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    ローマ人への手紙10章5〜10節


    10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。

    10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

    10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

    10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

    10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

    10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

    2001.05.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    モーセ対モーセか?

    10章5〜10節

       ローマ人への手紙10章4節で、モーセの律法の目標は主イエス・キリストにあるということを先週一緒に見た。モーセの律法を本当に信じて、それに従い、モーセの律法の教えを心から求める者は、主イエス・キリストに導かれる筈だということをパウロは言う。モーセの律法はすべてキリストを指して書かれているからである。そのことについて先週は、ユダヤ人がモーセの律法を正しく求めなかったために、モーセの律法の本当の目的と意味を得ることができなかったことを一緒に見た。つまり、彼らはキリストに「到達しなかった」のである。今日は5節のところから見るが、原語の5節は「なぜなら」という言葉で始まる。それによって5節からのところは、4節のところを更に説明していることがわかる。

       このポイントについては凡そすべての注解書は一致しており、ほとんどの人は5〜8節までの箇所が4節を説明するものだという点では同意している。しかし、4節の説明が何を意味するのかという議論になると、けっこう難しい話になる。また、5節がその後の節とどのような関係になっているのかについては、大きく分けて五つか六つの異なる解釈がある。そういうわけで、パウロの手紙の中でこの箇所は難しい箇所として有名であり、最も論争を招く箇所の一つである。私はここで多くの解釈を列挙してその中でどれが良いと思うかについて説明するような話し方をしようとは思わないが、「注解書を見るとき、この箇所についてはいろいろな解釈がある」ということだけは言っておきたい。

       4節については先週説明したが、パウロが引用している旧約聖書の箇所の前後関係を見れば、二つの引用元(レビ記18章と申命記30章)の文脈は、本質的に同一の神学的真理を教えていることがわかる。しかし、そうであれば、なぜパウロはこの二つの聖句があたかも相反する原則であるかのような書き方をするのだろうか。或いは、どうしてそれらが相反するようにパウロが引用したと見ること自体が誤りなのだろうか。この箇所を理解するアプローチとして、5節と6〜8節を対比的なものとして解釈する方法が一番よいと私は思う。そして、この対比は9章の終りにあるような対比と同じようなものである。

     

    モーセは書いている

       「なぜなら」という言葉で5節は始まる。日本語訳ではこの言葉は訳されていないが、英語とギリシャ語では「for」という語で始まっている。この5節からの箇所には細かく見れば他にも翻訳の問題があるが、今はその翻訳の問題をわきに置いて、モーセの言わんとする意味についてしっかり考えたいと思う。

    なぜなら、モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。

       上述のように「5節と6〜8節とが対比的だ」とみる私のアプローチに異議をとなえてもよいが、ここで大切なのは「モーセが書いている」とパウロが述べていることだ。それならば尚のこと、「パウロがそう言っているのであれば、これはモーセ自身の教えを話しているのではなくて、モーセの言葉に対するパリサイ人たちの解釈のことを話しているのだと、どうして言えるのだろうか」と思うかも知れない。それはそれで正当な問いである。一見、「パウロはパリサイ人の解釈に従って語っている」と考えるのは奇妙かも知れない。しかし、福音書を見ると、主イエスがパリサイ人たちやサタンと議論されたとき、主イエスは解釈について議論はしていないのである。

       確かに、「律法による義を行なう人は、その義によって生きる」というのは、モーセがどのように考えているのかを考えさせる言い方であるが、そこに「律法による義」という表現が出て来る。そして6節を見ると、「しかし、信仰による義はこう言います」と言って、またモーセの言葉を引用しているのである。だから、5節はモーセの引用であるが、6節からの箇所もまたモーセの引用になっている。これは、「モーセはこう言っているが、私はこう言う」というような話ではないのである。「モーセはこう言っているが、実は、モーセはこう言います」という、モーセ対モーセのような言い方になっているのだ。

