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    ローマ人への手紙11章25〜32節


    11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

    11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

    11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

    11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

    11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。

    11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

    11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

    11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

    2001.07.22. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    奥義

    11章25〜32節

       ローマ人への手紙11章11節からの箇所を学び始めるときに、26節の意味についてまず説明した。「こうして、イスラエルはみな救われる」という言い方の意味を一緒に考え、全体の流れについても数週間かけて考えてきた。今日は25節を学び、そして最初に見た26節のポイントに戻りたいと思う。

    兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までである。

       「奥義を知っていただきたい」とパウロは言う。新約聖書の中で「奥義」という言葉は27回ほど使われている。七十人訳ではダニエル書(2章18節、19節、27〜30節、47節、4章9節)においてアラム語の「秘密」の訳語として使われている。英語の「奥義(mystery)」は直接ギリシャ語から派生したものだが、意味は非常に異なっている。英語の「奥義」は、人が理解できないものについて使われ、一度その「奥義」が解ければそれはもはや奥義ではなくなる。しかし、ギリシャ語の「奥義」は、不思議なこととか人間の理解を越えることというような意味ではなく、「神が特別に啓示してくださらなければ人間には知り得ないこと」を指す言葉である。聖書の中の「奥義」とは、神によって啓示された秘密のことである。神が特別に啓示してくださったので、私たちはこの「奥義」を知ることができるのだ。

       確かに「偉大な真理」とか「素晴らしい真理」というのもその通りなのだが、特別啓示が無ければ知り得ない内容なのである。パウロはこの言葉を頻繁に用いて、キリストにある新しい契約の福音が単なる古い契約の預言の成就に留まるものではなく、「世々にわたって長い間隠されていた」(ローマ人への手紙16章25節参照)真理の覆いを取り除くことを説明している。福音の奥義について最も簡潔に示す箇所はエペソ人への手紙3章3〜7節であると思う。

    先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

       パウロが奥義について話すときにいつも強調していることは、「異邦人とユダヤ人は一つの教会となる」ということである。そのことは旧約聖書では啓示されていない。それは新しい契約の意味を主イエス・キリストにおいて理解するときに初めてパウロたちにわかったことである。キリストが復活して天に上り、主イエス・キリストを信じる者はキリストにあって救いを受けるということが明らかにされた。それで、異邦人もユダヤ人も皆、キリストにある者としてのみ救いを受けるのである。旧約聖書のすべての約束はキリストにあって成就される。御霊はそのことを弟子たちに知らせた。そのことを知ったとき、旧約聖書においては明白になっていない事柄について、初めて知ったのである。

       ここでパウロは、異邦人の救いは過去においてまったく啓示されていないと言っているわけではなく、「異邦人の救いはアブラハム契約の目的だ」と述べているのである(創世記12章3節)。この「奥義」は、新しい契約の奥義である。パウロはこの「奥義」について話すとき、そのことを広い意味で説明している。これは福音の奥義である。即ち、福音によって「異邦人とユダヤ人は一つとなる」と教えている。「奥義を知っていただきたい」と言うとき、異邦人とユダヤ人の関係についてパウロは、旧約聖書には啓示されていないが、新しく福音によって啓示されたことを伝えようとしているのである。それは旧約聖書に書いてあることと矛盾はしていないが、明らかにされてはいなかったことである。

       異邦人が救われることは旧約聖書にも啓示されていた。ユダヤ人が救われることも勿論啓示されている。すべての人々が神を信じて神を礼拝するようになることも書き記されている。しかし、「異邦人とユダヤ人が一つの神の民となる」というポイントは旧約聖書には無い。しかし、メサイアがすべての約束の成就であり、異邦人とユダヤ人はメサイアを通してすべての契約の祝福を受けるのである。すべての者がメサイアにあって「一致を持つ一つの民」となるのだ。そのことは旧約聖書には啓示されておらず、新約聖書の「奥義」なのである。

