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    ローマ人への手紙8章31〜32節


    8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

    8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

    2001.02.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    これらのことから何が言えるか

    8章31〜32節

       先週一緒に考えた8章28節から30節までの箇所は、8章の特に17節からの主イエス・キリストにある望みについての結論である。31節から8章の終りの39節までの段落は、1章から8章まで全体の結論として見るべきものであると思う。つまり、パウロは31節の箇所で「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言っているが、「これらのこと」というのは1章からずっとここまでの全体を指している話なのである。パウロは福音をローマの教会に説明している。その説明において、非常に大切なポイントを繰り返し強調している。パウロが話している福音は、旧約聖書にある神の御恵みの教えと全く同じであることをパウロはずっと強調している。

       同時に、新しい契約の話は旧約聖書の約束の成就なのだということを強調している。キリストにあって新しい「良い知らせ」が与えられている。それは、御子なる神御自身が私たちの罪を負って十字架の上でその罰を受けてくださり、罪と死とサタンに対して勝利を得てくださり、よみがえって天に昇られて御父の右に座して支配しておられるということである。復活のキリストが王座に座ってすべてを支配するところまで行かなければ、「福音」にはなっていないのである。まだ「良い知らせ」或は「良きおとずれ(Good News)には至っていないのである。

       ただ私たちの罪のために死んでくださっただけで終わったのではない。主イエス・キリストは死んでくださって、よみがえられて、天に昇り、神の右に座して万物と全歴史を支配しておられる。そこまで行かなければ、本当の意味での「福音」にはまだなっていない。神の右に座しておられる主イエス・キリストの御支配を指すときに、私たちは主イエス・キリストと共にすべてを相続することをも指しているのである。

       私たちがキリストと共に栄光を受けることは、8章17節からのところの話である。そして30節の最後のところで、「義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」というところで福音の説明は終わっている。このことは、キリストが復活されてすべてを支配しておられることが大前提となっている。それだから、万物を支配しておられるキリストと共に、私たちにも栄光が与えられるのである。それで福音の最後までいくという話なのである。パウロは1章から8章まで、ずっとそのことを説明してきたのだ。

       全体の流れを簡単に整理すると、まず1章18節から3章20節のところで、私たちは皆罪人であって救いを必要としているものであると話している。それから、義と認められることについて話す。そして、聖化について説明し、主イエス・キリストにあって私たちはクリスチャンとして罪から解放されて成長していくものであることを教え、そして栄光について説明する。3章21節以降では、義認や、キリストが私たちのために死んでくださるという賜物、神の愛、聖化、そして栄化などについてパウロは説明している。

       そして今、「では、これらのことからどう言えるでしょう」と言っているわけである。この質問は、今までの話のすべてを指している。私たちは神に逆らい、神を憎んでいた者であった。そのような神の御怒りを受けるべき罪人であった私たちを神は愛して、御子キリストにあって義と認めてくださった。そして私たちに御霊を与えてくださり、私たちの心の中で働いてくださり、私たちが段々と罪から解放されていって、最終的に主イエス・キリストと共に栄光を受ける者とされたのである。

       「では、これらのことからどう言えるのでしょう」と、パウロは私たちに尋ねている。新しい契約の福音の話全体を見たときに、どう言えるのだろうか。この31節の質問によってパウロは福音の大きさ、その偉大さ、素晴らしさを指して、読者に尋ねるのである。これほどに素晴らしい救いの福音を見たならば、どう応答するのか。どう言えるのか。この問いは後に続く根本的な三つの問いによって、さらに明確にされている。

     

    31b神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

       まず、31節の後半で、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とパウロは聞く。これが第一の質問である。そして、33節で「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」、同じ意味で34節で「罪に定めようとするのはだれですか」と尋ねている。それが第二の質問である。第三の質問は35節の「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」である。この三つの問いをもってパウロは福音の素晴らしさを私たちに考えさせている。これらの問いは、同じ段落の他の問いやそこで述べられていることによって答えられている。

     

