HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

     

    ローマ人への手紙14章13〜23節


    14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

    14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

    14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

    14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

    14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

    14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

    14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

    14:20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。

    14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。

    14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。

    14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

    2002.06.09. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    つまずきになるものを置かない

    14章13〜23節

       14章で、弱い兄弟と強い兄弟のことについて見てきた。弱い兄弟とはどういう意味なのか、強い兄弟とはどういう意味なのかを見た。また、パウロがここで話している人間関係の問題がどのような問題なのかについても少し考察した。弱い人とは、「旧約聖書に書いてある律法は、クリスチャンの時代においても守らなくてはいけないものだ」という思いを持っていた兄弟たちのことである。また強い人とは、時代が変わったことを正しく理解し、旧約聖書で禁じられている事は新しい契約時代には適用されないことを知り、例えば豚肉を食べたりすることができる兄弟たちのことである。そして、「強い兄弟は、弱い兄弟を侮ったり見下したりしてはならない。弱い兄弟は、強い兄弟をさばいてはいけない」というのが一番強調されているポイントである。また12節で「強い兄弟も弱い兄弟も、神のさばきの御座の前に立つ者であり、自分も神にさばかれる者であることを認識して互いの人間関係を持ちなさい」とパウロが話しているポイントも重要である。今から見る13節は、1〜12節までの結論でもあり、また次へ進むための導入のような節でもある。

    ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

       「もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう」という日本語訳は、少し語調が弱いように思えるが、原語では「・・しましょう」というかんじではなく「互いにさばき合うことをやめなさい」という十分に強い言い方をパウロはしている。強い兄弟に対しても弱い兄弟に対しても「さばき合うのをやめなさい」と言っているのである。強い兄弟が弱い兄弟を侮ることもまた「さばく」ことにつながるからである。また、12節までの箇所では「さばく」は弱い兄弟の罪を指していたので、ここで双方に向かって語っているにしても、「さばく」という言葉はやはり弱い兄弟に強調を置いていると思う。

       しかし、すべての兄弟は互いにさばき合うことをやめるべきなのである。「さばき合う」よりも、むしろ「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないようにさばきなさい」とパウロは言っている。翻訳としておかしいかも知れないが、ギリシャ語の原文では、前半で「さばき合うのをやめなさい」と言ってから後半では「このようにさばきなさい」と言っており、全く同じ動詞が使われている。そして、ギリシャ語の「さばく」という言葉は日本語の「さばく」という言葉よりも広い意味を有する言葉であり、新改訳の「決心しなさい」という翻訳は正しい訳である。ただ、前後で同じ動詞が使われているという点に留意してその意味を理解すべきだと思う。

       「妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」と言うとき、これは強い兄弟に対する言葉なのである。妨げを置くのは強い兄弟の弱い兄弟に対する話である。パウロは13節の後半で強調を強い兄弟たちに移し、基本的に強い兄弟に対する警告、命令、教えを与えている。15章に入ると、更にはっきりと強い兄弟について教えているが、14章13節から既にその強い兄弟たちに対する教えが中心になっている。「妨げになるものを置くな。つまずきを置かないように決心しなさい」と説明してから、14節で再びパウロはその客観的なポイントを簡潔に説明する。

     

    基準

    主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

       ここで「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは」と言うとき、パウロは、はっきりした原則を宣言しているのである。聖書的基準を明示しているのである。「主イエスにあって、これは私が知っていることであり、また確信していることである」と言うとき、「もしかしたらそうかも知れない」という話ではない。これは非常に強い言い方なのである。「真理としてキリスト・イエスにあって私が確信しているのはこうです」と、使徒としてパウロは宣言しているのである。その確信とは、「それ自体で汚れているものは何一つない」ということである。つまり、「弱い兄弟は豚肉を食べると汚れるから食べてはいけないと考えているが、その考えは間違っている」と言っているのである。

       「弱い兄弟の考え方は、クリスチャンとして客観的には成り立たないものだ」ということをパウロはもう一度はっきりさせているのだ。だから、「弱い兄弟の意見もよいし、強い兄弟の意見もよい」というような教えではない。この章は多くの人々によってそのように誤解されているが、決してそうではない。パウロは、何が正しくて何が間違っているかを弱い人たちに教えているである。意見として、また客観的な真理として、「弱い兄弟たちの考えていることは間違っているのです」と言っているのだ。疑問の余地のない明白な言い方でパウロは、聖書の原則を宣言しているのである。

     

