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    ローマ人への手紙8章35〜39節


    8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

    8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

    8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

    8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

    8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

    2001.03.04. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    キリストの愛

    8章35〜39節

       ローマ人への手紙8章31節に「では、これらのことからどう言えるでしょう」という質問がある。この問いは、1章からずっと8章までのすべての内容を含んでいる。1章から説明してきたすべての事を指して、「これらのことからどう言えるでしょう」と問いかけてるのである。そして、三つの質問をもってそれに答えるようにして教えている。31節後半の「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」というところは先々週一緒に見た。また、33節の「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」というところも見た。35節から8章の終りまでは三番目の質問の箇所である。この三番目の問いが最も強調されていることは明らかである。

       ローマ書8章35〜39節は、ローマ書前半の八章全体におけるクライマックスであり、また8章の最後の部分のクライマックスでもある。1章から8章までのメッセージの最もクライマックスのところでパウロは結論を与えているのである。この三つ目の問いかけは、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」という問いから始まって39節の「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」という言葉で結ばれており、ここでパウロは非常な強調をもって結論について深く説明している。福音の基本的な意味がここにある。福音全体を神の愛の説明として示すものである。

       神が私たちを愛してくださって、主イエス・キリストにあって御自分の愛を私たちの上に惜しみなく注ぎ出してくださった。ギリシャ語の「」という言葉は、名詞形でも動詞形でも、この箇所より前では使われていない。5章の5節と8節の二度だけパウロは神の愛について明白に語っているが、このまとめの部分からわかるように、福音全体は愛の福音なのである。パウロは神の愛について初めから語っていたのである。5章にあったように、御霊を私たちに与えてくださったのは、私たちの心の中でその神の愛を証ししてくださるためであった。ヨハネが強調したように、神は、御自分の独り子の主イエス・キリストを私たちに与えたほどに私たちを愛してくださったのである。そのヨハネと同じ強調を、パウロは違う言い方で語っている。

     

    様々な試練

       「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」とあるが、「だれですか」という表現には「何ですか」という意味も含まれていることは、その後の内容を見れば明らかである。この質問は当時のローマの教会にとっては特に大切な問いであった。困難にあったり、大変な苦しみにあったりするときに、神の愛を失ってしまったかのような思いに陥ったりすることは有り得ることである。

       ヨブは、続けざまに大変な試練に遭ったとき、「どうして神は私を見捨てたのか。私は神に特別に罪を犯してはいない。正しく生活を送り、神を信じ、神を求め、神に従う生活をしている。今日まで私は悪を行なったりしてはいない」と思った。ヨブ記31章でヨブは、自分は神の命令を破ってはいないということを、深く広く訴えている。1節でヨブは、自分は目で罪を犯していないことを訴えている。また、貧しい者を苦しめたり不親切にするようなこともしていないし、盗みもしたことはないし、姦淫もしたことがないと告白している。自分のしもべたちが訴えるときに、その訴えを無視したりすることもしなかったと言う。

       ヨブ記31章を見れば、深い意味においてヨブがどんなに敬虔なクリスチャンであったかが非常によくわかる。貧しい者を助け、しもべたちの訴えに耳を傾け、目で罪を犯さず、心においても罪を犯さない。ヨブはそのように神の前に正しく生きてきたのだ。「もし私の訴えが嘘であるなら、神にさばかれてもかまわない」とヨブは大胆に言えたのである。それほど成長した素晴らしいクリスチャンであった。そのようなヨブがこれらの大変な試練に遭ったとき、何が一番の問題だったかというと、「神の愛を失ってしまっているのではないか」というところであった。神はもう自分を愛してはくださらないのか。それがヨブの一番苦しんでいるところであった。ダビデも、いろいろな試練に遭ったとき、ダビデの敵は「神を忘れてしまいなさい。神はあなたを愛してはおられないのだ。あなたは神に見捨てられたのだ」とダビデに言う。そのことがダビデにとっては最大の試練であった。

       パウロがこの手紙を書いた約十年後に、初代教会に対する迫害は始まった。使徒行伝を読むとわかるが、ユダヤ人がずっとクリスチャンを迫害していた。パウロ自身も迫害する者の一人であった。その迫害者パウロがクリスチャンになると、こんどはどの町に行ってもユダヤ人に反対された。クリスチャンを守っているのは皮肉なことにローマ帝国だった。ローマ帝国は、クリスチャンをユダヤ人の一部と見ていたので、法律を守らせ、争いを禁じ、普通のユダヤ人がクリスチャンを迫害することを許さなかった。だから、パウロは危険が迫った時に、場合によってはローマ政府に訴えたりした。

