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    ローマ人への手紙8章7〜8節


    8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

    8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

    2000.07.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    8章7〜8節

       今、福音総合研究所のインターネットのホ−ムペ−ジに色々な学びの資料を音声や文章で掲載する計画が進められている。実は、私の博士論文は比較宗教を扱うものであり、比較宗教については英語と日本語の両方を載せようと思っている。比較宗教については、今日学ぶローマ人への手紙の8章の7〜8節の箇所は非常に大切なところである。そこにはこう書いてある。

    というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

       この箇所でパウロは、私たちに、聖書の心理学の極めて重大なポイントを教えている。つまり、クリスチャンではない人たちの心理学について考えるとき、ここには興味深いことがある。ア−ネスト・ベッカ−という人が書いた「死の恐れ」という本がある。その本の中でア−ネスト・ベッカ−は、人間はいろいろな活動をするが、それは結局は死の恐れを隠そうとしたり逃避しようとしてやっていることなのだと言っている。そして、その本の中では色々な心理学者の言葉が多く引用されており、「結局のところ、人間の言うことや行動はもっと心の深い部分から出て来ている」と説明している。

       ア−ネスト・ベッカ−の解釈によれば、人間の心の最も深いところにあるのは「死に対する恐怖」である。しかしパウロは、人間の心の最も深いところが死に対する恐怖だとは言っていないのである。人の心には、もっと深いところがある。確かに人の心の奥底には死に対する恐怖があるが、それよりももっと深いところに入ると、そこには「神の裁きに対する恐れ」がある。それよりも更に深いところに入ると、そこには「神に敵対する心」がある、ということをパウロは話している。それが、罪人の心の最も深いところにある思いであり、人間の心の中の本質の本質の本質なのである。

       英語には"Quintessential"という言葉があるが、第五元の究極至高の本質というような意味である。ここでパウロは、人間の心の一番深いところの状態について話しているのである。「肉の思いは神に対して反抗するものだから」と言っている。比較宗教について考えるとき、これは非常に重大なポイントとなる。なぜ世には複数の宗教があるのだろうか。それは、人間が真の神から逃げることを求めるところから出てきていることなのだ。罪人は、色々な形において神から逃避しようとする。ア−ネスト・ベッカ−が言う「人間の死に対する恐怖」もこれと関係している。

       「年取ってから、どうしても自分を若く見せようとする気持ちの中にも、実は死に対する恐怖がある」とア−ネスト・ベッカ−は本の中で説明している。人間の死に対する恐怖は、毎日の生活の大小様々なことにおいても出て来る。しかし、そのもっと深いところにあるのは、神に敵対し、神に対して反抗する心なのである。人間は、自分には神に逆らう心があることを自分でも認めたくないものである。だから、神に対して逆らっている心の部分を隠すために、何かの形において神を求める“物”を作ろうとするような心理的部分がある。そのような信奉の対象を自分の手で作って、それを神にする。

       「私は敬虔な者であり、私は、神に逆らってなんかいません」と自分にも言えるようにするために、結局、神に対して反抗する心を更に深めていく行動を取るのである。それが、ここでパウロが言おうとしている人間の最も深いところの深層心理なのである。比較宗教の重要なポイントの一つである「どうして沢山の宗教があるのか」という問いに対して、主イエス・キリストは「広い道と狭い道がある」と教えている。「狭い道」とは、神を信じて神に従う道であり、「広い道」とは、神から逃げようとする道である。この「広い道」は、細かく分析すれば多くの道があるように見えるが、結局のところそれは「神から逃げていく方法を見つけながら歩む道」なのだ。

       ここでパウロは「罪人は神に対して敵対し、神を憎む心を持っている」と言っているが、パウロが教えるこの箇所の心理は、少なくとも2つの理由で理解することが難しいものである。第一に、それが非常に過激に聞こえるためだ。それはほとんど私たち自身の自己認識とは合わないのである。私たちは、自分自身が、パウロがここで言うほど神に対して根本的かつ徹底的に敵対しているようには思えないのである。二番目の難しさは一番目のそれと関係がある。もしもこの箇所におけるパウロの教えが自分自身の経験と矛盾しているかのように思われるということでクリスチャンでさえ時折人間の心の正しい見方に至ることが難しいのならば、クリスチャンが人間の罪深さに関する聖書の考え方をクリスチャンではない人に説明することは、特に東洋においては、なおのこと困難なことなのである。

