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    ローマ人への手紙8章33〜34節


    8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

    8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

    2001.02.25. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    罪に定めようとするのは誰か

    8章33〜34節

       ローマ人への手紙は特に義と認められることについて深く教えている手紙なので、この8章の最後のところに義認のことが出て来ても決して新しい話をしているのではないことは明らかである。8章の中で、その義認の基本的なポイントに戻ってもう一度そのポイントを思い起こして考えることは、前後関係において非常に大切な意味があると思う。今見ている31節から39節までの箇所は、先週も見たとおり、基本的に三つの問いとそれに対する答えをもって成り立っている。

       導入となる「これらのことから、どう言えるでしょう」という問いかけは、1章からの議論全体を指しており、今まで話したことの全体を踏まえるためのものである。今まで語ったことを更に深く瞑想するために、パウロは三つの質問を投げ掛けている。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか」という問いについては先週すでに考えた。そして、33節の「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」が二番目の問いである。三番目の問いは、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」である。このうち第二の問いは、ローマ書の最初の四章における大きなテーマである「義認」に関わるものである。今日は、その二番目の問いについて一緒に考えたい。

     

    告発者

       「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という質問は「罪に定めようとするのはだれですか」という質問と同じ意味である。私たちを訴えるということは、つまり私たちを罪に定めようとすることにほかならない。この問いがどのように与えられているかを見れば、その答えは示唆されていることがわかる。「神に選ばれた人々」を訴えるのはだれか。この直前の文脈で「私たちの救いは永遠の昔に神によって計画されたものである」と教えられたばかりだ。ある者が「神に選ばれた人々」を訴えて成功し、それによって彼らを滅ぼしたとなれば、神の御計画は台なしにされたことになる。

       だが、罪の問題に対する聖書的答えは、ただ神に選ばれた者は訴えられることはないということではない。単に、彼らが咎められることを神がお許しにならない、ということではないのだ。むしろ反対に、彼らは訴えられて有罪とされるのである。但し、その罰が既に支払われたがゆえに、彼らは自由となることができるのである。パウロは少し前に、「神は私たちのためにすべてを働かせて益としてくださる。そして、私たちをキリストに似た者にするように導いてくださる」という神の永遠の御計画と私たちの人生における神の働きについて話した。

       「私たちに敵対できるのは誰か」について、先週一緒に見た。神がすべてにおいて私たちを祝福して導いてくださる。そこには外からの敵に対する解決がある。しかし、罪の問題はまた別の問題なのだ。主イエス・キリストを信じた後でも、私たちは罪人なので、私たちを訴える者は沢山いる。

       まずサタンは私たちを訴える者である。サタンは、私たちの罪を見て訴えるだけでなく、ヨブ記にあるように、偽りをもっても私たちを訴えようとする者である。また、私たちが誰かに罪を犯せば、その被害者は私たちを訴える者である。そして、私たちの良心も私たちを訴える。だから、ここでパウロが「私たちを訴えるのは誰ですか」と言うときに、表面的な意味でも誰も訴えることができないと言っているわけではない。「訴えに対する十分な答えがある」と言っているのである。罪人は訴えられるが、その訴えに対して十分に正しさをもって答えることができなければ、訴えによって潰されることになる。

       先程、会衆で詩篇32篇を交読したが、この詩篇32篇はダビデがバテ・シェバの夫を殺して姦淫したその罪を悔い改めたときに書いた詩篇である。ダビデと違ってサウル王は、最後まで罪を悔い改めなかった。今、研究所で一緒にマクベスの勉強をしているが、シェークスピアはマクベスの人物像をアダムとエバの話とサウルの話から借りて書いている。神に逆らうマクベスは決して罪を悔い改めない。悔い改めないがために心理的にどんどんおかしくなっていくマクベスをシェークスピアは巧みに描き出している。

       キリスト教を憎むあるアメリカの文学者は、マクベスについて「この劇は全体的に非常に暗くて、とてもクリスチャンの観点から考えることはできないものである」と言っている。また心理学者ジグムント・フロイトは、このようなシェークスピアの劇を見ると、シェークスピアを非常に嫌った。なぜなら、人間の「罪意識」についてフロイトが考えていることをシェークスピアは遥かの昔にそれを知り尽くしていて、そのすべてを巧みに網羅した劇を書いているからである。その劇を見ると、「先を越された」というような思いに陥るので、シェークスピアを嫌った。シェークスピアは、罪を犯す人間の真理を鋭く描いており、その罪を悔い改めないならば、心理的に人間はどうなってしまうのかをマクベスの劇において暴露している。

