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    エペソ人への手紙1章11〜12節


    私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。わたしたちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

    95.05.07. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    聖徒の相続

    子であるとは相続人であるという意味だ。神は我々を養子とされ、キリストとともに共同相続人となるよう世の基の据えられる以前から予め定めておられた(エペ1:5)。キリスト御自身は約束を与えられたアブラハムの子孫であり(ガラ3:16)、この方にあって神の約束のすべては成就されたのである(2コリ1:20)。キリストにある者たちは、キリストともにその相続に与る(ガラ3:27-29; 4:7)。では、キリストは何を相続されるのであろうか。ヘブル書においてパウロは、神が御子によって「御子を万物の相続者と[された]」と語られた、と述べる(ヘブ1:2)。キリストは「万物」を相続されるのである! だが、聖徒らも万物を相続するのだろうか。ヨハネは言う。「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(黙21:7)。終わりまで耐え忍ぶ者は万物を相続する。そして、神が人間を創造された時に意図しておられた者となる。それは、神のしもべとして世界を義しく支配し、また楽しむ神の代表である。新しいアダムは、神にまことの栄光を帰する新しい世界において新しい人類を導かれるのである。

     

    モーセ律法における相続

    相続の概念はモーセ律法の中心にある。少なくとも80箇所がモーセ五書において相続という概念に言及している。土地が頻繁にイスラエルの相続と呼ばれている(創15:7; 28:4; 出23:30; 32:13; レビ20:24; 民26:53; etc.)。土地は部族や家族によって分配され、イスラエルの家族は、おのおの自分の部族に属する地域で相続を持っていた(ヨシュ13:6-19:51)。ゲィリー・ノースは、当初、一家族につき平均約 11エイカーの土地を持っていたという見積りをしている。(実際は、町に当てられた地域や、農地に適さない部分があることは計算に入れられていないので、これは多めの見積りである)。

    昔のユダヤ人なら、キリスト者の注解書が2千年もの間、無視してきた具体的な質問をしたであろう。たとえば、「もしこの土地が私の子孫たちに永遠に与えられていけば (創7:l8)、今から何世代か後には一人につきどのくらいになるだろうか」。一年に3%の人口増加率――20世紀における多くの農業国の持つ率――では、人口はほんの25年間で二倍になる、とノースは述べている。イスラエルは、律法に忠実ならば人口の増加において平均をはるかに上回ると約束されていたので、それ以下の期間で倍になり得たのである。比較的普通の増加率でも、カナンでの50年後、つまり最初のヨベルの年には、平均的農地は3エイカー以下になる。100年後には、一家庭の平均は1.5エイカー以下になるはずだ。いずれにせよ農地としては大したものにはならない。

    カナンの地の物理的限界を考え、二、三の単純計算をするだけで、モーセの時代のユダヤ人たちは土地の相続に関する律法のさらに深い意味を考えるよう導かれたことだろう。他の事柄も、土地の象徴的意味を考えるよう促したに違いない。彼らは祭司の民と呼ばれていたので(出19:6)、彼らは祭司職が象徴的なものであり、また全国民の代表であることを理解した。また、祭司たちははっきりとこう言われていた。「それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である」(申10:9; 参照:民18:20; エゼ44:8)。もし主御自身がレビ族の相続なら、主はまた全国民の相続でもあられる。

    ダビデはこの結論を引き出し、詩篇16篇でそれを表現した。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ」(16:5-6)。アサフは詩篇73篇でこの信仰を表現した。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」(73:25-26)。極度の悲しみと痛みのただ中で、エレミヤは自らの相続を思い起こした。「『・・・主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」(哀3:24)。このような土地の比喩的意味は、昔のイスラエルには知られていた。神の民は、わずかばかりの土くれにまさるものを相続として待ち望んでいたのである。「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である」(エレ51:19; 参照:10:16)。

     

    新しい契約の相続

    それゆえ、神の新しい契約の民にとって、救いという永遠の祝福が我々の「相続」と呼ばれることは驚くべきことではない。神の子どもとして、キリスト者は世界を相続する。そして、それよりもはるかに重要なことは、神御自身を相続することである。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ロマ8:16-17)。

    我々の救いが神を「相続すること」として語られているのは、我々に最後まで望みを持ち続けるよう教えるためである。我々はこの世で為し得ていない事柄について落胆したり、あたかもこの世の祝福のために生きているかのようにそれらに固執してはならない。これらのものはすべて過ぎ去るのである。我々の望みは主御自身と永遠とにあるのだ。これはただ座って何もしないという意味ではない。その反対に、保証された相続を保っているからこそ、我々は御国のために労することにおいて堅忍できるのである。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(1コリ15:58)。

    何世紀にも亘る神の御民の働きを合わせることによって、神の御国は徐々に実現されていく。御国をもたらすことにおける個人の果たす分が非常に小さなものであることには違いないが、その重要性は誰も想像できないほどのものだ。キリストは地のすべてを相続するよう任命されておられる(詩2:8; 82:8)。これはキリストの、メシアとして、またアブラハムの子孫としての権利なのである(ロマ4:13; ガラ3:16参照)。キリストは教会が歴史において完全なる勝利を手にするまで神の右の座に上げられた。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです」(1コリ15:25)。

    義なる者はキリストとともに世界を相続する。我々は、神が我々の責任としてそれぞれに影響と権威の領域を賜わるという意味で、キリストとともに支配する。我々は神が歴史の中で御国を増し加えるために与えてくださった才能を用いて、神の御恵みの良き管理者とならねばらならない。我々は主人が与えてくださったものを増やしてお返しする。そうすることによって、御国は時が経つにつれ発展していくのである。あらゆる世界の国々が徐々に信仰へと導かれ、キリストの御名が世界中で崇められるようになるのだ。

    しかし、これは長い説得と改革の過程を経なければならないものだ。我々は「イエスのための革命者」ではない。我々は日本のキリスト教信仰への回心のために労するが、神の御霊が特別に働いてくださらないかぎり、それは起こり得ない。それまでの間、我々の日々の望みは、100年ないしそれ以上もの間来ることのない地上の御国なのだろうか。そんなことは決してない。ペテロが書いているように「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」(1ペテ1:3-5)。永遠の相続こそ、我々の最終的な望みである。地上のキリストの御国は、その永遠の御国へと組み入れられる。それで我々が一方のために行う働きは他方にとっても有意義である。我々が受けるのは、我々の地上の働きもその一端を担う永遠の相続である。が、結局のところ、キリストにあって万物を相続するとは、神の愛の現われという相続にほかならない。貴いものは、それらが神から来て、神の栄光を現わすゆえに貴いのである。神御自身こそ我々の相続分なのだ。もし真理が我々をまごころからの喜びと希望で満たさないのなら、天のものであろうと地のものであろうと他のいかなる祝福も無意味なのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章10節

    エペソ人への手紙1章13〜14節

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