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    ローマ人への手紙8章12〜13節


    8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

    8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

    2000.07.16. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    御霊にあって生きる

    8章12〜13節

       先週説明したように、ローマの8章1節から11節までのところで、パウロは「」と「御霊」との対比を説明している。私たちは「」にあるのではなく、最初の創造の原則に支配されている者ではなく、私たちは新しく生まれて新しい創造の御霊に導かれて生きる者である。「御霊の思い」と「肉の思い」の違いをパウロは説明したり、御霊の働きによって最初の創造の法則から解放されることを説明してきた。そして、1節から11節までの箇所には5章と同じような対比があるということも話した。

       5章のところで、「アダム、罪、死」に対して「キリスト、義しさ、いのち」が説明されている。そして、ローマ人への手紙8章では、「肉、罪、死」に対して「御霊、義しさ、いのち」という対比が説明されている。ところによっては「御霊、義しさ、いのち」は「御霊、いのち、義しさ」という順になったりしている。つまり、御霊がいのちを与えてくださることによって、私たちは正しい歩みができるようになることが強調されている。5章、6章、7章、8章は、ある意味で同じ話をいろいろと異なる視点から説明しているものだと言える。

       古い契約、即ちアダムにある人類の罪と死の問題を明らかにし、それに対して、新しい契約が主イエス・キリストにあって与えられ、キリストと共に死んでよみがえった者に神の御霊が与えられることを説明し、そのような者は神の律法を全うする歩みをすることができるということを今までずっと見てきた。

       そして、8章12節からのところでパウロは、1〜11節までの話の結論部に入ってその適応について話し始める。「肉と御霊」という神学を説明した後、パウロはこれらの真理がどう生活に適用されるべきかを示し、適用の問題が二次的ではないことを警告する。「真理を知的な意味で知るだけでは決して十分ではない。それは必ず生活に適用されなければならない」ということである。

       当然のことだが、このパウロの手紙を受け取ったローマ人たちは、この手紙を最初から最後まで一気に読んだのであり、毎週1節とか数節だけ読んだわけではない。また、一度読んだだけでどこかにしまっておいていつの日にかまた読み返すようには読まなかった。繰り返し何回もこのローマ人への手紙を最初から最後まで一気に読んでいた。そして、昔の礼拝は立ったまま行なわれていたということも話したことがあると思う。場合によっては、何時間も聖書を朗読していた。

       旧約聖書のイスラエルはみな、モーセの前に集まり、モーセ五書を何時間もかけて朗読してから、会衆一同が元気よく大声で「ア−メン」と叫んだものである。私たちは少しずつ講解説教としてこのローマ人への手紙を見ているので、前後関係を忘れてしまったり、そのつながりを深く感じなくなる危険性がある。そうならないように、よく注意していただきたい。それだから、「1節から11節の箇所を覚えるように」というところから話を始めたい。そして、12節からその適用に入るわけだが、12節を見よう。

     

    責任のある者

    ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

       パウロは、「私たちには責任がある」と言うところから始める。日本語の新改訳では、言葉の順番がいつも原語とは違っているということを日本の読者は知っておいた方がよいだろう。ギリシャ語聖書の語順では、「ですから、兄弟たち。私たちは責任を負っているが、肉に対して肉に従って歩むためではなく」となっている。日本語として文章にならないかも知れないけれども、実際に原語ではこの12節は文章が終わってないような尻切れトンボみたいな文章になっている。この文章は、「私たちは責任を負っている」というところから始まる。この文書は明らかに完結していないので、これは肯定的な言い方に訳されることが重要である。

       つまり「私たちは果たすべき責任を負っている者だ」ということである。けれども、その責任は肉に対するものではなく、肉に従う責任ではない。「では、何に対する責任なのか」というふうに文章が続いてもよいところだが、パウロの文章はそこで切れている。この中断された文章は、「しかし御霊に対して責任を負っている」、或いは「しかし神に対して、御霊に従って生きる責任を負っている」と続くべきなのは明らかだ。私たちは、御霊に対して責任を負い、御霊に従うという責任を負っている者である。パウロは文章を中断しておいてから、13節で「肉に従って歩むこと」に対する警告を与えている。そういう意味で、12節は不完全な文章である。

