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    ローマ人への手紙8章17節


    8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

    2000.08.06. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    キリストと共に苦しむ

    8章17節

    私たちがキリストと栄光をともに受けるために、苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人である。

       この8章17節でパウロは、「主イエス・キリストとともに苦難をしているなら」という言い方をする。彼はローマの人たちがキリストと苦しみをともにしているかどうかを疑っているわけではないし、救いの条件を述べているのでもない。当然主イエス・キリストと苦しみをともにしていることが前提である。ここは、「キリストとともに私たちは苦難をともにしているので」と訳す方がよい。すべてのクリスチャンがイエスとともに苦しむことを当然のこととパウロは考えているからである。「キリストとともに苦しんでいるので、いつか主イエス・キリストとともに栄光を受けることにもなる」と言っているのだ。

       パウロが指摘しているのは「苦しみ」と「栄光」とのつながりであり、それは彼が続く箇所を通して(18節〜30節)詳しく説明していくテ−マである。パウロは、17節からずっと30節まで、本当は最後の39節までもそうであるが、「栄光」「苦しみ」「望み」という言葉を繰り返し使っている。苦しみにつながる「深いうめき」という言葉も使われている。それだから、聖書の中では「望み」「苦難」「栄光」「祝福」などは一緒に考えなければならないものとして書かれているということをまず覚えていただきたい。

     

    契約的原則としての苦しみ

       アダムとエバの堕落の時以来、苦しみと実を結ぶこと、そして苦しみと栄光は、一緒につながっているものとしてある。これは聖書の根本的な契約的原則であることをしっかり認識する必要がある。アダムが罪を犯したことによって、神はアダムとエバに懲らしめとして「あなたは、苦しんで子を産まなければならない。苦しんで食を得なければならない。汗を流して糧を得なければならない」という罰を与えられた(創世記3章16〜19節)。それで、アダムの堕落以降のすべての人間は、苦しみを通してでなければ祝福が得られないものとなった。苦しみと栄光とのつながりはアダムの罪に対する呪いに根ざしたものであった。

       苦しみを通してでなければ、契約の祝福を得ることはできない。本当は、罪を犯す前のアダムとエバには、苦労の「労」はあっても「苦」はなかったのである。例えば、創造のされたときに神が動物をアダムの前に連れてきたとき、アダムは動物を観察して相応しい名前を付けなければならなかった。これは頭脳を使う労働であり、仕事である。問題を出されて、働きが与えられた。働きが与えられたなら、考えたり試したりして「労」しなければ、その仕事を遂行することはできない。そういう意味で、アダムは罪を犯す前でもプロジェクトが与えられ、仕事はあったのである。

       神は、アダムとエバに命じて、全世界を支配し、生み、増やして、神の栄光のために歴史を発展させていくプロジェクトをお与えになった。何も働きがない状態ではなかった。だから、「天国とは働きのないよう楽園のようなところだ」というような概念は聖書の中にはない。アダムとエバが罪を犯す前にも、ちゃんとプロジェクトがあり、働きがあった。

       黙示録22章にもあるように、私たちが天国に行っても、「神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕えている」とあるので、そこでも神に仕えて働くものだということがわかる。天国に行ったら、永遠に座って歌っているとか、終りのない宴会をするのではない。価値あるプロジェクトが与えられ、実を結ぶ仕事が与えられるのである。クリスチャンたちは、御国で、永遠に実を結ぶ働きをして喜びに満ちて神に仕える者となるのである。

       しかし、御国での働きには「汗」も「苦しみ」もない。一緒に働いていても、そこには人間関係の摩擦や落胆はない。意見が違うからといって怒ったりして傷つけあうようなことは一切ない。しかし、神が与えたプロジェクトをどのように発展させ、どのように実を結ばせていくかを、一緒に考えたり話し合ったり試したりして働かなければならない。どのプロジェクトにも必ず複数の選択肢があるからである。

       また、アダムは、動物たちを名付けたあとで孤独を経験したが、そのことも注目に値する。自分の足りなさを感じたり、問題に対する回答を見つけようともがいたり、単純に間違いをしたりすることなどは本質的に罪深いことでは全くないのである。それらはすべて園におけるアダムにとってあり得ることであった。アダムとエバが罪を犯さなくても、物事を試してみて失敗することは十分にあり得る。本質的に罪が何一つない状態であっても、成長する過程で、またプロジェクトを発展させる過程で、困難を経験したり失敗したりするものである。

       変な話かも知れないが、園の中を歩いていてニンニクを見つけたとする。食べ物みたいなので取って食べてみると、あまりに辛いので「そのままで食べるよりも別の食べ方を考えなければ」ということに気付く、というようなことだってあるだろう。いろいろな事において、罪なしの失敗があったりして学ぶことだってあるだろう。それは天国でも然りである。しかし、天国には汗や苦しみはない。汗や苦しみは、罪人になった人間に罰として与えられた状態のことなのだ。アダムの堕落以前の働きにおいては、いかなる痛み、苦しみ、汗もなかったのである。

       堕落は契約の呪いをもたらした。人はひたいに汗して糧を得、女性は痛みの中で子を生まなければならなくなった。男と女にとって、神からの最大の賜物であるそれぞれ特有の働きの報いは、それらに痛みと苦しみが伴うという意味で呪われたものとなった。人はこのように全生涯を神の御怒りの下に歩まねばならないという現実に直面している。このことにはまた、神御自身とその救いを求めないかぎり、永遠に御怒りに直面するものだということをすべての人間に教えているという意味もある。

