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    ローマ人への手紙9章22〜29節


    9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

    9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

    9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

    9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

    9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

    9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

    9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

    9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

    2001.04.22. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    私の民

    9章22〜29節

       今日は特にローマ人への手紙9章22〜29節までのところを一緒に考えたい。これは9章14節にある問いの最後の部分である。「神に不正があるのか」という問いを提示してから、ずっと14節から29節まででそれに答えている。そして、14節の問いは、前の6節からの説明に対する異議申し立てのようなものになっている。「イスラエルから出たからと言ってすべてがイスラエルではない」と、パウロは説明する。旧約時代の神の民は、神から離れてしまったように見える。それで異邦人は、神の契約の御恵みのことを聞くときに、「そうであるなら、私たちは大丈夫なのだろうか」と考えるわけである。異邦人から見れば「神の民であり、旧約聖書を持っており、メシアを世界に与えたそのイスラエルが神から離れることがどうして起こり得たのか。なぜイスラエルはメシアであるキリストを信じないのか」ということは不思議でならなかっただろう。

       それ故パウロは「最初から何も違ってはいない」と説明する。前にしたのと同じように、パウロは歴史的に問題を取り扱う。「アブラハム、イサク、ヤコブの時代から、またモーセとパロの時代も、イスラエルから出る者が真のイスラエルではなかったのだ」ということを、神の選びと歴史全体に対する神の導きを通してパウロは説明している。しかし、ここで「イスラエル」という単語が「異邦人」の意味をも含むような二重定義が行なわれているのでない限り、パウロは異邦人について語ってはいない。異邦人について少しだけ触れてはいるが、あくまで9章のポイントは、いかにして神の民が神の契約から離れ、祝福を失ったかを説明することなのだ。

       先週も話したように、25節からの箇所で、モーセの時代からイザヤとホセアの時代に話は飛んでいる。モーセとパロの時代はだいたい紀元前1450年〜1500年頃の話である。つまり、主イエス・キリストがお生まれになる約1500年前のことである。そこから飛んでイザヤとホセアの時代になる。それはアッシリアが北イスラエル王国の十部族を攻撃して勝利し、彼らを奴隷にしたり殺したりした時代である。年代の数え方によっては若干のずれはあるが、アッシリアが北イスラエル王国を攻め落としたのは紀元前722年頃である。そこでパウロが指摘していることは全体の流れにおいてとても大切なことである。なぜなら、それは神が当時のイスラエルを裁く話だからである。

       北イスラエルのほとんどの人々は神から離れていた。南王国の捕囚については、100年ほど経った紀元前605年、597年、587年に、ネブカデネザルが三回に渡ってエルサレムを攻略し、最終的にエルサレムの神殿を破壊した。その時も、神を信じる者は非常に少なかった。「その歴史のことを思い出しなさい」「イザヤ書とホセア書に書いてあることを思い出しなさい」とパウロは諭すのである。パウロの時代のイスラエルの状態は歴史の中で初めてあったようなことではないからである。そのホセアとかイザヤの時代、あるいはエレミヤの時代に戻ってみると、エホバなる神をまことの神として真剣に信じる者は非常に少なくなっていたという事実がある。その全体の流れをパウロは歴史的に順を追って説明しているという点は一つの注目すべき大切な点であると思う。

       24節において、ユダヤ人だけでなく異邦人も神の招きにあずかっているとパウロは述べている。したがって25節から29節は、イスラエルに関する預言を教会に適用しているという順序になっていると思われる。これはあたかも教会が新しいイスラエルであるかのようである。これは神学的に極めて正しい見方であり、実際に教会は神の新しいイスラエルである。ペテロも、パウロがローマ人への手紙9章で引用した同じ預言に触れながら、極めて具体的にイスラエルの名を教会に負わせることによって、このことを明らかにしている(ペテロの第一の手紙2章5節、9〜10節)。ここの箇所は、神がイスラエルをどのように取り扱われたかについてのパウロの答えの最初の部分であるが、それは旧約の預言で終わっている。25節を見よう。

     

