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    ローマ人への手紙8章28〜29節


    8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

    8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

    2001.02.04. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    知識と平安

    8章28〜29節

       数週間にわたってローマ人への手紙8章28節を見てきたが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と、パウロはここで宣言する。神が契約の愛をもってすべてのことにおいて私たちを導き、すべてのことを祝福となるように相働かせてくださる。そのことを私たちは知っている筈である。クリスチャンは、神を知っており、そして、神の救いの意味を知っている。「神の完全な契約的支配を知っているので、このことを私は知っている」と、私たちは宣言できるものである。

       29節の冒頭に、「なぜなら」という言葉がある。なぜそのことを「知る」ことができるのか。どうしてそのことをこれほどの確信をもって宣言できるのか。29節はそのことを説明している。29節でパウロは、神の永遠の御計画の話をするのである。神の永遠の御計画については、聖書のいろいろな箇所において語られているが、誤解しないように気を付けなければならないところがある。「神には永遠の御計画がある。永遠の昔から、すべてのことを導く計画を神は立てられた」と聞くと、ある人たちは、「それなら、私には責任はない。私が何をしようと、神がすべてを定めて支配しているのだから、それは神の責任なのだ」と言う。それ故、パウロがいつ神の選びについて語り、いつ神の御計画について話しているのかに注目することは非常に大切である。

       ここで私たちは、「自分の行動についてどう考えるべきか」を考えるのではない。また、神のことを抽象的な話題や哲学的な話題の中で話しているのでもない。表面的に見れば少しも良いとは思えないような悲惨な状態の中にある時でさえ、たといそれが火の中であれ、患難であれ、飢えであれ、裸であれ、危険であれ、剣であれ、死であれ、どんな状態にある時でも、そのすべては意味のあることなのだということを話しているのである。36節に、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」とあるが、毎日がそうであったとしても、そのすべては意味のあることなのである。それは神の御計画の中にあることであって、そのことをも神は支配して祝福として与えてくださる。だから、なぜ確信をもって「私は知っています」と言えるのかを説明するとき、パウロは「神の永遠の御計画」について話すのである。

       すべてのことが益となるように相共に働くことを本当の意味で知っているなら、私たちには心の平安がある。既に説明したように、万事が益となるよう相働くことを知っているとは言え、それは私たちが試練や困難がいかにして益をもたらすかを知っているという意味ではない。何が起こっているのかを理解できるという意味ではない。理解できないことはたくさんある。ここで話している知識とは、信仰に基づくものであり、神への愛に基づくものである。自分の状態を理解したり、その状態の意味を確信できるのは、私たちをその場に置いてくださった御方を知っているからである。

       私たちはこの御方を知っており、少なくとも神が私たちにそれ以上をお示しになっていない限りは、それで十分なのである。御子が私たちの主であり、御子が私たちを愛しており、御父は御子を愛し御子を祝福し、御子にある者を祝福してくださる。御霊も私たちの中にあって導いてくださる。その三位一体なる神の愛のゆえに、その御計画が失敗に終わることは決してない。神は主権をもって私たちを導いて、主イエスに似た者に変えてくださるのである。

     

    多様な目的と道徳的責任

      「自分の責任は何なのか」とか「自分は何をすべきなのか」を考える時に、「今日の私のための神の計画は、何かな」というような抽象的な推測をしたりするような話をしているのではない。「今日、私は何をすべきなのか」を考える時、基本的に原則は二つある。

       その一つは聖書の倫理の教えである。「今日、あの人を殺すべきだろうか」と考えるなら、聖書の答えは簡単明瞭であって「殺してはならない」というものである。「盗んでもいいのか」と考えるなら、「いいえ。盗んではならない」が、答えである。そのように、聖書の明らかな倫理の枠組みの中で生きることが第一の簡単な原則である。もう一つ、聖書の中では知恵について話している。正しい枠組みの中であれば全く自由であると考えても間違いではないが、それでも「ベスト(最善)」と「ベタ−(より良い)」と「グッド(良い)」の違いがある。聖書の倫理の枠組みの中で生きるなら、やっていることはすべて「良い」ではあるが、「良い」よりも優れた「より良い」ことがある。「より良い」が出来ても、それよりも優れた「最善」というのがある。知恵を持って生きるということは、その区別がちゃんと出来ていて常にベストを行なうことなのだ。

