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    ローマ人への手紙8章9〜11節


    8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

    8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

    2000.07.09. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    御霊にある

    8章9〜11節

       ローマ人への手紙8章における肉と御霊の対比は、5章に始まる基本的な契約的対比の続きである。パウロは続けて「アダム、肉、罪、死」と、「主イエス・キリスト、御霊、義、いのち」との対比について話している。5章では、「キリストにあるのか、アダムにあるのか」という観点から話している。どちらも契約的人種のかしらで、どちらもその人々の代表として行動した。アダムが古い人類を代表するかしらであったことは、肉である最初の創造の一部であった。アダムのからだは土である地の塵からできていた。この点において、アダムは特別な存在ではなかったということがわかる。

       実際、アダムが土から創造されたことを創世記が語っている理由は、アダムが、同じように土から造られた植物や動物と似たようなものであることを示すためであった(創世記1章11節、24節など)。従って、最初の創造は「」の創造なのである。最初は、そのことに何の倫理的な意味も含まれていなかった。「」は罪や神に対する反逆を表わすものではなく、ただ人類の存在の最初の段階に過ぎなかったのである。それは一時的なものとして意図されていても、悪いものとしては意図されていなかった。

       しかし、アダムが罪を犯したとき、罪は肉を汚し、アダムが代表していた被造物全体の上に神の裁きをもたらしたのである。アダムのみならず、土から造られたものすべてが呪いの下に置かれたのである。こうして、「」は倫理的な意味を含むようになった。肉が最初の創造と結びつけられるのと同様に、御霊は第二の創造と結びつけられる。最初の創造の構造は肉的であり、第二の創造の構造は霊的である。とは言え、ここで「霊的」という言葉は「非物質的」という意味ではなく、御霊がその中に住まわれることを意味するものとして理解されなければならない。

       霊的な創造の構造の方がより成熟した構造であり、終末的な創造なのである。人がもし罪を犯していなかったなら、肉から御霊への移行にはキリストの贖いのための死を伴うことはなく、ただ成熟に向かって成長と発展があったであろう。「」とは、贖いなくしては被造物が神の意図しておられたものには成り得ないことを意味した。

       この被造物に対する理解は、5章におけるアダムとキリスト、6章におけるキリストの死と復活との合一、7章における罪と律法の間の関係に係わる議論全体の根底にある。アダムにある最初の契約、肉の契約は、罪、律法、死の契約となったのである。そして、キリストにある新しい契約、御霊の契約は、義と恵みといのちの契約である。

       5章のアダムとキリストとの対比において、キリストにある者は神の御前で義と認められて永遠のいのちが与えられる。そして、アダムにある者は、アダムとともに罪を犯したのでアダムとともに死ぬ。そして、6章では、「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる」という意味を説明している。7章では、「律法とクリスチャン」について話した。8章に入ると、ずっと「御霊とクリスチャン」の話をしている。

       5章ではキリストとアダムとの対比であったのが、8章では肉と御霊の対比になっている。基本的には同じ話であって、御霊と肉の対比は、キリストとアダムの対比に他ならない。つまり「肉、罪、死」のつながりをパウロは説明しているのである。5節からもう一度見てみよう。5節で「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます」とあり、6節では「肉の思いは死である」とあり、7節では「肉の思いは神に対して反抗するものである。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」と言っている。そして、8節で「肉にある者は神を喜ばせることができません」とある。

       だから、「肉の思い」の結果である「」について話しているのは、5章のアダムの話と基本的に同じことなのである。ただ、5章のところでは契約の代表者とその代表者に属する者たちの話をしているが、8章では、実際に私たち一人ひとりが契約の代表者につながっている者として生活しているかどうかという問題に入ることになる。

       「肉の思い」を持っているのであれば、つまり、「アダムの思い」を持っているのであれば、アダムのような生活をして神に逆らう。そして、神に逆らう者は、神を喜ばせることはできない。その正反対は、御霊に従うことである。9節からそのことについてパウロは話している。

     

    複雑な表現

       ローマ人への手紙8章9〜11節は難しい箇所である。パウロは、変わった表現を使っており、それらを更に重ね合わせるようにして書いている。パウロは、僅かな言葉で多くを語っており、それによって、私たちがゆっくりと注意深くこの箇所を読むように意図しているのは明らかである。9節でパウロはまず、私たちが「御霊の中にいる」と言っている。その意味は、ヨハネが主の日に「御霊に感じた/御霊の中にいた(直訳)」という表現で言おうとしたこととは異なるものである(黙示録1章10節)。それは、御霊の影響の力の下にいることを指す表現である。