    我が民でない民

    それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

       これはホセアが記した預言であるが、「わが民でない者をわが民と呼ぶ」ということは「捨てられたイスラエルがもう一度認められてイスラエルとなる」という意味であることをイザヤは言っている。捨てられたイスラエルについて、預言者ホセアは自分の人生を通して表わしている。ホセアは自分を裏切る女性と結婚するように命じられた。結婚して子どもが与えられると、その女性はホセアを捨てて他の男と一緒に家を出て行った。そして、ホセアを裏切って他の男と出て行ったその女性は、非常に苦しめられ、貧しくてどうしようもない奴隷状態に陥った。ホセアは積極的に彼女を求め、その奴隷状態の中から彼女を買ってもう一度自分の所に連れて帰り、彼女を自由にしたのである。ホセア自身、そのことを神に命じられてやらねばならなかった。

       周知の通り、旧約聖書の預言者たちの行ないも神の導きと恵みを特別に表わすことがよくあった。だから、ホセアが彼女と結婚したということには預言的な意味があったのだ。ホセアの婚姻にはイスラエルに教えるための象徴的意味があった。エゼキエルは顔をエルサレムに向け、左わきを下にして三百九十日横たわった。その後、こんどは右わきを下にして40日横たわった。そうしてイスラエルの咎を負うように命じられたからだ(エゼキエル書4章)。エレミヤは亜麻布の帯を買って、それを腰に締めた(エレミヤ書13章)。そのように預言者たちはいろいろ象徴的な行いを公然とする。それを見る者に、「神はこの預言者の行動を通して私たちに何を教えようとしているのか」ということをわからせるためであった。

       ホセアもそうであった。ホセアを見れば、実に大変な話だということがわかる。最初から、その女性は姦淫の女で絶対に信じることのできないとんでもない女だとわかっていた(ホセア書1章2節)。それがわかっていて結婚しなければならない。結婚の祝福は一日もなかったかも知れない。しかし、その結婚は、神の真理を周りに知らせるための特別な象徴であった。そして、自分を裏切ったその女を、ホセアは積極的に求めなくてはならない。奴隷の状態にある彼女を買い取って、連れ帰らなければならない。それは、神とイスラエルの実際の関係を表わすことであった。それ故、上述した北王国の捕囚、南王国の捕囚は非常に大切な出来事であり、パウロはその時代を取り扱う。

       アッシリアとバビロンがイスラエルとユダを攻撃して全イスラエルを奴隷にしたのは、神が淫行をしているイスラエルとユダから離れてイスラエルを捨てることであった。預言者はそれを「離婚」として語っているが、なぜ神はイスラエル及びユダと離婚したのだろうか。「姦淫しているからだ」と、エゼキエルはずっと訴えている。つまり、イスラエルの方が先に神から離れて行き、先にとんでもない罪を犯し続けたので、神は淫行の女であるイスラエルを離婚させたのである。離婚されたイスラエルは自分の選んだ道を歩むことになる。どういう道であったかというと、イスラエルはバビロンの神々やアッシリアの神々を礼拝したり、エジプトの神々を礼拝したりしていたのだ。神から離れて偶像礼拝しているイスラエルを、神は御自分の民とはお認めになっていないとパウロは指摘する。彼らはむしろソドムとゴモラのように見做されたと、29節で言っている。

       なぜアッシリア、エジプト、バビロンの神々を礼拝していたのかというと、当時の世界の中ではそれらの神々が一番力あるように見えたからである。当時の世界では、そういう神々を周りの皆が認め、恐れられていた。人気のある神々だったのだ。つまり、イスラエルは、この世の人々の調子に合わせて不純な礼拝をしていたのである。自分たちの神を礼拝する中で、他の国々の神々をも礼拝していた。それは、他の神々の力を借りるようなことであり、他の国々と巧く国際関係を持つためでもあり、そうしなければいろいろと大変なことがあると考えているわけである。

