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    ローマ人への手紙10章1〜4節


    10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

    10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

    10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

    10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

    2001.05.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法の目標

    10章1〜4節

       今日からローマ人への手紙10章に入るが、9章30節から10章の終りまでは一つの段落として考えてよい。10章の最初の節でパウロは、9章の初めと同じテーマに戻って説明を更に展開させている。パウロはイスラエルの救いを深く望み、そのことを熱心に祈っている。

       「では、どういうことになるのか。義を追い求めなかった異邦人は義を得た。すなわち、信仰による義である。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しなかった」とパウロは言っている。イスラエルが義を求めていたことじたいが悪いと言っているのではない。義の律法を求めながら、その律法に到達しなかったことがイスラエルの問題であった。どういうことかというと、「信仰によって追い求めないで、行ないによるかのように追い求めたからだ」とパウロは言っている。ユダヤ人は、信仰によらずに、行ないによって律法の義を求めたのである。モーセの律法に問題があるのではなく、どのように律法を捉え、それに対してどのように応答したかが問題なのだ。義の律法を求めることは悪いことではない。しかし、それを行ないであるかのように求めるから、その義に到達しないのである。

       何度も強調してこのことを言っているが、これは非常に重要なポイントなので、ぜひ心に刻んでほしい。モーセの律法が行ないによる義を教えているかのように考える人はたくさんいる。そして、モーセの律法と福音について考えるとき、「モーセの律法は行ないによる義で、福音は信仰による義である」と考える人が実に多いのだ。簡単に言えば、それはルーテル派と改革派の区別となる一つの捉え方となっている。そして、これはディスペンセーショナル主義と契約主義の区別の一つにもなる。

       ルーテル派は昔から聖書全体を律法と福音とに分けている。つまり、あるところでは「律法に従うことによって義と認められる」と教えて、「それが律法の教えだ」と言う。しかし、その律法の教えを受けても、結局それを守ることはできない。そのことを悟ったときに、人々は初めて福音を求めるようになる。それで、「聖書の中には二つの救いの道が教えられている」と考えるわけである。一つは「律法による救いの道」であり、もう一つは「恵みによる救いの道」である。だから、「モーセの律法は主に律法による救いを教えており、その目的は、行ないによって義と認められるためではなく、それが不可能だということを悟らせるためであった」と、ルーテル派の人たちは解釈するわけである。

       それだから、「イスラエルはモーセの律法をまるで行ないによって義と認められるかのように求めたが、それは彼らには相応しい求め方だった」というような理解になる。自分の行ないによって義と認められると教えられたので、それを実践しようとしたというのである。だから、「到達しなかった」というのは、行ないが不十分だったという意味になり、「もっと行なわなければだめ」という話になる。しかし、パウロはそんな話しをしてはいない。「本当は信仰によって得ることを教えているのに、それを行ないによって得るかのように求めたので、到達しなかったのだ」と、パウロは説明している。モーセの律法は、信仰によって受け入れるものなのだ。

       つまり、モーセの律法は恵みの教えにほかならないのである。だから「モーセの律法は福音である」というふうにパウロは説明しているわけである。これは、カルヴァン時代からの改革派の普通の教えである。そこに改革派とルーテル派の教えの違いがある。最終的にどのように救われるかというと、「主イエス・キリストを信じて、恵みによって義と認められる」という点では何も違いはない。しかし、モーセの律法をどのように捉えるのかという点では解釈が違うのである。「アダムの時からずっと神の契約の啓示は一貫して成長していく」というのが改革派の見方である。しかしルーテル派は、「モーセの律法と福音は基本的に違う救いを教えている」と考えている。それだから、「モーセの律法の救いは、到達しないための教えである」というような解釈になるわけである。つまり、モーセの律法は、「行ないを完全にすることはできない」ということに気付かせるために与えられたと考えるのである。

       それで、「モーセの律法を完全に行なうことはできない」ということに気が付いたなら、アブラハムの契約に戻って信仰によって義と認められるようになるというような解釈になる。ディスペンセーショナル主義も基本的にそれと同じようなものである。アブラハム契約は約束の契約だと理解している。ノアの契約も約束の契約である。しかし、モーセの契約は律法の契約だと教えるのである。それで、「モーセの律法だけは、律法によって義と認められるという教えになる」と解釈してしまう。それで、「キリストが来たときに、やっと福音は与えられた」と、ディスペンセーショナル主義は解釈する。しかし、パウロはここで、「モーセの律法に到達するには信仰が必要なのだ」と説明しているのである。