       これが知恵の話なのだ。特別啓示が毎日与えられるわけではない。だから、祈ってベストを求めることが大切である。識別力を与えるのは神であり、知恵を与えるのも神であるからだ。「私はどうすべきなのか」を考える時、簡単に考えるなら、答えはその二つなのである。神の御言葉の倫理を守って、その倫理の枠組みの中でベストを求めるのである。しかし、予定論とか神の永遠の御計画の教理は、それとは違うものとして与えられている。それは、抽象的なことを考えるとか、変な哲学を作るとかのために与えられたのではない。御言葉の真理は、神を愛する者の徳を高めるために与えられているのである。

       聖書の中で主イエス・キリストは、「悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には入れません」と教えている。キリストは何を言っているのだろうか。「子どもたちがきよいように、あなたもきよくなりなさい」という意味に考える人もいるが、私たちの教会には既に60人も子どもがいるので、子どもがきよい者でないことはもう十分にわかっていると思う。「子どもはきよい」という話ではない。子どもは極めて自己中心的であり、互いをいじめあったり、教えられなくても悪いことをすぐに覚えるものだ。決して特別にきよいのではない。また、「子どもは純粋」ということでもない。しかし、幼い子どもは自然に親の言うことを信じるものとして神に創造されている。

       私には今でも不思議に思うことがある。幼い頃、私の父と母は私に嘘をついていた。その嘘は、「クリスマスの夜にはサンタクロ−スが来るよ」というものであった。もちろんサンタクロ−スが来る筈はない。我が家にはちゃんと暖炉があってチムニ−(煙突)があった。そのチムニ−の穴は小さくて子どもも通れないほどのものであった。それでも、両親がそう言うので、私はそれを信じて本気で待っていた。4〜5歳の子どもは、両親が言えば信じたのである。その穴の大きさも知っていたので、通れるはずないと思って心配すると、「心配しなくても大丈夫。サンタクロ−スなら通れるんだから」と言われると、親の言うことを信じて待ったのである。親の言うことを信じるのは、子どもには極く普通のことなのだ。

       良く考えればとんでもない嘘なのだが、それを信じてしまう。そのようなものとして子どもは創造された。これは重大なことである。だから、私は絶対にそのような嘘を子どもにつくことはしない。親を信頼するように神は子どもを創造してくださったのだから、本当のことを、ありのままに、その幼い時から子どもに教えるべきだと思うのである。私たちは神の御前に子どもたちのようにならなければいけないと、キリストは教えている。それは、「真実な神の御言葉に書いてあるがままを素直に信じなさい」ということである。「神に言われたら信じる」というのが出発点なのだ。

       全部を理解することは絶対に有り得ない。それは私たちの理解を遥かに越えることばかりである。では、何のために神は私の理解を越えることを教えてくださるのかというと、それは、理解するためではなく、心を慰めて励ますためなのである。試練や患難の中にあっても、望みと感謝を持って歩むことができるためなのである。神に信頼し、神に従い、どんなに大変な時であっても、正しく歩むことができるために与えられている真理なのである。哲学的な理解を得させるためではない。これは極めて重大なポイントだと思う。

       それ故、「何のために与えられた真理なのか」ということを覚えつつ8章28節の信仰を確かなものとしなければならないのである。「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」ことを確信するのである。その神に対する揺るぐことのない信仰に立って歩むのである。どうしてそんなことが有り得るのかというと、パウロの説明はこうである。

    なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

       私たちに降りかかってくるすべての試練、すべての問題は、神が永遠の御計画のうちに私たちに与えるものである。そのすべては、神から与えられている。神が私たちの歩みの中にもたらすあらゆる試練には確かな目的があることを知らなければならない。神がそれらすべての問題を私たちに与えてくださるのは、私たちが最終的に主イエス・キリストに似た者となるためである。そのすべては神の永遠の御計画の一部あって、何一つ偶然なことはない。そのことを私たちは確信することができる。その確信のことをパウロは話しているのである。

