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    エペソ人への手紙1章6節


    それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

    95.04.09. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    Soli Deo Gloria!

    宗教改革は、闘いの標語としてルター派・カルヴァン派に使用されたラテン語の三つの表現でよく知られていた。Sola Scriptura――御言葉のみ。これによって改革者たちは、聖書のみがキリスト教信仰とその実践のための究極的権威であるとした。ローマ・カトリックは人間の伝統や法皇の権威を聖書理解のための不可欠な助けであると考えた (ところで、改革者たちはローマ・カトリック教会を“カトリック”とは呼ばずに、その信者たちを“ローマ教皇礼讃者”、またその教会を“ローマの教会”などと呼んだ。カトリックという言葉は「普遍的な」という意味で、ローマの会衆に譲渡するわけにはいかなかった。“ローマ・カトリック”と言えば実に矛盾していると考えられただろう)。この教理の効果は聖書の権威をくつがえし、その代わりに教会の権威を据えるものであったし、今でもそうである。こうして人間は、神との直接的関係を持つことのできないものとなり、ある特定の教会や指導者の教えの真実性を試すいかなる手段をも持てなくなってしまった。改革者らはこれに対し、彼らの信仰をsola Scripturaにおいて告白し、抗議したのである。

    宗教改革における二つ目の有名なラテン語表現は、sola fide―― 信仰のみ (基本となる同じ要点をsola gratia [御恵みのみ]とも述べられる)。この表現も、ローマ・カトリックに対する抗議であると同時に一つの信仰告白でもあった。ルター派教会の礎石である義認の教理は、最も重要な争点の一つであったが、ここでも、教会の権威という問題が議論の中心となった。我々が神の御前で義と認められるのは、ローマ教会や他のいかなる人間の権威を仲立てとした認可をも必要とせず信仰のみによってであるのか、あるいは、たとえ部分的であっても、教会の儀式にかかっているものであるのか。聖書の答えは明らかだ。Sola fideである。

    以上の表現はどちらもより究極的なものを示している。それは、宗教改革の最も根本的な問題とも呼び得るもので、次のように表現された。Soli Deo gloria――「神のみに栄光あれ」。改革者らは、このモットーは救いの教理に関する真のキリスト教的視点を表現するばかりか、神に関する真のキリスト教教理に不可欠と信じた。

     

    人間の救いにおける神の栄光

    エペソ書1章で、パウロは我々の救いにおける神の御栄光に特別な強調を置く。我々を罪から救うという御父の御計画には「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」という究極的な目的があった(1:6)。救いの遂行という御子によるみわざは「神の栄光をほめたたえる」ことに終わる(1:12)。聖霊は「神の栄光がほめたたえられるため」に救いの保証として神の御民に与えられる(1:14)。我々の救いに関して、その栄光をほめたたえる三位一体なる神への賛美は、救いが全くもって神のみわざであるという事実に根ざす。ルター・カルヴァン両者の教理である、宗教改革の単働説 (霊的更生は神意だけの作用によるという説) は、アウグスティヌスの神学を土台としているが、それ以上にそれがパウロの神学を土台としている点が大切だ。神は世界が創造される以前から人間の救いを計画され(1:4)、御自分が救おうとされる者を選び、彼らを高く上げ、彼らに被造物に与え得る最高の祝福を授ける、と定められた(1:5)。時が来て、神は受肉した御子の死により実際に彼らを救い給い、選ばれた者たちは内に住み給う御霊なる神の祝福を恵みの証印として与えられた(1:13-14)。ここには、人間のわざや誉れなどの入る余地はない。救いが完成される時、人間が唯一口にし得るのは、ただ「神がほめたたえられますように」である。それこそ、パウロがこのエペソ1章3〜14節で述べていることなのだ。

    ローマ・カトリック神学とアルミニアン神学――この二つは本質的に人間の教理と罪の教理において同じ――は、救いを部分的に人間に帰することにより聖書のsoli Deo gloriaを妥協している。もしも人間が救いに何かの根本的な貢献をするのであれば、人間は自分自身に“賛美”をささげることになる。自分がキリスト者であるのは、人格の善良さ、心のきよさ、堕落の度合いの比較的な浅さ、良い行いなど、何であれそのおかげであると誇り得るだろう。パウロが次のように書いて非難したのは、まさにこの種の見方であった。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)。

