HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙8章26〜27節


    8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

    8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

    2000.09.03. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    御霊のとりなし

    8章26〜27節

    御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

       今日はこのローマ人への手紙8章26節と27節を一緒に見たい。ここでパウロは、「御霊が私たちのためにとりなしてくださる」ということについて話している。私たちは全体の前後関係においてその意味を理解しなければならない。パウロは、詩篇に記されているように、クリスチャンは苦しみの中にあって神からの助けが与えられ、将来表わされる「栄光の望み」によって支えられ強められることについて話したあとで、被造物全体がうめいていること、そして私たちもうめきながら待ち望んでいることについて話している。そして、御霊が私たちの心の中にあって働いて私たちの心のうめきを神に伝えてくださる、と話しているのである。

       しかし、ここでパウロが説明しようとしているのは御霊の特別な働きのことなのだ。多くのクリスチャンは、キリストのとりなしは知っていても、聖霊もまた私たちのためにとりなしてくださることを知っていない。キリストのとりなしは、天からの、神の右の御座におけるものである。聖霊は、私たちの内で測り知れない働きをなされ、私たちのためにとりなしていてくださるのである。被造物のうめきに似たうめきを、その言葉にならないような祈りを通して、私たちの必要と状況に見合った助けを与えてくださるように神に呼ばわるうめきを、聖霊は私たちのうちに引き起こしてくださるのである。

       ここでパウロは、私たちの中に御霊が住んでいてくださることについての非常に大切な意味を私たちに教えている。この箇所についてのいろいろな注解書を見ると、実に変な解釈をしているものがある。即ち、「ここでパウロは、異言を語ることについて話しているのだ」と解釈する人たちがいるのだ。どういうことかというと、「私たちには主の祈りが与えられているし、他の祈りについての教えが与えられたりしているのだから、普通はクリスチャンなら誰でも何を祈るべきかはわかっている筈だ」と言うのである。だから、「異言を語るときには、御霊の特別な働きによって語っているので、自分で何を言っているのかがわからないのだから、ここでパウロはその異言のことについて説明しているのだ」と言うわけである。

       決してそのような話ではない。パウロはここで、表現できない「言いようもない深いうめき」について話しているのだから、これは異言のことではない。それでは、私たちは何を祈るべきかがわかっていないのだろうか。なぜパウロはこのような言い方をするのだろうか。広い意味で言えば、確かに私たちは何を祈るべきかをよく知っているはずである。主の祈りをささげるとき、私たちは祈るべき祈りをささげているし、他に詩篇をもって祈るときも正しい祈りをささげているのは事実である。そういう意味では「何を祈るべきか」をよく知っていると言ってよい。しかし、パウロのポイントは非常に明らかである。

     

    私たちにはわからない

       私たちは自分ではどのようにして祈るべきかがわからないので、御霊の助けを特別に必要としている。パウロのこの箇所の言い方は、私たちの無知の誘因となるあらゆる類いの理由を包含するのに十分広いものだと思われる。パウロが明確に私たちの罪のことを話しているとか、或いはもう一方で、特に罪と関わらない弱さのことについて話している、と解釈するよりも寧ろ、パウロの言葉づかいを私たちの無知の理由の全領域を含めるものとして捉える方が良いと私は考える。少なくとも三つの大切なことをパウロは話していると思う。

       一つには、私たちには、「自分の罪のためにどのように祈ったらよいのかがわからない」という一面がある。「何を祈ったらよいのかがわからない面がある」と言うとき、「本当はわかるはずなのに、わかっていない」ということなのだ。つまり、聖書には十分に明らかに啓示されているし、自分で自分の状態を正しくとらえるならば、自分は何を祈るべきなのかが絶対にわかっているはずなのだ。絶対にわかっているはずなのに、わからない。それが罪人の実際の状態なのだ。

       その理由は、私たちの罪深さにある。7章と一緒にこのことを考えればわかると思う。7章のところでパウロは、神を愛して神の律法を守ろうとするのだけれども、いくら守ろうとしても、結局神に逆らってしまうみじめな自分を見出すのである。私たちは、神の御国を求めて祈りをささげても、その求め方においても知恵においても実に足りないし、いろいろな具体的な意味もわかっていない場合がある。それは、私たちが罪人なので、祈るべきことが目の前に明白であるのに、それが見えていないし、わかってもいないのである。私たちの一人ひとりに、そのような面があるのは否定できない事実である。

       特定の罪は、それらの罪が係わる事柄に対して私たちを盲目にし、また、私たちの罪の性質はさらに広く曖昧なかたちで多くの事柄において私たちを盲目にする。特定の罪が私たちを盲目にすることについての聖書の中の明らかな譬えとしては、ダビデとソロモンのことを考えればわかると思う。ダビデは、ウリヤを殺してその妻バテ・シェバを奪い、神に対して甚だしく罪を犯してしまった。その間、ダビデは何を祈ったらよいのかがわからなかったはずだ。御霊による良心の呵責もあったはずだが、悔い改めようとはしなかった。だから、その間のダビデの祈りはおかしなものになっていたに違いない。