       アッシリアが圧力をかけるとイスラエルはエジプトに助けを求めた。北イスラエルがユダにとって大変だと思えば、ユダはアッシリアの助けを求める。まことの神に信頼し、まことの神の救いを求めることをしないで、力があると思える所ならどこでもいいから、そこから救いを求める。それは非常に実用的な考え方だと、イスラエルは思っていた。実際に当時の世界を見れば、アッシリアやバビロンやエジプトの力はとてつもない巨大なものであった。ユダとイスラエルはその中に挟まった小さな存在であった。そして、ユダはイスラエルよりもずっと小さかった。問題になったときに、裸の力をこの世のはかりで測ってみれば、イスラエルの神は他の神々と比べ実にちっぽけであった。ユダの神よりもバビロンやエジプトの神々の方が遥かに大きく見えた。

       そういう意味で、それは今の日本と似たような状況であった。今の日本で、真剣に神を信じてその御言葉に本当に従おうとする者は非常に少ない。この世の裸の力に信頼して生きている人が多いのだ。それで、クリスチャンであっても、何か困ったことがあったりして助けを求める時に、どこから求めるかというと、場合によっては力ある所であればどこからでも助けを求めればよいと考えたり行動したりしてしまう。力ある相手なら、相手が誰であれ、そこからの助けを求めてしまうこともある。あたかも「聖書の神は心の救いには役に立つかも知れないが、現実の諸々の問題には役に立たない」と思っているような信仰になってしまう。この世のはかりで事柄を考えたり計算したりしてしまうからである。

       当時のイスラエルでは、神殿の中で偶像礼拝をしながら、一方では真の神をも自分たちなりに熱心に礼拝していた。それで神を礼拝しているつもりでいた。エゼキエルはその罪を強く訴え、8章から11章までのところでは神が神殿から離れて行く幻をエゼキエルは見ている。その幻は、神がイスラエルの神殿を離れてバビロンに行ったというものであった。バビロンに捕囚として連れて行かれたその僅かな人たちが真のイスラエルであったからである。イスラエルに残っている者たちは真のイスラエルではなかったからである。それで、イスラエルの歴史の中では僅かな者しか残っていないという状態であった。殆どの者は神から離れてしまったということが、歴史の事実としてあったことを、パウロは指摘している。

       それで、神の民であるイスラエルはどう呼ばれていたかというと、「わが民でない者」と呼ばれている。後に神はその民を再び「わが民」とお呼びになるのである。アッシリアの奴隷になった北イスラエル王国も南のユダ王国も一緒にして考えてよいと思うが、ある時代のある時期に、神の民ではないと呼ばれるようになったのだ。捨てられたとか散らされたと言うよりむしろ約束の地から引きずり出されて異邦人の帝国の奴隷となったのだ。イスラエルはホセアの妻のように奴隷となった。

       貧しい奴隷となってしまったときに、あの放蕩息子が考えたように、「父の家ではどんなに恵まれていたかを私は気が付かなかった。神の恵みと憐れみと祝福を、私は正しく考えていなかった。父の家には豊かな祝福があったのに、私はここで死のうとしている。そうだ。悔い改めて父の家に戻って、父に謝ろう。しもべの一人になてってもいいから、父の家に帰ろう」と考えた。バビロンに捕らわれて奴隷となったイスラエルの“残された者たち”は自分の罪に気付き、悔い改めて神に立ち返った。それは旧約聖書のイスラエルの歴史において一番大きな出来事の一つとして記されている。パウロはその事を指して、「今の時代は、当時バビロンやアッシリアに奴隷にされた時代と似ている」と説明する。イザヤやホセアの時代の大きな出来事を指して訴えているのである。神は次のように仰せられたのだ(26節)。

    「あなたがたは、わたしの民ではない。」と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。

       「イスラエルをもう一度御自分の民として呼んでくださる」というその神の言葉をパウロは引用して、今神から離れて捨てられているからといって、この状態がずっと捨てられたままになるというわけではないことを教えている。しかし、このような時代もあるということを説明している。この9章の箇所では、パウロの時代のイスラエルは神から離れていて神の民ではなくなってしまっており、神の裁きを受けるものとなっていることを、パウロは説明している。「イザヤも語っていたように」と、27節から29節にある。ここでもパウロはイザヤ書10章22節を引用してイスラエルの状態を説明しているが、イザヤ書10章はホセアの箇所ほど知られていないと思うので、そこを一緒に見てみたい。少し長い箇所だが、パウロは22節を引用するとき、その前の文脈をはっきりと念頭においているので、1節から23節を読んでみよう。

