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    ローマ人への手紙10章14〜21節


    10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

    10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

    10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。

    10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

    10:18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

    10:19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

    10:20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」

    10:21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

    2001.06.10. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神に逆らう民

    10章14〜21節

       ローマ人への手紙10章14節から21節の箇所の全体的なポイントは、イスラエルの不従順、イスラエルの不信仰にある。パウロは9章の最初で、なぜイスラエルは神から離れたのかの説明を始めている。それは当時の異邦人にとっても、キリストを信じたユダヤ人にとっても大きな問題であった。「口で告白し、心で信じる者は誰でも救われる」と8節〜11節のところでパウロは教えるが、パウロは旧約聖書のいろいろな箇所を指して、「これはイスラエルの歴史の中で新しいことではない」と教えている。パウロが教える福音は本質的にモーセが教えた福音と同じものである。

       士師記の時代でも、モーセの時代でも、エズラたちの時代でも、何度もイスラエルは神から離れ、神の懲らしめを受けなければならなかったことをパウロは指摘している。そして、本当のイスラエルは、すべてのアブラハムの子孫ではなくて、神に選ばれた者たちであると説明している。9章の終わりでは、イスラエルは神の御言葉に従って信仰によって義と認められることを求めずに、それを拒絶し、そして自分たちの道を作ったとパウロは言う。10章では、律法がイスラエルに与えられたことの意味を説明してから、神が異邦人にもユダヤ人にも招きを与えてくださっていることを説明し、「誰でも主イエスの御名を信じる者は救われ、永遠のいのちを受ける」とパウロは教えている。そして14〜21節のところでパウロは、イスラエルは神に招かれても応えず、神の御言葉を聞く耳がないと言うのである。

     

    どのようにして信じるか

       14節だけを読んでもそれほどはっきりしないかもしれないが、14節の箇所はイスラエルについて話しているのだ。15節になると、それは明らかにイスラエルのみを指していることがわかる。14節から15節の最初のところでパウロは一連の質問を立てることによって全体的なポイントを紹介している。

    14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。

       ギリシャ語本文にも英語訳にも最初の文章には「彼らは」という主語がある。「彼らは、どうして呼び求めることができるでしょう」ということだが、問題はその「彼ら」とは誰なのかということである。13節に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とある。その前の12節では、「ユダヤ人とギリシャ人の区別はない」と言っている。「ユダヤ人であれ異邦人であれ、誰でも主の御名を呼び求める者は救われる」と言った後にこの14節がある。それ故、その「彼ら」とは、ユダヤ人と異邦人の両方を指しているという見方も可能である。しかし、続けて読めば、明らかに14節はイスラエルの方に焦点を合わせていることがわかる。

       質問だけを見れば、勿論誰に対しても言えることだ。しかし、14〜21節までの段落全体はイスラエルの不信仰の問題のみを扱っているのだ。ユダヤ人とギリシャ人の区別の話ではなく、イスラエルとその不信仰についての話に戻るのである。パウロは「呼び求める者は救われる」と宣言してから、「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう」と問う。信仰がなければ呼び求めることはしないであろう。そして、「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう」と問う。また、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」というふうに問題を遡って問うている。

       更に15節の「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」という問いにまで行くと、これは神御自身が誰かを御自分の代表として遣わし、その神に遣わされた者が神の御言葉を正しく語り、はっきりとイスラエルに神がどのような御方で何を要求しておられるかを伝えなければ、イスラエルは神のことを知ることはできないという話になる。聞いたことがなければ、知ることはできないのだ。神を知ることができなければ、呼び求めることはできないという話になるわけである。では、神は本当にイスラエルに代表を遣わしたのか。イスラエルは、本当に神の御言葉を聞いて、神を知り、神を信じる機会があったのだろうか。そのように14節から15節の最初にかけての質問をまとめることができよう。明らかに機会は与えられていた。なのに、なぜパウロはわざわざ問いかけるのだろうか。それは、ユダヤ人が神の御前にあって弁解できないということをもっと明らかにするためであった。