       預言者ナタンの譬え話の要点がわからないはずはないと思われるのだが、ダビデは自らの罪によって盲目となっており、本当の意味で自分自身を見ることができなくなっていた。ソロモンの場合はもっとはっきりしている。彼は昔のイスラエルにおいて最も知恵のある王であった。不敬虔な女性と関わることの危険性を含むあらゆる重要な話題について適切なアドバイスを与えていた。だが、彼は主を知らない多くの異国の女性たちと結婚し、彼女たちはソロモンの心を神から離れさせるようになる。やがて、ソロモンは、正しい祈り方がわからなくなっただけでなく、間違った神々に祈りをささげることまでしてしまったのである (第一列王記11章4〜8節)。

       他の種の罪が他のかたちで私たちを盲目にしたり、彼らと同じ罪でも別の人々を別なかたちで盲目にすることは勿論ある。しかし、罪の影響の一つは、悔い改めのない者の心をかたくなにすることである。ダビデは自分の罪を本当の意味で悔い改めることなしに丸一年を過ごした。ソロモンがどれほどやり過ごしていたのかは定かではないが、聖書は彼が偽りの神々のために多数の神殿を建てていたことを示しているので (第一列王記11章7〜8節)、少なくとも一年以上、若しくは数年はかかっているに違いない。ダビデがその盲目の期間、詩篇を一つも書かなかったこと、ソロモンがその妻たちのために神殿を建てている間、まことの神から日々の知恵を求めてはいなかったことを私たちは確信できる。そして、神が、ダビデとソロモンにうめきを引き起こしてくださったと言ってよいと思う。

       両者の場合とも、神は王を叱責する使いを送られ (第二サムエル記12章1節、第一列王記11章11節)、どちらの場合にも神は苦痛の伴う試練をもって王を取扱った (第二サムエル記12章14節、第一列王記11章11〜13節)。試練はうめきを引き起こすが、同時に罪を燃やし、救いへと導く助けをする。試練が神に祝福されているときは、それらは私たちの目から霧を取り除き、うめきと涙と共に、本当のいのちの問題を私たちに考えさせ、求めさせるのである。

       そこまでひどい罪を犯さなくても、それほど変な状態に陥っていなくても、罪によって人の判断力などはすべて影響を受けるものなのだ。そして、人はみな傲慢であり、心も鈍感で、自己中心的なところがある。そのような罪人なので、他人から見れば問題が明らかであっても、本人にはわからない場合が多いのだ。親子関係ならもっと明らかだろう。親から見れば問題があるのは明らかなのに、「どうしてこの子にはわからないのだろう」と思ったりする。罪人なので、祈るべきことがわからず、見えない。これは一つの大切なポイントだと思う。

       第二に、「未熟であるがために祈るべきことがわからない」という一面もある。これは罪の問題ではない。単に未熟であるがためにわからないのである。ヨハネの福音書の15章に、主イエス・キリストが私たちに祈りについて教えている箇所がある。15章の7節を見てほしい。

     

    あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

       私たちが主イエス・キリストにとどまり、主イエス・キリストのことばが私たちにとどまっているなら、何でも求めれば与えられると、主イエス・キリストは教えている。しかし、「何でもほしいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられる」という所だけを見て、その条件を見ないなら、とんでもない大間違いをしているのである。「私たちがキリストにとどまり、キリストのことばが私たちにとどまるなら」という条件から始まらなければならないのだ。

       「キリストにとどまる」とはどういうことかというと、10節を見ればわかる。即ち、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」と、主は言われる。主イエス・キリストにとどまるとは、主イエス・キリストの命令を毎日の生活の中において守ることに他ならないのである。つまり、罪を犯さず、神を愛し、神の御言葉を守ることなのだ。

       だから、第一のポイントは明らかである。即ち、罪を犯しているならば、どのように祈ったらよいのかわからない。それで、祈ってもかなえられないことはよくある。「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」という点が極めて大切なことなのだ。それだから、神の御言葉が十分に私たちの心に刻まれてとどまっているということが大切なのだ。御言葉を正しく理解しておらず、御言葉があまり深く私たちの心の中に入っていないなら、どのように祈るべきかがわからなくなる。「未熟なために、わからない」のである。

       特に若いクリスチャンは未熟なので、御言葉が深く心にとどまっていないために、祈りにおいても足りないし、わからない面がいろいろと出て来るのは当然のことである。多くの状況の中で何をするかがわからないでいる。私たちもみな未熟であり、御言葉がそれほど深く私たちの中に入っていない。そのために、祈るときに、あるべき祈りをささげることができないことがよくある。どのように祈ったらよいのかわからない事がよく出て来るわけである。

