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    ローマ人への手紙8章28節 (2)


    8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

    2001.01.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    すべてのこと

    8章28節

       「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロは話しているが、もし詩篇と預言の書をこのローマ書8章28節を念頭において読んでみるなら、その人はこの節の真理がどれほど頻繁に出てくるかを見て驚くであろう。詩篇やイザヤ書などの旧約聖書のいろいろな箇所を、この聖句を覚えて読むときに、本当にこの信仰が繰り返し繰り返し聖書の中に出て来ることに気が付かされる。

       例えば、今朝交読した詩篇27篇もそうである。「敵が自分に向かって陣営を張り、襲いかかって来ようと、私の心は恐れない。主は私を憐れみ、助けてくださる。主は私に答えてくださる」とダビデは言う。そして、最後にダビデは「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と、言っている。「神を待ち望め」ということは、「最終的に絶対に神は救ってくださる」という信仰を表わしているのだ。「すべてのことを、神は、最終的に益としてくださることを、私は知っています」という信仰を、ダビデはこの詩篇で告白しているのである。このローマ人への手紙8章28節の聖句を覚えて聖書を読むならば、この信仰が聖書の至るところにあるのを見ることができる。つまり、聖書の神を信じる信仰の中にはこの確信が確固としたものとして含まれているのである。

       当然そうあるべきなのだ。なぜ私たちはこのことを「知っています」と断言できるのか。それは、三位一体なる神が永遠の御計画を持ってすべてを創造し、その御計画において御自分の御恵みと栄光を表わすようにすべてを導いてくださることを「知っている」からである。ローマ書8章28節は、契約的な言葉遣いで明確に整理され述べられているわけではないが、この世に対する神の契約的御支配について述べたものである。

       創造主であるなら、御自身の最愛の民に祝福をもたらすよう万事を導くために世を統べ治められるのは当然のことに過ぎない。それというのも、聖書の冒頭から、私たちの目に入ってくるのは、神が祝福を与えるために人間を創造し、また人間を祝福へと回復するために贖ってくださることなのだ。この28節は、御自分の民を祝福することが神の契約の目的であるという根本的な事実を簡潔に述べたものである。

       イスラム教の神概念は決定論的で機械的な運命論である。「すべてのものは既に決められたのだ。だから、あきらめなさい」というようなことになってしまう。自由意志などは関係ないことになってしまいがちである。反対に、聖書を信じていないのに自分はクリスチャンだと言っているリベラルの人たちの神概念はどんなものかというと、「神は人間を創造したが、人間がたくさん変なことをしたために、神は慌てていろいろと心配している」というような考えになる。アルミニアン主義を極端にすればリベラルになる。

       もし、「神は、完全な支配をしてはおられない。どうなるのかを御存知ではないのだ」と思うなら、その神に祈っても仕方がないのだ。そのような神は何も助けることはできないからである。反対に、「すべては運命であって、すべてはもう定まっている」と言うなら、それも祈っても仕方がないことになる。祈っても何も変わらないからである。すべては決まっており、変えられないものであり、私たちの自由意志も思いも関係ないのだということになる。しかし聖書は、神がすべてのことを計画し、すべてのことをその御計画に従って完全に導いてくださるということを教えていると同時に、私たちには自由意志が与えられており、私たちのすべての選択には意味があることを教えている。

       私たち人間は神の似姿なので、神がそうであるように私たちも、二次的な意味ではあるが、自由を持つ存在である。だから、自分がした選択には確かな責任がある。しかし、神に祈って神の御恵みを求め、その祈りが答えられて御恵みが与えられることも、神の御計画の中にあることなのだ。神の完全な御計画と私たちの自由は、どのように理論的に一緒にすることができるのかということは私たちの理解を越えるけれども、両方が本当でないなら、人間の存在には何も意味がないことになる。

       つまり、リベラルが考えているように、神がその全的支配を失ってしまったと言うならば、神概念も無いことになるのだ。「一致」とか「歴史の結論がどうなるか」などには、何も意味がないことになる。どうなるかは神にもわからないのだから、私たちにもわからない。最終的に信じることができる相手はどこにもいないことになる。神を知らない人の中には確かにそのような考え方をする人もいる。その反対に、私たちに自由意志がないならば、行なっていることには何の意味もないことになる。

       しかし、神の絶対的な御計画と私たちの自由意志の両方が聖書の中で明確に教えられている。「神は永遠の御計画をもって私たちを選び、私たちに信仰を与え、私たちを導いてくださる」と言うとき、「それじゃ、私は信じても信じなくても同じではないか。神を求めても求めなくても同じなんだ」と考えるなら、そのような人は聖書を信じてはいないことになる。そういう意味で、神という絶対者、愛なる御方、そして私たちを御自分の似姿に創造してくださった御方、その神を信じると言うなら、「神はすべてを支配して、御自分の民を愛してくださる」という三位一体なる神に対する確信は絶対であるはずだ。