       そういう意味で「苦しまなければ実を結ばない」という原則は、堕落のときに人類に与えられたものなので、広い意味で考えるなら、クリスチャンであってもなくても、その原則は変わらない。全人類に適用された原則なのだ。汗を流さなければ会社や事業は巧くいかない。苦労しなければピアノが上手になることはない。頑張らなければ難しい本が読めるようにはならない。頑張らなければ、家の整理整頓はできない。勉強したり考えたりしなければ、美味しい料理が作れるようにはならない。これらは、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても同じである。

       栄光への道である苦しみというものは、クリスチャンであろうとなかろうと等しくそれを知っていて、認めようと認めまいと、それに従って歩むほかない包括的な契約的原則なのである。何でもかんでも、ある程度まで頭脳を働かせて考えなければならないし、汗を流して苦労しなければ、何一つ良くはならない。汗も流さずに実を結ぶことはないのである。

       汗を流さずに糧を得ることはない。それが、堕落後に人間に与えられた原則である。苦しみを避けようとすれば、実を結ぶことが出来なくなる。だから、クリスチャンであってもなくても、「苦労はしたくない。苦しみは嫌だ」と言うなら、実を結ぶことはできない。つまり、怠けてしまうなら実を結ばないのである。苦しみを避ける道をいつも探しているなら、実を結ぶ人生にはならない。

       この原則の枠組みから逃げようとする者は、盗み、詐欺、相続の浪費によってであろうと、或いは他のいかなる怠惰と愚かさによってであろうと、神の契約に対する反抗によってしかそうすることはできないのである。勿論、能率の良さを求めるべきであり、必要のない苦しみを取り除いていくことは大切なことであるが、それはまた別の話である。実を結ぶためには苦しみが大切だからと言って、いっぱい苦しもうというものではない。能率良く働くことによって、苦しみが軽減されることがあるのも事実である。しかし、能率の良い働き方を見つけるための困難とか苦しみというものがあるわけである。何れにせよ、「苦しみを通して実は結ばれる」という原則は、クリスチャンであるなしに関らず、誰もが知っていることである。

     

    苦しみと宗教

       「苦しみ」とか「苦難」は聖書の中でよく教えられているものである。キリスト教以外の宗教にも苦しみについての教えはたくさんある。苦しみが人生においては避けられない問題であるため、それはすべての宗教において主要なテーマでもある。特に仏教は、苦しみを大きなテ−マとして考えている。

       仏教には「四つの聖い真理」という教えがあり、その四つとも苦しみに関わるものである。最初の真理は、「すべてが苦しみである」と述べ、第二は、「苦しみの原因は欲望である」と教える。第三に、「欲望を消し去ることが苦しみを消す道である」と言い、最後の第四の真理は欲望を消す生き方を定義する「八つの道 (八正道)」を紹介している。そこから仏教の思想は始まる。

       聖書の中では、苦しみは創世記3章のところから始まっている。そして、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架上で苦しみを受けてくださらなければ、私たちに救いはないと教えている。だから、聖書においても最大のテ−マは苦しみにつながっている。そういう意味でどの宗教であっても哲学であっても、「苦しみ」は最も重大なテ−マとなっているのである。

       それで、仏教について言えば、私たちは二つの点において少なくとも表面的に仏教徒に同意することができるだろう。その一つは、確かに「苦しみは主観的なものである」ということである。そして、もう一つの点は、「苦しみは期待につながっている」という点である。苦しみが主観的なことであるので、個人一人ひとりが自分の置かれた状態をどのように思うかによって感じる程度も違ってくる。裕福で、名声があり、事業も成功しているのに、耐え難い苦しみに満ちた人生を送っている人は少なくない。苦しみが耐えられずに自殺をした有名人たちの話を私たちは沢山知っている。だから、苦しみは主観的なものであり、それは期待につながっている。

       クリスチャンになったあるユダヤ人の女性の証しがあるが、その女性は第二次世界大戦の時にアウシュビッツ収容所に入れられていたが、戦後生存者となってアメリカに移住し、結婚した。すべてが巧く行って幸せに暮らしていたと思っていたら、夫に捨てられてしまい、夫は別の女性と一緒に逃げてしまった。そのような苦しみの中で彼女はクリスチャンになった。そして彼女は、「アウシュヴィッツの苦しみよりも家族崩壊の苦しみの方がずっと私には深くて悲しいものだった」と言っている。アウシュヴィッツの方がずっと耐えやすかったと言う。客観的な事実がどうなのかよりも、主観的な心の状態がどうなのかということの方がずっと傷は深いものなのだ。

       これは1960年代の話であるが、夫に捨てられて離婚させられたときの彼女の生活環境はアウシュヴィッツの時よりもずっと豊かで経済的にも安定していた。しかし、「この苦しみはあまりにも重い。アウシュヴィッツの方が苦しくなかった」と言う彼女は、神を求めるようになり、救い主イエス・キリストを信じて救われたのである。だから、確かに苦しみは主観的なものであり、ある意味で期待から生ずるものだと言うこともできる。アウシュヴィッツの収容所にいたときの肉体的精神的な苦しみはもう当たり前になっていて皆が諦めていた。もっと良い状態を誰も期待してはいなかった。何も期待できなかった。ただ耐えるほかなかった。苦しいと思う気力もなくなり、ただただ耐えるしかないというものであった。