       マクベスもその妻も、完全に精神的に分裂していく。しかし、マクベスとその妻はそれぞれに異なるパターンで狂っていくのである。堕落していく罪人の心理は皆ワンパターンではないが、おかしくなっていくという点では同じである。罪を犯した者は良心の呵責に耐えられず、その「罪意識」に潰されていく。しかし、罪を悔い改め、罪を捨てるなら、その罪の呵責から解放されるのである。その罪の主観的な問題を解決しなければ、客観的な問題は解決されない。反対のことも言える。つまり、客観的な問題が解決されなければ、主観的な問題はいつまでも続くのである。だから、「義と認められること」について考えるとき、本当は客観的な話をしているのだ。「神の法廷において正式に私たちを訴えることができるのは誰か」という話なのだ。

       かつてサタンは悪しき告発者であったが、キリストの死がその告発者を神の御前から取り去った。サタンが神の法廷で私たちを訴えても、私たちのための十分な弁明がキリストによって備えられている。訴えに対する完全な答えがあるので、サタンの訴えは却下されるのだ。黙示録のヨハネの幻の中では、サタンは天から投げ落とされたことが記されている(12章9節)。そこでサタンは、「巨大な竜、悪魔、サタン、全世界を惑わす者、あの古い蛇」と呼ばれており、彼の使いどもも彼と共に投げ落とされたと書いてある。同10節では、サタンは「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされた」と記されているのである。

       「サタン」と訳されている言葉はヘブル語で「敵」を意味し、「悪魔」と訳されている言葉はギリシャ語で「そしる者」という意味である。この二つの意味は、ヨブ記のドラマにおける冒頭のストーリーで結びついているおり、サタンは神の御前に立ち、「ヨブは偽りの動機から神に仕えている」とそしって訴えるのである。ヨハネの福音書12章31節で、主イエス・キリストは「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」と言っておられる。サタンが裁かれることについては、ヨブ記にもあるように、サタンは神の御前で神の民を訴えることがもはや出来なくなるというものである。

       主イエス・キリストが十字架上で死んでくださってよみがえられた時、サタンは徹底的に裁かれたということなのだ。それで、客観的な問題が解決され、サタンは天から追放され、もはや訴えることはできなくなった。そのことは、私たちが肉眼で見たり耳で聞いたりすることのできる次元の話ではないために、私たちにはあまり大きな事として感じられないかも知れないが、これは実に大きな事であったことを私たちは覚えなければならない。御使いたちはいつ創造されたのかというと、万物が創造される最初のところで創造されたのだと私は思う。ヨブ記38節で、神は次のようにヨブに言っている。

     

    わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

       ここに神は御使いたちのことを「神の子たち」と呼んでいるが、その御使いたちは神が万物を創造するのを見て「喜び叫んだ」と言っている。だから、御使いたちは最初に創造されたのである。御使いたちは六日間の創造を見ていた。神は御自分が創造したものをご覧になってよしとされ、すべては非常によかったのだ。御使いたちも皆それを見て喜び叫んだのである。サタンはいかにして神の御前に立ち得たのか。なぜヨブを訴えることがサタンに許されていたのだろうか。それは、創造された時、サタンはケルビムの中で最も偉大な者として造られていたからである。ケルビムとは、神の聖さを守る特別な働きを持つ御使いの地位もしくは階級である。そして、六日間の創造の働きが全部終わった時点では、罪はまだ一切存在しなかったことがわかる。サタンも他の御使いたちも罪を犯してはいなかった。なぜなら、「神は御自分が創造したものすべてをご覧になって、よしとされた」と記されているからである。

       その時点ではまだ罪の問題は何もなかったのだ。ケルビムとしてのサタンの働きは、天において神の聖さを守る働きであったと思われる。というのは、この世におけるアダムとエバの働きが神の聖さを守るというものであり、二人にはエデンの園を守る働きが与えられていた。神の聖さを守って神のために働くはずのアダムとエバが罪を犯してエデンの園から追放されたとき、代わりにケルビムに、エデンの園の門に立って園を守らせたのである。それは、「天で果たすべき責任を、地で行なうことが命じられた」ということだと思う。アダムとエバは罪の堕落によって祭司としてのその働きが出来なくなって追い出されたのである。そのように、ケルビムの基本的な働きは神の聖さを守るものである。

       人間にも、祭司として最終的に神の聖さを守る働きが与えられている。サタンは堕落した時にその特別な地位を失ったが、アダムと同様、その基本的責任は継続されたのである。その働きは今も続いているが、それは甚だしく歪められてしまっている。それと同じようにアダムとエバも、罪を犯してエデンの園から追放されたけれども、この世で神の御国を築き上げる働きは続けられた。創造において与えられた働きは、変化はあったけれども、同じ働きは続いているのだ。ヨブ記を見ると、サタンは続いてその働きをしていることがわかる。