       それで、紀元64年にネロ皇帝がクリスチャンの迫害を始めるまでは、ローマ帝国はキリストの教会を守る働きをしていたのである。ところが、紀元64年に、クリスチャンにとって歴史的に極めて重大な出来事が二つ起こった。その一つは、エルサレムの神殿再建が完成したことである。キリスト生誕の約16年前からヘロデ王によって始められた神殿再建は、紀元64年になってやっと完成した。そして、まさにその年から、神殿に対する神のさばきは始まった。即ち、ヨハネの黙示録が書いている七年間の患難時代が、その年に始まったのである。それは文字通り教会の患難時代であった。

       紀元64年のもう一つの重大な歴史的事件は、ネロ皇帝がローマに火をつけて、それをクリスチャンのせいにしたことである。その時からネロ皇帝によるクリスチャンへの迫害が始まった。その年にローマ帝国による教会への迫害は始まったのである。大患難は未来のことではない。紀元64年から紀元70年のエルサレム陥落までの七年間が黙示録の中でヨハネが預言した七年の患難時代なのである。紀元70年に神殿は神のさばきによって破壊されたが、その七年間に多くのクリスチャンが殺された。ネロ皇帝は、自分の庭園の中で、大勢のクリスチャンにタールをかけて十字架につけ、それに火を着けて夜のタイマツの灯にしたことが史実として記されている。

       そのようなことはローマの他のいろいろな場所でも行なわれた。今のローマを旅してコロシアムに行くと、「このコロシアムが特にクリスチャンの迫害に使われたのではない」という説明がなされているようだが、それは、「コロシアムだけがクリスチャン迫害の場所に特定されていたのではない」という程度の言い訳であろう。ローマには他にも幾つもの競技場や演技場があったし、いろいろな所でクリスチャンたちは殺されていた。だから、コロシアムだけがクリスチャンを殺す場所ではなかったということだろうと思う。ベンハーにも出た戦車や馬のレース場はコロシアムよりも大きい。その多くの場所がクリスチャンの殺害に使われていたのは疑い得ない。

       ネロ皇帝は、クリスチャンに生の動物の皮を着せて競技場に投げ込み、そこに飢えた犬や狼や獅子を放して、クリスチャンたちを食い殺すのを見て楽しんだりした。そのような類いの迫害が日常行なわれていた。自分の子供や娘や親が、そして夫や妻など家族が、目の前で拷問を受けたり殺されていくのを見なければならなかった。ローマ帝国の象徴であるカイザル像の前にお辞儀をしなければ死刑に処せられると言われても、クリスチャンたちはお辞儀しなかった。殺されることによって主イエス・キリストに対する信仰を公けに明らかに証ししたのである。教会に対する迫害は紀元325年まで、激しくなったり穏やかになったりして続けられた。約250年の間、教会は非常に激しく迫害された。迫害が穏やかな時期であっても、クリスチャンの信仰は法的には許されないものであった。

       そのように、教会は、文字通り血を流して主イエス・キリストの御言葉を守って歩まなければならなかったのである。その極度の苦しみの中で、自分たちは本当に神に愛されているのかどうかを疑うことがあっても不思議ではなかった。それ故、パウロは、どうしてそのようなことになっても神の愛を失うことがないのかを十分に深く説明しなければならなかったのである。もちろんパウロだけでなく、ヨハネも他の使徒もそのことを教えている。ここでパウロは、本当に大変な試練の中にいても、それは神の愛を失っていることには絶対にならないと教えている。すべてのことを益とするように働いてくださっておられる神は、私たちを愛しておられる。その愛から私たちを引き離せるものは何一つないことを深く説明してくれている。

       「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか・・・」とあるが、教会は想像を絶するほどの患難に遭うことになる。「苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と言うとき、このリストはパウロが身をもって体験した試練でもあった。パウロはあらゆる患難に遭い、裸にされ、殺されそうになったり、飢えに苦しんだり、強盗の危険に遭ったり、常にユダヤ人による迫害の危険の中にあり、剣を持ってパウロを亡き者にしようとした者もいた(使徒行伝13章50節、20章23節、23章12〜15節、コリント人への第二の手紙6章4節、11章26と27節)。パウロは自分の経験から、これらのことが自分を神の愛から引き離すどころか、却って近づけられるということを知っていた。