       「その奥義を知って欲しい」と、パウロは言う。その「奥義」の中で、なぜユダヤ人は神から離れなければならないのかというと、それは救いが異邦人の方に広がり、全世界に広がるためであった。そして、「そのようにイスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の完成のなる時までだ」と、パウロは言う。「異邦人の完成が成ったとき、イスラエルは全体として救われる」と言うのである。そこで26節に戻るのだが、「このようにして、全イスラエルは救われる」と、パウロは説明している。つまり、異邦人もユダヤ人も全部が含まれた真のイスラエルとして、「全イスラエルが救われる」という話になっているのである。

       どうしてイスラエルが神に逆らわなければ福音は異邦人のところに行かないのかというと、一番根本的なところを考えればよくわかると思う。イスラエルが神に逆らい、メサイアを十字架につけたことによって、主イエス・キリストは十字架上で全世界の救いを成就することになった。イスラエルは人類の中で特別な祭司の民として選ばれていた。そして、人類全体の代表としての特権と祝福を神からいただいていた。しかし、イスラエルが人類全体の代表として生きるとき、イスラエルは人類全体の神に対する敵対の心をも表わしてしまうものになってしまった。メサイアが表われたとき、ちょうどバビロンの時代のイスラエルのように、また荒野をさ迷っていた時代のイスラエルのように、イスラエルは徹底的に神に逆らった。

       主イエス・キリストが世に来られて御自分を表わしたとき、主イエス・キリストを十字架にかけることによってイスラエルは神に対する敵対心を表わしたのである。イスラエルは、最も極端な行動をもってその神への反逆の心を表わした。それは、全人類が神をどのように見ているかを表わす代表的な行為であった。神の民でさえ罪人に過ぎないのだということをイスラエルは深く表わしていた。神の御計画において、それも重大なことであった。つまり、イスラエルでさえもそこまで神に敵対する心を持つということを明白に表わすことによって、罪人である人類全体が神に対してどのような心を持っているのかを明白にしたのである。イスラエルはメサイアを憎み、逆らい、十字架につけてしまった。そして、パウロがローマ帝国の中で福音を述べ伝えると、異邦人は聞く耳を持っていたのに、イスラエルはあくまでも逆らっていた。パウロの時代にイスラエルがそのように逆らうとき、それは異邦人にとっては非常に目立つ行為であった。

       使徒行伝の中で、パウロたちがユダヤ人の集会所に行って福音を伝えると、ユダヤ人は反対したり暴動を起こしたりして異邦人の注目の的となった。それによって異邦人たちはもっと熱心に福音を聞こうとするようになったのだ。もしその反対に、ユダヤ人がメサイアを信じてイスラエルの中でメサイアについて語るなら、異邦人は何も気が付かないという結果になったかも知れないのだ。しかし、イスラエルは激しくメサイアに逆らい、その教えに逆らい、暴動を起こし、キリストの弟子たちを殺そうとしたので、大いに異邦人の注目を集める結果となった。

       パウロは異邦人の側に立たなければならなかった。最終的にローマ帝国の皇帝の前で法廷に立たなければならなかったほどであった。そのようなやり方でイスラエルが自分たちに与えられたメサイアを殺し、メサイアの代表である預言者や使徒たちを殺そうとしたり、パウロのような著名な指導者がローマ帝国内の町々を行き巡ったとき、ユダヤ人は事あるごとに反対し、できるだけの迫害を加えたりした。それによって、却って主イエス・キリストのことは異邦人の間で非常に目立つものとなった。迫害されることによって、パウロと使徒たちは王たちの前で福音を語る機会を得ることになった。異邦人たちはますますパウロと福音とに関心を向けるようになっていったのである。

       「これは実に不思議な導き方である」と、パウロは言うのである。ユダヤ人の盲目的な反抗行為は、古い契約の約束の成就と新しい契約の土台の完成のために、神に用いられたのである。神は、このような不思議な導き方をもって、こんどは異邦人の間に福音を伝えていくことになる。「こうして、イスラエルはみな救われる」とパウロは言っている。異邦人が救われ、そしてイスラエルの残りの者たちが救われ、そのようにして「全イスラエル」は救われる。それが26節で説明されていることである。