    神が私たちの味方であるなら

       パウロの説明は「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」という質問で始まっているが、これは福音の基本的真理を述べたものである。この「敵対する者」とは、直接的には当時のローマ帝国のことである。ローマにいるクリスチャンはローマ帝国と戦わなければならなくなる。ローマ帝国は当時の世界だけでなく、全歴史の中で最も力ある巨大帝国である。ダニエル書にある四つの獣の幻を思い出すなら、ローマ帝国はその四つの帝国の中で最も恐ろしくて強い帝国である。神を信じるよりも裸の力を信じる帝国であった。極めて冷酷かつ残酷で、政治的な力の維持のためには手段を選ばないと言うよりは、とんでもない手段を実に巧みに選んで支配する帝国であった。そのローマ帝国が敵対している。そして、これからもっと激しく敵対するものとなるのである。

       それは歴史の答えである。パウロの時代では教会に敵対するのがローマ帝国であることは誰もが感じていたので、その中で「だれが私たちに敵対できるでしょう」と言うなら、「宗教熱心なのはいいが、ちょっと熱狂的になりすぎて頭がおかしくなってるのではないか」と思われても不思議ではない。パウロと、僅かな漁師の弟子たちと、取税人をやめたマタイ、医者のルカ、他にも一握りの人たちしかいないのである。教会もまだ非常に小さくて弱かった。コリントの教会のように礼拝の時に酔ったりする者もいるほどに教会はまだ混乱していた。ローマの教会もいろいろと大変な状態にあった。そのような状態で、いったいどのようにしてローマ帝国と戦うと言うのか。

       その当時、教会のリーダーたちの中で社会で認められたリーダーは殆どいなかったのだ。パウロは認められていた者の一人であるが、他はガリラヤの漁師たちである。その人たちをリーダーにして巨大なローマ帝国を倒すと言うのか。とても考えられない話である。使徒たちの中でパウロだけが、本格的な教育を受けた人で、クリスチャンになる前に当時の社会で卓越したリーダーとして認められていた人間であった。他の人たちはごく普通の人と思われていたであろう。実際に私たちがペテロを見てもヨハネを見ても、とても普通の人とは思えない素晴らしい人たちであることがわかるけれども、当時の社会はそうは思っていなかった。

       紀元70年に神殿が破壊された時には、パウロもペテロも皆殺されて、ヨハネだけがもしかして生き残っていたかも知れない状態であった。他のリーダーたちの殆どは死んでいた。教会の迫害はますます激しくなっていった。テモテもテトスも既に死んでいたと思われる。というのは、紀元百年頃の教会のリーダーたちが書いたものが今でも残っているが、その神学的レベルは非常に低いのだ。たいしたものは出なかった。パウロたちが死んでからの20〜30年間の教会は、御言葉をもって深く教えることのできる優れたリーダーはいないかのような状態にあったのだ。その人たちがローマ帝国を相手に戦ったのである。

       言い換えれば、今の私たちの教会よりも弱い状態にあったとも言える。教会の建物など一つもない。神学校もなければ、教育を与える施設もシステムも何もなかった。だから、紀元100〜120年頃の書物はパウロの手紙と比べれば実に内容に乏しい見栄えのしないものであった。その弱い人たちがローマ帝国と戦い、そして勝ったのである。それ故、パウロがここで話していることは単なる熱狂的な信仰とか言い過ぎのことではないことがわかる。小さい者が大きな口を叩くというようなことではない。すべてが現実のことであったのだ。「神が私たちの見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか」とパウロは言う。この問いは、その時代のローマの人たちにとっては実に現実的な意味があったのだ。

       私たちは、二千年前のことを見るとき、実に驚くべきことを見るのである。この私たちと変わらない弱い足りない信者たちが、御言葉に立って戦った。私たちほどには御言葉も教えられてはいなかった。聖書の教えを私たちほどには知らなかった。その未熟で弱いクリスチャンたちがとにかく御言葉に立って続けて主イエス・キリストに従うことによって、大ローマ帝国は倒され、神の御国は続けて成長しているのである。私たちは今、そのことを歴史の事実として見ることができる。実に不思議な神の摂理とその御恵みの大きさをここに見ることができるのである。