       モーセの律法の命令を見るとき、それら613の命令は何を教えているのかというと、主イエス・キリストは簡潔にそれを二つの命令に要約してくださった。その二つの命令を正しく把握すれば、モーセの命令全体を正しく把握できるわけである。その二つの命令とは、第一が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であり、第二が「隣人を自分のように愛しなさい」である。「この二つにまさる掟はほかにない」とキリストは言っておられる(マルコの福音書12章参照)。モーセの律法の教えは、「この行ないによってあなたは救われる」というものではなく、「神を愛し、そして隣人を愛しなさい」という教えなのである。聖書の律法は、愛を教えているのだ。

       モーセの律法の一番の中心はレビ記である。残念ながら、それは現代のクリスチャンが一番無視してしまうところなのだ。レビ記を読むときに、それこそ誰もが速読してしまうのではないか。しかし、そこがモーセの律法の中心なのだ。レビ記1章から7章までに何が書いてあるかというと、犠牲制度である。どういういけにえを、どのように、いつ、なぜささげるべきなのかが詳しく書いてある。基本的な五つのいけにえについてモーセは教えている。その五つの基本的ないけにえについて教えられるとき、ユダヤ人は「神が御恵みをもって私たちの罪を赦してくださる」ということを繰り返し教えられているわけである。

       全焼のいけにえは、その全部を神にささげるものである。そして、罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえは(ここでは言葉の定義まで説明する時間はないが)、私たちの罪の問題を解決するためのものである。例えば、憤って神に逆らった者は悔い改めることができるのかというと、勿論出来るけれども、悔い改めと一緒にその二つのいけにえをささげなければならない。そして、「悔い改めるなら罪は赦される」ということが、その犠牲制度の中ではっきりと教えられている。そこまで神は寛大で、御恵みをもって私たちの罪を赦してくださるのである。四番目は、ささげもののいけにえであり、それは穀物などの献納物をささげるものである。そして五番目が和解のいけにえである。そのいけにえは、神が受ける部分と私たちが受ける部分と祭司が受ける部分の三つに分けられる。

       つまり、神が、礼拝をささげる者と一緒に交わりを持ってくださるのである。「神が一緒に食事をしてくださる」ということをそのいけにえの象徴において表わしているのである。「一緒に食事をする」ということは「交わりを持つ」ことである。いけにえ制度は、罪の問題が解決されたなら、神は私たちのささげものを受け入れてくださって、私たちと一緒に親しい交わりを持ってくださることを教えるものなのだ。それがレビ記全体の教えなのだ。祭りは、私たちが神の家に招かれて親しく交わりを持つことを表わすものである。しかし、その招きは命令であることをも忘れてはならない。断るなら、裁かれることになる。

       キリストの譬え話で、ある人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人々を招いたのに、招かれた人たちはいろいろな口実をもうけて次々に断ったという話がある。それでその人は、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と、しもべに命じた。招いた者たちは相応しくない者であったので、浮浪者でも不具者でもみな連れてくるように命じたのである。そして、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と、主人は言ったのである(ルカの福音書14章16〜24節)。

       その譬え話は、神が御国をイスラエルに与えようとして招いたのに、イスラエルは招きを受け入れなかったことを表わしている。それゆえ神は御国の祝福を他の人たちに与えたという話である。そういうわけで、祭りは、「神の家の宴会に来てください」という祝福の招きなのである。神殿はエルサレムにあって、年に三回、民は皆、神の家に来て交わりを楽しむのである。祭りの時には何をするかというと、歌を歌い、皆で踊り、飲んで食べるのである。「お酒や葡萄酒を飲んで、牛や羊の初子を食べなさい」(申命記14章〜16章)と書いてある。お酒を飲んで、踊って、主の前で食べ、家族とともに喜ぶようにと命じられているのである。日本にもいろいろな祭りがあるが、祭りはある意味では“遊び”と言ってよい。それほど低い意味でただ遊ぶというわけではないが、喜ばしい祝いなのだ。