       なぜパウロはこのような説明の仕方をするのだろうか。これはいったいどういう話なのかを考えるとき、まず福音書に戻って主イエス・キリストとパリサイ人たちの対話を思い出してほしい。そこに理解の鍵があると思う。ある安息日に、お腹をすかした弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めたのを見たパリサイ人たちは、「なぜあなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか」と抗議した。つまり、「あなたの弟子たちはモーセの十戒の第四の命令を破っている」と抗議したのである。それに対するキリストの説明の仕方に注目してほしい。キリストの説明が、「モーセの第四の戒めに対するあなたがたの解釈は間違っている。あなたがたの解釈はこうだが、それはかくかくの理由で間違っている。正しい解釈はこれである。なぜこの解釈が正しいかというと、こうこうだからである」というような説明でないことに注目したい。

       パリサイ人たちがモーセの律法を引用して「あなたたちは安息日を破っている」と抗議したのに対して、キリストは、「あなたがたは、ダビデが何をしたかを読んでいないのか」と言って別の聖書箇所を引用して彼らに答えているのである。安息日にキリストが病人を癒したのを見たパリサイ人たちが「あなたは安息日を破っている」と言うと、キリストはまたしても別の聖書箇所を引用して答えるのである。つまり、一つの聖書の箇所に対して別の聖書箇所を引用して説明するというやり方でキリストはパリサイ人たちと対話しているのである。

       サタンの誘惑のところでもキリストはそれと同じ議論の仕方をしておられる。サタンがイエスを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから」と、イエスを惑わすために聖書の詩篇を引用している。その時キリストは、実際にその詩篇の箇所を読んでその前後関係を考えて、「あなたはこの箇所の前後関係を無視して、無理な解釈をして間違った引用をしていますよ」と答えることもできたが、キリストはそういう答え方をなさらなかった。キリストは、別の聖書の箇所を引用することによって、サタンの解釈が誤りであることをお示しになったのである。

       これは、聖書の至る箇所に出て来るやり方である。このような議論の仕方に慣れていないために、私たちは違った捉え方をしてしまいやすいものなのだ。どういうことかというと、「聖書の教えは一貫している。聖書には矛盾がない」」ということが大前提なのである。聖書が完全に一貫しているならば、ある箇所を引用したり適用したりするときに、別の箇所を引用してその適用の仕方が正しいかどうかをチェックしたり証明することができる。別な箇所によってその箇所の解釈が明らかに対比的であることがわかった場合、先の解釈は間違っていることになる。これは「聖書対聖書」というような話ではない。これは聖書を引用する仕方や解釈が間違っている場合に、そのことを別の聖書箇所の引用をもって証明するというものである。福音書の中でそれは沢山出て来る。その論争の仕方は中世期や今の時代とはまるで違うと言ってよい。

       この説明の仕方が特に明白に表われているのはキリストの山上の説教であろう。「昔から『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」という言い方でキリストは説明している(マタイの福音書5章21節以降を参照)。主イエスはモーセの十戒を直接引用しているが、御自身の教えがモーセの十戒と相反するかのようなアプローチをとっておられる。そこで主イエスはモーセの十戒に書いてあることに反論しているだろうか。明らかにそうではない。モーセの十戒に書いてあることの正しい解釈を与えているのである。モーセの十戒をただ表面的にしか理解しないで間違った解釈をしている人々に対して、まずモーセの十戒をそのまま引用してから、「しかし、わたしはこう言います」というふうに説明するのである。ローマ人への手紙10章にあるパウロのアプローチはこれと同じものである。同33〜37節でもキリストは次のように言っている。

    昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

       このように主イエスは、モーセの律法を引用した上で、別の言葉で説明しているのである。しかし、主イエスが語っている教えをよく見ると、全部モーセの律法の正しい解釈を教えているのであって、モーセの律法そのものに対して反論しているのではない。その福音書の書き方やパリサイ人たちに対するキリストの反論の仕方、更にサタンに対する主イエス・キリストの反論の仕方などは、このローマ人への手紙10章の箇所を考えるための背景としてよく覚えておくべきであろう。

       そして、これは聖書の御言葉に対する解釈の違いが生じたときに、正しい解釈を導き出すたみの極めて大切な原則でもある。パウロはモーセを引用してから、「しかし」と言って再びモーセを引用する。「モーセ対モーセ」のように見えるが、明らかにこれは「モーセ対モーセ」ではない。これは、モーセの教えに対する間違った解釈に反論するために、モーセが書いた別の言葉を引用して答えているのである。そして、11節でパウロは結論を導いているが、そこでパウロはローマ人への手紙9章で議論の発端として引用されたイザヤ書28章16節に再び戻っている。