       最初に話したように、異邦人とイスラエル人の区別は古い契約の時代においては重大な意味があった。しかし、新しい契約の時代にあっては、私たちはアブラハム契約の中に入った者であり、主イエス・キリストを信じる者は皆アブラハム契約によって救われるのである。それだから、日本人であっても、中国人であっても、アメリカ人であっても、主イエス・キリストを信じる者は皆契約的にはユダヤ人であり、皆主イエス・キリストに属する者としてアブラハムの子孫である。そういう意味でユダヤ人と異邦人の区別は私たちの中にはない。そして、あってはいけないのである。

       例えば、留学でイスラエルから日本に来ているユダヤ人が救われて私たちの教会に来たとすれば、こちらにユダヤ人が座り、あちらに異邦人が座るということはないのである。また、「私たちは特別であって、他のクリスチャンとは違う」と思うのも実におかしいのだ。そのユダヤ人の留学生にしても、中世期には多くのヨーロッパの部族がユダヤ教に入ったので、今のアメリカやヨーロッパのユダヤ人の血はかなり混ざっており、純粋にアブラハムの血による子孫と言える者は非常に少ないのである。人種的にもアブラハムとは全く無関係であるユダヤ人はいくらでもいる。ユダヤ人が教会に来て、自分こそ特別にアブラハムの子孫なのだと思って日本人と差別意識を持つことはクリスチャンの中では有り得ないことである。誰であれ、「私はあなたと同じように、キリストにあってアブラハムの子孫です」と告白するのである。

       しかし、パウロの時代においては違ったのである。まだユダヤ人と異邦人の区別が残っていた時代であった。パウロは神殿に礼拝に行くが、その時、異邦人を神殿に連れていくことは出来ないのである。パウロはエルサレムに行けば、神殿に入って礼拝することが出来るというよりも、そうしなければならないのである。しかし、異邦人は入ることはできない。パウロもそのルールを守っていた。パウロはギリシャ人の父親を持つテモテにも割礼を受けさせている。古い契約の時代がまだ終わっておらず、神殿がまだエルサレムにあったからである。異邦人とユダヤ人の区別はまだ成り立っていた。同時に、新しい契約が始まっていた。

       だから、ガラテヤ人への手紙3章に書いてあることは実にそのとうりであって、教会の中に、神殿にあるような区別を持ち込んではならないのである。それがガラテヤ人への手紙の中のパウロとペテロの口論であった。パウロは、異邦人とユダヤ人が別々に食事しているのを見てペテロを叱った。「教会の中ではそうしてはならない」と諭したのである。しかし神殿であれば、それはしなければならない事であった。パウロの時は、時代の過渡期であったので、古い定めが残っていた。同時に、新しい契約の時代の土台も据えられたのである。

       では、その新しい時代が本格的に始まるのはいつなのかというと、それは七年間の患難時代が終わって、バビロンのように堕落したエルサレムが裁かれて神殿が破壊され、もう古い契約の制度は存在しなくなった時である。それ以降は、たとえ残されたユダヤ人が神殿の所に行って生贄をささげたいと思っても、ささげる場所はもうなかった。キリストが「この神殿を見なさい。一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と預言したとおりであった。神殿は完全に破壊された。そして、新しい契約は始まった。そして、メサイアが裁きを行ない、イスラエルの時代は完全に終わったということが明白になった。それでどうなったかというと、福音はもっともっと広く全世界に広まり、今日に至っているのである。そのことをパウロは言っているのだ。