       祭りとはそういうものなのである。ダビデも道で踊りながら神の御前で喜んだが、私たちもいつかダビデのように聖い心をもって踊って神を礼拝できたら良いのにと思わされる。それは横道になるが、とにかく、祭りは喜ばしいことである。イスラエルの礼拝は、神がイスラエルを御自分の家に招いてお祝いして楽しもうということだったのだ。これはまったく恵みの話なのだ。恵みいっぱいの話が律法の中心となっているのである。イスラエルはそれを見て、信仰をもって神の愛を喜び、そして信仰をもってその愛に応答するべきであった。イスラエルはそうしないで、割礼についての律法、安息日についての律法、食べ物についての律法、着物についての律法などを中心にし、それらの定めを行ないとして守っているか否かを律法の中心であるかのように考えて、律法を歪曲して解釈した。そして、その“律法の行ない”だけを問題にして厳しく要求した。だから、完全に律法の心から離れてしまったのである。義を、行ないによるかのように求めたのである。

       神は、御恵みをもってイスラエルを選び、御恵みをもって犠牲制度を与えてくださった。イスラエルは、神の御恵みに信仰をもって応えるだけで良かったのである。では、そのモーセの613の命令は何なのかというと、それは天の父が、愛の道を、未熟な子供たちに教えるために与えてくださった戒めなのである。皆さんの子どもたちも、何を着るか、何時に寝起きするか、何を食べるのかなどについて、親に何か言われているだろう。子を愛する親がそれを言うのは当然のことであろう。私が18歳の頃、大学のカフェテリアではミルクシェークが飲み放題だった。嬉しくて、いつも底なしに飲んだ。子どもとはそういうものである。愚かな子どものレベルで、彼らに選択の自由を与えれば絶対に間違った選択をする。だから、父と母は子どもに「こうしなさい」と教えなくてはならない。正しく生きるために戒めも与えなければならない。それが父と母の愛である。

       この箇所でパウロが話しているのはそういう話なのだ。だから、イスラエルは、モーセから命令が与えられたときに「命令が613もあるのか。大変だ」と思ったかも知れないが、そのすべてが愛の命令なのである。どれもイスラエルに大切な教えを与えて祝福するための命令である。「殺すな」は、守りにくい命令だろうか。着る物の命令は確かに子ども扱いであり、住む場所も家族ごとに定められていた。「一年間のカレンダーはこうでなければならない。一日の日課はこうでなければならない」と命じられていた。それらは確かに子ども扱いであって、そのことをパウロはガラテヤ人への手紙3章で説明している。確かに子どもとして扱われている。すべては象徴的な教えをもって、神について、義について、世について、罪について、深くイスラエルに教えるものであった。

       子どもたちが確かな象徴を通して教えられるのは良いことである。ところが、その象徴を通して教えられた子どもたちが、象徴の表面的なところばかり見てしまって内容については何も見ない、というのがイスラエルの状態であった。着物の命令において、その服の意味は何なのかというと、それは、「あなたは他の国々の民と違って、神に愛されている者である」ということを教えるものなのだ。青色の布を腕に付けたり衣の下のふさに付けるのは、イスラエルが天の民であることの象徴であった。衣の下に付ける「ふさ」は、へブル語では「翼」を意味する言葉である。ユダヤ人の衣にはその「翼」が四つあった。それは、「自分たちはケルビムの民である」ということの象徴であった。ケルビムのように、神の聖さを守る民であることを教える象徴であった。

       そのように子どもたちの衣に星を付け、翼を表わすふさを付けて歩かせ、生活させるとき、自分たちは自分が何者なのなのかを深く認識するように導かれるのである。意味を深く子どもたちに教えることになるのだ。周りの国々は違う服を着ている。着る服によってもイスラエルは父なる神に絶えず教えられているのである。「これを食べてはならない。これをしてはならない。これを着なさい」と子どもたちに命じるときに、子どもたちが「なぜそうするのですか」と尋ねるなら、「よく聞いてくれました。それはこういう意味ですよ」と言って教えるためである。その象徴を説明することによって深く子どもたちに教えるものであった。「私たちはひつじのような民でなくてはならない。豚のような民であってはならない」ということを繰り返し深く教えられる。