       サタンは、この世にあって地を行き巡り、そして神に訴えている。しかし、堕落して偽り者となっているので、誰を訴えるかというと、神の民を訴える者になっているのだ。サタンは極悪な人間に対する告発を携えてきたり自らの罪深い反逆を告白したりはしないで、むしろ神に選ばれた者たちに対する偽りや悪口を捏造するのである。それがヨブ記の中でサタンのしていることである。サタンは神の民を訴えるのである。そして、ヨブ記からわかるように、神はその告発を真剣に取り扱われた。サタンの告発は必ず応答されなければならないのである。

       バラムの例を考えてみよう。占い師バラムはバラクに買収されて、預言者としてイスラエルを呪うように頼まれた。しかしバラムは、直接イスラエルを呪うことは不可能だと知らされると、「イスラエルの民に罪を犯させることができれば、呪われるであろう」というサタン的なアドバイスを与えた。そそのかされたイスラエルの民はモアブの娘たちと淫らなことをし、モアブの娘たちの神々を拝み、偶像礼拝の罪を犯した。それで神の御怒りが燃え上がって民の上に神罰が下された。それがサタンの働きである。神の民を訴えるために、神の民が罪を犯すようにそそのかすのである。ダビデに対しても罪を犯すように誘惑してから訴えるのである。

       サタンの働きは神の民を訴えることなのだ。本当は神の聖さを守る働きをする筈だったのが、その働きを甚だしく曲げたかたちで続けているのだ。しかし、主イエス・キリストが十字架で死んで、よみがえられて、天に昇られた時に、サタンはもはや神の民を訴えることはできなくなった。「私たちを訴えるのは誰ですか」という問いに対する答えとして、これは非常に大切なポイントであると思う。サタンはもう私たちを訴えることはできないのである。クリスチャンたちがサタンの告発から自由であるのは、キリストがサタンを裁かれたゆえなのである。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証しの言葉のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」と書いてあるとおりである(黙示録12章11節)。

     

    他の告発者たち

       さて、私たちを告発し得るのはサタンだけではない。私たちが罪を犯した相手は全員、人の前のみならず神の御前で私たちを告発する権利がある。これに対する聖書的答えは、「神に選ばれた者」とは自らの罪を悔い改める者だということである。罪を悔い改めるということには、適切な場合において必要な償いをすることが含まれる。もし私がジョンズさんに対して罪を犯したならば、ジョンズさんは私を訴えることができる。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」と言うとき、「私たちが罪を悔い改めなくても、誰も訴えることは出来ないんだ。よかったね」という話ではない。クリスチャンは自分の罪を吟味して、その罪を真剣に取り扱いつつ神に従っていくということが前提なのだ。

       ジョンズさんに罪を犯したなら、ジョンズさんは私を訴えるので、私はその訴えに対して答えなければならないのである。お金を盗んだなら、それを返さなければならない。ジョンズさんに対して何か悪いことをすれば、それを取り扱わなければならない。罪が取り扱われてはじめて解放されるのである。罪がただしく取り扱われて、その罪から解放されているので、訴えられないのである。クリスチャン同士の関係においてもこれにつながる大切なことがある。アダムは罪を犯したときにエバのせいにした。そして、エバは蛇のせいにした。アダムとエバは未熟な子どものようなものであった。創造されたばかりの二人が幼稚であったのは事実である。同時に、大人になってもそれは変わらないことも事実である。それは私たちも自分の経験において知っているとおりである。

       アダムとエバは最初に罪を犯した時にそうであったが、数百年も生きていたので、200年経っても300年経っても、もしかしたらアダムは、「あの時、あなたがあの実を私に食べさせなければ、こうはならなかったのに」と、エバに言っていたかも知れない。もめ事があったりすると、エバは「これは全部おまえのせいだ」とアダムが言えば、「冗談じゃない。あなたのせいですよ。あなたがとめてくれなかったからじゃないの」と言う。そのような話になってしまうものなのだ。結婚カウンセリングの本を読んでみるがよい。結婚カウンセリングの本を読むと、全部「あなたのせい」「いいえ、あなたのせいだ」という話ばかりなのである。そういうことになってしまいがちなのだ。

       ジェイ・アダムスのところにカウンセリングのために多くの人がやってくるが、その中でも際立ったケースについて彼はある本の中で書いている。ある男性と女性が彼の所に来たときに、「どんな問題ですか」と聞くと、その女性は夫の30年間の罪を全部事細かく記録したノートを出して、「彼は、これをしました。これをしました」と、一つ一つを読み上げたのである。訴えるのは誰か。妻である。訴えるのは誰か。夫である。訴えるのは誰か。子どもたちである。訴えるのは誰か。父と母である。訴えるのは誰か。教会員たちである。訴えることができる者はいくらでもいるのだ。それだから主イエス・キリストは、「我らに罪を犯す者を我らが赦したように、我らの罪をもお赦しください」と祈るように教えたのである。毎日祈るように教えられたその祈りの中に書いてあるのだ。そして、キリストはそのポイントだけを強調して付け加えていることに注目すべきである。即ち、「あなたが人の罪を赦さないなら、御父もあなたの罪を赦しにはなりません」とキリストは教えている。

