バートランド・ラッセルはなぜキリスト教徒ではなかったか

1997.8.24  ラルフ・A・スミス著  工藤響子訳


第1章

神についてラッセルに答える

 

 

ラッセルによる神存在の反証

 

ラッセルは神存在を証明する議論についてまず次の五つを手短に説明した後、この順序で一つ一つ論駁していく。1)第一原因による証明法、2)自然法による証明法、3)神の意向による証明法、4)神のための道徳的証明法、5)不公平の償いとしての証明法、である。上で述べたように、ラッセルは神存在の証明を論駁するに当たり、これらの証明法のうちの最も強力な論証を選んだわけではなかった。しかし、ラッセルのような能力の持ち主なら、最も洗練された論証であっても効果的に応酬できるはずだ。というのは、提唱者たち自身も通常これらの証明法が水も漏らさぬ議論とは見做していないからである。これらの証明法は、神存在の蓋然性、ないしは神信仰の正当性を指摘しているに過ぎないと言われている。

ラッセルが取り上げた五つの証明法は、神存在を証明する基本形の中の三つ、すなわち、宇宙論的、目的論的、道徳的証明法に属している。宇宙論的証明は、宇宙は何かの原因で成ったに違いなく、その原因は神であろう、というものである。目的論的証明は、人間がこの世界に見る秩序は偶然ではあり得ず、それゆえ神の計画によって成った、とする。道徳的証明には様々な型があるが、ラッセルはそのうちの二つを取り上げる。一つは、神のみが道徳基準の源になり得るという主張であり、もう一つは、歴史の中にある道徳上の不公平は歴史後の裁きによって正されなければならない、と論じるものだ。

以上の伝統的証明法に対するラッセルの反論は、彼自身が編み出したものでもなければその表現方法が特に優れているというわけでもない。ラッセルが宇宙論的証明法に関して述べているのは、要するに、もしキリスト教徒が原因を必要としない神を信じることができるなら、自分も原因を必要としない宇宙を信じることができるはずだ、いうものである。目的論的証明法に対しては、この世界が法を持つためには法を与える者がいなければならないということはないし、この世の秩序も悪の問題を考えれば感心するようなものでもない、と答える。道徳的証明法もまた、ラッセルの見解によれば失敗である。神の善なることを主張するためには神とは別に善悪の基準がなければならず、もしそのような基準があるとしても、人間が道徳を持つためにはその基準自体があればよいのであって、それとは別に神を持つ必要はないからだ。ラッセルは、たとえこれらの伝統的証明法が人々に受け入れられたところで、キリスト教の言う三位一体なる人格的な神の存在を証明するところまでは到底至らない、とつけ加えることもできただろう。

最後に、キリスト教に対する反論の結びにおいて、ラッセルは次のように主張する。「もちろん、私は、私が皆さんにお話しているような知的な証明法の類が、実際人々を感動させるものではないことを承知しています。実際、神を信じるように人々を動かすのは、どんな知的な証明法でもありません。大抵の人々が神を信じるのは、子供のころから信じるように教わっているからであって、それがおもな理由なのです」。彼は第二の理由を付け加えている。「安全を求める希望でありまして、これはあなたの面倒を見てくれる兄がいるといったような感じです」。彼はこのエッセイの終わり近くでもう一度こう書いている。「宗教は本来、主として恐怖にもとづいていると私は考えます。それはある意味においては、未知のものに対する恐怖であり、またある意味では、あらゆる悩みや論争にあって、そばから援助する兄を持っているというふうに感じたい希望なのです。恐怖―――神秘的なものに対する恐怖、敗北の恐怖、死の恐怖―――がこのこと全体の基礎なのです」。こういうわけで、ラッセルによれば―――実際、これが最も重要な点のようだが―――、神を信じることは理性的な行為ではないのである。人々は慣習や恐怖心から信仰を持つが、彼らはその信仰に適切な知的土台など全く持っていない、と。

 

 

伝統的アプローチの誤り

 