       「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではなく」という言い方は、「」だけについて言うとすれば不完全な文章に聞こえる。なぜなら、「責任」は御霊において完結されるはずだからである。「御霊に対して、御霊に従って歩む責任が私たちにある」と言えば、確かにその通りであって、私たちは「肉に従う責任を負ってはいない」のである。パウロは確かに肉を否定する必要性を繰り返し言うところから始めるが、その実際の要点は肯定的なものである。「肉に対しては、肉に従って歩まなければならないような状態から解放された。肉とその支配から自由にされた」ということをパウロは言っているのである。

       この12節を簡潔に一つの短い文章で言い表すなら、これは「肉から解放されているので、御霊に従って歩みなさい」或いは「肉ではなく、御霊に従いなさい」ということである。つまり、生活の適用について話しているのである。「私たちはもう肉の思いに従ってはいない。肉の思いは神に対して反抗するものである。肉の思いは神を喜ばせることはできない。しかし、私たちは肉にあるのではなく、御霊にある者である。キリストとともによみがえった。御霊によっていのちが与えられた」ということが1〜11節の話である。「だから、御霊に従って歩みなさい」というのが12節の話になるわけである。「あなたがたは、そのような祝福を受けたのだから、その祝福を受けた者らしく歩みなさい」というのが基本的な論理なのだ。

       まず、神は私たちに“立場”というものを与えてくださった。日本語で「立場」と言えば変に聞こえるかもしれないが、「あなたはこのような者である」という立場を与えてくださったのだ。神は、いわば私たちを再定義されたのである。そのあとで神は、「だから、それに相応しい歩みをしなさい」と教えてくださっているのである。「あなたはもうクリスチャンなのです。ですから、クリスチャンらしく歩みなさい」という論理なのである。「クリスチャンになるためにこのように歩みなさい」という話ではない。「クリスチャンになった。クリスチャンである」という状態は、神の御恵みによって与えられた状態なのだ。「そういう者になったのだから、それらしい思い、それらしい生き方、それに相応しい歩みをしなさい」と言う教えなのである。

       クリスチャンなので、クリスチャンらしく生きる責任がある。そのことをパウロは12節からのところで話す。「肉に対して責任を負っていない」とは、「肉に従わない生き方ができる者となった」ということだ。6章にあったように、クリスチャンではない者は、肉の奴隷である。クリスチャンは今でも罪を犯してしまいやすいものだという意味においては、クリスチャンも「肉の奴隷」と言えないこともない。100%完全な心を持って生きることができるわけではないので、肉的な思いに支配されたりすることも確かにある。

       私たちは、求めているのに、僅かしか成長できないでいる。愛を持とうと求めているのに、問題があるとすぐには愛が出てこないでどうしても自己中心的になってしまう。そのような罪との戦いが毎日ある。しかし、本当の意味での「肉の奴隷」には、そのような戦いはない。神の栄光を求める心を持ち、自分の足りなさを憎み、罪を忌み嫌い、それに対して戦うような思いはない。クリスチャンではない人々の戦いは、究極的には、自分中心な思いを果たすためにはどうしたらよいかという戦いである。その思いは勿論複雑でいろいろな要素を含むけれども、最終的には自分を神とする思いに他ならないのである。

       肉の思いは、神を喜ばせる思いではなく、自分を喜ばせようとするものでしかない。私たちは、そこから解放されたのである。神を喜ばせ、神のために生きることができるようになったのだ。だから、私たちには、御霊に従う責任がある。神の民となるその御恵みが与えられたからである。適用は、そこから始まる。そのことをまずしっかりと理解しておいてほしい。というのは、これからパウロは厳しい警告を与えるからである。

     

    警告

       パウロは、最初から「あなたは何者ですか」というような話はしていない。ローマの教会の人々をパウロは兄弟として受け入れている。「ですから、兄弟たち」とパウロは言うのである。はっきりとローマの教会の人々を「兄弟」と認めて話している。「ですから、皆さん。クリスチャンかどうかわからないので、このように警告します」と言ってはいない。この点をまず誤解してはならない。「肉に従う責任を負ってはいない」と言うとき、「あなたがたには、御霊に従う責任がある」と言っているのである。

       しかし、パウロの書き方は、「御霊に従う責任を負っている」という肯定的な話にすぐには移らずに、まず13節で「」に対する厳しい警告を与えている。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」と言うのである。この「あなたがた」は、「兄弟」のことである。「死ぬ」と言っているのは、からだの死のことではない。肉に従わなくてもからだは死ぬのである。ここで言っているのは、「永遠の裁きを受けて滅びる」という話である。「肉に従う者は救われない」とパウロは言っている。

