間はアダムにあってエデンの園の外にあり、神から離れたところにいる。それは死の場所である。だから、「罪と死の契約」という言い方は、ずっとアダムのときからキリストのときまでを指していると言ってよい。主イエス・キリストはこの世に来て、私たちの代わりに、神の律法が要求する罰を完全に受けてくださり、罪と死に対して完全な勝利を得られ、そして復活された時に、はじめて「新しい契約」となるのである。復活のからだを持つキリストが、新しい契約の御霊を与えてくださる。

       古い契約の原則は肉であり、それはアダムの原則であり、アダムから相続したからだを指している。それは死ななければならないからだである。本来死ななければならないものではなかったが、アダムが罪を犯したために、死ななければならないものとなった。それで、「古い契約」という言い方は、エデンの園から追放された状態を表わしている。神の御言葉の真理が来ると、罪人はそれに逆らう。そのことをパウロは7章で説明している。また、神が来られると、人間は神を避けて逃げてしまうことが1章で説明されている。いのちではなく、死を求めてしまうのが罪人の傾向だということを、パウロは3章で説明している。罪人は善を行なわず、相争い、殺し合い、彼らには破壊と悲惨があり、平和の道を知らず、神に対する恐れがない、とパウロは言っている。罪人は、神からの真理を受ければ受けるほど、神に逆らうのである。

       そのエデンの園での三つの祝福を、罪人は曲げたり拒絶したり、そこから逃れようとする。それが罪人の本質である。だから、古い契約は「罪と死の契約」なのである。7章でパウロは、「もともとそういうものではなかった」と説明している。神が契約をアダムとエバに与えてくださったのは、罪と死を与えるためではなかった。いのちの祝福を与え、知識の祝福を与え、神と共に生きる祝福を与えるためにその古い契約は与えられたのである。アダムとエバは、罪を犯したために、その良いものをすべて悪しきものに変えてしまった。

       このように古い契約を理解するとき、一つ誤解しやすいことがある。大人には何度も話していることだが、子供たちにもしっかり理解しておいてほしいので、もう一度話しておきたい。「古い契約」をそのように簡単に捉えるとき、一つ付け加えておくべきことがある。神はアダムに、「罪を犯したその時、あなたは必ず死ぬ」と命じて仰せられた(創世記2章17節)。エデンの園から追放されることは死を意味していたのは事実だが、神はアダムとエバの身体をその場で死なせることはせずに、代わりに動物を屠ってその皮の衣を着せてくださった。つまり、「代わりに死んでくれる者がいた」わけである。それが動物であった。神は、その日に、いけにえ制度を人間に与えたのである。

       そのいけにえ制度は、「いつの日か完全な贖いの御恵みが与えられる」ことの約束を表わす制度であった。そういう意味で、新しい契約の“約束”はエデンの園から追放されたときから始まっている。それだから、古い契約の時代の中には新しい契約の約束が入っているので、「新しい契約の祝福が約束されている」という意味で、新しい契約の祝福はある程度まで「エデンの園から追放された時からずっと与えられている」と言ってよい。それ故、古い契約の時代は「古い契約だけだ」と誤解してはいけない。新しい契約の約束が成長していくことがずっと古い契約の中に見られるのである。

     

    新しい契約と御霊

       神は、アダムとエバに、そしてサタンに罰を宣告するときに、メサイアの約束をも同時に与えてくださった。神は蛇に、「わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとに噛みつく」(創世記3章15節)と仰せられた。それが新しい契約の約束である。そういう意味で、新しい契約の祝福は、エデンの園から追い出された瞬間から始まっている。

       次に、神は新しい契約の約束をノアに与えられた。それは、新しい契約の啓示が更に明らかにされていく中で、新しい契約の言わば保証金のようなものが積み立てられていくようなことであった。後に、アブラハムに、モーセに、ダビデに、そしてエズラの時代に、契約が新たに与えられる度に新しい契約の約束の啓示は更に明らかにされていったのである。約束がどのようなものなのかが一層明らかにされていった。実際にその契約の祝福はもっと豊かなものになっていったのである。

