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    ローマ人への手紙16章21〜27節


    16:21 私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。

    16:22 この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。

    16:23 私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。

    16:24 私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。アーメン。

    16:25-26 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、

    16:27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

    2002.08.25. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    パウロの福音

    16章21〜27節

    21私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。22この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。23私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。24私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。アーメン。25-26私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

       今日はローマ人への手紙の最後のメッセージである。この手紙の最後の部分には、この手紙を書いた時にパウロと共にいた他の人々の挨拶が記されている。そして、最後に、二つの祝福の言葉をもってパウロはローマ人への手紙を書き終えている。挨拶のところを見ると、22節で、「この手紙を筆記した私」と言ってテルテオという人が直接ローマの教会に挨拶を送っている。パウロが目の病を患っていたことはコリント人への第一の手紙にも書いてあるが、そのために自分で書くことができなかったのか、或いはただ若いテルテオが自主的にパウロを助けていたのかはわからない。しかし、パウロが慎重に一つ一つの文章を熟慮して口頭で語り、それをテルテオが忠実に筆記するかたちでこの手紙は書かれたわけである。

       また、23節ではガイオという人が挨拶しているが、このガイオは他の箇所に出て来るガイオとは同一人物ではないと言われている。しかし、このガイオという人の家にパウロたちは住んでいたことがわかる。本当ならば、これらの人たちの挨拶の一つ一つを丁寧に見ていきたいところである。それらの名が聖書の他のどの箇所にどのように出て来るかなどを調べたりして見ていければ非常におもしろいと思うのだが、今日は時間の関係でそのところを省略したいと思う。最後の24〜27節は最後の二つの祝福の言葉である。

       その一つは24節であり、これは言わばパウロの署名のようなものである。なぜか、24節は新改訳聖書の本文には無くて脚注に書かれているが、この挨拶文はパウロがよく使うものであり、「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。アーメン」という挨拶になっている。この24節を見れば、これが紛れもなくパウロ本人からの手紙だという証明にもなるものなので、この挨拶文は本文の一部として見なければならない。これとそっくりな挨拶をパウロはいつも自分の手紙の最後のところで書いている(コリント人への第一の手紙16章23節、コリント人への第二の手紙13章14節、ガラテヤ人への手紙6章18節、エペソ人への手紙6章23〜24節、ピリピ人への手紙4章23節、テサロニケ人への第一の手紙5章28節、テサロニケ人への第二の手紙3章18節)。

       だから、これは恐らくパウロが直筆で書簡に書き加えたものであり、この書簡が正真正銘パウロのものであることの証拠として機能するものであったと思う。「神の恵みがともにありますように」という言い方は、「神がともにいてくださいますように」という言い方と同じような意味である。つまり、これは契約の祝福の言葉なのである。旧約聖書の中でこの言い方は繰り返し挨拶や祈りにおいて使われている。「神がともにいてくださる」というのは契約の祝福を表わす言葉であり、契約の勝利を表わす祝福の言葉である。「神がともにいてくださるなら、すべての戦いにおいて勝利を得ることができ、祝福されて成長していく」という基本的な意味がその言い方の中にある。

       それが新しい契約においては、「主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにありますように」という言い方に変わっている。つまり、「神がともにいてくださるように」という旧約聖書の契約の祝福の挨拶が、一層明確にクリスチャンとしてのかたちを持つようになったのである。「神がともにいてくださる」というのは恵みの話である。その恵みは主イエス・キリストのみを通して私たちに与えられている。「主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにありますように」という祈りは、本当に神が私たちを最後まで守ってくださることを神に求める祈りである。それをパウロは最後の祝福の言葉として書いている。

     

    祝福の構造

       その挨拶のあと、25〜27節でパウロは神を賛美している。神を誉め称える言葉であると同時に、これは教会に対する祝福の言葉でもある。この最後の祝福の言葉をギリシャ語本文で見ると、その構造は幾分複雑である。簡単に言えば、この文章の基本的な構造は、「あなたがたを堅く立たせることができる方に、御栄えがとこしえまでありますように」というものである。もっと簡単に言うなら、「御父なる神に御栄えがありますように」ということである。これが神を礼拝し、ローマの教会を祝福するパウロの最後の言葉である。そういうわけで、主文は、「イエス・キリストによって、・・・知恵に富む唯一の神に・・・御栄えがとこしえまでありますように」である。

       「私の福音・・・によって・・・あなたがたを堅く立たせることができる」という表現は「」を修飾している。そして、すべてにおいて本当に「神に栄光があるように」という祈りの言葉でローマ人への手紙は終る。「世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、・・・預言者たちの書によって、・・・あらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって」という長い表現は「私の福音」を修飾している。ギリシャ語の原文では最後の表現となっている「永遠の神の命令に従い」と「信仰の従順に導くために」とは、両方とも「あらゆる国の人々に知らされた」に掛かっている。

       長くて複雑な文章の中で、パウロはローマ人への手紙の中で教えた基本的な主題を、もう一度読者に思い起こさせている。この最後の賛美の言葉の中には、ローマの教会が確立されるようにという祈りが込められており、同時にローマ人への手紙の主題であるパウロの宣べ伝えた福音について最後にもう一度述べられているのである。なぜこの手紙を書いたのか、というところに戻って、それを簡潔に表現しているのである。