       「豚肉の方が美味しい」と現代の人間は考えるかも知れないが、どちらが美味しいかの話ではなく、豚の生活と習性が一つの象徴となっているのだ。雑食で、何でも無差別に食べるし、汚くて、臭い。ひつじも臭いけれども、ひつじの生活は豚とはまるで違う。ひつじを食べて、ひつじのようになれと言うのは、その生活と習性を象徴として教えているのである。豚のようになってはいけない。この世の国々は豚によって象徴されるようなものである。象徴を通してその意味を真に学んで知恵を得るならば、イスラエルは神の愛を喜ぶことができるようになり、神に信頼するようになり、自分たちの間でも互いに愛の道を歩むようになる。そのすべては、子どものためだということを、理解するはずである。しかし、イスラエルはそれを理解せずに、豚を食べるか食べないかという一点に絞られるかのように考えてしまった。それがユダヤ人の間違いであった。それで彼らは、まるで行ないによるかのように考えてしまい、信仰による義に気付かないのである。

     

    救われていない者のために祈る

        この箇所のパウロの祈りは実にすばらしい。パウロは、「兄弟たち。私が心の望みとし、神に願い求めているのは、彼らが救われることです」と言っている。パウロは、信仰から離れているイスラエルを見て、「この人たちは選ばれていないと思う。だから、私はこの人たちのために祈りません。この人たちは地獄に行ってもいい」と思っただろうか。ユダヤ人たちは至る所でパウロに反対し、町から追い出し、パウロを殺そうとしていた。パウロの働きを妨害するために全力を尽くす人たちであった。そこまで激しく福音に反対する人たちに対しても、「もう地獄に行けばよい」という結論には絶対ならないのである。パウロが個人的に憤りをもってユダヤ人に対して立ち向かったとしても、十分に正当な理由はあったのだ。また、イスラエルが悪意をもって福音に反対するがゆえに、彼らは神の御怒りの下にあることも、パウロは十分理解していた。テサロニケ人への第一の手紙2章14〜16節でパウロはこう言っている。

    兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。

       それなのに、相手が生きている限り、パウロはその救いを願い求めるのである。相手がどんなに悪いことをしたとしても、その人が生きている限り、その人の救いのために祈る意味があるし、場合によってはそう祈る義務もあると言わなければならない。その人が生きている限り、悔い改めて救われる機会は与えられていると考えなければならない。クリスチャンではない自分の父と母の救いのために祈る義務はあるだろうか? 勿論、そう祈る義務はあるのだ。「あんな奴等は地獄に行けばよい」と、誰が言えるだろうか。それは誰も絶対に言えないことである。「もうその人のために祈る意味はない」と思ってはならない。たといクリスチャンではない父と母があなたを殺そうとしても、或いはあなたを勘当するとしても、あなたは彼らの救いのために神に祈り求めるべきである。

       パウロがユダヤ人のために祈っているように、私たちも、自分を憎んでいる敵のような相手のためにも祈るべきである。そのことは、この箇所から明らかである。12章14節でパウロは、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と命じている。キリストも「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じている(マタイの福音書5章44節)。またルカの福音書6章28節でも、「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と命じている。これは私たちの責任なのだ。だから、パウロも自分を迫害しているユダヤ人の救いのために祈っているのである。イスラエルの救いを求めるパウロの祈りを見れば、敵を愛して神の御国を求めることの意味がわかると思う。「相手が生きている限り、相手の救いのために祈るべきである」ということをパウロは自らの模範をもって私たちに教えている。

       どんなにどうしようもない人に対しても、「地獄に行けばよい」と言ってはならないし、そう考えてはならない。その人を呪ってはならないのである。前にも話したように、これはシェークスピアの「ハムレット」の最も中心的なポイントでもある。ハムレットの叔父が王であるハムレットの父を殺して王に即位した。政治的にも力を持っていたハムレットは、その叔父に復讐しようとする。ある時、叔父クローディアスが一人でチャペルの中で跪いて祈っていた時に、ハムレットはその背後から剣を構えた。しかし、神に祈っている叔父を見て、「いや、待てよ。今殺したら、叔父を天国に送ることになるかも知れない。この男を天国に行かせるわけにはいかない。何としても地獄に行かせるのだ」と決意した。