       しかし、試練はしばしば他の道徳的存在を通してやって来る。研究所の金曜日のクラスで今ヨブ記を学んでいるが、その最初のところで、サタンがヨブを試すところが出て来る。サタンはヨブの信仰を潰すつもりで可能な限りのあらゆる悲惨な出来事をもってヨブを打った。ヨブがついには神に対する憎悪と憤りを表わすようにするのがサタンの目的であった。それを成し遂げるために、サタンはシェバ人とカルデヤ人を用いてヨブを襲い、ヨブの財産を全部奪わせた。彼らはヨブの家畜を奪い、よぶの召使いらを剣で打ち殺した(ヨブ記1章14〜15節、17節)。そこにはサタンの目的もあるし、シェバ人とカルデヤ人の目的もあった。彼らは神の栄光を求めてヨブを攻撃したりはしない。シェバ人とカルデヤ人の目的は略奪であった。

       ヨセフの物語でも、彼の兄弟たちはヨセフを殺すつもりであった。人間が私たちに対して悪を行なったりするときに、その人間が求めていることは最終的には関係ないものなのである。人間から来るような試練は、その人間の目的がどうなのかとは関係ない。例えば、シェバ人とカルデヤ人が来てしもべたちを殺し、家畜を全部奪ったとしても、それは神から与えられた試練であるとヨブは見ていた。そのヨブの見方は非常に大切なものである。ヨブは信仰の目をもって見ている。「ああ。サタンにやられた」とか「ああ。カルデヤ人がやったのだ」と、言えなくもないが、最終的にはそれは関係ないのであって、「神が私を取扱っておられる」ということこそ大切なのだ。

       確かに、それらの者たちが何らかの目的をもってやったのかも知れない。また、ヨブの三人の友人のように、善を行なうつもりなのに試練を与えてしまう人たちもいる。ヨブを慰めるために来たのに、苦しめてしまうのである。善を行なっているつもりであり、ヨブを教え悟らせようとしているのだ。それだから、最終的に私たちは、常に神の御前にいて、神によって取扱われており、神が私たちに真理を教えたり、私たちが罪を悔い改めるように導いたりして、私たちが主イエス・キリストに似た者となるように訓練し、導いておられるのである。そのことを覚えて毎日の生活のすべてのことを受け入れる必要がある。

       これは私たちにとって実に重大なポイントである。神はヨブのことを細かく記して私たちに与えてくれた。この一つのストーリーの中で、神の目的が最終的にはヨブを祝福すること、そしてヨブへの中傷に対して彼の義しさを証明することであったことがわかる。しかし同時に、他の方法では学ぶことのできない真理をヨブに教えるという目的があったことも見ることができるのである。

       ヨブは罪を犯してはいなかった。彼はその義しさのゆえに迫害されるが、実際に迫害が降りかかっているのかどうかは、明白ではないかたちで迫害される。サタンの目的は完全な悪であり、神とその御民への意識的な憎悪の表現である。シェバ人とカルデア人は、祝福に対するむさぼりという欲望を表わしている。つまり、一つの行為において、三つの異なったレベルの道徳的責任が存在し、それぞれのレベルで、全く異なった道徳的姿勢があるのを見ることができるのである。

       最も高いレベルでは、完全で知恵に満ちた愛がある。中間レベルでは、全くの憎悪、想像し得るかぎり最も深い邪悪さ、そして最も低いレベルでは、動物的欲望がある。しかし、これら三つのレベルは一連の行為の要因であることで一つとなる。こういうわけで、御自身がサタンと悪者たちの悪しき動機や目的に汚されない一方で、神がいかにして彼らを用いて私たちに試練をもたらされるのかがわかるのである。

     

    ヨセフの知恵

       「神がすべてを働かせて益としてくださる」ということは、私たちがキリストに似た者となるように神が働いていてくださるということに他ならない。朝起きた途端にとんでもない大変な試練にぶつかってしまうときにも、神が自分を取扱っておられることを、まず考えるべきである。「あの人が」とか「あの者どもが」ということばかりを考えて、その人たちを憎んだり、その人たちに対する復讐心を持ったり、その人たちを恐れたりするのではない。「神が私に教えようとしておられる」ということを、まず思うべきである。誰々さんについて考えなくてはならない事もあるかも知れないが、それはあくまでも二次的なことなのだ。まず第一に、「神が、私を取扱っておられる」ということを覚えるべきである。「神は、どのように私を導いておられるのか。神は、何を私に教えようとしておられるのか」という心をもって、すべての事に対処しなければならない。そうするならば、感謝と喜びと他人の罪を赦す心を常に持つことができるはずである。