       キリストを信じる者が義と認められることにおいて「訴えるのは誰か」と言われるときに、その具体的な適用を考えるなら、訴えるのは誰なのか。あなたなのか。神が選んだ者を、あなたは訴えると言うのか。訴えるべきなのか。そのことも考えてみる必要があると思う。神がその選ばれた者の罪を赦してくださったのなら、私たちがその罪を赦さないのはよいことだろうか。主イエス・キリストは強調をもってペテロたちに「あなたがたが人の罪を赦さないなら、あなたがたの罪も永遠に赦されない」と教えたのである(マタイの福音書6章12節と15節)。「私たちに対して罪を犯した人を私たちが赦さなければ、自分自身が永遠の地獄という裁きに直面する」という恐ろしい言葉をもってこの教えは強調されているのだから、私たちの兄弟が私たちを告発するということはあるはずはない。私たちは互いに赦し合い、互いの悔い改めを求め合うべきである。

       「なぜ人の罪を赦さないのか」ということについて考えるとき、キリストがマタイの福音書の中で弟子たちに話していることの意味を理解しなければならない。人の罪を赦さない者は、神の恵みを理解してはいない。本当の意味で神の恵みを信じてはいないので、自分も恵みを与えることができないのである。神の御恵みを信じ、どれほど大きな恵みが自分に与えられているかを知るならば、他の人に恵みを与えることができない筈はない。もしクリスチャンとして一緒に歩むならば、罪を悔い改めた者を訴えるのは私たちではない筈である。

       誤解しないでいただきたい。ジョンズさんが罪を犯せば訴えなければならないのだ。しかし、その訴えとは、「どうか神さま。この人を見てください。罪を犯してます。裁いてください。滅ぼしてください」という訴えである筈はない。その人自身に、「どうか、悔い改めてください。これはよくない事です。これはいけない事です。悔い改めなければ、あなたは自分を駄目にすることになります。どうか、悔い改めてください」と訴えるのである。神に訴えて、「どうか、神さま。この人を徹底的に裁いてください」というような訴えではないのである。

       その人が、あくまでも罪を悔い改めないならば、その罪を神に委ねて、「どうぞ、神さま。この者を裁いてください」と言わなければならないことも確かに有り得ることだ。その時でさえ、私たちは罪人として神の御前で、「どうか神さま。この人を滅ぼしてください。殺してください」とはとても祈れない。たとえ相手がヒットラーであっても、スターリンであっても、毛沢東であっても、「どうか神さま。とにかくこの人を地獄に投げ込んでください。このような罪人が地獄で永遠に苦しむことを楽しみにしていますから」とは、祈れないのである。「どうか神さま。おさばきください」という祈りの中には、「あなたの御心なら、この人が救われますように」という祈りは常に含まれているのだ。一番熱心に昔の教会を迫害した者の一人はパウロであった。パウロは、「どうか神さま。この人をおさばきください」という祈りの答えとして救われたのである。「教会を憎み、教会を迫害する者は、救われない」ということでもないのだ。相手を神に訴えるときであっても、私たちは常に、自分の罪が赦されることを祈り求めながら、相手の罪も赦す心をもって、訴えるのでなければならない。

       このことはハムレットの劇においてもよく出てくる。その劇の流れが根本的に変化してしまうシーンがある。即ち、ハムレットに自分の叔父をさばく機会が与えられた時に、「いや、待てよ。今さばいたら、叔父は天国に行くことになる。そんなことは許されない。叔父は地獄に行かなければならない」と決断したシーンである。その決断を境に、すべてが激しく悪化して行くのである。そのところで裁くことが良い事なのかどうかは別として、その決断がなければ、母も他の人たちも死ぬことにはならなかったであろう。すべてはその決断から変わってしまった。

       「地獄に行け」ということは私たちが決めることではないし、考えるべきことでもないのである。私たちはその「訴える者」ではない。私たちが最も頻繁に罪を犯す対象は自分に最も近い人たちである。それだから、クリスチャンの交わりにおいて互いに赦し合うならば、それは告発者の殆どをカバーすることになる。とは言っても、全員ではない。私たちを赦してはくれないノン・クリスチャンの人に対して、罪を犯してしまうこともあるだろう。それでも、もし悔い改めて償いにおいてなすべきことをしたのであれば、私たちは事を神に委ねることができるのである。