       ローマ帝国時代のクリスチャンの状態は、旧約聖書のある時代に似ていたと言えよう。モーセたちがエジプトから出て荒野を旅した時に、モーセはカナンの地を探るために十二人を遣わした〔民数記13章)。彼らはカナンの地が確かに密と乳のしたたる豊かな土地であるのを見て喜んだが、そこには巨大な民がおり、町々には城壁があり、武器を持っており、多くの戦車があり、しかも戦に長けたネフィリム人や巨人アナク人の子孫がいるのを見たので非常に恐れた。イスラエルは戦う訓練は一切していなかった。イスラエルは戦う方法も知らなければ武器もなかった。戦車も武器もある軍隊で、巨人で、しかもその数は自分たちよりも遥かに多い。それと戦うのかと思うと恐れたのである。

       偵察から戻った12人のうちカレブとヨシュアを除く10人が「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。アナク人の子孫を見た。自分たちがいなごのように見えた」と言って全会衆を震え上がらせた。諦めるしかない。絶対に勝てない。そう思うしかなかった。知恵ある者たちも「さあ、一人のかしらを立てて、皆でエジプトに帰ろう」と言い出す。そのような敵を倒すことは絶対にできないと思ったのだ。その結果40年間荒野の中をさ迷わねばならなかった。

       そして、その40年間をかけて一つのことだけを学ばなければならなかった。即ち、神に素直に従うことである。「行け」と言われれば行く、「止まれ」と言われたら止まる。「言うことを聞く」というそれだけの事を学ぶのにイスラエルは40年間かける必要があったのだ。40年間の訓練が終わって、ヨシュアを頭にしたイスラエルはカナンの地に入る。ヨルダン河に着いた時、それは渡れるような場所ではなかった。しかし、40年間も従う訓練を受けた民は、神の導きを信じた。神はヨルダン河の水を分けてイスラエルを渡らせた。それも訓練であった。神を信じて雄々しく進むのである。河を越えると、大きな城壁を持つエリコと戦わねばならなかった。神の作戦を聞かされた時に、民は皆びっくりしたであろう。神はヨシュアに次のように仰せられた。

     

    見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。

       城を攻略する作戦として、「これは何の話なのか」と思ったであろう。しかし、黙って命じられた通りに従うことを40年間も学んだので、民はその通りを行なうしかなかった。すると、神の約束の通りにエリコの城壁は崩れ落ちたのである。カレブとヨシュアは、巨人と戦い、巨人の町々を滅ぼした。それでアナク人は、ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残るだけとなった。後にダビデが戦った巨人ゴリアテはガテの出身であった。殆どの巨人を倒してヨシュアたちは勝ったのである。

       それは、後のローマ帝国をキリストの教会が倒したのと同じようなことだったと言えよう。パウロが語っていた教会の人たちは勿論、武器などを持ってはいなかったし、イスラエルに与えられた奇跡もなかった。幼稚な時代には神は手を握って一緒に河を渡ってくださった。イスラエルはまだ子どもであったので、奇跡によって教えたりした。しかし、新しい契約の時代には奇跡(しるし)はもう与えられなかった。新しい契約の時代は、紀元70年にエルサレムの陥落と神殿の崩壊をもって始まったと考えてよい。キリストの誕生から神殿がさばかれた紀元70年までの70年間は契約の移行期であったと言ってよい。

       紀元70年以降は基本的に奇跡はもうなかったのだ。もう大人として歩まなければならないのだが、大人の資格はどこにあるかというと、聖書を持っているだけなのである。ほかは何もない。本当に教会は弱い存在であった。今の中国の教会のようである。神学もはっきりしていないし、いろいろと変な問題があったりしている。それでも続けて主イエス・キリストを信じて歩む。中国のような大国であっても、その火を消すことはできない。消そうとすれば、それは広まっていく。昔のローマ帝国のクリスチャンたちはそのようなものであった。

       それ故、「だれが敵対できるでしょう」と言うとき、私たちにとってみれば確固たる歴史があるわけである。ヨシュアの時代の歴史もあれば、ローマ帝国の時代の歴史もある。私たちの時代の教会を見るとき、「こんなに教会は弱い。こんなに足りない。どうしてあなたは千年王国後説になれるのか」と思うかも知れない。事実、私もそのように聞かれたことがある。しかし、ローマ帝国の歴史を知り、そして神の約束も信じて今の時代を見るならば、神の教会が勝つことは信じ難いことではない。教会に目を留めて、それを見るわけではない。教会の現状を見るならば、確かに弱くて勝てそうにないような気にもなる。しかし、神がどのように旧約時代のイスラエルを導かれたか、どのようにローマ帝国の時代の教会を導いてくださったかを思い起こして、神の約束に目を留めるなら、千年王国後説になり得るのである。