       初めに、1章のところで、パウロはローマに訪ねて行きたいという思いを表わしている。そして、ローマに行きたい理由を1章11節で明らかにしていた。

    私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

       この「強くしたい」という言い方は、基本的に「堅く立たせる」と同じ意味である。パウロはローマの教会を強めたいのだ。ローマの教会が本当に堅く立つことができるようにしたいと願っているのである。ローマの教会が強くなって、深く根を下ろし、はっきりと真理に立つことができるなら、代々実を結ぶものとなる。そのことをパウロは望んでおり、その目的を果たすためにローマを訪ねて、直接ローマの教会のリーダーたちに会って励ましたいのである。彼らに霊的な祝福を与えたいと、切に願っている。そのためにパウロはこの手紙を書いた。そして16章の最後のところで、神にすべての栄光を帰するときにパウロは、「あなたがたを堅く立たせることができる御方に・・・」という言い方をする。

       ローマの教会は、当時の世界の中で、実に言葉で表現することが不可能なほどの厳しい試練に遭わなければならない教会であった。その教会がこれから遭うであろう試練のことをもパウロは考えていたはずである。既にその従順においてローマの教会はよく知られていただけに、その教会が本当に強くなって、堅く立って揺るがされずに、試練の中にあって他の教会を助け励ますことができるものとなるように、パウロはローマの教会を励ますのである。そして、実際に、ローマの教会は強くなって何百年もの間、昔のすべての教会の中で最も良い模範的な教会の一つとなったのである。そのようにローマの教会を堅く立たせるのは、神である。だから、「あなたがたを堅く立たせることができる御方に栄光あれ」と祈るのである。それがこの手紙の最初のポイントであった。

     

    福音

       神は、何によってローマの教会を堅く立たせてくださるのかというと、16章25節でパウロは、「私の福音によって」と言うのである。「私の福音」とはどういうものかというと、「イエス・キリストの宣教」なのである。パウロが言わんとしているのはそのことである。それ故、この「イエス・キリストの宣教」という言葉は、「私の福音」という言葉の解説として理解されるべきであろう。つまり、パウロが伝えている福音は、主イエス・キリストそのものを宣べ伝える福音なのである。主イエス・キリストがパウロの福音の中心なのだ。頌栄のほとんどはパウロが宣べ伝えた福音で占められている。パウロが「私の福音」と言うとき、「誰かが別の福音を持っている」というようなことを言おうとしているわけではない。これは「私が伝えている福音」「私がいつも皆さんに教えているところの福音」という意味であり、当然それは他の聖徒たちが伝えているのと同じ福音である。

       そして、パウロがここで強調しているのは、「私が伝えている福音は、主イエス・キリストの宣教を目的とする福音である」ということである。パウロの福音の中心は主イエス・キリスト御自身であり、キリストについての福音である。「私の福音は、すべて主イエス・キリスト御自身を語る福音である」と言っているのである。キリストに焦点を当て、キリスト御自身がメッセージであったという意味において、それは「イエス・キリストの宣教」であった。パウロはこれと同じような強調を1章でもしている。1章1〜6節まではパウロの最初の挨拶であるが、そこでパウロは次のように話している。

    神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。

       パウロは、自分が「神の福音のために選び分けられた」と言って話を始めている。続いて、更にその意味を詳しく述べている。パウロの福音は、「御子に関すること」を宣べるものであった。「福音」とは、御子に関する神の御言葉の教えのことである。そして、御子はダビデの子であり、神の御子である。この手紙の最初の挨拶で、パウロは、まずキリストの人性とキリストの神性を明確に宣言し、キリストが約束のメサイアであることを1〜6節のところで宣言している。パウロの言葉には、「イエス・キリスト」の御名の意味が反映されている。

       「イエス」はダビデの子として生まれた「人」であり、「キリスト」とはイエスが死者の中からの復活により御自分を「メサイア」と宣言された神の御子として負われた御名である。その最初に強調した要点を、最後の祝福を述べるところでもう一度強調するのである。「私の福音は、主イエス・キリスト御自身を述べ伝える福音であり、キリストがその中心である」と言っているわけである。「福音はキリストに関するものである」ということは、それがキリスト御自身とその御業についてのものだという意味である。

       メサイアについて一緒に学んだ時のことを皆さんは覚えていると思うが、このパウロの言葉は、ルカの福音書24章にある主イエス・キリストの言葉にも近いものだと言える。主イエス・キリストは復活したあと、エマオへの道でふたりの弟子に近づいて話かけられた。キリストの十字架の死を深く悲しんでいたその弟子たちに、主イエスはメサイアについて教えた。主イエスは、メサイアがそのように苦しみを受け、十字架にかけられて死ななければ、旧約聖書に書かれてあることは成就しないことを説明し、聖書全体から御自分について書いてある事柄を彼らに説明した。そのことをルカは記している。つまり、「旧約聖書の預言者たちの言ったすべてのことは、主イエス・キリスト御自身を中心にしているのだ」と言っているのである(ルカの福音書24章13〜35節)。

       旧約聖書全体の中心はイエス・キリストであり、新約聖書の福音の中心もイエス・キリスト御自身なのである。ローマ人への手紙を学ぶときにも私たちはその事について考えることができたと思う。しかし、私たちが「福音」という言葉を使うとき、ただ「私は罪人です。私の罪は許されます」というところで終ってしまう傾向があるのではないか。パウロが福音について語るとき、神の御子が人と成ったこと、そして実際に私たちの歴史の中に神御自身がそのように現われてくださったこと、人間と成った神が私たちの罪のために十字架上で死んでくださり、よみがえってくださり、天に昇られて、神の右に着座されたことを宣べるのである。キリストの福音を宣言するとき、復活、昇天、そして神の右の座での完全な御支配のところまでいかなければ、それは福音の宣言にはならないのである。

