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    ローマ人への手紙12章15〜21節


    12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

    12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

    12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

    12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

    12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

    12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

    12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

    2001.12.16. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。



    十字架による勝利

    12章14〜21節

     

       この箇所で、パウロは私たちに「勝利の道」を教えている。先週見たように、苦しみを通ることによって勝利に至る道をパウロは示している。12章の最後のところでパウロは、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と命じている(21節)。ここでパウロは単に「悪に耐えなさい」とか「悪に負けないようにしなさい」と言ってはいない。パウロは、勝利を得る道を私たちに教えているのである。しかし、その道は、この世の人たちが考えるような勝利の道とはまるで違う。

       この世は、自らが正しいと信じることや自分に都合よいと思うことを守るために、独自の戦い方をする。しかし、神の方法は人間の方法とはあくまでも違うものである。神は、この世とは全く異なる真理のために生きる戦い方を私たちに命じておられる。パウロが教えている勝利の道は、十字架の勝利の道である。主イエス・キリストは激しく迫害を受け、憎まれ、最終的に十字架につけられた。十字架の上で主イエス・キリストは、自分を十字架につけたその敵の罪が赦されるように祈り、御自分のいのちを御父にささげたのである。その主イエス・キリストの十字架の勝利の道を覚えて、私たちも自分に与えられた十字架を負って主イエス・キリストに従って歩まなければならないということを、主イエス御自身が模範をもって私たちに教えておられる。

       同じ原則を、パウロもここで教えている。それ故、「迫害する者に対しては祝福をもって応えなさい」と命じている。悪に悪をもって報いてはならない。つまり、自分で復讐してはいけないのである。自分を迫害する者を祝福し、自分に対して悪を行なう者に対してひたすら善を行なうべきである。そうするなら、私たちは主イエス・キリストのやり方をもって、敵に対して応えることになる。そのことを先週はマタイの福音書5章から見たが、今週は、もっと細かいところに入るときに、その全体的なポイントを覚えていただきたい。ここで、パウロは勝利の道を教えている。そして、その勝利の道とは十字架の道であるということをパウロは教えている。そのポイントをしっかりと覚えて14節からの細かいところを見るようにしていただきたい。

       多くのクリスチャンにとって、この教えはこの世の権力にただ屈服して、自らの死か或いはキリストが再臨して歴史と呼ばれる混乱に終止符が打たれるまで、苦しみに耐えることかのように思えてしまう。そして、そういう意味で「耐えなければいけない」と考えてしまう。だが、パウロはそのようなことは全く述べてはいないのだ。へりくだって神に従い、この世の人々の憎悪と敵対に苦しまれた主イエス・キリストに倣うことによってこそ、私たちはキリストが勝ち取られた勝利を得ることができるのだ。それがパウロのポイントである。私たちは善を積極的に行うことによって悪に打ち勝つのだ。

     

    喜び、そして泣く

       15節に、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」とある。先週も少し説明したが、ここでパウロは、自分を迫害するクリスチャンではない人たちに対してどう応えるべきかをまず第一に教えている。それは前後関係から見て明らかである。パウロ自身もそのようにしていたことを使徒行伝から見ることができる。私たちの周りにいるクリスチャンではない人、或いは、私たちを憎む者に対してであっても、その人が悲しんでいるとき、笑ってその人の不幸を喜ぶようなことがあってはならない。その人が喜んでいるのを見て悔しく思うのもあってはならない心である。自分を嫌っているクリスチャンではない周りの人や親戚が死んだり、彼らがいろいろな問題にぶつかったりするのを見て喜ぶような気持ちになってしまいやすいが、パウロがここで言っているのは個人的な人間関係の話であるということを思い出していただきたい。個人的に自分を憎んだり嫌ったりする者とのことである。

       勿論、これは犯罪者が捕らえられたときに「その人は悲しんでいるんだから、喜んではいけない」という話ではない。パウロのこの教えは、その喜びや悲しみが倫理的にどんな性質のものかということによって制限されるのは言うまでもない。例えば、犯罪者や悪者が逮捕されたときには喜ぶべきである。つまり、本格的な悪者が正しい裁きを受けるときに、それは喜ぶべきことである。殺人を繰り返し行なうような人が逮捕されて死刑にされるとき、それは正しい意味で喜ぶべきである。迫害者がクリスチャンの血を流すのを喜ぶからと言って、私たちはそれに同調はできないし、迫害者がクリスチャンを殺害する機会を逸して悲しんでいる時に、それに共感することもできない。しかし、ここで話しているのはそのような話ではない。