    つまずき

       しかし、原則の宣言だけで問題が解決するわけではない。パウロはこんどは弱い兄弟の問題にも焦点を当てている。考え方が間違っているからといって、その兄弟を見下すようなことがあってはならない。それは良心に関わる問題だからである。明らかに考え方は間違っていても、「これは汚れている」と思い込んでいる人にとってはそれは「汚れた物」なのである。それもまた客観的に事実なのだ。ユダヤ教の環境で育った人が「豚肉は食べてはいけない」と思っているなら、その人にとってその豚肉は汚れているのだ。どういう意味なのかというと、自分の良心が悪いと思っている事柄を行なってしまうとき、弱い兄弟はつまずいて罪に陥ってしまうのである。

       「汚れてるから食べてはいけない」という思いをもって食べてしまうなら、その人は神に対して罪を犯しているのである。「神に罪を犯している」という思いがあるのに行なってしまうなら、それは実に自分の心を汚していることになる。それがパウロの説明のポイントである。客観的には豚肉は何も汚れてはいない。どんな肉を食べても、「それ自体で汚れているものは何一つない」のである。食べる人の心の状態が問題なのだ。良心が痛むことをするなら、それは自分を汚すことになり、罪になる。「信仰から出ないことはすべて罪である」という原則は、この箇所の教えのポイントである。信仰から出ていないなら、それは罪となる。パウロはその客観的な原則をはっきりさせてから、15節でまたその問題に戻っている。

    もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

       ここでパウロは、兄弟につまずきを与えないように教えている。「兄弟のつまずきとなるもの、妨げになるもの、或いは兄弟の心を痛めるもの」という言い方の意味は、「キリストが贖ってくださったほどの人を、滅ぼさないでください」という言葉によって説明されている。これがこの箇所全体のポイントである。この箇所の適用について考えるとき、このポイントを忘れてはならない。常にこの点を覚えて適用しなければならない。

       多くの注解書は、この箇所をアルコールの問題に適用して説明していることは既に話した。「飲んではいけないという意見の者がいれば、その人に合わせなければいけない」と教えるのである。「なぜなら、あなたが飲んでるのを見て、その人が心を痛めるからです」と説明するわけである。「それはつまずきを与えることになる」と言い、「その人にとって妨げになる」と言う。「だから、その人と一緒にいる時は飲んではいけない」という適用になったりする。アメリカの教会の中で「アルコールを飲んではいけない」という考え方はかなり強い。日本でもアメリカの宣教師たちが持ち込んだためにその考えは浸透している。しかしそれは、十九世紀に始まった新しい考え方なのだ。決して教会全体の考えではないし、教会全体の教理でもないのである。

       「飲んではいけない」と思っている兄弟は、ここでパウロが言っているような意味でつまずいたりする危険性はないのだ。彼らは「酒を飲むことは罪だ」と思っている。自分に飲みたい衝動があるわけではない。アルコールを飲んでいる強い兄弟を見た弱い兄弟が、怒って、強い兄弟を「この世的だ」とか「邪悪だ」と見做すなら、その人は「強い兄弟のしている事を自分もしてしまうかも知れない」というような誘惑を受けはしないのだ。彼は何をするかというと、聖書の範囲を越えたさばきの基準を打ち立てて、その自分の基準をもって強い兄弟を拒絶し、さばいているのである。「他の人が飲んだら、もしかしたら私も飲んでしまうかも知れない」と心配するような話は全くないのである。彼らは、自分の基準で飲む人たちをさばくのが常なのだ。そこには、彼が罪に誘惑されるというような問題はない。

       もしそれを許容するなら、弱い者は強い者を拒絶して自分たちの教会を始めれば人間関係の問題は解決できるかも知れないが、それでは弱い者たちがパリサイ主義に陥るのを許すことになってしまうのだ。アメリカでは「酒を飲んではいけない」ということを教理として持つ人たちは「自分たちこそ強い者だ」と思っている。「飲みたいと思う者は弱いのだ」と考えている。それはこの箇所全体の意味をまったく変えてしまう解釈になる。しかし、日本の注解書においても、日本の説教の中でも、それと似た適用が多くなされている。その解釈は、パウロがここで言おうとしている意味を完全に取り違えてしまっているのだ。

       パウロがここで話しているのは、弱い兄弟が強い兄弟のしていることを見て「自分もやろう」或いは「やってみたい」という気持ちに陥って、自分の心では「これはいけない事だ」と思っているのに、強い兄弟に合わせてそれをしてしまうことなのだ。それによって弱い兄弟は自分の良心を汚してしまうことになる。「そのような事がないようにしなさい」と、パウロは教えているのだ。