       モーセの天幕よりもソロモンの神殿の方がもっと祝福は豊かであった。ソロモンの神殿よりもエズラ時代の神殿の方がもっと祝福は大きかった。エゼキエル書40〜48章に天の神殿がどのようなものかが啓示されているが、この世の神殿と天の神殿を比べると、天の神殿は遥かに栄光に満ちたものである。エズラの神殿も、ソロモンの神殿と比べるとこの世的には建造物としては見栄えしなくても、神の栄光と契約の啓示の豊かさを考えるとき、エズラの時代の神殿の方がソロモンの神殿よりも優れたものであり、成長しているものであった。

       そのように、古い契約の時代の中で、新しい契約の影響と祝福が与えられていて、それが歴史の中で成長していっている。アダムとエバがエデンの園から追放された後の古い契約は新たにされ、ノアに新しい契約が与えられ、アブラハムに、モーセに、ダビデに、そしてエズラの時代に、古い契約は新たにされた。古い契約が新たにされる度に、もっと契約の啓示は豊かになった。そして、特に旧約聖書の預言者たちの最後の時代になると、新しい契約の預言の中で「御霊が与えられる」という話が多くなっていく。旧約聖書でさえ、新しい契約の約束は御霊の賜物と深く関っているのである。

       御霊の約束は創世記3章の中には出て来ない。ノアの契約の中にも、アブラハムの契約の中にも、モーセの契約の中にも、「御霊が与えられる」という約束は明確なものとしては与えられていなかった。モーセの契約の中には、皆に御霊が与えられて皆が預言する者となるという箇所が一つある。ある意味でそれは新しい契約とはどのようなものなのかを表わしているものだと言えよう。しかし、具体的な言い方としての御霊の預言はまだない。イザヤ、エゼキエル、ゼパニヤなどの預言者たちのときになると、「新しい契約は御霊の契約である」ということが繰り返し言われるようになる。

       例えば、イザヤはメサイアが主の霊を持っていることを預言し(イザヤ書11章2節、42章1節、61章1節)、御霊の賜物が御民に神の祝福をもたらすことを預言している。イザヤ書32章15節で、神は、「ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」と預言し、同44章3節では「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」と預言している。「わたしの霊」というのは「わたしの御霊」ということである。へブル語の「」という言葉は「御霊」と同じ言葉なのだ。これは御霊の祝福の約束に関する旧約聖書の有名な箇所の一つである。それから、エゼキエル書36章25〜29節を見よう。

    わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれを増やし、ききんをあなたがたに送らない。

       もっと続けて読みたい箇所であるが、ここで、「水を振りかける」ことと「新しい霊を授ける」即ち「御霊を与える」こととが一緒になっている。イザヤ書44章3節でも同じように、「わたしは・・・水を注ぐ」とあり、そして「わたしの霊を・・・注ごう」と神は言っておられる。そして、エゼキエル書37章14節を見ると、次のように神は言っておられるのだ。

    わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。――主の御告げ。――

       御霊の祝福を与えるとき、墓の中で死んで骨になっている者が生き返るという預言である。御霊の祝福はいのちの祝福を与えるものである。同37章の26節にも「平和の契約を結ぶ」「これは永遠の契約となる」とあり、27節では「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と、神は言っておられる。神はそこでエデンの園の祝福について話しておられる。それが私たちに与えられると言っておられるのである。エゼキエル書の他の箇所にも同じようなことが預言されているが(11章19節、39章29節)、ヨエル書2章28〜29節にも、同じ祝福が約束されている。

    その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

       これらは一例に過ぎないが、このように、旧約聖書の最後の契約の時代の中に、御霊の祝福が与えられるという預言がたくさんある。旧約時代のイスラエルに対して神は、預言者を通して、「新しい契約が与えられる」ということと「聖霊が注がれ、御霊の祝福が与えられる」ということを繰り返し語っておられたのである。「新しい契約」は御霊の契約であり、いのちの契約であることをイスラエルに語っている。そして、御霊の象徴として「」が出てくる。これが「罪と死の契約」と違うのは明らかである。「罪と死の契約」の基本的象徴は「」であると言ってよい。「血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない」と命じられていた(申命記12章24節、15章23節など)。そして、いけにえを捧げるとき、血を、神の前に注ぎ出すのである。それは古い契約では基本的なことであった。