       それ故パウロは旧約聖書からすべてを証明するのである。イスラエルは自らの不信仰に対して一切の責任を負っている。そして、パウロはその不信仰の責任を責めている。質問の意味はこうである。「もし、神がユダヤ人に福音を伝えるために誰かを遣わしたと言うのであれば、ユダヤ人は確かに福音を聞いたのである。聞いたことがあるのなら、信じるべきである。そして、信じるなら、彼らは主の御名を呼び求めるはずなのである。にもかかわらず、彼らは呼び求めなかった」ということである。パウロは自分の経験や判断によって論議はしない。イスラエルの不信仰について語ったのは彼らが拠り所とする預言者イザヤである。この一連の質問に対する答えは、15節後半の「次のように書かれている通りです」というところから始まる。

    次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

       「良いことの知らせ」は福音を指している。「なんとりっぱでしょう」という言葉は、「なんと美しいでしょう」と訳すこともできる。これは旧約聖書のイザヤ書からの引用である。イザヤ書52章を見てほしい。次のイザヤ書53章は、イザヤ書の最も中心であり、イザヤ書の中のすべて注目すべき表現がそこにあるということは以前に話した。そしてイザヤ書53章はメサイアの死について預言しているところである。53章は、実は52章13節から始まっているということも以前に話したと思うが、パウロが引用した52章の7節は、「シオンに対する良い知らせ」の文脈の中にあって書かれているものだ。7節と8節を読もう。

    良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。

       この引用によって、今からパウロが話す段落の焦点がイスラエルであることがわかる。「良い知らせ」とは、神がすべてを支配しておられることを意味するものである。そして、「神はあなたに救いを与える」ということが「良い知らせ」なのである。パウロはそのことを念頭にイザヤ書を引用している。パウロは「シオンに対する良い知らせ」のことをローマ人への手紙10章で話しているのだ。この「シオンに対する良い知らせを伝える者の足はどんなに美しいでしょう」というイザヤの言葉をパウロは引用しているが、それは「主なる神がシオンに良い知らせを伝える者を遣わしてくださった」ということを喜んでいる箇所である。

       それだから、「その足は、なんと美しいでしょう」と言うのである。その人たちは神から遣わされて、神がイスラエルを救うという「喜びの知らせ」を「シオン」に持っていくのだ。「神がその者を遣わした」というのがポイントなのだ。「神は、その良い知らせを持つ者をイスラエルに遣わした」と言っているのである。だから、パウロは、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう」という問いを発してから、このイザヤ書52章7節を引用して説明するのである。神は、確かに宣べ伝える者を御自分の民に遣わしたのだ。そして、10章16節でこう言っている。

    しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。

       「福音に従う」という言い方をしているが、信じることは、ある意味で従うことである。聖書の中ではよく「福音を信じる」という言い方をしたり、福音について「服従する」という言い方をする。福音に従うことを表わすギリシャ語は英語で言えば"obey"という言葉である。福音は、神の権威を表わす真理のメッセージなので、その真理のメッセージが与えられたときに「従う」のである。その服従は信じることと同じである。イスラエルの問題は、神が代表を遣わして伝えてくださった知らせを信じないというものであった。即ち、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」と、イザヤが言っているのだ。イザヤの言葉から、「信じること」と「従うこと」は同じだということは明らかである。これはイザヤ書53章1節の引用である。

       イザヤ書52章では、神は良い知らせを持つ者をシオンに遣わしたと宣言していると同時に、52章13〜15節ではメサイアの受難と死を紹介しているのである。そして53章1節では、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」と言うのである。つまり、「この神の救いのメッセージを誰が信じたか」と、イザヤは言っているのである。ということは、信じなかった人たちが大勢いたということなのだ。神が預言者たちを遣わしてイスラエルに良い知らせを伝えたのに、イスラエルは信じなかったのだ。それをイザヤが指摘しているのである。パウロは、あくまでも旧約聖書の事実からキリストの時代の状態を説明するのである。