       そのことについては、前に一緒に学んだことを思い出していただきたい。「主イエス・キリストは罪と死に対して既に勝利を得た」と言うのは、十字架で終る話ではないのだ。十字架上で死んでくださったあとで、よみがえらなければ、十字架は勝利ではない。よみがえったあとで、主イエス・キリストは天に昇って、実際に神の御前で、ヘブル人への手紙9章にあるように、自分の血ではない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、御自分の血を携えて天にある聖所に入ってすべてを洗いきよめてくださったのである。つまり、私たちが神の御前に立つために必要なすべてを、主イエス・キリストは備えてくださったのだ。そして、主イエス・キリストのすべての働きは完全に神に受け入れられ、完全に認められたので、キリストは神の右の座に着座されたのである。そこでキリストは、天においても、地においても、すべての権威をもって御支配しておられる。これは福音において絶対に欠けてはならない最重要なことである。

       私たちは、「福音」について考えるときに、個人の心の問題の解決しか考えない傾向があるが、決してそのようなものではない。そうであってはならない。パウロが「福音」と言うとき、「歴史全体が変わった」ということを話しているのだ。勿論、個人一人一人の心の問題も主イエス・キリストを信じることによって解決されるのは事実である。本当に信仰の道を歩むなら、それはまったく当然のことである。しかし、なぜ私個人が救われるのかというと、歴史全体に対する主イエス・キリストの完全な御支配と御業が真実なものであるからだ。そこに、大きな歴史的意味があるので、個人一人一人は、勝利し復活され天に昇って御父なる神の右に着座されたそのイエス・キリストを信じることによって、救われるのである。

       だから、「福音」と言うとき、パウロは実に大きな話をしているのだ。それをただ、「あなたに心の問題があるなら、神の御恵みを求めてください。キリストを信じてください。そうすれば、あなたの心の問題は解決されます」というところで全部終らせてしまうなら、福音を十分に伝えてはいないのである。「それを言うな」と言っているのではないので、誤解しないでいただきたい。「そこで話が終ってしまうなら、福音は心理学の手段のようなものに成り下がってしまう」と言っているのである。しかし、そのような傾向が私たちの中にあるので、本当に気を付けなければいけないと思うのである。

       1章1〜6節のところで「ダビデの子孫」の話をするのは、他でもないダビデの契約の話をしているのである。また、「御子」の話をするのは、三位一体なる神の第二位格の話をしているのである。そして、「死者の中から復活した」と言っているのは、福音の勝利の話なのである。それ故、16章でパウロは「イエス・キリストを宣べる私の福音」と言っている。そして、それに続く長い文章で、その福音がどのようなものなのかを説明するのである。そのところをもう少し詳しく見たいと思う。

    すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示・・・。

       「福音」を、「世々にわたって長い間隠されていたが、今現わされた奥義の啓示」と言うことによってパウロは、それがどんなに大きくて、どんなに広い話なのかを語っている。「福音はこの奥義によるものです」と言うのである。この「奥義」という言葉をパウロは自分の手紙の中で何回も使っている。例えば、エペソ人への手紙3章8〜16節で、また同5〜6節で、パウロは次のように言っている。

    すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(3章8〜16節)

       この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(3章5〜6節)

       それから、コロサイ人への手紙1章のところでもパウロは自分の福音の働きと福音の「奥義」について話している。25〜27節を見てほしい。

    私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

       エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙の箇所を読むとき、ローマ人への手紙と同じように強調されているポイントがある。それは、「多くの世々にわたって隠されていた」ということである。今までの時代においては、このようには知らされていなかったことである。アダムの時から主イエス・キリストがお生まれになった時までは、この「奥義」はまだはっきりと現わされてはいなかった。しかし、「預言者たちの書に既に書かれていた」と言うなら、どうして隠されていたと言えるのか。その答えはこうである。「旧約聖書におけるメサイアの教えは謎であった」ということである。神が人間となって私たちの間に歩み、そして私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださる。そのことは明白には啓示されていなかった。それがまず第一のポイントである。

       「どのように神は私たちの罪の問題を取り扱うのか。どのようにメサイアは私たちを罪から贖い出してくれるのか」ということは旧約聖書の中でもある程度は教えられていた。しかし、「神が人間となって私たちの罪のために死んでくださる」ということは明確には知らされていなかった。当時の人々が聖書を読んでも、それは理解できないことであった。旧約聖書の犠牲制度、祭り、イスラエルの律法や職(王、祭司、預言者)などについてを読めば、それらは「神が何かのかたちで私たちの身代わりとなるものを与えてくださる」ということを表わすものだということはわかったはずだ。メサイアの神性についても、預言者たちの教えがないわけではない。旧約聖書のイザヤ書やダビデの詩篇などに書いてあることを旧約聖書時代の人たちが読むとき、ピンとはこなかったのだ。