       「兄弟たち、あなたがたは肉に従う責任を負ってはいない」と言うとき、教会の誰かが本当のクリスチャンではないと疑っているわけではなく、パウロはローマの教会の人々を兄弟と認めて受け入れている。しかし、クリスチャンになったのだから、悪いことをしてもよいことはない。神の子どもとなったからと言って何をしてもよいということは決してない。「神に逆らって肉に従って生きるなら、あなたは死ぬのです。永遠に滅びるのです」とパウロはここではっきりと警告している。肉の思いを持って肉の生活を送るものは、肉の歩みの当然の結論に至るのである。「兄弟」だからと言って、罪の中を歩みながら御国に到達できると思ってはならない。

       この警告はクリスチャンに向けられているのである。神の御霊の祝福が与えられてその祝福にある者に相応しく歩むなら、その行き着く終着点は当然「いのち」である。歩む道とその行き着く終着点はしっかりとつながっている。「私はクリスチャンだけど、神を礼拝はしない。祈りもしない。クリスチャンだけれども、自分の都合で生きてもいいのではないか。神の命令を守らなくてもいいのではないか」というような話は有り得ないのだ。そのようなことは絶対に許されない。神はそのように馬鹿にされ侮られても許すような御方ではない。これは、求めているのに失敗してしまうというのとは話が違う。

       「肉に従って生きる」或いは「肉の思いを持って生きる」ということは、まったく本質的に違うものである。「心から神を畏れる思いがないならば、あなたは死ぬのである。罪の中を歩むなら、永遠に死ぬのだ。このことを軽く考えるな」と、パウロはローマの教会に警告している。「御霊に従って生きるのでなければ、誰も最後に救われることはない」と教えているのである。

       新約聖書にはこのような警告は何回も出て来る。なぜこのような警告の言葉が必要なのかというと、私たちは、神を信じる信仰を告白してクリスチャンになったからである。これは、ある人々にとっては、私たちがまるで“行ないの宗教”について語り、まるで神が始められた働きを“完成させ”或いは“確実にする”ために私たちが自分の分を果たさなければならないとでも言っているかのように聞こえるのである。

       しかし、それはパウロが述べていることではないし、上述の解釈の正当な論理的帰結ではない。確かに救いは恵みのみによるものである。御恵みを本当に信じたならば、応答が喚起される。真の信仰は働くものである。信仰は、働かずにはおれないのである。だが、私たちは信仰者であると同時に罪人であるゆえに、悪の道を避けるように励ます警告を必要とする。もしその警告を信じるなら、それらは有益な効果を持つ。私たちはそれらを真剣に受け止めることによって罪から守られるのである。

       しかし、この世の中では、永遠の初めから選ばれている者と偽りの信仰を持つ者との区別は、顔を見れば解るようなものではない。背教と呼ばれるものも実際に存在する。神を信じていることのあらゆる証拠を持つ人が時に信仰から離れることがある。無論、選ばれた者が背信することは決してないことは事実であるが、私たちには神の書物の中を見ることはできない。私たちは誰が選ばれているかを知らないし、そのことを憶測するように招かれてもいない。私たちがなすべきことは、人々をその告白とその生活を御言葉に照らして真剣に扱うことである。人がキリストへの信仰を告白し、その信仰と一致した生活を送っているなら、私たちは彼らをキリストにある兄弟姉妹として受け入れるのである。

       ヘブル人への手紙6章では、「一度光を受けて」、「天からの賜物」、「神のすばらしい御言葉と、のちにやがて来る世の力を味わい」、「聖霊にあずかる者となった」人々について語っている。これらの表現はみな、その告白が意識的な偽りであるような人のことではなく、真のキリスト者を描写したものに聞こえる。それらの描写は、心から信仰を告白している者の経験であると私は思う。しかし、これらの表現のうち、選ばれた者に限定される経験を描写しているものは一つもないのである。実際にイスカリオテ・ユダのような人間はいるのである。キリストを信じると告白するだけでなく、りっぱで良い行ないをしており、クリスチャンの中でもリ−ダ−となっている者がいる。