       まさに「神が私たちの味方なら、だれが敵対できるでしょうか」なのである。これは旧約聖書にある「神がともに居てくださる」という約束の話なのだ。その約束は繰り返し旧約聖書の中に出て来る。この「神が味方であるなら」も、それと同じ意味である。神がともに居てくださるなら、必ず守られて勝利するのである。神が働いてくださるのだ。働きの器は取るに足りないものであり、あまり美しい器ではないとしても、栄光はその器にあるのではなく、その器を用いてくださる神のものである。

       パウロはローマ書の初めから、自分の福音はキリスト以前の旧約聖書の御言葉に教えられている福音と本質的に同じものであることを強調している。無論、それをパウロが「良きおとずれ (Good News)」と言うからには、そこには何か新しいこと (new) があるはずだ。旧約聖書はメシアの到来を予め告げていたが、神が救い主を世に遣わされることが何を意味することになるのか、ほんのおぼろげな輪郭しか見ることができなかった。キリストにあって約束が成就されたことにより、「神の救いの愛」の真理の全容が、明確さと完全さとをもって啓示されたのである。そして、そのことによって、預言そのものもさらに深い意味を持つものとされた。

       神御自身が人のかたちをとられて、私たちの罪の身代わりとして十字架上で死なれ、死人のうちよりよみがえられることを、だれが想像できたであろうか。同時に、この良きおとずれ全体は、神が御自分の民とともにいてくださることによって彼らを害から守り、その為すことすべてにおいて彼らを祝福してくださるという真理に要約されるのである。言い換えるなら、神は御自分の民の味方であられるのだ。昔の父祖の時代から、聖書は神が愛し祝福した人々のことを私たちに語っている。神が彼らの味方であられたので、だれも彼らを打ち負かすことはできなかったのである。神は、ヨセフやモーセの味方であられたのと同様に、私たちの味方であられるのだ。

     

    惜しまれなかった方

       しかしながら、神が私たちの味方であられることが何を意味するかは、ヨセフやモーセに示されたよりも遥かに豊かに私たちに啓示されている。彼らは、福音の完全な現われを見ることはできず、神が御自分の御子を彼らにお与えになることも知り得なかった。それゆえ、私たちは、彼らよりもはるかに堅固で明らかにされた保証の土台を持っているのである。神が私たちの味方であられ、私たちとともにおられることを決して疑うべきではない。なぜなら、神は御自身の御子を与えて、私たちのために死に渡されたからである。

       「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」とパウロは言っているが、これを、「敵対できる者」との関りにおいて考えてみていただきたい。神が私たちの味方であることを信じてすべての戦いに出て行っても、戦いにおいては実際に傷つくであろう。実際にいろいろな困難や苦しみに遭うであろう。そんな時には、「これはなんだ。神が味方なのに、どうしてこうなるのか」と思うかも知れない。しかし、神は私たちに一番大きな祝福を与えてくださったことを忘れてはならない。神は御自身の最愛の御子を私たちに与えてくださった。これ以上の祝福はないのである。

       もし神が、御子をさえ私たちに惜しまずに与えてくださるなら、他の小さな祝福を与えてくださらない筈はない。神は御子に劣る賜物をもすべて私たちに与え給うのである。神がすべての中で最も偉大な賜物を私たちにお与えになったのに、そのうえで重要性において無限に低い他の賜物を与えずにおかれることなど、どうしてあり得ようか。キリストという賜物をお与えになりながら、私たちがキリストとその御国のために生きるのに必要な賜物のすべてを神がお与えにならないことがどうしてあり得ようか。