       ヨセフの場合もヨブに似ている。ヨセフの人生のことを考えてみよう。ヨセフの兄たちはカインと同様、弟ヨセフの義しさに耐えられなかったのだ。兄弟たちに憎まれたヨセフは十代の若さで売られて異国のエジプトで奴隷として働かされ、投獄され、13年間も大変な試練に遭った。そこから解放される望みは少しも無かったのである。ヨセフは一生を牢獄の中の奴隷のままで生きることしか期待できない状態に置かれていた。彼らの兄弟たちもそう思っていたので、ヨセフは死んだと父に告げていた。昔のエジプトの牢獄は現代のアメリカの刑務所とはかなり違う。テレビがあり、冷暖房が完備し、好きなスポ−ツを楽しみ、趣味に没頭したり、自分の電話があってクレジットカ−ドで物を注文できたり、大学の勉強をして卒業できたりするようなものではなかった。エジプトの牢獄は過酷なものであった。

       普通の人がヨセフのような境遇に陥ったらどうなるだろうか。ヨセフの兄弟たちのような兄弟がいたらどうするか。パロの侍従長ポティファルの奴隷にされたら、どうするか。ほとんどの人は、心の中が自分の兄弟を恨む気持ちに支配されてしまい、押しつぶされてしまうであろう。兄弟に対する憎悪から反抗的な奴隷根性に陥って、怠惰になり、「なぜ私なのか」「なぜ私がこんな試練に遭わなければならないのか」というような思いに翻弄されて常に被害者意識をもって生きることになるのではないだろうか。

       そのような人物を想像することは困難ではない。そのような人は決して良い奴隷にはならない。「どうやったらここから逃げ出せるだろうか」「どうやったらこの恨みを返すことができるだろうか」と、毎日思うに違いない。今置かれている状態から逃げる道をいつも考えたりするので、奴隷としての働きは良い働きにはならない。憎しみの心をもって働くから、働き自体、質の良いものには成り得ないのである。逃げることが出来れば逃げ出すであろう。逃げ出せないと、自分を売った兄弟に対する恨みに支配されてしまうしかない。しかも、こんどは無実の罪で刑務所に入れられてしまったのであれば、どうだろうか。

       しかし、ヨセフは兄弟を恨む心を持たず、自暴自棄にもならず、被害者意識を持つこともしなかった。なぜそう断言できるかというと、ヨセフが奴隷として非常に良い働き手であったこと、そしてポティファルが自分の家のすべてを管理させたほどにヨセフを高く評価していたことから、ヨセフの心を見ることができるからである。本当に良い働きができるには、与えられた仕事に集中することができるのに十分な心の平安が要求されるのだ。ポティファルの全家を管理するには、知的にも肉体的にも大きなエネルギ−が必要であった。恨み心や被害者意識というものは、暴力や革命でそれが晴らされないかぎり、その人を無力にさせるものなので、もしヨセフにそのような思いがあったとすれば、そこから良き管理者としての知恵とエネルギ−は出てこなかったであろう。

       ポティファルの妻から虚偽の中傷を受けたとき、ヨセフは冷静に対処し、神に対して罪を犯さず、濡れ衣の罪で監獄に入れられても、そこでも懸命に、そして忠実に働いた。その結果、ヨセフは監獄の施設全体を管理する仕事を任される。ヨセフは故無き試練が続く中にあっても、誰をも憎まず、むしろ神に信頼し、できるかぎり明るく賢く素直に働いたのである。悪しき罠をやり遂げることを神がその兄弟たちに許されたことには神の良い目的があることを、ヨセフは知っていた。それゆえ、彼の心には平安があった。明らかに、彼は兄弟たちとその罪に目を止めてはいなかった。その目を神の目的に据え、望みが持てないような試練の中にあっても、ただ神に仕えることを求めたのである。