     

    律法対信仰

       どういうことかというと、先程も強調して言ったつもりだが、「律法による義」という言い方が5節にあって、「信仰による義」というのが6節にある。従って要点は、「律法による義」と「信仰による義」の対比として表現されている。そしてこの対比は9章の終りの話に基づいているものではないかと思われる。9章の31節に、「イスラエルは義の律法に到達しませんでした」とある。なぜなら、「信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです」とパウロは32節で言っている。そこに「信仰」と「行ない」の対比がある。その対比が、10章では「信仰」と「律法」という対比に言い換えられているが、「律法」とは「律法による義を行なう人は」という言い方で「行ない」を指す言い方になっている。

       だから、5節の「律法による義を行なう人」という言い方は9章32節の「イスラエルは行ないによるかのように義の律法を追い求めた」というところから来ているのである。そして、「信仰による義はこう言います」とは、「信仰によって正しくモーセの律法から義を求める」という意味である。このように見てみると、パウロが言おうとしていることがはっきりしてくる。それ故、「モーセはこう言った」ということが5節にあるが、これは当時のイスラエルのパリサイ人的な考え方をモーセの言葉の引用をもって表わしているものである。「律法による義を行なう人は、その義によって生きる」というのは確かにモーセの律法である。これはレビ記18章5節からの引用である。その箇所を読めば、モーセがそこで「律法を行なうことによって義と認められる」と教えていないのは明らかである。

       レビ記全体から見るなら、そこも「信仰による義」を教えていることは明らかである。レビ記18章5節のモーセの命令は、恵みの文脈の中で語られているものなのだ。なぜパウロはその箇所を引用するのかというと、パリサイ人的な解釈をするならば、その一例としてこのレビ記18章5節に対する彼らの理解が「モーセの律法を行なう者が義と認められるのだ」というものになっているからである。パリサイ人の間違った解釈を引き出している典型的な箇所としてレビ記18章5節を引用しているのである。そこを読むときにパリサイ人たちは「律法を行なう者が義と認められるのだ」と考えるわけである。それを聞く時に彼らは、モーセの律法を行ないによる義を教えているかのように考えてしまうのである。だから、モーセの律法に書いてある言葉をパリサイ人たちの考え方を代表する聖句として使っているのである。

       これはちょうど主イエスがパリサイ人の間違った解釈を指摘するのにモーセの十戒から引用しているのと同じ手法である。キリストは、「昔からこう言われているのをあなたがたは聞いています」と言って、モーセの十戒をそのまま引用している。しかし、キリストはそれによってモーセの十戒の意味について話しているのではなく、パリサイ人の考え方について話しているのだ。モーセに反論しているのではなくて、パリサイ人たちの解釈に反論しているのである。パウロも同じ手法でモーセの律法を引用をしているのである。

       「律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いてある」というモーセの言葉をパリサイ人的に考えればどうなるかというと、「私たちは一度も罪を犯していない。私たちは百点満点なので、神は私たちの義を認めてくれる。だから、私たちは救われる」というようなものではない。パリサイ人の解釈はむしろ「私たちは安息日を守っているし、割礼も受けているし、正しく神を礼拝しており、異邦人のように偶像礼拝をしないで、生活においてもモーセの律法を守っており、いけにえをささげている。私たちこそ神の契約を守っている神の民である。だから私たちは永遠のいのちを得るのだ」というものになるわけである。彼らは、救いが自分の行ないによるかのように考えているが、それは「道徳による功績を作れば、神はその功績を認めなくてはならなくなる」というようないわゆるペラギウス主義的な「行ないによる義」の話ではない。イスラエルは神の契約を曲げて「」について「行ない」について、また「律法」について考えている。

       そのような解釈をしているので、「自分たちこそ神の契約の民である。我々は神の律法を守っている。だから救われるのだ」と主張する。それに対するキリストの反論も、パウロの反論も、「あなたがたは律法を守ってはいない」という答えになっている。「あなたがたは、律法の意味が何なのかもわかっていない。律法の心から完全に離れている。モーセの律法は何を教えているのか、あなたがたは知らない。モーセの律法は、信仰を教えているのだ」と、反論するのである。モーセの律法の中心はキリスト御自身である。モーセの律法の目標はキリストである。モーセの律法は愛の道を教えるものである。モーセの律法は、いわゆる律法主義的な教えではない。神は御恵みによってイスラエルの神であられるのだ。そのことをキリストは繰り返し強調して彼らに反論している。