       主イエス・キリストが弟子たちに「わたしはメサイアです」と教えても、弟子たちは、本当に深い理解をもって「主よ。あなたは神の御子、キリストです」と言うことができなかったのだ。「神の子」というような言い方をするにしても、キリストが復活する前の時点ではどこまで理解していたかはわからない。キリストが来られて預言を完全に成就されるまでは、それらの預言の全てがいかにして一つのものとなるのかを厳密に見極めることは誰一人できなかった。ましてや全てを成就される御方が永遠の三位一体の第に位格であるなどといったい誰が想像できたであろうか。最後の晩餐のときになっても、まだピリポは「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言っていたのだ。そのピリポたちに主イエスはこう答えられた(ヨハネの福音書14章7〜11節)。

    ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

       「父を見せてください」と求められて、「あなたはわたしを知らなかったのか」とキリストは答えている。「わたしを見た者は父を見たのです」と教えている。最後の晩餐の時でさえ、そのようにピリポたちに説明しなければならなかったのだ。そこで主イエスはヨハネの福音書14章の終わりまで、御自分と御父との関係について説明してくださった。三位一体という奥義については、キリストが復活して、御霊が与えられて、御霊によって本当に教えられるまでは、弟子たちには深くは理解できなかったのだ。どうもそのことは弟子たちの頭の中ではっきりしていなかったようである。キリストが復活したあと、弟子たちはその復活の主イエス・キリストと共に交わりを持つ中で、だんだんと目から鱗が落ちるようにして、はっきりと理解しはじめるのである。

       キリストは十字架にかかる前に、御自分が苦しみを受けて死んだ後に三日目に復活することを、はっきりと弟子たちに教えていたのに、キリストが復活しても弟子たちには理解できなかったのである。ペテロとヨハネはどうだったろうか。二人は走って行って墓の中を見たとき、イエス・キリストの身体はそこに無かった。それを見て、喜び勇んで「主は、教えてくださったとおりに、復活されたのだ」という反応はなかったのだ。ルカは、エマオへの道を行くふたりの弟子の状態を書き記している。その弟子たちは十字架にかかったキリストについて一部始終を語るが、「三日目の朝早く仲間の女たちは墓に行ったが、イエスのからだが見当たらなかった。そして、御使いたちが現われて、イエスは生きておられると告げた、と言うのです」という言い方をしている。また、「仲間の何人かが墓に行ってみたが、やはりイエスさまは見当たらなかった、と言うのです」と話している(ルカの福音書24章)。「・・・と言うのですが・・・」と言ってがっかりしている。ぜんぜんわかっていないのである。

       実際に復活したキリストに出会い、それからの四十日間を主イエス・キリストと共に過ごし、直接キリストから教えを受けたあと、キリストが昇天して約束の御霊を彼らに与えたときに、やっと弟子たちはこの福音の「奥義」の素晴らしさと深さとその永遠の意味を本当に理解したのである。昇天して御父の右に着座されたキリストが、御霊を彼らに注いでくださったあと、弟子たちは別人のようになって福音を伝えることができるようになっている。その「奥義」は、「多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義」であり、「前の時代には、今と同じようには人々に知らされていなかったもの」である。神御自身が人間となって、私たちの間に住まわれた。神は、そこまで私たちと親しい御方になってくださった。私たちは三位一体なる神と契約にあって一つとされるのである。

       この奥義は、実に「栄光に富んだもの」である。これが「キリストの福音の奥義」である。永遠なる、絶対なる、三位一体なる神が、そこまで私たちを愛してくださるのだ。私たちを救うために、人間となってくださった。私たちが受けるべき罪の罰を負って死んでくださるために、十字架にかかってくださった。よみがえってくださり、天に昇られて、永遠に神の右の座に着座されたのは人間である。キリストの受肉は一時的なものではない。「一時的に人間となって私たちの罪を贖ったあと、復活して天に昇ったら人間ではなくなった」という話ではない。永遠に御子なる神は、私たちの代表となられた人間なのである。

       主イエス・キリストは私たちを“兄弟”と呼んでおられる(マタイの福音書25章40〜41節、28章10節、ヨハネの福音書20章17節)。永遠に主イエス・キリストは私たちの“兄弟”となられたのである。ローマ人への手紙8章では、「御子は、多くの兄弟たちの中の長子となる」という言い方をしている。これは実に大いなる奥義であり、実にすばらしい奥義であり、実に驚くべき話である。そのような驚くべき神の愛が私たちに与えられているのである。これが福音である。この福音の最も深くて素晴らしい意味は、旧約聖書の時代にはまだはっきり現わされてはいなかった。「前の時代には、今と同じようには人々に知らされていなかった」と、エペソ人への手紙で言っているとおりである。旧約聖書の時代にはぜんぜん現わされていなかったと言っているのではない。しかし、パウロの時代のように明白に現わされてはいなかった。

       だからパウロは、「福音の奥義が、今、啓示された」ということを強調している。その「」には、実に重大な意味があるのだ。主イエス・キリストがこの世に来たことによって、歴史全体が変わった。すべてが変わったのである。新しい創造のはじまりが神によって与えられた。私たちは、主イエス・キリストを信じて救われたときに、新しい創造に移されて、神の御国の一員となったのである。神の御国が建設されていく働きがその時代に始まったのだ。主イエス・キリストは神の右に座して万物を支配しておられる。これは実に大きなことであって、神と神の御業、歴史全体、人類、新しい創造という次元の話なのである。そのことを忘れてはならない。「福音」について語るときに、これらの事を忘れてはならない。パウロは、実に大きな、実に素晴らしい「奥義」について話しているのである。