    1ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。2彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。3刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。4ただ、捕われ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。

    5ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。6わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。7しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。8なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。9カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。10エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、11サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。

    12主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。13それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。14私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるようにすべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」

    15斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。16それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。17イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。18主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。19その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。20その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。21残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。22たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。23すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。

       この箇所を見るとき、少なくとも二つ目立つことがある。一つは、イザヤが言うイスラエルの状態がどれほどキリストとパウロの時代に似ているか、ということである。ここでイザヤがイスラエルの罪を訴えるているが、それは主イエス・キリストがユダヤ人に訴えている内容に非常に似ているのを見るのである。「不義のおきてを制定する者」と1節にある。これは、神の御言葉を守らず、神の律法を無効にして、パリサイ人たちが制定したおきてや伝統を重んじたキリストの時代のユダヤ人と同じである(マルコの福音書7章1〜13節)。そして2節には、貧しい寄るべのない者たち、悩んでいる者たち、特にやもめたちが虐げられている状態について述べているが、主イエス・キリストはマタイの福音書23章でパリサイ人が貧しい者を虐げ、やもめたちを利用して私腹を肥やし、またやもめたちのお金をかすめ取るためにどうしていたかを訴えている(マタイの福音書23章14節)。

       そして、イザヤは、「どこに自分の栄光を残すのか」と3節で問うているが、パリサイ人と律法学者たちは自分たちの栄光ばかりを求めていて神の栄光を求めなかったことも明らかにされている。イザヤの時代、イスラエルは神の怒りの杖として立てられたアッシリアによって裁かれると、イザヤは強く宣言しているが、主イエス・キリストはマタイの福音書24〜25章のところで、ローマ帝国がイスラエルを裁いてエルサレムの神殿を破壊するであろうことを宣言している。そして6節は、英語では「偽善的な民に対して」という言い方になっているが、日本語では「神を敬わない国」となっている。いずれにしても、「偽善的な民」と表現するにせよ、「神を敬わない国」と表現するにせよ、これがパリサイ人に対するキリストの叱責の言葉となっているのを私たちは見るのである。

       但し、イスラエルの両王国の罪の最たるものは偶像礼拝であったが、偶像礼拝はパリサイ人の罪として特に言及されていない。パリサイ人の宗教的な罪は「偽善」であったのだ。イザヤの時代は文字通り偶像礼拝をしていたが、神は10〜11節でイスラエルとユダの両方を裁くと宣言しておられる。20〜23節では、「その日には残された者しかいない」とイザヤは言う。パウロはその箇所をも引用して説明しているが、イザヤ書10章全体の前後関係を前提にして引用しているので、私たちはその前後関係をしっかり捉えて考えるべきである。イザヤやエレミヤ等の時代は主イエス・キリストとパウロの時代と同じだということが前提なのだ。その時代を指して説明するとき、「それは今の時代に始まったことではない。以前のイスラエルも同じことを繰り返していた」と言っているのである。イスラエルはそのように離婚され、神に捨てられ、裁かれ、僅かな「残りの者」しかいなかった。イスラエルの歴史の中には、そのような時代は他にもあったことを指摘して異邦人に説明しているのである。

       もう一つ目立っているポイントは、神がそのようにイスラエルを裁く時にも、必ず残された者たちがいるということであるが、その点をもパウロは強調している。もう「神の民ではない」と呼ばれたその民が、再び神の民と呼ばれるようになるということが明確に教えられている。この議論は6節の「神の契約は無効になったのだろうか」という問いから始まっている。「いいえ。そうではない」というのがその答えである。「イスラエルの歴史全体を見なさい。神の導き方はそのようなものであったこと、そして、神が御自分の計画をどのように守ったかがはっきりと書き記されてあるではないか」とパウロは言う。「旧約聖書をよく見てごらん。私が伝えている福音は旧約聖書に書いてあるとおりの福音なのです」と言っているのだ。