       ここでパウロが言っているのは、自分を個人的に嫌って苛めたり迫害したりする自分個人の敵を、まるで神の敵であるかのように見てしまう危険性についてである。私たちには、「私を苛める者は神の敵だ」と思い込んでしまう傾向がある。クリスチャンではない人が正当な理由から喜んでいるならば、一緒に喜ぶべきであり、彼らが大切なものを失って悲しみにくれている時、私たちは共に悲しむべきである。これは生活の中のごく普通にある事についてである。例えば自分を憎む者が家族や親族の死や病などで苦しんでいる時には、それが自分を嫌っている敵であっても一緒に悲しみ、その人が祝福されたなら一緒に喜んであげる。

       これは実に難しいことだというのは事実である。なぜなら、罪人の心は、それとはまったく逆なものだからである。場合によっては、敵でなくても、喜ぶ者と一緒に喜び、悲しむ者と一緒に悲しむことは難しいのではないか。罪人の心は、自分自身を神にしてしまおうとするものなので、自分の思う通りにいかず、自分にとって都合がわるければ、誰の事であっても一緒に喜んだり悲しんだりはできない。それで、喜ぶことも、悲しむことも、全部がおかしくなる。つまり、神を愛して隣人を愛するということは、罪人にとってはどんなに難しいことかということがよくわかるのである。

       それ故パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と命じている。この命令を、私たちは心のことだけでなく、実際の行動においても表わさなければならない。隣の敵に何か悲しむべき大変なことがあるなら、一緒に悲しんでいることを表現してあげるべきであり、祝うべきことがあれば、何かの形で一緒に喜んでいることを表現すべきである。具体的にどのようにするか、何ができるかは、個々のケースにおいて異なるけれども、自分を憎んでいる敵にも「この人は私と一緒に悲しんでくれている」或いは「この人は私を祝福してくれている」ということがわかるようにすべきなのだ。これは敵を祝福する一つのやり方である。そのように敵が悲しむ時に一緒に悲しむということは、その人を祝福することである。敵が喜んでいる時に一緒に喜ぶのも、敵を祝福することである。

     

    キリスト者の一致

       16節は、教会の中の人間関係について書いてあるとも言える。しかし、先週も説明したが、この16節を17節と一緒にして考えるときに、パウロは、教会の中のことを、教会の外の人々のために教えているということがわかると思う。「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」と16節でパウロは命じている。ここでパウロは、教会の中では一致を保つように教えているのである。

       主イエス・キリストもヨハネの福音書17章の祈りの中で教会の一致のために祈っておられる。パウロの教えの目的は、主イエス・キリストの御教えの目的と同じである。主イエスは、この世が真の神を知ることができるために、神の民が一つとなるように祈っておられたのである。「教会の一致を見て、救いを与えたのは天にいます父なる神だということを外の人々が信じるためである」というようなことを主イエス・キリストは言っておられる。ヨハネの福音書17章21節と23節を見てみよう。

     

    21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

    23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。

       勿論、私たちがキリストにあって一致を保って生活するのは、ただ世が救われるためだけではないけれども、それは世が救われるためでもあるのだ。パウロが教会の一致について話しているときに「教会を迫害する者を祝福しなさい」と命じ、そして「悪をもって悪に報いてはならない」と命じている。その前後関係の中で、一致を保つように教えているのである。つまり16節でパウロは、敵を祝福することにおいて、そして敵との戦い方において、「教会は、敵を祝福するという一つの原則をもって戦い、皆が一致した一つの心を持って戦いなさい」と教えていると思う。一言で言えば「高ぶるな」ということである。高ぶりは、教会の一致を最も破壊してしまうものだからである。

       コリント人への第一の手紙の中で、そのことは繰り返し出て来る。高ぶる者がいるために、コリントの教会の中にはいろいろな争いがあった。「自分こそ知者だ」と思う者がいるために、教会は分裂してしまう。その結果、迫害する者との戦いも困難なものになる。内なる戦いがあると、外に対する戦いができなくなるのだ。教会の中での一致が保たれて、兄弟愛をもって互いを愛し合うなら、迫害に対して耐えることができるだけでなく、迫害する者はキリストの教会の愛を見て変えられることになるのだ。

       これは弁証論の話にもなると思う。巧みな理論を展開し、素晴らしい哲学を作ったりして教えれば、それで聞く者が救われるのかというと、そうではないのだ。また、「それなら哲学はいらないし、論理的な考え方もいらない」という話にもならない。神は、永遠に変わることのない真理の御言葉を私たちに与えてくださったからである。しかし、真理と愛とを別々に分けてしまうなら、「私は真理を知っている。あなたは何も知らない」という傲慢な心になってしまって、真理は力は失われるのである。

       真理なる神はまた愛なる神でもあられる。真理と愛を分離させてしまうなら、それはもはや真理でも愛でもなくなる。一つの心になるためには、互いに偽りのない愛を持たなければならない。ここでパウロは、「教会の中では、偽りのない愛をもって互いに愛し合いなさい。へりくだった心を持って助け合いなさい。傲慢で高ぶった思いを持つな」と話している。なぜなら、教会が本当に正しい愛をもって互いを愛し合って一つの心を持つなら、教会を迫害する者に対して十分に戦う力を持つことができるからである。