       同時に忘れてはならないことがここに強調されている。確かにこれは、旧約聖書の時代には啓示されていない奥義であり、今はじめて明白に啓示されたことである。しかし、26節で「これは、預言者たちの書によって啓示されたものだ」と、パウロは言うのである。もう既に話したけれども、もう少しそのことに注目したい。「預言者たちの書によって啓示されている」ということは、「旧約聖書の預言者たちの書にあることが完全に成就されたということが、今、明らかにされ、我々はそのことを深く理解している」という意味である。その同じポイントは先ほど読んだ1章のところにもある。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたものである」とパウロは冒頭で明らかに語っているし、最後のところでもそれを強調している。

       パウロが伝えている福音はエゼキエルと同じ福音であり、モーセ、ダビデ、イザヤのと同じ福音であるということをパウロは強調している。福音を説明するとき、「ダビデの契約はこうであった。ダビデは罪の赦しについてこのように書いている。モーセはこう言った。アブラハムはこうであった」と、パウロはローマ人への手紙の中でずっと旧約聖書からたくさん引用して、旧約聖書を通してメサイアはどのような御方なのかを説明している。旧約聖書の預言者たちの預言の意味は、キリストによって成就されたときにはじめて明白なものとなったのだ。はじめて奥義の覆いが取り除かれたのである。そして、弟子たちも、主イエス・キリストがどのようにして旧約聖書の預言者たちの預言を成就したかを理解したとき、やっと福音の意味がわかったのである。

       だから、先ほどのルカの福音書24章でキリストが弟子たちに話したときのことをみても明らかであるが、主イエスは、御自分がどんな行ないをしたかを話すのではなく、預言者の書に書いてあることを説明して、旧約聖書全体が御自分について何と書いているかを説明するのである。預言者の言葉をとおして御自分のことを説明するという方法で教えられた。それによってはじめて弟子たちはキリストのことを正しく理解できるのである。御子の神性、御自分の民のための犠牲の死、聖霊の賜物、そして他の多くの不思議な福音の真理のすべてが、今やキリストを信じる者には明らかとなったのである。聖書の言葉によって理解しなければならないことを、主イエス・キリストも身をもって教えている。だから、パウロはローマ人への手紙の最初においても最後においても、ずっと手紙の中でも、預言者たちの基礎の上に立って福音を説明するのである。

       つまり、聖書は一貫した一つの書物であるということを強調しているのである。私たちもそのことを覚えて聖書を読まなければならない。新約聖書だけを読んで旧約聖書を無視したり軽んじたりしてはならない。「旧約聖書はあまり興味ない。新約聖書の方がおもしろい」ということを考える人もいるが、それは非常に間違った捉え方であって、聖書はそのように分割できる書物ではない。これも既に説明したことだが、ページ数の付け方も、新約聖書と旧約聖書が別になっているのは本当は間違いである。一冊になってはいるが、旧約聖書と新約聖書の間に白いページを挟んだり、新約聖書の前にまた別に目次などを設けたりして、二つの違う書物のように扱うのは、間違いである。二つの書物がたまたま一つのカバーに収められたかのようにしているが、そうではない。創世記からヨハネの黙示録までは完全に一冊の封印された書物なのである。

       新約聖書がなければ旧約聖書は成り立たない。そこがユダヤ人の問題なのだ。ユダヤ教は、旧約聖書だけが神の御言葉だと言うが、その旧約聖書はもう成り立たないために、自分たちに伝統を旧約聖書に付け加えて、その伝統を通して旧約聖書を解釈している。そのために、旧約聖書のすべてが彼らの伝統によって決められるものとなった。そして、それはおかしなものになってしまい、メサイアについての教えも、神殿や祭りや犠牲制度についても、ことごとくおかしくなってしまった。旧約聖書だけでは聖書は完結していない、まだそこは途中だからである。ユダヤ教は自分たちの伝統を旧約聖書に付加することで聖書を完結させようとするが、それは非常に歪んだものになっている。またイスラム教の場合は、「聖書だけではまだ未完成である」と言うのである。

       聖書の時代は、大きく分ければ四つの啓示の時代に分けられるということは既に説明したと思う。モーセの時代、ダビデの時代、預言者たちの時代、そして新約聖書の時代である。イスラム教の人たちは、その四つの啓示の時代だけではまだ足りないと言って、「コーラン」を付け加えた。パウロは、「永遠の奥義は、今、主イエス・キリストにおいて成就された。それが福音である」と教えている。歴史における神の働きのすべては、主イエス・キリストにおいて成就された。だから、そこで福音の奥義はもう余すところなく現わされた、と宣言しているのである。何も付け加えることはできない。この後にまた何かプラスとなるものが与えられることはないのである。

       黙示録をもって神の啓示は完結し、封印された。神の啓示のすべてを主イエス・キリスト御自身が成就したので、私たちは今、完ぺきで完全で不変な「福音」を持っている。それは創世記から黙示録までの一冊の完結された聖書である。それに付け加えるものは何一つない。モルモン教のように「モルモン書」を付け加える必要もないし、イスラム教の「コーラン」を付け加える必要もない。聖書に何かを付け加えようとすれば、それは「聖書は完全な啓示ではない」と言っていることになるのだ。そうする者は、聖書の完全啓示を否定しているのである。だから、パウロたちは、「旧約聖書の預言者たちはみなイエス・キリストについて語っていたのであり、そのキリストがこの世に来られて使徒たちを召し、御自分の使徒たちを通して聖書の啓示を完成させ、そのようにして神の福音は、完全で完結された書として私たちに与えられた」と、私たちに教えているのである。