       十二弟子の中でイスカリオテ・ユダは会計を任せられていた。つまり、イスカリオテ・ユダは十二弟子の中ではリ−ダ−として選ばれていて目立つ存在であった。ナタナエルの責任は何だったかを覚えている人はいるだろうか。覚えていないだろう。ナタナエルの責任については何も記されていないからだ。キリストを信じた時のことが書いてあるだけで、その後は名前が出たりしただけである。ナタナエルが何をしたとか、どんな賜物が与えられていたとかは何も記されていない。ピリポやバルトロマアイやアンデレなども、何度か名前が出て来るだけである。しかし、イスカリオテ・ユダは弟子たちの中で「金入れを持つ者」であって信頼されていた。

       キリストはだめな者を選び、そのだめな人間が十二弟子の中に一人だけいた、という話ではない。イエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言ったとき(ヨハネの福音書13章21節からの箇所)、弟子たちはみなイスカリオテ・ユダの方を見て「お前だろ」と言ったりしたわけではない。弟子たちの皆が当惑して互いに顔を見合わせたりして「私ですか?」とイエスに聞いたのである。イスカリオテ・ユダは弟子たちの中で、或いは教会の中で、一番の問題児だったわけではない。一番立派なクリスチャンとして目立つ者の一人であったのだ。その人が、本当の信仰を持っていなかったのである。

       心理的に言えば、イスカリオテ・ユダ自身は、キリストを信じたとき、自分では本当に信じたつもりだったに違いない。決して偽りの信仰を持っていると思ってはいなかった。自分がキリストを裏切るだろうとは、決して思ってもいなかった。本当に信じたつもりでいた。キリストのために働くとき、最初のうちは実に楽しく従った。だから、ヘブル人への手紙6章にあるようなことが言えるわけである。

       確かに永遠の祝福を「味わった」のである。彼はキリストの御言葉を聞いて喜んでいた。「この人になら、ずっと従って行きたい」と心底思ったのである。「この御方のためなら、いのちをも捨てる」という思いをイスカリオテ・ユダも持っていた。キリストの説教を聞くとき、イスカリオテ・ユダは心の中で燃えて「なんと素晴らしい教えだろうか」と思っていた。そして、熱心にキリストに従った。しかし、その心には根がなく、その心は変わってしまった。

       サウル王もそのような人物であった。最初に預言者サムエルが王を探してサウルを見つけたとき、彼は非常に謙遜で誠実な好青年であった。彼は、人々の前で目立つようなことをしたくなかった。油を注がれたとき、サウルは、預言者たちの中に入って一緒に預言したりもした(第一サムエル記10章10〜12節)。預言者たちと一緒に神を賛美し、神を礼拝した。サウルはその礼拝を本当に喜んでいた。確かに、サウルは「天からの賜物の味を知り」、「聖霊にあずかる者」にされた、と言える。しかし、彼はその人生の中で、神に逆らう道に入らざるを得ないいくつかの重大な決断をする。

       彼は神の命令に反し、アガグ王を殺さないことに決めた。その聖書箇所から、サウルの決断が意識的な反逆の行為であったこと、サウルは本当の意味で悔い改めなかったことは明らかである (第一サムエル記15章22〜24節)。サウルが神に逆らったとき、サムエルは、「神の命令を守らないことは、占い術とか魔法のような罪だ」ということをサウルに告げた。サムエルがサウロに、神は王国を別な者に与えられると告げたとき (同15章28〜29節)、彼には悔い改めて神の裁きに委ねる2度目の機会が与えられたが、悔い改める代わりに、彼は生涯の残りを神の御心に対して戦う生き方に費やしたのである。実際に、サウルはその時以来もっと神に逆らうようになって行った。

       最終的にサウルは、占い師に依存したり、神の祭司たちを殺害したりする極悪な者に成り下がったのである。サウルは実に酷い者に変わってしまった。最初にへりくだっていたあの誠実なサウルは、自分の血筋が王位を継承するために、神に油注がれたダビデを殺そうとする。預言者サムエルから、「それは神の御心ではない」とはっきり言われても、サウルは聞く耳を持たなかった。本当に信仰を持っているなら、神がサウルの王位を退けて他の人に油を注いで王としたと知ったなら、それを受け入れ、悔い改めてそれに従い、神の御心を求め、神の御国を求めればよかったのである。しかし、サウルはあくまでも神の御心に逆らった。

       レハブアムでさえ、それくらいのことはしたのだ。神がレハブアムに、「上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこのようにしむけたのだから」と言われたときに、レハブアムはその命令に従ったのである(第一列王記12章)。愚かなレハブアムでさえ、神の御心ならそれに従おうという信仰はあったのだ。サウルにはそれがなかった。「神の御心がどうであれ、私は何としても自分の名を王の名として残すのだ」という思いしかなかった。ダビデは既に神に選ばれて油を注がれた者であると知っていながら、執拗にダビデを殺そうとするのである。

