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    エペソ人への手紙1章5節


    神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

    95.04.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    神の予定による契約的養子

    パウロは4節で世界の基の置かれる以前から定められていた選びについて語り、5節でその選びの意味を説明する。神の選びとは、神の選択である。神はある人々を救われるべく選ばれた。しかし、神の予定はそれとは若干異なる概念である。神は選ばれた者の最終的な到達点を前以て定められた。その到達点とは「御自分の子にしようと」という言葉で定義されている。キリストにある救いは、罪の赦しと永遠のいのちという賜物だけではない。それらの祝福に加え、神は我々をイエス・キリストと共同相続人になるというさらに高い立場へと引き上げてくださるのだ。我々は相続人という特権を持った神の子どもとされるのである。

     

    愛をもってあらかじめ定められた

    いくつかの英訳聖書は「愛をもって」という言葉を4節の終わりに入れるが、これは誤りである。ギリシャ語では、5節は「愛をもってあらかじめ定めておられた」で始まるのだ。ここでは愛に特別な強調がある。神の予定とは、ある人々の考えるような冷淡な宿命論的教理ではない。神はただコインを投げてどの罪人を御自分のものとされ、どの罪人を捨てられるかを決められるわけではない。神は御自分の愛を「ただみこころのままに」ある罪人たちに注がれようと定め給うたのである。

    神は御自身の愛を注ぐべく、ある特定のグループ (ヨハネがヨハネ福音書3章16〜17節で「世」と呼んでいるのとまさに同じ人々) を選び給うた。神はその選ばれた者には永遠の愛を注ぎ、祝福と光栄という地位に導き入れるよう定められた。愛は祝福することを求め、与えることを喜ぶ。神は御自分のひとり子を賜わるほどに我々を愛された。が、神の愛は我々を死から救い出すだけで満足はしなかった。神は御自分のひとり子に似た者とすると定められたほど我々を愛されたのである。

    以上が神の予定の意味である。それは、神が、最終的にキリストと同じ姿に変えるという救いにおける最高の恵みを選ばれた者たちに授けると決定された、という教えである。

    実際、おそらく最も引用されている聖句は、この同じ愛による予定について書いている。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。我々の生活の一つ一つに意味があり、神が良き目的を実現すべくその細部に至るまで働いておられるということは、考えるだけでも畏れ多い。この真理は、人生の試練の中をくぐり抜けられるよう我々に力を与えてくれる。

    この素晴らしい神のみわざを知るための土台は、この後の節に見い出される。神は万事のうちに働いて、御民のために祝福をもたらされることを我々は知っている。なぜなら「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。神は我々を救うことの中に、我々がキリストのような者となるという特別な目的を持っておられる。もし神が世の基が置かれる前から目的を定めておられたのなら、神がその目的を必ずや実現されると我々は確信できる。それが無限の愛という目的であることを思い起こせば、なおさらのことだ。

     

    子とされる

    神が我々について予定されたことは、息子として養子にすることであった。パウロは、養子を意味する特別なギリシャ語 "uiJoqesiva" を用いている。その意味は、「息子としての地位を与えること」だ。この言葉は、新約聖書の中で5回使用されている(ローマ8:15, 23; 9:4; ガラテヤ4:5; エペソ1:5)。ガラテヤ書の箇所は、その言葉の一般的な意味をよく示している。我々はみなキリストにある信仰によって神の息子(uiJoi; qeou')である、とパウロは言う。キリストをその身に着るバプテスマにおいて、我々は契約的、法的儀式によって教会で公けに養子にされた(3:27)。その結果、そこにはユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、また男女の間にさえ区別はなくなったのである。キリストにあって我々はみな一つであり、神の息子たちなのだ。神の御前における我々の法的地位は同じである(3:28)。これはまた、我々がアブラハムの本当の子孫であり、契約の祝福の相続人であるという意味でもある(3:29)。

    パウロは続けて、相続人が子どものうちは奴隷のように扱われると説明する。つまり、自由ではなく両親や教師の権威の下に生活をする(4:1-2)。これはモーセ契約の働きを指している。モーセ契約は、幼稚な信仰のための後見人としての契約であった(4:3)。しかし、今やキリストが来られ、我々を贖われたため、我々は息子として養子にされるという救いの全き祝福を受けられるようになったのである(4:4-5)。神の聖霊が子たちに与えられたため、我々は自分自身が何者であるかを認識し、またそのような者として生きることができるようになった。息子がする最初の、ある意味で最も大切なことは、「アバ、父」と呼び求めることである(4:6)。

    この箇所で、息子となるとは相続人の地位と特権を持つという意味であることがわかる。御霊が与えられることによって、我々は契約の祝福を体験できるようになるのだ。

    ローマ書8章におけるパウロの教えもこれに似ている。御霊によって導かれる人だけが神の息子である。つまり、息子の身分は単なる立場ではなく、その立場を持った結果、ある種の生き方を生みだすことが教えられている(8:14)。御霊が与えられることにより、我々は肉に対する奴隷状態に留まることはないことが保障される。なぜなら、その御霊は我々を感動させ、「アバ、父。」と呼ぶ子とし給うからである(8:15)。御霊は子としての身分を我々の心のうちで証しし、確かなものとし給う(8:16)。神の子となるとは相続人となること、相続人の身分とはキリストともに共同相続人となることなのだ。 だが、その栄光を相続する前に、我々は苦難の中を通らねばならないのである(8:17)。

    これらの箇所の比較から、神が我々を息子、相続人となるべくあらかじめ選ばれたことがわかる。男性と女性、ギリシャ人とユダヤ人、奴隷と自由人はみな「息子」であり、アブラハムの祝福の相続人であるという意味で平等である。相続人の身分には、キリストとの共同相続という意味も含まれる。それは、キリストと共に神の御国の栄光を相続するということだ。イエスが大祭司として祈られたのはこのことである。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」(ヨハネ17:22-23)。

    神は世の基が置かれる前から我々を深く愛し給い、その愛ゆえに、我々をキリストと同じ姿に変え、キリストが栄光にあふれて全てを支配される時、我々がそれに加わることを許すよう定められた。また、神が定められた目的を実現に至らしめるため、我々の生活のうちに日々働いておられることを我々は知っている。我々はキリストのような者となり、キリストと共に全てを相続するのだ。「キリストにある」救いとは、神の御子キリストのものである御栄光と御支配が神の息子である我々のものとされるほど、我々がキリストと一つとされているという意味なのだ。

    この救いの概念がこれほど高く素晴らしいものであるのだから、神を絶え間なくほめたたえるよう我々を駆り立てるはずだ。エペソ書1:1-14におけるパウロのように、我々は神が賜わった偉大な救いを思い、感謝に満ちあふれるはずだ。我々はこのような絶対確実な神の愛と導きの確証を持つゆえ、この救いは試練の中で慰めとなるはずだ。また、その救いはキリストにある成長を我がものとするためにさらなる努力を我々に喚起させる。キリストにある成長を求める我々の祈りは必ず聞かれ、霊的成長のための闘いには必ず勝利の報いが与えられることを我々は知っているからだ。我々はさらにキリストに似た者となることを怠ってはならない。なぜなら、神御自身が、世界を創造される前から、我々の救いの素晴らしい目的を定められたからである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章4〜5節

    エペソ人への手紙1章6節

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