キリスト者はこのような反論に対し何と答えるべきか。第一に、我々は伝統的アプローチには問題があることを認めなければならない。キリスト者は、まるで信者と不信者が同様に中立的な観点からこの問題に取り組むことができるかのように不信者に向かって神存在の証明を試みるべきではない。必然的に、神に関する知的議論は倫理的に中立なものではない。皮肉なことに、ラッセル自身の方がある意味で一部のキリスト者たちよりもこの点についてよく理解している感がある。ラッセルは、キリスト者たちはその信仰において非理性的で、言わば、本当はわかっているのに、敢てその知識に逆らって信じている、と示唆する。ラッセルの見方によれば、厳密な意味での知的問題以外の何か―――恐怖、または安心感を求める願望がキリスト者の信仰を決定しているのである。

ところが、これはまさに聖書が不信者について教えていることなのだ。聖書によれば、不信者は知的に中立でもなければ客観的でもない。その反対に、彼らは非理性的であって、わかっていながら信じないのである。不信者は心の中では神が存在しておられることを知っていながら、恐怖心から、特に死の恐怖―――究極的には神が自分の罪を裁く、という恐怖―――から、キリスト教を拒絶するのである。不信者にとって、この世から神を追い出すことこそ安心感を得るための手段なのだ。神を否定する議論は、自分は倫理的に常態であって、死という避けられない事実に集約される誰もが感じる宇宙の無情さは自分の罪に対する告発ではない、と信じたい不信者の願望に動機づけられている。死に恐れおののいているため、非キリスト者はそれに直面するとき、自己を正当化することを求める。ある者は死に特別な意味があることを否定し、ある者は死をすばらしい経験であるかのような主張をする。このようなことはすべて、罪人は神を憎むと聖書によって語られていることの現われなのである (ローマ人への手紙8章7節)。

それゆえ、神の存在について不信者と議論を交わすとき、キリスト者は中立的な議論に加わっているのではない。不信者の観点からすれば、それは個人攻撃のようなものに思われるかもしれないが、キリスト者の観点からすれば、盲目で失われている人の救いを求めることなのである。どちらの側も中立ではなく、また中立にはなり得ない。だから、弁証論への伝統的アプローチは、それが中立的立場に固執するかぎり、キリスト者の立場を忠実に説くことにはならないのである。

 

 

ラッセルに答えるための間接的アプローチ

 

ラッセルによる神存在を否定する議論についてはどうであろうか。一言で言えば、ラッセルの議論は成り立っていない。ラッセルのアプローチは根本的に非合理的であるという論証が可能である。それは不信者についての聖書の記述が正しいことの証拠でもある。ラッセルはキリスト教を中立的な哲学的理由から拒んでいるのではない。彼は恐怖心からキリスト教を拒んでいるのだ。この主張の真実を論証するには、間接的アプローチとでも呼ばれるものが必要である。我々は問わなければならない。もしキリスト教が虚偽であるなら、そして世界中のほかの宗教もすべて虚偽であるなら、それに取って代わるものは何か。キリスト教を拒むことを選んだのなら、おそらくラッセルはより優れたものを見出したためであろう。少なくとも、彼は代わりとなる何らかの世界観を見出していたはずだ。それはどんなものであったのだろうか。

我々はその答えの少なくとも一部を、同書に収められている『自由人の信仰』と題されたエッセイに見出すことができる。ラッセルは、科学は我々に目的のない世界、無意味な世界を啓示していると主張する。

 

人間はその達成せんとする目的が全く予知し得ない諸原因の産物であること、その起源、成長、希望や恐怖、愛や信仰は、原子の偶然による配列の結果以外の何物でもなく、いかなる情熱も、英雄的行為も、思想も感情の激しさも、墓場の向こう側までは人間ひとりの生命を保つことはできないこと、幾多の時代にわたるあらゆる労力も、献身も、インスピレーションも、人類の輝かしい知恵も、太陽系の巨大な死と共に絶滅する宿命にあり、人類の業績のすべての殿堂も、廃墟と化した宇宙の残骸の下に必ずうずもれなければならないということ―――すべてこういった事柄は、たとえ議論の余地はないとは言わぬまでも、ほぼ確実であって、これらの事柄を拒絶する哲学は存立を望むことはできない。これらの真実の足場の内側においてのみ、この断固として動かない絶望の堅い基礎の上にのみ、魂の救いは、これから先、確実にうち建てられることができるのだ。