       私たちが神に祈り、「どうか父なる神さま。良いものを与えてください」とお願いするとき、神は悪いものをもって答えることはなさらない。「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょうか。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょうか」とキリスト御自身が言っておられる。私たちが良いものを神に求めるなら、絶対に良いものが与えられるのだ。神は、御子キリストを与えてくださった。そして、キリストとともに、すべての良いものを神は与えてくださる。もしキリストとその御国のために生きるのに必要なより劣った賜物のすべてを神が私たちにお与えになるのなら、だれも神の民に敵対して勝利を収めることはできない。

       神は、御自身が召してくださった働きのために私たちが必要とする一切を必ずお与えになるのである。これが神に信頼し、あきらめずに祈り続けられる根拠の一つなのである。神が耳を傾けてくださること、また私たちにとって益であるものを喜んで与えてくださることを私たちは知っている。また、キリストにあって、神が惜しげなくすべてのものを与えてくださることを知っている。それゆえ、神が約束しておられる祝福を、確信をもって、大胆に祈り求めることができるのである。その確信とは、神が必ず祈りを聞いてくださり、私たちにとって益であるすべての祝福を授けてくださるというものである。

       これは試みの中で慰めや力を得ることができる根拠の一つでもある。もしも神が惜しみなくキリストと共にすべての劣った賜物を私たちにお与えになるというなら、28節をはじめとする前の部分で読んできた観点からみて、生活におけるあらゆる環境を神からの賜物として見做し、また試練や苦悩が私たちを祝福するための神からの手段であると見做さなければならない。神が私たちにお与えにならないものなど一つもないのである。「むしろないほうがよい」と私たちが思うようなことでも、実は私たちに必要である喜ばしくない事柄のすべても含めて、神は最終的に私たちにとって祝福となるすべてを与えてくださる。

       “ローマ帝国”は敵対し、人々は私たちに敵対して激しく迫害して殺すとしても、私たちに主イエス・キリストを与えてくださった神が私たちの味方として立ってくださり、すべての必要を与えてくださり、試練さえも祝福として与えてくださるのである。そのようにこの箇所を理解しなければならない。つまり、御子と一緒にすべての良いものを私たちに恵みとして与えてくださるのである。そのように、私たちに与えられている「すべて」を、御子と一緒に与えられる祝福として見るべきなのだ。

       病気も、それは御子と一緒に与えられた祝福だと考えるべきである。試練も、迫害も、貧しさも、すべて、神から与えられたものであり、御子と一緒に祝福のために与えられたのである。そのように考えて、「誰も私たちに敵対できない」ということを知るべきなのだ。神が私たちに御子キリストを与えてくださったのだから、すべての良いものを私たちに与えてくださる。私たちの理解を越えて、必要なすべてを神は与えてくださる。「そのことを私たちは信じなければならない」とパウロは教えている。

       日本で生活する私たちの場合には、毎日を脅かされるような敵がいるわけではない。ダビデの詩篇を読んでも、敵がどのようなことをするかがよく描かれているが、私たちは、詩篇を読んでも敵についてそれほど実感が持てるものではない。「ダビデは大変だったな」と思うかも知れないが、自分にも敵がいるのだという認識はあまり持っていないのではないか。私たちの場合、「あなたの敵は誰ですか」と聞かれたら、「えっ。あぁ。まあ。あの、その...」というような答えに成りかねない。敵が誰なのかを知らないほどに、私たちの場合は戦いがないのだ。

       私たちの場合、自分の罪、愚かさ、失敗、そして私たちの毎日の生活の中にある試練と呼ぶほどでもないような問題や思い煩い、それが私たちの戦いである。それならば、私たちはそのような事について、「誰が私たちに敵対できるでしょう」という信仰において考えなければならないのである。つまり、それらの事も神が与えてくださったのだ。そのような毎日の生活の中の罪や問題との戦いも、キリストと共に与えられる祝福であることを知らなければならないのである。

       もう一つ言えることがあるが、誤解しないように聞いてほしい。はっきりした敵がいて、その敵の攻撃がはっきりしたかたちを持って行なわれているときには、わりと簡単に立つことができるものである。妥協する者や逃げる者もその場合には、はっきりとわかるものだ。つまり、「死ななければならないなら、御免だ」という人たちは去っていくであろう。それは肉体の戦いなのだ。戦争のときに、戦闘中に勇気を持って突撃して誰かを救ったり倒したりすると、特別な栄誉として認められたりする。それはそれでよい。しかし、実際に戦争に行った人たちが言うには、戦闘が始まったらそんな勇気の是非を考えている余裕なんか無いのだと言う。