       1章でも書いたように、ここでもパウロはイスラエルの歴史を通して神の選びと真実と契約の御恵みを語っている。それがこの箇所のポイントである。イスラエルを導く神の導き方は少しも変わってはいないのである。今の時代においても私たちはそれを見ることができるものなのだ。だから、旧約聖書のイスラエルの神の働きを見るとき、神はこのように導く御方なのだということがわかるのである。「このように神は私たちをも取り扱ってくださる神である」ということを私たちも悟るべきである。

       実際にパウロはそのことを11章のところで直接私たちに語っている。「神がそのようにイスラエルを取り扱ったのであれば、あなたがたも気を付けなさい。傲慢になって神に逆らうなら、見捨てられるかも知れませんよ」というように異邦人に警告を与えている。しかし、この9章の段階では、これは神の不思議な導き方なのだということを説明している。最後のホセア書とイザヤ書を指している段落とその前の箇所とのつながりは、今説明した通りであると思うが、ここで24節に戻って考えたい。

    神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

       ずっとイスラエルはどうなったのかを説明していたのに、ここでいきなり異邦人のことに触れている。パウロは「神は、ある者を憐れんで、ある者を憐れまない」ということを説明した。そして、「神は、御自身が創造した者をどのような器として導くかは、神のみが決めることである」と説明する中で、異邦人のことが少しだけここに出て来ているわけである。選ばれた者たちはユダヤ人だけでなく、異邦人の中からも神は御自分の民をお選びになったことをパウロは説明している。25節でパウロはホセア書を引用する。

    それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。」

       これは直接的にはイスラエルについて言っていることであるが、「異邦人についても原則的には同じだ」という含みをもって言っていることだ。24節で少しだけ異邦人のことに触れるだけですぐにまたイスラエルの話に戻っているが、旧約聖書では基本的にイスラエルは神の民であり、異邦人は神の民ではなかった。しかし、「神の民でない異邦人を神は御自分の民と呼んでくださる」という含みをもってパウロは更にホセア書を引用していると考えてよいと思う。異邦人に対する神の取り扱いは、旧約時代のイスラエルに対する神の取り扱い方と原則的に非常に似ているという含みがここにあるのは疑い得ないが、これは二次的なポイントなのだ。あくまでユダヤ人はどうなっているのかということが9章の基本的な話ではある。ここでパウロは異邦人の事に少しだけ触れておいてから、後に異邦人の話に戻っているのである。その点をここで二次的なポイントとして是非注目しておいて欲しい。

     

    御怒りと栄光

       20〜24節の箇所を、25〜29節にある預言の書の引用に照らしてみると、パウロの時代のユダヤ人の大多数の者は、神が怒りの器としてお造りになり、その不信仰を忍耐してこられた人々であることがわかるのである。しかし、彼らが背信したからといって、神の真実を否定することにはならない。この点は昔のイスラエルの背信や不信仰と同じである。つまり、昔も今も、御恵みによって選ばれ、残された者がいるのである。そこまで見たところでもう一度22〜23節のところに戻ってパウロの説明を考えたい。

    もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

       この文章はギリシャ語では非常に複雑で、これをどのように日本語に訳したらいいのかは難しい。しかし、ポイントは明らかだと思う。神が、その「怒りの器」を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった目的は、御自分の民を祝福するためである。それが一つの重要なポイントである。選ばれていない人たちの存在は、選ばれた人たちに祝福を与えるためにある。そういう意味で、神に捨てられた者にも歴史的な働きがあり、その存在は無意味ではない。神の民が神の御恵みと祝福を受けることができるようにと、その選ばれていない人たちは存在している。

       だから、「選ばれていない者たちはこの世に生きる必要はないのではないか」と思う人がいるかも知れないが、そうではない。神は、キリストを信じない人たちを通しても働いてくださるが、それは御自分の民に救いを与え、御自分の民を導くためである。そのために神は豊かな寛容をもって、そして忍耐をもって、その選ばれていない人たちを取り扱い、導いてくださる。そのすべては神が御恵みを与えようとしている人たちのためである。「・・・すべては、あなたがたのものです・・・世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです」とパウロはコリント人への第一の手紙3章21〜22節で言っている。