       これは非常に大切なポイントであり、そして、もう一度言うが、そのイザヤ書の箇所は、主イエス・キリストの十字架の死を詳細に預言している箇所なのだ。これは、昔の教会にとって、主イエスを説明する最も大切な箇所の一つである(使徒行伝8章32節以降を参照)。いったい誰がそれを信じたのか。そこにイスラエルの不信仰が暴露されている。それは彼らが固執している旧約聖書が明らかに証言していることなのだ。パウロがキリストの使徒だから、何か新しいアイデアを自分で考え出して語っているのではない。また、パウロはユダヤ人を憎んでいるからそういう箇所を出してきているのではない。これは主イエスがお生まれになる700年前に既に旧約聖書に書かれていることなのだ。そのことをパウロは当時のクリスチャンたちに説明しているわけである。それ故、17節を見よう。

    信仰は聞くことから始まる

    そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

       この「キリスト」とはメサイアのことであり、メサイアについて聞くことから信仰は始まるのである。この17節にある神学的な教えは重大である。即ち、「信仰は神の御言葉への応答である」ということだ。メサイアについて記されている御言葉を聞き、信仰をもってそれに応えるのである。「聞くことから始まる」ということは、神が預言者たちを遣わしてくださらなければイスラエルは聞くこともできないということだ。聞くことがなければ、イスラエルに救いはない。聞くことから信仰は始まるのである。

       実は、これはプロテスタントの礼拝の仕方に関係しているということを以前にも話したことがあると思う。ローマン・カトリックの教会も、ロシア正教の教会も、目で見ることを甚だしく中心にしてしまう傾向がある。そして、言葉なしに目で見る者の解釈は自分の頭の中にしかないことになる。偶像の前に拝するとき、それが聖ペテロの像であれ釈迦牟尼の像であれ、偶像の方は何も語らないし何も権威ある宣言をしない。だから、それを見て自分の感情を注ぎ出しても、自分の目で見て自分で勝手に解釈して、献金して帰るだけのことになる。ロシア正教ではイコン(聖画像)をたくさん使う。目で見ることが中心となるのだ。目で見て、自分で感じたり考えたりして家に帰るということになってしまう傾向がある。

       啓示が言葉によってではなく視覚的に行なわれる場合、イコンや偶像を見る者の方が啓示の知的内容を自分で作り出さなければならない。視覚的イメージは無言だからである。聖書が教える礼拝とはどのような礼拝かというと、モーセの時からそれは明らかであった。即ち、「主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった」とモーセはイスラエルに語っており、そして「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである」と命じているのである(申命記4章12節と15節)。主が語られた時、民は、声は聞いたが、御姿はなかったのである。

       神が御自分を啓示して下さらなければ、私たちは神に近づくことはできない。神が御言葉をもって私たちに啓示を与え、導いてくださるのだ。神は、私たちの目に見えるように御自身を現わされるのではなく、御言葉を持って語りかけてくださる神であられることを、聖書は繰り返し強調している。それ故、申命記5章8〜9節でも、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と命じている。神は御言葉を宣言し給うのだ。神が御自分の御言葉をイスラエルに宣言するとき、イスラエルはそれを聞きたくなくても聞かなければならない。そして自分勝手にそれを解釈したり、何か見たものを自分で解釈して「こういう意味だろう」と言ってはならないのである。神御自身がその意味をはっきりと宣言しておられるからである。

       神はイスラエルに、御自分が誰なのか、何を要求しているのかを、詳細に明確に言葉をもって与えてくださった。啓示が言葉によって行われたのであれば、語る側が啓示を支配するのである。その御言葉に立ち、その啓示された御言葉を忠実に守らなければならない。それだから「神の御言葉は遠いところにあるのではない。それはあなたの近くにある」とモーセは言うのである。神の御言葉を読めば、神が何を宣言されたかは明らかにわかるはずである。神は御言葉を与えてくださった。しかし、昔のイスラエルでは一人ひとりが自分の聖書を持っているわけではないので、声を出して読み、声を出して説明することが普通であった。それゆえ私たちも、一緒に集まって、一同で声を出して御言葉を読み、声を出して御言葉を説明するのである。そういうわけで、耳が目よりも強調されている礼拝のあり方がプロテスタントの礼拝である。「信仰は聞くことから始まる」からである。したがって、聖書の宗教において神が語られるということは非常に重要なのだ。信仰は、神の御言葉に対する私たちの応答なのである。その原則を覚えるとき、次のパウロの引用は驚くべきものだと思う。18節を見よう。

    でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

       つまり、イスラエルは本当に聞いたのかと問うているのだ。「信仰は聞くことから始まる」というなら、イスラエルは本当に聞く機会が有ったのだろうか。そのことをパウロはもう一度、敢えて尋ねるのである。もろん、聞こえなかったのではない。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」のである。これは詩篇19篇4節からの引用であるが、この箇所を旧約聖書から引用して答えているのは驚くべきことだ。それは、普通私たちが「これは聞くことについて言われた言葉だ」とは思わないような箇所なのだ。詩篇19篇の1節から読んでみたいと思う。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とある。ここでパウロは、私たちが普通に考えるような意味で「言葉を語り、言葉を伝え、それを聞く機会が人々に与えられている」ということを話していないのは明らかである。ここでは、聞くことは比喩的な意味で使われている。そういう意味で、先に私が話した意味よりも広い話になる。

       つまり、「遣わされた者」とか「聞くことから始まる」ということを、パウロはもっと広い意味にさかのぼって説明しているのである。即ち、これは一般啓示の話なのだ。被造物全体は創造主なる神を顕わしていると述べている。まるで天が大声で語っているかのように、大空は神の御言葉をすべての人に伝えていると言うのである。2節では「昼は昼へ、話を伝える」と言い、「夜は夜へ、知識を示す」と言う。3節は「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない」と訳されているが、「話すことなく、語ることもなく、しかしその声を聞かない所はない」という訳も可能である。何れにせよ、3節は、普通に考える「語る」の意味ではないが、「神は御自分を啓示してくださった」という意味である。

       そして4節は、「しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」とある。私たちが言うところの“言葉”ではないが、その言葉はすべての所に告げ知らされたのである。そして、この詩篇19篇の1節から6節までは一般啓示について書いてあるが、7節から終りまでは特別啓示、即ち御言葉による啓示について書いてある。そして「被造物を通して神が御自分を顕わすことと、御言葉を通して御自分を顕わすことは、あくまでも一緒に考えなければならないものだ」ということをダビデはこの詩篇19篇で語っている。この二つは独立したものとして考えることはできない。別々にあるものではなく、神御自身を顕わす一つのシステムの中で考えるべきものである。

       つまり、御言葉の啓示だけでは伝わらないし、一般啓示だけでも伝わらないのである。私たちが見るものを通して神が御自分を顕わしてくださるというこの箇所においてさえも、やはり詩篇記者は、神が語られたこと、御言葉、御声について述べているのである。天地創造の御業における神の啓示は、はっきりとメッセージを伝えているということである。そして、パウロの引用箇所で述べられている啓示は一般啓示であって、それはイスラエルと同様に異邦人にも与えられるものだという点に注目しなければならない。

     

    イスラエルは知っていたのか

       この箇所を引用するとき、パウロは最初の質問に追い討ちをかけるかのように、「イスラエルは本当に聞いたのか。イスラエルは本当に知っていたのか」と尋ねる。然り。イスラエルは確かに聞いて知っていたのだ。なぜなら、神は、被造物を通してすべての人に御自分を啓示してくださったからである。これはローマ人への手紙の1章の最初のところに戻るかのような話である。1章でパウロは、はっきりと宣言している。

    というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

       パウロは、被造物を通して与えられた神の啓示は明らかであって、人間がそれを認めないとか分からないと言うとき、それは心の中で真理を阻んでいるのだと言う。不義をもって、神の一般啓示の光を隠し、それを消そうとしているのだ。それが罪人の心の本質的なところだとパウロは説明している。聖書の心理学的な立場で言うなら、ここで人間は自分の心の中で自分をだましているのであり、それは非常に深い問題なのである。「私は知らない。私は聞いたことがない。あれこれと色々な意見もあるし、あの人はあれが真理だと言うし、この人はこれが真理だと言う。私には難しすぎる話だ」と言う人間は、口実を設けて自分を騙しているに過ぎないのだ。それで弁解の予知があることには絶対にならないのだと、パウロは1章で話している。