       西洋においては、いかに神を憎んでいるかを公けに誇る人々の長く傲慢な伝統があるために、これらの概念を説明することは実際のところそれほど難しくはない。しかし東洋では、彼らが神を憎んでいると告げたところで、彼らは私たちの言っていることが理解できないのはもちろん、一般的に人々は、私たちが「神」という言葉を言っても、それが何を意味するのかも知らないのである。確かに人間は、大声で自分自身の神への憎しみを宣言する者たちでさえ、神への憎しみが罪深い人間の心の最も深い心理だということを普通は主張しないものである。それを主張する者たちは、キリスト教の伝統の縄目から自由になるために戦う悟りある少数者の特権としてそれを主張するのである。

       神を憎むことがアダムの子らにとって典型的であることを彼らが認めなければならないとすれば、キリスト教への意識的な反感を持つ彼らの知的プライドのすべてが、実に無意味なものとして暴露されることになるのである。この「神に対して敵対する心」がどのようなものであるかを考えるとき、西洋と東洋ではかなりの違いがあるという事実を知らなければならないだろう。

     

    西洋における神への憎しみ

       そういうわけで、アメリカ人やヨ−ロッパ人に認識させるのはそう難しくはないが、日本人に伝えるのは非常に難しい。西洋に起こったいわゆる“啓蒙運動”の本質とは、まさに反キリスト教主義そのものであった。その意味での啓蒙運動は、肯定的というよりも否定的な運動であったと言える。啓蒙運動がキリスト教の聖書の権威に対して、人間の理性と科学の権威を提唱していたことは確かである。だが、それはキリスト教に反対する事実を科学者たちが発見したからというわけではなかった。実に、多くの初期の科学者たちは熱心なクリスチャンで、科学的見方と彼らのキリスト教信仰の間に一切矛盾を見出すことはなかったのである。

       より深いレベルにおいては、ただ矛盾がなかったというだけでなく、キリスト教信仰なくしては、学問としての科学すら誕生することは決してなかった、と言うべきである。というのは、科学の誕生は、ある特定の世界観、例えば古代ギリシャ、エジプト、中国、インドの世界観などとはかなり違う世界観を要求したからであった。総じてこれらの社会は根本的に非合理的なものとして世界を見ていた。また、“自然”は神秘として見られていた。世界が基本的に合理的であり、それゆえ、世界の規則正しい動きは数学的な方程式によって述べたり予測したりすることができ、またある場合に人間の目的のために操作することすら可能であるなどということは、彼らには思いもよらなかったのである。

       その理由は、彼らが創造の教理を持たなかったためである。彼らは、世界が合理的で愛なる神によって創造されたことを信じなかった。また、神は、支配を行なうものとして人間を創造されたがゆえに、人間が世界を理解する力を持つ神の似姿に創造されたということを信じなかったのである。しかし、啓蒙主義の思想家たちは科学の誕生後に生まれた人々であった。科学という赤ん坊が誕生したからには、彼らは他者に養子にされ、産みの親から引き離されて全く異なった知的家庭に置かれることはあり得たのである。

       初期の啓蒙主義思想家たちは合理主義者や理神論者が多く、彼らの見方は、「神は世界を創造した後に永遠の休暇でどこかへ出かけてしまい、世界をその勝手に任せ、人間がしたいようにされた」というものであった。その観点からすれば、「神はまだどこかに存在している」という問題があった。それで、神が世界を創造されたということが否定されてはおらず、たとえ神が創造の直後に歴史から姿を消されたとしても、「人間は創造主である神に対して責任がある」という意味はなおも含まれていた。

       「万能なる神」という概念は、ダーウィンの時まで西洋の反キリスト教的思想家たちからなかなか拭い去られることがなかったのである。そしてついに、アルダス・ハックスレー (Aldous Huxley) が「解放」と呼んだもの――進化論――の到来となるのである。彼自身にとっても、彼と同時代の人々の殆どにとっても、ハックスレーが主張したように「進化論は本質的に、解放の道具」であった。進化論の到来によって、ようやく、西洋の知識人たちは神から“解放”されて自由になったのだ。

       アメリカでは啓蒙運動の時以来、啓蒙運動をリ−ドした学者たちはキリスト教を捨て、キリストを憎んで捨てることを明確に表現してきた。有名なフランスの哲学者カミユは、その著書の中で「神が善なる神なら、私は悪を選ぶ」と明言している。誰に強いられるでもなく、「とにかく、神にはとことん敵対するのだ」という意志をはっきりもって神に逆らっていたのである。サルトルや他のフランスの哲学者たちも、啓蒙運動の時から、はっきりと意識的に神に逆らうのである。そのことは西洋の中ではよく見られることである。だから、西洋人に「人間の心の最も深みにあるのは神に対する反抗の心である」と説明するとき、幾らでも実例を挙げて証明することができるわけである。納得するかどうかは別として、その言わんとするポイントがよく解るし、よく考えることもできる。