       以前この箇所を見たときに、サタンがアダムとエバを惑わした時の一番最初の偽りは、「神はケチで、神はあなたを祝福したくないのだ」というものであった。「本当に神はそのような命令をしたのですか」と囁く。「神は、あなたたちがその実を取って食べるとき、あなたたちが神のような者になると知っているのだ。そのケチな神は、あなたたちが祝福されるのを望んではいない。だから、そんな命令を与えたのだ」というふうにサタンはアダムとエバに言う。それは不信仰の心そのものであることを、サタンにおいて見ることができる。アダムがその誘惑を受け入れて神を試したりしたのも、不信仰そのものであった。

       このことは、マタイの福音書の25章に出て来るタラントの譬えにもよく表わされていると思う。主イエス・キリストは、しもべに自分の財産を預けて旅に出る人の譬え話をされた。その主人は、しもべの能力に応じて、五タラント、二タラント、一タラントをそれぞれのしもべに預けて旅に出た。そして、五タラント預かったしもべは、自分の主人のために一生懸命働いて、更に五タラントを儲けて、主人が戻った時に十タラントをささげた。二タラント預かったしもべも一生懸命働いて、更に二タラントを儲けて四タラントを主人にささげた。しかし、一タラントを預かったしもべは、主人が戻って来た時に、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める厳しい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」と言って、預かった一タラントを主人に返した。

       これは、自分の主人に信頼しないばかりでなく、主人を憎む心を持つことなのだ。一タラントを預かったことを祝福とは考えずに、重荷だと思っているのだ。与えられたことを感謝もせずに、それを主人のために使うこともせず、ただ預かった物をそのまま主人に返したのである。実に不信仰な心をもって主人に応えているのである。言うまでもなく、この主人とは神のことである。そして、キリストはこのタラントの話を通して、私たちのことを話しておられるのだ。私たちは皆、神のしもべである。何タラント預かったかは、そのしもべの能力に応じたものである。与えられた時に、神に感謝し、そして神を信じ、それが与えられたのは恵みであり、特権であると思うのが本当なのだ。神から預かったこの物を神のために用いて、神の栄光を求めるはずである。

       「神は私を愛しておられる」ということを知っているので、その神の愛に応えようとするからである。それが五タラントと二タラントを預かったしもべの心である。一タラントを預かった人の心は、「あのケチな神は、私にこれしか与えてくれない。きっと私から何かを取り上げようとしているのだ。あんなケチな神のために働くなんて嫌なこった」というような心なのだ。神を愛して、神の御恵みを信じて生きる者には、「神は、すべてのことを益としてくださる」という信仰がある。その確信を持って生きること、それがクリスチャンの普通の生き方であるべきなのだ。

       ただ人間的に言うならば、私たちほどに恵まれた時代は歴史の中にはないと言ってよい。確かに昔の王族や貴族たちの場合は私たちよりも恵まれた生活をしていたことは事実である。奴隷やしもべたちを大勢雇い、何でもかんでも奴隷たちがやってくれる。だから、貴族たちの場合は例外かも知れないが、一般の人々で私たちのような生活が送れることは、とても考えられなかったのだ。私たちは多くの奴隷を持っているわけではないが、食べ物やいろいろな事においては昔の貴族たちよりもずっと豊かになっている。不思議なのは、そこまで祝福されている私たちの方が、「本当に神は私たちを祝福して愛してくださる」ということを十分に確信できないでいることである。

       生活において祝福されている私たちの確信は、ぜんぜんパウロほどには深くはない。クリスチャンになってからのパウロはずっと旅をしていて、貧しさ、寒さ、強盗の危険など、いろいろな困難に遭遇した。町から町へ行く時にも、多くの迫害を受けたり、町から追い出されたり、石打ちにされたりした。どこへ行って福音を伝えても、町から追い出されて迫害されるなら、何回かだけでも、普通ならがっかりするに違いない。劣等感を持ったりして落ち込んでしまうに違いない。自己嫌悪に陥るかも知れない。「本当にすべてのことを益としてくださるのだろうか。どうして祝福してくださらないのか」というような思いに陥るのが普通である。しかし、パウロはそうではなかった。何度も投獄され、鞭打たれ、殺されそうになっても、感謝ばかりで、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と、パウロは言うのである。

     