 

これは荒涼たる描写である。しかし、彼自身「魂の救い」という含みをもった言葉で暗示しているように、ラッセルは希望を見出し、そのことによってキリスト教の名残をうっかり露呈している。上の引用のすぐ後に続く段落では、「動かない絶望」であるはずのものが動いている。

 

万能ではあるが盲目な自然が、幾千年にもわたって宇宙の深みをせわしなく行き巡り、未だ母なる自然の力に服従しつつも、見解や善悪の知識、そして思考することのないその母のあらゆるわざを判断する能力を備えた子をとうとう生みだしたことは、一つの不可思議な謎である。母の支配下にあることの烙印たる「死」にもかかわらず、人間はその短い生涯の年月のあいだ、吟味し、批判し、知り、想像力を以て創造することが自由である。彼の知る世界にあっては、この自由は人間にのみ属する。そしてこの事に、彼の外的生活を支配する抵抗しがたい力に対する人間の優位が存するのである。

 

神を拒絶し、その代わりに「盲目で万能な母なる自然」を据えた後、ラッセルはこの「断固として動かない絶望の堅い基礎」から、どういうわけか知識、道徳、自由を推断できると軽々しく考えている。彼は「自然」が全能でなければならないことは論証していないのだから、我々は「万能な」という形容詞はここで誇張して使われていると憶測しなければならない。しかし、ラッセルが「自然」について語るままをただ受け入れるわけにはいかない。彼が「自然」と言うとき、実際にそれは何を意味しているのか。それは理性も感情もない赤裸々な力であるように思われる。だが、それは、偶然というまったく非合理的な宇宙の力かもしれないし、或いはその反対に、決定論的な宇宙体系の力かもしれないのだ。

ラッセルは宇宙についてどのように理解していたのだろうか。1925年に書かれた『何を信ずるか』というエッセイの中で、ラッセルは「人間は自然の一部分であって、なにか自然と対比されるようなものではない。人間の思考もその身体の動きも、星や原子の運動を記述するところの同じ法則に従っている。」と書いている。

どうやら母なる自然は“母なる機械”のようなものらしい。もしそういうことなら、人間も、またいかなる生物も決して持ち得ないものがある。それは「自由」である。機械的必然性にすべてが支配される。自由を持たないので、人間のいわゆる知識は脳の中の化学反応以外の何物でもなく、「星や原子の運動の法則」のように不可避であって、意味は全くない。人間が善や悪という言葉を使うのは、脳の中の何かがそのような言葉で考えたり話したりするよう誘発したためであって、倫理的な言葉は実際の意味を持ち得ないのである。

言い換えれば、ラッセルがうち出している世界は、神がいないだけではなく、合理的な知識、倫理、自由の可能性を論理的に排除した世界であり、「自然」そのものが、彼が信じたいと願っているような自由人の存在を取り除いてしまう世界なのである。知識、倫理、自由が存在するというただの憶測だけでは、ラッセルの熱烈な想像の世界以外に、それらのものに存在をもたらすことはできない。母なる“機械”が産み出すことができるのは、赤ん坊の“機械”だけである。

上記の問題を避けるようと、ラッセルがもう一つの可能な世界観として暗示した偶然の世界に慰めを求めても、実際そこには何の助けもないであろう。偶然は、道理や、倫理や、自由について何も知らない。偶然の世界が自由という概念に近づくことができるのはせいぜいランダム、すなわち痙攣のような滅茶苦茶な“自由”くらいのものである。しかし、ランダムは本質的に説明不可能なものだ。それは最初から道理というものを排除するからである。そして論理や道理のない世界では、善悪は存在し得ないのである。