       また、パウロが他の箇所で「御霊に歩みなさい(直訳)」と言っているが(ガラテヤ書5章16節)、そのことを言おうとしているのでもない。最も近い表現は、ガラテヤ書の3章3節にある。そこでパウロは、「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」と言っている。

       クリスチャンは御霊に属している者である。キリストが私たちのうちに住んでおられるのだ。神は、主イエス・キリストと御霊の働きによって私たちに「いのち」を与えてくださる。キリストにあるいのちを与えてくださったので、私たちは義の道を歩まなければならない者である。「肉の思い」とは、そのつながりにおいて少し違う。「肉に従う者は罪を犯して死ぬ。しかし、御霊にある者にはいのちが与えられているので、義しく歩むべきである」というつながりになっている。「肉、罪、死」の反対は「御霊、義、いのち」である。それはつながっている。「いのちが与えられているので、義しく歩みなさい」ということである。

       そして、「義しく歩みなさい」ということは、12節からのところにあるように、「だから、私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいない」のである。むしろ、クリスチャンは、「肉の行ないを殺して、御霊に導かれる」(13節と14節)」者でなければならない。そして、「御霊に導かれる人」は、御霊によって「アバ、父」と呼ぶのである。全体的な文脈の流れはそのようになっている。

       肉にあって罪を犯す者は神を喜ばせることはできない。しかし、義しく生きる者は神を喜ばすことができる。「簡単に神を喜ばせることができる」と言っているわけではない。神を喜ばせる者とはどのような者かというと、主イエス・キリストとともに栄光を相続する者なのである(17節)。神が主イエス・キリストを喜び、イエスのメサイアとしての働きを受け入れてくださったので、メサイアであるイエスに永遠の栄光の祝福を与えてくださった。そのキリストにある私たちをも神は喜んでくださって、キリストとともにその栄光を私たちにも与えてくださるのである。「神を喜ばせることができる」というのはそういうことなのである。キリストの働きの故なのである。そのことが全体の流れの中にある対比において説明されている。

       そして、「神を喜ばせることができるのかできないのか」と言うときにも、その言い方には注目すべき違いがある。「神を喜ばせることができない」という肉の思いについて話しているときに、「神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」とパウロは言っている。その反対のことを言うならば、「御霊に従う者は、神の律法を守ります」となるはずだが、そういう言い方はしていないのである。ある意味で7章の中ではそのような言い方になっているとも言えるし、8章の最初のところでも「律法が要求する義が私たちの中に全うされる」と言っている。しかし、二つのことを対比していく中で、「律法に従う者」とは「御霊に導かれる者」であることをパウロは明らかにしている。

       これは「肉に従う者」と「御霊に導かれる者」の対比である。肉に従う者は、律法に服従しない。しかし、御霊に導かれる者は、神を「アバ、父」と呼ぶのである。私たちには多くの子どもが与えられているので、パウロがここで言っていることを理解しやすいのではないかと思う。小さな子どもが親を喜ばせるために、どれほど素晴らしい大きな働きができるわけではない。大したことはできない。しかも、100%両親に従っているわけでもない。親は、子どもが何か悪いことをするかどうかを隠れて監視して、わざわざ憤りで爆発する機会を待つようなことはしないはずである。

       親は、神を表わすものとして立てられているが、クリスチャンの親は、神があたかも律法主義的な御方であるかのようなイメ−ジを子どもに与えるはずはない。子どもは失敗し、間違いを犯し、罪を犯したりするものである。では、親は子どもに何を要求するのかというと、父と母を正しく愛する心を親は要求するのである。失敗したり罪を犯したりすることは避けられないが、父母に対する心がどんなものなのかが問題なのだ。全く心が無ければ、いくら表面的に良いことをしたとしても、父と母は喜ばないであろう。人に見せびらかせるために良い事をしたとしても、両親はあまり喜ばないかも知れない。悪い事するよりかはましだが、喜ぶことはできない。子どもが失敗しても、いろいろな問題を起こしたとしても、父と母を愛して、喜ばせようとする心を持っているならば、父と母はその子を喜ぶことができるのである。そこが肝心なところなのだ。

       ここで、神は私たちに対して同じことを要求しておられる。神は、私たちが完全に律法に従うかどうかをいつも監視していて、少しでも従わないところがあれば、雷を落として罰するようなことはなさらない。私たちの足りなさや弱さをご覧になって、常に怒っておられるわけではない。私たちが本当に心から「アバ、父」と呼んでいるかどうかを神は見ておられる。それこそ律法に従う心であり、神を喜ばせる心なのだ。父親や母親にはそのことはよくわかるだろうと思うし、子どもにもそのことはわかる筈だと思う。そこが本格的な問題なのだ。神に対する心がどういう心なのかが問題なのである。