       神に訴えるのは誰か。サタンには出来ない。他のクリスチャンもそれをする筈はない。つまり、罪を悔い改めているならば、私たちを神に訴える者はいないのである。罪を悔い改めていないなら、神に訴える者はいるかも知れない。それも神の民の働きである。しかし、自分の心の問題はまた別のこととして考えなければならない。自分の心が、自分の犯した罪に対して自分を訴えることもあるわけである。普通、これは、客観的な問題が解決されていないために、主観的な問題は続くというものである。主観的な問題が解決されていないために、客観的な問題が続くということも考えられる。つまり、犯している罪そのものは心の罪から始まっているということもあるからである。

       自分の罪を悔い改めて、それを捨てなければ、ずっと自分の心の罪に苛まれて訴えられることになってしまう。そして、心が曲げられていき、精神もおかしくなって駄目な人間になっていくのである。罪の問題を解決しなければ、絶対におかしくなってしまう。それが人間の心理である。その人間心理を見たジグムント・フロイトは、罪そのものを語らず、罪の存在を横において、“罪意識”について語るのである。「罪」と「罪意識」とはまったく違う言葉であるが、フロイトの心理学の中では「罪」という言葉はめったに使われない。「罪意識」とか「罪悪感」とか「罪の呵責」というような人間の気持ちの話だけについて話すのだ。

       日本語ではそれらの言葉の頭にみな「罪」という文字が入るが、フロイトの心理学では"guilt"が使われていて"sin"は使われないのだから、「罪」という文字が外されているわけである。その「罪意識 (guilt)」は「罪 (sin)」とは関係ないものとして語られるのである。そのように考えると、客観的な問題は認められなくなるのだ。心の問題を解決しようとはするが、それは、自分の問題を認めてそれに耐えるようなことになりがちなのである。仏教の場合は、問題を宇宙のせいにする。仏教の四つの原則の第一原則は、すべては苦しみだと教えている。それを認めるのだ。つまり、苦しむことは人間の運命であって、それは人間であれば当然のことだと考えるのである。この世の物事の根本は苦しみであるから人は苦しむのだ、と考える。

       また、罪について、フランスの哲学者のカミユは、「人間は自分の罪を弁護するために、どうしたらいいのかを考える。自分の罪を弁護して他人のせいにしても、結局のところ皆がやっていることなのだ。だから、自分が弁護されても、相手が弁護されていなければ、哲学的に考えれば自分の弁護は成り立たない。それ故、自分を効果的に弁護するためには、人類全体が弁護されなければならない。それで、すべての人の罪を弁護するためには、神のせいにしなければならない。他に解決はない。神こそ悪の源であり、悪そのものだ。すべての問題は神のせいなのだ」と、そこまで言うのである。これはアダムと同じ心理なのだ。アダムは自分の罪を問われると、「あなたが私に与えたあの女が」という話になる。「あなたが創造したあの蛇が」という話になる。すべては「あなたのせいです」という話になるのである。

       自分の良心は自分を訴えても、その自分の良心の呵責から逃れるために、それを神のせいにしなければならない。カミユは、はっきりした認識をもって神のせいにし、神と戦うのである。彼はその著書の題名を「反抗者」と名付けて「神に反抗しているのだ」と言ってはばからないのである。マクベスの劇の中で、マクベスは罪を犯しても悔い改めないために、最初の罪を隠すために二番目の罪を犯さなければならない。それを隠すために、また三番目の罪を犯さなければならなくなる。それを繰り返していく中でマクベスは、「全世界を滅ぼしても、私は必ず自分の欲しいものを手にいれる」という恐ろしい言葉を吐いたのである。全世界を憎むような表現が出てくるのだ。「全世界を滅ぼしてもかまわない」と思うようになる。

       私は、ある若者が同じことを話しているのを聞いて、驚かされたことがある。バ−トランド・ラッセルの伝記にも出て来るが、年を取ったラッセルは、あるエッセイの中で「全世界を滅ぼしたい」という思いを書き綴っている。そして、それを書いた後で、ラッセルは「このエッセイは、自分の心を最もよく表わしているものである」と言うのである。幼い頃から心の奥にあった思いがそこに表わされていると言うのである。結局、自分を憎むようになってしまう人間は、すべての人間を憎むようになってしまうのだ。決して自分の状態を論理的に把握して理解しているわけではない。神を憎むならば、神に似た者をも憎むのである。自分も神の似姿であるので、自分を憎む。他の人間も神の似姿に創造されたものなので、憎むのだ。そのようなつながりが彼らの意識の中で働いているのだと思う。