       続いてパウロは、「身分の低い者に順応しなさい」と命じているが、それも同じ文脈の中での話である。ヤコブの手紙を見ると、この問題が実際に教会の中にあったことがわかる(2章1節以下)。教会で、金持ちと貧しい者たちの座る場所に差別があってはならないとヤコブは教えている。金持ちは良い座を占め、身分の低い貧しい者たちは下座にいたようである。金持ちは互いに交わりを持つが、身分の低い者とはあまり交わりを持たない。つまり、世俗社会の人間関係を教会の中に持込み、教会の中はまるでこの世と同じような人間関係になっていたのだ。この世の上下関係は財力や社会的な地位によって決まってしまう。それを教会の中に持ち込むのは、実にどうにもならないことである。パウロもその事を取り扱っているし、ヤコブも取り扱っている。

       しかし、どの時代においても同じ問題が起こってくるものだ。社会的に地位があって金持ちであれば、教会の中でもその人物はもてはやされる。ビル・ゲイツのような人が救われたら、教会によっては、次の日にはもう長老にされてしまう。クリスチャンとして何も成長しておらず、霊的に全くの赤ちゃんなのに、社会的地位が高くて金持ちだからということで、すぐに長老に選ばれてしまう傾向がある。どの時代においても、その傾向が教会の中にあるのを見る。小さな町では、金持ちが引っ越してくると、すぐに教会はその人を教会のリーダーにしてしまうのである。大きな教会では長老が何十人もいる。それらの長老を見ると、皆金持ちで社会的な有力者ばかりであるのが普通なのだ。

       最初の頃、私は完全なリベラルな教会に行ってたが、その教会の長老の一人は無神論者であった。信仰は二の次で、お金持ちか否か、社会的な地位があるか否かによって長老として選ばれてしまうのだ。それはこの世の流れに従うものであり、世俗的なクラブ活動のリーダー選びと何ら変わるところがない。それで、教会の中では、身分の低い人に挨拶するだけでも特別な親切をしたということになり、それ以外はほとんど口もきかなくなる。パウロはローマの教会に対して、「そのようなことがあってはならない」と命じている。

       このような箇所を読むとき、私たちの三鷹福音教会では皆が社会的にだいたい同じレベルにあるために、パウロの命令に対してあまりピンと来ないかも知れない。私たちの教会には奴隷はいないし、皇帝の家族もいない。今の社会では住む場所によってだいたい社会的地位も決められてしまう。日本でも同じだと思うが、同じ地区に住む人たちは、社会的にもだいたい同じレベルの人たちが多いと思う。アメリカでそのことは特に顕著である。住む地域によって、すでに社会的な地位は決まっているようなものなのだ。自分の地域の教会に行けば、だいたい自分と同じような人にしか会わない。それだから、身分の低い者に挨拶する機会すらないのである。

       それが良いことだとは思わないけれども、パウロの時代を考えると、実際に奴隷たちが隣に座っていたのである。ローマの教会における社会階級の格差は極端に大きく、社会階級のゆえに特定の人々がなおざりにされる誘惑があった。その時代の階級意識は非常に強いものであったからである。ローマ帝国の皇帝の家族の中にもクリスチャンとなった人たちがいて、彼らも教会に集まっていた。ローマ帝国の皇帝と毎日一緒に仕事している人がローマの教会の中にいた。土曜日に皇帝との会合で国家のことについて打合わせた人が、日曜日には奴隷の隣に座って挨拶したり親しく交わりを持ったりすることになるのだ。キリストにある教会は、新しい社会であり、新しい家庭であり、神が創造した新しい人類である。その新しい人類の交わりは、この世の交わりのようではない。

       それ故、身分の高い人は身分の低い人に対して「私はあなたのような身分の低い者とは話しません」という心を決して持ってはならない。このように明らかに命じられていながら、残念なことに教会の中ではその過ちを犯してしまう人が少なくないのである。だから、「キリストを信じて救われた者は、この思いがはっきりしていなければならない」と、パウロはローマの教会に教えている。貴族たちと奴隷たちが、身分の高い人たちと身分の低い者たちが、一緒に主にある兄弟として礼拝しているからである。

       教会が一つの心をもって一緒にキリストを中心とする交わりを持っているなら、奴隷や身分の低い者たちが迫害されるとき、身分の高い者たちは彼らと一緒に立つことになる。これは想像以上に大変なことなのだ。身分の低い者が奴隷を助けるとしても、宮殿や皇帝の執務室にいる貴族たちは黙って無視すればよかった。しかし、皇帝の側近である貴族が、牢屋に囚われたクリスチャンの奴隷を尋ねて行くなら、直ちに軍人の間で噂が広がる筈だ。番兵たちは、貴族の服を見るだけでその名も身分も認識できた筈である。刑務所に行って、牢屋で迫害を受けている身分の低いクリスチャンを尋ねるなら、すぐにその情報は伝わるであろう。キリスト教徒はどのように一致を保っているかがはっきりと知られるわけである。