       実は、ポティファルはパロの廷臣なので刑務所でも支配力を持っていたと思われる。なぜヨセフは刑務所で死刑にならなかったのかというと、ポティファルは自分の妻の訴えを信じていなかったからだと私は思う。本来なら、奴隷たる者がエジプトのパロの廷臣の妻に手を出したとなれば、すぐに死刑になる筈である。昔の法律では、奴隷は、どんな事をしても死刑にされるのが普通であった。普通の人がやった場合は罰金でも、同じことを奴隷がすれば死刑にされたことが、昔のバビロンの法律にも出て来る。ヨセフは死刑になるはずなのに、死刑にされなかったのだ。なぜなら、恐らくポティファルは自分の妻の話を信じていなかったからだと思われる。

       それで、ヨセフはポティファルのために続けて監獄で働かなければならなかった。こんどヨセフは、兄弟たちに対する恨みだけでなく、ポティファルの妻に対する恨みにも支配されて、地獄にいるような気持ちになるのが普通ではないか。しかし、ヨセフはそのような試練の中にあっても、神に信頼し、神に仕える心をもって働き、監獄の長の心にかなう者となって、監獄のすべてを管理する者となったのである。どこにヨセフを置いても、どんな過酷な境遇に置かれても、どんなに理不尽なことをされても、ヨセフはその中にあって「私は神に導かれている」ということを確信し、神と自分との関係を第一にして、神に仕える心を持って常に「ベスト」の働きをしたのである。

       つまり、「なぜ神はこのことをなさっておられるのか、私には理解できないけれども、神には私の理解を越える御計画がある。その神の御計画の中にあって、私が主イエス・キリストに似た者となるように、神はすべてのことを定めてくださった。だから、この試練も、私がキリストに似た者となるために与えられているのだ。祝福のために神から与えられているのだ」ということを確信しているのである。ヨセフは、試練の中で兄弟たちのことやポティファルの妻のことを全部忘れたわけではなかったが、その試練の中にあっても感謝の心を失わず、神を喜ぶ心を常に持って、「神がこの事によっても私を祝福してくださる」という確信を持って歩むことが出来たのである。

       ヨセフが良い意味において兄弟たちのことを一時も忘れていなかったということは、ヨセフの兄弟たちと再会した時によく表われている。その時、ヨセフは兄弟たちを見て、「この者たちは私にひどい罪を犯した。今こそこの人たちに仕返しができる」とは全然思っていないのである。自分の兄弟の罪を、神への恐れと知恵を用いて取扱い、兄弟たちが悔い改めるように導く機会が与えられたと、ヨセフは思ったのだ。そして、実に驚くべき知恵をもって、兄弟たちを悔い改めと救いに導いたのである。

       兄弟たちが表われた時に、感極まって「私はヨセフだよ」と言って、「よかった。よかった」と言って泣いたり踊ったりしてもいい筈である。しかし、それは「ベスト」ではないのだ。ヨセフは兄弟たちの心の問題をよく知っていたが、彼らを少しも憎んではいない。再会したその瞬時にヨセフは、この兄弟たちを正しい悔い改めに導くにはどうしたらよいかを深く考え、実に慎重に知恵をもって彼らを取扱ったのである。ヨセフは、ポティファルの家でも監獄でも最も大変な人間たちを取扱う働きをずっとしてきたので、その知恵は与えられていた。

       殺人の罪はとんでもないものである。ヨセフの兄たちが犯した罪は実に大きい。その意図は殺人であり、兄弟殺しであった。ルベンが犯した罪もとんでもない罪であったし、ユダも大変なことをしたし、シメオンとレビもヨセフどころか一つの町全体を殺してしまったほどであった。この兄弟たちは、普通の教会員として考えられるような人たちではなかったのである。教会の中で一人以上の人を殺したことがある人は少ないだろう。そういう意味で、この兄弟たちは実に大変な人たちであった。その兄弟の心を正しく取扱うように知恵を尽くし、緻密な取扱いをしている。その取扱い方を見れば、ヨセフには微塵だに憎しみの心はなかったことがわかる。

       なぜ憎しみがないのか。それは、すべてのことを神からのものとして受けていたからである。そのことをヨセフは自分の兄弟たちにも説明している。「あなたがたは罪を犯したが、神には御計画があったのだ。神の御計画の中にあって、あなたがたの罪は、父ヤコブを救うため、またあなたがたを救うために、神が許したものであった」と言うのである(創世記50章20節)。兄弟たちが悪い謀を成し遂げることを許したという事実の中に、神の良い目的があることをヨセフは悟り、確信していた。だから、そのような場にあっても、「私にはそのことがよくわかっていますから、恐れないでください」と、兄弟たちに言えるのである。これが成熟したキリスト者の信仰であり、私たちの見習うべき模範である。