       ソロモンも本質的に同じことを箴言13章22節で言っている。即ち、「罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる」とあるが、罪人たちは働いて蓄えるけれども、神の民がそれを受け継ぐことになる。これが「歴史の原則」である。すべての祝福は、最終的に神の民に与えられる。これが第一ののポイントである。この驚くべき真理が9章23節で教えられている。パウロは「憐れみの器」という言い方をする。「憐れみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるため」とパウロは言う。

       「知らせてくださる」という日本語訳になっているが、この言葉は、「永遠に私たちを通して表わす」という意味である。「神の栄光の富を、私たちを通して、永遠に表わしてくださる」というのが、私たちの救いを表わす言い方になっている。神はどんなに御恵みと栄光に富んでおられるか、その豊かさと富が、永遠に表わされるのだ。それは永遠に知らされるのである。そのことをパウロはここで話している。クリスチャンではない人たちに対して神は大きな寛容をもって忍耐しておられるのは、私たちを通して御自分の永遠の恵みの深さと素晴らしさと高さと豊かさを表わすためである。「高さ」「深さ」などはエペソ人への手紙3章16〜19節にある言い方である。それを、私たちを通して表わすのである。

       そして、怒りを受けるべき者は、究極的に神の正しさを表わすことになる。当然ここで私たちは自分自身についても考えなければならない。本当は、私たちは何を受けるべきだろうか。私たちも神に敵対していた者である。神は、寛容をもって、忍耐をもって、怒りを受けるべき者たちに対して、敵を愛するその愛と恵みを与えてくださる。そして、その人たちに対して御自分の御怒りを永遠に表わす時が来る。その時、すべての罪人がどのように神の正しい裁きを受けるべきであったのかを完全に表わしたもうのである。そういう意味で、彼らも神が造られた「」である。そういう意味で、クリスチャンではない人たちも、神に永遠に用いられる「」なのである。

       次に、この箇所から、対比的に私たちのことを見なければならない。即ち、その違いを見るとき、私たちはどうなるはずだったのかを認識しなければならないのである。どういう裁きを受けるべきであったのかを見なければならない。そして、その代わりに、どのような御恵みが与えられたかを見なければならないのである。永遠に神の御栄光の豊かさが私たちに与えられるとき、その対比的なところにおいて、神がどんなに素晴らしい豊かな御恵みを私たちに与えてくださったかを見るのである。そのようにパウロは、選ばれていない者と選ばれている者の説明をしているが、「今イスラエルは神から離れている」という状態の中で、その救いの豊かさと素晴らしさをパウロは語るのである。

       そして、前後関係の中で、今のイスラエルはどうなっているのかというと、「パロのような者になっている」と言う。神から離れており、神の怒りを表わすイスラエルとなっているのである。それはどういうことかというと、彼らは神に逆らい、主イエス・キリストを殺し、そしてローマ帝国によって裁かれ、神殿も破壊されたのである。二千年経っても、イスラエルは本当の意味で自分の国に帰ることができないでいる。そこで生活はしていても、少し前まではイスラエルにいるユダヤ人の人口よりもニューヨークにいるユダヤ人の数の方が多かったが、今はどうなのだろうか。勿論ユダヤ人について考えるとき、ニューヨークだけで比較はできない。ユダヤ人が皆自分の国に戻ったわけではない。

       そして、神殿が無い限り、またレビ人がいない限り、いけにえをささげていない限り、イスラエルはイスラエルではないのだ。そこに契約的な意味は何もないからである。今のイスラエルは契約の意味を失っている別の国なのだ。人口分布の問題を別にしても、そのポイントは変わらないのである。パロのような「怒りの器」として立てられており、神の怒りを表わすものとして存在している。彼らは、「神の民ではない」と呼ばれているイスラエルになっている。しかし、いつか「神の民」と呼ばれる日が再び来るということも、この箇所でパウロは話していると思われる。それについては後にもっとはっきりと説明することになる。