       クリスチャンたちがそのようにはっきりと一つの心をもって立つなら、その影響は全く違うものとなる。ただ身分の低い者や奴隷たちが迫害されて、身分の高い人たちはそれを無視すればよいということにはなる筈はない。パウロはこのような具体的な教えを細かくローマの教会に与えたが、このすぐ後、ローマの教会は想像を絶するほどの迫害を受けることになったのである。

       そのローマの教会で、信徒たちは互いに一つの心によって結ばれ、一致した心をもって三百年間もの迫害に耐えた。身分の高い人も身分の低い人も、大勢がいのちを落とした。その一致した信仰から生まれる忍耐によって、教会はローマ帝国に対して勝利を得ることになった。だからパウロは、ローマの教会の信徒たちに「傲慢になってはならない」と命じている。傲慢は交わりを破壊するものだ。知恵と知識において優れていると自ら確信する者は、思い上がっているのだ。地域教会に分裂をもたらすのはそのような輩である。そのようなことで世に対する証しを台無しにするようなことがあってはならない。

     

    自分で復讐しない

       続く一連の節はすべて復讐についての説明である。17節では、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」と命じている。「悪に対して悪をもって報いるな」とパウロは教える。悪に悪を返すのは復讐であり、平和を求めないで敵に戦いをしかけるのも復讐を求めることである。これも罪人の心の傾向を取り扱う教えである。不親切にされたなら、機会あれば不親切をもって報いようとする。それが罪人のごく自然な反応である。自分が助けを求めても助けてくれなかったなら、それを根に持って、こんどその人が助けを求めるときに、「今こそ思い知らせてやる。あなたを助けるつもりはない」と言って、復讐の心をもって応えるのである。私たちも、気を付けなければ、そのように復讐心を実践してしまうかも知れない。

       パウロが「悪に対して悪をもって報いてはならない」と言うとき、これは毎日の生活の中の細かい事柄についても教えていると思う。「すべての人が良いと思うことを図りなさい」とパウロは言う。この翻訳は、口語訳では「すべての人に対して善を図りなさい」という訳になっている。新共同訳では「すべての人の前で善を行うように心がけなさい」となっている。「すべての人が良いと思うことを図る」と言うと、まるで一般社会が基準であるかのような誤解をしかねない。「すべての日本人が良いと思うことを図りなさい」と解釈すれば、「それなら偶像礼拝と妥協してもいい」と考えてしまう危険もある。パウロがそのようなことを教えていないのは明らかである。「すべての人の前で良い行ないをするように心がけなさい」と訳すこともできるが、その意味は、マタイの福音書5章16節で主イエス・キリストが話したことにおいて見ることができる。マタイの福音書5章13〜16節を見よう。

    13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

       この有名な主イエス・キリストの教えの結論は16節にある。即ち、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの良い行ないを見て、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」と教えているのである。パウロは「人の前で良い行ないをするように心がけなさい」と教えているが、キリストと同じことを教えていることがよくわかると思う。はっきり善を行ない、良い行ないをすれば、クリスチャンではない人たちもそれを見て神の御言葉の証しを私たちの行ないを通して見ることができるのだ。「だから、行ないによる証しをしなさい」と命じているのである。自分に悪を行なう者に対して善で応えるのである。そうすれば、その良い行ないは人の目にはっきり見えるので、その人たちはその行ないによって神の証しを見ることになる。それがパウロの教えの意味である。

       「すべての人が良いと思うことを図りなさい」という新改訳聖書の訳も可能であるけれども、その訳の場合、「一般恩寵の範囲での行ない」という話になってしまいやすいと思う。それでも、「社会全体が偶像礼拝しているから、偶像礼拝をしよう」という意味にはならないのは明白である。聖書にはっきりした善悪の基準があるが、社会全体にも善悪の基準のようなものがあって、すべての人が良いと認めるようなことはたくさんある。クリスチャンが悪に対して善をもって報いるなら、クリスチャンではない人でもそれを見て良いと認めることはできるのだ。「この人は苛められたのに、いつも善をもって応えた。立派なことだ」と、すべての人は認めるであろう。

       どちらの翻訳の方が良いのか、私にはまだ結論は出せない。しかし、マタイの福音書5章にある「立派な行ないを人に見せる」という教えも、読み方によっては「人が見ている時だけ良い行ないをする」というようなとんでもない誤解にもなり得るだろうし、「すべての人が良いと認めることを行ないなさい」という教えについてもその意味を曲げてしまうと「クリスチャンではない人たちが善と悪の基準になる」という誤解にもなりかねない。しかし、正しく理解するならば、どちらの意味も私たちにとっては重大な教えであると思う。