    神を知るがゆえに

       パウロの手紙を受けたローマの教会は、まもなくネロ皇帝の迫害に遭おうとしていた。ネロの迫害で多くのクリスチャンが殺されていった。彼らは、「殺されるだけならまだ幸せなほうだ」というほどの苦しみを経験しなければならなかった。十字架にかけられる者も大勢いた。キリストの場合は午後に十字架にかかったが、ユダヤ人は太陽が沈むと過越の祭りに入るから、キリストの足を折って死期を早めようとした。しかし、ローマ兵がキリストの所に来ると、キリストは御自分で御自分のいのちを御父にささげて既に死んでいたので、その足を折ることをしなかった。これは実に不思議なことである。普通なら十字架の死は三時間とか六時間というような短いものではなかったのである。十字架は何日もかかって死んでいくものであった。それは残忍な拷問として考案された刑であった。犯罪者たちは、何日間も十字架にかかったままにされるのが普通であった。

       ネロの庭園で十字架にかけられたクリスチャンの場合は例外であった。ネロはそのクリスチャンたちを十字架につけてから油をかけて火をつけて、燈火として使ったのである。ネロの庭園は、十字架上で燃えるクリスチャンたちでいっぱいになっていたと言われている。女性たちは特に酷い拷問を受けたという記録が残されている。また、カイザルの像の前に頭を下げて拝さなければ、その子供たちを一人ずつ親の目の前で殺したり拷問したりして、親たちは自分の子供が拷問のうえ殺されていくのをじっと見ていなければならなかった。

       ローマの教会はそのような状況の中にそろそろ置かれようとしていた。その人たちに向って、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロは言っているのである。36説でパウロは、「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた』と書いてあるとおりです」と言っている。だから、パウロがここで「すべてのことを働かせて益としてくださる」と言うとき、「すべてのこと」の一つ一つが楽しいことだと言っているのではない。また、自分の人生の中だけで考えた場合に、その生涯における個別的な事柄のすべては良いことばかりだと言っているのでもない。自分の人生が終わったその後のことも含まれなければ、結論には至らないわけである。

       何度も話した昔のエピソ−ドだが、ローマ軍がある町の教会を破壊してその中のすべてのクリスチャンを殺すためにそこに向かって進軍している時に、そのローマ軍の行列の真ん中を自分の子供を抱いて走っていく母親がいた。軍隊長が彼女に「何をしているのか」と尋ねると、彼女は「早く教会に行かなければ、私と私の息子は他の人たちと一緒に死ぬという特権を失うから」と答えたのである。パウロの時代のクリスチャンたちは、キリストのために死ぬことを最高の特権として考えていたのである。場合によっては“行き過ぎ”というほどに、特権として思っていたのである。「神がすべてのことを益としてくださることを、私たちは知っています」と告白する彼らの確信は、死ななければならないとしても、拷問されるとしても、子どもたちが殺されるのを見るとしても、その信仰を少しも失われはしなかったのである。迫害によって、彼らの信仰はますます強くなっていった。

       しかし、豊かな生活が与えられている私たちはどうだろうか。朝起きてちょっと滑って足を痛めただけで、「ああ、なんでこれが益となるのか」と思ったりするような、実に女々しい信仰を持つ者になっている。豊かな人こそ、本当は「神がすべてを益としてくださることを知っています」という喜びと感謝と確信とを持つべきなのに、それを持ってはいないということを強く感じさせられるのである。そうであってはならない。確かに神は私たちを愛して、すべてにおいて祝福してくださる。「たといそれがどれほどの苦しみであっても、神の約束は確かなものであることを、私は確信している」と、パウロたちは確信しているのである。

       パウロは「私たちは知っています」と言って、神への根本的な信頼を表現している。以前にも説明したとおり、パウロは、「どのようにすべてのことが益とされるかを知っている」とか、「神がどのようにすべてを益にするのかは簡単にわかる」というようなことを言っているのではない。すべてのことが神の民のために益となるよう働くという宣言は、「神がこの世を御自分の契約によって御民の祝福となるように治めておられる」という宣言にほかならない。つまり、神を信じるということの中に、この知識は含まれているのである。だが、このことに気づいていないクリスチャンは少なくはないのだ。というのは、これが「奥義」であることに変わりはないからである。

       これは確かに「奥義」である。この世に起こる出来事のすべてを、すなわち物質的であれ霊的であれ、世界全体のあらゆる出来事の一つひとつを、全人類の歴史を貫き、しかも全世界の数えきれないほど多くの個々人の益のために、そのすべてを相働かせるほどに緻密に導くことなど、いったいどうして可能なのか、私たちにはとても理解はできない。完全に私たちの理解を越えることである。それら多くの人々の人生は、互いに無関係、あるいは全く食い違っているようにさえ思われる。非常に多くの事柄がそれ自体で悪いものにしか見えないのに、「すべてのことが共に働いて益となる」など、どうして可能なのだろうか。人生の中には悲惨なことや悲劇がある。そして、控えめに言うが、そのような悲劇が、どのように私たちに益となるのか、理解するのは困難である。