       モーセの律法のきよめの基本的な原則を説明する中で、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と、ヘブル人への手紙9章22節にも記されている。罪に対する処罰が執行され、神は、その注ぎだされた血を見て、イスラエルの罪を赦すのである。そして、モーセは祭壇の上に血を振りかけたり、大祭司が年に一度だけ天幕の至聖所に入って血を振りかけなければならなかった。古い契約は血の契約である。血を流す契約であり、血を注ぎだす契約であった。それ故、それは「死の契約」と言うこともできる。つまり、それは「死を要求する神のさばき」の契約だという言い方ができるのである。

       「新しい契約」は「」の契約である。「洗い浄め」はキリストの死と贖いによって行われるのだが、「」による洗い浄めが預言者たちによって宣言されていた。確かに旧約聖書の中には水による洗いの儀式がたくさんある。ヘブル人への手紙9章10節では、「種々の洗いに関するもの」と説明されているが、この「洗い」という言葉はギリシャ語の「バプテスマ」という言葉である。普通に私たちが「バプテスマ」と言っているのと同じ言葉なのだ。つまり、「旧約聖書の律法の中には、血の浄めの基礎として、数多くの水のバプテスマがあった」という意味なのである。「」のよる洗いの儀式はたくさんあった。けれども、それら「水の洗い」の儀式はみな、血を流す儀式なしには成り立たないものであった。繰り返し血を流さなければならないその古い契約は、まさに「罪と死の契約」であった。

       それは「あなたは罪人である」ということを常に思い起こさせる契約である。「あなたは裁かれなければだめだ」ということがとても強調されている契約なのである。毎朝、祭司たちはまずいけにえを神に捧げなければならない。夕方もまた、いけにえを捧げなければならない。安息日には、いけにえを倍にして捧げなければならなかった。休みは祭司たちにとっては忙しく働く日であったのだ。そして、イスラエルの祭りにおいても、おびただしいいけにえが捧げられなければならなかった。殺す。殺す。殺す。血を流す。血を流す。血を注ぎ出す。それが古い契約であった。それによって、それが罪と死の契約であることを明確に表わしている。

       御霊の祝福は全く知られていなかったわけではないが、アダムからキリストまでの古い契約は、その契約の中にいる人々に対して聖霊の賜物について何も特別な約束もなかった。しかし、預言者の時代には、「御霊が与えられて、水によって洗い浄められる」という預言が与えられ、御霊の賜物の約束が強調されていた。新しい契約が際立って御霊の契約であるからである。

       バプテスマのヨハネがその働きを始めたとき、「聖霊の賜物」は彼の教えの主要なテ−マの一つであった。主イエス・キリストがこの世に来られたとき、バプテスマのヨハネがキリストについて預言している。マタイの福音書3章11節を見てほしい(ルカ福音書3章16節、マルコ福音書1章8節にも記されている)。

    私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

       ここに「聖霊のバプテスマと火のバプテスマを授ける」とある。これは、主イエス・キリストがイスラエルに与える「バプテスマ」のことである。メサイアは新しい契約をもたらすが、その特徴は単なる水の浄めではなく、神の聖霊によるバプテスマであった。「火のバプテスマ」は、紀元70年に成就されたバプテスマのことであり、それは神の裁きのバプテスマであった。「御霊のバプテスマ」が授けられることは、使徒行伝2章のところで成就されている(使徒行伝1章5節、同8節、2章1〜4節、同17節以下)。「御霊のバプテスマを与えてくださる」というのは、新しい契約の約束である。