       インターネットにも載せているが、バ−トランド・ラッセルに対する私のエッセイがある。バ−トランド・ラッセルは「なぜ私はクリスチャンではないのか」という論文を書いた。その論文は彼がある所で講義した内容をまとめたものであるが、それに対して私は短いエッセイを書いた。その第二部を今書いているところであるが、その第二部ではバ−トランド・ラッセルが書いた短編に対して話している。彼はその短編の中である医者の話をしているが、最終的に彼はその中で自分の心情を著している。何をしたいのかというと、「地球を消してしまいたい」とか「全人類を抹殺したい」と言っている。

       その短編は彼が年老いてから著したものであり、彼が生涯ずっと心にあった思いをそこに表現しようとしたものである。その短編を読めば、それが彼の本心であることは明らかであり、バ−トランド・ラッセルは、そのような深い憎しみの心を持って生きていたことがわかる。どうして人間をそこまで憎むのか。どうして全人類を殺してしまいたいというほどの気持ちになるのか。その答えは、彼が神に対して反抗しているからなのである。

       どこから彼はそのような心を持つようになったのかというと、彼のお婆さんが彼に対して非常に残酷なことをしたのだという。その残酷なこととは、お婆さんが彼を教会に連れていったことであった。教会に座って長い説教を聞き、長い祈りに我慢しなければならなかった。「これほど残酷なことはない」と彼は思った。そのお婆さんに対する深い憎しみは、神に対する憎しみでもあったし、キリスト教に対する憎しみでもあった。なぜバ−トランド・ラッセルはクリスチャンにならなかったのかというと、簡単に言えば、彼は心の中にはっきりと自分は神を憎んでいるという認識を持って生きていたからだ、ということに尽きるのである。

       パブロ・ピカソも、色々なところで神を憎むことを表現していたし、死ぬ前に自分の自画像を描いたときにも、そこに死と地獄の恐怖が強烈に表現されている。そのように、西洋の啓蒙運動の有名なインテリ派たちには、自分たちが神を憎んでおり神に敵対しているということを明白に認識していた人が大勢いた。西洋にはそのような伝統があるので、罪人が神を憎むことの意味について話すことはそれほど難しくはない。

       私たちは自分自身のうちにそれを見ることはなくても、若干の名前を上げることによって、例えば、ハックスレー、ニーチェ、バートランド・ラッセル、カミュ、サルトルなどの人々からの“助け”があれば、パウロが何について話しているのかということを具体的に理解することができるのである。「人間の罪の本質は何なのか。人間の心の最も深いところはどういうものなのか」を語るときに、それらを見せて「これがそうだ」と示せばかなり意味は通じるわけである。「なるほど」という話にもなるわけである。しかし、東洋ではそうはいかない。

     

    東洋における神への憎しみ

       日本人や東洋人に「あなたの心の本質は、神に敵対する思いなのですよ」と話したら、「いったい何の話ですか」と思われてしまう。「私は、神に敵対する思いなんて一度も持ったことはありませんよ」と言われる。「そもそも神って何なんですか。なんの話なのか、よくわかりません」という答えになってしまうのが普通である。それを説明すること自体が難しいことなのだ。基本的に何の話をしているのかというところでなかなか先に進まないのである。「私には、神に敵対する心とか反抗する思いはない」というのが普通の東洋人の思いであろう。

       実は、東洋では、キリスト教の伝統はかなり昔に死んでしまったため、殆どの東洋人は8世紀頃にはヨーロッパよりも中国の方が多くのキリスト者がいたということすら知らない。今日、中国や韓国でキリスト者人口が急増していると言っても、神や創造についての聖書の教えはほとんど知られていない。従って、クリスチャンではない人たちはたいてい神に対して全く反感を抱いているという意識もないばかりか、神の名にふさわしい事柄について何も意識さえしていない。異教の本質には必ず神の代わりに悪霊という代替物があるからだ。

       このことは、南アメリカの多雨林地帯における異教のように、異教のより原始的な形態の場合にはっきりと見られる真実である。彼らは悪霊を信じ、それらと意志の疎通をする。しかし、悪魔とその手下共は、多雨林地帯の種族の世界観において唯一大切と考えられる“神々”なのである。聖書の創造主なる神については、そのような神が存在するという伝統を持っている場合でも、彼らの日常生活とはほとんど無関係なのである。