       例えば、ヨセフは自分の兄弟によって奴隷として売られて、エジプトに行き、長年エジプトで奴隷として働き、こんどは主人の妻の誘惑を拒絶したために偽りの証言をもって投獄されてしまった。そこで更に大変な生活を送らなければならなかった。やっと神は彼をそこから取り出して王の側に置き、そして全エジプトを支配する宰相とされたとき、振り返ってみれば、奴隷として働いた時も牢獄に居た時も、ずっとヨセフは訓練を受けていたということがわかる。しかし、ヨセフの観点から見れば、奴隷として売られた時からパロの右に座するようになるまでには約13年間あったが、13年間もの訓練であればもっと他に良い方法はなかったのかと思う筈である。どうしてこれほどの苦しみを受けなくてはならなかったのかと、普通なら思う筈である。しかし、ヨセフは少しもそのようには思わなかった。

       ヨセフは、神の御計画と導きを疑うことをせずに、自分の兄弟に憎まれ、奴隷として売り飛ばされ、13年間もずっと理不尽な苦しみを受けていた年月においても、ヨセフは神に全く信頼して、神を信じた。そして自分たちの兄弟たちにこう言ったのである。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう」と(創世記50章20〜21節)。「すべては神が私たちを祝福するためにあらかじめ御計画し、御心のとおりに導いてくださったことなのだ」と言うのである。まさしくヨセフは、このローマ人への手紙8章28節の信仰を自分の兄弟たちに教えたのである。ヨセフは、しっかりとこの信仰を持っており、そして「知っている」のである。

       ダビデのケ−スは、ある意味ではもっと難しい。ダビデの子供たちは何人もが大変な罪を犯して死んだ。「この道しかなかったのか」と、普通なら思ってしまうところであろう。長男も、次男も、三男も皆、神に逆らって大変な罪を犯してしまう。そして、死刑のような結末で死ななければならなかった。何故なのか。何故、自分の子供たちがそのようなかたちで死ななければならないのか。「何故。何故」と、人間的に考えれば、きりがないのである。愛する息子アブシャロムがダビデに激しく逆らい、そして戦争で死んだこと、それはダビデにとって、またイスラエルにとって、どのように益であったと言えるのだろうか。

       神がその悪を翻し、アブシャロムの陰謀がどのように妨げられたかは見ることができる。だが、それが要点ではない。ダビデやイスラエルにとって、なぜそのような事は「益」なのか。そうならないように止めることは、神なら出来たはずである。アブシャロムが死ななければならなかったなら、なぜ肺炎とかで死なせなかったのか。さもなくば、ずっと良い方に導いてくださって、彼の心を変え、彼が従順な息子になるようにはできなかったのだろうか。

       ダニエルは、バビロンを支配する者にはなったが、彼は宦官にされた。ダニエルは85歳くらいまで生きたと思われるが、15歳から死ぬまで、彼は宦官にされた奴隷として生きたのである。偉い地位にあったとは言え、あくまでも奴隷なので、楽しいものではない。自分のいのちは自分のものでなく、自分の人生も自分のものではない。自分の道を自分で選ぶことができない。「この道しかないのか。他にもっとよい道はなかったのか」と、普通なら思うのである。これらは有限な私たちには答えられない種類の問いである。しかし、神が支配して導いてくださり、神が与えてくださったものはベストであるということを信じるのは、神を信じることなのだ。そこに「奥義」がある。そこに説明できないところがある。

       本当は、「理解できないことがある」と言うなら、すべてがそうなのである。それが聖書の教えるところである。どんなことであっても、すべては私たちの理解を越えるものなのだ。しかし、ヨセフも、ダニエルも、ダビデも、神を信じて神を待ち望み、「絶対に神は祝福してくださり、すべてを益としてくださる」という信仰を持っていた。それは彼らの動かされることのない確信であったのを私たちは見ることができる。

       私たちは、神がだれであって、また、どのような神であられるのかを知っているがゆえに、すべてのことが益となるよう共に相働くことを知っているのである。しかし私たちは、ある状況下では、ある人にとって、いったい何が“益”であるかさえ理解できない。ましてや、神の民の苦しみが如何にして実際に益となるように相働くのかを理解することなどとてもできないのである。それゆえ、私たちには「奥義」であっても、私たちは神に信頼し、神の知恵といつくしみとを信じるところに続けて引き戻されるのである。