       仏教の場合、特に小乗仏教の場合だが、「期待を全部捨てれば苦しみはなくなる」と教える。苦しいことも楽しいことも、何にも反応せず、期待もしない。期待を完全に取り除けば、どんな状態にあっても苦しみを感じることもないのだと考えるわけである。そのようなやり方は聖書の教えとはまるで違うものである。

       聖書では、ローマ人への手紙8章もそうだが、「苦しみ」と「望み」が一緒のテ−マとして出て来る。大きな望みがあって、苦しみはその望みに肯定的にリンクされている。仏教の考え方はそうではなくて、「苦しみを捨てればよい」と教える。仏教の答えは、“欲望”と“愛着”を殺すというものである。苦しみを捨てる方法は、期待を全部捨てればいいと考えるのである。

       それだから、小乗仏教の国では、男性はどうすればいいのかというと、皆が僧侶になるのが一番よいということになる。真の仏教徒の唯一の生き方は僧侶として生きることである。僧侶のみがあらゆる欲望を棄てることができるからだ。それだから、小乗仏教の国々では僧侶の人口が非常に多い。そうなるのは論理的な帰結なのである。しかし、その結果どういう社会になるだろうか。

       例えば、会社の経営を考えた場合、目的も目標もビジョンもなく、期待も愛着もないというような思いをもって経営するのは非常に難しいということは誰にでもわかる話である。厳密な意味での昔の仏教のように、僧侶になって、何も期待せず、特に目的もなく、利益を全く求めず、事業の発展も顧客の満足も追及せず、会社の未来も求めないで、歩き回って与えられたパンを食べればよい、この世のことはどうでもよいというような思いを奨励するなら、会社の運営は当然難しくなるであろう。そのような仏教徒の実業家を想像してみてほしい。

       日本はほとんどが大乗仏教なので、考え方はかなり違うけれども、小乗仏教は「皆がお坊さんになることが、世俗の苦しみから解放される道なのだ」と考える。その解放の道とは、期待はゼロで、人生はただ耐えるだけのものでしかない。死んだら、輪廻で再びこの世に来て、また耐えていく。それを繰り返していくうちに、いつか完全に存在しなくなる。存在しなくなることこそ、本当に苦しみから解放されたのだと考えるのである。

       宇宙全体が苦しみなのだから、それを越えるには消滅するしかない。消えたら、すべての苦しみから解放される、と言うのである。事実、自殺する人の多くはそのような思いに陥ったりする。自分を消してしまえば解決になると考えてしまう。今の状態はあまりにも苦しいから自殺の道を選ぶわけだが、自分を殺した後にはもっと激しい苦しみがあるかも知れないことについては、あまり真剣に考えていない。クリスチャンの観点からすれば、自殺によっては絶対に苦しみから解放されることはないのである。

       そういうわけで、望みも期待も目標も愛着もすべて捨てて、それらを殺すことによって苦しみから解放されるというのが仏教の一つの考え方であるが、それは聖書の神を信じる私たちの思いとは根本から違うものである。クリスチャンの場合は、クリスチャンとして成長すればするほど期待は深くなり、望みも強くなる。期待が深くなると、苦しみも深くなる。

       主イエス・キリストは苦しまなかっただろうか。しかし、釈迦牟尼は苦しみから解放されている。だから、あのように座って笑っていられるのだ。釈迦牟尼には苦しみはない。食べ物があってもなくても、苦しみはしない。どんな事があっても悲しまず、苦しまない。もう苦しみは一切感じられない境地にあるのだと言う。それが彼らの“解放”のイメ−ジなのである。

       キリストは、涙を流してエルサレムのために祈っておられた。涙を流して「アバ、父」と呼んで、ゲッセマネの園で祈られた。十字架の上でも苦しまれた。時には、弟子たちを見て苦しまれた。ラザロの死を見てイエスは深い憤りをもって苦しまれた。福音書の中では何度も何度もキリストが苦しまれたことが記されている。イザヤ書には、メサイアは「悲しみの人」と記されている(53章3節)。ヘンデルのメサイアの中でも歌われているように、キリストは "man of sorrow"であられた。キリストは、苦しんでおられた。キリストは悲しみの人であった。

       どうしてそれほどまでに苦しまれたのか。理由は、そこまで父なる神に対する思いが深く、それほどに期待しておられ、そこまで愛と義を喜び、それを求めておられたからである。人々が救われずに滅んでいくのをご覧になってそこまで悲しまれたのである。そこまでエルサレムの救いを求めておられたからである。数えようとすれば、キリストの苦しみは幾らでもある。主イエス・キリストは、御自分を苦しみから解放するために、すべての期待を捨て、すべての愛着を断ち切るようなことはしていない。

       人間関係を持つことには苦しみがある。愛することにも苦しみは伴う。望みを持つことには苦しみがある。何か目的を持ってそれを遂行しようとすれば、苦しみがある。パウロがここで「望み」を繰り返し言うときに、苦しみの話をしている。「キリストとともに苦しみを受ける者は、キリストとともに栄光を受けることになる」と教えている。「苦しみを避けるためにこうしなさい」というような教えは聖書の中にはない。クリスチャンとして成長するということは、ある意味では、苦しみをもっと深く味わうことにもなるのだ。