       そして、非常に厳しく聞こえるかも知れないが、パウロがここで言っていることは、神の裁きの御座の前でいろいろな罪人がいろいろな口実を持ち出してきて「私は聞かなかった。私は聖書を見たこともない。私は福音のメッセージを聞いたこともない。誰も私のところに遣わされていなかったから、どうして私は聞くことができただろうか」と言うだろうが、「彼らに弁解の余地はない」と言っているのである。どこかの島に生まれて、何も聞くことがなかった人であっても、弁解の予知があるのかというと、弁解の予知はないのである。神の裁きの御座にあっては、如何なる口実も退けられるのである。なぜなら、十分に知らされたからである。「神について知りうることは、彼らに明らかであった」のである。

       私たちの観点から見れば、それは理解できないかも知れない。というのは、私たちも罪人であり、心の鈍い者であり、啓示が与えられても、「私はその声を聞いた。よくわかる」とは思わないからである。その時になって初めて、「ああ、これほどに明らかなことだったのか」と思い知らされるのかも知れない。私たちは、今の時点でダビデが詩篇で言っているように、「神の啓示は明白である。その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」ということがあまりピンと来ないかも知れない。しかし同時に、「大空を見て、太陽を見て、月や星を見みる時に、『なんと素晴らしい偶然だろうか』と言う者は明らかに自分を騙している」ということを、私たちは感じることができるようになったはずである。特に、二十世紀になって、人間の身体の仕組みがどれほど複雑なものかがわかってくると、更に深く感じるはずである。

       人間の身体には60兆の細胞があり、その一つ一つが、人間の造ったどんな素晴らしいコンピューターよりも無限に複雑なのだ。一つの細胞がである。一つの細胞の表には百万ほどの出入り口があって、開いたり閉じたりしている。細胞の中に入ってみると、複雑な通路のようなシステムが無数あって迷ってしまう。真ん中にDNAの“図書館”があり、それは三鷹市の図書館よりもずっと素晴らしいものである。そのような一つ一つの細胞が、とんでもない複雑さで互いに秩序をもって機能している。「それは偶然だ」と彼らは言う。更に驚くべき事実は、その60兆の細胞はそれぞれ隣同士にただ並んでいるわけではないのだ。全体として一つの更に複雑なシステムとなっていて、完全に私たちの理解を越えるような複雑で素晴らしい働きをしているのである。それを見て、「なんと素晴らしい偶然だろうか」と応える人は、完全に自分を騙しているのだ。それは、全く偽りの答えである。少し横道ではあるが、そのことを私たちは既によく知っているはずである。

       そのような意味で、パウロは1章で「それは明白である」と宣言している。誰も疑うことが出来るはずはない。神の啓示は明白である。詩篇19篇は、その神の一般啓示について、即ち被造物を通しての啓示について書き記している。それは私たちが普通に考えるよりも遥かに明白なものだと言っている。まずその背景があって、異邦人でさえも一般啓示に対する応答において口実がないのであれば、イスラエルは尚更のことである。それ故、パウロは、神がすべてを啓示してくださったその「」は、十分にイスラエルに与えられたのだと言うのである。更に19節でパウロは次のように言う。

    でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

       パウロは一般啓示のことについて語ってから、話を更に絞り込んでいる。「聞いても知らなかったというのか」と言うわけである。「まず、モーセが」というのは、「今から私は幾つかの言葉をモーセから引用します」ということである。モーセの言葉を引用して、「何も知らなかった国民をもってイスラエルを怒らせる」というとき、イスラエルの方は無知ではないことが前提になっている。イスラエルの方は、何もわからない民ではないのだ。イスラエルはわかっている。彼らは答えを知っていただけでなく、神が異邦人を通して彼らにねたみを起こさせることによって彼らの不信仰を取扱うということも、最初から聞かされていたのである。神は、無知で何もわからない民を用いて、知っているはずのイスラエルに妬みを起こし、怒らせると言うのである。