       それ故、御霊に導かれる者は、神を愛して「アバ、父」と呼ぶのである。日曜日に私たちは集って礼拝しているが、この礼拝がどのようなものかというと、ある意味でこれは、一同で声を揃えて「アバ、父」と呼ぶ会であると言ってよい。一緒に神に祈りをささげ、天の父に感謝をささげている。そして、父なる神は私たちに主イエス・キリストを表わすパンとぶどう酒を与えてくださる。それで、私たちは神を喜ばせることになるのである。

       そういう意味で、神は、喜んで私たちを受け入れてくださる御方であって、憤りを表わす機会を待っている御方ではないのである。神はパリサイ人のような律法主義者ではない。そのことを正しく理解する必要があると思う。この箇所の全体的な流れは、そのように神を「アバ、父」と呼んで主イエス・キリストと共に相続するところに向かっているものである。

       そういうわけで、先週私たちは「肉の思いは神に逆らい、神の律法に服従せず、神を喜ばせることができない」というところを一緒に学んだ。今日は9節からのところをゆっくり見たいと思う。9〜11節を見てほしい。

     

    けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

       この箇所を読むとき、読者は、パウロの言い方が非常に複雑に変わっていくことに気が付くだろうと思う。「神の御霊が私たちのうちに住む」という言い方があるし、「私たちは御霊の中にいる」という言い方もあるし、「キリストが私たちのうちにいる」とも言っているし、「神の御霊」と言ったり「キリストの御霊」と言ったりしており、いろいろな表現がこの箇所にある。これらは、主イエス・キリストと御霊の関係を指している言い方である。どういうことかというと、簡単に言うならば、御霊は主イエス・キリストの代表のような御方であると言ってよいと思う。つまり、御霊の働きは、キリストの働きを完成させることなのである。

       それ故、「御霊が私たちのうちに住む」というのは、「キリストが私たちのうちに住む」のと同じことなのである。それ故、「神の御霊」と言ったり「キリストの御霊」と言ったり、或いは「キリストが私たちのうちにいる」と言ったり「御霊が私たちのうちにいる」と言ったりして、いろいろな言い方を使うことによって主イエス・キリストと御霊の働きが一緒であることを教え、キリストと御霊を一緒に考えるように促しているのである。また、死んだからだとの対比で使われる「御霊はいのちである(直訳)」という表現、そして11節におけるキリストの復活を指す二つの長い表現がある。これらの表現を一つ一つ論じていこうと思う。

       第一に、「御霊の中にいる」という表現だが、これは珍しい言い方である。普通なら「御霊が私たちの中にいる」と言うはずである。9節には「御霊の中にいる」と「肉の中にいる」という対比がある。これは「キリストにある」と「肉にある」と同じ対比である。ギリシャ語の「エン」という言葉は英語の"in"にあたる言葉であるが、日本語訳では「うちにある」「中にいる」「うちに住む」「中にある」「うちにいる」等といろいろに訳されているが、ギリシャ語ではこれらはみな"in"という同じ言葉である。だから、本当は「御霊にある」と訳す方よいと思う。

       パウロは「御霊にある」、「キリストにある」と明確に語っている。「御霊にある」という言い方は珍しい言い方ではあるが、これは「キリストにある」と同じ意味であり、同じ契約関係を表わしている。神の御前における私たちの契約的立場は「キリストの中に」ある。そして、キリストと御霊は特別な一致を持っておられる。キリストと御霊は一緒に新しい人類の贖いを成し遂げるために働き、イエスが地上で終わらせなかった御業は、御霊によって完成に至るのである。それ故、ここでパウロは、キリストの働きと御霊の働きを一緒に考えなければならないものであることを教えようとしているのである。

       最終的にキリストにある者は主イエス・キリストとともに栄光を受けることになる。御霊の働きは、私たちがキリストに似た者となって主イエス・キリストとともに神の永遠の栄光を受ける者となるためのものである。御霊の働きは、主イエス・キリストの働きを完成させてくださるものである。パウロは、「キリスト」と「御霊」を一緒にすることによって、そのことを私たちに教えようとしている。三位一体なる神のこの二位格は、贖いの御業において非常に密接に関わっておられるゆえ、神の救いについて語るとき、重複する言葉遣いを用いないで語ることはできないのである。