       このように、ユダヤ人も異邦人もみな神に逆らうようになったが故に、神の憐れみを受けることになったのだ。神から与えられた賜物は取り消すことのできないものであり、従ってイスラエルに対する神の召しと選びは廃止されたわけではない。にもかかわらず、ユダヤ人は福音が異邦人に及ぶことに憤慨していた。しかし、ユダヤ人の完成と異邦人の完成とは両立しなければならないのである。だから、パウロが26〜27節で言及している箇所(イザヤ書59章20節他)は、メシアによってもたらされたアブラハム契約の成就を指しているのである。

       「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり・・・」と25節にあるが、この言い方は古い契約の時代の終わりが異邦人の時代であったことを想起させるものだ。異邦人の話がどうして大事なのかというと、ダニエル書にその答えがある。イスラエルの最後の時代は異邦人の時代となる。アブラハムの時代は約束の時代であり、約束を待ち望む時代であった。「主=ヤウエ」という名の意味を神はアブラハムの時代には表わしていなかった(出エジプト記6章3節)。「ウエ(エホバ)」の名の意味は「契約を守る神」という意味である。アブラハムの時代に神は契約の約束を与えてくださったが、モーセの時代になってイスラエルがエジプトから出てカナンの地に入ったときに、やっとアブラハムに与えられた約束を神が守ってくださったのだ。それで、モーセの時代になってやっと「ヤウエ」の名の意味がはっきりと啓示されたのである。

       そして、イスラエルはヨシュアの時から独立した国家として存在するようになった。士師記の時代にイスラエルは十二の部族によって国家として自分たちの政治を行なっていたが、ダビデの時代にイスラエルは王国となった。そして、バビロンの時代になると、王国は裁かれて奴隷にされた。その囚われの地から帰ってきた時代、それは異邦人の時代であった。そして異邦人がイスラエルをずっと最後まで支配したのである。ダニエルはその幻を解き明かしている。幻の中で一つの巨大な像は時代にまたがる四つの帝国の支配を指していた。まずバビロン帝国が支配するようになり、それからペルシャ帝国の支配となり、次にギリシャの支配があって、最後にローマ帝国が支配するという異邦人帝国支配の幻を神はネブカデネザル王に見せ、それをダニエルに解き明かさせた。

       第四の帝国であるローマ帝国の時代に、天の神は永遠に存続する一つの国を起こすこと、そしてその時代に「一つの石が人によらずに切り出されて」天から下って、その金と銀と青銅そして鉄と粘土で出来た巨像を裁いて打ち砕くであろうとダニエルは預言した。巨像を打ち砕いたその石とはメサイアのことである。メサイアが来られて異邦人の時代を終わらせ、異邦人の帝国の像も粉々にされ、「その石は大きな山となって全世界に満ちた」と、ダニエルは預言している(ダニエル書2章34節、44〜45節)。メサイアによって起こされた神の御国の山が全世界に成長していくと言うのである。異邦人とユダヤ人のことを話すとき、それはダニエルが幻の中に見た「異邦人の時代」の話なのである。

       その「異邦人の時代」と呼ばれる時代はエルサレムが裁かれた時に終わった(ルカの福音書21章24節)。バビロンからローマに至る四つ異邦人の帝国は、イスラエルの民としての使命が果たされるまでイスラエルの保護者となっていた。そして、「異邦人の完成」とは、「イスラエルの終焉の時代にあって異邦人が救われる」という話なのである。「異邦人の完成」があり、「イスラエルの完成」があって、その時代は終わるのである。これらすべての事が紀元七十年に成就した。

       紀元七十年にエルサレムの神殿が破壊され、新しい時代に入り、福音は全世界に広められる時代に入るのである。エルサレムの破壊と神殿の破壊をもたらした紀元七十年の出来事と紀元前587年の出来事とは同じ意味を持っていた。神はその時エルサレムを、その姦淫の罪のゆえに裁かれたのだ。紀元前587年の裁きについては回復の約束が与えられていたが、紀元七十年の裁きについては回復の約束は与えられていない。すべての古い契約の制度は神殿とともに廃止されたのである。