       その反対の道は、試練の二次的な源にばかり気を取られてしまうという道だ。ヨセフとは違い、そのような人々は試練から学ぶために必要な霊的力を失ってしまう。彼らは憤りと苦々しさに満ちるようになり、荒野のイスラエルのように空しくつぶやくような日々を送ることになる。そして、荒野のイスラエルのように、その絶え間ない不平の結果として、教訓を得るための試練は長引くことになるのである。神は、私たちにとって学ぶ必要のあることを教えてくださるのである。神は、私たちを御子の似姿になるように、あらかじめ定められた。神は決してそのプロジェクトを中途で断念されることはないのである。

       ここに、この真理を知る意味と目的がある。私たちは、常に神に目を留めるべきである。神には永遠の御計画がある。神に目を留めて自分の問題を取扱い、自分がキリストに似た者となるためにこの事をも神は与えてくださったのだと知るのである。究極的には、それしかない。万事が神の御計画と目的とのゆえにすべてが益となるよう共に働く。「そのことを知っている」と言うとき、それは自由を与える知識である。ヨセフは縛られていながらも、心は本当に自由であった。他の人々に対して怒る必要もなければ、不平を言ったり、苦々しくなることに人生を費やす必要は何もない。すべてのことを主から受け取り、明るさと感謝の姿勢をもって神の御旨とその御国を求めることができるのだ。

       「でも、私がこの失敗をしなかったら、こうはならなかっただろう」と思うにしても、最終的には、それも神の御計画の中にあるということを知ることが私たちには重大なのだ。私たちは皆罪人である。もし、他のことのすべてが神の御計画に入っているけれども、自分たちの罪はその中には入っていないのなら、私たちはもうおしまいなのだ。取り返しの付かない間違いをしなかったような人間は一人もいないのである。誰でも、とんでもない間違いをしたことがある。誰もが、とんでもない罪を犯したことがある。だからと言って、「神の御計画にあったのなら、それは神のせいなのだ」ということにはならない。それは最初に説明したとおりである。

       自分の罪は自分の責任である。自分の間違いも自分の責任であり、自分の愚かさのせいである。そのことを認めなければならない。「でも、神の御計画だと言ったではないか」と言うなら、確かにその通りなのである。確かに、あなたが自由に行なうことも神の御計画の中にあるのだ。神に強いられてすることは一つもない。「自分の失敗も神の御計画の中にあるなら、失敗してもよいのではないか」という話にはならない。「神を愛する人々」というところに戻って、神を愛することの意味は何なのかを思い起こしなさい。神のせいだと言い始める者は、決して神を愛する人ではない。

       「私の失敗も神の御計画にあったのだ」ということを知るときに、最終的に神はその事を通しても導いて教えてくださることを知るのである。自分は愚かなので、その失敗を通してでなければ学べないことがあったのだ。その本当の自分の状態を悟らされて、本当の意味でへりくだらせられるのである。もっと素直に神に従い、もっと神の真理を真剣に求めることができるように導かれるのである。

     

    知っている

       「神は、あらかじめ知っておられる人々を」という言い方は神の予知を表わすものである。実は、このことは組織神学の中で議論されている。アルミニアンの解釈は次のようなものになる。すなわち、「神は人間の歴史をご覧になって、例えば、田中さんに真理が示されても田中さんはそれを信じないのを見る。また山田さんに真理が与えられても、山田さんも信じなかった。ところが、小林さんに真理が与えられると、小林さんは信じた。それで神は、田中さんと山田さんを選ばずに、小林さんを選んでくださった」とアルミニアンは説明するのである。最初にキャンパス・クルセ−ドのリ−ダ−からそのような説明を聞かされたときに、私も「ああ、なるほど」と思ったものである。「これで予定論の難しいところも、もう大丈夫だ。神が御計画をもってやっておられるのだから・・・なるほど、そういうことだったのか」と、素直に信じてしまったのである。9章を見ればそうでないことがよくわかる。