       現代の東洋についても同じことが言える。東洋では、罪人の心に宿る神に対する敵対心は、その発展段階の最高レベルに達している。心の中で感じることのできるレベルの憎しみ、つまり、心の中で怒り狂うような憎しみは、まだ熟した憎しみにはなっていない。嫌悪が十分に熟してくると、人は憎しみの対称をその存在すら完全に無視するようになるのだ。従って、現代の東洋は、神の憎しみにおいて西洋の後に続いているのではない。西洋の先を行っているのである。

       実は、異教の宗教の最大の成功がどこにあるかというと、それは、神についての認識そのものが消えてしまうところにあるのだ。そこに異教の宗教の成功がある。無神論者であった有名なシ−・エス・ルイスというケンブリッジ大学の英文学教授が、教授になってからクリスチャンになって多くの小説を書いた。彼は本の中で悪魔について書いている。彼は、「悪魔の欺瞞の目的は、人間がもはや神の存在を信じず、悪魔の存在を信じるところまで人間を導くことである」と書いた。悪魔が企てている計画とは、悪魔に対する認識を残したままで神を信じることをやめさせ、神に対する認識を取り消してしまうことである。それがサタンの目的である。悪魔を知り、悪魔を敬い、悪魔を大切にするが、神に対する認識はゼロにする。それが出来れば悪魔にとっては大成功なのである、ということを彼は本の中で書いている。

       実にその通りである。それが、東洋の有様である。東洋人に悪魔について話しても、ピンと来ないことはない。“たたり”について話せば、すぐにピンと来る。日本には霊を真剣に考え、それらがもたらす呪いを心配する人々が沢山いる。死んだ先祖たちは多額のお金がかかる儀式によってなだめなければならない。しかし、そこには神はいない。驚くことに、日本の大企業たちは真顔で“たたり”について心配するのである。会社に火事でも発生すれば、神社に巨額のお金を支払って神主に来てもらってお払いの儀式をして、今後もう火事がないように祈願してもらうのである。そういう意味で悪魔とか悪霊を、日本人は普通に信じている。そして、映画の中でも悪い霊の話が出てきても誰も変には思わない。よく話もわかるのだ。

       昔話の中にも悪霊や怨霊の話はたくさん出て来る。悪魔の存在なら具体的に感じることができるが、創造主である神についての話になると、ピンと来ない。三位一体の神の話になると、何の話だかわからないのである。これは異教の宗教の大成功した例である。悪魔を認識し、悪魔を恐れている。たたりを恐れ、色々な迷信的な恐怖の概念は毎日の生活の中にまで忍び込んで来ている。しかし、本当の神を愛し求めることはない。そのような社会になっている。これは、悪魔の計画の成功例であることをシ−・エス・ルイスは書いている。

       彼がこれらのことを書いた時点では、西洋の合理主義者たちはまだ超自然的なものは何でも否定する傾向にあった。それ以来随分経って、 今の西洋人は神の存在をあまり認識することなく、悪魔や霊をもっと真剣に受け止めるようになったのである。これは東洋がすでに陥っている状態である。神を憎むその憎しみが熟すると、まるで神なんか存在しないかのような思いになる。そして、その思いを持っていても苦しいとも何とも思わなくなる。そこまで、憎しみは熟したものになっているのだ。それが東洋の一般的な状態だと言うことができると思う。

       簡単な例として子どものことが挙げられる。子どもは、小さい頃から父と母から何でも与えられている。食べるもの、着るもの、寝る場所などなどすべてが与えられていて、言葉も普通は母が教えてくれる。両親は子どもに必要なすべてを与えるが、子どもたちは、まるで当然であるかのようにそれを受けるのである。子どもたちは毎朝起きて父母の所に走ってきて「昨日どうもありがとう。楽しかった。今日もお願いします」とは言わないだろう。私たちは食事の前に神に感謝を捧げている。朝も夜も神に感謝している。子どもと親の関係とは、本来そうであるべきなのだ。すべてを恵みとして受けているのである。

       子どもが大人になった時に、「私の父と母は存在していない」或いは「もうとっくに死んだ」と言って、完全に父と母を無視し、存在しないかのような心を持って生活するなら、それこそ憎しみに他ならないのである。両親に反抗する息子でも、なお両親を愛するかもしれない。しかし、親が存在していないかのように徹底的に無視をすることを身に付けた子は、真の憎しみの目標に到達したのである。父や母と喧嘩したりするとき、それは決して良いこととは言えないが、それは憎しみの心とは限らない。何のために喧嘩しているのかを見ると、罪人同士が、自分のベストを尽くしているつもりなのに、実は互いの邪魔をしているということはよくあることなのだ。