       ヨハネは、黙示録の最後のところで明確に宣言している。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」とある。これが「預言者たちの書によって」という言い方によってパウロが言わんとしていることである。

     

    信仰の従順

       続いてパウロは、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた」と言っている。この「信仰の従順」という表現も1章に出てきた言い方に似ている。1章の5節でパウロは、「あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすため」と言っている。そこに、「あらゆる国の人々」という言い方と「信仰の従順」という言い方の両方が出て来る。手紙の最後に、再びそこに戻っているわけである。「信仰の従順」という言い方を見るとき、それに近い言い方が新約聖書の他の箇所にもいろいろ出て来るのに気が付くが、「信仰」という言葉と「服従」即ち「従う」という言葉が同意語として使われている箇所もある。そして「信仰」と「」も、一緒に使われている言葉である。

       パウロは今、福音について話しているときに「信仰の従順」と言っている。「信仰の従順」と言うとき、これは「信仰から生まれる従順」或いは「信仰である従順」という意味であり、両者の意味は近い。けれども、この「信仰」と「従順」に関して多くの神学的論議がなされ、様々な神学的誤解と闘いが起こっている。とは言え、どちらも神学的に扱いにくい事柄ではない。二十世紀においてもその問題はあったし、アメリカの長老教会でもこれは問題の一つとなっている。どのような神学的な問題や闘いがあるのかというと、「信仰によって救われる」ということを強調したい人たちは「信仰のみ」を懸命に強調するわけである。その人たちは、「神の御言葉に忠実に従わなければならないと言って服従を強調する者は福音から離れている」と思ってしまう傾向が強い。彼らは、「服従」を強調する人たちに対して、「信仰のみによって救われるのではなくて、信仰プラス良い行ないによって救われると言うのか」と言って争ってしまうのである。

       実のところその問いに対しては、ある意味では「はい。そうです」と答えるし、ある意味では「いいえ。違います」という答えにもなるのだ。なぜなら、本当の信仰には必ず愛がともない、本当の愛には必ず行ないがともなうからである。そういう意味では、「信仰プラス行ないでなければ救われなない」という言い方もできなくはないのである。意味を正しく考えるなら、それもまた当然のことなのだ。その言い方をするときは、「本当の信仰」の同義語として「信仰プラス行ない」と言っているのである。ガラテヤ人への手紙5章6節を見てほしい。

    キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

       「愛によって」と言うとき、「働かないでいい。信仰だけが大事なのです」ということではないのである。「働かなくてもいい。愛の行ないは無くてもいい。信仰さえあれば、救われます」という話でないのは明らかである。「愛によって働く信仰だけが大事なのです」と、御言葉は明確に教えている。つまり、パウロは、「本当の信仰だけが大事なのです」と言っているのだ。主イエス・キリストを救い主として信じるとき、まさしく「」として信じるのである。単なる手段として信じるわけではない。クリスチャンは、「私は、主なるイエス・キリストを信じる」と告白している者なのだ。キリストを、己の主なる神として信じて告白しているのである。

       「主イエス・キリストは、十字架の上で私の罪のために死んでくださった」と言うとき、「でも、私はイエスを愛しているわけではない」と言うなら、当然それはおかしいのだ。信じることには愛が当然ともなうのだ。そして、愛には当然働きがともなうのである。つまり、行ないがともなうのである。本当の信仰は、愛のある信仰であり、愛のある信仰は、実を結ぶために働くという行ないがともなっている信仰なのである。だから、信仰、愛、服従即ち行ないの三つは一緒にあるものなのだ。救われたばかりのクリスチャンの場合、確かにその愛はまだ深くないし、理解も足らず、ピンとこないところもいろいろあるだろう。その「良い行ない」も、それほど目立たないかも知れない。

       しかし、「信仰のみによって救われる」ということを強調して言うとき、「愛がなくてもいい。行ないがなくてもいい」という意味にはならないのである。同時に、「行ないがなければ救われない。愛がなければ救われない」と言うとき、「信仰は独立したものとしてあって、信仰を持った後に愛を、そして愛を持った後に行ないを持つようになる」と言って、まるでたくさんのいろいろな条件があって、「それらの条件が全部揃ったら救われる」というようなことを言おうとしているのではない。「本当の信仰によって救われる」と言っているのである。本当の信仰と偽りの信仰がある。そして、「本当の信仰」は「服従の信仰」である。「信仰の従順」即ち「信仰の服従」と言うとき、「信仰から生まれる服従」という解釈もあるし、「信仰である服従」という解釈もあるが、それはどちらでも構わないと思う。ポイントは、「信仰」と「服従」は必ず一緒にあるということである。