       そういうわけで、苦しみは主観的であると同時に、期待につながっている。この二つの真理は非常に深い皮肉を含んでいると言えよう。クリスチャンとして私たちは御言葉の中で神の御国を願い求めるよう教えられている。私たちの期待は神の御言葉の教えによって促されている。私たちは、霊的な成長を切望し、また周りの世界がキリストに立ち帰り、新しく変えられるのを見たいと切に望んでいる。そして自分の生活の全領域と周りの世界のすべてが改善されるように熱心に働くのである。それは、進化論的な時代の風潮としての“進歩”を信じるからではなく、歴史の中で働き、栄光ある終わりの時に向かって成長と発展をもたらす神の聖霊の働きを信じるゆえである。

       それだから、それだから、福音は神を信じる私たちの期待を増し加えるのである。それによって私たちの願いを深め、また方向づけ、私たちがより高いもの、より得難いものを、私たちが成長して神と救い主に近づけば近づくほど明るく燃える熱意をもって求めるようになるためなのだ。パウロは「私たちは望みによって救われており、神が約束してくださった祝福を熱心に待ち望んでいる」と24〜25節で言っている。望みが真剣であればあるほど、苦しみは深まる。福音は痛みを伴う祝福なのである。私たちは被造物全体とともに神の栄光の現われを待ち望んで苦悩のうちにうめいているのである(22節)。

     

    キリストとともに苦しむ

       次に、「キリストと苦難をともにする」ということはどういうことなのかを一緒に考えたい。キリストとともに苦しむとは、明確には何を意味するのか。これにも狭い意味と広い意味がある。最も狭くて単純な意味は、「福音を伝えるために迫害を受けることはキリストと苦しみをともにしていることである」ということである。パウロは、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、あっちこっち飛び回ってユダヤ人と異邦人に福音を宣べ伝えたために、捕らえられて獄に投げ込まれたり、鞭で打たれたり、石で打たれて殺されそうになったりした。福音のために、死と直面するほどの様々な苦しみを受けなければならなかったことが使徒行伝に記されている。

       パウロは福音を伝えるために憎まれて、本格的な迫害を受け、最後に首をはねられたのである。それは、福音のための苦しみであり、キリストと苦しみをともにすることであった。それが最も簡潔ではっきりした意味である。しかし、パウロのレベルではなくても、どのクリスチャンであっても、福音を伝えることによって憎まれ、誰かに激しく反対されたり捨てられたりするであろう。それはクリスチャンであれば誰もが経験することだと言ってもよい。

       キリストを信じてクリスチャンになったときに、一番仲良しだった友人に福音を伝えようとしたところ、その日からもう友達ではなくなった、というようなことも珍しいことではない。信仰のゆえに家族の人間関係がおかしくなったりもするであろう。それも福音のゆえの苦しみであり、憎まれたり迫害を受けたりするのと同様に、キリストと苦難をともにすることである。確かに私たちの伝え方があまりにも下手なために嫌われるという面もあるかも知れない。金儲けのために下手な伝え方をしたとしてもそれほど憎まれたりすることはないだろう。しかし、福音のため、キリストのためとなると、憎まれるのである。

       もう一つは、クリスチャンはこの世を変える働きをするので憎まれるということがある。主イエス・キリストは、ユダヤ人の指導者たちを厳しく非難し、この世を変えるように働いたので、パリサイ人たちに反対され、憎まれた。それは今日でも同じである。先週、あるロシアのジャ−ナリストが殺害されたというニュ−スがあった。誰かがプロの殺し屋を雇って殺したのだと報道されている。なぜそうなったかというと、彼は町の政府の汚職を暴露したからだと言う。暴露したすぐ後に彼は殺された。その人がクリスチャンだったかどうかわ知らないが、クリスチャンではなくても、この世の悪を暴露して正そうとすれば、憎まれたり殺されたりするのである。

       クリスチャンは国を変える望みを持って働いている。世界を変える望みを抱いて働いている。そうであれば当然憎まれるし、反対されるであろう。人々は、自分の権力を失わせるようなことを許さない。自分の楽しみが奪われることには我慢できない。だから、反対されるのは当然な成り行きである。現在の日本の教会がなぜそれほど憎まれたり反対されたりしていないのかというと、無視しても良いほどにちっぽけて力が無い存在だからである。

       道を歩いているときに、蟻が挑発して来ても皆さんは真剣に戦ったりはしない。それと同様に、「1%にも満たないようなちっぽけな存在に、何が出来ようか」と思われて無視されているのである。教会が大きくなり、影響力を持つようになれば、反対されるであろう。その時が必ず来るということを私たちは知らなければならない。その時が来たら、教会のリ−ダ−たちは妥協せずに御言葉に立って世界を変える働きを続けるかどうかが試されることになるのだ。

       また、ただクリスチャンだからという理由だけで嫌われるときも、キリストとともに苦しんでいる。クリスチャンは周りと違う生き方をするので、それだけでも憎まれたりする。それも、キリストと苦難をともにすることである。周りの社会はクリスチャンではない社会なので、何から何までクリスチャンとは違うものである。違うから反対される。違うだけで反対される。それはクリスチャンでなくても、皆と違えば嫌われるのである。少数派は差別されたりして苦しむものだが、それはクリスチャンの苦しみとは異なるものだ。クリスチャンの苦しみはキリストのための苦しみなのだ。