       そして、新しい神の民である「教会」が最後に明確に打立てられた。それは同時に異邦人の時代の終わりをも意味していた。なぜなら、新しい契約においてはユダヤ人と異邦人の区別はないからである(ガラテヤ人への手紙3章26〜29節)。そのことにパウロは目を留めながら話しているのだ。そういう意味で、「イスラエルの時代が完成されて、イスラエルの時代が終わったなら、それはよみがえりのいのちのようなものだ」と、パウロは言っているのだ。「それは死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」とパウロは言うのである。

       全世界で、神の御名を崇める者がどんどん多くなっていく。二十世紀の終りの時点の統計を見ると、確かに、自分をクリスチャンだと告白する人は仏教やイスラム教よりも多くなっており、キリスト教は世界で最も大きな宗教になっている。その数字が全部本当の信仰を持つクリスチャンを表わしているかどうかはまた別な問題としてあると思うが、極めて単純に分けるならば、キリスト教が一番多いのだ。そして、今もなお成長を続けており、特に中国等ではかなりの勢いで増え続けているという事実を私たちは見ることができる。

       パウロの時代に、福音がどんどん広まっていって全世界で数えきれないほどの人たちが救われていくことがパウロには見えていたのである。その事を見てパウロは、イスラエルの完成と異邦人の完成、そして神殿制度の廃止と新しい時代の始まりについて説明し、主イエス・キリストの福音が全世界に向けて広められるであろうことを説明したのである。26節の始めのところで、「こうして、イスラエルはみな救われる」とパウロは言う。そして、26b〜27節で次のように言っている。

    26bこう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。27これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

       27節は直接引用ではないが、26節は直接引用である。27節はもっと広く旧約聖書に書いてあることを指している。両方が直接引用であるかのように書かれてあるが、本当は直接引用は26節で終わっていて、27節は更にそのポイントを広く説明しているのだ。イザヤ書59章を見よう。言葉の使い方が少し違うように見えるが、パウロは59章の20〜21節を引用している。その前後関係を正しく捉えるために、私たちは59章の1節から読み始めなければならない。

    1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。2あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

       神は聞こえないのではない。神は聞いてくださって、民の祈りに応えて救うことはできる。しかし、2節から書いてあるように、イスラエルの罪が、イスラエルと神との間を駄目にしたのだと、神はイザヤを通して言っておられる。そして、イスラエルがどんなに罪深いかということを3節以降でイザヤはずっと語っている。3節には、「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく」とあり、4節では、「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む」とある。5節の「まむしの卵をかえし、卵をつぶすと、毒蛇が出て来る」というのは、サタン的な者になっているという意味である。6節は、「彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐」と言っている。「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い」と7節にあり、「彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない」と8節にある。これらはローマ人への手紙3章10節以降でも引用されている箇所である。また9節で、「それゆえ、公義は彼らから遠く離れている」と言う。「彼らは盲人のように、昼間でもつまずき、闇の中の死人のようだ」と10節にある。更に続いて、イスラエルの罪は延々と述べられており、イスラエルが神から離れていることを訴えている。そして、16節では、「救う者がいない。執り成す者がいない」と言っている。15節のbから21節までを見てほしい。

    15b主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。16主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。17主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。18主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。19そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。20「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。―― 21「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。

       パウロはこの20節と21節の所を指している。そして21節は契約の話であるが、罪の赦しのところをエレミヤ書やイザヤ書の別の箇所からとって一緒にしているように思われる。この19節では、「西から東へと、人々は主の御名を恐れるようになる」という言い方をしているが、これは異邦人のところまで救いが広まることを指すものと思われる。イスラエルがあまりにも罪深いので、神が来て裁きを行ないたもうのである。そして、「義の裁きを行なうことによって救いは広まる」というのが全体のポイントなのだ。そして、60章1〜3節を見ると、これはヘンデルのメサイアの中で歌われている箇所であるが、その賛美の声が聞こえてきそうな箇所である。これはあまりに有名な箇所である。