       なぜなら、神の御恵みと愛と憐れみによる教えを繰り返し豊かに与えられていたにもかかわらず、彼らは逆らいどおしであったからだ。明らかにこれはイスラエルの知っていることであり、これはモーセの五書に書かれていることなのだ。モーセの時代に、既に神はイスラエルに対してその警告を与えている。それが、パウロの時代には本格的に成就されているのである。パウロの働きは、1章2節に書いてあるように、旧約聖書の預言者たちが書いた聖書の御言葉に従って教えることであって、それ以外の何ものでもないのである。そのことをパウロは十分に明白に語っている。20〜21節を見よう。

    またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

       この最後の二つの節は、イザヤ書65章の引用である。イザヤ書65節の1節から7節を一緒に見てほしい。

    わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」と言う。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―― 山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。」と主は仰せられる。

       ここでパウロが指している旧約聖書の御言葉も、イスラエルの不従順について語っている。「イスラエルは神に信頼せず、神の御言葉に聞き従わなかった」ということを伝えている。パウロの時代のイスラエルも同じような状態にあった。今日でも自分をユダヤ人と称する人々のほとんどは御言葉から離れていると言えるが、いったい何が問題なのか。それは、「御言葉に対して聞く耳を持たず、御言葉に逆らう」ということが問題なのだと、パウロは言う。そして、なぜ一般啓示の話を持ち出すのかというと、イスラエルの不従順とその不信仰は、一般の罪人全体に見られる不従順と不信仰と変わらないということであり、それをもっと狭い意味で言っており、もっと激しい不信仰と不従順なのだと言っているのである。

       ではイスラエルは、他の国々や国民と違うのかというと、そうではない。ここでのイスラエルは、代表的な神に逆らう罪人の民なのである。詩篇19篇の最初にあるように、すべての人に告げ知らされて誰でも知っているはずの一般啓示に対してもイスラエルは逆らっている。そして自分たちに遣わされた預言者たちに対しても逆らっている。これは典型的な罪人であり、罪人の中の罪人の話である。しかし、それを言うとき、それは他の国民がイスラエルよりも良いとかイスラエルとは違うということではない。これが罪人の本当の有様なのだ。ただ、イスラエルは他の国民よりもその点をよく表わしているということに過ぎない。イスラエルは実にうなじのこわい反抗的な民であった。神の御言葉を聞く耳を持たない民である。そのイスラエルは神から離れてしまった。

       9章の終わりから10章の終りまでの箇所でパウロはそのことを証明している。なぜイスラエルは神から離れてしまったのかを語るとき、パウロはまず神の主権について9章で説明している。神の主権とその御計画を話すとき、同時に人間の責任と罪のことも話すのである。「どちらか」という話ではないのだ。ここから私たちは、今日のイスラエルについても理解しなければならないと思う。「今のイスラエルは御父を信じているけれども、御子と御霊を信じていないということなのか」というと、決してそうではない。

       ヨハネの福音書8章19節のところでキリストは、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」とはっきり言っておられる。「イスラエルは旧約聖書を信じていて、クリスチャンは新約聖書を信じている」ということを言う人がいるが、そうではない。パウロがここでイスラエルの問題について話しているときに何と言っているかというと、「彼らは聖書を信じていない」と言っているのである。エホバの証人の問題は聖書を信じすぎるということだろうか。決してそうではない。信じていないということが問題なのだ。モルモン教は、聖書を信じるだけでなく他の書物も信じていることが問題なのだろうか。いいえ。まず聖書を信じていないので、他のモルモンの書物を信じることができるということなのだ。

       そういうわけで、「旧約聖書はイスラエルのもので、新約聖書はクリスチャンのものだ」ということは決してないのである。はっきり言えば、聖書の中には「旧約聖書」「新約聖書」という言い方もない。聖書は、旧新両約聖書が完全に一つの書物として与えられているのだ。その神の御言葉である一つの書物が神の民に与えられている。「神の民」とは、主イエス・キリストを信じる者たちのことである。それで、今の時代のイスラエルの問題や他の国々の問題は、そういう意味では同じ問題なのである。神の御言葉を信じないで、神の御言葉の啓示が与えられたときに、それを拒むのである。それが自分の心の中で明白にならないように諸々の口実をもって覆い隠したりして自分を騙し、真理の光を消そうとするのだ。

