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    エペソ人への手紙2章1〜3節


    あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の欲のなかに生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

    95.06.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    罪の中に死んでいたユダヤ人と異邦人

    パウロが「私たち」や「あなたがた」という言葉をどのように使っているか、一般法則を引き出すことはできないが、この2章の始めの部分では、パウロはユダヤ人と異邦人を区別しているようだ。「あなたがた」と「私たち」が使われているそれぞれの文章の内容を見ると、我々の考えるユダヤ人と異邦人の区別と合致する。それぞれの特徴的な罪を定義した後、パウロは引き続き4節から救いについて語る。そこでは、ユダヤ人と異邦人が一つの教会の中にあって共に「私たち」として一つにされている。

     

    異邦人の罪の特徴

    異邦人について語るときに特に強調されていることは、サタンへの隷属である。これは、パウロの時代のキリスト者ではないユダヤ人が悪魔の奴隷でなかったという意味ではない。キリストは、御自身に対して偽りの信仰告白をしたユダヤ人らについて次のように断言された。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(ヨハ8:44a)。当時、ユダヤ人の悪魔への奴隷状態は、おもに彼らの偽善において表されていた。だが、異邦人の場合は、多神教の偶像礼拝によって悪魔的な神々に直接礼拝を捧げていた。彼らの生活は、もっと明らかに「空中の権威を持つ支配者」によって導かれていたのである。

    日本もこの例に漏れない。殆どの日本人は、日本がそれほど宗教的であるとは考えないが、日本の諸宗教が概して“異教”であることは事実だ。異教の宗教は、通常、倫理ではなく儀式的な清めや神々のなだめに関心を持っている。伝統的諸宗教の勢いが間違いなく昔よりも衰えている今日でさえ、日本の企業はさまざまなその地方の神々や先祖の霊によるたたりを避けるために寺に代表を送り拝ませている。

    日本には、死んだ先祖たちの霊魂やその地方で怖れられている他の霊を慰める数多くの儀式がある。日本の祭りは、普通、悪い霊を追い払うことと関わりがある。新年に神社を訪れたり、他の儀式的なことを行なうのも、霊による害から守られることを目的としている。大工は家を建てる前に霊を慰めるし、政治家は神社仏閣を訪れ、地域の神々にその地方の守護と幸福を祈る。

    日本の会社も宗教儀式との関わりが強い。一例を挙げれば、京都地方のある会社では、ずいぶん前に死んだある人物の霊を慰めるために、年に二度の特別な供養の儀式を行なっている。1927年2月に、あるイタリア人技師が自殺をしたのである。彼は、ある日本の合成繊維工場に機械を設置しに来た団体のテクニカル・アドバイザー主任の一人であった。この工場ために働いた彼の役割の重要性と、彼が子孫を残さずに死んだという理由で、この工場は今日に至るまで、彼の霊を慰めるための特別な供養を行なっているのである。もしそうしなければ、彼は“無念仏”、つまり、工場にたたりをもたらす悪い霊となるかもしれない、というのだ。

    サタンは「この世の流れに従って」歩くよう人間を支配する。この世が歩む典型的方法というものがある。それを創世記の最初の6章に見られる三つの根本的な罪にまとめることができる。アダムとエバは、神の命令を直接破り、神の善に挑んだことによって神に対して罪を犯した。彼らは聖所から聖なる食物を盗んだのだ。神の聖所に対する彼らの罪は、特に御父なる神に対する罪であった。彼らの最初の息子カインは、殺人を犯すことによって神に対して罪を犯した。弟を殺すことによって、カインは人間のうちにある神の似姿に対して罪を犯したのである。これは、おもに御子なる神に対する罪である(ヘブル1:1-3比較)。創世記の前半にある三番目の罪はセツの子孫たちの罪である。彼らはカインの子孫の娘たちと結婚することによって聖霊を悲しませた。この霊的妥協は敬虔な家系の腐敗に終わったのである。