       続いてパウロは、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と18節で命じている。自分に関する限りというのは、「私は喧嘩を売るようなことはしない」「私は喧嘩を買わない」という意味に理解してもいいと思う。相手が喧嘩をしかけてくれば受けてしまうケースもあるかも知れないが、喧嘩を求めることはしない。相手が喧嘩をしかけてくるとき、主イエス・キリストは「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と教えておられる(マタイの福音書5章39節)。挑発に乗ることはせず、暴力で応えることはしないのである。

       「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては完全に・・」という意味である。相手があくまでも悪いことをすれば、二人の間には本当の平和はないけれども、せめて自分の側においては全き平和を保ち、平和でない責任は相手にあることが明らかであるようにしなければならないのである。これも実際の生活においては大変なことだと思う。日々の生活の中で和が保てないとき、「あの人が悪かったのだ」「いや。あいつが悪い」という話になりがちである。それ故、私たちは、悪をもって報いることを一切せず、相手が「悪いのはおまえだ」ということが言えないようにしなければならない。自分に関する限り、平和を保つのである。

       「お前が悪いのだ」と言われたら、「申し訳ない」と簡単に応えられるケースもよくある。勿論、簡単には応えられない場合もあるが、その場合には知恵の話になると思う。「お金を盗んだのはお前だろう」と言われて、盗んでもいないのに「申し訳ありません」と応えるべきではない。しかし、「あなた、失礼ではないか」と言われたら、謝ればいいのだ。親切のつもりでしたことが、相手は失礼だと思っているなら、ただ謝ればよいのだ。「親切にしてあげたのに、あなたはバカだから、人の親切がわからないのです。悪いのはあなたの方でしょう。考え直しなさい」というように応える必要はない。相手が気分を害したら、謝ればよいのだ。自分に関する限り、できるだけすべての人と平和を保つようにすべきである。平和を保つためには、自分に関する限りは妥協してもよいのだ。

       先週も話したが、ダビデにおいて良い証しを見ることができる。サウルは、故も無しにダビデを殺そうとしていたのに、そのサウルを殺す機会が与えられても、ダビデは絶対に手を下すことはしなかった。却ってダビデはサウルを祝福したのである。長年逃げ回らなければならなかったし、家族をモアブに移さなければならなかったし、自分もペリシテ人の中に紛れ込んだりしなければならなかった。それでもダビデは、最後までサウルに対して平和を保った。そのような状態は約十二年間も続き、その中で特に激しかった期間が少なくとも五〜六年はあった。生存すら危ぶまれる状態の中で、敵に対して悪をもって報いることをせずに、ダビデは、自分に関する限り平和を保ったのである。聖書に記されたそのダビデの模範は実に凄まじいものであり、「平和を保つ」ことの気高さと素晴らしさをそこに見ることができると思う。

       実は、パウロのこの箇所の教えの多くはマタイ福音書5章からの引用したものだと思われる。そこでキリストは、平和を求める者に対して祝福を宣言している。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」と主イエス・キリストが教えておられるのを思い起こそう。私たちが純粋に真理に立つとき、必ず問題は起きる。真理は反対を招くからである。真理は光であり、この世は闇を好む。だから、何かと問題が出てくるのは当然だと言える。しかし、相手が私たちに対して怒って、「あなたは正直であなたは正しい。それが許せないのだ」と言っても、気にしなくてもよい。

       そう言うと笑う人がいるけれども、なぜパリサイ人はキリストに対して怒ったのかを思い出していただきたい。「安息日に人を助けるとは、とんでもない」と考えたからなのだ。それが彼らには絶対に許せないことであった。また、罪人と食事する主イエスを見て彼らは怒ったが、キリストはそこで福音を伝えていたのである。罪人の宴席に入って罪人と調子を合わせて騒いでいたわけではない。聖書研究会に誰が来たのか、というような話だったのだ。聖書研究会で一緒に食べたりぶどう酒を飲んだりして話していたところに罪人たちが入って来た。その罪人が同席するのを許すキリストに対して、パリサイ人は怒ったのである。主イエス・キリストがパリサイ人たちに憎まれた理由はすべて、キリストの良い行ないにあったのだ。良い行ないのために憎まれたとしても、気にしなくても良い。それでも個人のことに限っては平和を保つことを求めるのである。

       19節を見よう。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」とパウロは言う。「自分で復讐をしてはならない」という命令は、今までの話を別の観点からまとめるようなものである。結局のところ、悪に悪をもって報いるのは「復讐」であるし、パウロが今まで話しているのは「復讐」の話なのだ。「復讐したい」という思いは罪人の中に深く根差している。そして、これは良いことを曲げる心から出てくる思いである。「悪は裁かれるべきである」という思いは正しいのであって、そのとおりである。