       そう決めた瞬間から、万事が悪い方に向かって行くことになった。間違ってポローニアスを殺し、二人の友人を殺し、殺されたポローニアスの娘は悲しみのあまり自殺してしまい、続いて叔父の陰謀による戦いで剣に仕組まれた毒によってレアティーズが殺され、母ガートルードもその同じ毒が入った杯を飲んで死に、ハムレットもその戦いで受けた傷の毒によって死ぬことになるが、死の直前にその毒の剣でクローディアスを刺し殺した。いったいどうしてこれほど多くの人々が死ぬことになったのか。それはハムレットが、「何としてもこの男を地獄に送ってやる」と決意したからである。シェークスピアは、そのハムレットの悲劇を通して、人を地獄に行かせようとする復讐心の悪を暴露しているのである。パウロはどうだろうか。パウロは、ハムレットと違い、激しく自分に反対するユダヤ人たちの救いのために、毎日、心を砕いて熱心に祈っている。これこそクリスチャンのあるべき姿である。

     

    無知な熱心

       2節でパウロは、「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しします」と言っているが、ここには深い意味がある。イスラエルの場合、黙示録3章14節にあるラオデキア教会のようになまぬるいことが問題なのではなく、間違った熱心が問題であった。「証しします」という言い方には公然と証しするという意味がある。ユダヤ人の熱心がどれほどかというと、公然とパウロを殺そうとする程であった。ユダヤ人の熱心は、「まあ、宗教の話だけなんだから、いいじゃないか」というような軽いものではない。「この福音を語るなら殺す」というほどの熱心なのだ。パウロが9章の終わりで指摘しているように、イスラエルは「つまずきの石」につまずいたのである。

       実は、パウロ自身もそのつまずいた者の一人だったのだ。パウロは救われる前、キリストの教会を迫害した。パリサイ派の中でも彼は最も熱心な人間であった。ステパノが殺される時、パウロは賛同してステパノが殺されるのを求めた。そのような、生きるか死ぬかを決するほどの熱心なのである。そして、イエスを殺すことに加担した多くのユダヤ人が悔い改めて神に立ち返ったように(使徒行伝2章36〜38節)、ステパノ殺しに加担したパウロもまた、間違った熱心を悔い改めて、自分にとってつまずきの石であったキリストを信じる者となったのである。だから、その間違った熱心については、パウロは誰よりもよく知っていた。

       今日でも、ユダヤ人の中には“熱心”な人は多い。歴史においてイスラム教国とユダヤ人との戦いが途絶えない理由は、双方とも熱心だからということも言える。そして、パウロが言うように、「熱心ではあるが、その熱心は、正しい知識に基づくものではない」のである。それは間違った熱心であり、その間違った熱心は大変な問題を招くことになる。熱心は、ある意味で良いことだが、間違った目的のために、間違った考えで熱心になったなら、それこそ危険きわまりないものとなる。ユダヤ人の熱心は、キリストを殺し、パウロを殺し、使徒たちをも殺し、キリスト者たちを殺すという熱心になった。熱心ではあるが、それは正しい知識に基づいていないのである。最終的にイスラエルの熱心は、神のためではなく、彼ら自身の義と誇りのためのものとなってしまった。

    私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。

       彼らは、神が与えてくださる義を知らない。義に対する彼らの無知は、罪のない“無邪気な”無知ではなかった。彼らは自分たちの義を立てようとした。自分の義を誇っていた。そのために、神の義には従わない。神の義に対する彼らの無知は神への反逆の結果なのである。それがイスラエルの問題であった。ここでパウロは信仰の話に戻っている。神が与えてくださる福音による「」を、イスラエルは知らない。なぜ知らないのかというと、自分の義を立てようとするからである。そして、「神の義に従わなかった」という時、これはただ知識が足りないという話ではない。ここで言っている知識の問題とは倫理の問題である。知らないのは、知りたくないからなのだ。係わりを持ちたくないからなのだ。なぜそれがわかるのかというと、4節がその点を十分に説明しているからである。

     

    律法の目標

       4節は、新改訳では「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」となっているが、この翻訳は間違っている。新改訳では脚注に別訳で「律法の目標であり」とある。このギリシャ語の「ケロス」という言葉は、「目標」とも訳せるし、いろいろな訳が可能である。「終り」と訳すこともできるし、「成就」という訳も可能である。歴史的には「目標」と「終り」と「成就」が教会の基本的な解釈である。神学的に大きな違いは特にないと言ってよいと思う。しかし、「律法の終りである」という解釈は先に説明したルーテル派やディスペンセーショナル主義のような解釈になる。つまり、ルーテル派やディスペンセーショナル主義は、「モーセの律法の時代は律法による義であったが、今はキリストが来られたので、それとは別に義と認められる道が開かれた。イスラエルはその新しい道を求めずに律法の時代に留まっているので、それは間違いである。キリストが律法を終わらせたのだから」と解釈する傾向が強いのである。