       それだから、クリスチャンの嫌われ方は甚だしいものとなる。学校でいじめられたり、職場でいじめられたり、近所の人にいじめられたりするであろう。また、クリスチャンだから犠牲を強いられることもある。例えば、日曜日に社会はいろいろなことを行なうものである。日曜日だと私たちはそれに参加することができない。「土曜日にやってくれれば参加できるのに」と思っても、社会は私たちに合わせてはくれない。「したい」と思っても出来ないことが沢山ある。楽しみたいと思っても、できないことがある。ちょっと低い次元の話だが、それもキリストと苦しみをともにする意味の中に含まれるものである。

       実を結ぶために、自分を否定して目標に目を留めて歩むという生き方の中にも、キリストとともに苦しみを受けることがある。それはもっとクリスチャンらしい苦しみと言えよう。はっきりと「御国のために、この目標のために生きる」と決心して歩むのである。その目標に到達するためにはいろいろなことにおいて自分を否定しなければならないし、苦しんで求めなければ目標を達成することはできないのである。

       私たちが信仰と福音のために選択するとき、私たちの苦しみと損失はキリストのためなのである。その目標も働きもキリストから与えられたものなので、その働きのための苦しみはすべて、キリストとともに受けているのである。「キリストのために苦しんでいる」という言い方もできるが、主イエス・キリストはともにいてくださり、ともに苦しみを受けてくださり、一緒に戦ってくださるのである。神から与えられた目標の達成のために、苦しみを受けることは避けられない。

       パウロの著述全体の中で、福音のために辛苦を舐めることについてしばしば語られているが、パウロは自らの苦しみについて決して不平を述べていないことは注目に値する。パウロがいつ「私は苦しんでいる」と叫んでいるのかに目を留めるのは興味深いことである。パウロは貧困の軽減や暴力からの保護を求めて神に叫ぶことはしない。例えばパウロは、捕らえられて投獄されたとき、バルナバと一緒に喜んで牢屋の中で歌っていた。からだの状態は苦しんでいるに違いないが、牢獄の中から「神よ。私は苦しんでいます。助けてください。周りは溝ネズミだらけで牢獄の中は寒いのです。大変だから、助けてください」と祈ったりはしていないのだ。その客観的には苦しみであるはずの状況の中で神を賛美して喜んでいるのである。

       パウロはいつ「私は耐えられません。神さま、何とかしてください」と祈るのだろうか。それは、パウロが自分の罪と戦っている時である。自分の罪と戦って深い苦しみを覚えている。それもキリストとともに苦しんでいることなのである。クリスチャンではない人は自分の罪と真剣に戦うことはしない。彼らにはパウロが7章で話しているような圧倒的な苦悶はない。場合によっては、その罪の結果を恐れるがゆえに、その罪の結果に陥らないように何かをすることはあるかも知れない。しかし、それは罪そのものに対して真剣に戦う心ではないし、罪そのものを苦しいと感じる心ではない。むしろ、「嫌な結果なしにそれを楽しむことができたらいいのに」という思いにかられたりするのである。

       しかし、パウロはローマ人への手紙の7章で、何を期待しているのか、何を求めているのか、どういう望みを持っているのかを明確に語っている。パウロの望みは、自分が罪から解放されることであった。それがパウロの期待である。クリスチャンとして聖い心をもって正しく神を愛し、正しく神を礼拝し、本当に神の御言葉を守ることが彼の期待である。そのような思いをもって歩んでいるので、罪を犯したり罪と戦ったりするときに、とても深い苦しみを覚えるのである。心の中で「私は本当に惨めな者です。神さま。どうか私を救い出してください」と叫ばずにはおれないのである(7章24節)。

       そのように罪に対して戦い、聖さのために戦い、自らの霊的な失敗から来る苦痛を経験するとき、私たちはキリストのために苦しんでいるのである。それはクリスチャン特有の苦しみ方である。主イエスは全く罪のないお方なので、御自分の罪と戦うことはないけれども、厳粛に罪と戦っており、人間の罪を見て悲しみを覚えたり苦しんだりしていた。神はイスラエルの罪を見て悲しまれたのである。

       エペソ人への手紙4章30節に、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と書いてあるが、御霊は私たちの心にある罪を見て悲しんでおられると言うのである。それは、私たちが自分の子どもたちの罪を見て悲しく思うのと同じである。自分の罪を見ても悲しく思うものである。それは、キリストとともに苦しんでいることである。それも神から与えられている苦しみである。

       広い意味においては、もし私たちがクリスチャンとしての信仰をもって神の御国をはっきりと求めているのであれば、どんな苦しみに出会うとしても、それはキリストのための苦しみに他ならないのである。自分の信仰が曖昧で、毎日の生活の目的もあまりはっきり持っていないなら「キリストのために苦しむ」こともあまり感じないかも知れない。しかし、「キリストのために私は生きている。神の御国を求めて生きているのだ」という思いがはっきりしているなら、その信仰の心が深いものであれば、どんなことであっても御国のためにという認識を持ってそれを行なっているのだから、それを行なっている中で経験する苦しみのすべてが、キリストとともに苦しむものなのである。