       とにかく、全世界を憎み、すべての人を滅ぼしたくなる。サド・マゾの心理もそこから生まれてくる。自分の罪を赦すことができなくて娼分を憎むようになり、他の人をも憎むようになる。結局、自分を苦しめることを求め、他の人を苦しめることをも求めるような生き方になってしまう。「駄目だとわかっているのに」ではなくて「駄目だとわかっているので」その道を歩む。そのような曲がった心理に支配されるようになる。それがマクベスの中に、またハムレットの中に、そして他のシェークスピアの劇にも出て来る。罪人は自分の良心の訴えに対して答えることができないならば、本当に駄目な者になるのである。

       しかし、自分の罪を悔い改めて捨てるなら、自分の良心の訴えに対しても答えることができるわけである。おそらく、私たちの最も大きな告発者は自分自身の良心であろう。神はそのような目的もあって私たちに良心を与えてくださったのである。内なる証言は、親や家族に次いで私たちの罪を告発する。その主観的告発と客観的告発とが同意するとき、私たちは悔い改めに導かれる。これはすべて良いことである。私たちを滅ぼすことが目的であるサタンの告発とは対照的に、この種の“告発”は私たちを悔い改めにに導いてくれるからである。

       悔い改めには客観的なところの取扱いも含まれるということを忘れてはならない。ジョンズさんに罪を犯したのなら、謝らなければならない。何かの償いをしなければならないときには償いをする。「罪」、即ちその客観的なところを取扱い、そしてやるべきことをやって神に赦しを求め、神が赦してくださることを信じるのである。悔い改めることは信じることにつながっているのだ。神が赦してくださったことを本当に信じるならば、自分の良心も自分を訴えることはしない。

       ダビデもそのことを語っている。ダビデは、人を殺し、姦淫を犯し、本当に大変な罪を犯してしまった。そのダビデが、「神に赦され、その罪が覆い消される者はさいわいである」と詩篇で歌っている(詩篇31篇1節)。自分の罪が神に赦されたことをダビデは心から喜ぶことができたのだ。本当に悔い改めたからである。「罪を悔い改めていないうちは、神の御手は昼も夜も自分の上に重かった」とダビデは言っている(詩篇32篇3〜4節)。心の中の問題は自分の骨までも萎えさせ、それは解決されないで続くのである。サムエル記を読むと、サウルは狂っていたことがわかる。心の中の問題が解決されないために、おかしくなるのだ。

       悔い改めていないとき、ダビデさえも、おかしくなっていた。ナタンが来て羊のことを話したのに、「そんな奴は死刑だ」と怒って叫んだのはおよそ正常を欠いているとしか言いようがない。しかし、ナタンが「それはあなたです」とダビデに言ったときに、ダビデは正常に戻ったのだ。「そうだ。それは私だ。私は神に対して罪を犯した」とダビデは認めて罪を悔い改めたのである。真剣に罪を悔い改めるときに、正常に戻ることができるのである。詩篇32篇5節で、罪を悔い改めたときに、ダビデはこう告白している。

     

    わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。

       「主に告白しよう」と心を決めたまさにその時に、神はもうダビデの罪をお赦しになったのである。罪を悔い改めようと心に決めて、その悔い改めの言葉を口にしようとしたところで、神は赦してくださった。このダビデの話は放蕩息子の話に似ている。放蕩息子が罪を悔い改めて、「自分は神とあなたに対して罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と父に告白しようと決めて、家に戻ろうとしているときに、父はもう外に出て彼を待っていたのである。父の方は、彼が悔い改めの告白をする前にもう赦す備えが出来ていたのだ。父はずっと赦す機会が来るのを待っていた。私たちもそうである。私たちが悔い改めの心を持って告白しようとするとき、神は喜んでくださり、私たちの悔い改めの告白が口に上る前に、もう赦してくださっているのである。ダビデの経験においても、その事を見ることができると思う。

       「私たちを訴えるのは誰ですか」と言うとき、自分の心の中の声が神を信じる信仰をもってそれに答えることができないならば、だめなのである。サタンの訴えは既に客観的に取り除かれている。しかし、他の人が私たちを訴えるなら、私たちは客観的にすべきことをして悔い改めるしかないのである。クリスチャンではない社会の中には、赦してくれない人はいくらでもいる。死ぬ日まで私たちの過ちを赦してはくれない人たちはいくらでもいる。それは有り得ることだ。そのような時、私たちはその人たちに罪を犯したのであれば、償うべきことを償い、神に対してその罪を悔い改めてその人のために祈るなら、私たちはその重荷をずっと引きずって生きることにはならないのである。

       神に対して私たちはその罪から解放されたことを知って、前に向かって正しく歩むのである。クリスチャンはそれができるし、そうすべきなのである。良心は誤りなきものではなく、歪み得るものである。人は自らの良心の声に対して、それがもはや機能しなくなるところまで戦ってしまうこともある。あるいは、良心と不信仰とが相俟って、自らを激しく責め、その人を狂気に追いやることもある。それ故、私たちの良心に対する答えもまた、私たちの罪のために十字架にかかってくださったキリストの死に見出されるのである。