       しかし、もしそうであるなら、「どうして私は救われたのか」というと、「私には、田中さんや山田さんには無いものがあるから、私は選ばれたのだ。私は、何かの意味であの二人よりも優れているからだ。何か、宗教的に私の方が勝っていたからだ」ということになるのだ。それで、自分の救いは、自分の行ないとか自分の質の高さとか、最終的には自分の何かによる、ということになる。神はその勝ったところをご覧になったので、自分を選んでくださったことになる。が、決してそうではない。特にローマ人への手紙9章に入るとき、神の選びは私たちの行ないや功績によらないということをパウロは明らかに教えている。「救いが人間の行ないによるのであれば、恵みではなくなる」とパウロは言う。

       恵みは神から一方的に与えられるものであって、私たちの中に何か良いところがあったから与えられるのではない。それならば、この「あらかじめ知っておられる人々」という予知は何なのか。実は、この「知る」という言葉は、聖書の中ではまず「知識」を指すものではない。「知る」という言葉は、勿論、知識を得る意味に使われることもなくはない。しかしこの箇所では、「知る」という言葉はそういうものではない。「この人は機会が与えられたなら信仰を持つようになるだろう。だからこの人を選ぼう」というような知識の話ではない。「知る」という言葉を見るとき、例えば、「私は神を知る」という言い方がホセア書の中にある。まずホセア書4章6節を見てほしい。

    わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

       これは、神がイスラエルに対して裁きを宣言している箇所である。続いて、4章の1〜5節までのところを見てほしい。

    イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。だれもとがめてはならない。だれも責めてはならない。しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。

       最後の「母を滅ぼす」とあるのは、最終的にはエルサレムの話であり、神殿の話であると思うが、イスラエルは「真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ」と1節にある。「神を知らない」とはどういうことかというと、モーセの十戒の全部を破っていることなのだ。2節はそれを説明しているような感じである。「イスラエルが神を知らないというのは、神を恐れず、神を愛さず、神の命令を守らないからだ」と、ホセアは話している。「神を知る」とは、倫理の話であって、神との契約の関係の話なのだ。「イスラエルが神を知る」ということは、神を愛して神の御計画を守ることなのである。

       エレミヤ書や他の預言の書にも、「あなたがたは神を知らないので」という言い方が出て来たりする。それらの箇所の前後関係を見るなら、それは契約を破っているという話であることがよくわかると思う。「私たちは神を知っている」と言うとき、それは、いわゆるデ−タをハ−ドディスクに書き込むかどうかという話ではないのである。「知識」は倫理的かつ契約的なものであることを、この箇所は教えている。「わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう」(ホセア書2章20節)と書いてあるとおりである。「知る」とは、神との本当の契約関係を持つことなのである。

       同じように、「神は、イスラエルを知る」という言い方も出て来る。詩篇1篇の6節に、「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる」とある。「神は、知っておられる」というのは、何かのデ−タを持っているというような話ではなくて、「正しい者の道を守ってくださる」という契約の話なのである。契約の主として私たちを愛して助けてくださり、祝福してくださるという話なのである。だから、「神は知っている」と反対の言葉は「滅び失せる」なのである。それ故、「知らない」は呪いであり、「知っている」は祝福なのである。神は、「あなたがたはわたしを忘れたので、わたしもあなたがたを忘れよう」とイスラエルに言っておられる。その「神が私たちを忘れる」というのは「呪い」のことである。そして、「神が私たちを知っている」というのは「祝福」のことである。

       子どもたちが学んでいる創世記の中にも出て来ることだが、6章から9章までが大きなキアスマスになっており、そのキアスマスの一番真ん中が8章1節で、そこには「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」と書いてある。日本語では「心に留めておられた」と翻訳されているが、へブル語では「忘れる」の反対語の「覚える」という言葉が使われている。その「覚える」の意味は祝福して守ることであるから、「覚える」も「知る」もそのような契約の愛と契約の祝福を表わす言い方なのだ。もう一つ、創世記の中にある有名な箇所でよく皆さんが知っている箇所がある。それは18章19節である。

    わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。

       ここで神は、どうしてアブラハムを選んだのかを私たちに教えている。「この目的をもって、わたしはアブラハムを選んだのである」と神は言っておられる。新改訳では動詞は「選んだ」と訳されているが、文語訳は「知れり」と訳されている。そしてへブル語も「彼を知って」とあり、「彼を選び出した」とは書いてない。神はアブラハムを知って、そうされたのである。現代日本語で「彼がこうなるために彼を知った」と言うと変に聞こえるので、その意味に従って「彼を選び出した」と意訳したのである。だから、「知る」という言葉は、へブル語では契約関係を表わす言葉なのである。「神は、アブラハムを知った」ということは、神が積極的に契約関係をアブラハムに与えてくださったということなのだ。それが「知る」ことである。日本語なら、「選び出す」ということになってしまうわけである。

       ローマ人への手紙8章29節で、「神はあらかじめ知っていた人々」と言っているのは、私たちもアブラハムと同じように神との契約関係を持つように、最初から神は私たちを「知っていた」「選んだ」ということである。だから、「あらかじめ知った」と言うのは、いわゆる予知というものではない。つまり、単に前からそのデ−タを持っていたという話ではないのである。これは契約の愛のことである。だから、「あらかじめ選び出した人々を」という意味になるわけである。来週その続きのところを学ぶけれども、神は、私たちを契約の愛をもって選んでくださった。契約的な意味で神は私たちを知ってくださった。その意味が「知る」という言葉の中にある。そのことをまず覚えたいと思う。

       パウロがここで永遠の神の御計画について話す目的は、私たちがヨセフやヨブのように、神に目を留めて歩むことができるようになるためである。そして、神は私たちのことを永遠の初めから知っておられるということを覚えさせるためである。神は、すべてのデ−タを持っておられるのは勿論であるが、そんなことよりも、神は私たちを愛しておられて、アブラハムを選んでくださったのと同じように神は私たち一人ひとりを選んでくださったことを覚えさせるためである。

       神がアブラハムを選んだとき、はっきりした目的をもって選んでくださったが、私たちもそうなのだ。簡単に言えば、私たち一人ひとりが主イエス・キリストに似た者となるようにと、神は永遠の初めに私たちを選んでくださったのである。そして、私たちの毎日の生活にあるすべての事は、最終的にその目的のために与えられているものである。毎日の生活を送るときに、そのことをしっかり覚えて、本当にヨセフのように知恵を用いてベストを求めて神の御国を求めなければならない。大変な試練が与えられても、心の中の感謝と喜びを失ってはならない。「この人が」とか「あの人が」というような思いは一切いらない。目的は私たちには明らかなのだから。

       私たちは常に神の御前にあって神と共に歩んでいる。私たちの羊飼いは主イエス・キリストである。私たちの羊飼いは、常に私たちを守って導いておられる。そのことをしっかりと覚えるために、聖餐式も与えられていると思う。私たちは罪人であるため、神が私たちを大いに祝福しておられることを忘れてしまったり、自らの愚かさによって混乱してしまうことがある。つまり、罪人は「自分は神と共に歩んでいる」ということを忘れがちなのである。そのことを忘れてしまうと、周りの人や状態ばかりが目に入るようになる。そして、不安になったり、「なぜ。どうして。」という気持ちになったりする。

       神が私たちを祝福するために不思議な御計画を持って導いてくださることを覚えて神に感謝をささげることも聖餐式の一つの目的であると思う。罪を悔い改めて、神がそれほどまでに愛してくださったことを感謝するのである。主の晩餐は、神の大いなる愛を思い起こさせるために十字架に立ち帰る時である。聖餐式のパンと葡萄酒によって私たちは主イエスの御恵みといつくしみとを思い起こさせられ、またこのローマ書8章のパウロの言葉を思い起こさせられる。

    では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

       そして、聖餐式において私たちは、神に、その契約のしるしを見せるのである。パンはキリストの御身体を表わし、葡萄酒はキリストの血を表わしている。この契約のしるしを神に見せて、「どうか、神さま、キリストの契約の血を覚えて、御自分の目的を私たちにおいて果たしてくださいますように。私たちが主イエス・キリストに似た者となるように、どうか、神さま、働いてください。助けてください。祝福してください」と祈り求めるのである。その祈りをもって、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年2月4日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章28節 (3)

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