       そのように、もともとしっかりした信仰を持っていたかに見えた人物がとんでもない者に変わってしまうこともあるということを聖書の中から教えられる。新約聖書では、デオテレペスのように、教会のリ−ダ−の立場にありながらヨハネを認めないで逆らっているような人物についても書いてある(ヨハネの第三の手紙9節)。他にも、教会の中にはパウロに逆らうヒメナオとアレキサンデルのような人物もいる。パウロは「私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神を汚してはならないことを、彼らに学ばせるためです」と言っている(テモテへの第一の手紙1章20節)。彼らは、もともと本当の信仰を持っているように見えたが、全然違っていたことを聖書は暴露している。

       それらの事実を見るときに、なぜこのような警告をしているのかがよくわかると思う。そういうわけで、ここに、良いキリスト者でしかも良いキリスト者の指導者として始まりながら、神に背を向けて自らの破滅へと向かった人たちがいる。それゆえ、兄弟たちへの警告は重要である。

       神の御言葉にでなく、肉に従う者は、その肉に従った生活の当然の結末に至るのである。その当然な結末とは、永遠の死である。そのことをパウロは警告している。他の箇所でもパウロは同じようなことを言っている。ガラテヤ人への手紙5章のところである。21節の後半に私が言いたいポイントがあるが、19節から見た方がよいだろう。

     

    肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

       21節の後半で、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」とパウロは言っている。このような生活を送るならば、神の御国を相続することはできないのである。バプテスマを受けているか受けていないか、教会に行っているか否かなどの話ではない。たといバプテスマを受けているとしても、また教会に行っているとしても、このように「肉に従って歩む」ならば、その道の行く先は明らかであって、それは「」である。その道の終着点は御国ではない。その列車に乗れば、その終着駅に辿り着くしかない。

       しかし、多くの人は、その道を歩んでいるのに、反対の方に向かっているつもりでいるのだ。「そんなことはない。その終着駅は死である」と、パウロははっきり言う。パウロはいろいろな箇所で何度もこの警告を発している。私たちはそれを真剣に心に留める必要がある。

     

    肉の行ないを殺す

       8章に戻るが、8章13節の後半でパウロは、「しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」と言っている。「からだの行ないを殺す」という言い方は、非常に強い言い方である。クリスチャンが殺さなければならない相手がここにいる。それは「からだの行ない」である。それは「」である。この「からだの行ない」の「からだ」という言葉は、今までの1節から11節までに出て来る「」とは違う言葉が使われている。「」はギリシャ語で「サルクス」という言葉で、「からだ」は「ソ−マ」という言葉が使われているが、意味は同じである。

       「からだの行ない」というのは、今までの「」の話の続きである。肉の思いや肉に従った生き方を殺すなら、生きる。殺さなければ、殺されるのである。これは、自己防衛の話なのだ。肉の思いと肉の行ないを殺さなければ、それによって殺される。戦わなければ、死ぬ。肉に従って生きることの反対は、肉を殺し、御霊によって生きることである。私たちは罪人として生まれ、私たちのうちには罪の影響があるため、罪に対して戦うことはクリスチャン生活の本質的な部分である。それゆえ、パウロはからだの行ないを「殺す」ように教える。

       「戦って勝利を得るなら、生きる」ということをパウロは言っているが、これは堅忍の話である。ウェストミンスター信仰告白の中に出て来る「堅忍」というものである。「肉の思いを殺す」のと「からだの行ないを殺す」は同じような意味だということを話したが、「からだの行ない」と言うとき、「行ない」が強調されていると言える。しかし、パウロがここで「からだの行ない」と言うとき、表面的な行為を取扱えばよいという意味で言っているのではない。多くの場合、罪と義しい行為の区別は表面的な行為のうちには全く見出されず、その行為に伴う心の姿勢に見出されるものである。それは皆さんにもよくわかることだと思う。

       「からだの行ない」と言うとき、私たちが罪を犯すときはこの「からだ」をもって罪を犯すことになるので、これは堕落して罪人となったアダムにある古い契約の行ないということである。「肉の思い」と言うときにも同じことを言っている。しかし、「自分の罪の行ないを殺さなければならない」とパウロは教えている。7章14節からの箇所で、クリスチャンの典型としての自分の心の中の罪と戦っている状態について話したが、ここでパウロが言っているのは「その戦いをしているならば、生きる。その戦いをしていなければ、死ぬ」ということなのである。