       「神が義と認めてくださるのです」とある。神が私たちに対して「正しい」と宣言してくださったのだ。罪を認めて、悔い改めて、キリストを信じた者に対して、神は「あなたは義と認められた。もはやあなたの罪をわたしは見ない」と宣言してくださったので、その神の宣言を信じるのである。その信仰が福音の中には含まれているのだ。神が「正しい」と宣言してくださったので、神の宣言を私たちは信じるのである。キリストの十字架の贖いの働きが完全であることを、私たちは信じる。私たちは、キリストにあって聖くされたのである。キリストにあって罪が赦されたのである。キリストにあって罪と死に対して勝利したのである。そのことを私たちは信じている。

       キリストは死なれ、死人の中からよみがえってくださった。その上さらに、キリストは神の右の座に着かれ、私たちのために今とりなしの祈りをささげていてくださるのである。サタン的な告発者の場合や、私たちが罪を犯してしまった相手の場合と同様に、私たちの良心の告発に対する答えは、「罪はどうでもよい」とか「ただ忘れてしまおう」ということにはならない。キリストは死なれ、代価を完全に払われた。神は満足され、キリストの働きを受け入れられた。それゆえ、もはや神は私たちを御座の前で罪ある者とは御覧にならないのである。キリストは神の御前で私たちの弁護をしてくださるお方なのである。それゆえ、罪の代価が支払われており、神が御自身の最愛の御子にあって私たちを受け入れてくださるという完全な保証のうちに私たちは安息することができるのである。

       それ故、「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが・・・」とパウロは言っているが、キリストの死と復活は私たちの罪に対する勝利なのである。自分の罪の訴えを主イエス・キリストの十字架の働きよりも大きいものであるかのように考えてはならない。そのように考えるなら、それは主イエス・キリストの十字架の働きを信じていないことになる。その十字架の働きと復活の力を信じて、自分の罪を捨て、そして正しく悔い改めるならば、自分の失敗についていつまでもがっかりすることはないのである。

       ダビデは、神の御恵みと赦しを本当に信じていなかったなら、そこでがっかりして押しつぶされてしまったであろう。子供の死によってダビデはバテ・シェバを憎むようになったかも知れない。それはアダムとエバと同じ話である。「全部おまえのせいだ。おまえがあそこで水浴びなどしなかったなら、私はこのような罪を犯さなかったのだ。すべておまえのせいだ」と言って、バテ・シェバを憎んだに違いない。そして、彼女に罰を与えて二度と彼女に近づこうとはしないであろう。長男の問題があったり家庭問題があったりすると、すべて彼女のせいにして、死ぬ日までバテ・シェバを憎んだであろう。「あなたのせいで、私の人生は目茶苦茶になってしまった。もう顔も見たくない」と言うかも知れない。そうなっても少しもおかしくない。

       しかし、実際はどうなったかというと、バテ・シェバは最も大切にされたし、また彼女との間に息子が与えられ、彼女から生まれた息子ソロモンが王位を継いだのである。ダビデは、神の御恵みによって、悔い改めた自分の罪が赦されたことを知っていたので、彼女を続けて愛することができたのだ。そして、自分の心の中の罪の問題が解決されたので、バテ・シェバとも良い関係を保つことができたのである。ダビデが死ぬときにも彼女はダビデの側にいた。二人は本当に信頼し合っていた。相手の罪を赦さなければ、相手を信頼することはできない。ダビデが一番信頼していたのはバテ・シェバだということは聖書から明らかである。

       自分の心の中の罪に対する呵責を取り除くことができたのは、神の恵みと赦しを信じていたからである。その御恵みを信じる者は「さいわいです」とダビデは詩篇32篇で言っているのだ。神が客観的にそのことをしてくださって客観的な問題を解決してくださったと信じることが不可欠なのだ。神の御恵みを信じたので、心の問題は解決されるのである。主イエス・キリストの死と復活はあなたの罪よりも遥かに大きい事実なのである。あなたの罪よりも大切な事実である。神は、キリストの十字架と復活の働きを見て喜んでくださるので、私たちの罪を赦すことができるのである。まるで心の中でずっと自分の罪を大切にしているような歩みをするなら、それは、キリストの十字架を信じていないか、或いはそれを見下しているような生き方になる。

       しかし、パウロの話はそこでは終わらない。私たちのために十字架上で死んでくださり、そしてよみがえられた主イエス・キリストは、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」とパウロは言うのである。主イエス・キリストはよみがえって神の右の座に着いて、今も私たちのために執成しの祈りをしておられるのである。いったい誰がキリストにある者を訴えるのか。「この人の罪はあまりにひどい。この人を裁いてください。神罰を与えるように祈ってください」と私は言われたことがある。とんでもない話である。御子なる主イエス・キリストが執成しの祈りをしてくださっている。その神の民を訴えるのは誰か。