       戦場の兵士は、勇気を持って何かをしているとは思っていないし、皆が懸命に戦ったに過ぎないのだと言う。特別にそういう意味で勇気は必要ない。ただ一生懸命戦っていれば、機会が目の前に来たときに、反射的にそうするだけなのだと言う。それで、表面的に肉体と肉体がぶつかり合うようにして戦うことの方が、ある意味で難しいことではないと言えよう。戦いはどこにあるのか。何の戦いなのか。それがはっきりしないような戦いは、戦いが自分の心にあったり、もっと心理的にも複雑なものになったりして、難しくなると言える。だから、ある意味で、殺される危険があるとか厳しい迫害があったらどうしようかと思ったりするけれども、同時に、はっきり敵が見えないような戦いも難しいものだと言わなければならないと思うが、その戦いも、神から与えられているのだ。

       神が自分を愛しておられて、主イエス・キリストと共にすべての小さい祝福をも与えてくださることを確信して歩まなければならない。すべてのものはキリストと共に与えられている。神は最も良い時に最も良いものを与えてくださる。明日までに私たちに教会堂と土地が必要なら、神はそれを与えてくださるのだ。私たちは今必要と思っていても、神の御計画は違うのかも知れません。自分に与えられた状態の中で私たちは神を喜び、もっと良い知恵が与えられることを頑張って求めるのだ。今置かれている状態を喜び、そして感謝できなければ、もっと大きな祝福を求める資格はないということにもなる。感謝して求めるなら何を求めてもよいと、パウロはピリピ人への手紙4章で教えている。

       「感謝しないで求めるなら与えられない」ということも言える。御子キリストを与えてくださったのに、それでは感謝できないと言うのだろうか。「この祝福が与えられなければ、キリストが与えられても私は感謝できない」という態度で、キリストと比較するならばあまりにもちっぽけな祝福を求めるのか。キリストが与えられたという祝福と比べるなら、自分の救いでさえもちっぽけな祝福だと言うことができよう。神が主イエス・キリスト御自身を私たちに与えてくださった。それを覚えて、それを何にも増して大切なものとして本当に心から感謝するのでなければ、次の節に進むことはとてもできない。なぜなら、すべての良いものを、神はキリストと共に与えてくださるからである。

       すべての良いものを熱心に求めよ。神が、その良いものをあなたに与えようと望んでおられる。すべての良いものを、神は、キリストと共に与えてくださるであろう。但し、その最良のものがどれほど大きくて素晴らしいものかを忘れて他の良いものを求めるなら、実におかしいのである。主イエス・キリストに対する感謝の部分が、他の祝福を求める熱心や深さよりもはるかに深いのでなければ、おかしいのである。「神は、これほどまでに私を愛して御子キリストを与えてくださった」と思う心が何よりも深くて、キリストを愛するがゆえに「キリストの栄光のためにこれがほしい。神の御国のためにこれがほしい」という心になるはずである。祈りのあり方も変わるはずだと思う。

       そのような祈りの力を持つ民に対して、誰が敵対できるだろうか。史上最強の帝国であるローマ帝国も敵対できなかったのである。最終的にはローマ帝国の方が倒されたのだ。ロシアは70年間も教会を迫害し、スターリンとレーニンの時代のリーダーたちは、キリスト教を完全に消滅させることができると思っていた。20世紀に入った頃のアメリカも、ほとんどのリーダーたちは「もう少し科学が進歩して人類が発展するにつれて宗教は消えてなくなる」と思っていた。フロイドの心理学では、宗教を一種の精神病だと考えている。しかし、20世紀の歴史はどうなっていったかというと、人間を信じて人間の勝利を確信していた人たちが第一次世界大戦に陥り、世界大恐慌に陥り、また第二次世界大戦に陥ったり、冷戦に陥ったりした。20世紀の歴史は、次から次へと人間の醜い部分を暴露していくものとなった。人間が持つ悪がとめどなく溢れ出た。