       また、「律法の成就である」という解釈と「律法の目標である」という解釈の違いは微妙であり、その両方をオーバーラップさせたような解釈をする人もいる。「キリストは律法の成就である」と言うとき、頭の中では「キリストは律法を成就した」という命題が中心になってしまいがちで、焦点はキリストにあるかのような解釈になる。しかし、「キリストは律法の目標である」と言うとき、「律法には目標がある」ということが命題なのだ。そしてその律法の目標はキリストなのだということを説明しているのである。パウロは律法について語っているのであり、律法にはどんな目標があるのかを話しているのである。ここでパウロはイスラエルと律法の関係について説明しているのだから、4節は「律法の目標はキリストです」という解釈が一番良いと思う。

       しかし、キリストが律法を成就したということも事実なので、神学的には何ら問題ではない。主イエス・キリストが十字架上で死に、三日目に復活し、昇天されたことによって、律法の犠牲制度などは終りを告げたということも事実なので、そういう意味で言うなら「律法の終りです」という表現も出来ないわけではない。だから、神学的には深刻な問題があるわけではない。しかし、「目標です」と言うとき、イスラエルがモーセの律法を読んだり学んだりするときに、その律法が一時的であることは誰もが知っている筈だということである。一時的なものとして与えられたけれども、確かな目標をもってイスラエルを導くためのものとして与えられたのである。

       イスラエルは、メサイアを待ち望む民なのだ。本当の意味での「贖い」が来るのを熱心に待っている民である。このことをヘブル人への手紙の中でパウロは長く説明している。律法の中のいけにえ制度が本当に罪の問題を解決できるのであれば、それを毎日繰り返し行なわなくてもよい筈である。朝も夕も毎日それを行なわなければならなかった。その犠牲を象徴する行ないによって本当に罪を取り除くことができて義をもたらすのであれば、毎日繰り返し行なう必要はなかったのである。それを繰り返すのは、「まだ贖われていませんよ」ということを深く教えるためであった。

       その律法によってイスラエルが、「いつか本当の贖いが来る」ということを望むようになり、「今行なっている事は一時的なものであって、律法を成就する御方が来るまでのものだ」ということを悟るためであった。それ故、律法の目標は、イスラエルをその成就される時へと導くものであった。それ故、「目標」について語ればどうしても「成就」の話が出てくることがわかると思う。この二つは概念的にオーバーラップしているのは事実である。

       これらすべての議論において、既に説明したように、パウロは律法そのものに反対していないのは明らかである。律法に問題はない。問題はイスラエルの罪であり、その不信仰である。イスラエルが本当の意味で神の律法に従ってはいなかったことが問題なのである。律法のすべては目標であるキリストを指している。律法のすべてはたった一つのこと、すなわちキリスト御自身を指し示している。キリストを指し示すことが目標(end = goal)であるなら、目標なしに作業だけしているイスラエルの状態は確かにおかしいのだ。作業している人に「なぜそれをしているのか」と尋ねたら、「別に。ただやっているだけ」という返事なら、それはおかしいのだ。しかし、イスラエルの律法の守り方とはそういうものであった。目標は何なのか。何を求めているのか。それが見失われている。目標なしにただ守っている。そして、自分たちが守っている事についてパリサイ人たちは熱心に争うのである。

       ユダヤ人が熱心に律法に従っていたのであれば、なぜその真の目標を見逃してしまうことがあり得たのか。それは、信仰によって律法の義を求めなかったからである。主イエス・キリストは、パリサイ人たちに語るとき、目標について話したり、義の本質について、義の意味について、そして律法の成就について話された。しかし、パリサイ人たちは承服しない。彼らは、「安息日に人を助ければ、安息日に労働したことになり、安息日の律法を破っているのだ。それは許せない」と叫ぶのである。彼らは、安息の意味が何なのかを知らない。キリストはパリサイ人たちに、「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか」(ルカの福音書13章15節)と、また「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか」(ルカの福音書14章5節)と言っている。