       復讐を願う心そのものが肉から来るわけではない。それ自体、本質的に罪ではない。義なる神は悪を裁きたもうのだ。罪人でなければ、悪を憎み、悪が正しい裁きにあうことを、正しい心をもって求める筈である。そこには何一つ問題はない。悪が正しく裁かれることを喜ぶべきである。それは正しい者の心である。その心に問題はないが、罪人である私たちは、悪が裁かれるのを求めてはいるが、その善と悪が自分に関することの場合には、解釈や思いがおかしくなってしまいやすい。自分で想像する以上に義と裁きの基準を歪めてしまう傾向がある。私たちは、簡単に自己中心的な思いになってしまうものである。

       問題を扱うとき、私たちは、神御自身と神の真実よりもむしろ、自分自身および自分の関心事を問題の中心にしてしまいがちである。自分の方が神の御国のための働きよりも大切だと思っているような行動を、あまり意識することもなしに取ってしまう傾向が強いのだ。それで、義憤を持っているつもりなのに、その実は義憤ではなくて、自己中心的な怒りに過ぎないことになりがちなのだ。だから「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」と、ヤコブは言うのだ(ヤコブの手紙1章20節)。誰もが「先に手を出したのは相手の方だ」と言うのである。復讐はいつも、悪に対する義憤や懲罰を装って行なわれるものなのだ。しかし、人間の怒りは神の義を表わしはしない。それ故、「神に復讐を任せなさい」と聖書は命じるのである。

       特に教会を迫害する者たちについて考えるとき、神がどのように導いておられるのか、どのように裁き、どのようにその罪を取り扱うのかを、私たちは知らないのである。だから、私たちは神に信頼して、この世におけるすべての事柄の最終解決である最後の審判を待たねばならない。神の裁きに委ねるのである。

       例えば、パウロ自身が教会を迫害する者だったことを忘れてはならない。パウロ(クリスチャンになる前の名はサウロであったが)は、激しく教会を迫害していた。教会を荒し、クリスチャンの家々に入って男も女も引きずり出して迫害を加えた。パウロに殺されたあのステパノはどのように祈っただろうか。「神よ。あそこに立って皆の衣の番をしているあのパリサイ人をどうか裁いてください」と祈ってはいない。ステパノの祈りを私たちは模範として覚えるべきである。ステパノは、主イエス・キリストと同じように、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りについたのである(使徒行伝7章)。迫害する者たちの罪が赦されるように、祈ったのである。パウロはその迫害する者の中にいた。そのパウロが、罪赦されて、救われたのだ。そのパウロが、キリストに仕える忠実な使徒となった。ステパノの祈りは豊かに豊かに聞かれたのだ。ステパノが血を流した意味も、パウロの身においてはっきりと見ることができる。ステパノは忠実な信徒であったので、神はそのステパノを用いてパウロを取り扱い、そしてパウロに救いを与えてくださった。

       だから私たちも、自分で復讐しないで、自分を迫害する者を祝福し、その人のために祈るべきである。そうするなら、私たちは十字架の原則に従って歩むことになるので、悪に対する勝利が約束されている。十字架の原則から離れてしまうなら、この世の思いに従って戦うことになってしまう。私たちは、すぐにこの世の原則に立った戦い方をしてしまう未熟者なのだ。教会としての歩みは十字架の歩みである。クリスチャンとしての歩みは十字架の歩みなのである。クリスチャンの歩みは十字架以外にはないということを覚えよう。

       だが、これもまた複雑な話であるのは確かである。先週いろいろな聖書箇所を見たけれども、パウロ自身が教会の中で裁きを行なっていた。「どうか神さま。この者をお裁きください」と、パウロは祈った。それはどういうことなのだろうか。13章でもそのポイントを考えることになるが、13章は、「国家に復讐の責任が与えられている」と教えている。与えられた領域の中で裁きを行なわなければならないということも言わねばならないのだ。教会にも、限られた領域にあって復讐の責任が与えられている。しかし、それは「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と神が言っておられる命令の中に含まれることなのである。つまり、完全な復讐として神の最終的で絶対的な裁きがあるけれども、人が殺人をすれば、国家にはそれを裁く責任が与えられている。国家は神の手にある復讐の手段である。そのことをパウロは13章で説明している。

       教会の中でバプテスマを受け、クリスチャンになって信仰の告白しても、その後で罪を犯し、あくまでも罪を悔い改めないなら、教会はその者を裁く責任がある。その場合、神の復讐は教会を通して行なわれる。それは主イエス・キリストがマタイの福音書18章18節の箇所で教えているとおりである。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」とキリストは言っておられる。そのように主イエス・キリストが教会に裁きの権威を与えられたので、教会には与えられた領域において裁くべきことを裁く責任がある。つまり、教会戒規は正しく行われなければならない。教会戒規は神の復讐の仕方である。