       自分の認識においてわからないとは限らない。また、本当はわかっていないのに、わかっているつもりなのかも知れない。「客観的に言えばわかっていない」ということなのである。特定の罪のゆえではなく、総じて未熟だからである。御言葉が自分の心にとどまっているかどうかについて考えるとき、これは極めて重要なことなのだ。ここにクリスチャンの教育の中心があると言ってよい。本当に私たちは、小さいときから御言葉をよく読み、御言葉を学び、幼い頃から御言葉が私たちの心に満ちているのであれば、大人になったとき、御言葉をよくよく知っているはずなのだ。しかし、私たちは、大人になってから救われた者が大半なのだ。実は、それほどよく御言葉を知らないし、それほど読んでもいないし、そんなに深く考えてもいないし、御言葉はそれほど深く私たちの心の中にとどまってはいないのである。それが、実際の私たちの状態なのだ。それだから私たちは皆、非常に未熟な者なのだ。

       それ故、「自分は未熟者である」という認識を持って祈りをささげることは、一つの大切なポイントであると私は思う。よく知っているとか、熟しているとか、大人だとかいう思いを持つ資格は私たちにはない。実に未熟であることをよく認識すべきである。だから、祈りにおいて足りないところが絶対にあることを覚えて祈るのである。しかし、御言葉に満ちている心をもって祈るなら、その祈りはかなえられるのである。

       特定の罪に加えて私たちを悩ましてやまないのは、私たちの全般的な心の硬さと鈍さである。自己中心で高慢なゆえに、また、神の御国を求めることの意味が本当にわかっていないがゆえに、怠慢さや愚かさが私たちの心を塞ぎ、御霊の導きに対しても鈍感なのである。そのような場合、特定の罪を指摘することはできないかも知れないが、それでも祈りに及ぼす影響は十分に明らかとなる。

       だから、罪の問題を別にしたとしても、私たちは皆、多くの意味において実に未熟な者なのである。パウロの祈りを見れば違いがよくわかると思う。パウロはコロサイの教会からの便りからその教会のことを知り、そしてコロサイ人への手紙の1章の祈りを神にささげている。その祈りを一緒に見よう。9〜12節を見よう。

     

    こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

       これは実に大変な祈りである。これは真の大人のクリスチャンの祈りである。数年前にコロサイ人への手紙を学んだとき、時間をかけてこの祈りの箇所を学んだことを思い出してほしい。ここまで深く祈ることが、皆さんの生活の中にあるだろうか。答えは「ノ−」である。ここまで私たちは深く祈れないのである。ここまで御言葉が私たちの心の中に深く入ってはいない。人を見て、その人の霊的な状態を理解して、ここまでその人のために深い祈りをささげることはとてもできない。そこまで私たちは成長していないのである。

       コロサイの教会のためのパウロの祈りだけではない。エペソの教会のための祈りも、コリントの教会のための祈りも、それぞれの祈りの内容は違うのだ。その教会の状態をよく知って、そして、御言葉に満ちた心をもってその状態を判断し、理解し、神に祈りをささげるのである。パウロには人々や彼らの状態についての深い洞察力と理解力があるのだ。彼は、成長した信仰の人の視点から人々の必要を考え、そして理解する。それゆえ、彼らのためにどう祈ったらよいのかがわかるのである。勿論、そこに御霊の特別な導きと祝福があるということも事実であり、単にパウロがどうのこうのという話だけではない。けれども、御言葉が十分に深く私たちの心の中に入っているのであれば、祈り方は成長するはずである。私たちはパウロの特定の祈りを模倣することができるし、またそうすべきだと思うが、成熟した信仰はその信仰に応じて自分自身の状態をしっかり捉えて祈りをささげることができるのである。

       「御言葉が心の中にとどまる」とキリストが言うとき、次のことも是非覚えていただきたい。即ち、御霊が私たちの心の中で働くということは、御霊が手段をもって働くということなのである。その手段とは、御言葉であり、御霊は御言葉をもって私たちの心の中で働かれるのである。御言葉に満ちている心でなければ、私たちの心の中での御霊の働きが制限されてしまう。だから、御言葉をあまり深く持っていなければ、御霊の働きもそれほど深くはならないのである。

       それ故、ヨハネの福音書の中でキリストは二つのことを語ったのである。一つは、「キリストにとどまる」ということであり、それは、「キリストのことばに従う」ということである。もう一つは、「御言葉が私たちの心にとどまっている」ということであり、これは「御言葉そのものが私たちの心に深く入っている」ということなのだ。御言葉が心に深く入っているならば、人を見ても、物事の状態を見ても、御言葉をもって判断することができる。御言葉に従う者らしく判断することができるのである。それで、祈りもそのような祈りになる。

       パウロも「私たち」と言っているのだから、このことは、パウロでさえも同じなのだ。パウロも、場合によっては自分の祈りの足りなさを覚えているだろうし、罪人なので当然その祈りも、一番目の理由においても二番目の理由においても、足りないところが出て来るわけである。