       安息日は祝福を与えるためにあるのであって、自由を奪うためにあるのではないと、主イエス・キリストは教えている。彼らは「目標」を完全に忘れてしまっている。本当の意味を見失っている。形だけにしがみついてその行ないを誇っているが、本質は持っていない。表面的なことについて戦うが、内容が何なのかを見ようともしない。目標なしで、形だけを守ろうとしている。それで、「律法の目標」から離れてしまい、律法の意味を否定していた。律法が求めているのはキリスト御自身なのである。律法を守りながらキリストを信じない者は、律法を守っていないことになる。目標から離れているからである。

       キリストは律法の目標であるので、律法全体がキリストを求めるものとして与えられている。それ故この4節は、「キリストは律法の目標であり、それは信じる者がみな義と認められるためである」と訳す方が良いだろう。律法はキリストを目標として持っているので、キリストを信じる者は義と認められるのである。「信仰による義」は律法の教えであり、福音の教えでもある。律法も、福音と同じことを教えている。それは、パウロがいろいろな言い方で何度も説明していることである。モーセの律法を読めば明らかなことだが、神はアブラハムに約束を与えて愛を持って導いてくださり、エジプトの中で苦しんでいる民の祈りを聞いてその奴隷状態からイスラエルを導き出し、民が罪を犯すと、その罪を赦して続けて導いて助けてくださった。律法の話は全部が恵みなのだ。

       イスラエルはそれを読む時、「信仰によって義と認められるのだ」ということが十分に分かるはずであった。律法のすべては、贖い主メサイアを求めるものとして与えられていた。イスラエルはそれを理解せずに、形だけを求めている。そのような、神に逆らうイスラエルに成ってしまっていた。そのことをパウロは話している。律法の目標を見ないで律法から離れているユダヤ人のために、パウロは熱心に祈っているのである。しかしイスラエルの真の問題は、先週も話したように「キリストにつまずく」というところにあった。神御自身につまずき、神の恵みにつまずくのである。

       そのように、私たちは聖書全体を一貫したものとして見なければならない。創世記から黙示録の終りまでの全体の中心はすべて主イエス・キリスト御自身である。すべては神の御国の契約の話であるけれども、契約の主はキリスト御自身である。「キリスト御自身を目標として持っている」という意味は、神が主イエス・キリストのみを通して恵みの救いを私たちに与えてくださるということである。聖書は最初からそのことを教えており、それは全く一貫した教えである。「律法を守ることによって義と認められる」というのは、間違ったパリサイ的な考えである。そして、パリサイ人たちの「律法を行なうことによって救われる」という考え方は、考えそのものとしてはかなり違うけれども、適用としては中世期のヨーロッパの考えと同じような適用であった。

       中世期のヨーロッパには、「良い行ないを沢山しなければ救われない」という考え方があった。パリサイ人たちの考えは、割礼や安息日の律法、食べ物に関する律法、洗いきよめに関する律法など、いわゆる「儀式律法を守らなければ救われない」というものであった。「一日に何回か良い行ないをしなければ救われない」というものではなかった。キリストの弟子たちを攻撃するとき、「そこに貧しい人がいたのに、あなたはなぜ助けなかったのか」というような話をパリサイ人たちはしていない。「食べる前に手を洗わなかった」と言って抗議したのは、手が汚いからとかではなく、「儀式律法を守っていない」と言いたいのである。また、「イエスの弟子たちは安息日を破った」と言って抗議した。また割礼についても争う。すべては儀式律法の話であった。愛や倫理についての論争ではなかった。

       中世期のローマン・カトリックの教会の中でもその傾向がなくはない。つまり、バプテスマを受け、ミサに行き、懺悔をし、結婚の儀式、そして死ぬ前の儀式を受けるなら、他はどんな生活を送っても救われるというような考え方があった。だから、マフィアの中には熱心なローマン・カトリックの信者が少なくない。ミサは絶対に守るし、懺悔もする。敬虔で信心深い彼らは「犯罪はミサの後にしろ」と言う。彼らにとっては儀式を守れば救われると思うからである。そのような考えはパリサイ人たちだけのものではなく、いつの時代にもそう考えてしまう人はいるのだ。パリサイ人たちは、彼らが考えているような意味で割礼を受け、安息日を守り、祭りを守り、あれこれの律法の儀式を守りさえすれば、他はどんな生活をしていても救われると考えていた。彼らは、律法の儀式が神の贖いの御恵みを祝うものだという目標と意味を見失い、それを忘れている。