       そういうわけで、このリストは、パウロ個人の経験も含まれているが、これはまた創世記からパウロの時代に至るまでのクリスチャンの歴史をも念頭において書かれたのは疑い得ない。それ故パウロは、次の節で旧約聖書の詩篇の引用をもって語るのである。詩篇から引用することには非常に大切なポイントがある。ローマ人への手紙1章で最初からパウロがローマの教会に話していることは、「私が伝えている福音は、昔のアブラハムの時代やダビデの時代の福音と同じものである」ということであった。迫害について考えても、危険について、患難についても、苦しみについても考えても、それらは旧約聖書の時代と何ら変わってはいないということを、パウロはダビデの詩篇の引用によって思い起こさせている(36節)

     

    「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

       ずっと昔から、神の民は、患難と苦しみ、試練と迫害に遭ってきたという事実を、パウロはここでローマの教会に思い起こさせている。いつから始まったのかというと、創世記4章から始まっていることなのだ。創世記4章には、その後の歴史がどうなるのかがはっきりと記されている。3章15節に予言されてあるとおりだと言うこともできる。アダムとエバが罪を犯した時に、神は救いの約束を与えてくださった。救いの約束を与えたとき、歴史のすべての時代においてエバの子孫と蛇の子孫との間の戦いがあることを、神はエバに話した。エバの子孫はその戦いに勝つが、その戦いにおいて傷を負うであろうことを、神は比喩的な言い方でアダムとエバに伝えた。

       即ち、蛇はエバの子孫のかかとに噛みつくであろうと言っている。しかし、歴史の現実としてどのようにエバの子孫は傷を負うかというと、まずカインとアベルにおいてそれが見られた。カインは弟アベルを殺した。殺しの理由は、アベルの方が正しくて、神に愛されていたからである。カインは神の御心を求めずに自分の欲するままに生きていた。換言すれば、カインは自分勝手に宗教を定義し、自分のやりたいように礼拝を捧げていたので、神に受け入れられなかった。礼拝も生活も神に従って行なっていたアベルが神に受け入れられたので、カインは弟のアベルを憎み、アベルを殺した。

       だから、アダムとエバは「蛇の子孫とエバの子孫との戦い」を、自分の最初の子供においても見ることができたのである。そして、古い契約の時代がどのような時代になるかというと、蛇の子孫が勝利を得ていくかのように見える傾向があった。旧約の時代は、“アベル”が次から次へと殺されていくようなものに見える。カインの子孫の方が、そしてカインのような者の方が、アベルよりも強いような傾向があった。その中で神の民は「ほふられる羊」と見做された。しかし旧約聖書の時代において誰が最終的に勝つかというと、主イエス・キリストがサタンに対して勝つのである。即ち、女の子孫が蛇の子孫に完全な勝利を得るのである。しかし、イスラエルの歴史を見ると、神から離れていく傾向が常に見られたし、イスラエルの民の中でもアベルのような敬虔な者たちは迫害される傾向があった。

       創世記の終りのところで、ヨセフがそのことをよく表わしていると思う。ヨセフは自分の兄弟に憎まれ、そして迫害された。「殺された」と言ってもよいような状態に置かれたが、ヨセフはそこからよみがえって親と兄弟たちを救う、という話である。実際にヨセフの兄弟たちは、ヨセフを奴隷として売り飛ばしてから、羊を殺してその血をヨセフの衣に付けて、ヨセフが獣に食い殺されたと父に偽りの報告をしていた。その意味で、ヨセフは確かに“ほふられる羊”であったと言えよう。

       モーセも、40年間をイスラエルに憎まれながらエジプトで生活し、次の40年間をエジプトから一人で逃れて荒野にいなければならなかった。荒野からエジプトに戻ってイスラエルを導き出しても、続けてイスラエルに憎まれた。

       その後のダビデも、ずっと苦しみの連続の中でその敵から逃れなければならなかった。やっと王になっても、詩篇を読めば「敵」のことがずっと出て来る。ダビデに反対する者の中で最もダビデを苦しめたのは“言葉”であった。つまり、ダビデについて偽りを語り、言葉をもってダビデを駄目にしようとする者たちがいたのである。そのことで一番成功したのは、なんとダビデの子アブシャロムであった。アブシャロムは町の門の所に立ち、通り往く人々に偽りを語ってダビデを中傷し、ダビデの支配を失墜させた。しかしアブシャロムだけでなく、ダビデの周りにはそのような敵はいくらでもいた。