       キリストの執成しを覚えるとき、私たちは悔い改めに導かれ、罪の問題から解放され、主イエス・キリストの愛と執成しと導きと助けを深く覚えるのである。キリストがまどろむこともなく常に私たち一人ひとりのために執成しておられる。今も、常に私を見ており、常に私のための執成しの祈りをしてくださっておられる。本当にそのことを信じているのか。そこが心の問題の解決するかしないかの分かれ目なのだ。それ故、私たちを訴えるのは誰なのか。サタンにはもうその働きはできない。真のクリスチャンはそのようなことはしない。クリスチャンがしたなら、それはまた罪の問題であり、互いに赦しあってそれを捨てるのである。

       客観的に罪を犯し、その罪が明かとなった場合、償うべきところを償い、客観的に取扱うべきであるが、その時には御言葉に従って正しく取扱わなければならない。しかし、自分の心の中で自分自身を訴える問題があるならば、キリストの十字架に目を留めて、天で私たちのために執り成しておられるキリストを覚え、神が義と認めてくださったことを覚えて、神の御恵みを信じるところに戻るべきである。

       「罪が赦された者はさいわいです」とダビデは言ったが、その通りである。罪が赦されたことを心から喜び、そのことを死ぬ日まで一時も忘れず、そこから離れず、喜びと感謝をもって歩むことができたならよいのだが、罪人はどうしてもその赦しの御恵みの大きさと素晴らしさを忘れてしまうものである。罪人は、何よりもこのことを忘れるものなのだ。それだから、神は私たちに聖餐式を与えてくださったのだ。聖餐式の時に私たちは、神が御子イエス・キリストによって与えてくださった御恵みを信じて、自分の罪を悔い改めて、それを捨てる。主イエス・キリストの十字架の働きが完全であることを信じるのである。その信仰を告白するだけでなく、その所に戻って、もう一度罪が赦された者として再出発するのである。

       新しいスタートができるということは実に実に重大なことなのである。新しいスタートをするとき、今までのすべての問題を抱えて再出発するのではない。毎週重荷がどんどん重くなっていくというものではない。新しいスタートをする時、自分の失敗も、自分の愚かさも、すべては神の御計画の中にあったものとして認め、そのことさえも益となるように神は働いてくださることを確信して、新たな一歩を踏み出すのである。先週、皆さんは新しいスタートをしたはずだ。だけども、また失敗しただろう。また愚かなことをしてしまっただろう。また悔い改めなければならないのではないか。実にそうなのだが、その繰り返しで疲れてしまって、「それは、あの人のせいだ。君のせいだ」と言って、悔い改めるのをやめて自分を弁護するのだろうか。

       道は二つしかないのである。神のせいにして神を憎み、世の中をも憎んで、自分を破壊していく道を歩むのか。それとも悔い改めて神の赦しを心から信じて喜んで新しいスタートをするのか。「でも、今週また失敗するかもしれない」と想わないわけでもないだろうが、それでも神を信じて再出発をするのである。たとい七回倒れても八回立ち上がる者はさいわいである。それが知恵であり、それは祝福であり、それが義の道である。イスラエルはキリストの話を聞いたときにつまずいた。それでキリストは弟子たちに「あなたたちもわたしにつまずくのか」と尋ねたところ、ペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」と答えた。それが私たちの答えである。

       キリストに逆らってどうするのか。神から離れてどうしようと言うのか。罪を悔い改めないで、どうすると言うのか。悔い改めて神の赦しの御恵みを喜んで信じることによってはじめて私たちは解放される。そして、本当に神の御恵みのうちを歩むことができるのである。ダビデの詩篇32篇10節に「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む」とあるが、これはローマ人への手紙8章28節から終りまでの箇所に書いてあることと同じである。「恵みが、その人を取り囲む」のである。その一つの御恵みが聖餐式である。

       聖餐式において、本当に私たちは心から自分の罪を悔い改めて、神にすべてを委ねて、主イエス・キリストの十字架の働きを心から感謝したいと思う。私たちは罪人であるゆえに、神の愛と御恵みの保証が繰り返されることを必要としている。神の御前に来るとき、私たちは自らの罪を悔い改め、神の赦しを求める。神はキリストを表わす契約のしるしを私たちに与えることによって答えてくださるのである。パン葡萄酒は私たちの最も必要とする食物なのだ。神は私たちに、御子を、他のすべてのものとともに与え給うのである。

     

    ――2001年2月25日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章31〜32節

    ローマ人への手紙8章35〜39節

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