       それがすべての罪人に総じて言える問題であるけれども、光が大きければ大きいほど、自分を騙すことにおいて巧みにならなければならなくなる。もっと深い巧みな手口で騙さなければならなくなる。神の真理が遠くにあれば、わりと容易に自分を騙すことができるかも知れないが、御言葉が近くにあればあるほど神から逃げることは難しくなる。逃げようとすれば問題はもっと複雑になる。パウロの時代のイスラエルのパリサイ人たちを取扱うことは、そういう意味で非常に難しい。御言葉をもって何かを言えば、向こうも御言葉で切り返してくる。「罪を犯してはならない」という簡単な命題であっても、あくまでも口実を設けて答えが帰ってくる。

       主イエス・キリストは権威と知恵をもってパリサイ人を取扱うことができたが、パウロにとってはずっと困難なことだったに違いない。これほど長い手紙を書いたり、議論したり、問いかけたり、争ったりしなければならなかった。使徒行伝の15章にあるように、教会全体が一緒に集まって会議しなければならなかったほどである。取扱うことがもっと困難になり、間違いももっと複雑になっていく。教会の中で、ユダヤ人のクリスチャンたちは、自分をクリスチャンと告白しながら「割礼を受けなければいけない」と言い出す者たちが入ってきたりして、状況は複雑になっていた。それだから、もっと御言葉をよく学び、正しく理解し、御言葉全体を私たち自身の信仰としてしっかり持たなければならないのである。

       だからパウロは、終始一貫して旧約聖書を用いて問題を取扱っている。このようにイザヤ書、モーセ五書、詩篇などを信じなければ、「あなたがたの問題は聖書を信じていないということなのだ」という話になる。そのようにパウロは当時のユダヤ人に対して話している。9章からの箇所でパウロは非常に多くの聖書箇所を引用している。それら引用された御言葉を見るとき、私たちはすぐにその前後関係を捉えることができないので、丁寧によく読んで、考えなくてはならない。それはそれでよいのだが、パウロはその前後関係をしっかり捉えている中でそれらの箇所を適確に引用しているので、読む者もその前後の文脈をしっかり捉えて理解しなければならない。その点をよく注意して解釈しなければならない。旧約聖書と新約聖書は単一の書物である。それは一つの書物として私たちに与えられているので、私たちはもっと真剣に聖書全体からの意味を求めなければならない。そうしなければ、新約聖書に書いてあることの意味を十分に正しく理解することは困難になる。

       そういうわけで、御言葉に対する応答がイスラエルの基本的な問題であった。イスラエルはアダムの契約の下にあって最も祝福され、最も特権的な御恵みを与えられた国民であった。しかし、アダムのようにイスラエルは神の御言葉に逆らった。アダムの子孫の深い罪を白日の下にさらけ出すことが、歴史におけるイスラエルの役割の一つであったと言える。私たちは、大きな御恵みが与えられた時でさえ、その御恵みを捨てて神の愛を拒絶してしまうことがある。そのような意味で、イスラエルは私たちへの警告のために存在した言ってよい。パウロがヘブル人への手紙で述べているように、私たちはイスラエルのように心を頑なにしてはならない。そして、神の御言葉から離れるようなことがないように気を付けなければならない。

       パウロは「不従順」という言い方を使っているが、神が語って下さった御言葉に対して、私たちはまず素直に「はい」と言うべきである。わからなくても構わないのだ。私は今「出発点」での話をしているのである。創造主にして真実なる神が語っておられるなら、まず神が何を言っても、「はい」と言って従うのである。心の中で「はい」と言って従おうとするときに、「神はなぜこのことを言っておられるのか。なぜこうなっているのか。なぜ神はこのようなことをなさるのか」ということを求めるとしても罪ではない。それだからといって変な道に反れることはない。そこに、基本的に従おうとする態度があるからである。

       ヨブ記を誤解する人たちの問題は、ヨブのその基本的な心の態度を理解していないからである。その人たちがヨブ記を解釈するときに、神がヨブをいじめているかのように解釈し、それに対してヨブが抗議していると考えてしまう。追いつめられたヨブが反抗的になって「なぜこんな事になるのか」と叫んで、神に逆らっている。いい加減逆らったところで、神は「立派な反抗だ」と認めてあげたかのような解釈になってしまうのである。そうではない。ヨブは完全に神から出たこととして受け入れたうえで、神の導きに対しては絶対に従うという素直な心を一時も失わず、神に信頼しており、その絶対的な信頼のうえに立って「なぜですか」と答えを求めているのである。