       「新しい契約の頭である主イエス・キリストがこの世に来られた目的は、信じる者に御霊のバプテスマを授け、御霊の祝福を注ぐためであった」という言い方もできるわけである。マタイ、マルコ、ルカの福音書の中で御霊のバプテスマの話が出て来るし、ヨハネの福音書1章でも同じことが少し違う言い方で語られている。ヨハネの福音書1章31〜33節でバプテスマのヨハネはこう言っている。

    「私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』

       主イエス・キリストが与えてくださるバプテスマは「御霊のバプテスマ」である。ヨハネの教えの基本は、その約束を繰り返しイスラエルに語ることであった。「預言のとおりに、御霊の祝福が与えられる」ということであった。そのことを主イエス・キリスト御自身もヨハネの福音書7章37〜38節で次のように言っておられる。

    さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

       祭りの最後の日に、主イエス・キリストは、御霊の祝福が与えられることを宣言した。そして、ここでも、「御霊の祝福」と「水」のことが一緒になっているのを見るのである。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とある。「自分の中から水が湧き出る」という言い方は非常におもしろい表現だと思う。その意味は、「一人ひとりがエデンの園になる」ということである。クリスチャンの一人ひとりは神の神殿となるのである。

       これは、パウロがコリント人への第一の手紙の16章と17章で話していることである。クリスチャン一人ひとりが神の神殿であり、聖霊が私たちに宿っておられる。御霊が私たちのうちに住んでおられるのである。新しい契約の本質的な賜物とは、キリストを信じる信仰を通して御霊御自身が私たちのうちに住まわれることなのである。「神の神殿となる」ということは、象徴的にはエデンの園と同じことなのだ。神殿、エデンの園、天幕は、同じものを表わす象徴である。

       創世記を見ればわかるが、エデンの園の中から水が湧き出ており、四つの川となって全世界に水を注いでいる。そこには象徴的な意味もあった。水が流れ出るというのは、「祝福が注ぎ出される」という意味である。そして、全世界がエデンの園から注ぎだされる水によって祝福を受けるのである。私たち一人ひとりの中に神の御霊が住まわれるということは、私たちの中から御霊の影響が流れ出て、神の御恵みがこの世の中に豊かに流れ出るようになるということである。

       だから、クリスチャン一人ひとりが神殿であり、一人ひとりがエデンの園なのだということを、主イエス・キリストはここで教えているのである。「御霊のバプテスマ」を受ける者には、御霊が宿り、御霊はその人を通して神の御恵みの祝福を周りの世界に与えてくださる。そこには、「福音が広められる」という意味もあるが、それだけでなく、もっと深くて広い意味がある。そのことが続く7章39節で説明されている。

    これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

       主イエス・キリストは、御霊の祝福が与えられることを預言してこの言い方をされたのだということを、ヨハネが説明しているわけである。ヨハネの福音書13章から16章までの箇所で、主イエス・キリストは弟子たちと最後の食事をする中で弟子たちにいろいろなことを教えられた。その最後の説教の教えの中の最も大切なポイントの一つは、「わたしは御霊の祝福をあなたたちに与える」という約束である。

       キリストは、御自分が天に戻らなければ御霊の祝福は与えられない、と弟子たちに説明している。しかし、御霊が与えられたなら、正しく福音を述べ伝えることができるようになることを、弟子たちに教えた。即ち、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」と、弟子たちに話されたのである(ヨハネの福音書14章26節)。そのキリストの最後の説教の最も大切な要点の一つが、この御霊についての教えであった。聖霊の賜物が与えられることを説明されたのである。

       そして、使徒行伝の1章で、主イエス・キリストは天に戻られる前に弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と彼らに命じている(使徒行伝1章4〜5節)。それだから、使徒行伝2章のところで弟子たちはみな集まり、御霊の賜物が与えられるのを待つということになったわけである。そして、弟子たちが「御霊のバプテスマ」を受けたことが同8節に記されている。

    聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

       御霊の祝福によって私たちは主イエス・キリストの証人となり、キリストの働き人となる。そして、キリストのために実を結ぶことができる者となるのである。もはや肉の原則に従って生きる者ではなく、御霊の力によって生きる者となるのである。それが、新しい契約の祝福なのだ。