       「キリストの中にいる」ということは、キリストがかしらであるその契約の中にいるということであるが、それはまた、神の御霊が支配しておられる領域の中にいることでもあるのだ。それ故、「キリストにある」ということは「御霊にある」ということになる。二つの概念は、「キリストにある」と「新しい契約にある」とは、同じくらいか或いはおそらくそれにもまして密接に関わっていると言えるだろう。言葉遣いのレベルでは、私たちがキリストにあることを述べる表現と、キリストが私たちのうちにおられることを言う表現とは反対の事のように思われるかも知れない。或いは、ただ単に互いに住み合うことに言及しているだけのように思われるかも知れない。

       それ以外にも更に多くのことがあるのだが、互いに住み合うという点は実に重要である。私たちにとって、「キリスト(の中)にある」或いは「御霊(の中)にある」ということは、私たちの神の御前における契約的立場を指す。キリストと御霊が私たちの「中に」おられるということは、私たちに与えられている契約の祝福を指しているのである。契約の最高の祝福とは、神との契約的な一致という関係を言うからである。神は私たちの神であり、私たちは神の民である。キリストによって「中に」住まわれることと、御霊によって「中に」に住まわれることは、それ故、本質的に同じことなのである。

       次にこの箇所で注目すべきことは、「神の御霊」と「キリストの御霊」という言い方である。聖霊は神の御霊である。御霊は御父から発し、御父によってこの世に遣わされたからである。同様に、御霊は御子から発し、御子によってこの世に遣わされたと聖書に書き記されている。それ故、御霊は「御子の御霊」でもあられる。しかし、同時に、この御方は「キリストの御霊」であられるのだ。それは、御霊が、8章で特別な関心の対象であるメサイアによって新しい契約の民に与えられた特別な賜物であるからだ。

       簡単に触れておくが、キリストが神でないならば、「神の御霊」や「キリストの御霊」についてこのように語ることは絶対に不可能なことなのだ。これは、「主イエス・キリストは神である」ということをよく表わす言い方の一つなのである。聖書の中には、例えばヨハネの福音書1章1節からの箇所では、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と、そのままずばり命題を通して「ことばは神であった」という言い方もある。他の箇所でキリストの神性を表わすときは、直接的な言い方ではなくて、間接的に他の事柄について語る中で、主イエス・キリストが神でなければ絶対に使えないような表現を使うのが普通である。そのような箇所を通して主イエス・キリストの神性をよく見ることができる。

       「神の御霊」と「キリストの御霊」という二つの表現を一つの文章の中で使うことでパウロはキリストの神性を非常に明確に表わしている。「パウロの御霊」とか「御使いの御霊」というような言い方は有り得ない。しかし、「神の御霊」「キリストの御霊」という言い方がとても自然に使われているために、この箇所を読むときに、この箇所がどれほどはっきりとキリストの神性を表わしているかに気が付かないほどである。これらの言い方によってパウロがキリストの神性を強調しようとしているのは明らかであると思う。

       9節の日本語はどうしたらよいのかよくわからない。原語からすれば9節の言い方は、「しかし、あなたがたは肉にあるのではなく」という言葉から始まっている。今まで、肉にある者について話してきたが、ここで「けれども、あなたがたは肉にある者ではない」とまず宣言しているのである。パウロは、そう前置きした上で次の説明に進もうとしているわけである。だから、9節では、「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら」という言葉は後になっている。

       原語の語順で訳すなら9節は、「けれども、あなたがたは肉にあるのではなく、御霊にあるのです。もし神の御霊があなたがたの中に住んでおられるならば」というつながりになるわけだが、「もし・・・ならば」という言い方もよくない。文法的には確かにそういう言い方になるが、ギリシャ語で「もし・・・なら」という言い方には「そうであろう」という肯定的な意味が含まれている。つまり、仮定的な言い方から否定的な答えが出るような表現ではない。日本語で「もし・・・ならば」と言うと、「そうでなければ」という意味も入ってくるが、このギリシャ語には否定的な意味はない。「もしかしたら、違うかも知れない」というような意味は全くないのである。

       それ故、正しくは、「もし、神の御霊があなたがたの中に住んでおられるなら」という言い方は9節の真ん中に来るものでなければならない。神の御霊が私たちの中におられるので、私たちは「御霊にある」のである。「御霊にある」ということは、神の契約に入っているということである。そして、神の契約に入っているということは、「キリストにある」ということである。「キリストにある」と言うなら、「キリストの御霊を持っている」のであって、「御霊にある」者であり、「御霊が私たちの中に住んでおられる」ということなのである。これらは全部一緒に考えるものなのである。