    起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

       つまり、イスラエルに救いが来ることによって、全世界に救いは広まるということである。これは「アブラハム契約の完成」の話なのだ。アブラハムとの契約が、神の約束どおりに成就するということである。そのことをイザヤは預言し、約束している。周知のとおり、イザヤがこれを書いたとき、何章何節と書いたわけではない。一つの文章としてイザヤ書を書いたのだ。59章の20〜21節の次に来るのは明らかに「メサイアの光が来て全世界を照らすようになる」という話なのである。全世界に福音の光が広まるのである。

       そして、59章の20節の前に書かれてあるイスラエルに対する神の裁きの話も、それもやはりメサイアの話なのである。そこからも「メサイアと神は一つである」ことが分かるというものである。メサイアが裁きを行ない、イスラエルに救いの祝福が与えられるが、全世界にも福音が広められる。そのことをイザヤは既に見ていた。

       パウロはイザヤの言葉を引用し、「聖書に書かれたとおりなのだ」と言っているのだ。ただし、「奥義」と言っているのは、そのメサイアを十字架にかけることによって、異邦人とユダヤ人がその十字架にかけられた主イエス・キリストを信じることによって新しい一つの民、新しいイスラエル、新しい身体となるということなのだが、それは旧約聖書の中には啓示されていなかったからである。しかし、メサイアが救いをイスラエルにも異邦人にも与えるということは、旧約聖書においてもはっきりと見ることができる。

       26節は旧約聖書の言い方と少し違うが、ポイントは同じである。即ち「ヤコブから不敬虔を取り払う」ということであり、イスラエルを救うということである。神は、イスラエルをも異邦人をも救い給う。これこそ神の契約である。その契約の故に、イスラエルの罪は取り除かれるのである。そのことを説明した後でパウロは28節でこう言っている。

    彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

       この28節は、明らかにイザヤ書のことを覚えて語られているものだ。言い方は違っても、神は「イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る」と言っておられるし、59章21節では、「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と言って、「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と、神は仰せられたのだ。また、61章9節でも、「彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める」と約束しておられる。だから、「アブラハムに与えた約束の故に、イスラエルは完全に捨てられたわけではない」と、パウロは異邦人に言うのである。

       「イスラエルは救われるのだ。あなたがたもイスラエルの救いを特別に求めるべきである。神はアブラハム契約を覚えておられる。しかし、まだイスラエルの完成はまだ成ってはいない」と、パウロは異邦人たちに教えているのである。イスラエルはアブラハムの故に愛されているものなのである。神が選んだ者を、神は決して捨て給わないのである。29節で、「神の賜物と召命とは変わることがありません」と言っている。つまり、アブラハムに与えられた約束は絶対に成就するのである。神の召命は絶対に成就するということを覚えなければならない。そして30節からパウロは更に説明を続ける。

    ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

       ここにも「奥義」のことが出て来ている。イスラエルがそこまで極端に神に逆らうことを神が許したのは、キリストが十字架にかけられて死に、そして死からよみがえってくださって、異邦人にもユダヤ人にも福音の祝福を与えるためであった。この手紙が書かれたのは紀元50年代の半ばだが、これが当時の人たちにとってどういう意味だったのかを具体的に言うなら、これはイスラエル人に対する福音の働きを特別に助ける責任があることの訴えである。パウロは、「イスラエルの完成のために特別に働きなさい」と言っているのだ。

       昔のヨーロッパでは、特にスコットランドのクリスチャンだったけれども、「これは今の時代に適用されることなのだから、ユダヤ人向けに宣教師を送るべきだ」と考える人たちがいた。「ユダヤ人が救われれば全世界は救われる」と解釈していた。今でもそのように考える人たちがいる。その人たちにとっては、「今でもユダヤ人であることには特別な意味がある」ということになる。そうすると、こんどはユダヤ人の定義が必要となるわけだが、もはやユダヤ人の定義はできなくなっているのだ。人種的にもできないし、宗教的にもできないのだ。その古い契約はもう残っていないからである。しかし、パウロの時代にあっては、すべて意味あるものであった。