       そして、パウロがバプテスマについて話しているとき、御霊のバプテスマと水のバプテスマをそれほど区別して話していないという点にも注目すべきである。なぜなら、基本的に両者は一つのバプテスマだからである。この二つは一緒に考えるべきものである。使徒行伝を読むと、人々が「私はイエス・キリストを信じます」と告白したなら、バプテスマはその一週間後とか二週間後とか、年に一度の儀式においてやるようなものではないことがわかる。16章では、パウロが牢獄の看守とその家族に福音を伝えたとき、看守とその家族が信じたので、その場ですぐに家族全員にバプテスマを授けたことが記されている。だから、信仰告白と水のバプテスマと御霊のバプテスマが全部一つのこととしてあるのであって、時間的に一緒になっているわけである。それ故、それらを一つのこととして考えることができる。

       使徒行伝ではそのようにバプテスマを授けたことが他にも記されている。10章44節のところでは、ペテロがまだ話しているときに御霊が異邦人たちの上に注がれたことが記されている。そのことがペテロにわかったので、少し後になってから47〜48節のところでバプテスマを授けた。御霊の祝福が先にきて、バプテスマが後になったが、それでも時間的にはほとんど一緒のことであった。その人たちにも御霊の祝福が与えられたことがわかった時、ペテロは「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったい誰が、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか」と言って、バプテスマを授けるように命じたのである。

       御霊の祝福が先に与えられたのはなぜか。それは、神は異邦人にも同じように新しい契約の祝福を与えてくださることを、神御自身が直接ペテロに証明するためであったのは明らかである。それをペテロが見るとき、先に割礼を施すとか律法を守るというような話にはならない。もう既に御霊の祝福という新しい契約の中心的な祝福をその人々は受けたのであれば、水のバプテスマをも受けるための障害は何もないのである。信仰と御霊のバプテスマと水のバプテスマは一緒になっている。

       殆ど一緒であるが、この使徒行伝10章の場合は、御霊が注がれることが先になっている。これは、常に同じ順序というわけでもない。使徒行伝の8章を見ると、水のバプテスマを受けてから何週間か後に御霊のバプテスマが与えられたことが記されている(8章14〜17節)。その前から御霊はずっとその信じた人々の中で働いておられたことは確かであるけれども、正式に御霊を受けたのは数週間後であった。だから、「水のバプテスマ」も「御霊のバプテスマ」も、ともに「バプテスマ」と呼ばれているのは、「一緒に考えるように」ということなのだと理解すべきである。

       御霊のバプテスマによって行われる救いを水のバプテスマのように言う箇所もあれば、水のバプテスマと御霊のバプテスマをはっきりと区別する使徒行伝8章のような箇所もある。使徒行伝全体を通して、御霊の賜物は、福音と新しい契約の到来を信じる信仰と結びつけられているのである(4章31節、6章3節、11章15〜16節、15章8節、19章2節など)。新しい契約の祝福を表わす最初の儀式は「水のバプテスマ」である。しかし、新しい契約の基本的な祝福は何なのかというと、御霊(聖霊)そのものである。

       だから、エゼキエル書にあるように、「水を注ぐ」とか「水を振りかける」と言っており、そのようにバプテスマを行なうことによって御霊が上から与えられるということを表わすのである。御霊の祝福を水のバプテスマを通して表わすことによって、新しい契約においては「御霊が与えられる」ことを教えている。

       だから、古い契約の頭アダムとエバはエデンの園から追放されたけれども、私たちはキリストの贖いによってエデンの園に戻ってエデンの園に入るだけでなく、エデンの園が私たちの中に入るのである。それが「新しい契約」である。堕落する前のアダムとエバの状態よりも高くて素晴らしい祝福が与えられるのである。

       パウロは、地域教会について話すときにも、一つ一つの地域教会が神の神殿であることを教えているが、個人のクリスチャン一人ひとりが神の神殿であることをパウロは強調している。「いのちの御霊」が私たちに与えられて、「いのちの御霊」の新しい契約によって、古い契約から解放されたのである。古い契約は、神から離れており、罪のゆえに死ぬ。新しい契約は、神が共に居てくださり、神が私たちのうちに住んでくださり、私たちに祝福を与えるだけでなく、私たちを通していのちの祝福をこの世に与えるという契約なのである。それが「新しい契約」である。