     

    具体的な話

       この箇所の具体的な適用を注解書で探しても、私が調べたかぎりでは、一つも具体的な適用例は見つからない。そして、新約聖書の中にも具体的に「これだ」と言えるような例はない。それ故、私たちはこの事について考えるとき、「例えばこのような事だったのかも知れない」というように、具体的な状況を想定してみる必要があると思う。確信をもってそのシナリオを描写できるほどの詳細は私たちにはわからないが、それでも、パウロが語っている事柄を反映する状況を提案することはできる。

       例えば、パウロの時代のクリスチャンは、毎週日曜日に集まって一緒に昼食を食べていたことはよく知られている。それは「愛餐」と呼ばれるものであった(コリント人への第一の手紙11章21〜22節、ペテロの第二の手紙2章13節、ユダの手紙12節)。コリント人への書簡を読むと、その食事の中で聖餐式も行なわれていたことがわかる。そこで問題が起きたのかも知れない。当時のローマ教会は80パーセント以上が異邦人であった。教会員の中にユダヤ人は僅かしかいない。だから、愛餐の時には豚肉や海老等も出されたりするわけである。パウロが真理の基準を明確に示すとき、弱い兄弟たちは、自分が神学的には間違っていることをはっきり理解したはずである。

       弱い兄弟たちには、自分の良心が弱いことがよくわかっていたはずである。自分の意見が未熟だということもわかっていた。それで、強い兄弟の見解が教会全体の見解となるであろうことを理解していた筈である。それ故、「この弱い状態から成長して私も強い兄弟のようになりたい」という思いも自然と生まれていたと思う。実際にパウロは彼らがそう求めるように導いていた。しかし、その状態の中で、弱い者たちが自分の意見をあきらめてしまって、心の中では罪悪感を感じているにもかかわらず、強い者たちの行為を真似てしまう誘惑が生じてくる危険性があった。

       勿論、「弱い兄弟たちは、弱いままでよいのですよ」という話ではない。「あなたの考え方はクリスチャンの教理として明らかに間違っています。でも、自分の良心に逆らってまでして強い兄弟に合わせなくてもよいのです。神の御前にあって自分の良心に従って行動しなさい」と、明白に教えているのである。その理解があれば、愛餐会で豚肉などが出たとしても、良心に逆らう思いを持たずに、自分も強い兄弟になりたい、強い兄弟に認めてもらいたい、と思うようになる。逆らう方向ではなくて、「教理的に正しい方向に行きたい」と願うはずである。

       食べない、或いは飲まないことによって、自分が弱い兄弟だということは皆に知られている。それでも食べないでいる弱い兄弟は、交わりのプレッシャーを感じるだろう。つまり、皆が正しいと知って食べている物を食べずに拒絶していることにきまりの悪さを感じる。それで、人の目を気にしたり、皆に認めてもらうために食べてしまうかも知れない。或いは、あくまでも食べないかも知れないが、強い兄弟に見下されているように感じて、気分を壊したり怒ったりするかも知れない。つまり、交わりがおかしくなる危険性もあるのだ。

       しかし、パウロがここで指摘している危険性はもっと大きなものなのだ。「食べてはいけない」と思いながら食べてしまえば、自分の良心を裏切って行動することになる。自分の良心に逆らって行動することに慣れてしまうと、良心は働かなくなってしまう。良心が効かなくなれば、だんだんと堕落していって、神から離れるようになり、永遠の地獄に落ちてしまう危険性もある。だから、「兄弟を滅ぼすな」とパウロは言うのだ。ここでパウロが言っている「つまずき」「妨げ」「心を痛める」ことの意味とは、そのようなことなのである。即ち、「罪である」と思っているのに行なってしまう行為を指しているのだ。そうするのは、人間に認めてもらいたいからということもあるし、自分の傲慢ということもある。それがどんな思いであれ、「いけない」と思っていることをしてしまうなら、それがつまずきなのである。

       毎週そのような思いで豚肉を食べるなら、毎週、自分の良心の声を殺していることになる。良心の声をどんどん消してしまうなら、良心の声は止んでしまう。良心が汚されて滅びてしまうかも知れない。ノンクリスチャンについてパウロは「良心が麻痺している」と言っている。良心が麻痺状態になると、何も痛みを感じなくなる。良心が痛むのは良いことなのだ。自分の皮膚が熱い物に触れたら痛むのは良いことである。それは自分の身体を守るための感覚である。痛みは自分に警告を与えており、「何かしなければならない」と身体に教えている。