       パウロの他の手紙にも出て来るが、パウロはエルサレムの教会のために献金を求めたりした。また、自分の宣教の働きを支援するように訴えていた。パウロは異邦人に福音を伝えたが、いつも町々に入るときには、まずユダヤ人の所に行って福音を伝えていた。パウロは、ユダヤ人の妬みを引き起こすことになる異邦人への福音の働きを最後まで成し遂げるためにローマの教会の助けを求め、そしてローマの教会も他の教会もエルサレムの教会を助けるように求めていた。エルサレムの教会はユダヤ人に対して特別な働きをしているし、エルサレムの教会はユダヤ人のクリスチャンの中では最も重要な拠点であった。悪い意味においてもそれが言えたということをガラテヤ人への手紙の中でも見ることができるが、エルサレムの教会は自分たちは教会の中で特別に偉い者であるかのように思い込んでいたような面もあった。

       この11章の話を全部パウロの時代のこととして理解するときに、「なるほど」と思わされる筈である。その七年間に、多くのユダヤ人が救われた。そして異邦人も多く救われた。エルサレムの神殿が破壊された時、教会はエルサレムから逃れたけれども、教会のリーダーたちの多くが殺された。その七年間の中でユダヤ人も多く殺された。紀元七十年から紀元百年までの次の約三十年の間、教会歴史はほとんど記されていない。あまりにも多くのリーダーたちが殺され、教会に対する迫害が激しかったために、どのような状態だったかは知られていない。大変な迫害が続いたことだけは明白であった。

       それだから、パウロは、イスラエルの不従順が異邦人に救いをもたらすこととなり、その異邦人が憐れみを受けたのはイスラエルを祝福してイスラエルも異邦人も完成させられ、そして異邦人の時代の終りの時までそのことが続くということを話しているのである。これはダニエルが言っているように、異邦人の時代はそのように最後までいくということなのだ。そのことを説明してからパウロは、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」と言う。憐れみを与えるために、不従順の下に置かれたのである。そのことを、イスラエルについても異邦人についても言うのである。

       神の最終的な目的は、ご自分の選んだ者たちに救いを与えるためである。どのようにそれを全うされるかは、実に不思議な導きなのである。その不思議な導きを成し給う神について、11章は説明している。どうしてその時代はそうなっているのかをパウロは当時の異邦人に説明しているわけである。そのようにこの箇所を読むとき、パウロが引用している旧約聖書の箇所もよく理解できると思う。

       それでは、それは私たちにとってはどういう意味なのだろうか。これはほとんどパウロの時代の話なのだが、先週も話したように、ここでパウロは異邦人に「傲慢になるな」と注意しているのだ。誰でも、何か特別な祝福を受けたりするときには傲慢に成りやすいものだと言えよう。神がどのようにイスラエルを導いて異邦人を取り扱ったかを見るとき、私たちが一番学ぶべきところは、神の不思議な契約の導きである。神の導き方は絶対に私たちの理解を越えるものである。私たちはそのすべてを測ったり理解したりすることはできない。それで、私たちにとって何が重大なのかと言うと、本当に素直に神を信じて神が示してくださった道を歩むことである。そうすればよいのである。

       主イエスは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイの福音書6章34節)と言っておられるが、明日を神はどのように導くか、その導き方はあまりにも不思議で想像を越えることなので、そのことを全部知ろうとしても仕方ないのだ。問題は、今日、今、私のやるべきことは何なのかを考えないで過ごしてしまうことである。明日のことばかり気にして、今日すべきことをちゃんとやらない。そうであるならば、それはとんでもない話である。私たちは神の導き方を信じ、神の御言葉を信じ、その日のために与えられているわざに励むべきである。その日その日に、その行なうべきことを行なうのである。神がどのように救ってくださるのか、神がどのように導くかを楽しみにして待つような信仰を持たなければならないものだと思う。