       ローマ人への手紙8章2節のところでパウロが「キリストにあるいのちの御霊の律法」という言い方をするとき、それは旧約聖書からずっと預言されてきた御霊の祝福を指している。それは、キリスト・イエスにある契約を、御霊を与える契約として話している。この御方は「いのちの御霊」であられる。私たちが復活のいのちを受けるのは、神の御霊の賜物を通して与えられるものである。この御方は、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊」と呼ばれるが、それは、キリストにある者だけがこのいのちにあずかるからである。「御霊のバプテスマ」を授けるために主イエス・キリストはこの世に来てくださり、実際に「御霊のバプテスマ」を授けて教会に御霊を注いでくださった。私たち一人ひとりには、その御霊の祝福が与えられている。

       それだから、8章の次のところで、「肉の思い」ではなくて、「御霊による思い」という言い方を繰り返し使って説明するのである。肉の思いは神に敵対するものである。御霊の思いは神を愛し、神の栄光を求める思いである。そこに、クリスチャンとクリスチャンでない者の根本的な違いが出て来ている。クリスチャンではない人は古い契約の中に留まっている。クリスチャンではない人は、神が与えてくださる知識に対して反抗し、逆らい、神が一緒におられることを嫌い、神のいのちから逃げて行く。彼らは死を選ぶ。それが古い契約の罪人の状態である。それは、アダムとエバがエデンの園から追い出されたときの状態である。それが「肉の思い」の話である。

       「御霊による思い」は、コリント人への第一の手紙6章にあるように、「私は神殿である。私のからだは神の神殿なので、その神殿をきよく正しく使わなければならない」という思いである。「私は神の神殿なので、神の祝福が与えられている。それゆえ、この世に対して神の御国の祝福を与えなければならない。そのためにこそ、私はこの世の中に生きているのだ」という思いをもって生きている。その私たちの中から御霊の祝福が泉のように湧き出て流れ出るという約束を、キリストは与えてくださった。私たちは、神の御国の祝福をこの世に広めるためにこの世にいるのである。

       救いが与えられるのは、個人一人ひとりが死んだ後に天国に行けるということだけではない。この世に生きている間に、御霊の祝福を豊かにこの世に対して与えるように、「」がもっともっと自分の中から流れ出て、もっともっと神の栄光が表わされていくような生活をするために救われたのである。エゼキエル書40〜48章にある神殿の象徴はそのことを表わしている。神殿の真ん中に至聖所があり、その至聖所の中に王座があり、その王座から水が湧き出ている。その王座から離れて行けば行くほど、川が広くなり深くなって行く。それによって、全世界はその川の水によって潤い、洗い浄められていくということを表わしている。

       事実、そのエズラの時代から、実際にユダヤ人が全世界に対して神の御言葉の影響を与えるようになっていった。エズラたちの時代から、至る所に御言葉の影響がどんどん広められていったのである。それは、古い契約の中では一番近い時代なので、宣教の働きはこのエズラの時代から始まっていたことを、エズラ書やネヘミヤ記などを通して見ることができる。その御霊の祝福が私たちにも与えられているのである。そして、新しい契約の時代にある私たちに与えられている祝福はエズラの時代よりもずっと大きなものである。キリストが弟子たちに説明しているように、今までは御霊はともにいてくれたけれども、これからは、御霊は私たちの中に住まうのである。その「いのちの御霊の祝福」が、私たちに与えられている。それだから、御霊の思いを持って生き、御国を第一に求める生活をしなければならない。