       それで、「服従しない者を教会から追い出しなさい」とパウロは言う。コリントの問題を取り扱うとき、パウロは、「服従のない者は本当の信仰がない者である」というふうに取り扱うのである。同時に、「信仰は服従するものである」と言うとき、罪の告白として毎週読んでいるヨハネの第一の手紙の箇所をも忘れてはならないと思う。即ち、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」という1章8節のみことばである。「私には罪はない」と言うなら、その人は偽り者である。私たちは主イエス・キリストに従う者ではあるが、私たちは罪人であり、実に足りない者であるのは確かなのだ。それで、「服従。服従。服従」ということを強調しすぎるときに、行ないや自分の努力によって救われるというような誤解をしてしまいやすい。いとも簡単に、「私はこれをした。私にはこの行ないがある。あの行ないもある」というような話や気持ちになってしまう。

       私は若いときにアメリカで、ある知人の父と話していたときに、「あなたはクリスチャンですか」と尋ねてみた。その人はいつも酒に酔っていて、煙草の煙の中で生きているような人で、悪い冗談がいつも口から離れない人なので、いったいどういう答えが返ってくるだろうかと思っていた。きっと汚い言葉でどやされるのではないかとも思っていたら、なんと彼は大声で「私は25年間もバプテスマ教会で日曜学校を教えていたんだぞ」と答えてきた。「25年間も教会の日曜学校で教えていたのだから、それくらいの行ないがあれば普通の人よりはよいのではないか」とでも言いたそうな感じであった。それ以上の話はできなかったが、そうではなかったことを私は願っている。たまたま若い男に生意気な質問をされて、頭に来て、「おまえはまだ何の行ないもない青二才なのに、私にそんな質問をするのか」というつもりでそう言ったのなら、それはそれでよいと思う。

       しかし、「キリストが私を救ってくださった。私は、ただイエス・キリストの恵みによって救われたのです。救いは神から与えられる賜物です。神は一方的に私たちにそれを与えてくださったのです」ということを、私たちは常に強調しなければならない。それを忘れてしまうとき、神にではなく、自分に信頼していることになるからである。だからと言って、「罪を犯しても大丈夫」ということを絶対に言おうとしているのではない。キリストを愛し、キリストのために生きるという心がないなら、あなたの信仰はいったいどこにあるのか。そのことも同時に強調して言わなければならないのである。パウロはその両方のことを教えていると思う。

       もう一度別な言い方で説明したいと思うが、例えば改革派神学には「堅忍」という教えがある。その「堅忍」の教理は、「選ばれた者は捨てられることはない」と言うのみならず、最後まで忠実であることをも意味している。だから、多くの福音派とは対照的に、改革派の神学者は最後まで忠実であることの必要性と重要性を説教する傾向が強い。しかし実際のところ、洗礼を受けた人たち全員が忠実であるとは限らない。バプテストの教会や「信者のみの会衆」と自らを主張する教会においてすら、主イエス・キリストに背を向けてキリストを捨てる人たちがいるのである。

       「堅忍」はまた、救われるために良い行ないをすることの必要性をも意味している。しかし、この「救われるために良い行ないをする必要性」という表現には語弊があると思う。無論、「義と認められるために良い行ないをする」という意味でないのは明白である。その意味は、「真の信仰によってのみ義と認められ得るが、真の信仰には必ず行ないがともなう」ということである。行ないのない人は、「真の信仰」すなわち「救いに至る信仰」を欠いているのである。そのことは、ヤコブの手紙2章1〜26節を読んでいただければ明らかだと思う。そして、ガラテヤ人への手紙5章の「愛によって働く信仰だけが大事なのです」という言い方によって、パウロはこの件についての正しい見方を提供していると思う。

       そのようにパウロは福音の奥義について説明しているが、「あらゆる国の人々に知らされた」という言い方によってパウロは、「異邦人のすべてが主イエス・キリストを信じる者となるようにこの奥義は与えられている」と言っているのだ。この福音を携えて、キリストの弟子たちは全世界に出て行って福音を広めている。そのことをパウロは話している。全世界の人々が救われるようにと、今や新しい創造の福音が与えられた。これは古い契約の約束を成就する福音である。旧約聖書は確かに、異国の国々が救われること、そして彼らもまことの神を礼拝する者となることを預言していた。アブラハムが選ばれたのは、全世界が救われるためであった。

       しかし、旧約聖書は、キリストのからだである教会がユダヤ人も異邦人も聖霊によって一つのからだとなって新しい人類となることを明らかにはしていなかった。それは覆いをもって隠されていた奥義であった。今や神は、新しい人類を創造し、新しい世界を創造されるのである。それが福音の奥義である。すべての人々に福音を宣べ伝えるようにと、主イエス・キリストは弟子たちに命令を与えてくださった。弟子たちは、その命令を心に刻んでキリストの福音のために働いている。弟子たちによるイエス・キリストの宣教によって、この奥義は公に宣言されている。なかんずく、この奥義の意味の豊かさを最もよく理解し、多くを書き記したパウロによって、この奥義は明らかに宣言されている。

       先に読んだコロサイ1章27節でパウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言っている。そして、そのコロサイ人への手紙1章26〜27節とエペソ人への手紙3章5〜16節で見たように、「異邦人がユダヤ人と一緒に主イエス・キリストにあって一つのからだとなり、異邦人とユダヤ人が一つの教会となって、神の御子のからだとなる」ということが福音の奥義として宣言されている。これは新しい人類の話である。新しい人類は、古い人類とは根本的に違う。古い人類において、私たちはアダムにある者であった。新しい人類においては、私たちはイエス・キリストにあるのである。古い人類の原則は「肉」であり、新しい人類の原則は「御霊」である。