       第三番目のことは、「状態の複雑さのゆえに、どのように祈ったらよいのかがわからない」ということである。これは、いくら成長したクリスチャンであっても、「神のみこころは私たちの理解を遥かに越えるものだ」ということを理解すれば、よくわかることである。神の方法は不思議なものであり、測り知れないものである。神は、非常に変わったことをなさる。私たちには予想できないことを神はなさるのだ。それで、実際に神の御計画の複雑さを悟って、それに合致した祈りができるかというと、それはとてもできないことなのである。

       いろいろな状態の中で、私たちはどのように祈ったらよいのかが本当にわからないことがよくある。それは、神が、測り知れない不思議をなさるからである。おおまかなところにおいて正しい祈りをささげることができても、その状態に合致する祈りを十分にささげることができないことがよくある。特に試練の中にあるときはそうである。ローマ人への手紙の8章を変に解釈する注解書を書く人たちは、もしかするとあまり試練に遭ったことがないのかも知れない。本格的な試練に遭うとき、本当にどのように祈ったらよいのかわからないものである。

       ヨブ記を読めばわかるはずだ。なぜそうなったのか。一日にして子どもたちが全員死んでしまい、自分も酷い病に苦しみ、全身が痛み、頭から足の裏まで悪性の腫物におかされた。自分を尊敬していた友人たちは自分の敵のようになってしまった。財産もすべて失った。自分が何をしたからこうなったのかが、ヨブには理解できなかったのである。ヨブは潔白で罪を犯していなかった。ヨブは何か特定の罪によって盲目にされていたわけでなく、罪を悔い改め、良い行ないをすることに熱心な成長したクリスチャンであった。

       多くの点でヨブは理想的なクリスチャンである。なのに、なぜこれほどに厳しい裁きが自分の上に下されたのか。どうして信仰の友たちさえもが自分の敵のようになって自分を攻撃するのか。なぜ神はこのことをなさるのか。恐るべき大きな試練の中に置かれてヨブは混乱した。神が何を、なぜ為しておられるのか、彼には理解できなかった。実に、神のなさることは複雑であり、私たちの理解を越えるものなのだ。ヨブがどう祈ったらいいのかわからなかったことは、ヨブ記を読めばわかることである。

       ヨブ記の読者は、天の中を見、サタンがヨブのことで神と争い、サタンがヨブの信仰の実体に、試練を通してのみ証明され得るやり方で挑んでいることを知る。しかし、ヨブには自分の試練の理由にこの種の問題が関わっていることなど知る由もなかった。サタンがヨブに試練を与えるように神に要求したことをヨブは知らない。そのような複雑な背景があることをヨブは知る由もなかった。その苦しみの中でヨブは神に訴えている。「なぜですか。なぜこうなのですか。私はあなたを愛し、あなたのことばをひたすら守っていたのに、どうしてこういうことになるのですか」とヨブは祈っているようである。それしか言えないのである。どう祈ったらよいのかがわからないのだ。そこに、苦しみのうめきがある。

       その惨劇が突然にしてヨブを襲ったとき、ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と祈っている。このヨブの祈りは、まさしく祈るべき祈りである。そのようになっても、ヨブは神に対して罪を犯さず、愚痴をこぼさなかった。しかし、細かい事柄においては、自分の状態についてどのように祈ったらよいのかがわからないのである。どのように自分の友人に答えたらよいのかも、細かいところにおいてはわからない。

       ヨブがヨブ記を書き記すことができたのだから、最終的に神は一部始終をヨブに表わしてくださったということがわかる。しかし、その途中にあっては、ヨブは何もわからなかった。「どうか、神さま。私を憐れみ、助けてください。私は尚もあなたの御名を賛美します」というおおまかな祈りをささげるほかないのである。彼は意識的には自分の状況にふさわしい祈りを発することはできなかったが、御霊が彼のうちにあって助けを神に呼び求めるうめきを引き起こされたことに疑いの余地はない。私たちも、言葉さえ失ってしまうほどの苦しみや試練に遭うときには、「神は何をなさっているのか、どうしてこのようなことになるのか」と思いつつ祈るほかない。実際に結論が出るまでは、わからないのである。その間、どう祈ったらいいのか、細かいことについてはわからないのである。

       場合によって、この三つの要因が一緒になることもある。ヨブの友人たちはどのように三つの要因がすべて結合するかの良い見本である。一方で、彼らの盲目は最終的に神によって叱責を受けているゆえに、確実に (少なくとも部分的に) その罪深い傲慢に負っていると言える。しかし、彼らはヨブがそうであったのと同じ幾つかの理由のために混乱していたとも言えるだろう。状況は彼らが想像できる以上に複雑であった。また、神は彼らを不信者としてではなく、へりくだってヨブに謝る必要のある未熟で愚かなクリスチャンとして叱責されるのである。彼らにもっと知恵があったなら、少なくともヨブに対して結論を下さなかったであろう。