       御霊が与えられることによって私たちはキリストと一つになっている。「キリストと一つになっている」とは、「キリストの中にある」「キリストにある」ということである。新しい契約において、私たちはキリストの中にある者であり、御霊にある者である。意味としてこれは「契約にある」という意味になる。キリストを信じて、キリストにあって御霊が与えられ、キリストとの一致があり、契約の一致があり、キリストと一つとなる。その者は、新しい契約に入っている者である。

       そういう意味で「キリストにある」ということは、旧約聖書では、イスラエルが「カナンの地にある」という状態に似ている。カナンの地に住んでいるイスラエル人は、約束の地にいるのである。それと同じように、私たちはキリストにいる。「キリストにいる」状態は、契約の地にいる状態である。「御霊の中にいる」「御霊にある」というのも同じ状態を指している。

       バプテスマを正しく考えるならば、バプテスマはそのことを客観的に行なう儀式である。御霊がどのように働くのか。その人はどういう意味においてキリストにつながっているのか。それを私たちの観点から見るならば確かに曖昧な面がある。ヘブル人への手紙6章4〜6節のところを見てみよう。

     

    一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。

       この箇所には、「御霊にあずかる」とか、「御言葉を味わったうえで」とか、「光を受けた」とか、「天からの賜物の味を知った」とかいうような言い方がある。これらはある意味で全部曖昧な言い方だと言える。曖昧だというのは、「味わった」とか「光を受けた」と言うときにはある程度までの接触があったことを指しているけれども、100%そうなったかどうかは別の話なのだということである。

       教会に来てバプテスマを受け、御言葉を聞き、聖徒たちと一緒に交わりを持つ者には、御霊の祝福がどのようなものなのかがある程度までわかっている。彼らは、ある程度それを味わっている。御言葉の素晴らしさをある程度まで味わっている。一緒に賛美し、一緒に聖餐式にもあずかっているので、ある程度まで皆と一緒に神の賜物と祝福を味わっているのである。しかし、もしそのような人々がキリストから離れて堕落してしまうなら、もう立ち返らせることはできないという話になるわけである。

       実際にバプテスマを受ける者は、客観的な意味で神の契約に入っているのである。それは客観的な事実なのである。結婚式の誓いをすれば結婚の契約の中に入っているのである。その結婚の誓いは客観的なものなのである。バプテスマを受けるとき、御霊の祝福が伴い、御霊も働いておられる。聖餐式を受けるときにもそうである。聖餐式は意味のない単なる儀式ではない。御霊の祝福と働きをそのように受けたりして、自分が主イエス・キリストに属する者であることを公然と宣言しているのである。そのように“正式に”クリスチャンとなるとき、バプテスマと御霊の働きと信仰とが全部一緒になっている。これは客観的なことなのだ。

       聖書の中ではそのことは非常にはっきりしているけれども、教会によってはバプテスマを年に一度しかしないので、1月にキリストを信じたのに12月までバプテスマを待つことになったりするが、「それなら、その間、その人は御霊を持っていないのか」というような質問は出てこない筈である。キリストを信じてバプテスマを受けることが決まっており、その人は既にキリストのものであって神との契約に入っている者であり、神の子どもであるということは明らかである。しかし、契約の正式な儀式はバプテスマにあることに変わりはない。その御霊の働きとバプテスマを契約のこととして覚えてパウロのローマ人への手紙の箇所を読むことも大切なことだと思う。

       「御霊が与えられている」ということは、6章にある「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と「キリストとの合一」を教えている箇所とつながっているものである。「主イエス・キリストにある」ということは、御霊のバプテスマによってキリストと一つとなったことを意味している。水のバプテスマと御霊のバプテスマは一緒のはずである。それぞれの教会の決まりによって、時間的にずれたりはすることがあっても、意味においてそれは一緒のものである。

       9節の終りでパウロは、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言う。御霊がその人のうちに住んでおられなければ、その人はキリストのものではないのである。続く10節でパウロは、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」と言っている。

       この10節の日本語訳には少し問題がある。ここで「」と訳されている言葉の原語は「御霊」と訳されているのと同じ言葉である。また、「義のゆえに生きている」という言葉も「生きている」ではなくて「いのち」という言葉である。10節を新契約聖書では「霊は義のゆえにいのちなり」という訳になっているが、この10節は、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちです」と訳すべきだろう。

       どうして「霊」と訳すのかわからないが、これは御霊の話をしているのである。「キリストが私たちのうちに住んでおられるならば、御霊は義のゆえにいのちです」と言っているのは、「義しさ」と「いのち」の関係を「肉」の反対のものとして話しているわけである。「肉、罪、死」に対して「御霊、義、いのち」だということである。「御霊はいのちである」と言っているわけである。御霊は神の御霊であり、三位一体の第三位格であって、「いのち」なる御方である。