     

    罪はどうなのか

       ある注解書の中で、「神がすべてのことを益としてくださるのは確かだけれども、例外が一つある。罪だけは例外である」と説明している。「すべてのこと」には罪は含まれていないと言う。「すべてのこと」とは、祝福と同様、試練や悩みを意味することは疑い得ないが、パウロはこの文脈において「罪」の問題を考えてもいなければ扱ってもいない、と考えるわけである。何故そう考えるかの動機ははっきりしている。「罪さえも益となる」と教えるならば、ある者たちは罪を軽く考えるようになり、この教えを罪を犯す機会にしてしまう恐れがあるからなのだ。「罪を犯しても、その罪さえも神は益に変えてくださるのだから、何をしても大丈夫」というようなことを考えたりして、罪を真剣に考えず、真剣に悔い改めることもしなくなる。また、ある人々は、この教えが罪への恐れを弱め、罪と戦う決心を弱めてしまうと感ずるのである。そのような結果になることを恐れるので、そう説明するのである。

       罪に対するその慎重な態度は正当なものであり、それはそれで大切なものだと思う。しかし、パウロが罪を「すべてのこと」の中に含めていることを否定することが、その恐れを取り扱う方法ではないのである。例えば、アダムの罪は、益となるよう相働く「すべてのこと」の中に含まれているのかどうか。もし含まれていないのなら、最初の父アダムによって代表されていた私たち全員は非常に深刻な問題の中にいることになる。「すべてのこと」に含まれ得る事柄の「すべて」の中に、「益と変えられなければならない、さもなくば、私たちには希望はあり得ない」ものがあるのだ。

       おのおのが自分の罪について考えてみればよくわかることだと思う。どうして神は、アダムが罪を犯してしまうことを許したのか。許さなければ、そうはならなかったのではないか。しかし、そのことも神の御計画の中にあったのだ。そのことをも働かせて神を愛する人々のために益としてくださったのだ。アダムが罪を犯したことによってどうなったかというと、主イエス・キリストが受肉されて十字架上で死んでくださり、よみがえってくださり、私たちを贖い、このようなかたちで私たちに永遠のいのちを与えてくださったのである。

       神御自身が人間となり、そして人間は、契約において神との永遠の一致を持つ者とされる。アダムが罪を犯さなかったこと以上に、神の愛の素晴らしさは表われ、神の豊かで特別な御恵みが表われたのである。そこに「奥義」がある。それは、私たちの理解を越えるけれども否定できないことであり、否定してはならないことなのだ。

       神の御計画のうちに罪もあったということは、例えば黙示録の中でも教えられている。この世が創造される前に、主イエス・キリストは、ほふられる子羊として十字架上でささげられて死ぬことは神の御計画のうちにあったと書いてあるとおりなのである。人間の罪も、神の御計画のうちにある。人間の罪をも用いて、神を愛する者のために、神はそれを祝福に終わらせるのである。

       創世記におけるヨセフの話の中に、罪が益のために働くことの単純で明らかな例がある。そのことを、ヨセフの兄弟たちにおいてはっきり見ることができる。ヨセフの兄弟たちは、カインに倣い、兄弟殺しをもくろみ、神に対してとんでもない罪を犯した。それはカインと同じ罪であった。カインは弟アベルを憎んで殺した。ヨセフの兄弟は全く同じ罪を犯している。エサウも同じであった。彼らは自分の弟を殺そうと計り、カインは実際に殺した。この罪は創世記の中に繰り返し出て来るが、ヨセフの兄弟はカインのように神を憎む心をもって自分の兄弟を奴隷として売り飛ばした。本当に殺すつもりだったのだ。売り飛ばしたことは殺すことと同じ罪であった。その上、彼らは父にヨセフの死について偽りを告げた。

       その罪はずっとヨセフの兄弟たちの心に重くのし掛かっていた。しかし、最終的には、その罪を犯してしまったことによってヨセフの兄弟たちは真の悔い改めへと、ヨセフによって導かれたのである。ヨセフは本当に知恵をもって自分の兄弟たちの罪を取扱い、そして、悔い改めへと導いたのである。その罪を犯したことの結果として、その家族は自分たちのいのちも救われたのだ。これは人の理解を越える神の御恵みである。兄弟たちの罪によって、ヨセフはエジプトに行って宰相となり、エジプトで食料を蓄え、神がエジプトを裁いて大飢饉を与えたときに、ヨセフの兄弟たちと父ヤコブは皆エジプトに避難してヨセフが彼らを守ったのである。そしてゴシェンの地を彼らに与えた。