       私たちは罪人なので、本当はわかるべきことなのに、わかっていない。御言葉も十分に知らないので、本当はもっと知恵があるはずなのに、知恵がない。同時に、神がなさっていることは複雑であって、神がどうしてこのように導いておられるのかは、私たちにはわからないのである。基本的に、問題に遭うとき、この三つの要因は一緒になっている場合が多い。一つの要因だけの場合もあるだろうけど、一緒になっていることの方が多いのである。それで、どう祈ったらいいのかがわからないことがよくある。苦しいときには、私たちの祈りは簡単な祈りになるかも知れない。

       ペテロの例を言えば、水の上を歩いて行くときに、まわりの荒波を見たりして急に沈みそうになった。その時ペテロは、「主よ。助けてください」と祈った。それしか祈れない時もあるのだ。「どうか、神さま。憐れんでください。助けてください。何とかしてください」としか言えない。これは、「どのように祈ったらよいかわからない」という意味の中に含まれていることなのである。もっといろいろ言おうとするのだが、言えない。言葉にならない。苦しみの中で、どうしてよいのかがわからないのである。未熟であるし、時には罪が原因であることもある。「どうか、神さま。助けてください」としか言えない時がある。

       そのような苦しい長い試練の状況の中に、ローマの教会はまさに入ろうとしている。「その試練はヨブのそれにまさる試練ではない」とも言えるけれども、ある観点から見れば、「それはヨブよりも苦しい状態であった」とも言える。なぜなら、実際に信仰のために迫害されて、多くの者が殺され、自分の妻や子どもたちや父母や最も愛する者たちが、拷問に遭って死ぬのを自分の目で見なければならなかったのである。これは実に苦しいことである。そういう意味では、ヨブの苦しみよりも苦しいものだったと言えよう。

       同時に、主イエス・キリストの御名のためにその苦しみに遭っていることを彼らは知っていた。「これは、主イエス・キリストの苦しみにあずかることなのだ」ということが明白であった。キリストを信じているがために、攻撃され、殺される。ヨブには、そのような明白な理由は何もなかった。しかし、実際のところヨブも同じであった。サタンは、ヨブを、その信仰のゆえに攻撃したのである。しかし、ヨブの場合、その理由は何も知らされていなかったので、試練がなぜ与えられたのかがわからなかった。昔のローマの教会の場合、試練の理由ははっきりしていた。ローマ帝国とユダヤ教は、クリスチャンたちがキリストを信じるので、その教会を憎み、迫害したのである。キリストはヨハネの福音書15章にある最後の説教(18〜21節)で言われたとおりであった。

     

    もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。

       このとおりのことが現実としてローマの教会に起こったのである。自分の愛する友や家族たちが拷問を受けて信仰のために死ぬのを見るとき、苦しいことは苦しいが、キリストの御名のために迫害され、キリストのために殺されていることが明白すぎるほどに明白であったので、確かな慰めと御霊の力も彼らには与えられていた。それでも、そのような極端な状況の中にある時は、どう祈ったらよいのかは当然わからないのである。

       ローマの教会は、極端な苦しみに遭うことになる。そのローマの教会に対してパウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものである」と教えている。様々な苦しみに遭うであろう。8章36節で「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」という詩篇の言葉を引用して、彼らが受ける苦しみを描写している。しかし、それは、未来において私たちに与えられる栄光と比べれば、取るに足りないものなのである。

       その箇所を読むとき、私たちにはそれほどピンとは来ない。私たちは、彼らほどの苦しみに遭ったことはない。ローマの教会の状態を予想し、その状態を考えて言っているのである。そのような極端な状態を考えるとき、彼らが受けるであろう苦しみを覚えるとき、その中にあってはただ「助けてください」と叫ぶほかないことを知らされる。それほどの試練の中にある時も、或いは私たちのレベルでの試練の中にある時も、或いは試練の状態ではなくてただ未熟のために苦しむ場合でも、或いは自分の罪のために、また試練ではなくても状態が複雑なために、私たちの祈りは足りないものになってしまう。どう祈ったらよいかがわからなくなってしまう。

       しかし、「御霊が私たちを助けてくださる」とパウロはローマの教会に言うのである。「自分の祈りの足りなさについて、そういう意味で心配してはいけない」と、パウロは教えている。御霊は私たちの心の中に住み、私たち一人ひとりのことを十分に知っておられる。そして、私たちの心の中で働いて、私たちの認識のレベルでは理解できないような「深いうめき」によって執り成してくださるのである。

     