       その目的を果たすために大変であるところのすべては「キリストとともに」経験することなのである。「子どもたちは神から与えられたものである」という認識がはっきりしているなら、その苦しみはキリストとともに受けるものなのである。子どもたちには失礼かも知れないが、子どもを育てることには苦しみが伴うものである。親たちはその苦しみを負うものである。楽しいことばかりではない。祝福だけではない。子どもたちを育てる中で父と母に与えられた苦しみはキリストから与えられた苦しみであり、キリストとともに受ける御国のための苦しみなのである。その苦しみを与えてくださったのは神である。その認識を確かなものにして、キリストとともにその苦しみを正しく受け留めるなら、その苦しみに対する思いはまったく違うものとなるのである。

       子どもが与えられた時に、「この子は神から与えられたのだ」という認識もなく、育てることにおいても「神のためにこの子を育てるのだ」という思いもないならば、子どもを育てる過程での苦しみがキリストとともに苦しむものなのだという認識は勿論ない。だから、主観的にも客観的にも「キリストと苦しみをともにする」というような思いにはならないであろう。「この子たちは神から与えられたのだから、私たちはこの子たちを神のために育てよう」という思いが深ければ深いほど、キリストとともに苦しむその思いははっきりしている筈である。

       仕事もそうである。クリスチャンの会社で働くかどうかは問題ではない。「この仕事は神が与えてくださったものだ。この仕事を神の栄光のためにします」という思いをもって仕事するとき、その仕事における苦しみはキリストとともに受けるものとして考えるべきものである。子どもたちも、「私はクリスチャンです。私は神の御国を求めます」という認識を持つなら、勉強したり、自分に与えられた仕事をしたり、部屋を片づけたりするとき、その中で流される汗も涙もみなキリストとともにある苦しみだということを、子どものレベルでちゃんと考えることができるものである。

       問題は、神の御国とその義を第一に求めているかどうかである。その思いがはっきりしているかどうかである。毎日の生活は何のためにあるのか。自分のため生きているのであれば、苦しみは御免である。「苦しみはいらない。できることなら今、この場で、天国の楽しみが欲しい」と言う。その「天国」とは、天国というよりも“極楽”とでも言うべきものだ。それはクリスチャンの御国とはまったく違うものである。遊びたい。狂ったように遊びたい。楽しみたい。やりたいことを何でもその場でやりたいのだ。それを望むのであれば、苦しみなんかはいらないのだ。苦しみを避ける生き方をすればよい。

       「神の御国のために」という思いが深ければ深いほど、ある意味で苦しみは多くなるのだ。何も求めていないなら、苦しみもない。どうでもいいのであれば、苦しむことはない。御国を求めるなら苦しみもある。しかし、それはキリストとともに受ける苦しみなので、その苦しみの中味は違うものである。苦しみ方が違うのである。

       最も広い意味で言うなら、明確に神の御国とその義のために自らの人生を捧げるなら(マタイの福音書6章33節)、学校であれ、職場の働きであれ、家に関わる苦悩であれ、人生の中で私たちの出会ういかなる苦しみも、それはキリストとともに、またキリストのために苦しむものだと言うことができる。それは、すべてのクリスチャンに対する神の召命に他ならない。

     

    苦しみと祈り

       ここで私たちは祈りについて考えなければならない。真にクリスチャンらしい心で苦しんでいるなら、それは私たちの祈りにおいて明らかである。「苦しみ方が違う」と言うとき、キリストとイスラエルの違いを思い出していただきたい。ヨブとイスラエルの違いを見てほしい。また、ヨブの祈りとイスラエルのそれとを比較してみてほしい。

       モーセの時代、イスラエルはエジプトから出るように神からの招きを受けた。客観的に見ればイスラエルは苦しい状態に置かれた。荒野の中をさ迷った。荒野の中の生活は表面的に見ればエジプトの生活よりも大変なものである。私たちは荒野の中を歩いたことがないので、イスラエルを見るときに、「この人たちはいったいどうなってるのか」と非難するかも知れないが、イスラエルは本当に困難な状態に置かれていたのだ。

       機会があれば教会員みんなで飛行機に乗ってイスラエルを旅できればいいのかも知れないが、あの厳しい荒野の中で地域教会として40日間歩きまわってテント生活をするならばどうだろうか。荒野の中で、毎日同じパンだけを食べ、他には何も食べないで40日間を過ごす。水がなくなってしまうこともしばしばである。明日の水はどこから来るかもわからない。40日間、昼は暑さに悩まされ、夜は荒野の寒さに震える。荒野でテントを張るとき、下に敷くクッションもない。荷物を運ぶ動物の世話もしなければならない。

       動物と生活したことのない人にはわからないだろうが、実に臭くてたまらないものだ。私は豚を世話した経験があるが、臭いが身体に染み込んでなかなか消えない。イスラエルは豚の世話はしないが、牛やラクダや他の諸々の動物の世話をしたり、羊等の世話もしたりする。羊の臭さは大変なものである。一週間くらいすれば慣れてしまうにしても、自分もその香りに染まってしまう。それだけでも大変なことなのだ。そのような生活を、40年間ではなくて、40日間だけでも経験したらどうだろうか。40日間だけでも、その苦しみの中に置かれたなら、きっとブツブツ言うに違いないのである。