       良心の痛みも同じである。問題があるとき、「何とかしなければだめだ」と、心に訴えて教えてくれているのだ。一度良心が麻痺してしまえば、どんな罪も可能となってしまう。だから、良心の声を消してはならない。良心の痛みがあるときに、急いでそれを解決しなければならない。良心の痛みをただむやみに消して行動するなら、良心を殺してしまうことになる。そうなるように兄弟を導くなら、それは兄弟を滅ぼすことになるのである。弱い兄弟をそのような誘惑にさらす状態に置かないように、気を付けなければならない。

       これを現代に適用するときに、問題はもっと複雑になる。ただ自分のすることを隣の兄弟が嫌うような単純な話ではない。意見の違いというだけのことでもない。意見が違うときに、互いを認めなければならないことはよくある。それとはまた次元の違う話なのだ。パウロは、ユダヤ人の中で福音を伝える時にはユダヤ人らしくし、異邦人の中で福音を伝える時には異邦人らしく振る舞った。それは表面的な文化的な部分のことである。例えば、ヨーロッパに行けば靴を履いたまま家に入る。そこで「いい」とか「いけない」と主張する必要はない。日本ならば「靴を脱いでお上がりください」と言われるような所がたくさんある。そういう面では福音を伝える相手側に合わせても大した問題ではない。また、兄弟の中には意見の違いもある。意見の違いは意見の違いとして認めるが、誰かが意思決定しなければならない。パウロが話しているのはそのような事ではない。

       ここでは、「私たちの真似をすることによって兄弟が罪を犯して神から離れてしまう危険性」について話しているのだ。神から離れるように影響を与えることが、「つまずきを与えること」であり、「妨げとなること」であり、「心を痛めること」なのだ。暦のことにも触れているが、例えば安息日についても言えることだと思う。「土曜日の安息日を守らなければいけない」と考えているユダヤ人が教会の中にいる場合、その弱い兄弟たちが「これは安息日を破ることではないか」と考えてしまうような活動を強い兄弟たちで土曜日にいろいろと計画するなら、弱い者は自分の良心を汚すか、或は他の兄弟たちが楽しむ活動に参加できないか、という選択に迫られる。弱い者は、自分の良心に従うために交わりから外されるか、罪を犯すことによって交わりに加わるかのどちらかになる。そのような状況を設定することは知恵に欠けたことであり、正しいとは言えない。

       それを強行するなら、「弱い兄弟はとにかく交わりに入ることができない」という話になる。交わりに入るためには、自分の良心の声に逆らって入るしかない。それを強いるなら、それは弱い兄弟を滅ぼすことになるのだ。そういう弱い兄弟がいるなら、土曜日には弱い兄弟が参加できないようなことを計画しないようにすべきである。或いは、「日曜日の愛餐会には豚肉を持って来ないように」ということになるかも知れない。しかし、ここでパウロが言っているのは単なる「意見の違い」の事ではない。その点に注目しなければならない。

       旧約聖書に書かれていることについて、「自分はユダヤ人だからどうしてもそれを守らなければいけない」という思いが良心の奥深くにあって、どうしてもその思いから解放されない人たちの事をパウロは取り扱っているのである。私たちが考えるような単純な「意見の違い」の話ではないのである。気持ちの話でもない。弱い兄弟が滅ぼされるようなことがないように、互いの人間関係を持たなければならないのである。

       もしアルコールの問題の適用としてこの箇所を考えるなら、現代の教会ではもっと複雑な話になる。聖餐式について聖書では、「ぶどう酒を飲み、パンを食べなさい」と命じられているのは明白である。グレープジュースはまだなかった。グレープジュースは十九世紀になってはじめてウェルチという人によって発明された飲み物だ。そして、ルイス・パスツールが発明した牛乳を作る方法に似たやり方をブドウ汁に対して行なったところ、醗酵せずにジュースの状態を維持することに成功した。ブドウを普通にエキスにして放置すれば必ず醗酵してぶどう酒になってしまう。リンゴもイチゴもほとんどの果物は、汁をしぼって放置すれば必ず醗酵してアルコールと化する。