       「モーセの律法で一番大切な教えは何ですか」とパリサイ人がキリストに尋ねたときに、キリストの答えは「安息日を守りなさい。割礼を行ないなさい。このように祭りを守り行ないなさい」というものではない。その時、キリストはモーセの十戒からも引用しなかった。キリストは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という申命記6章の言葉を引用し、また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というレビ記19章18節にあるモーセの言葉を引用したのである。「律法の教えは、愛の教えである」とキリストはパリサイ人に答えているのである。パウロは、パリサイ人たちに反論して、キリストが教えたのと同じ意味で「律法は、信仰の教えですよ」と教えているのである。

       パリサイ人たちはモーセの律法の義を追い求めたけれども、それを行ないによるかのように求めた。それはどうにもならない間違いであった。信仰によって求めなければ、モーセの律法の意味に到達することはできないのである。キリストに到達しないのである。ということは、救いに至らないことになるのである。それ故、キリストはモーセの律法の目標であり、律法のすべてはキリストを指しているということを4節で話したあとで、「律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いてある」とモーセの言葉を引用してから、「しかし、信仰による義はこう言っています」と、再びモーセの律法に戻って説明するのである。ユダヤ人たちは律法がいのちを得る方法だとして、御恵みによって既に与えられている神の愛に愛をもって応えないという大変な間違いを犯していた。そのことを証明するために、パウロは申命記30章の言葉を引用して説明を加えている。ところで、6節の「しかし」という言葉は「そして」と訳す方が適切かも知れない。だから6節で、パウロはこう言っている。

    そして、信仰による義はこう言っています。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

       「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない」は、申命記30章12節からの引用であるが、パウロは、その聖句を引用して自分の解釈を入れてからまた次の引用へと進むという方法で説明している。「誰が天に上るだろうかと考えてはいけない」ということをモーセは申命記で命じている。申命記30章11〜14節のところを見ていただきたい。

    まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

       14節の最後に「あなたはこれを行なうことができる」と言って終わっているが、確かに律法を行なうことについてモーセはここで話している。パウロがそれに気が付かなかったとか、見落としたとかいうことではない。パウロは明らかにわかってこれを引用している。だからパウロは、「律法は行なわなくてもよい」と教えているわけではないのだ。パウロはここで、モーセの言葉を引用するが、モーセは、「この律法はイスラエルにとって難しいものではない。この律法はあなたがたにとって遠い存在ではない。理解できないものではない。この律法は行なうのに困難なものではない」とイスラエルに言っている。モーセの要点は、律法は難しいものではないということであった。「誰かが天に昇って私たちのために取ってこないとだめだというものではない。もう既に私はあなたがたに与えたものだ。あるいは、誰かが遠いところから持ってくる必要もない。もう既にあなたがたに与えてあるからだ。律法はすでにあなたがたの目の前にある。それはあなたがたの口にあり、あなたがたの心にある。私が、今日、あなたがたに与えた命じた律法は神の律法であり、それを行なうならば祝福される」と言っている。

       パウロは10章6節でこの箇所を引用して「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない」と言うとき、「それはキリストを引き降ろすことです」と説明している。つまり、「天に昇って律法を持ってこなければならない」というような考え方は、まるで「キリストはメサイアではない。メサイアはまだ来ていない。メサイアがこの世に来て私たちに律法の意味を表わすはずだが、それはまだ来ていない」と言っているようなものなのだ。メサイアは既にこの世に来たので、誰かが律法の意味を求めて天に昇る必要はないのである。だからパウロがモーセのこの言葉を適用するときに、そのモーセの言葉は主イエス・キリストが世に来られた今ではもっと大きな意味を持つものになっていると言っているのである。