       逆に、憎んでいるから喧嘩するとは限らない。本当に憎んでいるなら、喧嘩もしないであろう。相手の存在自体を無視すればよい、とうことになる。これは憎しみの極みである。自分の父と母に対してそんなことができるだろうか。事実、稀ではあるが、それが出来る人もいないではない。私もそのような人間を知っている。彼は麻薬の常習犯で、完全に駄目になって道端で倒れていたときに、ある老婆が彼を抱き上げて自分の家に連れていって介抱してあげた。2〜3週間でその人は正常に戻ったので、老婆は彼に食べさせたりして世話をしてあげた。完全に元気になった彼は、老婆のお金やギタ−、その他、老婆の物を沢山盗んでその家を出た。老婆に感謝もしない。感謝どころか、他の人にその老婆がどんなにバカなのかを吹聴したのである。そういう人がいる。

       勿論、自分の父や母に対しても一切感謝の気持ちはない。誰に対しても、感謝はしない。その人の心は、神に対する罪人の心に他ならない。無視して自分勝手な道を歩む。何か神から命令でもされたなら、「何を言うか。俺が何様なのか知らないのか」と、噛みつくのである。「俺は、神に命令されるような覚えはない。俺に命令するな」と言って、歯をむき出す。

       もう一つの例は、これもアメリカ人の例だが、例えば旧約聖書には割礼という儀式がある。女性に対する割礼は聖書にはないが、男性に対して割礼について、「これは子どもに対する虐待だ」と言う人たちがいる。「それは酷い野蛮なことだ」と言う。アブラハムとイサクの話についても「野蛮だ」と言う。新約聖書に「妻は夫に従うべきです」という教えがあるが、それをも「野蛮な教えだ」と言う。なんでもかんでも、聖書の中にある教えのすべてを嫌うのである。「これは駄目」「あれは野蛮だ」「これは酷い教えだ」と言って、神の命令をことごとく嫌っているのである。その感情を真っ向から露にするのである。神の命令にとにかく反対するようなことを言う。

       「罪人の思いは神に対して反抗する」ということは、神の命令と神の存在が明白になればなるほど、ますますその心は憎しみを感じて逆らい始めるのである。そして、ぜんぜん認識せず、考えようともせず、完全に無視することができるようになれば、その憎しみは熟した状態になり、憎しみが成功した状態となるのである。現代のアメリカやヨーロッパは、まだ完全に神の存在を無視するところまではいかない。道を歩けば大きな教会やキリスト教の背景を持つ物があちらこちらにあって、神を無視する思いを持つことは難しい。しかし、東洋では、完全に神を無視することができる。ここでは、神に敵対する心がより進んでいると言ってよいと思う。平気で無視することができることこそ、憎しみの頂点なのである。そのことを理解しておく必要があると思う。

       十分に説明できたかどうかわからないが、これは非常に大切なポイントの一つである。是非とも理解しておかなければならないことである。サタンの東洋における勝利と東洋思想に対するその支配は一時的なものである。福音はすでに東洋の最大の領域である中国で脅威となるほどに成長している。日本にいる私たちにとって、「神」という言葉に対して曖昧な理解しか持たないクリスチャンではない人々に、いかにして聖書的な罪の概念を説明すべきかを考えることは大切である。彼らには、まず創造の話から始めなければならない。

       創造論と進化論の話も、「神に敵対する心」について考えるためには非常に大切なものである。福音総合研究所のクラスの中で教えている教材もあるし、日本語に訳されている本もあるので、それらを読んでみることをお勧めしたい。コンピュ−タ−の複雑さを見るとき、誰もこれが偶然に出来たとは思わないだろう。それが偶然に出来たと思うことの出来る人はまずいない。それなのに、人間の脳の複雑さについては、或いは人の遺伝子の複雑さを見るとき、「これは偶然に出来たものだ」と、どうして考えることができるのか。実にとんでもない話である。そう信じることができるのは、実に奇跡的と言えるほどにバカな考えと言うほかない。

       外に出て、そこに一台のベンツが止まっているのを見て、「あれ。前にはここにベンツなんかなかったのに、これは偶然に出来てしまったのに違いない。そう言えば、前にここに金属が落ちていたけど、きっとそれが進化してベンツになったのだ」と、誰も思うはずはないし、思えるはずもない。そこで何万年待っていても、進化など起こりはしない。それよりも何万倍も複雑で素晴らしい人間という存在が、偶然に出て来たと本当に信じることができるなんて、余りにもおかしくてしようがないことなのだ。しかし、それを普通の人たちはみな信じている。いったいこれはどういう事なのか。そのような“信仰”とは、どういうものなのだろうか。