       そして、イスラエル王国の最後の時代になると、ネブカデネザルが紀元前605年にエルサレムと戦って勝利し、ユダヤ人を奴隷として連れ去った。誰が奴隷にされたかというと、エゼキエル書やエレミヤ書に記されているように、イスラエルの中の最も敬虔な人たちが奴隷にされ、最も良い人たちがバビロンの捕囚となったのである。そこでも、最も神を畏れていた者たちが一番の苦しみを受けなければならなかったのだ。ユダに残ったエレミヤは「嘆きの預言者」と呼ばれているが、生涯をそこで苦しむことになった。しかし、バビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民もずっと泣いて主に向って歌わなければならなかったことが記されている。

       イスラエルはバビロンで70年間を捕囚として過ごしたが、その中の最も有名な奴隷がダニエルであった。ダニエルは奴隷にされただけでなく、十代の若さで宦官にされた。そして70年間も、バビロンで奴隷として生活し、苦しまなければならなかった。「ほふられる羊とみなされた」という詩は捕囚のイスラエルにも適用されたのである。そして、主イエス・キリストの時代にあってもそうであった。結局、敬虔なクリスチャンたちは社会的にトップに立てないのがキリストの時代のイスラエルの現実であった。パリサイ人、サドカイ派、祭司たち、律法学者たち、長老たち、リーダーたちの誰もが御言葉から離れている人たちばかりであった。

       主イエス・キリストも、例えばマタイの福音書23章で非常に強くそのことを訴えている。主イエス・キリストに従った弟子たちのほとんどは漁師であった。彼らはその時代のイスラエルの中で敬虔な人たちであった。例えば、アンナも非常に貧しかったし、バプテスマのヨハネの父は祭司ではあっても支配できるような偉い祭司ではなかった。バプテスマのヨハネはエルサレムから離れた荒野で叫んでイスラエルの悔い改めを訴えなければならなかった。“偉い人たち”は皆、神の御言葉から離れているからである。同じような例は他にも沢山ある。

       そのように、カインとアベルの時代からずっと主イエス・キリストの時代まで、神を信じる敬虔な者たちが迫害される傾向があった。ヘブル人への手紙11章で信仰の人々について語っている箇所の最後のところで、信仰のために拷問され、殺され、財産を失い、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで挽かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、荒野や洞穴をさまよい、信仰のためにどんなにそれらの人たちは苦しめられ悩まされたかが書き記されてある。しかし、そのすべては神の愛と比べれば取るに足らないものであったという信仰を持って彼らは生きた。そのように聖書の中では、神の民はこの世では迫害されていくものであった。それが創世記3章15節からの原則なのである。

       しかし、「迫害される」とか「苦しめられる」のは敗北を意味するものではない。それは「神に捨てられた」という意味でもない。聖書は最初からそのように教えている。「ほふられる羊とみなされた」というのは、神の民についての話ではあるが、私たちがこの言葉を読んですぐに連想するのは勿論主イエス・キリスト御自身のことである。主イエス・キリストが公に御自分を表わした時、バプテスマのヨハネは主イエスを指して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と宣言した。キリストこそ真に「神の子羊」であり、「ほふられる子羊」となられた御方である。

       そういうわけで、神の祭司の民はメサイアと同じようなものなのだと言ってよい。神の民が迫害され、憎まれ、信仰のために殺されていったのは、メサイアを表わす預言的な“型”であった。神の民はメサイアの民であったので、「ほふられる羊」という型を通してメサイアがそのような者になられることを表わしていたのである。そして、メサイアであるキリストがこの世に生まれたときに、「神の子羊」として実際にほふられることになったのである。「神の小羊」がほふられなければ、罪の救いはないのである。だが、これは非常に深い皮肉だと言わなければならないが、主イエスを殺したのは神の民イスラエルであった。それは、旧約聖書のイスラエルが想像だにしなかったことであった。

       この旧約聖書の全体において表わされているポイントと、神の民は迫害に遭うものだということは、パウロにとっても二つの点において非常に深く感じていたと思う。パウロは私たちよりもずっと深くその意味を感じていたのは疑い得ない。第一には、パウロ自身が激しく迫害されていたという事実である。どこに行っても、福音のために迫害を受けていた。最終的にパウロは斬首の刑で殺された。パウロが死刑にされたのはユダヤ人の反対にもよるが、ローマ帝国にとっても都合よいことであった。ローマ帝国の国籍を持っていたパウロは十字架には付けられなかった。ローマ帝国の国籍を持たないペテロは十字架に付けられて処刑されたが、パウロの場合は斬首の刑であった。パウロもペテロも死刑となった。彼らは、死刑になることを知っていたのに、続けて忠実に神の福音のために働いた。最終的に死刑にされただけでなく、生きている間も、どこへ行っても迫害された。