       最初のところで言っていることは、「肉に従って歩めば、死ぬ。御霊によってからだの行ないを殺すなら、生きる」というものであった。「御霊によって、からだの行ないを殺す」とはどういう意味かというと、7章14節から7章の終りまでにある罪に対して戦うことなのである。「からだの行ないを殺す」とは、ローマ書7章14〜25節でパウロが話している戦いを描写する別の言い方なのである。そのように真剣に罪に対する戦いをしているならば、それがクリスチャンらしい生き方なのである。それは、罪に対して戦っている生き方なのである。

       これは、「毎日朝から晩まで、死ぬ日まで一度も罪を犯さないなら」ということではない。「御霊によって、肉の行ないを殺すなら、生きる」とは、「戦うなら生きる」ということを話しているのだ。罪を捨てて神のために生きるならば、繰り返しキリストの十字架に引き戻される。御霊に従う私たちは、悔い改めと神の御恵みを信じる信仰を新たにするよう強いられる。「内なる罪に対する継続的な戦いと、神への信仰の継続的な更新」、それこそ「からだの行ないを殺す」という言葉が最終的に意味していることなのである。この罪に対する真剣な戦いによって、私たちは肉が私たちの生活を支配することを妨げるのである。

       しかし、あたかもクリスチャンが努力による自己修養のテクニックをマスターすべきであるかのように解釈してはならない。パウロがここで何かの霊的自己訓練について話しているのではないことに心を留めたい。この戦いは「御霊による」ものである。それは、内に住んでおられる神の御霊が私たちを動かし罪を拒み、神を求めるようにしてくださることを意味している。つまり、罪との戦いに動機を与えその戦いを鼓舞するのは、福音の中で表現された私たちに対する神の愛以外の何ものでもないという意味なのである。

       「御霊によって」戦うとは、「御霊の御力によって戦う」ことを意味するが、御霊の力は神の御言葉、福音の御恵みを通して私たちのものとなるのである。「肉の思い、悪い心、悪い行ないを殺す」ということは、ただ単に高い倫理を求める“自制”のようなものではない。クリスチャンではない人の中にも、そのような心を持つ人間はたくさんいる。クリスチャンではないのに、クリスチャンよりも熱心に“自分で考える善”を求めている人はいる。いわゆる自己中心的な思いを捨て、他の人のために生きようとする人もいる。自分を犠牲にして他の人を助ける人もいる。人間として実に目立って立派な生き方をしている人は確かにいる。

       孔子がどのような人間だったか、会ったことがないので詳しいことは知らない。しかし、私たちが今持っている資料や言い伝えが正しければ、実際にその人に会ったら「この人はすごい」と思うしかないであろう。しかし、それは「御霊によって、肉の思いを殺している」のではない。クリスチャンではない人を見るとき、昔のローマでも、絶対に自己中心的なことはしないような人々がいた。彼らは、思想的に哲学的な理想を求めて、自己中心的な思いをすべて捨てて、人のために生きようとする。そのような人はいなくはないのだ。

       どの国でも、どの時代にあっても、立派な人間だとしか言いようがない人たちがいる。その人たちは、「御霊によって、肉の思いを殺している」のではない。クリスチャンの中には、自分がどんなに自己中心的で身勝手で傲慢か、どんなに自分の思いは足りないものなのかに気が付かないで、自分は立派なクリスチャンだと思って生きているつもりの人がいる。その反対に、とてもへりくだった心を持っていると思わせられるような、クリスチャンではない人がいる。真剣に善を求めて生きることを考えている、クリスチャンではない人たちがいる。客観的に見れば、真剣なそのクリスチャンではない人の方がずっと立派だと言えよう。

       私も、自分よりも立派な人に沢山会ったことがある。クリスチャンではないその人たちに会って話していると、自分が恥ずかしくなる。人間としての自分のちっぽけさを感じないではいられなくなる。しかし、そのような人は、神の御前ではどうなのかというと、神のために生きているのではなく、神を喜ばせようとする思いなど一切ないのである。彼らは、自分がある意味で勝手に選んだ“思想”のために、とてもへりくだっているかのように見える生き方をしているとしても、実は自分の誇りと傲慢な心を満足させるために、そのことを求めていることになるのだ。