    聖所を汚すこと、兄弟殺し、文化的妥協は、人間の三つの根本的な罪となった。こうして、イスラエルの歴史も、モーセからサウロの最初の時代は、偶像礼拝、すなわち聖所を汚す罪との戦いの時代となる。サウロの時から両王国の滅亡まで、イスラエルの人々は、特徴として互いに戦争状態にあった。つまり兄弟殺しである。サウロはダビデを殺そうとし、ダビデはウリヤを殺し、ダビデの息子たちは互いに殺し合い、北王国は南王国に対して戦った。バビロン捕囚の後のイスラエルの特徴的な罪は文化的な妥協である。非キリスト者との結婚という問題はエズラ記、ネヘミヤ記、マラキ書に見られる。キリストが来臨される時まで、ユダヤ人のローマとの妥協は甚だしいものとなった。パリサイ人たちは偽善者であった。

    以上三つの罪は、キリストの死においてすべて成就されている。御父から遣わされたお方が憎まれ、拒絶される。神が受肉された真の兄弟が殺される。ユダヤ人がエドム人やローマ人と一緒になって聖なるお方を殺すことによって御霊の働きが拒絶される。キリストの死は特に神の民イスラエルの罪であったが、偶像礼拝、殺人、文化的腐敗はどの時代にも異邦人には典型的なものであった。サタンによって支配され、彼らはサタンが打ち立てた罪の型のうちを歩んだのである。

     

    イスラエルの罪の特徴

    異教文化はさほど深く内省的なものではないということが指摘されている。単純で後先を見ない生活を送る気楽な野蛮人という典型的な姿は基本的に事実である。このような人々が知的でないということが問題なのではない。彼らは時として非常に知的であるが、彼らの社会には倫理的に自己を吟味するという伝統、それどころか、時にはそのような言い回しすらないのである。彼らはほかの人々と同じくらい罪を犯している、否、普通は他の社会よりも罪を犯しているだろうが、しかし、その罪を真剣に考えることはないのである。彼らの良心は発達しておらず、さらに正確に言えば、無感覚になっている。

    このことはおそらく、西洋の教会史にも同様の例があると言える。初期のギリシャのキリスト教は、その神論において示したように、抽象的な論理思考には大いに才能を発揮したにも関わらず、罪について深い教理を持たなかったことは注目に価する。実際、初代教会が人間の罪深さという教理において聖書的深さに接近した著作を残す神学者を生み出したのは、アウグスティヌス(AD 354-430)が最初であった。おそらく、地中海世界が罪に対して敏感な良心というものを発達させることができるまでに、400年に渡る聖書との関わりを要したのである。

    ユダヤ人でありパリサイ人であったパウロは、彼に深い自省の念を抱かせることを可能にした文化的背景と聖書的教育を持ち合わせていた。聖霊の御恵みによって、彼は自らの罪深さについての深く知るようになり、教会に罪を心の問題として理解するよう教えたのである。

    ユダヤ人の罪の特徴について語るとき、パウロの用いる言葉遣いは、聖書的伝統を持つ人々の間で発達した良心というものを指し示している。アダムの本性と心の欲に言及し、その言葉遣いは罪が霊的な問題であることを明確にしている。「肉」という言葉は肉体を指しているのではなく、アダムにある我々の本性を指しているのである。パウロは「心」の欲について語るが、それは、罪がからだではなく心の中から始まるものであるからだ。

     

    御怒りの下に

    ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、神の御恵みの外にいる人間は神の御怒りの下にある。ユダヤ人と異邦人の罪深さの外見上の現われや典型的な行動は大分異なるものであったが、罪の根源である神に対する根本的な反感は両者に共通であった。彼らはまた、自らの罪が招いたさばきを受けるという点でも同じであった。彼らは、その御旨に対する罪深い反逆のゆえに、自分たちに対する神の御怒りを受けるに相応しい者であった。この表現を聞いた異邦人の信者たちは、真の神よりも偶像を礼拝したという観点からおもに考えたことであろう。ユダヤ人らはおもに神の命令を破ったことを考えたはずだ。しかし、どちらのグループとも、神に対する反逆に対する御怒りを受けるべきであることを知り、告白せねばならない。パウロが次の節から取り上げる救いとは、ここから始まるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙2章1節

    エペソ人への手紙2章4〜5節

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