       しかし、その点だけではない。第二の点は、パウロ自身が神の民を迫害していたということである。クリスチャンになる前のパウロは、ステパノが偽りの証言によって殺される時にその現場にいて、その処刑に賛成しており、ステパノを殺す責任を持つ者の一人であった(使徒行伝7章58節、8章1節と3節)。救われる前のパウロは(サウロという名であったが)、“カイン”だったのだ。パウロはカインとして“アベル”を殺す企みに参加し、それを喜んでいた。しかし、神の民を迫害し、アベルを殺してしたそのパウロが奇跡的に救われた。

       それ故、神の民が「ほふられる羊とみなされた」ということを、パウロは、迫害者としてもわかっていたし、迫害される者としてもよくわかっていたのである。パウロは、その意味を非常に深く捉えていた。それ故、教会はアベルの時からずっと迫害されている。そして、主イエス・キリスト御自身においてそのことは最もよく表わされたのである。主イエス・キリストは、御自分の愛する民に殺されたのだ。

     

    圧倒的な勝利者

     

    しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

       皆さんも気付いているだろうと思うが、この37節の「これらすべてのことの中にあっても」というところは「これらすべてのことの中にあってこそ」と訳すほうがよいと思う。文字通りには「あるときにも」である。「あっても」というのは解釈からくる訳であるが、それよりも「あってこそ」という強調をもってここは訳すほうが良いと私は思う。クリスチャンは、「これらすべてのことの中にあってこそ、圧倒的な勝利者となる」のである。

       「圧倒的な勝利者」は、ギリシャ語では「hupernikao」という一つの言葉になっているが、新約聖書において、ギリシャ語で「勝利」という言葉は比較的頻繁に使われているが、「hupernikao」という言葉はここでしか使われていない。接頭語の「huper」は英語では「ハイパー ( hyper )」という言葉であり、日本語では「超」という意味になる。この言葉を英語で直訳すれば"Hyper-victor"ということになる。これはパウロによる造語と思われるが、普通の言葉よりもずっと強い強調の表現になっている。今風の日本語なら「超勝利者」というのかも知れないが、新改訳の「圧倒的な勝利者」という訳はその意味をよく表わしていると思う。

       つまり、パウロは非常な強調をもってその意味を理解させようとしているのである。「これらのことの中にあってこそ、勝利者である」と言うだけでも驚くべき強調だと言えるが、それではとても満足できないのだ。「超勝利者」或いは「圧倒的な勝利者」と言うとき、これは実に驚くべきことであるが、キリストの十字架に目を留めれば理解できることである。主イエス・キリストは、いったいどこで、どのようにして、サタンに対して勝利を得たのかというと、十字架の死によってこそキリストはサタンをさばき、その頭を踏み砕き(創世記3章15節)、サタンに対して勝利を得たのである。人間の目からすれば一番弱くなっていたようなところが、実は圧倒的な勝利であったのだ。

       いつキリストは勝利者なのかを罪人の観点から見るならば、そして普通の人間の観点から見るならば、奇跡を行なっている時とか、パリサイ人たちを叱責している時とか、湖の水の上を歩いている時とか、嵐を叱って静めた時とか、そのようなときこそキリストは勝利者と思われる傾向がある。しかしキリストは、憎まれ、鞭打たれ、殴られ、裸にされ、ローマ軍にもイスラエルの人々からも笑い物にされて、奴隷の処刑である十字架につけられたその最も弱く見える時にこそ、キリストは圧倒的な勝利を得たのである。そのことを覚えるならば、パウロがここで言っていることを理解するのも難しくはないと思うのである。

       十字架の上でキリストは罪の罰を受けてくださり、十字架の上でキリストは私たちの救いを獲得してくださった。「サタンを騙した」という言い方もできると思う。このことを瞑想するとき、ペテロを観察するのはとても興味深いものである。主イエス・キリストが最初に弟子たちに十字架の受難について話したとき、ペテロはイエスをいさめて「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と言った。その時キリストは振り向いてペテロに対して「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われた(マタイの福音書16章22〜23節)。この時のペテロの言葉は、サタン的な誘惑をキリストに与えるようなものであった。あたかも十字架を避けて勝利を得る道があるかのようにペテロは考えてしまったのである。