       イスラエルの状態は本当に容易なものではなかった。しかし、イスラエルには神がともにいてくださるという思いはなかった。神の契約の箱が彼らの真ん中にあった。神が共にいてくださって夜は炎の柱で昼は雲の柱がともにあった。神がイスラエルとともにいてくださった。それなのに、イスラエルは、神とともに歩んでいるということを忘れて、「エジプトにいた方がよかったのだ。エジプトの柔らかいベッドで寝たい。エジプトの食べ物の方がよかった。奴隷でもいいからエジプトにいた方がよかったのだ。エジプトに戻りたい」と言う。「神とともに苦しみを受けなければならないのなら、神はもういらない」と、イスラエルは叫ぶ。

       私たちはどうだろうか。「自分たちの歩いている道は神が導いてくださった道であり、神がともにいてくださるので、私はどんなことがあってもこの道を歩むことを喜ぶ」と言えるだろうか。本当に喜ぶことができるなら、その苦しみを必ず乗り越えることができるはずである。そして多くを学ぶはずである。しかし、イスラエルはブツブツ言って神を信頼しなかった。口から出るのは不平ばかりであった。神とともに苦しみを受けることを喜ばなかったのである。

       それとはまったく反対に、主イエス・キリストは誰よりも大いなる苦しみを受けた人間であったのに、一つも不平を口にしなかったのである。「悲しみの人であった」とイザヤが預言したとおり、誰よりも多くの苦難を受けられた。キリストは弟子たちと最後の食事をしたときに、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と弟子たちに言われた(ヨハネの福音書15章11節)。御自分の喜びを彼らに与えると言われたのである。

       それを聞いた弟子たちの反応はどうだっただろうか。「なんですって。あなたの喜びって何ですか。あなたは悲しんでばかりで、喜びなんかないのではないですか」というような反応ではなかった。なぜなら、キリストはいつも御父に対する感謝と喜びに満ちておられたからである。弟子たちはいつもそのキリストを見ていた。その喜びは悲しみと矛盾しないものである。「喜んでいるのか、悲しんでいるのか、どちらか一つを選びなさい」という話ではない。キリストはまことに喜びの人であると同時に悲しみもあった。主イエス・キリストについては、「喜びの人である」という言い方も「悲しみの人である」という言い方も、両方言えるのである。喜びを与えることについて話すのと同じ時に、主イエスは弟子たちに御自分の悲しみをも与えてくださった。

       キリストは弟子たちに、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」と言われた。弟子たちが忠実にキリストに従うので、世は彼らを憎み、そして迫害するということを彼らに話された(同15章18〜25節参照)。御自分の悲しみを弟子たちに相続として与えたのである。御自分の喜びをも彼らに与えられた。キリストの喜びは、父なる神の御言葉を守り、実を結び、神とともに歩むという喜びであった。そのために世に憎まれるという苦しみもあった。サタンと世の罪との戦いの苦しみもあった。キリストの場合、その罪との戦いは外に対するものだけであったが、その戦いをも弟子たちに相続として与えてくださった。弟子たちは、喜びと感謝に満ちてそれを受けたのである。

       唯一パウロだけが「私はほんとうに惨めな人間です」と叫んでいる。しかし、それは自分の罪と戦っているときのことである。それ以外の時に、自分は大変だというようなことは決して言ってはいない。自分の毎日の生活の状態が思うようにうまくいかないからといって「苦しい。苦しい。大変だ」とは言わない。私たちが「苦しい」と思うとき、また「悲しい」と思うとき、「それは自分の罪と戦っているからだ。御国のために戦っているからだ」ということなのかどうかを自問すべきである。ただイスラエルのように、食べ物も住む場所も諸々大変だというようなことで苦しみ、それに耐えられないというのであれば、それはキリストとともに苦しんでいるのではない。それは、愚か者のように、不信仰な者のように苦しんでいるだけである。

       実際にこういう話がある。インドから牧師の訓練を受けるためにアメリカの神学校に来た神学生の話である。勉強の内容によって二年間ないし四年間かかって卒業するわけだが、その間、国を離れてアメリカで生活をする。彼はインドに帰ろうとはしない。インドに戻ることは彼には耐えられないのだと言う。インドでは、生活のすべてが大変だし、家族関係も大変だし、人間関係も大変、住む場所も大変だと言う。何でもかんでも大変だということで、神学校を卒業した彼はタクシーの運転手になった。クリスチャンの彼も妻もインドにはとても戻れないでいる。

       日本人にも同じようなケ−スがある。アメリカに行ったらもう日本に戻って来ようとはしない人たちがいる。逆に、宣教師の妻たちの多くは、15年も日本にいると、もう耐えられないということでアメリカに帰ろうとする。つまり、私たちが苦しいと思っていることは、だいたい私たちの生活の中心になってしまいがちなのである。仕事のことや家のこと、着るものや食べることで感じることはあるだろう。それはそれでよい。しかし、「苦しくても、私はキリストとともにここにいる」という認識が希薄であってはならないのである。それが荒野であれ、或いはソロモンの宮殿であれ、キリストとともにそこにいるという認識が大切なのだ。

       パウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と言っている(ピリピ人への手紙4章12節)。苦しい状態も富む状態も、両方を受けることを学んだと言うのである。実のところ、祝福されて金持ちになった状態に耐えることの方が難しい。だいたい、富むと駄目になるのが普通である。

       ダビデは苦しいときには罪を犯さなかったが、祝福された状態のときに、祝福に耐えられないで罪を犯してしまったのだ。ソロモンも、その最高の富の中で罪を犯してしまう。だから、私たちは何が苦しいと思っているのか。ブツブツ言いながら苦しみにぶつかるならば、私たちは「キリストとともにいる」という思いを失っているのである。「キリストのために私はここにいるのだ」という思いを失っているのだ。是非そのことを心に刻んでほしい。