       それ故、いったいどのような意味でキリストが律法の目標だと言えるのだろうか。既に説明したように、第一に、律法の倫理はすべて愛の倫理であって、最終的に愛の神についてイスラエルに教えるものであった。神はイスラエルを選び、イスラエルの功績に係わりなく御恵みを豊かに与えてくださった(申命記7章6節以下)。イスラエルにとって真の意味で律法に従うことは、即ち愛の道を歩むことであった。律法を要約する二つの命令は、愛に歩むことを命じていたのである。第二に、犠牲制度と祭りの暦はすべてキリストを指しているという意味でキリストは律法の目標である。旧約聖書の犠牲と祭りは、ほとんどのクリスチャンが考えるよりもはるかに重大な意味を持つものである。

       犠牲と祭りに関する律法は、1500年にもわたって神の民の礼拝制度の中心であったのだ。犠牲のすべては、最後にして完全なる犠牲であられるキリストを指し示すものであった。日ごと、週ごと、月ごと、年ごとの犠牲と祭りは、罪に対する神の義なる御怒りを教えるものであり、贖われる必要を教えるものであった。更に、神が恵み豊かな神であられて、身代わりの死による罪の赦しの道が開かれていることを教えるものであった。繰り返し犠牲がささげられなければならなかったのは、その完全な身代わりがまだ与えられていないことをイスラエルに教えるためであった。その犠牲律法が一時的なものであって、メシアの到来によってその律法が成就することを教えるためであった。

       メシアが律法の目標なのだ。メシアは、イザヤ書52章13節から53章12節にある預言のとおり、世界の罪を取り除く御方であられるのだ。律法の目標は主イエス・キリストである。律法には、イスラエルを主イエス・キリストに導き、イスラエルを通して世界をキリストに導くという明確な目標があった。しかしイスラエルは、律法を正しく信じなかったためにその目標に至らなかったのである。しかし、神の律法を正しく信じてその教える義に従う者たちは、信仰によって主イエス・キリストに導かれて、信仰によって義と認められるのである。

       私たちは、毎週礼拝に集まるときに聖餐式を行なっているが、これも儀式である。聖餐式を行なうとき、「パンを食べて葡萄酒を飲んだから救われる」という話ではない。神が恵みの救いを与えてくださったので、私たちはその恵みに対して感謝をささげ、キリストの御業を祝い、聖餐にあずかるのである。それ故、パリサイ人たちの考え方とは全く逆なのだ。そして、聖餐式は神の御恵みを表わす儀式である。その御恵みを覚える儀式である。神が私たちにキリスト御自身をその契約の象徴において与えてくださるのである。私たちは、神に感謝をささげて、それをいただく。キリスト御自身を受け入れるのである。食べることは契約の意味を持つ行為であることはモーセの律法にも出て来るし、キリストを表わすパンと葡萄酒を受けるとき、私たちは行動においてキリストを受け入れることを告白するものである。

       だから、その意味をよく覚えて、感謝して神の御名を賛美しつつ、聖餐式を正しく受けるべきである。何か神秘的あるいは魔法的な力が葡萄酒とパンの中にあって、この葡萄酒とパンを飲み食いすれば、キリストを存在論的な意味で飲み込んだことなり、救いの力はそのパンと葡萄酒の中にあるというような話ではないのである。パンと葡萄酒は実際にキリスト御自身であって、その救いの力を持つパンと葡萄酒を食べたり飲んだりすればするほど、救いの力は自分の中で成長していくという話ではない。

       聞いて笑う人もいるが、それが実際に中世期のローマン・カトリックの聖餐式の教理だったのだ。彼らは存在論的に聖餐を解釈する。神の働きはミサを受けることによって自分の中に入り、度重なるごとにその力は増し加えられていくと考えた。そうではなく、聖餐式は神が与えてくださった契約のお祝いなのだ。恵みのゆえにキリストが与えられたことを神に感謝するのである。キリスト御自身が中心なのである。パンと葡萄酒の目標はキリストにあり、神の御恵みにある。そのことを覚えて、正しく、そして相応しく、聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年5月20日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙9章30〜33節

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