       彼らは結局は自分を神にしている。ただ、自分が神になるその姿において、思想的には普通の人よりもずっと高いものを持っているので、立派に見えるだけなのだ。朝から晩までパチンコの人生を送っている人よりも、彼らの方がずっと高い思想を持っている。が、しかし、最終的には、神を喜ばせようとする思いはどこにもない。その意味では、永遠にパチンコをしていたいと思う人たちと本質的には何も変わりはないのである。

       だから、私たちがその人たちを見て恥ずかしく思うのは、それはそれでよいと思う。しかし、神が彼らを見て感動するようなことは決してないのである。「御霊によって肉の思いを殺し、御霊によって、からだの行ないを殺す」とはどういうことかというと、1節から11節にあったように、「御霊の思いは、神を喜ばせるものなのだ」ということなのである。決定的な区別がそこにある。それは、神を愛し、神を求め、神を喜ばせる思いなのである。神の御国を求める心である。

        しかし、神を愛する愛と自分や隣人を愛する愛とは違う、ということも知らなければならない。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、隣人を愛しなさい」とは聖書には書いていない。「隣人を自分と同じように愛しなさい」と書いてある。そして「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命じられている。心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、すべてを尽くして神を愛しなさい。それは、神を絶対に第一に考えるということである。そのような心を持ち、それを切に求め、神を喜ばせることをするのである。

       朝起きるとき、何を一番大切だと思うのだろうか。「今日は、まずこれをしなくては・・・。これをしたい。あれをしたい」と、普通なら考えてしまうものだ。はっきり言って私たちは、「神を愛する心を持っています」と言っても、毎朝起きてきて、「今日の一日の目的は何なのか。今日、何を最優先にやるか」と考えるとき、神に対する思いがどこまであるのか疑わしいものである。あなたの心に隠しカメラを入れたらどうだろうか。毎日、朝から晩まで、神に対する思いがどうなっているのかを見てみたら、どうだろうか。その心が見えてくるだろうか。その隠しカメラは、私たちの思いを撮るカメラであるなら、神に対する思いがどれくらい撮れるだろうか。そこが問題なのだ。

       神に対する愛の心は、御霊によって、肉の思いと肉の行ないを殺す心である。パウロが言っているのはそういう話なのである。これは決して、「私は立派なクリスチャンになります」というような軽い思いではない。また、「この大きなプロジェクトをやって偉くなるぞ」という類いの思いではない。本当に「」を殺すことができる心は、神に対する愛の心なのである。神に対する愛の心が足りないので、肉に対する戦いも足りない。結局のところは、神を愛すると告白しながら、肉もある程度まで満足させたい。そのような中途半端なことになってしまうのではないか。

       ローマ人への手紙7章14〜25節までの心の戦いとは、そのような戦いなのである。パウロは、自分の心を見るとき、神に対する思いと隣人に対する思いがどんなに足りないか、自分の心がどんなに醜いかを思わされて耐えられないほどなのである。これは、使徒パウロの話なのである。パウロは、自分の肉の思いを殺す戦いをしているのだ。「御霊によって、からだの行ないを殺すなら、生きるのです」を別の言葉で言うならば、「神を心から熱心に求めるなら、生きる」ということであり、「神を第一にして生きるなら、永遠に祝福される」ということなのである。

       神の方が先に私たちを愛してくださった。愛を豊かに豊かに注ぎ出して与えてくださった。何を要求しておられるのかというと、15節に出てくるように「アバ、父」と心から呼ぶことである。そのように信頼して、心から神を「アバ、父」と呼ぶことを神は私たちに求めておられる。愛の心をもってそれに応答すべきである。私たちがどんなに足りないかを神は世界が創造される以前からすべてご存知なので、神を感動させようとする必要はない。ただ、神の愛を素直に喜び、愛を与えられた者に相応しく、その愛に応えることが大切なのだ。それこそ、本当に神を喜ばせる心を持って生きることなのだ。そうする時に、本当に私たちは肉の思いを殺すことができるのである。