       「古い契約」と「新しい契約」の根本的な違いは「」と「御霊」にある。別な言い方をするなら、それは「」と「いのち」の違いである。そして、「失敗」と「成功」の違いである。更に、それは「神から離れて死ぬ状態」と「神と共に住まう御国の状態」の違いである。つまり、ローマ人への手紙8章2節を終末論においても適用して考えなければならないのである。古い契約はアダムとエバを祝福するために与えられた。契約そのものは「罪と死の律法」ではなかったが、アダムの罪と堕落以来の「」の無力のゆえに、古い契約は罪を定義し、罪を促しさえするものとなり、それによって死をもたらす契約となった。

       アダムの堕落以来、古い契約の発展におけるあらゆる段階は、それぞれの時代に神の裁きをもたらす罪の漸進的な現われのうちに終わっていた。つまり、古い契約は毎回失敗に終わるものである。アダムの契約はノアの洪水に終わる。ノアの契約はバベルの塔の裁きに終わる。アブラハムの契約は、イスラエルが裁かれてエジプトの奴隷となる状態で終わっている。モーセの契約は、イスラエルがペリシテ人によって裁かれて終わる。ダビデの契約は、イスラエルがバビロンの捕囚となるところで終わる。古い契約の最後の契約時代であるエズラの契約は、パリサイ人がキリストを十字架につけ、紀元70年のイスラエルと神殿の破壊をもって幕を閉じたのである。古い契約は、罪のために死ぬことの繰り返しであった。古い契約におけるどの時代も、そのようにして罪と死に終わったのである。

       それと正反対に、新しい契約は御霊の祝福の契約であり、御霊の力が私たちから湧き出ることによって神の御言葉の祝福が世界に広められるのである。キリストの時から今日に至るまでそれは続いており、今も私たちは、その御霊の祝福によって勝利が与えられるという確信をもって、御国のために働いている。「勝利は、自分の目の前に毎日見えるものだ」という約束ではないので、誤解してはならない。「復活は十字架を通してあるのだ」ということを覚えなければならない。

       確かに、十字架を負って死ななければならない時代もあるし、復活の祝福ばかり受けているような時代もある。改革の時代は十字架を負って死ななければならない時代だと言えよう。しかし、御霊の祝福が与えられたので、本当に神の御言葉に従って神の栄光のために働くなら、必ずや実を結ぶのである。だから、真剣に祈り、求め、御言葉を守り行ない、望みと喜びをもって神がどのように働くかを待ち望むのである。神が何をしておられるかを、信仰の目をもって見るのである。

       新しい契約が私たちを古い契約から解放するということは、5章で語ったこと、そして7章6節で語ったことと本質的に同じである。パウロは「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」と言っている。古い契約は、肉、堕落した罪深さのゆえに、それは重荷であった。私たちの契約的なアダムとの一致は、私たちが彼のように罪深く、神に対して反抗的であることを意味していた。キリストにあって、即ち、新しい契約の頭との神の御前における新しい立場にあって、私たちは罪の支配とそのあとに必ず来るであろう死の支配から解放されている。

       私たちにこの自由をもたらすのは神の御霊である。御霊は私たちを自由にしてくださる。御霊の賜物こそ、私たちにいのちと救いの全き祝福をもたらす神の賜物である。新しい契約の罪と死に対する勝利は単なる祝福だけではないし、個人の祝福にとどまるものでもない。十字架の死と復活によって、主イエス・キリストはこの世に打ち勝ったのである。その死と復活は、新しい人類のために死からいのちをもたらされた。

       新しい契約の完全な意味は、全宇宙をも含めるものであり、決してただ個人的なものではない。それゆえ、ここでパウロが述べていることを考えるとき、そこに含まれているより広い契約的な意味をも考えなければならない。罪と死がアダムという契約の頭の基本的原則であったため、古い契約における様々な時代がより大きな罪と死で終わらなければならなかったのと同様に、新しい契約も、義しさといのちは新しい契約と御霊の賜物の基本的な原則であるゆえ、キリストにあるいのちの時代で終わらなければならない。キリストにある新しい契約は勝利の契約である。自由を与える契約である。それはいのちの契約である。なぜなら、主であられるキリストが御自身の死と復活とを通して「罪と死」を完全に滅ぼしたからである。死と罪はもはや新しい契約にある者を支配することはない。