       19世紀の終りから20世紀の初期のインテリ派たちは世俗的な考え方で構わないと思っていたが、21世紀に入ると「宗教が無ければだめだ」と思う人が急増している。20世紀には、人間はどんなに素晴らしい存在であるかについてよく語ったが、21世紀に入った今、人々は人間の悪の問題をどうしたらよいのかを考えている。20世紀は、その100年間のヒューマニズムに対する反論の歴史であったと言ってよい。しかし、キリストの教会は20世紀において大きく成長した。20世紀初期のアフリカで「私はクリスチャンです」と告白する者は5%以下であったが、今は50%に迫るほどになっている。その50%の一人ひとりが皆立派なクリスチャンだとは思わないけれども、5%時代よりも本当のクリスチャンの数はずっと多い。

       その100年間の成長を見るとき、実にすごいことだと思わされる。中国でも同じように、20世紀においてクリスチャン人口は激増した。ヨーロッパの世俗化は今でも続いているが、アメリカのキリスト教の中の聖書を信じるクリスチャンたちは20世紀の初期よりもいろいろな面でしっかり立つようになってきている。20世紀初期よりもずっとよく闘っているところがたくさんある。確かに、神の教会に敵対できるものはいない。神の教会は歴史を貫いて続けて成長し続けていくのである。

       御自分の御子をさえ与えてくださったその神が味方であるならば、私たちは恐れてはならない。神は、御子と共に他のすべての良いものをも与えてくださる。その約束は祈りの土台である。毎日の生活の中で与えられているすべてのものを、神が与えてくださった良いものとして、それを神から受けて、いつもキリストに対する感謝の心をもって歩むべきである。神への感謝の心がすべての力の源である。すべての戦いにおいて、感謝こそ私たちの力である。

       聖餐式の意味は何か。聖餐式の目的の一つは、感謝の心に戻ることである。聖餐式は感謝をささげるためにある。私たちは、日曜日に神に招かれて教会に集まっている。そして、自分の罪を悔い改めて神の赦しを受けるのだが、感謝をささげることこそ礼拝の中心であることを忘れてはならない。主の晩餐は、神が実に御自分の御子という賜物を私たちにお与えになったという事実を祝うものである。私たちは神の御前に来て、契約のしるしを神に示し、私たちとの契約を覚えてくださり、私たちを祝福してくださるよう願い求めている。神が私たちを愛して主イエス・キリストを私たちのために与えてくださった。それが福音の一つの中心的な主題であるが、聖餐式において、神は今日も私たちに主イエス・キリストを与えてくださっておられるのである。

       勿論、十字架の贖いの意味において与えるのではないが、その契約のしるしにおいて神が私たちに主イエス・キリストを与えてくださるのだ。神が契約のしるしを見て、私たちに対する契約の約束を覚えてくださる。私たちはその契約を聖餐式において新たにするのである。私たちは神にこう申し上げているのだ。「あなたが御自分の御子を私たちに与えてくださったことを覚えてください。どうか、主よ、私たちがあなたの律法を守り、あなたの御国と賛美のために実を結ぶ働きをするために必要な他のすべての祝福を私たちにお与えください」と。神の大いなる賜物への感謝の心をもって、私たちは自分自身を神にささげ、その祝福を願い求めるのである。

       父なる神は、「わたしはあなたを愛して、わたしの独り子を与えた」ということを神はそのパンと葡萄酒を通して私たちに語っておられる。そのパンを受けるとき、その葡萄酒を受けるとき、キリストを神から受けるのである。長老たちが神の代表としてパンと葡萄酒を渡すが、聖餐式のパンと葡萄酒を与えるのは神御自身であり、主イエス・キリスト御自身である。神からキリストが私たちに与えられる。それ故、感謝の心に溢れて私たちは聖餐式を守り、「これほどに愛してくださる神が私たちの味方であるなら誰が私たちに敵対できるのか」という御言葉の約束を覚えて、勇気を持って主イエス・キリストに仕えることを誓うのである。そうすれば、これからの一週間を、感謝と勇気を持って歩むことができる筈である。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年2月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章29〜30節

    ローマ人への手紙8章33〜34節

    福音総合研究所
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