       単に「御霊は生きておられる」ということでもないし、「いのちを与える」という話でもない。「御霊が私たちの中に住んでおられる」と言うのである。それは、「神御自身のいのちが私たちの中にある」ということであり、キリストの復活のいのちが私たちのうちにあり、神ご自身が私たちの中に住んでおられて、私たちを生かしてくださるのである。意味としては、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、御霊があなたがたにいのちを与えてくださる」で問題はない。キリストの義が与えられているので、御霊は「いのちの御霊」として私たちに与えられている。

       「からだは罪のゆえに死んでいても」という言い方によってパウロは、「私たちは今でもアダムの子どもである」ということを話している。既に説明したように、「」と「御霊」の対比をするとき、クリスチャンではない人について話すときには非常に簡単である。「肉、罪、死」という関係には何も複雑なことはない。しかし、クリスチャンの場合、私たちの中におられる御霊の働きについて話すとき、「いのちの御霊が私たちの中に住んでおられるのなら、なぜ私たちは死ななければならないのか。なぜ病気にならなければならないのか。なぜ苦しまなければならないのか」という話になる。

       パウロは、「からだが罪のゆえに死んでいても、御霊はいのちです」と言っている。つまり、クリスチャンの方がずっと複雑な存在なのだ。罪人であることに変わりはないので、罪人としての死の問題は私たちの肉のからだにおいては今なおあるのだ。しかし、それでがっかりしたり、落ち込んだり、諦めたり、罪との戦いに疲れ果ててはならないのである。最終的には12節にもあるように、私たちは、肉に従わないで御霊に従って歩む者であるから、肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいないのである。からだが罪のゆえに死んでいても、いのちの御霊が私たちの中に住んでおられるのだ。

        最後に、11節にあるキリストの復活を指す二つの長い表現について見たいと思う。これは、御父の御業との関わりにおいて御霊の働きについて語っているものである。11節でパウロはこのように説明している。

     

    もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

       この「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」という言い方は、「神の御霊が私たちの中に住んでいるなら」と言うのと同じ意味である。しかし、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」という言い方は、人間としてのイエスを見る言い方である。御父なる神が、私たちの救い主である人間イエスを死者からよみがえらせたという事実について語っているのである。私たちのうちに住んでおられる御霊は、私たちの契約の主でありかしらである御方をよみがえらせられた神の御霊であられる。

       「イエス」という言い方はキリストの人性を指している。「イエスによみがえりのいのちを与えてくださった御霊」と言うとき、それは、私たちの契約の代表である主イエス・キリストと同じいのちが私たちにも与えられることを指す言い方なのである。そうであるなら、「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」とパウロは説明している。

       再び「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は」と、繰り返し言っているように見えるが、こんどは「キリスト・イエスを」と言っていることに注目すべきである。パウロは単に「この御方はあなたがたをもよみがえらせてくださる」と言うことはできたが、彼は二つ目の表現において人間イエスと新しい人類との関係を強調するためにメサイアについて語るのである。これは、神がキリストをメサイアとしてよみがえらせたということである。「メサイアとしてキリスト・イエスをよみがえらせた方は、私たちをも生かしてくださるのです」と言っているのだ。「それは、私たちの中に住んでいる御霊の働きによって生かしてくださるのである」とパウロは言う。

       キリストの働きと御霊の働きが、繰り返し繰り返し一緒になっている。キリストが死んでよみがえったように、私たちをもよみがえらせてくださる。なぜなら、「キリストの御霊」が私たちの中におられるからである。イエス・キリストがそのまま死の状態にあり続けることを許したまわなかったのと同じように、私たちもただ死んでそれで終わることを神は許したまわないのである。それは、キリストの御霊が私たちの中に住んでおられるからである。

       「正しく生きるように」ということについて話す前に、パウロは、復活といのちを非常に強調しているのである。御霊が私たちの中に住んでおられる。永遠のいのちが与えられている。神が私たちをご覧になるとき、主イエス・キリストが私たちの中に住んでおられるのをご覧になる。「あなたはそのような者なのだから、あなたは神を喜ばせることができるんですよ。だから、熱心にそれをしなさい」と言っているのだ。それが全体的なポイントである。この箇所全体が肉と御霊とを対比させている故に、私たちの復活は御霊によって達成されるという事実について、パウロは語っているのである。その後で、苦しみや迫害の話が出て来る。

     