       アメリカの牧師たちは説教するときにいろいろな例や譬えを話すことができる。場合によっては、説教の初めから最後までその羅列であったりするけれども、それほどに説教で引用するための例話や譬え話を集めた本が多く出版されている。それらは説教者にけっこう愛用されている。私はそういう本をあまり読んでいないのでいつも同じ例話ばかり使って、皆さんにはつまらないかも知れないが、以前に紙コップに水を入れる話をした。紙コップに空気が入っているが、その空気を取り除く簡単な方法が二つある。一つは空気を完全に抜き取ってしまうやり方であるが、そうすればその紙コップも破壊されてしまう。もう一つの方法は、そのカップをぶどう酒でいっぱいにする(水でもいいが、クリスチャンなのでぶどう酒ということにしたい)という方法である。

       ぶどう酒でいっぱいにすれば、空気はもう除去されてしまう。つまり、「罪を取り除く、罪を取り除く、罪を取り除くのだ」と、そればかり考えていると、その“器”が破壊されてしまうのである。それで、たとい罪を取り除くことができたにせよ、器自体も破壊されて残らなくなるのだ。そのようなやり方ではなくて、別の物でそれをいっぱいにすることによって取り除かれるのでなければならないのである。神を喜ばせる御霊を表わすそのぶどう酒でいっぱいにすると、悪い物は全部取り除かれていくことになるのである。神御自身を喜ぶ心こそ罪に対して戦う心である。その心を持っていなければ、罪と戦って勝利することはできない。

       では、私たちはどうしたら神を愛する心を持つことができるようになるのか。「頑張ります。神を愛します」というような掛け声だけではダメなのだ。それで神を愛するようにはならないのである。神の私たちに対する愛に目を留めるのでなければ、神を愛する心にはなれないのである。神が私たちのために何をしてくださったかに目を留めなければならない。神の御恵みがどんなに偉大で素晴らしいかに目を留めるとき、その御恵みを覚えるとき、自然に神に対する感謝の心が生まれ、神を愛するようになる。

       ヨハネの第一の手紙4章10節にあるとおりである。即ち、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです」とヨハネは言っている。また、私たちが神を愛するのは、神が最初に私たちを愛してくださったからだと言っている(同4章19節)。永遠の初めからそうであるし、クリスチャンになったときもそうであるし、毎日の生活においてもそうなのだ。すべては神の愛から始まっている。神の御恵みから始まっているのである。そのことは永遠に変わらない。

       このことが私たちの霊的戦いにとって意味するのは、神の御恵みとキリストの愛を常に自分の前に置いておく必要があるということである。神に対する愛、そして、その愛ゆえに罪を敵とし、真理のために戦うための動機が生まれる。また、私たちの霊的エネルギーと動機は、神の先行する愛への応答なのだということである。それは、ただ一度の経験ではない。それは繰り返し新たにされていくものである。だから、神が私たちを今日もここに招いてくださったのである。

       事実、毎週の礼拝において、神は、御自身の家で主の晩餐を食するように私たちを招いてくださる。それゆえに、私たちは神の御前に来る。神は、御自分が教会に与えてくださった代表者たちを通して御自分の御子を象徴するパンとぶどう酒とを提供される。主の晩餐とは、食事というかたちの福音なのである。神は、十字架上で御子を賜った記念として、契約的食事において御自分の御子を私たちにお与えになる。そうすることで、単なる何かの自己訓練ではなく、御霊による愛の訓練によって、繰り返し御自身の愛を私たちの前に置いてくださる。それによって、私たちの生活は変えられるのである。

       御霊は御言葉を通して働かれ、主の聖餐は私たちを御自身の御許へ引き寄せ、神を愛し仕えるように導かれるのである。日曜日に礼拝に招かれたのは、牧師に叱られるためではない。私たちに特別な交わりの時を与え、この時に、神は御言葉を私たちに食べさせ、キリストにあって聖餐式のパンとぶどう酒を与えてくださるためである。そのパンとぶどう酒を受けるとき私たちは、主イエス・キリストが私たちに与えられたことを覚えて、感謝の心を持って受けるのである。この時に、私たちには神を愛し、神の御恵みに対して正しく応答する心が与えられる。

       礼拝は生活のすべての基準を与えてくれるものである。それ故、それは神の招きによって始まる。神が与え、与え、与え続けてくださる。それを私たちは、喜び、感謝して受けるのである。そして、出て行って、生活のすべての領域において感謝の心を持って神に応えるのである。それがクリスチャンの生活全体を貫く心である。神への感謝の心を持つとき、罪と戦って御国のために生きることができるようになる。そのために神は私たちをここに招いて聖餐式を与えてくださる。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年7月16日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章9〜11節

    ローマ人への手紙8章14〜16節

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