       特殊な加工を施さなければ、ジュースのままに保つことはできないものなのだ。ブドウをつぶしてジュースにした段階ならまだ「ジュース」と呼んでもいいが、そのまま置いておけば時間が経つにつれてそれは自然醗酵して「ぶどう酒」になり、もはやジュースとは呼べないのである。そのブドウのしぼり液をジュースのまま保つ方法が見つかったのは僅か百何十年前のことなのだ。それ故、パウロたちが飲んでいたのは明らかにアルコールが入ったぶどう酒であって、ジュースではない。コリント人への第一の手紙で、ある人たちは酔っていたとあるので、醗酵していないブドウのジュースを飲んでいたことは有り得ない。

       それ故、聖書の中では、主イエス・キリストの血を表わすものとして「ぶどう酒を飲みなさい」と言っているのであって、「いや。ぶどう酒はアルコールだから飲んではいけないと思います」という人がいるなら、その人の考え方こそ間違っているのであり、「あなたは聖書に従いなさい」という話になると、私は思う。だから聖餐式で、そのような人だけに「では、あなたにだけはグレープジュースをあげましょう」ということにすべきだとは思わないのである。「神の命令は罪だと、私は思います」と言う人に対して、「では、あなたの良心に合わせましょう」という話になるはずはないのである。

       同じように、教理の違いの問題になるが、強盗が家に押し入ってきて家族を殺そうとしているときに、手の届く所に戦うための武器があるのに、「暴力はいけない。祈らなくては・・」と言って、あなたは跪いて祈るのだろうか。事実、「人を殺してはいけない。だから、むしろ自分たちが皆殺しになる方がよいのだ」と考える人が実際にいるのである。意外なことに、それを教理として教えるグループが教会の歴史の中にいるのだ。

       一例ではあるが、そのようなグループの中には、一つの町の人々を皆殺しにしてしまうという歴史の中でも例のない冷酷な事件を起したグループもあった。「神のさばきだ」と言って、町全体を殺してしまったのだ。彼らは、「殺してはならない。たとえ正当防衛であっても、殺しはいけない。とにかく戦ってはいけない」と厳しく教えていた。その無抵抗主義的な平和主義が極端なものであったので、何かのことで弾けてしまうと、簡単にもう一つの極端に走ってしまいやすいのかも知れない。そのような言わば“平和主義”という考え方は、教理としては全く間違っているものなのだ。

       「私は平和主義者だから、家族が殺されても、守るために戦うことはしない」と言う人がいたら、「それがあなたの意見なら、その意見でもかまいません」と言うわけにはいかない。その考えは間違っており、それこそ神の律法を破るものだからである。同様に、「殺してはいけない。だから、いかなる場合でも死刑は罪だ」という意見の持ち主に対しても、「それがあなたの意見なら、そうしましょう。それもまたいい意見ですから」と言うことも絶対にできない。「死刑に反対するような意見は罪であり、神の律法に逆らうものであり、完全に間違っています。その意見を許してはいけません」とはっきり言ってあげなければならないのである。勿論、とにかく死刑には賛成だと言うのではなく、私たちは聖書が命じている死刑についての正しい理解に立たなければならないのである。

       そういうわけで、「聖餐式のときにぶどう酒を飲んではいけない」という意見は、教理として完全に間違っている。だから、ある人にはぶどう酒を与え、他の人にはグレープジュースを与えるというような聖餐式のあり方は全くおかしいのである。それはパウロがここで教えている事ではない。同じように、聖書の命令に逆らってでも「私には別な意見があるから、とにかくそれはしません」と主張するのもまったくおかしい。だから、この箇所の適用はそういう意味でむずかしいと言える。

       例えば、アルコールを飲むのは罪だと思っている兄弟を自分の家に招いたとする。その時にわざわざアルコールを出したりする必要はないわけである。その人につまずきを与えかねないからである。他の人たちがみな飲んでいるのを見て、「いけない」と思っているのに飲んでしまうなら、それは「つまずき」ということに成るかも知れない。よく考えられるケースであるが、これは普通に言う意見の違いという話ではない。夫婦に意見の違いがあったときにはどうするだろうか。よく話合って、最終的にはどちらかの意見に従うことになるはずだと思う。ある事をどの日にするかとか何かを決めなければならない時に意見が違うなら、話合って、良いと思われる意見を選択し、最終的には夫が決めるのである。

       だから意見の違いは、上下関係によって決めるものなのだ。どちらかを選ばなければならないので、責任者が責任をもって決めるわけである。決めたなら、それに従わなければならない。意見の違いならば、そういう話になる。しかし、教理の違いはそういうわけにはいかない。教理において違うなら、結局は違う教会を始めることになるしかないかも知れない。「死刑は罪である」と思っている人と、「死刑は神の命令である」と思っている人が、同じ教会の中で奉仕するのは至難なことだ。特に双方ともリーダーである場合には一緒に働くことは難しい。