       ダビデは、苦しい時に「私は苦しくはない。ぜんぜん大丈夫」というようなことは言っていない。ダビデの心の状態は多くの詩篇において明らかに表わされている。「私の心は苦しみ悶えています。主よ。私を助け出してください」とダビデは祈っている。苦しみそのものが問題なのではない。神の御前に立って、心から神に祈り、神の助けと救いを求めているのである。

       詩篇を読むと、だいたい最初の方は苦しみの訴えがあるが、終りは感謝で結ばれている。その変化があまりにも速いので、読者は十分にその深みを捉えることができないかも知れない。多くのリベラルの人たちは、「これらは、二つの違うものがあって、後でそれを一つの詩に編集してくっつけたのだ」というような解釈をよくしている。「前半は苦しみで、後の方は喜びだが、それぞれ編集者によって一つの詩篇にまとめられている」と言うのである。なぜそのような解釈になるのかというと、彼らの祈りがそれほど深くはないからだと言うほかない。

       祈って神に委ねるとき、心にあるその苦しみが取り除かれて、感謝の心に変えられる。そのような深い祈りの経験がないために、ダビデの詩篇がわからない。それがリベラルの人たちの問題なのだ。いつでも、祈れば三分以内に苦しみが感謝に変わるというような原則はないので、誤解してはならない。40年間祈り続けて感謝に変わるかも知れない。問題は別なところにあるのだ。問題は、「神とともに苦しんでいるのかどうか」というところにある。ただ自分の状態に苦しみ、神を捨ててもとにかく違う状態を欲するという荒野のイスラエルのような苦しみ方と、キリストやダビデの苦しみ方には、大きな違いがある。

       ヨブの苦しみ方も大切な模範である。最悪の苦しみの状態の中にあって、ヨブはただ神のみに目を留めて、「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほむべきかな」と言うのである(ヨブ記1章21節)。「なぜあなたはこのようなことをなさるのですか。私は何も悪いことはしていません。あなたはいったい何をしようとしているのですか。苦しみは苦しみとして、あなたからのものとして受けます。しかし、なぜ、私に、この時に、この苦しみが与えられたのか、私にはわかりません。どうか、神さま、教えてください。それが解らなければ苦しみは深まるばかりです」というのがヨブの祈りであった。

       「もう神はいらない。苦しすぎる。エジプトに戻りたい。あなたからの救いはもう考えられない。私を荒野に連れ出して、これほどの苦難を私に与えて何が救いなのか。ああ、エジプトに戻りたい。もうこの荒野には耐えられない」というのがイスラエルの祈りであった。ヨブの苦しみ方とイスラエルの苦しみ方は根本的に違う。すべてにおいて違うのである。

       「キリストと苦難をともにするなら、キリストとともに栄光を受けることになる」とパウロは教えている。この短い人生において、神の御国と神の義を第一にしてそれを熱心に求めるのである。毎日の生活を、キリストとともに歩むのである。そうするなら、それはキリストと苦難をともにする歩みである。それは神の御国のために実を結ぶ歩みである。その歩みは、必ず栄光につながり、必ず実を結ぶことになる。「自分は苦しい。自分は大変だ」という思いがあるなら、それはいったいどんな思いなのだろうか。私たちはキリストとともに歩むことを本当に喜んでいるのだろうか。そのことをこの箇所を通して考えさせられるものだと思う。

       ダビデやヨブは、必ずしも御霊の導きを“楽しむ”ことはしなかった。彼らは神に信頼し、それらの試練を神御自身から受けたのである。彼らは試練の中で、神とその御栄光を求めたのである。荒野におけるイスラエルの子らは、本質において「神よりも楽になることがほしい。御国など忘れてしまえ、我々はタマネギが食べたい、肉が食べたいのだ!」と言う。私たちがいかに祈るかということが、おそらく、神が私たちの生活にもたらされる試練や苦しみに対して正しい態度を持っているか否かを最も明白に表わすものであろう。私たちはゲッセマネのキリストが「アバ、父」と叫ばれたように、御霊に導かれて祈ることができる者である。そのように祈っているだろうか。

       聖餐式のときに、キリストと苦難をともに受けることについて教えられていると言ってよい。つまり、聖餐式のとき、主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受けてくださって救いを与えてくださったことを感謝しているのである。「苦しまなければ栄光はない」という原則は聖餐式に含まれるものである。キリストは、御自分を犠牲にして私たちの救いを得てくださった。聖餐式を受けるとき、私たちはその主イエス・キリストに従う者としてその救いを喜ぶのである。キリストが歩んだ道を、私たちも当然歩まなければならない。当然歩みたいはずなのだ。

       「聖餐式を受ける」ということは、「救いはこのようにして与えられる外はない」ということを告白しているのである。「私は、自分の十字架を負って主イエス・キリストに従って行く」という誓いを新たにしているのだ。それが聖餐式の意味である。だから、私たちは聖餐式を受けるときに、自分は何を求めているのか、何のために苦しんでいるのか、人生の意味は何なのかをよく考え、主イエス・キリストに目を留めて、その救いの御恵みを覚えて、神に感謝をささげて受けるのでなければならない。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2000年8月6日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章14〜17節

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