    御霊とうめき

       私たちは、心の中において混乱し、どう祈ったらよいのかわからず、祈り方も変になっているかも知れない。自己中心的な愚かさが出たり、未熟なゆえの誤解があったり、自分が置かれている状態をまったく正しく把握できないためにおかしくなったりする。罪深く、未熟で、神の特別な働きを理解することのできない私たちを、聖霊はどうなさるのか。御霊は、私たちをうめかせ給うのである。それらは耳に聞こえるようなうめきではない。とは言え、時には、ヨブの場合のように聞こえるうめきも確かにあるだろう。

       聖霊はクリスチャンの心のうちに働かれるので、私たちは霊的成長への深い切望を感じ、自分自身の罪深さと周りの世界の罪深さとに悩まされる。御霊は、神のみが満たすことのできる虚しさで私たちを満たされるのである。だから、試練の時に、御霊が、弱い私たちの中にあって私たちを助けてくださるのだ。パウロは26節でそのことを「御霊の執り成し」と言っている。私たちの中で言葉にならず、私たちは御霊の祈りを認識できない。自分のことをも十分に深く知ることもできない。御霊はそれを知って助けてくださるのである。

       そして、御父なる神は、私たちの心を探り窮めるお方であることをパウロは教えている。「私たちの心の深いところを探り窮める方」とパウロが言うとき、その意味は、御父が私たちの心の深いところを探ってくださり、私たちの心の中での御霊の働きを見てくださって、私たちの祈りに答えてくださるということである。つまり、実際には私たちの認識できないような祈りを私たちはささげているのである。御霊が私たちのためにささげる祈りは私たちの理解を越えるものであるので、それは私たちにとっては言葉にならない「うめき」のようなものなのだ。しかし、それは、御霊と御父の間においては完全に通じている執り成しの祈りとなっている。そのことをパウロはここで説明している。

       私たちは一人ひとり、自分が何者なのかを十分に知ってはいないということも、この箇所では前提になっているのではないかと思う。それを、言葉にならない「深いうめき」というふうにパウロは表現する。それは、私たちの認識と御霊の執り成しの関係を説明するものである。私たちは神の似姿に創造されているので、私たちの心には深いレベルがある。私たちは、それを十分に見ていないし、把握もしていない。結局、毎日の生活の中で試練にぶつかったりすることによって自分が何者なのかがわかっていくというところがあるのだ。

       試練にぶつかるとき、私たちは、自分は何ものなのかを考えさせられる。そして、悔い改めさせられて日々自分を変えていくのである。私たちの心の中がどうなっているのかを私たちに知らせるために、神は試練を与えてくださる。神は、アブラハムに試練を与えた。アブラハムは、その試練を受けるとき、どれほど神を信じているのかが明白にされてしまう。アブラハムの中にある信仰の深さは、自分の息子イサクをささげるように命じられたときに「はい」と言って素直に従ったことによって、それは明らかにされた。その信仰は、その試練が与えられなければ明らかにされないものである。アブラハムもそのことを知ってはいなかっただろう。

       同様に、サウルが試練に遭ったとき、結局は神に信頼していないことが明らかにされた。ローマの教会のクリスチャンたちは、試練に遭う時に、自分の心の中の自分ではわからない部分がだんだんと出て来たりするけれども、出て来ないところもある。パウロは、そのクリスチャン的なところについて話しているのであって、サウルのようなことについて考えてはいない。御霊が、私たちの心の中で働いてくださって、私たちが認識のレベルにおいてクリスチャンらしい深い祈りをささげることができない時に、「深いうめき」によって、私の心の深いところにおいて、私たちの認識しているところよりももっと良いことを神に求めてくださるのである。

       さて、私たちはさらに大きな文脈を念頭に置いて考えるように促されるものである。パウロの話の前後関係において見るなら、パウロはキリストの栄光の完全な現われ、全世界の救いについて話しているのは明らかである。クリスチャンらしい部分において私たちはそれを求めているけれども、全体の認識のレベルでは十分に求めてはいない。その神の栄光の現われ、そして正しい意味での自分たちの栄光の現われ、聖さの現われなどを、心の深いところにおいて求めてはいるけれども、認識のレベルにおいて十分に成長していないのである。だから、生活においてそれは十分に表現されては来ないのである。御霊は、そのところで働いてくださって、神に御霊の執り成しの訴えとして祈りはささげられる。御霊が私たちのために執り成してくださり、キリストも私たちのために執り成していてくださる。だから、私たちは固く守られるのである。

       被造世界全体と私たち自身は、キリストにある神の栄光の最終的な現われを求めてうめいている。罪が最終的に完全に裁かれるまで、神の栄光が完全に現わされるまで、キリストの御名の義しさが完全に証明されるまで、すべての聖徒が最終的な祝福を与えられるまで、私たちは満ち足りることはない。これは、御霊が私たちのうちに神の御国への深い切望を引き起こされるということを別な言い方で述べたものである。