       人間的な表現を用いるならば、その罪を犯さなかったなら、彼らに救いはなかったのだ。そういう意味で、兄弟たちの罪は赦しがたいものであったが、神はそれをも用いてくださった。彼らが悔い改めるように用いてくださり、更なる祝福を与えてくださった。彼らの罪の結果は、彼らの祝福となった。実際にすべては罪を犯した者たちのために益に変えられるのである。神が彼らに真の悔い改めと再出発をもたらす機会としてこの罪をも用いてくださったからだ。また、それはヨセフ自身にとっても益に変えられた。兄弟たちの不義によって、彼は神に特別に仕える立場に置かれたからである。このことによって、彼はエジプトの人々は言うまでもなく、父親と兄弟たちを救うことができたのだ。実に不思議な導きである。そして、それが神の御計画であったのは明らかである。

       もし誰かが、「これは他の人の罪が神のしもべの益となるように働いた例に過ぎないではないか」と反対するなら、その人々は上に述べた事実を見落としている。すなわち、この罪を通して、ヨセフの兄弟たちもまた益を受けたのである。彼らの罪は、その生活が霊的な側面と物質的な側面の両方において変わるためにも、神によって用いられたからである。他にも例は挙げられるが、要点は明らかである。もし神が私たちの罪を益にしてくださらなかったなら、私たちには救われる望みはあり得なかったのである。

       しかし、「それだから、罪を犯してもよい」という結論には決してならない。後でそのことを説明するが、聖書の中には、罪を犯した者に対して、神が不思議な方法で導いて祝福に変えてくださることがよく出て来る。ペテロも何度も大きな失敗をしたり罪を犯したりして、そこから学んで成長したのは否定できない事実である。その大変な罪を犯さなかったなら、ペテロはそこまでへりくだった心を持つようにはならなかったのである。ではなぜ「罪を犯してもよい」ということにはならないのかというと、ここに書いてあるとおりである。「神を軽んじる人々、すなわち、神のことを愛さない人々のためには、神はすべてを働かせて益としてくださる」とは書いていないのである。「神を愛する人々のためには」と書いてある。

       罪を犯すことは、神に逆らい、神の御名を汚し、神の栄光を求めず、神の愛に対して裏切ることである。たとい愛なる絶対なる神が、私たちの罪と愚かさと私たちの失敗を、不思議な不思議なやり方で益としてくださるとしても、それは罪を軽視することにはならない。もし神が、特別な愛をもって私たちの失敗と罪と愚かさなどを益としてくださるほどに私たちを愛してくださっておられるなら、そして、もし私たちがその素晴らしい神の愛を理解しているならば、その愛を絶対に裏切りたくはないという心も深められる筈なのだ。「神がすべてを益としてくださるのだから、罪を犯してもいい」とは、絶対に思わない筈である。それは神の愛を裏切り、神を憎む思いだからだ。決してそれは神を愛する思いではない。

       「神を愛する」ということは聖書の至る箇所に出て来るが、それは神を信じて、神の命令を守ることにほかならないのである。だから、人々を罪を犯すように励ましてしまう危険性についての疑問は、28節全体に注意を払うことによって取り払われる。神がすべてのことを益とされるのは、御自身を愛する者たちのためだけなのである。これは、「すべてのことが共にすべての人のために益となる」という約束ではない。

       さらに厳密に言えば、罪を軽く考える者たちはここには含まれていないのである。神を愛することは、神の命令の知恵に全く信頼することであり、それゆえ、それを行なうことを喜ぶことである。神を愛し、その愛によって生きるなら、罪を軽く考えることはしない。罪を犯すことは、愛するお方への裏切りであるからだ。この節が誤用されないよう防ぐのは、すべてのことがこのような特定の人々にだけ益となるよう働くことを自らと人々に思い起こさせることによる。益を受ける人について定められた限定は、不義の中に生きる言い訳を探している者たちを除外するのである。

       この8章28節だけでなく、他の箇所でもそうだが、このことは「奥義」である。「奥義」と言うとき、これは私たちの理解を完全に越えることなのだ。自分の理解を完全に越えることを信じるということは、子どものような心を持つことなのだとキリストは教えている。「子どものような心を持って神を信じるのでなければ、神の御国に入ることはできない」という言い方をキリストはしておられる。子どもは、自分の両親が言っていることで理解できないことはかなり多いものだ。今私は51歳だが、40歳の時にはわからなかったこと、30歳ではわからなかったこと、20歳の時には、どんなに優秀であってもわからなかったことが沢山あった。年とればとるほど、「若い人には、この事はわからないだろう」ということを感じるものである。