       このように、神の主権を覚え、神が歴史のすべてのことを支配して導いておられるのはこの世的に見れば実に実に取るに足りない私たちのためなのだということを、私たちは覚えなければならない。これは、私たちのために歴史全体が動いているという話なのだ。今の日本の政治は誰のためなのか。悪いところは多々有ると思うが、豊かに恵まれているということも認めなければならないと思う。このように平和に暮らし、食物も毎日不自由無く与えられている。ダイエットをしなければならないほどに食べ物は過剰にある。他にもあらゆる電化製品などが生活を豊かで便利なものにしている。こんなに恵まれている時代は人類全体を見ても見当たらないのである。

       なぜ日本はこれほどに恵まれたのか。この箇所から教えられることは、「それは憐れみの器である私たちを祝福するためである」ということなのだ。そして、私たちはその恵みに対して感謝し、神の福音がこのアジアで広められるためにこれらすべてが与えられているということを覚えるべきである。神は、クリスチャンでない人たちを通して働き、御自分の民を祝福してくださるのだ。

       ここでパウロが教えていることは、永遠に続く神の栄光の豊かさがあらわれる話につながるのである。私たちは今豊かに祝福されているけれども、私たちはまだ神の御恵みの富の深さを見ていないということも言わねばならない。そして、私たちはそれを十分に知ることができないのも事実である。永遠に私たちの理解は足りない。それがどのようなものであるかを全く想像すらできない。千年経っても、一万年経っても、一億年経っても、私たちは神の栄光の富の深さ、広さ、高さを十分に見たとか分かったとかいうことはないのである。無限の時間を用いたとしても、神の栄光の豊かさを語り尽くすことはできないことはおろか、ほんのさわりを述べるにも全く足りないのだ。これから一億の一億の一億年後になっても、まだ驚くべき新しい香り、新しい美しさ、考えもしなかった恵みの素晴らしさを見ることになるのである。そして、それはまだ始まりにもならないのである。

       神の恵みの富は無限であるため、それを測るはかりはない。そのような御恵みを、神は私たちに永遠に与えてくださるのだ。「それが選ばれたことの最終的な目的だ」と、パウロはここで話している。神が私たちを御自分の民として選んでくださった目的は、その偉大で素晴らしい栄光の富を私たちに表わし、知らせてくださるためである。永遠に私たちは恵みに恵みを増し加えられる。私たちは永遠に神の愛と恵みを喜ぶ者として成長し続けていくのである。パウロは、「イスラエルの歴史的な導きのすべても私たちのためであった」と言っているが、それは私たちが偉大だからとか、人よりも優っているからとか、特別な能力があるとか、正しいからということではない。それは言うまでもないことである。創造主なる神が、私たちに、そのような御恵みを与えてくださることを永遠のはじめに決められたのである。

       神が私たちを選んでくださった。この選びの教理と神の主権の教えは、感謝の心とへりくだった心を持つように私たちを導くものだ。恵みによる選びの意味を理解するならば、一層神を恐れてへりくだるべきである。そして、人と神の前で心を穏やかにすべきである。「ああ。私は選ばれた者だ」といって傲慢になるためではない。自分の何かの努力とか功績によるのではないことを知り、恵みが与えられたとき、恐れをもって、へりくだって神に感謝するのである。すべての不平の代わりに感謝の心をもって救い主イエス・キリストをあがめ、新しい歌をもって賛美しなければならない。

       永遠の栄光の富が私たちに与えられているのに、この世の小さな富が僅かに足りないからと言ってつぶやいたりブツブツ言う私たちの目は、実に間違ったところを見ているということを深く感じさせられると思う。「永遠の富の祝福」が私たちに与えられていることを覚えて、本当に神の救いの御恵みに対する感謝の心をもっともっと深く持つべきだということも感じさせられると思う。そのような感謝の心をもって一緒に聖餐式を受けたい。結局私たちは感謝を忘れてしまいがちである。神の愛の大きさ、神の御恵みの豊かさを、私たちはすぐに忘れてしまいがちである。そのために聖餐式が、感謝のための祝いとして私たちに与えられている。自分の罪を悔い改めて聖餐式を受けるのはもちろんであるが、罪の悔い改めそのものではなくて、神の御恵みへの感謝こそ中心でなければならない。神への感謝と、神を喜ぶ心をもって、一緒に聖餐式を受けたい思う。

      

    ――2001年4月22日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙9章14〜24節

    ローマ人への手紙9章30〜33節

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