       それは、まさしく「神に対して反抗する」心の一部なのである。神から逃げるために、まず創造を否定しなければならない。「創造主」の存在を消さなければならない。神から逃げることは絶対に出来ないので、創造を偶然とすり替えて、「万物は偶然に出て来たものである」という信仰を考え出したのである。つまり、「創造ではなくて、ただ偶然による何かの活動の中から宇宙が生まれ、人類も出て来た」というような説明をしなければ、創造主なる神から逃げることはできないのである。それで、十九世紀の人たちは、このダ−ウィンの進化論が発表されたときに小躍りして喜んだのである。「これで完全にキリスト教から離れることができる。これを使えば、キリスト教の神を捨てることができる」と、そう思ったのである。

       既に話したように、ダ−ウィンの理論が発表される以前には、「神が万物を創造した後で神は旅に出ていなくなってしまった」と考える理神論しかなかった。神から逃げるためにそう考えたけれども、物が存在するためには、まずすべてが神によって創造されたという事実だけは認めざるを得なかった。「神は何かの計画をもって宇宙万物を創造したが、それを放置したままいなくなってしまった。だから、創造の後はもう神はいらない」というような考えであった。

       しかし、進化論が発表された時、その「創造の初め」からも神の存在を消し去ることができるものとなったのだ。それは神に反抗する者たちの心を満たす考えであった。「これで完全に神を無視する道が開かれた」と思って、インテリ派の人たちは怒濤の勢いで進化論に走った。十九世紀のインテリ派の人たち自身が口を揃えて、ハックスレ−とともに「進化論は、我々をイエス・キリストから解放して自由にする手段であった」と言ってはばからなかったのである。

       神に対して敵対する者は、そのように理論においても神から自由になろうとする。それで、「この宇宙は全部偶然に出来てしまったものなので、最初から神も何もなく、ただ化学物質が漂っているだけの状態であった」と説明するしかない。そして、気が遠くなるほどの“長い時間”を経て現在のような宇宙に変化してきたと言うのである。化学物質はどこから来たのかというと、宇宙創成期の大爆発ビッグ・バンから生まれたと言う。「何が爆発したのか、どうして爆発したのか」という質問はタブ−なのである。

       ビッグ・バンの後、宇宙全体には水素が漂っていたと言う。しかし、水素だけにした場合、変化は絶対に起こらないのである。何万年放置しておいても、何億年放置しておいても、そこから人間が生まれてくることは決してない。しかし、何が何でも宇宙がそのようなビッグ・バンによって生まれたということを信じること自体、それは目的をもって万物を創造した神から逃がれるためなのである。そういう意味で、進化論について話すことによって、「あなたは神さまから逃げているんですよ」と説明してあげることができるかも知れない。しかし、この「創造」のところを取扱わなければ、神に対して敵対する心があるということを通じさせることは至難なことである。

       同時に、皮肉なことに、今の日本人は「愛」という言葉を大切にしている。百年前の日本では「愛」という言葉は殆ど使われていなかった。「慈愛」という言葉はあったが、「愛」という言葉はなかった。仏教に「慈愛」の概念が入ったのは、キリストの使徒ト−マスがインドに伝道した後のことであった。つまり、大乗仏教が現われてから初めて「慈愛」という言葉が使われるようになったのだ。それは、キリスト教からの借り物の概念だったのである。大乗仏教以前には慈愛という言葉もなかった。日本では、明治の頃であっても、互いに「愛してる」というような表現は使わなかったし、「愛」は概念としても殆ど持ってはいなかった。太平洋戦争前でも「愛」という言葉はめったに使われなかったのではないか。

       しかし、最近の若者の間ではやたらと「愛」という言葉が使われている。「愛は大切だよ」と、誰もが言うようになっている。ポップソングや流行歌の歌詞の中にもやたらと「愛」という言葉が出て来る。「愛」はどこから来たのか。これも偶然に出て来たものなのか。「愛」とは、いったい何なのか。どうして「愛」には意味があるのか。聖書の神を信じるなら答えはある。そうでなければ、偶然のどこから「愛」が生まれて来たというのか。ビッグ・バンから生まれた宇宙であれば「愛」には何も意味はないことになる。万物を創造した神を信じてはじめて理解できることである。ビッグ・バンから生まれた偶然の宇宙に「愛」は何も意味を為し得ないのである。