    御恵みによる救いは、絶対的単働説を意味する。これは、我々の自由意志ではなく、神の自由意志による予定を意味する。人間のうちにある何ものも、選びの理由や、恵みを受けたり保持する根拠として挙げることはできない。神のみが救い、栄光は神にのみに帰するのである。

     

    創造における神の栄光

    Soli Deo gloriaという聖書的告白の意味は、救いが神の栄光を目的としているということだけではない。世界の創造には、最初から神の栄光を現わすという究極的な意味があった。「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、何と力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。」「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩篇8:1; 19:1; 創造と救いの両方における神の栄光について述べている他の参考箇所は以下を参照:詩篇8:1,5; 19:1; 22:23; 24:7, 8, 9, 10; 29:1, 2, 3, 9; 45:3; 57:5, 11; 62:7; 63:2; 66:2; 72:19; 76:4; 79:9; 84:11; 86:9, 12; 96:3, 7, 8; 97:6; 102:15, 16; 104:31; 105:3; 108:5; 111:3; 113:4; 115:1; 138:5; 145:5, 11, 12; 148:13)。

    ある非キリスト者たちは実際に、「キリスト教では、神には自分の栄光を求めることが許されるのに、人間には許されていない」と文句を言っている。こういった態度は、聖書的な罪の定義をよく表わしている。即ち、人間は自分を神にしようとするのである。罪人は、自分勝手に自分の栄光を求めるが、神はそうではない。三位一体なる神が御自分の栄光を求められるのは、それが正しく、ふさわしいことであるからだ。御父は御子の栄光を求められる。それは御子が誉れと賛美にふさわしいからである。御子は御父の栄光を求める。それは、御父の栄光を認めないことは曲がったことであるためだ。御父、御子、御霊は永遠に、そのの本質のゆえに、互いの栄光を求め、互いを喜ぶ。それ以外にあり得ないのだ。

    たとえ人間が、いのち、息、そして全ての良きものについて神に負うところがなかったとしても、人間にとって神に栄光を帰することは、ふさわしいことに過ぎない。それはちょうど、人間が晴れた夜空の星や美しい山々の姿、海、その他全ての創造における神の栄光の壮観な現われを見て、感動するのが当然なことに過ぎないのと同じである。被造世界の美しさに直面しても感動しないような人間は、単に鈍いというだけでなく、心が曲がっているのである。だが、神はその創造よりもはるかに栄光に満ちておられる。神が我々のために成し給う良きことがらを考えに入れなかったとしても、神は我々の礼拝と賛美を受けるにふさわしいお方なのである。

     

    神に栄光を帰する

    「人のおもな目的は何か。神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである」。我々は神の栄光を現わすために創造され、また贖われた。罪人である人間は、神のものである栄光を盗み、自らのものとしようとする。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ[ない]」(ローマ3:23)。パウロは、我々が創造された目的を果たしていないという事実について語っている。我々は神の栄光を現わすために造られたのだが、そこに到達しない。自分の思い、言葉、行いによって、神の栄光を現わすべきであるのに、そうしていないのである。

    贖われた罪人として、我々は人間の最初の目的を果たすよう回復されている。今や我々は神の御栄光を求め、神を喜ぶことができる。この世にあっては罪人としての自分はあくまでも残るが、贖いとは、我々が神のために真に生きることができるという意味である。神の栄光を現わすことは、人生において熱望すべきことである。それは、我々の最高の召命である。我々は、永遠にわたり、神を喜ぶ。その御力と偉大さを喜び、賛美を歌い、永遠に神の美しさの常に新しい啓示によって驚嘆し続ける。そして、そのすばらしい栄光の新しい啓示の一つひとつによって、この偉大ですばらしい神が我々を愛し、我々を罪から贖うために御自分の御子を遣わし給うたことについて、より大きな感謝を持つようにされるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

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