       御霊が私たちの心のうちに働いているので、主の祈りの最初の三つの祈願は段々と私たちの最も深い願いとなっていくのである。「御名があがめられますように、御国が来ますように、みこころが天で行われるように地でも行われますように」。これらの祈りは私たち自身の状態にもっと特有のものとして適用される必要がある。そして御霊は、ヨブになさったように、私たちにもそれをしてくださるのである。

       しかし、御霊のとりなしについて考えるときに、単に個人的な意味において考えてはならない。私たちはキリストの御身体の一部として創られているのである。罪や未熟さのゆえに、実際にはこの真理を感じるべき深さにおいて感じていないにもかかわらず、それは真理のままで変わらず、御霊はしかるべく私たちのうちに働かれる。自分の救いのためだけではなく、全世界の救いのためにもうめくよう御霊は促されるので、御霊のとりなしは私たちの弱さの全てにおいて私たちを助けてくださるのである。

       救いは、永遠の昔からの恵みによるものである。そのことをパウロは9章でも説明しているが、どうして私たちが救われるのかというと、それは永遠の昔から神が私たちを愛することをお定めになり、私たちを選んでくださったからである。それは神の永遠の選びの話なのである。そこから恵みの話は始まる。なぜ私たちは罪を悔い改めることができたのか。それは、御霊が私たちの心の中で働いて、悔い改めるように導いてくださったからに他ならない。それは神の御恵みによることであった。どうして私たちは、試練の中にいたり、誘惑の中にいたり、毎日の生活の様々な大変な状況の中にあっても、主イエス・キリストから離れて行かないのだろうか。それは、神の御恵みのみによることなのである。

       御霊もキリストも、私たちのために執り成しの祈りをしていてくださる。執り成しの祈りをしてくださるということは、私たちを守るために、まさに私たちが必要とする祈りをしてくださるということである。パウロが、コロサイの教会の状態を知って、コロサイの教会のために実に適切な知恵ある祈りをささげたように、主イエス・キリストが私たちの状態をご覧になって、私たちを憐れんでくださって執り成しの祈りをしてくださる。それは以前にヘブル人への手紙の学びで見たとおりである。キリストはそのように、大祭司として私たちのために執り成しの祈りをしてくださる。同時に、御霊も、私たちの中に住んで、私たちの代わりに神に訴えてくださる。私たちを守ってくださるようにと、御霊も執り成しの祈りをしてくださっている。

       このことをローマの教会に教えるのは、彼らを励ますためである。8章の後の方で、キリストの執り成しのことが具体的に説明されている。34節でパウロは、「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と言っている。絶えず私たちのために執り成しの祈りをしていてくださる主イエス・キリストが私たちを罪に定めるだろうか。そんなことはない。キリストは、私たちを救うために執り成しをしていてくださるのだ。御霊もそうである。そこで、三位一体なる神のそれぞれの働きを見て、毎日の生活の中で神の恵みによって守られていることを確信させられるのである。

       御霊が私たちの中に住んでおられるので、御霊は私たちの心をよく御存知で、それを神に祈りとして訴えてくださる。それで、私たちは、安心して、御霊が祈っていてくださることを知って、神に祈りをささげることができるのである。つまり、自分の祈りの足りなさにつまずいたり心配したりしなくてもよいのだ。足りないということを認識し、御霊が助けてくださることを確信し、「キリストも私のために祈っておられる」ということを喜び、素直に神に祈ればよいのである。

       どのように祈るべきかを学ぶ必要があるのは確かである。神は、私たちに祈りを教えるために、詩篇を与えてくださった。だから、私たちは詩篇を歌い、繰り返し詩篇を読むのである。詩篇をいつも読んで歌うとき、詩篇の祈りが徐々に自分の心に刻まれて、それが自分の祈りにもなるはずである。特に子どもたちは、小さい頃から詩篇をよく読んだりしていれば、詩篇の祈り方や言葉が深く心に刻まれるはずである。

       大人になってから暗記することがだんだんと難しくなっていくのは、皆さんも感じていることだろうと思う。例えば、12〜13歳の時には、歌を聞くだけで暗記してしまったものである。50歳になると、聞いても聞いてもなかなか覚えない。百回聞いても覚えないのだ。しかし、デパ−トやス−パ−で昔の歌が流れているのを聞くと、音楽も言葉も全部覚えているのに自分で驚いてしまう。小学生や中学生の時に聞いていたポップソングが流れると、別に聞きたいわけではないけれども、とにかく全部覚えているのだ。ビ−トルズの歌の言葉も、覚えようとして覚えたのではないのに、そしてもう聞きたくもないのに、全部覚えている。もう頭に刻まれてしまって、取り消すこともできなくなっている。

       しかし、今は悲しいことに、この詩篇を暗記しようとしても暗記できない。しかし、子どもたちがこれをよく読んでその言葉を繰り返し歌うならば、それは彼らの心に刻まれて、失われることがないのである。小さい時に教会で歌った歌を、子どもは生涯覚えているものなのだ。軍隊で門番していた時、私は居眠りしないためにも、一晩中賛美を歌ったものである。全部頭の中にあるので、一晩中歌うことができた。今でも歌うことができる。子どもの時に、よく詩篇を読んだり歌ったりしていると、詩篇の深い御言葉が心に入り、いつもそれを思い出すことができ、歌ったりすることができるのである。