       私たちの教会に来て「私は、死刑は罪だと思います。その点でこの教会と意見が違います」と言う人がいても、それを教えたりその事で問題を起したりしないかぎりは、別にかまわないのである。しかし、その人が牧師になったり教師になったり長老になったりすることはできない。教理が違うからである。しかし、教えたり問題を起したりしないかぎりは、一緒に礼拝して聖餐式を受けることには何ら問題はない。その人がクリスチャンの兄弟であることを認めないわけではないのである。

       私たちは神の主権を信じ、聖書の御言葉を唯一の基準として正式に教えている。そこへアルミニアンの信仰を持った人が来て「一緒に礼拝してもいいですか」と尋ねるなら、「勿論いいですよ。でも、あなたの考え方は間違ってますので、日曜学校の中であなたがアルミニアンの教理を教えることはできません。同じ理由で、長老になることもできません。しかし、一緒に主に礼拝をささげて、一緒に聖餐式を受けることはできます」と彼に言います。主にある兄弟として認めるけれども、リーダーとしては認められないのである。教理が違うからである。教理の問題については、まったく取り扱い方が違うということを知らなければならない。教理においては、私たちは、聖書のみに従うのである。この問題を具体的に考えると、例えばそのようなことになるのではないかと思う。いずれにしても、意見の違いと教理の違いとでは、その取り扱い方は全く異るものだということはわかっていただけたと思う。

     

    良いことによってそしられる

       そういうわけで、パウロの時代でも、「何が良いのか。何が正しいのか」というようなことは皆がわかることであった。少なくとも、このパウロの手紙を受けた後は、誰もが客観的にわかることであった。しかし、パウロは、「ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい」と言うのである。「豚肉を食べるのは正しいことだから」と言って、弱い兄弟がいる所へわざわざ豚肉を出したりすべきではない。相手がつまずいて信仰において滅ぼされるかも知れないのに、平気で「これは正しいことだから、これでいい。食べればいいのだ」と言って押し付けるなら、その兄弟がつまずいて神から離れてしまうとき、それはあなたが良いと思っていることによってそしられることになるのだ。強い兄弟の正しい行為が他の人を駄目にしているなら、真理もそしられることになるのだ。

       外部の人たちへの影響についてもそうかも知れないが、それよりも教会内部の強い人と弱い人の問題がますます深刻になって、教会の交わりも壊されてしまう。それによって、教会全体がひどい害を受けることになる。それは、「その人が地獄に行こうとどうなろうと私の知ったことではない」と言っているかのような行為になるわけである。それによって「そしられる」ことになるのだ。だから、パウロは、強い兄弟たちに対して、「キリストにあってあなたがたの自由と思われる“良いこと”がそしりの種に成り得る」という警鐘を鳴らすのである。どういうことかと言うと、「良いことに関する彼らの考え方のせいで他の兄弟たちを堕落させてしまい、他の兄弟たちがその良いはずのことを悪としか見做せないものへと変質させてしまう」ということである。

       「良いこと」を誰が「悪だ」とそしるのだろうか。それは、その弱い兄弟たちである。強い兄弟たちが、自分たちのやり方を弱い兄弟たちに押し付けることによって、強い者は一部の弱い人たちを、その良心の命ずるところを破るように励ましてしまうことになるのである。弱い兄弟たちがそれによって滅びるとき、強い者たちのやり方は(教理としては正しいとしても)、教会の中での議論や紛争やもめごとを引き起こし、争いを激化させ、人間関係の隔たりを深め、成長を後退させることになるのだ。それによって教会の成長を著しく損ねてしまうことになる。教会外の人々に対しても御国を建て上げる影響を与えることにはならないであろう。17〜18節でパウロは続けて説明している。

     

    神の御国

    なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

       つまり、「もし私たちは、自分を犠牲にして相手の祝福を求めるならば、神にも喜ばれるし、人にも認められることになる」と言っているのである。「神の国は飲み食いのことではない」のである。何を食べるか、何を飲むかということは、神の国では中心的なことではない。このようにパウロが言うとき、これはあまりにも当然のことのように聞こえる。また、随分些細なことのようにも思われる。飲むことと食べること、それは実に小さなことのように思える。だから「神の国はそうではない」と言うとき、「もちろんですよ」と言いたくなる。しかし、ローマの教会で問題となっているのは実に飲み食いのことであった。「神はどのような御方か」ということは問題にはなっていない。だが、救いに関する問題が4章や6章にるので、重要なことが何も問題にならなかったというわけではない。小さなことが大きな問題になってしまう危険性があるのだ。