       モーセが律法をイスラエルに与えたとき、モーセの律法はイスラエルの目の前にあったし、モーセは大声で申命記を読み上げたので、イスラエルはそれを聞いていた。だから遠いところにあるものではない。それはイスラエルの口にあり、その心にあるものだと、モーセは言う。神は律法によって既に愛と恵みの真理をイスラエルに与えてくださった。そればかりでなく、メサイアが来られて人間のうちに完全な最後の啓示を与えてくださったことを、パウロは教えている。そして、新しい契約の時代となったパウロの時代になると、律法の意味を成就するメサイアが天から降りてこられて、イスラエルの前に、モーセの律法の意味をその行動と教えにおいて完全に表わしてくださった。もはや、天に昇って律法の意味を求める必要はないのである。既にメサイアである主イエス・キリストが天から下ってきて律法の教えを私たちの前に行なってくださって見せてくださったからである。

       だから、今になって天に昇ってモーセの律法の意味を求めると言うなら、それはメサイアが既に来られたことを否定することになるのだ。そして、イスラエルの問題はまさにそのところにあったのだ。「メサイアはまだ来ていない。モーセの律法はまだ成就されていない。モーセの律法の目的はまだ果たされていない。その目標はまだ見えない」というのが、パリサイ人たちの心の中で言おうとしていることであった。メサイアが既に来られてモーセの律法を成就してくださった今、「モーセの時代のようにそれを行なわなければならない」と考える者は、メサイアが既に来たことを否定することになるのだ。7節でパウロは更に次のように説明している。

    また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

       これは「海のかなたに渡る」よりも強調した言い方になっているが、これは一番深い「」のところに下って意味を求めるというような話になる。「それはキリストを死者の中から引き上げることです」とパウロは説明する。つまり、あたかもメサイアはよみがえらなかったかのような話になるのである。「モーセの律法の教え、その真理の教えを知るためには、誰かが死の奥底に下ってそこから律法の意味を取って来なければならない」というような考え方は、「メサイアは復活しなかった」と言うことになる。「地の奥底」とは「ハデス」のことである。それは「死の場所」である。そこに行って真理を取って来る必要はない。キリストは既に死からよみがえったからである。死の場所にまで下ってくださって、死に対して勝利を得てよみがえって来られたので、メサイアはその死の場所にはいないのである。

       だから、「真理を得るためには天に上るか、よみに下る必要がある」と吹聴するやからは、キリストの受肉も復活も否定することになる。ところで、現代においては、死後の世界から何らかの真理を得るために臨死体験などの研究をする人々もこれと同じことをしているのである。この箇所もキリストが律法の目標であることを意味している。天に上ることや海を渡ることをモーセが言うとき、メサイアのことを念頭に置いていなかったとしても、メサイアが来られた後の時代に生きる私たちは、申命記のこの箇所を読むとき、キリストを通して読まなければならない。ここに、天から下って来られ、陰府から復活された御方がおられる。この御方こそ、真理、道、いのちである。宇宙の征服や死後の世界からの帰還によって真理を得ようとする者は、主イエスの受肉と復活とを言外に否定している。しかし、私たちは福音の真理を告白し、キリストを信じる信仰によって永遠のいのちが与えられているという事実を喜ぼうではないか。それ故パウロは次のように言う。

    では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 

       モーセ自身がイスラエルに、「この律法の命令は難しいものではない。これはあなたの近くにあり、あなたがたはこれを行なうことができる」と言っている。どうして「行なうことができる」とイスラエルに言うのかというと、ペラギウス主義のように「誰でも行なおうとすれば、行なうことができるものだ。だから行ないなさい」という話ではないからだ。「これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」と、パウロは言う。それは私たちの口にあり、私たちの心にある。「神を信じ、神を愛し、モーセの律法に従うならば、難しいことはない」とモーセは言っているのだ。

       これは決して完全主義の話ではない。罪を犯すことに対しても、モーセの律法には赦しの道が教えられている。そういう意味で、神に従うことは難しいことではないのである。失敗もするし、罪も犯してしまう。しかし、罪を悔い改めて神に立ち返り、神の赦しを求めればよいのである。父なる神は、私たちを愛してくださって導いてくださっておられるのだ。