       しかし、クリスチャンが信仰のために迫害されている場合、私たちは暴力をもって迫害する者に報いるべきかというと、断じてそうではない。そのような裁きは私たちには許されていない。むしろ私たちは、自分の内なるものをさばくべきである。教会の外にあって迫害する者たちよりも、教会の中を正しく裁かなけばならない。「中の者を裁く」と言っても、それは、神に祈りをささげて裁きを行なうというものである。暴力をもって教会の中の者を裁くことも許されてはいない。“暴力”の権威については、家庭には非常に限定された暴力の権威が親に与えられている。つまり、子どものお尻をたたく権限が家庭の親に与えられている。“鞭”をもって子どもを教え、懲らしめ、その罪を取り扱うのである。

       国家には“剣”が与えられている(ローマ人への手紙13章4節)。そして教会には、裁きの手段として教会戒規の権威が与えられており、それは“祈り”をもって、悔い改めない者を聖餐式から切り離すというものであり、その裁き方しか与えられていない。それで、神が建てた契約の組織には、国家、教会、家庭があって、それぞれに裁きを行なう手段が限定的に与えられている。そして「復讐してはならない。復讐は神のものである」というこの原則は、家庭にも、教会にも、また国家にも適用されなければならない。

       「復讐すべきである」という権威について考えるとき、つまり「裁くべきだ」ということを考えるとき、国家も家庭も教会も気を付けなければならない。神を恐れて、慎重にその権威を用いなくてはならない。例えば教会では、教会内の問題を裁くときに、長老たちは非常に気を付けて裁きを考えなければならない。自分たちに失礼なことをしたとか言ったとかで復讐したりはしない。神に対する罪が明確である場合のみ、そしてその罪をどうしても悔い改めないときにのみ、教会はその者に対して復讐すなわち裁きを行なう。神を恐れつつ、気を付けて行なわなければならない。

       国家の場合もその原則は同じである。「有罪が証明できなければ無罪と見做す」という原則が裁判において適用されている。ドイツやロシアなど、この原則を持たない国もあるが、アメリカではその原則が適用されている。それは聖書の律法の中の原則である。有罪を証明できない限り、無罪と見做さなければならない。それだから、はっきりと罪があるなら、有罪であることが明確に証明されなければならない。これは教会においても適用される原則である。その原則に従って復讐と裁きを行なうなら、「明らかにあの人がやったとわかっている」と確信していても、それが十分に法廷にて証明できなければ、その人は裁きから免れることになる。

       しかし、それで良いのだ。最終的な裁きは神が行なうものなので、この世の中の裁きが不完全だということに対してそれほど腹を立てる必要はない。この世の中で国家、教会、家庭という裁きの手段が与えられているが、その裁きは不完全であり、最終的な裁きと復讐は神が行なうものであると聖書は教えている。それでも、家庭、教会、国家は、神が与えた権威と裁きの領域において、神があらかじめ定められた方法で、悪を罰する責任を神に対して負っている。これらの組織はあくまでも不完全ではあるが、歴史を通して神の怒りと復讐を表わす手段として機能しているので、各々の領域にあって最善の裁きを行なうべきである。

       ここではクリスチャンの為政者たちが「復讐をしない」という名目で犯罪や反乱を黙認するように教えているわけではない。その裁きが足りないとしても、また不公平であったとしても、私たちは最終的な裁きを神に委ねて、善を行なえばよいのである。完全な裁きが行われずに終わることはないことを、私たちは知っているのだから。心の中でこの世での裁きの不公平に対して怒りを燃やしたり、がっかりしたりして、「あいつが裁かれなければ絶対にいやだ」という気持ちを持ち続けるなら、自分の心を殺すことになる。

       相手の罪を赦しなさい。相手の祝福を求めなさい。自分がどんなに豊かに赦されたかを覚えなさい。自分に悪をなす者が裁かれることをいつも求めているような心をもって日々の生活を送ってはならない。そのようにパウロは私たちに教えている。裁きを神に委ねなさい。神が復讐を行なってくださる。復讐は神のものである。そのような心を持って生活するなら、どんなに大変な事にぶつかっても神に委ねることができるようになる。神に委ねる者の心は、自由を得て、軽くされる。20節でパウロはこう教えている。

     

    敵を食べさせる

    もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

       この「炭火」という言葉は、ギリシャ語の「エントラクス」という言葉である。「頭に燃える炭火を積む」とはどういうことなのか。ある人たちはここで「自分の敵に対して親切にすれば、その人は最後の審判においてもっと大きな裁きを神から受けることになる。敵の地獄での苦しみを増すことになる」というように解釈をしているが、それは違う。それではまるで、「人に親切にするのは、その人がもっと重い裁きを受けるためだ」というようなことになるので、とても正しい解釈とは言えない。確かに、私たちが親切を施して福音を伝えようとするときに、敵が嘲って拒絶するなら、そのような結末になるだろう。しかし、敵が地獄で苦しむようにすることが私たちの目的ではない。