       小さいことがなぜ大きな問題になるのかというと、「神の御国のために生きる」というところから焦点が離れてしまっているからである。「神の御国を求める」という心を失っているのだ。神の御国を求める心から離れてしまえば、どんな些細なことでも深刻な問題に成り得る。小さな問題がみな山のようになってしまう。神の御国に目を留めて歩むならば、ぜんぜん話は違うのである。だから、強い者も弱い者も(特に強い者は)、神の国が本当の意味でどういうものなのかを思い起こさなければならない。私たちは、「飲み食い」に代表されるような自分自身の楽しみのために生きるべきではなく、神の御国のために生きるべきなのだ。神の御国は「飲み食い」するかしないかによって前進するわけではない。

       神の御国において何が大切なのかというと、パウロは「義と平和と聖霊による喜びです」と言う。御国において重要なこと、そして御国のために重要なことは、神の御前における「義しさ」である。神の御前で義と認められたのだから私たちは義しい者として生きなければならない。「義認について話しているのか、それとも義しい生活を送ることについて話しているのか」というような二者択一の話ではない。「」について語るとき、その両方が含まれている。「神の御前における義しい立場」と「聖書のみに従った正しい生活」、その両方がなければならない。神の御前に義と認められたので、クリスチャンは義しい生活を喜んで送るのである。

       次の「平和」と訳されている言葉はギリシャ語の「シャローム」である。それ故、この「平和」という言葉には、神との和解、人との和解、そして自分の心の中の平安が、全部一緒になっている。どれか一つというものではない。「シャローム」を一番広い意味において言うなら、それは神との平和、神との和解、他の人たちとの和解、そして自分の心の中での平安、その全部が一緒になった平和である。それに続いて三番目に、パウロは「御霊による喜び」を挙げている。義認と義なる生活、そして広い意味でのシャロームを持ち、さらに御霊による喜びに満ちている。神の国はそのようなものである。

       「御霊による喜び」は、単に楽しくてたまらないという話ではない。これは、神の御恵みに対する喜びの話である。この喜びは、救いを伴い、クリスチャンの生活を特徴づけるはずの聖霊の喜びなのである。神が私たちを愛して救いを与えてくださったことを喜んでいるのである。その事を心から喜んでいなければ、神の御国のビジョンから離れてしまうことになる。神の御国に目を留めて歩む者ならば、神が神の御国のために生きる特権を私たちに与えて下さったことを喜ばないはずはない。喜べないはずがない。喜びに満ちて御国を求めるはずである。御国を求めるところに、クリスチャンの真の喜びがある。もしも、「それを感じることができない」と言うなら、あなたは神の御国に目を留めてはいないのである。

       神の御恵みに対する感謝が足りないのは、状態の問題ではない。「喜びがないなら、状態を変える努力をしなさい」とパウロは言っていない。神の御国とはどのようなものなのか。それは「義、平和、喜び」である。御国の「」「平和」「喜び」に満ちて歩むとき、私たちは神に承認され、教会は人の前に証しを持つものとなる。だからパウロは言うのである。「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めよう」と(19節)。食べ物について争ったり、食べ物や飲み物のために弱い兄弟を侮ったりすることは、神と人との前では醜聞でしかない。主イエスは弱い者を滅ぼすようなことはしなかったのだ。私たちが主イエス・キリストに似た者となるべきであれば、キリストにあって兄弟の成長を熱心に求めるべきである。それは自己否定と教会の徳を高めることをひたすら行なうことを意味するのである。

       神の御国が主イエス・キリストによってもたらされて、キリストは天に昇って神の右に座し給うた。私たちは、そのキリストの御国のために戦う者として立たされたのである。そのキリストの栄光を求める者として救われたのだ。神は、私たちの罪を赦してくださった。私たちは神と和解され、神に愛されていることを知り、そこから溢れ出る確信を持つことができる。御霊は、神の大いなる救いと愛を私たちに語ってくださった。「それだけでは私は満足できない。その程度のことでは喜べない。これも欲しい。あれも欲しい。それがないと私は喜べない」と言っているなら、それは御国を喜ぶ心ではない。その心は御国から遠く離れている。永遠の御恵みをあまりにもちっぽけな軽いものとして見ているのだ。本当に取るに足らないちっぽけな問題を、神の御国よりも大きな問題であるかのように見てしまっているのである。弱い兄弟も、強い兄弟も、ともにその状態に陥ってしまう危険性がある。