       そして、私たちのような時代では、それはそれほど難しいことではない。戦争の時代でもなければ、飢饉や大恐慌にもなっていない。実に恵まれた中で生活しているのだ。本格的な試練の中にあるときに、楽しみにして神の導きを待つことは簡単ではない。しかし、それはダビデが学んだところである。神は、詩篇の中でも繰り返し「我は、我が神を待ち望む」と何度も言っている。ダビデを捕らえるために、サウロの軍がきてダビデを包囲したとき、いったい神はどのようにしてダビデを救うのだろうか。しかし、ペリシテ人がイスラエルに侵入したという知らせを受けたサウロたちは、急きょその場を退いたのだ。それは誰も予想できない導きであった。互いに死ぬ覚悟をして、明日には死ぬと思って挨拶を交わし、神に祈りをささげていたのだろう。その時に、急に敵は目の前から消えてしまったのだ。ダビデの事においても、イスラエルの事においても、神は実に不思議な導きをなさるということを見ることができる。

       水を与えるのに、なぜ皆の喉が渇き切ってしまうまで待つのか。なぜ、どこにも水が無いような所に導いてくださるのか。それは、救いが必要なときにイスラエルは神からの救いを求めるかどうかを試すためであった。私たちも試されるのである。そのように、不思議な導きを行なう神の御手のわざを11章の箇所から見なければならない。そして、このように神はご自分の計画のすべてを完全に行うことを話してから、最後にパウロは礼拝の言葉をささげている。神は、奇妙に見える不思議な御業によってパウロを神礼拝と賛美とに導いておられる(11章33節)。これが全体のポイントである。これは来週見る箇所だが、即ち、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」というのが、私たちにとっての重要なポイントなのだ。

       神はアブラハムに対する御自分の約束に忠実であられた。その忠実は、残りの民の救いと、ユダヤ人の多数派の反逆によってもたらされた異邦人の救いとに表われている。ユダヤ人と異邦人の意志がどうであったにせよ、神の契約的な導きはすべてのことにおいて古い契約の約束の終わりを告げる。アブラハムに告げられた神の契約の最終目的は、「女の裔」を通して世界を救うことである。そのために、神はすべてを支配して導いてくださる。「このような不思議な神に救われて導かれているのだから、確信に満ちて神の御名を賛美しよう」ということが、私たちの時代における重大な適用であると思う。契約は成就され、世界は神を知るようになるのである。

       聖餐式にはそういう意味もあると思う。聖餐式を受けるとき、繰り返し繰り返し私たちは神の不思議な導きを覚えて、三位一体なる神の第二位格であられる御子なる神が人間となって私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。そうでなければ私たちは絶対に救われはしなかった。そのような神の不思議な導き、その救いの方法は、本当に私たちの理解と知識を越えるものである。その救いを思うとき、私たちは心から神の御名を賛美し、神の偉大さと愛を覚えて、感謝をささげるのである。それが聖餐式の中心的なところである。

       特に子供たちにも注意して聞いてほしいが、聖餐式のときに長老たちはパンと葡萄酒を渡すけれども、パンは私たちのためにささげられた主イエス・キリストの御身体を表わすものである。そして、長老たちは、主イエス・キリストの代表として神に代わって私たちに杯を持ってくる。その葡萄酒は私たちのために十字架にて流された主イエス・キリストの血を表わしている。私たちは、そのパンを食べ、その葡萄酒を飲むとき、主イエス・キリストご自身を受け入れるのである。神は、ご自分の御子を私たちに与えてくださる。私たちは御子を受け入れるのである。そのことを聖餐式において行なっているのだ。だから、心からの感謝をもって聖餐式を受けなければならない。これは非常に重大なことなのだということを皆で覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年7月22日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙11章16〜24節

    ローマ人への手紙11章33〜36節_

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