       愛なる神が人間をご自分の似姿に創造したので、人間は愛を求める存在であり、愛を必要とするものなのだ。神が愛であり、私たちは特別に神によってその似姿に創造されたので、「愛」という話があるのだ。その神を捨てて「愛だけが欲しい」と言うなら、それは愛ではなく、憎しみでしかない。例えば、婚約者から結婚指輪をもらったとする。大きな3カラットのダイヤの指輪である。それをもらった途端に「サンキュ−。グッドバイ」と言って関係を切ってしまうようなものだ。「愛は欲しいけど、愛である神は欲しくない。神はいらない」というわけである。それは愛ではなく、憎しみでしかない。

       また、「自由市場が欲しい」と人々は言う。では、“自由市場”の考え方はどこから来たというのか。ヨーロッパでキリスト教の影響が広がり、聖書の三位一体論に基づいた考え方から自由市場という概念は生まれたのである。それ以前には自由市場という概念はなかった。しかし、人々は、愛についてもそうであったように、「神はいらないが、自由という概念は欲しい。自由市場が欲しい」と言うのである。「神はいらないが、愛は欲しい」「神はいらないが、一婦一夫制は欲しい」と言うのである。日本人は今はもう考えもしなくなっているけれども、“一婦一夫制”は日本にあった制度ではないのだ。若い日本の女性は一夫多妻を喜びはしない。しかし、一婦一夫制は聖書の中で教えられているものであって、神の命令である聖書を守るところから出て来た制度なのだ。昔の異教の社会のどこにも一婦一夫制はなかったのである。

       「聖書にある諸々の“プレゼント”は欲しいけれども、聖書の神はいらない」と言う、それが「憎しみ」の本質なのである。そのように私たちも理解しなければ、説明を求められても説明はできないし、私たち自身もピンと来ないものになりかねない。偶然だということを信じることができるのは、憎しみから生み出されてきたまことに奇怪な信仰である。プレゼントは全部欲しいが、それを与えてくれる御方はいらない。それは神に反抗する心にほかならない。ちょうど進化論がハックスレーや彼のような他の人々にとってキリスト教からの解放の道具であったのと同様に、進化論が大いなるでっちあげであることを徐々に悟らされていくことは、神が聖書への回帰を人間にもたらすために用いられるものかもしれない。

       私たちが何者であり、この世において生きるとは何を意味するのかを教えるのは神の創造の教理なのである。その教理無しには、私たちは自分が何者なのかを真の意味で知ることはできない。その教理を理解し始めるとき、罪と贖いの意味をも理解する備えができている。言い換えれば、聖書的世界観全体が弁証され教えられなければならないのである。創造、堕落、贖いは、それぞれが一つのストーリーの切り離すことのできない部分なのである。

       既に説明したが、人間の罪の本質は普通の生活においてはあまり顕れて来ないものである。しかし、主イエス・キリストに出会うと、それはすぐに出て来る。そのことを新約聖書のユダヤ人のことにおいてはっきりと見ることができる。主イエス・キリストが当時のユダヤ人に話したのは、「あなたがたは、神から離れている。形において神を求めている振りをしているだけであって、心において完全に神から離れており、神を憎んでいる」ということであった。ユダヤ人は、キリストの説教を聞いたとき、キリストを殺そうとした。嘲笑して無視するだけでは済まされなかったのだ。怒り狂って、キリストを抹殺しなければ気が済まなかったのである。

       キリストは宣教の旅を続けて、善い行ないをして人々を癒したり助けたりしていた。多くのユダヤ人が癒された。キリストは福音を宣べ伝え、救いと神の御国について説教した。その説教の中で、「このユダヤ人のリ−ダ−たちは皆間違っている。偽り者であり、忌まわしい者である」とはっきり指摘した。彼らは、罪を悔い改めずに、キリストを憎んで、キリストを殺した。これが、罪人の本当の心である。主イエス・キリストが昔と同じように、人間として東京に来られて、大手町で説教したりすれば、話が通じた時点で、今の日本人もキリストを殺すであろう。少なくとも、心の中ではそうするに違いない。

       フランスに行けば、クリスチャンではない人々に殺され、アメリカに行っても同じように殺されるであろう。神に対する罪人の憎しみは、主イエス・キリストが来られると、人間の中で最も聖書を知っていて敬虔で神を求めているように見えるそのパリサイ人を筆頭に、キリストを憎んで「殺さなければならない」という気持ちになったのである。人間の、神に対して敵対するその思いとはそのようなものである。私たちはそこまで自分の心の深いところを見ることはできないが、神に敵対する罪人の心の思いはそれほどに深いものなのである。そのことを聖書から教えられている。