       それは、自分にとっては非常に大きな祝福だと私は思うので、是非子どもたちには覚えてほしいと思う。子どもたちが私たちの年になった時に、私たちよりも良い祈りができるように私は願っている。子どもたちと一緒に詩篇を読んだり、詩篇を歌ったり、日曜学校の中で熱心に御言葉を学び、家庭礼拝でも御言葉を学んだりして、本当に御言葉に満ちた心を持つことができるように子どもたちを育てたいと思うのである。教育においてそれ以上に大切なことはない。子どもたちがキリストにとどまり、御言葉に従い、御言葉がその心に満ちているならば、状態が十分に把握できないとしても、もっとふさわしい祈りをささげることができるだろうし、神はその祈りをかなえてくださる、とキリストは言っておられる。

       神は、喜んでその知恵ある祈りを受け入れて、応えてくださる。祈りにおける神との交わりは深められていく。その意味で私たちは詩篇を礼拝で繰り返し読み、歌うのである。そのつもりで礼拝をこのように行なっているわけである。御霊がそれを用いて、私たちの祈りが成長するように働いてくださることを求めているからである。

       御父は御霊の心を知っておられ、その祈りを受け入れられることをパウロは私たちに思い起こさせている。ここには、試みの中の慰めのみならず、感謝をもって神を礼拝するようにという励ましもある。毎週の礼拝において神の御霊は特別に御臨在される。実は、御霊は、神の民が集う礼拝と主の晩餐において特別なやり方で私たちの心のうちに働いておられる。毎週行なう聖餐式においても、御霊の働きと執り成しがあることを覚えなければならない。聖餐式の時こそ御霊の祈りの働きがあるのではないかと思うのである。

       聖餐式は、特別に神との親しい交わりを持つ時であり、私たちに必要なプレッシャ−を与えてくれる。この時に、私たちは自分の罪を悔い改めて、自分を神に捧げて、神の御国を心から求めるけれども、それは罪人にとっては難しいことである。罪人なので、結局私たちはクリスチャンではない人たちと同じように神から逃げようとする心の部分があるからである。礼拝がただの勉強会みたいなものであれば逃げられるかも知れないが、礼拝の時に、私たちは神の御言葉そのものを歌い、御言葉を読み、御言葉によって取扱われ、そして聖餐式を行なうのである。主イエス・キリストの贖いを表わすぶどう酒とパンを受け、神が特別な意味で一緒にいてくださるその聖餐式を軽く受けるなら必ず神の取扱いを受けることになることを覚えて、真剣に聖餐式を受けなければならない。

       この時に私たちは神の御前に出る。そこから逃げることはできない。そのように聖餐式を真剣に受ける者は、神から逃げられないことをよく知っているはずである。逃げるつもりではないけれども、罪人なので、ごまかしたりして逃げてしまう面があるのだ。しかし、ひっぱり戻されて、ここで神に直面しなければならない。自分の罪を本当に悔い改めなければならない。罪を悔い改めるように導かれるときに、本当に心の奥に深いうめきをしている部分もあるはずだと思う。そして、御霊は、特別に聖餐式の中で働いてくださって、私たちの祈るべき祈りをささげてくださるのである。

       そういう意味で、御霊の特別な助けを私たちは毎週毎週受けている。この聖餐式の中で御霊は私たちのために執り成しをしてくださっておられる。それで、毎週の日曜日の礼拝と御霊の働きを一緒に考えなければならないと思うのである。神が与えてくださった御言葉を私たちは一緒に歌っている。詩篇を読むことも祈りの一部分であり、交読するときに私たちは一緒に祈っているのだ。ただ文字を読んでいるのではなくて、一緒に祈っているのである。そのように、礼拝においては、私たちの認識のレベルを遥かに越えた御霊の働きと祈りがあるので、私たちは本当に励まされるのである。ここに御霊の働きがある。

       礼拝において私たちはそれを求め、それを喜ぶのである。正しく主の晩餐にあずかるとき、私たちはパンとぶどう酒を通してキリストとの特別な交わりを楽しむと同時に、御父から契約のしるしを受け、御父との特別な交わりも同様に楽しむが、それだけではない。私たちのうちに住まわれ、主の晩餐の間、言いようもないうめきを私たちのうちに起こされる御霊との特別な交わりでもあることを覚えよう。神は祈りを聞かれ、その祈りを通して、私たちを固く保ってくださるのである。聖餐式において自分の罪を悔い改めて感謝の祈りをささげるとき、御霊の特別な働きがあることを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年9月3日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章23〜25節

    ローマ人への手紙8章28節 (1)

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.