       同時に、サタンはイスカリオテのユダを誘惑して、キリストがもっと速やかに十字架にかけられるように導いた。イスカリオテのユダはサタンに従ってキリストを裏切った。弟子たちも恐れて、皆バラバラに散ってキリストから離れて行った。そういうわけで、イスカリオテのユダとペテロのことを通してサタンのやり方を見ると、サタンは、或るときにはキリストが十字架の所に行かないように働くが、或るときには十字架の方に誘うのである。

       イスラエルの指導者たちもサタンの子どもだとキリストはヨハネの福音書8章44節で言っているが、パリサイ人たちは皆、主イエス・キリストを十字架につけろと狂ったように叫んでいた。それでイスラエルの群衆はパリサイ人や祭司たちに誘導されてキリストを十字架につけたということである。キリストが最も虐げられて弱く見えるとき、サタンが勝利したかのように見えた。その時パリサイ人たちは何を言ったかというと、「あなたがまことに神の御子であるなら、その十字架から下りてみろ。自分の力を見せて自分を救ってみろ。他人は救っても自分は救えないのか。あなたが勝利者なら、今こそその勝利を見せなさい」とキリストに言う。キリストが十字架の上で死んでくださるこそ勝利であることを、彼らは知らなかったのだ。

       パウロにおいても同じ原則が表わされたのを私たちは見る。パウロがステパノを殺すことによって、ステパノは勝利を得たのである。つまり、それによってパウロが救われたのだ。パウロとステパノの戦いにおいて、ステパノの方が圧倒的な勝利者であった。パウロが救われ、そのパウロの働きによって多くの者が救われた。ユダヤ人であるパウロはステパノを殺すことによって勝利を得るつもりであった。パウロはキリスト教を阻止し消滅させるつもりでいたが、全く反対の結果になってしまったのだ。

       このことはキリスト教の全歴史においても言えることである。教会は、迫害されるときにこそ成長するのだ。迫害されても迫害されても、教会は成長する。「ほふられる羊」とみなされた教会は「圧倒的な勝利者となる」のである。これは聖書の中でも見ることができるし、実際に教会の歴史の中においてもよく見ることができる事実である。私たちの苦しみが犠牲制度と関連づけられるとき、その苦しみの性質と目的とが示されている。私たちは他の人々が救われるために苦しむのである。

       しかし、私たちの苦しみは有効な贖いを行なわず、キリストの苦しみのみが贖いを有効にすることができる。それでも、キリストの苦しみと同様に、私たちに与えられている苦しみはこの世の救いという神の御計画の一部なのである。即ち、クリスチャンに与えられている苦しみや試練は、敗北ではなく、勝利なのである。何かの武力による勝利ではなくて、私たちは信仰をもって義しく苦しむことができるときに、キリストにあって「圧倒的な勝利者」なのである。それはこの世をキリストへと導くために神に用いられるキリスト御自身のそれに似た苦しみなのである。

       そういう意味で、神の民にとって何が大事なのかというと、「忠実に神に従うこと」だけなのである。そうすることによって憎まれたり、迫害されたり、苦しみに遭ったり、患難に遭ったりするかもしれない。しかし、神に忠実に従うなら、必ず勝利を得ることになる。それは私たちが普通に考えるような勝利ではないかもしれない。「勝利を得る」ということを考えるとき、ヨセフやダビデ、パウロや主イエス・キリストのことを思い出して考えるべきなのだ。パウロは、「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と言っている(コリント人への第二の手紙12章10節)。弱い時にこそ、私たちは勝利者なのである。パウロの説明は更に続く。

     

    どんな被造物も

     

    私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

       この最後のところで、パウロは、はっきりと自分の証しとして「私は確信しています」と言う。ここには私たちを神の愛から引き離すことのできないすべての事柄のリストがあり、すべての被造物がこのリストに含まれており、私たち自身もこの中に含まれる。パウロは四つの対語と、二つの独立した言葉を使って宣言している。

       最初の対語は「死も、いのちも」である。たとい殺されても、絶対に神の愛から引き離されることはない。既に説明したように、この確信は当時のローマの教会にとっては不可欠なものであった。殺されても、それで神の愛を失ったわけではない。殺されたとき、私たちは神の身元に行くのだ。今はこの地上に生きているが、死んだときに私たちは神の所に行くのである。だから、ピリピへの手紙1章23節でパウロは、「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」と言うのである。