       主イエス・キリストの譬え話の中に放蕩息子の話があるが、父親は息子を愛して積極的に息子を待っていて、喜んで受け入れてくれる。悔い改めて帰るならば、父親は喜んで待ってくれているのである。そのような神の御恵みのことがモーセの律法で教えられていることなのだ。それは難しいことではない。悔い改めないから問題なのだ。「神に立ち返って、信じて、心配するのをやめなさい」というようなことをモーセは言っているが、パウロはその箇所を引用して、モーセの律法に対する間違った解釈を、モーセの律法の別の箇所を引用して反論している。

       申命記30章のところを引用するとき、パウロは、メサイアである主イエス・キリストは既に世に来たということをその箇所に結びつけて考えている。キリストが既に来られて律法と預言を成就してくださった今こそ、誰かが天に昇ったり、あるいは遠い海のかなたに渡ったりして御言葉を求めることはおかしいのだと、パウロは言うのである。モーセの時代であってもそれはおかしいことだったのだ。メサイアが既に世に来られた。メサイアであるキリストこそ「ロゴス=ことば」である。キリストは、神の真理を誰よりも深く広く正しく私たちに表わしてくださった御方である。メサイアが来られたからには、そのメサイアであるキリストにおいてすべてを求めるべきである。キリストを通して律法の意味を正しく知ることができるようになったのである。今こそ他の所に行って意味を求めることは有り得ないのだ。

       モーセを引用して、「これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」とパウロは言う。「モーセが語ったのは信仰のことばなのだ」と言っているである。信仰によって救われ、神の御言葉を信じる者が義と認められるのだ。そのパウロの教えはモーセの律法の教えと全く同じものなのである。「モーセはキリストを指して書いたのです。私も、キリストを中心にしてモーセの律法をあなたがたに教えているのです。イスラエルの問題は、行ないによるかのようにして律法を求めたところにあります。そのために律法から離れてしまったのです。信仰によって求めるとき、モーセの律法のすべての命令はキリストを指しており、キリストに到達するためのものなのです」と、パウロは教えているのだ。

       このようにパウロが申命記30章を引用するとき、その箇所をクリスチャンとして読めば、これはただ天に昇るとか海を渡るとかいう話ではなくて、「キリストが既に来られたので、神の律法はずっと深い意味において啓示され、そして成就された」ということを覚えて読むはずである。モーセの時代であっても、イスラエルにとってモーセの律法は十分に明白であり、十分に分かりやすいものであり、そして従いやすいものであった。しかし、主イエス・キリストが来られてモーセの律法の意味を全部成就し、その律法の心を御自分の教えと行ないと生活のすべてにおいて完全に表わしてくださった今、それこそ天に昇ったり海を渡ったりして求める必要はないのである。主イエス・キリストに目を留めるならば、すべては明らかだからである。そのようにパウロは私たちに教えていると思う。

       律法をどのように見るべきかを、パウロは私たちに教えている。モーセの律法を読むとき、すべてをキリストに結びつけて考えなければならない。その模範をここで見ることができる。主イエス・キリストが復活されたあと、エマオに向かう二人の弟子に現われたとき、二人の弟子はイエスが十字架にかかったこと等を話し、「三日目の今日、驚くことに、女たちが朝早く墓に行ったところ、イエスのからだが無くなっており、御使いが現われて、イエスは生きておられると言うのです。仲間数人も墓に行ったのですが、はたして女たちが言ってたとおり、イエスのからだは見当たらなかったのです」と言った。キリストは、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と言って弟子たちを叱り、そして、モーセおよびすべての預言者から話し始めて、聖書全体の中で、御自分について書いてある事がらのすべてが成就しなければならないことを知らないのかと、彼らに話された(ルカの福音書24章13〜27節)。

       つまり、創世記の記事は最終的にはすべてキリストについて書かれたものだということであり、モーセの律法の教えも全部キリストにおいて成就するということである。そういう意味で、モーセの律法の目標はキリストにあり、そのすべてがキリストを指している。そのことをパウロは申命記30章の箇所から説明しているのである。ここにモーセの律法の解釈のあり方の基本がある。それで、モーセの律法の中には結婚と離婚についての定めがあるが、結婚についての律法を正しく理解するためには、神とイスラエルの関係を見なければならないし、キリストと教会の関係を見なければならないということになる。また律法の中には、大酒飲みであくまでも親に反抗するかたくなな息子を死刑にする定めがあるが、パリサイ人たちはキリストをまるでその律法の中のとんどもない悪い息子と見立てて、キリストを裁こうとする。そして、キリストはパリサイ人たちが考えていたのと全く逆の意味で、その律法を成就するのである。