       強い兄弟は自分が正しいと知っているので、それを主張したがる。弱い兄弟は、パウロの手紙を受けた後は、自分は正しくないことを知ったけれども、場合によってはガラテヤ人への手紙で取り扱われたように、ユダヤ教的なグループは尚もパウロに逆らったりする。また、自分たちの意見をあくまでも主張しようとする人たちもいる。どちらも御国の真のビジョンから離れてしまう危険性がある。だから、弱い兄弟に対しても強い兄弟に対しても、パウロは、「食べ物のことでつまずいたりしないで、御国のために生きる者になりなさい」と教えているのである。「小さな問題を小さい問題として速やかに乗り越えて、大きいことに目を留め、もっと重要なことを求めなさい」と教えている。だから、「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません」と言うのである。

       パウロは「兄弟つまずかせないようにしなさい」という原則を更に説明しているのである。弱い兄弟も、強い兄弟も、まこと神の御国に目を留めるなら、双方とも問題を乗り越えることができるはずである。そして、時が経つにつれて、教会から弱い兄弟がいなくなっていくはずである。はっきりと聖書が教える教理に立つなら、後から救われて入ってくる人たちもローマ人への手紙を読むわけだから、彼らも何が正しいのかを知るようになり、豚肉や海老なども食べることができるようになるであろう。私たちの中には、旧約聖書で禁じられている肉を食べることで良心が痛む人は一人もいないと思う。そういう意味で、私たちは皆強い兄弟に成っているわけである。それこそ、教会がそうなるようにと、パウロがはっきりと教えていることなのだ。

       但し、原則的にはもっと広い適用ができるのも事実である。その広い適用とは、「自分のために生きるのではなく、主イエス・キリストのために生きる」ということである。いつも自分を喜ばせる生き方をするのではなくて、神を喜ばせる事を行ない、他の人との関係においても相手の祝福となるように行動すべきである。教会の特を求めるべきである。主イエス・キリストの十字架の心を見て、私たちもそれに倣って、主イエス・キリストに似た者となるように求めるのである。そこに広い適用というものがあると思う。どの時代にあっても、強い兄弟も、弱い兄弟も、続けてそのような生き方をしなければならないものである。

       御国のために生きることは、聖餐式においても重大な意味がある。何回か話したことがあるが、福音派の中で福音を伝えるときに、「キリストが私たちの罪のために十字架上で死んで下さった」というところで話が終わってしまいがちなのだ。そうあるべきではない。使徒行伝を読めば分かるが、復活の方が十字架よりも強調されていると思えるほどに、復活が重視されている。そこまで復活についての強調は強いのである。福音はまさに「復活の話」なのだ。そして復活の話は、「復活した」というところで終わるものではない。「復活してからもこの世にあって、今もこの世にいる」という話ではない。「復活した主イエス・キリストは、昇天して、神の右に座られた」ということをペテロは強調をもって話している。

       十字架にかけられた主イエスはキリストであられる。主イエスは、メサイアとして王座に着座されておられる。それがペテロの宣言である。それは、「神の御国」の宣言である。福音とは「神の御国が来た」という宣言なのだ。主イエス・キリストもバプテスマのヨハネも、「神の御国は近づいた」と教えていた(マルコの福音書1章15節、ルカの福音書10章)。しかし、今日の私たちにとって福音とは、「神の御国が近づいた」ということではなくて、「神の御国は既に来た」というものなのだ。キリストは復活されて昇天し、今、歴然として神の右に座しておられる。キリストは王となられたのだ。その王なるキリストが私たちに救いを与えてくださった。だから私たちは、福音を「御国の福音」として捉え、その福音を伝えるのである。

       私たちは、その大きなビジョンのために人生を送るように召されているのである。「神の御国」というその大きなビジョンをいつも覚えて毎日の生活を送らなければならない。そのために毎週私たちに聖餐式が与えられているのだと思う。キリストは十字架においてサタンに対して完全な勝利を得てくださり、十字架の上で私たちを罪と死から解放してくださり、復活されて、今や王となって万物を支配しておられる。聖餐式のときに、私たちはそのことを覚えるのである。私たちは、王となられた主イエス・キリストのことを覚えて、心からの感謝を神にささげて聖餐式を行なうものである。そのことを覚えて一緒に聖餐式をいただきたいと思う。

     

    ――2002年6月9日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙14章5〜12節

    ローマ人への手紙15章1〜3節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.