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    エペソ人への手紙2章1節


    あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

    95.06.04. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    罪の中に死す

    使徒パウロは、エペソ人たちが「罪過と罪との中に死んでいた」と言う。パウロは明らかに「死」ということばを通常とは異なった意味で使っているが、エペソ人が死んでいたとはどういう意味であろうか。この問いに答えるには、いのちと死の両方に関する聖書の教えを考慮する必要がある。

     

    園における生命

    他のほとんどの教理と同様に、生と死の聖書的な意味における基本課題は創世記の最初の部分に見い出される。人間にとって、生命とはエデンの園におけるそれであった。神はアダムを創造された後、アダムの住むべき園を造り給うた(創2:7-8)。アダムは明らかに、自らの未来の家となる園を神が形作られるところを見ていたはずである。園に関する最も重要な事実は、神御自身がアダムと共にそこに住まわれた、ということである。アダムに仕事が与えられ(創2:15-17)、彼が動物に名づけていく中で妻の必要性を学んで(創2:18-20)はじめてエバは創造された。そして、そのエバの創造があってはじめて、すべてはまことに良かったのである(創2:18; 1:31)。

    創造の六日目の終わりに人間は文字通り生命を楽しむ。人生は始まったばかりであったため未熟ではあったが完全であった。アダムは神との正しい関係、エバとの正しい関係、彼の周りの被造世界との正しい関係、そして自分自身との正しい関係を持っていた。聖書における生命とは本来、形而上学や生物学的に理解されるべきものではない。契約的な関わりから理解されなければならないものだ。我々はいかなる面においても生命を完全に理解することはできないが、それを神、人間、世界との契約関係によって理解することは、他のすべての面にも基本である。

    園における神との交わり、妻との完全な愛の関係、すべての被造物の間の平和、そして心の中の平安は、アダムが創造された時点で彼が置かれた状態である。これが、人間が生きているという意味である。当然のことながら、アダムが罪を犯さなかったなら、病気や老いからくる痛みなどは経験することはなかったのである。

     

    園の外における死

    神はアダムに警告して言われた。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創2:17)。アダムは四つの意味で死んだと言える。アダムは罪を犯したその日から肉体的に死に始めた。彼のからだは病に感染し、老いの痛みを感じ得るものとなった。彼の仕事は元々祝福として与えられたものだったが、この時から呪いとなる。働くことは依然祝福ではあるが、痛みと困難の混ざった祝福となる。女の出産も同様である。堕落以前には出産に何の痛みも危険も伴わなかった。堕落後、最大の祝福として女に与えられたものが、苦しく危険を伴う祝福と変わったのである。

    最終的な肉体の死は神の御恵みによって延期された。神はアダムとエバのために身代わりを与えられ、彼らはそれによって生き長らえるようにされたので、子を生み、神の国のために労することができたのである。アダムとエバの衣のために殺された動物は、神の御恵みと彼らの罪に対する正当な罰を常に思い起こさせるものとなった。動物の儀式的死がアダムとエバを肉体の全面的な死から救ったのである。

    アダムは、罪によってエバとの関係が壊されたという意味でも死んだ。神がアダムに彼の罪について訊ねた時、彼は神と妻に対する憎しみを露わにし、また神とエバを責めることばを以て自分の罪をエバの所為にしたのである。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(創3:12)。エバは自分が罪を犯すと、まず最初に自分と一緒に食べるよう夫を誘った。神によって助け手としてアダムに与えられたはずのエバが、彼と共に罪を犯したのである。人間同士の関係が堕落によって破壊されたことは、人類の最初の子供たちの内により明白に強調されて見受けられる。人類最初の息子カインは、エバが救い主となるよう望んだ人物だが、殺人者となった。神は、人間を御自身を愛し、互いに愛し合う者として創造されたが、堕落はその両方を破壊したのである。

    人間の被造物との関係もまた破壊された。これは、動物が互いを殺し合って生きることにも見られるし、また、人間が世界を耕し、実を結ぶものとするために被造物の世話をよくみる主人であったはずが、しばしば神が彼に与えられた地の破壊者となっていることのうちにも見られる。地の呪いは、荒野や砂漠の増大、地震、洪水、嵐などに見られる。被造物を楽しむはずであった神の代理統治者、世界の主人たる人間は、今や生きるために被造物と格闘しなければならない。「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創3:17b-19)。

    死のもう一つの側面は、神との壊れた関係を反映する内面の心理的腐敗である。心理面における死には、誰ひとり自分自身を理解し、知ることはできないという事実が含まれる。確かに人間は複雑なものであるが、そのためにではなく、次のような理由からである。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ17:9)。人間の心はあまりに欲と腐敗で満ちているため、誰一人あるがままの自分に直面することはできないのである。

    何にもまして、罪人には自らの生きる根本的な目的が見えない。フロイドは人間の根本的本性について、潜在意識による定義を試みた。B・F・スキナーは、人間は自由も尊厳も持たない機械であると考える。他の人間中心主義の哲学者らはこれらのテーマについて多様な見解を示しているが、彼らのうち一人として問題の核心を理解していない。アーネスト・ベッカーが、死の否定こそが人間の生きる目的であると述べた時、核心に近づきはした。だが、当然のことながら、彼には死の否定を神のさばきからの逃避の試みであることがわからない。たとえ死の否定が正確に定義されたところで、それは単に現実のより深い部分、つまり罪人の神に対する激しい反感というものに過ぎない。罪人は神を憎む者である。しかし、神は生命である。それゆえ、罪人は死を愛するのである。「わたしを憎む者はみな、死を愛する」(箴8:36b)。

    死を愛することは、人間が自ら神になろうとする野望にとりつかれるという現実に表われている。ヒットラーが世界征服という虚無で自殺的な行為に熱狂的に自らを捧げたように、個々の人間も、ヒットラーほどのスケールでなくとも、自己を神格化するという企てに身を投じるのである。神の律法を自己の意志や決断に置き換える試みとして表現される神への憎しみとは、死を愛することである。

     

    最終的な死

    これらすべてを換言すると、生と死は契約的現実である、ということになる。死とは契約の呪いである。最終的な死とは、生ける屍が無意識のうちに急ぐ最期だ。罪過と罪のうちに死んでおり、欲と愚かさによって神から離れている死人は、神が彼らに差し出し給う生命を憎む。神の条件で生きるよりは、罪に定められ地獄に行く方がよいというのだ。彼らが何よりも耐え難いのは、神御自身なのである。

    罪深い人間が罪に定められる時、彼らは真の自分となる。彼らの罪の抑制はすべて取り除かれ、その心は果てしなく激怒する。彼らは自らの内にある神への憎しみ、他の人間と自分自身に対する憎しみを完全に意識するようになる。その全世界に対する復讐心は永遠により熱く燃え盛るのである。そしてこの死からの救いはどこにもないのだ。

     

    最終的な生命

    しかし、今、自らの罪から離れ、神の御恵みに信頼する生ける屍にとっては救いがある。永遠の死に封じ込められていない契約的な死は、キリストにある神の御恵みにより、打ち破ることができる。我々は罪から贖われ得るのだ。キリストに信頼するなら、今もそして永遠に神をほめたたえることを生きる目的とする、神を愛する人間という元々の本性に回復されるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章18〜23節

    エペソ人への手紙2章1〜3節

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