       つまり、パリサイ人たちは結局その律法をキリストに適用してしまうという皮肉な形で、その律法はキリストにおいて成就したのである。実に、モーセの律法の中に書いてあることはすべて、キリストを目標として書かれているのである。キリストが律法の中心なのだ。そのことをここでパウロは私たちに教えている。私たちが申命記の30章を読むとき、「そう言えば、確かに、キリストが天から私たちの所に来て律法を教えてくださり、復活して、そういう意味で海よりも遠くから私たちの所に戻って来てくださって律法の本質を教えてくださった。だから、私たちはもう天に昇ったり海を渡ったりする必要はないのだ」とは、すぐには思わないかも知れない。しかし、ローマ人への手紙10章の箇所を読めば、パウロがそのようにその箇所の意味を私たちに教えていることがよくわかると思う。

       「あなたの口にあり、あなたの心にある」という箇所をなぜパウロは選んだのか。それは、後の信仰の説明をするためなのである。「口にあり、心にある」とは、信仰の話なのだ。「」において律法を守る行ないというものはない。正しく誓うということはあるだろうが、口において、或いは心において、イスラエルが誇っているような行ないというものはない。口と心の話は、信仰の話になるのだ。そして、これも旧約聖書の中では十分に強調されていることなのだと、パウロは言う。9節と10節でパウロはこう言っている。

    なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

       モーセの箇所を指して、「」と「」について話している。「」と「」は何なのかというと、「心の中で神を信じて、口でその信仰を告白する。これは信仰の道である」とパウロは言う。「律法はあなたから遠く離れてはいない」と、モーセはイスラエルに教えた。もしイスラエルが正しい耳でそれを聞いたなら、それは心にあるはずだ。そして、それを告白するはずである。「私は神を信じます。私は神の律法を愛し、神の命令に従います」というような信仰の告白が口からでるようになるはずである。それはモーセが教えていたことである。だからパウロは、そのモーセの言葉を思い起こさせて、「心にあり、口にある」という話は行ないによって義と認められる話ではなく、信仰によって義と認められる話なのだと説明している。

       イスラエルの「律法によって義と認められる」という考え方は、いろいろな異なるかたちにおいて教会の歴史の中に出て来ている。例えばペラギウス主義の考え方の場合、「人間は罪を犯す必要がないものであり、それ故、完全のうちに生きる者は救われる」というような教えになり得る。しかし、それは律法の義の考え方として非常に珍しいものである。皆さんが本格的なペラギウス主義に出会うことは生涯無いだろうと思う。探しても見つからないだろう。

       しかし、ローマン・カトリックの福音についての考え方はよく出くわすものであり、どちらかというとパリサイ人のような教えに成ってしまうものである。違いがあることも確かであるが、ローマン・カトリックの教会でバプテスマを受け、そこでミサを受け、堅信令を受け、神父に罪の懺悔をして、結婚するならその教会で結婚することになる。そして、死ぬ前に、最後の礼典を行なう。七つの礼典があるが、結婚もして神父にもなることは許されないので、すべての人がその七つ全部を守ることは不可能である。しかし、その中の五つの礼典を守りさえすれば、救われるという教えになっている。そして、一般信徒は、教会が何を教えているかを知らなくてもよい。教えがわからなくても、「私も教会の考えと同じです」と告白すればそれでよいという立場なのだ。

       変な話だが、「あなたは神を信じていますか」と聞かれて、「教会が信じているのなら、私も信じます」と答えてもよいのだ。教理については別に知らなくてもかまわないのである。とにかく、教会と同じ信仰だと言えば、認められる。それがローマン・カトリックの正式な立場であった。最近はどんどん変わってきているけれども、昔の公式な立場はそのようなものであった。確かにそれはパリサイ人の考え方に近いものである。伝統的なあれこれの儀式を行なえば救われて義と認められると考えている。つまり、自分たちの行ないが神の御前において認められる土台になっているのだ。これは罪人が自然に持ってしまう考えである。