    パウロの話のねらい

       パウロの書簡を一回に数節ずつという速さで学んでいくとき、要点を見失ってしまいやすい。二人の契約のかしら、律法とクリスチャン、御霊と肉に関する話全体には、その確かな狙いがある。その狙いとは、ローマのクリスチャンたちが神との関係を聖書的かつ契約的に考えることを学ぶことだけでなく、その告白と一致した生き方をするように学ぶということである。

       12節でやっと、パウロが肉と御霊の長い対比によって導いてきた目的地に辿り着く。もしこれらの事柄のすべてが、神とキリストの御霊が私たちのうちに住んでおられることに関し、御霊とキリストによって私たちが満たされることに関し、神がキリストにあって復活のいのちを私たちに与えてくださることに関して真理であるならば、私たちは肉の情欲に従って生きる責任を肉に対して負っているのではなく、神の真理によって生きる責任を神に対して負っていることが明らかとなるのである。

       契約と契約の世界観とを理解することはもちろん不可欠なことだが、契約は概念ではなく、神との関係であり、人格的な関係はあくまでも責任をもたらすものなのである。私たちの神との関係からもたらされる責任の本質は明らかである。私たちはこの御方を愛し、神を愛する者として生きるように召されているのである。

       今の日本に住んでいる私たちには、飢饉もなければ迫害もないが、二十世紀は戦争の世紀であったと言われるほどに戦争が多かった。死については、ローマの時代の人たちは私たちよりも深く認識していた。迫害もあるし、病気の問題にしても私たちよりもずっと大変であった。当時の教会は、教会を消し去ろうとするユダヤ教とローマ帝国の迫害がまさに始まろうとする時代にあった。迫害や苦しみの只中にある人たちにとって「永遠のいのち」「復活のいのち」への望みは非常に強い具体的なものであったと思う。

       また、年をとればとるほど復活のいのちへの望みの大切さがわかるものだと思う。迫害の中にある教会は苦しみの中で、「私は神を喜ばせることができるのだろうか。神は、私を喜んでくださるだろうか。神が私を喜んでおられるのなら、どうして私はこれほどに苦しまなければならないのか」と、自然に思ってしまうであろう。

       ヨブの話はそのようなことであった。「神が私を喜んでくださるのなら、どうして私はすべての子どもを失い、住む家も失い、富も何もかもすべて失うことになったのだろうか。私は何をしたのか。どうしてこんなに苦しまなければならないのか」ということをヨブは考えた。そのヨブのような、死に直面している状態にある者に対するパウロの答えは、「キリスト・イエスがあなたの中に住んでおられる。神があなたをご覧になるとき、キリストはあなたとともにいてくださる。主イエス・キリストがあなたの中に住んでおられるので、神はあなたを喜ばないはずはない。神は、あなたに目を留め、あなたをよみがえらせてくださるのだ。神は、あなたに永遠のいのちを与えてくださる。復活のいのちを与えてくださる。御霊はあなたに力を与えてくださる。そのことを確信してください」という励ましの言葉である。

       キリストの働きと御霊の働きを一緒に考え、その御霊が私たちの中に住んでおられるので、神は私たちを喜んでくださるということを知らなければならない。このように励まされるとき、キリストにある者は本当に神を喜ばせようとするのである。「あなたは罪人で、罪ばかり犯している。あなたが何をやっても神は喜びません。もうあきらめなさい」と言われたらそれこそがっかりするであろう。しかし、パウロは反対に、「あなたは神に愛されています。神はあなたを喜んでおられる。それはあなたが素晴らしいからではない。どうして神はあなたを喜び受け入れてくださるのかというと、神の御霊があなたの中に住んでいるからです。私たちはキリストと一つとなっているからです。私たちはキリストのものになっている。神はキリストを喜び、御霊の働きを喜ぶので、私たちを喜んでくださいます。それだから、私たちには確固とした確信を持つ土台があるのです」と言うのである。

       「あなたが素晴らしいから、愛してます」と言われたら、自分が素晴らしくなんかないことがばれたらどうしようかと心配になることだろう。真に素晴らしい人間は一人もいないと言ってよい。そうではなく、神の御霊が私たちの中におられるから、その私たちに対する神の愛は確実なものだということが教えられている。それ故、私たちは安心してその愛を受ければよいのである。安心して「アバ、父」と呼んで、神の御国を求めればよいのである。心配はいらない。御霊のゆえに、神は私たちを喜んでいてくださるのだ。

       これは神の教会全体に対する大きな励ましであり、慰めである。苦しみや迫害の中にあって大変な問題がいろいろある。その中で、神に愛されており、御霊が私たちの中に住んでおられる。だから、実を結ぶことができるのである。周囲の状況を気にしたり自分自身の足りなさに目を留めたりするのではなく、神の御恵みを見て頑張るのである。そのようにパウロは私たちを励ましているのだと思う。