       この聖句の意味は、私たちの敵が良心の痛みを覚えるように求めることなのだ。敵に対して親切にすればするほど、いつかその敵は自分の罪に気が付いて良心の呵責を覚えるようになる。「自分は悪いことをしている」ということに気付かせるためにそうするのである。「あなたがたの善の行ないのゆえに迫害されているのであれば、そういう事になる」とパウロは教えているのだ。敵が悪い心をもって私たちを迫害したり、悪い動機で苛めたりするが、「そのような彼らに親切にしてあげなさい」と、私たちは命じられている。そうすることによって私たちは、敵が自分の悪と罪に気付いて悔い改めに導かれるのを求めるのである。「善をもって悪に報いて勝利を得る」とは、そういうことなのだ。敵が神を知り、悔い改めて神に立ち返るようにという望みを抱いて、親切にするのである。

       それがステパノのしたことである。主イエス・キリストも、十字架上で死ぬときに、自分を十字架にかけた人々のために祈られたのだ。私たちはその模範に従わなければならない。そのようにして、「善をもって悪に対して勝利を得なさい」と、パウロは教えている。この教えの基準は主イエス・キリストである。「主イエス・キリストがなさったようにしなさい。キリストに従うステパノのようにしなさい。パウロのようにしなさい」と聖書は教えているが、これは私たちにとって基準としてかなり高いものであり、凄まじいことが要求されている。そして、これは毎日の生活での話なのである。

       会社の中で、家庭の中で、周りの人たちに対して私たちはどう振る舞うべきか。当然ながら、教会の中も例外ではない。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えているが、これはどんな人間関係においても適用される原則である。良い行ないを熱心に行ない、善を行なう機会が与えられたなら、喜んでそれを行なうようにしなさい。そのようにパウロは私たちに教えている。誰に対しても、良い行ないをするのである。

       そのように教えるとき、実に「主イエス・キリストに似た者となりなさい」ということを教えているのである。主イエス・キリストに対してそうであったのと同じように、私たちを憎む者たちは、私たちの善の行ないを憎むようになる。その彼らに対して、あくまでも親切に、善をもって報いるなら、彼らはそれを見て自分の良心が痛むようになる。私たちはそのようにして彼らが救いに導かれることを求めるのである。

       ユグノー(フランスのカルヴァン派信徒の旧称)を批判するつもりではないが、実際にフランスの教会史を見ると、迫害されていた時代にはどんどん教会の人数は増えていったのを見る。そして、戦い始めたときから人数の増加はピタリと止み、増えなくなってしまったのである。ユグノーの戦いについては、彼らが聖書の原則を破ったのかどうかは歴史的に判断しにくいところがある。政治的権威を正しく持つ指導者たちが政治的な裁きを行なおうとしたときに、ユグノーはその人たちと共に立ったということなので、それは所謂革命というものではないし、判断の難しいところである。しかし、後になって歴史を振り返って見ると、何も戦わずに福音だけをもって敵に報いた人たちがどんどん殺されて目を覆うほどの迫害を受けたが、その時代には教会の人数は本当に増えたのである。それが力での戦いを始めると、増加は止まった。それが史実である。もしかすると、「十字架の原則から離れてしまったからだ」と言えるのかも知れない。その事についてはっきり断言したくない理由は、歴史的には極めて複雑な状態であったからである。

       しかし、どの時代を見ても、教会が迫害を受けるときにその成長は著しかったのだ。今の中国も然りである。アフリカでも、二十世紀において激しい迫害があった。以前に、「この二百年間の宣教の働きにおいて、宣教師の墓はクリスチャンの数よりも多い」という記事を読んだことがあるが、それが過度な強調なのかどうかは私にはわからない。しかし、それほど多くの宣教師たちが福音のためにアフリカで命を落としたのは事実である。その宣教を通して本当にキリストを信じて救われたアフリカ人は少なかった。

       二十世紀に入った時点でのクリスチャンの数は僅か5%に満たなかったのだ。それが、今日ではクリスチャン人口が約50%にもなると言われている。そのすべてが立派で素晴らしいクリスチャンだとは思わないけれども、方向としては良い方向に向かっていると言えなくはない。迫害のために命を落とした宣教師たちは、悪に対してあくまでも善をもって報い、福音のために自分の血を流して戦った。その「十字架の原則」を守った教会はあくまでも成長する。それは歴史のどの時点でも見られる事実である。その道を歩むようにと、パウロは私たちに教えている。

       毎週の聖餐式を行なうときに、私たちは十字架の恵みに対する感謝の心をもって神に礼拝をささげている。私たちはここで、キリストの十字架に対して感謝し、「私も自分の十字架を負ってキリストに従っていきます」という誓いを新たにしている。十字架の勝利の尊さを毎週々々覚えて感謝するとき、十字架を負ってキリストに従っていく心が励まされて強められると思う。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年12月16日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章14節

    ローマ人への手紙13章導入

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