       子どもが父や母に、「これはおいしそうだね。香りもいいし、飲みたいな」と言うと、父は「いいや。それはガソリンだから、駄目だよ」と言う。子どもにはそれが理解できなくても、父の言葉を信じるしかない。実は、私は小さいときにガソリンの臭いが大好きだったので、ガソリン・スタンドに行くのが大好きだった。子どもは父に、「飲んじゃだめなら、香りを嗅ぐだけならいいでしょ」と思って言うと、父は「駄目。ガソリンをずっと嗅ぐことは脳に悪いからね」と言う。子どもは父の言葉を信じるしかないわけである。自分ではわからないのだから。化学的な理屈もわからないし、香りも良くておいしそうなものを、なぜ飲んではいけないのか、ぜんぜんわからない。香りを嗅ぐのも駄目だと言うのは何故なのか、わからないのである。

       しかし、子どもが「本当かなあ」と疑ったのではどうにもならないのである。子どもは、「それを飲んではいけない。食べてはいけない。そこに手を入れてはいけない」と言われたら、父と母の言葉を信じて従うことによって守られ、そして成長するのである。信じれば成長するが、信じなければ、ずっとバカなままになるのだ。信じれば成長することになるが、大人になった私たちは、天の父を素直に信じればよいのである。「そうか。この事も、神は益としてくださるのだ。神は、すべての事を支配して私を祝福してくださる。そのことを知っているので、私は勝利を確信することができます」という信仰を持って歩み続けるのである。

       ダビデはそのような信仰を持っていたので、敵の激しい攻撃にあっても、絶体絶命な中にあっても、喜びと感謝を持って神を待ち望むことができたのである。詩篇を読むとき、「敵」という言葉が繰り返し出て来る。皆さんには敵はいるだろうか。確かにいるけれども、普通の生活の中で具体的に敵が近づいて来るというようなことはあまりないだろう。ダビデが山に潜んでいる時に、彼を殺そうと狙っている敵が大勢の軍とともにダビデを包囲し捕らえようとしていた。私たちはそのような状態にはない。ダビデはそのような状況の中でも、神に感謝し、神に信頼して、「私は、主を待ち望む。私は、なおも主を待ち望む」と祈り、「神は、絶対にすべてを働かせて益としてくださる」という信仰を表わし、その確信を持って生きていた。

       だから私たちも、「私は、神を信じます。天の父の愛を信じます。今の状況を私は十分にはわからない。なぜこの事をなさるのか。何を求めておられるのか。それは私の理解をはるかに越えるけれども、私は主がどのような御方なのかをよく知っているので、主に信頼し、主を待ち望みます」と、天の父については何一つ疑うところなしに告白できるはずである。人間は罪人なので失敗したりするが、天の父には失敗はない。私たちは100%、天の父に信頼し、その愛を信じる者である。そういう意味で、子どものように素直の心をもって告白することができる。

       このつながりにおいて、イエスの約束が心に浮かんでくるはずだ。主イエス・キリストが金持ちについて教えた時に、弟子たちはその教えに驚いた。ユダヤ人の観点からすれば、金持ちこそ神からの祝福を受けているという単純な考え方があった。しかし、マタイの福音書19章23〜26節のところで、主イエスは、弟子たちに次のように話しているのである。

     

    それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

       主イエス・キリストの話の内容は、「金持ちが救われるのは不可能だ」ということになるが、「それでは他の人々も同じことになるのではないか」と心配して、弟子たちは「それでは、誰が救われることができるでしょう」と問い返した。驚いている弟子たちにキリストは、「人間にとっては不可能であるけれども、神には不可能なことは一つもない」と答えられたのである。このキリストの約束には広くて深い意味が込められている。その中には、「神が私たちの罪をも益となるよう働くものに変えることがどうして可能なのかは私たちには理解できない」という概念も含まれていることは言うまでもない。

       もう一度言うが、ポイントは「そのようなことがどうして可能であるのか分からなくても、私たちは不可能なことを行われる神を知っており、また信頼している」ということなのである。それ故、子どものような素直な心をもって神を信じることを、パウロも私たちに教えている。コリント人への第一の手紙3章21〜23節を見てほしい。

     

    パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

       すべてのものは私たちのものだとキリストは教えている。すべてが、私たちに与えられている。すべてを与えてくださった神を信じるのである。死さえも私たちのためなのだ。いのちも私たちのためにある。パウロたちも私たちのためであった。私たちもまたパウロのためにあると言ってよい。「すべては私たちのものである」ということを言うとき、パウロは実に不思議なことを教えている。私たちは皆、一人ひとりが神の愛を必要としている。そして、天国には数えきれないほどの人がいると黙示録に書いてある。