       死は、私たちを神の愛から引き離すことはできない。しかし、いのちも、すなわちこの世の中で生きることも、私たちを神の愛から引き離すことはできないのである。この世の中の苦しみ、様々な誘惑、毎日の生活の中のどんな事であっても、私たちを神の愛から引き離すことはできない。私たちは生きている時も神の愛に守られており、死んだ後も導かれるのである。それ故、毎日の生活において恐れることはないし、死をも恐れることはない、ということをパウロは私たちに教えている。

       次の対となる言葉は「御使いも、権威ある者も」である。前の「死も、いのちも」という対では反対語を使われているので、これもそうではないかと思われる。そうであれば、ここでの「御使い」は良い者で、「権威ある者」は場合によっては悪霊を指していると思われる。新約聖書の中では「権威」をその意味で使っている箇所は他にもある。それ故、この対語は、良い御使いと悪い御使いのことであり、良い霊も悪霊も私たちを神の愛から引き離すことはできないと言っているのである。

       なぜ御使いについてそう言うのかというと、例えばガラテヤ人への手紙1章のところでパウロは、「天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら」という言い方をしている。神に対して忠実な御使いが異なる福音を伝えるとは考えられないし、有り得ないことであるが、「たとえ御使いが私たちを神の愛から引き離そうとしても、それはできない。また、悪霊が私たちを神の愛から引き離そうとしても、それはできない」とパウロは言っているのである。私たちはあまり悪霊について考えたりしないかもしれないが、このように聖書は教えてくれているのだから、私たちは悪霊についてあまり心配したりしなくてもよいのである。「悪霊は私たちを神の愛から引き離すことはできないので、悪霊を恐れたり、死を恐れたりしなくてもよい」ということである。

       三つ目の対語は「今あるものも、後に来るものも」である。今あるものの中で、私たちを神の愛から引き離すことのできるものは何もないし、今後の歴史の中においても絶対にない。何か違う力が現われて私たちを神から引き離すことは、絶対にないのである。ヒットラーやスターリンのような人物が現われたら神の教会を消し去ることができるのではないか、と思う人がいるかも知れない。しかし、スターリンもレーニンもキリストの教会を抹殺しようとしたが、彼らにその力は無かったのである。中国も教会を迫害して消滅させようとするなら、教会はますます成長するであろう。神の教会と戦って勝利を得る者がいるだろうかというと、今もいないし、今から後にも出現しないのである。

       次の「力ある者も」は対語になっていない。なぜ対語を用いないかというと、「力ある者も、弱い者も」と言うのは無意味であるし、「どんなに力ある者であっても」というような強調が含まれるものとして独立した言葉が使われているのだ。「力ある者も」という言い方には、「この世のものであっても、悪霊であっても」という意味が含まれるし、奇跡についても「力あるわざ」という言い方が使われているので、「力については、どんな観点から見ても、如何なる力も、私たちを神の愛から引き離すことはできない」と言っているのである。

       次に来る「高さも、深さも」という対語は「天国も、地獄も」と同じような表現であるが、パウロは「どんなに高いものでも、どんなに深いものでも、私たちを神の愛から引き離すことはできない」と言っているのである。

       それでも十分に広くその意味が伝わらない者には、パウロは最後に対語ではないもう一つの言い方をもって説明する。即ち、「そのほかのどんな被造物も」と付け加えるのである。どのような存在を考えても、どのようなところから来る影響を考えても、どのような力あるものを考えても、悪霊であっても、中には宇宙人を考える人がいるとしても(馬鹿げたことであるが)、その他のどんな生物であっても、どんな被造物であっても、私たちを神とキリストの愛から引き離すことはできないのである。そのことをパウロは確信をもってローマの教会に語って福音の素晴らしさを教えている。

       35節では、「キリストの愛から引き離す」ことはできないと言っており、37節では「私たちを愛してくださった方」という言い方があり、39節では「主キリスト・イエスにある神の愛から」という言い方をしている。29節の「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」という箇所を見たときに、神は、主イエス・キリストのために御自分の御計画をもって導いてくださるのだということを学んだ。私たちの救いは、最終的には御父の御子に対する愛に基づくものなのである。これは大変な保証である。