こういうわけで、ラッセルが決定論的、機械的な宇宙観を選ぼうと、或いはまた偶然的な宇宙観を選ぼうと、自由人の信仰において救いを見いだすために「絶望の基礎」を越えて先に進む権利はない。彼の自由人のビジョンは宗教的錯覚であり、本当の絶望に直面するには十分な勇気を持たない者を慰めるだけの、叶う見込みのない夢に過ぎない。従って、以下のような彼の信仰告白は狂信の骨頂である。

 

自らの手で築いたところの殿堂で礼拝し、偶然性の帝国に失望せらるることなく、自己の外的な生活を支配する気まぐれな専制から精神を自由に保ち、人間の知識と非難とをしばし容認する抗しがたい力に堂々と挑み、疲労はしているが不屈のアトラスのように、意識を持たない力の行進に踏みにじられながらも自らの理想が築きあげてきた世界を独力で支える・・・。

 

結局のところ、ラッセルはキリスト教世界観を拒み、その代わりに、キリスト教に負けないほど宗教的な、独自に作り上げた非合理的な世界観を提唱しているのである。彼は自らの存在が、無意味で束の間のものであり、偶然性の帝国もしくは機械的必然性の帝国のいずれかによる不可抗的な力の支配下にあると想定し、そのうえで「疲労してはいるが不屈のアトラス」であり続ける。しかし、彼の形而上学全体にわたってこの信仰の根拠は微塵もない。もし彼が自らの形而上学に全く忠実に従うならば、意味のある知識の可能性を完全に否定することにならざるを得ない。しかし、ラッセルは自らの世界観を一貫させない道を選ぶ。彼の形而上学は、論理的には彼の切望する人間の威風を阻むものだが、それでも彼は熱心に信じるのである。

 

 

結論

 

我々は、ラッセルの世界観は非合理的であると結論づけなければならない。偶然か或いは決定論的な法則かによって究極的に支配される世界とは、いずれにせよ知識という概念が意味をなさない世界である。それならば、先に主張したように、ラッセルが知的理由でこの信仰を持っているのではないことは明白だ。ラッセルの真の動機は神の裁きへの恐怖であることを指摘したが、次章ではこのことについてさらに論じることになる。

キリスト教に対する哲学的反証に関しては、ラッセルの前提に立つならばキリスト教が虚偽であることを認めなければならない。しかし、これはさほど問題にはならない。なぜなら、彼の前提に立つなら、彼自身の哲学もまた虚偽となるからだ。もしラッセルの前提が自らの哲学の不合理を立証するのであれば、そのような諸前提はキリスト教を否定するためにも用いることはできない。

我々の間接的アプローチが明らかにしたところは、ラッセルが自分自身の代案によっても満たすことのできない要求をキリスト教に対して要求している、ということである。そして彼のしていることは、非キリスト教哲学全般において典型的なものだ。不信者は、神に向かって自らが作った不可能な条件―――それは人間の持つ限界ゆえの不可能性と、彼らが神の本性と現実を矛盾させるために生じる不可能性なのだが―――を満たすよう要求し、そのうえ厚かましくも、神がそれに失敗したではないか、と主張するのである。しかし、自らが合理的な代案を提供できていない点が隠された真実を何よりも雄弁に物語っている。すなわち、ラッセルが神に対して逆らっており、彼が知的中立性のごとく装っているものは“ごまかし”に過ぎず、彼の論法が歪んだ私利に支配されているという真実である。ラッセルがキリスト教徒ではなかったこの真の理由はキリスト教に対する反証にはならない。寧ろその逆である。哲学的にキリスト教を反証しようという試みにおいて、ラッセルは論理的な代案を提供できないばかりか、彼自身も実際聖書の描写する人間像に準ずるものとなっているという事実から、むしろキリスト教の真実性のための間接的弁証として役立っているのである。

 

「第2章」へ続く


文中の訳者注は [ ] で示した。ラッセルの引用部分については、『宗教は必要か〈増補改訂版〉』(大竹勝訳、荒地出版社) を基本的に転用させていただいたが、1968年に訳されたということもあって難解な言い回しはわかりやすくし、全体の要点を伝えるために意訳されていた部分は直訳にもどすなど、多少の手を加えた。
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