       ヨブは、最後まで神を信じ切っている。神がなさっていることがベストだとわかっている。しかし、「なぜ、これがベストなのか」というところがわからない。それで、神を慕い求めて「どうか、神様。今の状態がなぜなのかを教えてください。私はあなたに信頼しているからです」という態度で神に心を注ぎ出しているのだ。感情をあらわに出して話しているのは事実である。しかし、信頼の心を前提としているのだ。その最悪な状態の中にあっても、ヨブは徹頭徹尾、神に対する信頼と従順の心を持っていた。それが神の御言葉と神の導きに対するヨブの応答であり、態度である。私たちは本当にヨブから学ばなければならないと思う。私たちも、毎日の生活の中で本当に理解できない難しい問題にぶつかったりすることがある。神は、いろいろな試練を与えてくださる。必要だから与えてくださるのだ。試練が与えられたとき、まず基本的に「神御自身の愛と導きは完全である」という確信に立って、従う心をもって神の御恵みと導きを求めなければならない。信頼と従順の心に立って、神に尋ね、神の導きを求めるのである。

       その点からイスラエルを見ると、どうだろうか。メサイアが十字架にかけられるというのは彼らには考えられないことだった。何としてもそれを受け付けない。いくら主イエス・キリストが明らかに御自分がメサイアであることを、行ないにおいて、言葉において、しるしにおいて顕わしても、旧約聖書のイザヤ書53章や詩篇22章から「メサイアは私たちの罪のために死ななければならない」ということを証明しても、彼らは絶対に信じようとはしない。実に固い頑なな思いを彼らは持っていた。「メサイアがナザレの大工だって? そんなことは絶対に有り得ない。そんなことは信じない」と言う。「メサイアが、死んで、よみがえって、天に昇った? そのキリストを信じて、異邦人と一緒に座って食べることをしなければならないのか。とんでもない。そんなことは受け付けられない。それはひどいことだ」という思いをイスラエルは持つのである。

       イスラエルの罪を見るとき、私たちは、神の御言葉に対して、素直に「はい」と言って従う心を常に持って、御言葉を聞き、御言葉を求めるべきである。そのような心の態度を持たなければならない。そのことをイスラエルの不従順から教えられていると思う。そして、イスラエルの心の状態や態度などから見るとき、私たちは自分たちがイスラエルよりも優れているとか、イスラエルよりもきよいと、安易に言えるはずはないと思うのである。イスラエルの中に見ることのできる罪は、どれを取っても、結局のところ私たちの中にもあるものばかりである。私たちの生活の中にも出て来ていることばかりである。私たちも、自分の罪を悔い改めて神の御言葉に信頼し、その御言葉に従う心を繰り返し繰り返し新たにしなければならない。聖餐式はそのためにも与えられている。

    毎週聖餐式のときに、長老たちは神の代表として主イエス・キリストの御身体をあらわすパンと、主イエス・キリストの血をあらわす葡萄酒を私たちに与えます。私たちがそれを受け入れるということは、「主よ。私はあなたに従います」と告白しているのである。聖餐式は私たちの理解を越える奥義であるということも事実である。パンと葡萄酒は特別な意味で主イエス・キリストをあらわしている。それを受けるということは、主イエス・キリストを受け入れることである。神の契約の祝福を受けることである。そのことを信じ、主イエス・キリストがこの取るに足りない私たちに目を留めてくださり、愛してくださり、ともにいてくださることを覚えるのである。主イエス・キリストは今すでに私たちとともにおられる。そして、特別な意味で私たちを取り扱ってくださる。そのことを信じて私たちはここに集まり、聖餐式を一緒に受けるのである。そのような、本当に御言葉を聞く心の態度をもって、そして感謝の心をもって聖餐式を一緒に受けたいと思う。

     

    ――2001年6月10日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙10章9〜13節

    ローマ人への手紙11章1〜10節

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