       「御父の愛は、主イエス・キリストにあって、私たちに与えられる」と言うとき、私たちに与えられる神の愛とは三位一体なる神御自身の内にある愛なのだということを話しているのである。だから、「キリストにあって愛が与えられる」と言うときに、御父が御子キリストを愛してくださるので、私たちに対する愛は絶対確実で永遠不変なものなのだという意味が含まれているのである。パウロの話の全体の流れを注意深く見るとき、その関係は明らかである。神はキリストを愛しておられるがゆえに、キリストにあって私たちを愛してくださる。「その愛から私たちを引き離す存在は絶対にない」と、パウロは最後に明言するのである。これが福音なのだ。キリストにあって、キリストの十字架を通して、神は御自分の愛を無限に全きものとして注ぎ出してくださる。その愛から私たちを引き離せるものは一つだにないのである。

       何度も説明していることだが、罪人の罪の本質的なところの一つは、神の愛を忘れることである。罪人は神の愛を否定する。蛇がアダムとエバに現われて最初に語った言葉は、「神はあなたたちをそれほど愛してなんかいないのだ。最高の祝福を与えてはいない。最高の祝福は別なところにある」とアダムとエバに言う。「神はケチなので、あなたたちに最高の祝福を与えてはくださらない」と言って、欺くのである。そして、「最高の祝福が欲しければ、自分の手で取らなければ与えられないのだよ」と惑わす。それで、アダムとエバは神からまだ与えられていないものを無理矢理もぎ取ろうとした。それは祝福ではなく、呪いとなった。

       そのように、サタンの偽りは、最初から神の愛を否定するものであった。「アダムとエバは信仰を持っていなかったので罪を犯した」という言い方にもなるわけである。福音を信じるということは、神の愛を信じることにほかならない。どうして神の愛を信じるのかというと、キリストの十字架を信じているからである。キリストの十字架は神の愛の証明である。そこまで私たちに対する御自分の愛を表わしてくださったなら、その神の愛を疑うことができるはずはないのである。神は、明白に、実に私たちの理解と想像を越える方法で、御自分の愛をあらわしてくださった。その愛を疑ったり否定したりできるはずはないのである。それほどまでに愛してくださった神を信じて、その愛を喜び、そして感謝するほかないのである。神の愛を信じて喜ぶ力が、神の御国のために生きる力となるのだ。そのような者は「圧倒的な勝利者」となる。どんなに困難な、またどんなに大きな問題があるとしても、必ず勝利を得る者となるのである。その中でキリストの教会は成長していき、強くなっていき、勝利を得ていくことになるのだ。

       バプテスマは神の愛をあらわすものである。バプテスマを授けるとき、バプテスマの水は御霊の祝福をあらわしている。バプテスマを行なうことによって私たちは自分を神にささげることを誓うわけだが、それよりも、神が、私たちに、すべての最高の祝福をあらわす御霊を注いでくださるのである。神の愛を喜ぶのである。聖餐式もそうである。聖餐式も同じように、神の愛を覚えるために行なうものである。毎週祝う主の聖餐は、神が私たちを救うために御自分の御子を世に遣わされたことにより、無限の豊かさをもって御自分の愛を私たちに注ぎ出してくださったことを常に思い起こさせてくれる。

       聖餐式のときに長老たちは、神の代表として、主イエス・キリストの御身体をあらわすパンと、主イエス・キリストの血をあらわす葡萄酒を私たちに与える。それは神の愛の最高の象徴であり、その最高の祝福は主イエス・キリスト御自身である。主イエス・キリストを私たちに与えてくださった神の愛を信じて、感謝してその愛に応えることを誓うのである。その愛を疑ってはならない。その愛を感謝し、その愛を喜び、その愛の道を歩むのである。聖餐式のときに、私たちは繰り返し繰り返し神の愛の証しを与えられている。聖餐式を、神の絶対的で無限の愛の証しとして受けるなら、溢れる感謝をもって受けることができるはずである。

       聖餐式が指し示すキリストの十字架とは、神が御自分の愛を示された場所なのである。私たちの礼拝がその十字架を覚えることを中心にしているのなら、私たち自身、自分の十字架を負ってキリストに従っていくように主イエス・キリストが私たちを召しておられることに驚くべきではない。たとえ今試練の中にあるとしても、或いは毎日の生活が自分の思い通りにいかないとしても、「私を神の愛から引き離すことができるものは何一つない。神は御自分の御子をさえ私に与えてくださったので、御子キリストとともにすべての良いものを与えてくださる。すべてが益であることを私は知っている」という信仰をもって、感謝と喜びの心に満ちて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年3月4日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章33〜34節

    ローマ人への手紙9章1〜5節

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