       パウロが述べるこの真の自由は、キリストにある者を通して徐々に全世界に広まり、神の救いの御力と御恵みとを現わすであろう。キリストを信じる者たちの最も深いところから流れ出すいのちの水が、周りの世界に救いをもたらすであろう。そのように神の御霊はキリストを信じる者の中に宿りたもうのである。これは、キリストの約束である。

       前にも話した例だが、インドで働いていた宣教師だと覚えているが、彼は生涯をかけて伝道したけれども誰一人救われなかった。死ぬ直前に彼は森の中で祈っていが、ちょうどその時、一人のクリスチャンではない人が彼の祈りを聞いていた。間もなくその宣教師は主に召されて死んだ。なんと、彼が死ぬ直前の祈りを聞いたその人が救われて、キリストを信じたのである。そして、その人を通しておびただしい人々が救われたのである。つまり、その伝道者の一生の働きによって結んだ実は、その死ぬ直前に彼の祈りを聞いた一人の人間だけであったのだ。約四十年間の彼の宣教の働きには、その一人に救いを与えるためであった。最後まで神に信頼し、神を愛し、決して神から離れないという証しが必要だったのである。

       比喩的に言えば、その十字架の働きがなければ、次の時代に復活の働きはないということなのだ。「私は十字架は怖い、嫌だ」と言うなら、それは荒野をさ迷ったイスラエルの生き方である。「カナン人と戦わなくてはならないのか。その改革の働きをしなければいけないのか。そんなことなら、エジプトで死んだ方がましだった」と言うようなクリスチャンは、死ぬ以外には役に立たない。死んでから、次の時代には何か実を結ぶことができるかも知れない。荒野の中のイスラエルの時代は、十字架を負うことを嫌ったので、実を結ぶことはできなかったのだ。

       十字架を負って未来のために働くとき、神が契約の祝福を与えてくださることを信じて期待しているけれども、その期待が自分の生きている間に実現するとは限らないのである。「信仰によって生きる」ということは、神の約束を信じて歩むことなのだ。「私の目の前に約束が成就されなければ信じられない」と言うなら、それは信仰ではない。そのような人は“目”で生きているのであって、神を信じ、神の御言葉に従って歩む者ではない。

       神を信じる私たちの中には御霊が住んでおられるが、その目的は、私たちを通してこの世に祝福を与えるためである。その約束を信じて、如何なる状況の中にあっても、とにかく神に祈り求めて御言葉を守り、神を待ち望むのである。新しい御霊の祝福が与えられている私たちは、御霊の思いをもって生きるのである。神の栄光を求め、この御霊の祝福を全世界に広げることが今、私たちに与えられた働きなのである。そのことをパウロはローマ人への手紙8章で説明していると思う。パウロの言葉を、私たちはそのような大きな契約の関係において考え捉える必要があると思う。

       そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたい。聖餐式のときに私たちは、信仰によって生きる心に戻るものである。そして、「私がこの世に生きている意味と目的は、主イエス・キリストのために実を結ぶことです」という認識に戻るのである。神は、私たちを愛して、主イエス・キリスト御自身を私たちのためにこの世に遣わしてくださった。主イエス・キリストの死と復活は、私たちを救うためであった。キリストのからだを表わすパンを与えてくださるのは長老たちではなくて、神御自身である。神が、私たちに、そして子どもたちに、主イエス・キリストのからだを表わすパンを与えてくださる。神御自身が、主イエス・キリストの血を表わす杯を私たちに与えてくださる。それを受けるということは、主イエス・キリストを受けるのである。キリストを信じることを行動において告白するのである。

       この聖餐式は神の愛を表わす儀式であり、私たちはこのパンを食べ杯を飲むことによって、神の愛を受けることを表わしている。これは、神に対する信仰と従順とを表わすものである。そして、「私は御霊の思いを持ってキリストのために生きます」という心に戻り、そのことを新たに誓って、聖餐式にあずかるのである。

     

    2000年6月11日

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章1〜8節

    ローマ人への手紙8章3〜4節

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