       私はアメリカの2万人しかいない町で生まれ育ったが、新宿駅に行ってホ−ムに立って見渡すと、自分が育った町よりもずっと多い数の人がその一つの場所でひしめいているのを見て驚かされる。東京で育った皆さんにとってはショックではないかもしれないが、私にとっては本当に不思議で驚くことであり、行く度にいつも「こんなに人間がいるのか」と、ショックを受けるのである。いつも不思議に思うのは、大勢の人が反対の方に歩いて行くときに、その顔を見て、「もう二度とこの同じ顔を見ることはないだろう」と思わされることである。それが、何百人、何千人も、自分の側を通り過ぎて行く。この二十年間、どれほど大勢の人の顔を見ただろうか。私には、それは非常に不思議なことである。

       その中で私たちは、「天国では、海の砂以上の大勢の人々の中で、神は私を見つけてくれるだろうか。神は私を、知っておられるだろうか」と変な思いがしたりするかもしれないが、神は無限な御方なので、私たちの一人ひとりに対する人格的な関係は、あたかも大勢の人の中で私が唯一の相手であるようにして私に目を留めてくださるのである。「神と私だけ」みたいな関係がそこにある。神は、人間と違って無限な御方だからである。奥村さんの祈りを聞くときに、「ああ。スミスさんのは後にしますね」ということにはならないのだ。一人ひとりを、まるで唯一の中心であるかのように、愛の関係をもって私たちを祝福し、覚えていてくださるのである。

       それで、塩光さんのために益とするために、工藤さんの方は申し訳ないが後回しにするというようなことはなさらない。すべてを導いて、すべての個人一人ひとりを大切にして、愛して、すべてを相働かせて益としてくださるのである。それは、私たちには想像もできないことなのだ。想像もできないようなことを、神は私たちのためになしてくださる。そのような神なので、確信を持って信じて、ダビデのように私たちも神を待ち望むのである。神が必ず祝福してくださるという確信を持って歩むなら、私たちの教会の証しの力、そして一人ひとりの証しの力、また家庭の力も違ってくるのである。

       罪人である私たちの問題は、その最も根本的なところにある。まるで蛇が言ったことを信じているかのように、感謝と喜びを十分に表わさないでいる。神が、すべてを働かせて益としてくださることを、私たちは本当に信じているのか。そのことをよく考えさせられるのである。荒野のイスラエルはそのような信仰を持って歩まなかった。「神は、すべてのことを“罰”として働かせる御方だ」とでも思っているようなかんじで神を見ていた。「何でもかんでも大変なことばかりだ」と思い、試練が何であれ、それが与えられると、すぐに「ああ。エジプトにいた方がよかったのに。なぜ私たちをここに連れ出したのか。なぜ私たちを苦しめるのか。エジプトで死んだ方がよかった」という話になるのである。それが罪人の不信仰の心である。

       パウロは全くその反対であった。福音を伝えたためにシラスと一緒に、鞭打ちされてから、ピリピの牢獄に入れられた。それは過酷な奥の牢であった。その牢獄の中でパウロとシラスは、感謝の祈りをささげて一緒に詩篇を歌っていたことが使徒行伝16章25節に記されている。その違いなのだ。本当の信仰の心を持って歩むときに、感謝と喜びの力を持つのである。

      「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロが言うとき、十字架の愛、十字架の死と復活がその土台となっている。32節で「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」とパウロは言っているが、その最も素晴らしく尊いものを与えてくださったのであれば、あとの小さなことも必ず与えてくださるに違いないのである。神は、御自分の独り子をさえ私たちに与えてくださったのだから、御子とともに他のすべての祝福をも与えてくださるのだ。私たちに与えられるすべてのものを、神の祝福として信じて受け入れるのである。神の愛を信じて、確信、喜び、感謝を持って歩むことができる。それはキリストの十字架を信じるクリスチャンに与えられる祝福である。

       日曜日の聖餐式の中心は、自分の罪を悔い改めることにあるのではない。神に感謝をささげることが中心なのだ。そのことをいつも強調している。聖餐式は、確かに罪を悔い改めて心の準備をするものである。それを真剣に行なうのは当然のことである。自分を吟味して備えるのである。しかし、罪を悔い改めて心の準備をするということは、感謝の心を持って聖餐式を行なうことにつながることなのである。「神がこのように私を愛してくださって、主イエス・キリストを、私を救うために与えてくださった。その愛を感謝します。私の主イエス・キリストを信じます」という心を持って聖餐式は受けるものである。その神の愛を覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年1月21日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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