       私はリベラルの教会で育ったのだが、毎週教会に行き、バプテスマも受け、普通の人よりかは悪いことはしなかった。だから自分は大丈夫だと思っていた。最悪であっても、自分は良い方の25%に含まれるのだから、救われるだろうと考えた。だから、「私は他の人ほど悪くない。私はこの儀式を行なった。私はこの時に、これをした。かなり献金もしている」というふうに、諸々の宗教と比べたり、罪人の観点から見たりして、自分の行ないを功績と思ってしまうのである。宗教的な厳粛な儀式や供養、あるいは荒行などを行なうことによって人は救われるのだと、自然に罪人は思ってしまう。だから、パウロはここで、行ないによるのではなくて、信仰によると教える。

       救いについて、「行ないではなくて、信仰。律法ではなくて、恵み」とパウロは言う。しかし当時のイスラエルの解釈では割礼や安息日を守ることによって救われるということになる。パウロはパリサイ的な解釈の間違いを指摘しているが、その適用を広く考えるなら、パウロが言っているポイントはどの宗教においても、またどんな罪人の変な考え方においても、同じことが言えるのだ。神は御恵みにより、キリストを信じる信仰によってのみ救いを与えてくださるのだ。しかし、罪人はどうしても他の道を自分で作り出してしまう。究極的には自分を誇ることができるためである。どうしてもそういう傾向が罪人にはある。

       そして、その罪人の傾向について言うとき、結局のところ罪人は何かのかたちで自分を神にしようとするということなのだ。真の神の御前にひれ伏して、神の御恵みを一方的に受けることを罪人は嫌うのである。「私は罪人に過ぎない。あなたの一方的な救いによるのでなければ、私に救いはない」ということを、罪人はどうしても受け入れない。「神さま。あなたが価無しに私に与えてくださる救いを、私は恵みとして受け入れます」と、心の中に信じて、口で告白すれば救われるとパウロはここで教えているが、イスラエルはその道を選ばず、その道を歩もうとはしない。救い主であるキリスト御自身に彼らはつまずいたのである。「神を信じて恵みを受ける者は救われる」ということをイスラエルは信じなかった。

       罪人の心の傲慢と頑迷はあまりにも深くて大きい問題なので、私たちは繰り返し繰り返し「御恵みのみです」というところに引き戻される必要がある。「神の恵みのみによって救われた」ということを覚えるとき、私たちは神の救いの御業の偉大さを覚えて感謝に溢れて、互いの罪をも赦しあえるようになり、へりくだった心をもって歩むことができる。どうしても罪人は傲慢な心になり、どうしても自分の行ないがどれほど素晴らしいのかを見て感動してしまう。そして他人の行ないと比べるとき、相手を見下してしまう。ユダヤ人が異邦人を見て、「この人たちは汚れている。この人たちが救われるはずはない。自分たちは優れた民で、神に受け入れられている」と考えたように、私たちは形こそ違うが、その罪人の傲慢な心を持って誇ってしまいやすいものである。

       「恵みのみによって救われた」というところに戻って、心で神を信じ、口でその救いを告白することを、私たちは聖餐式において告白している。それが聖餐式の中心的なところであり、神への感謝の心を新たにするのである。感謝の心を新たにすることによって、本当の意味でモーセの律法にある神の義の道を歩むことができる者となる。4節にもあったように、律法が要求している義を、御霊の力によって守り、全うするのである。神の恵みに対する感謝の心を大切にし、神を愛して歩むなら、御霊の力によって私たちは正しい事を行なう者となるのである。モーセの律法は難しくて行なうことはできないという話ではない。これは、「信仰をもって、愛をもって、ひたすら神を求めて歩みなさい」という話になるのである。

       罪を犯してしまったり、失敗してしまったりするとき、どうすればいいのか。心を頑なにして、だんだんとその罪に近づいて神から離れていくようであってはならない。直ちに罪を捨てて、悔い改めて、心を神にささげて、神との契約を新たにし、素直な、神を愛する心に戻るのである。素直な、神を信頼する心に戻るのである。そのために聖餐式が私たちに与えられている。そのことを覚えて一緒に聖餐式を行ないたい。

     

    ――2001年5月27日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙10章1〜4節

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