       そのことをパウロはローマ人への手紙で説明しているし、コリント人への第一の手紙15章でも話している。その「奥義」とは、「異邦人もイエス・キリストを信じる者となり、イエス・キリストを信じるユダヤ人とともに異邦人もキリストにあって祭司となる」というものである。キリストの福音は実に大きなメッセージであり、新しい人類となる者たちの救いの良き知らせなのである。このようなすばらしい救い、永遠の意味を持つ福音を私たちに与えてくださった神は、知恵に富む唯一まことの神である。そのことをパウロは16章27節で話している。

    知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

       知恵に富む神の偉大さと愛と素晴らしさを、何よりも福音を通して見ることができる。そして、「神の知恵」が福音においてあらわされている。私たちは、その神を礼拝し、唯一絶対なる神にキリストを通して栄光を帰するのである。そのところでローマ人への手紙は終る。神への礼拝の言葉で終っているのである。神の栄光を表わし、神への賛美をもって、パウロはこの手紙を書き終えている。私たちの信仰はどうであろうか。御父なる神が私たちを愛して、私たちのために十字架にかかって死ぬように御自分の御子を遣わしてくださったと本当に信じるなら、私たちはその愛に応答するはずである。

       本当の信仰を持つ者なら、感謝に満ちているはずであり、神の愛は御霊の働きによってその人の中に愛の応答を生み出してくださる。そして、この御方が私たちのために成してくださったこととその偉大なる愛を覚えて感謝するがゆえに、その命令に対して従順でありたいと願うはずであり、その従順によって愛を表わすようになる。私たちは、神の御栄光とその御国のために労する者とされたのである。私たちの信仰がこのようなものでないならば、とても本物とは言えないのだ。

       従って、正しい種類の「従順」即ち「愛に動機づけられた従順」こそ信仰の現われなのである。それは信仰の外面的表現である。この福音は、今も世界中で宣言され続けている。それによって、世界の国々がその心と生活において主イエス・キリストに従順なものとなるためである。私たちは、「永遠なる義なる愛なる神の命令」のゆえに福音を宣言する者である。そのことを日々の生活において忘れてはならないと思う。

       このローマ人への手紙を約四年間かけて一緒に学んできたが、この学びを通して、この三鷹福音教会が福音の真理において堅く立たされる者となるように願うものである。これからもキリストを信じる兄弟たちが加えられるであろうし、次世代を担う私たちの子どもたちも大きくなるであろう。ローマ人への手紙の学びは、新約聖書全体あるいは聖書全体の導入として、改革時代からよく使われてきているものである。今回のローマ人への手紙の講解説教の全体を塩光長老がたたき出して編集し、これを私たちの教会員の霊的成長のための教材として役立てたいと願っている。子どもたちが少し大きくなった時に読ませたり、新しく教会に来た人たちにも読んでもらいたいと思う。それぞれの家庭での御言葉の学びにおいても、ぜひ役立ててほしい。

       私たちの教会の土台を築き上げるために、神の御言葉の奥義を明確に宣言するこのローマ人への手紙全体は、実に深く、実に広い意味を持つものである。このローマ人への手紙の学びが私たちにの教会にとって本当に祝福となるように、私は祈ってやまない。私たちの一人一人が、本当に神に対して従順な者となって神の御栄光を表わし、この教会が本当に堅く立たされて、昔のローマの教会のように代々実を結ぶことができるように、祈らずにはおれない。福音の勝利のために、神の祝福が豊かに私たちの上にありますように。

       そのためにも聖餐式は大きな意味を持つものとして与えられている。福音により、主イエス・キリストの一方的な御恵みによって救われる、ということを覚えよう。神を愛する心は私たちから出たものではない。「愛は信仰からはじまる」と言うとき、「信仰は神の一方的な愛に応えるものだ」ということが前提としてある。神が、福音によって私たちに、御自分の永遠の愛を与えてくださる。私たちは、愛された者として神を信じるのである。神の愛を信じるなら、その愛に応えるはずである。すべては、神の愛から始まる。

       毎週の聖餐式において、神は私たちに福音を具体的なかたちで与えてくださっていることを覚えよう。パンは主イエス・キリストの御からだを表わす契約のしるしである。ぶどう酒は主イエス・キリストの血を表わす契約のしるしである。パンとぶどう酒を受けるとき、私たちはキリスト御自身を受けている。主イエス・キリストを私たちに与えてくださるのは神である。神が私たちを愛してくださっておられるのだ。御父が私たちを愛して、御子を私たちに与えてくださるのである。そのことを具体的な儀式を通して私たちに顕しておられる。パンとぶどう酒を受けるときに、私たちは、神の愛に対して、「はい。主よ。私はあなたを信じます」と応えるのである。そういう意味で、繰り返し繰り返し、神は御自分の愛を私たちに宣言しておられる。私たちに対する御自分の永遠の愛を宣言してくださっておられる。

       ローマ人への手紙5章のところに、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」というように書いてある。聖餐式においても、当然御霊は働いておられる。私たちは、繰り返し繰り返し、神に愛されているという福音の真理を覚えて聖餐式にあずかり、神への信仰を告白し、神の愛を受け入れるのである。それによって私たちは、神を愛することにおいて成長し、もっと強くされ、もっと従順で忠実な者となり、堅く立って正しく歩むことができるように導かれるのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2002年8月25日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙16章17〜20節(2)
    終わり

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