       妻に対する夫の関係が、「あなたは素晴らしい。愛してる。だからこれをしなさい。できなければ関係を切るぞ」というものなら、それは実に大変な関係であろう。親が子どもに、「おまえは、ここまでやらなければ窓から放りだすぞ。もう関係を切るぞ」と言うなら、それは大変なことだと思う。しかし、神は、「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛しています。あなたは私のものです」と宣言してくださる。それで、私たちは、愛されているという確信を持って、安心して神を「アバ、父」と呼んで、神を喜ばせるために頑張ろうとする心が育まれていくのである。

       「あなたの中には神の御霊が住んでおられるので、あなたはキリストのものである。永遠のいのちが与えられているのだから、肉に負けないで、力強く歩みなさい」と教えられている。これほどまでに深い複雑な言い方をすることによってパウロは、その神学的な根拠がどんなに堅いものであり、救いの福音がどれほど信頼できるものなのかを私たちに教えている。キリストの働きと御霊の働きが、私たちを揺れ動くことのない安定したものにしてくださり、私たちの救いを確かなものにしてくださるのである。「だから、肉に負けないで、御霊に導かれて歩みなさい」と、神はパウロを通して私たちを励ましておられるのである。そういう意味で、この箇所は、福音を更に深く説明するものなのである。

       先にも話したように、日曜日の礼拝はある意味で「アバ、父」と呼ぶ集まりである。以前話したように、私たちは出来れば礼拝の仕方を少し変えたいと思っている。最初にまず招きがあるようにしたい。それによって、招かれなければ至聖所に入ることは恐ろしいことなのだということを象徴的に表わすことになると思う。つまり、私たちは、もっと正しく自分が罪人だという認識を持つべきなのだ。聖日の礼拝に集うとき、私たちは、御父なる神の御前に来るのである。そのとき、私たちは自分が罪人であることを覚えるものである。

       招かれて至聖所に入り、主の前に座し、罪を告白するところから礼拝は始まるのである。招かれたときに、感謝をささげて賛美するとともに、罪を告白し、長老は罪の赦しを宣言する。教会の場所が十分にあるならば、罪の告白をする時には跪いてその罪の赦しの宣言を受ける。それから立ち上がって神の御名を賛美する歌を唄うのである。その後は、礼拝が終わるまで起立したり座ったりはしても、もう跪くことはない。なぜなら、罪のことばかり考えたり心配したりして礼拝をささげるべきではないからである。神に愛されていることを確信して喜ぶことこそ礼拝の中心でなければならない。

       賛美は、「アバ、父」をいろいろな表現で呼ぶことである。御言葉を読んだり学んだりすることは、御言葉を一緒に喜び味わう宴なのである。私たちは、神の御言葉を一緒に受けるのである。愛の祝福を一緒に受けるのである。そして、聖餐式を受けるときにも、神は私たちに、御言葉である主イエス・キリストを違うかたちで与えてくださる。私たちは招かれて天の父の御前に来るとき、私たちが「アバ、父」と呼ぶときに神は受け入れてくださる。

       私たちは、罪を犯したことを告白し、続いて長老が罪の赦しを宣言してから、一同で感謝の賛美をささげ、御言葉が与えられ、聖餐式が与えられて、私たちは感謝に満ちた心をもって至聖所を出るのである。私たちは、至聖所である教会から出て、実を結ぶ働きに向かうのである。そのような礼拝の仕方が良いと思うのである。最後の祝祷は、実を結ぶように励ます言葉をもって、会衆を送り出すのである。礼拝は励ますものである。そして、私たちはそのように神の愛と真実によって励まされて、その愛を覚えて、御国のために働く心が増し加えられるのである。

       何度も言っているように、聖餐式は自分の罪の悔い改めを中心とするものではない。もちろん自分を吟味して、罪を告白しなければならない。しかし、罪を告白したり罪を取扱ったりすることが中心ではない。神に感謝をささげることが中心なのだ。神が、私たちに主イエス・キリストを与えてくださる。そのことを感謝するのである。神が私たちに主イエス・キリストを与えてくださるときに、私たちの目は自分の罪ばかりを見ていて、キリストの方を見もしないのはおかしい。罪を告白したら、それを速やかに捨てて、神の愛に対する感謝の祈りをささげて一緒に聖餐式を受けるべきである。神を喜び、そして、神が私たちを喜んでくださっていることをも確信して、感謝をささげることができるはずである。

     

    ――2000年7月9日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章7〜8節

    ローマ人への手紙8章12〜13節

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