       それだから、罪人は神に従うことができない。神の律法を総括すれば二つの命令で言い表すことができる。即ち、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが第一の命令であり、第二の命令は「隣人をあなた自身のように愛しなさい」である。神の律法は、愛の道を歩むことを命じている。まず、神に対する愛、そして、隣人に対する愛である。その愛の道を歩むことが神の命令である。しかし、罪人にとってこれは歩みたくない、歩めない道である。それ故パウロは、「服従できないのです」と言うのである。服従しないだけではなくて「服従できない」のである。

       つまり、罪によって心はそこまで弱くなっているので、たとい「愛の道は良いものだ」という思いがあったとしても、その道を憎む思いの方が強くて愛の道に従うことはとてもできないのである。「できない」というのは機械的にできないという話ではない。仮に、「私は、三階に飛び上がることはできない」と言うとき、これは人間の基本的な能力のことを言っているのだ。人間は、高い所に飛んで行くことはできない。「罪人は神の律法に服従できない」と言うとき、そういう身体の能力について話しているのではない。倫理的な意味で「できない」と言っているのである。

       ちょっと単純すぎる説明かも知れないが、以前にも話したような例だが、バナナが大嫌いでリンゴが好きだという人がいるとする。バナナを見ただけで吐き気がするが、リンゴを見ればすぐ食べたくなる。その人に「バナナにするか、リンゴにするか」の選択を百回やってみても、彼は百回ともリンゴを選ぶであろう。嫌いなバナナを絶対に選びはしない。それと同じように、神の道を心から嫌っているなら、それを歩むことは耐えられないことなので、選ぶことができないのである。

       「服従できない」というのは、その心の状態のゆえにできないという倫理的な話なのである。機械的な、或いは肉体的な力の問題ではなく、憎しみのゆえに「できない」という問題なのだ。それで、「神の律法に服従しない。服従できない」のであり、「肉にある者は神を喜ばせることができない」のである。肉にある者が、心から神を喜ばせようという思いを持って何かを行なうことは有り得ない。パウロはその“罪人の無力”について話しているのである。

       この箇所を深く理解することは、聖書的な比較宗教の本質的な部分の一つである。これはクリスチャンの世界観において非常に大切であり、毎週の礼拝においてもとても大切なことである。毎週の礼拝に集まるとき、私たちは一緒に祈ったり、一緒に御言葉を学んだり、一緒に聖餐式を受けたりする。聖餐式のとき、私たちは自分の罪を告白する。そして、自分の罪を捨て、イエス・キリストに従う誓いを新たにする。

       主イエス・キリストを信じる信仰を新たにするとき、そして自分の罪を悔い改めるとき、「ああ。私はちょっと足りない。この足りない私を赦してください」というような話ではない。「私の罪は、神を愛することができないほどに深いものです。私の罪は、隣人を愛することができないほどに深いものです。あなたが救ってくださるのでなければ、私には望みはありません。主イエス・キリストが十字架の上で私の身代わりとなって死んでくださり、私のためによみがえって下さらなければ、そして御霊を私に与えてくださらなければ、私にはあなたを求める力すらありません。私がここにいるのも、私があなたを求めたのではなく、あなたが私を求めてくださったからです」という告白をして、聖餐式にあずかるのである。

       そういう意味で聖餐式は、神が私たちに与えてくださる祝福である。私たちが自分で取るものではなく、神が与えてくださるものである。礼拝も、神が招いてくださるものである。そういうわけで、私たちは聖餐式を受けるときに、自分の罪のゆえの無力を認めて受けるべきである。罪人には神を求める力はない。しかし、神が私たちを求めてくださるのである。そのことを考えるとき、もう一つ付け加えたいことがある。つまり、子どもたちが自分の父と母を選んだわけではないということである。父と母が、神から赤ちゃんを求め、赤ちゃんを授かり、神がその子どもをその家に与えてくださったのである。すべての子どもたちはそうである。養子にされた子どもたちも例外ではない。神が、あなたを、その家族に属する者とされたのである。それは神の御恵みに他ならない。

       神は、一方的にあなたを求めてくださって、あなたに祝福を与えてくださった。それだから、あなたはその家族に与えられて、小さいときから聖書を学び、礼拝を守ってきたのである。バプテスマを行なうとき、私たちはそのことをも覚えてバプテスマを授けるものである。バプテスマを行なうとき、これは神が一方的に子どもに祝福を与えてくださることなのだ。子どもにどんな力があって何をしたのかということではないのは明白である。神が、御恵みをもって、契約の祝福を与えてくださる、というところから話は始まるのである。一人ひとりがそうである。特に子どもたちはそうである。そのバプテスマの意味をも覚えて、一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年7月2日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章5〜6節

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